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あれっ、社会的ネットワークで犯罪組織を撲滅?

 

【 社会関係資本と犯罪組織 】

 


 以下は、暴力団追放運動推進都民センターの「BTS(反社会的勢力関連情報)10月号」からの一部抜粋。

 


東京弁護士会民事介入暴力対策特別委員会委員 吉田 直可

 

治安維持における地域を構成する人間関係の凝集性の重要性は、多くの研究で明らかになっているところですが、著名な犯罪学者であるロバート・J・サンプソンは、「(a)匿名性が高く、住民同士での顔見知りのネットワークが希薄で、(b)ティーンエージャーの仲間グループに目が届かず、公共空間のコントロールが弱体化しており、(c)組織的基盤が弱く、地域活動への社会参加が低い、といった特徴のあるコミュニティは、犯罪と暴力のリスク増加に直面する。」と指摘しています。

 

その原因としては種々の見解がありますが、都市生活研究の第一人者であるジェーン・ジェイコブズは、「社会関係資本」が、安全で秩序だった都市と、危険で無秩序な都市を分ける最大の要因であるとしています。

 

「社会関係資本」という用語は、聞き馴染みがないかもしれませんが、簡単に言えば、個々人がもつ「社会的ネットワーク」を指し、個人が良好な「社会的ネットワーク」を有する場合、精神的、経済的なサポートとしてセーフティネットとしても機能するとされています。また、地域住民の間に良好な社会的ネットワークが構築されている地域では治安も良好に維持されるとされています。

 

反面、コミュニテイ組織やインフォーマルな友情や親族のネットワークなどから孤立した者は、上記のような社会組織の代替として、ギャングなどの犯罪組織に加入する傾向が高まることから、「社会関係資本の不足は、社会的に無秩序なコミニティの第一の特徴である」(ロバート・トンンプソン)と言われています。

 

一方で、80年以上に渡り、多くの被験者の人生について縦断研究をしたハーバード成人発達研究は 、「人間の幸福や健康は、年収、学歴、職業と直接的には関係ない。関係があったのは『いい人間関係』だった」としており、逆に、「孤独は、幸福感を減少させるとともに、身体的に物理的にも悪影響を与える」と結論づけています。したがって、社会的に孤立した者は、幸福感の欠乏からギャングなどの犯罪組織へ加入したり、刹那的な行動に走りやすくなる傾向があります。

 

これらの事情を鑑み、地域住民の間に存在する「社会的ネットワーク」に着目し、現在存在する犯罪組織(暴力団や準暴力団)に対する対応策や犯罪組織に加入をした者(離脱者)に対する支援策を検討し、最終的に地域に受け入れてもらうことを考えることは極めて重要な視点であり、深く・本質的な価値を有すると考えています。

 


<感想>
「地域住民の間に良好な社会的ネットワークが構築されている地域では治安も良好に維持される」という。
地方のみならず、都会においても、もっと住民間の「社会的ネットワーク」を構築した上で、(社会的)幸福や健康を感じられるようになれば良いように思う。

 

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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「日仏交流史研究ことはじめ」②



「わたしの日仏交流史研究ことはじめ」(市川慎一著、彩流社)より


  フランス式からドイツ式軍制への転換へ

 すぐれた文明史家でもあった司馬遼太郎は、日本の「近代化にあたっては、諸事、フランスを範にしようとしていた」といっておられる。

 なかんずく、明治16年(1883)までは、フランス陸軍をモデルに仰ぎ、日本軍隊の近代化を図ってきたが、突如、ドイツ式へのモデル転換が行われた。フランス軍時顧問団にかわり、ドイツ軍参謀少佐クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルが1883年に日本の陸軍大学校に着任した。

 後にドイツ大使となった青木周蔵は、マルセイユで目にしたフランス軍の練兵とベルリンで見たプロシャ軍の演習を比較し、次のような信念をもつにいたったといわれる。

 「ベルリンについてから、青木周蔵はしきりに軍隊の演習を見学し、プロシャ商工や兵士に接触した。その結果、フランス軍はとてもプロシャ軍の精鋭には敵しがたいとの新年を持つに至った」

 さらに、メッケルの教えを直接うけたひとり、大井成元となると、「メッケル将軍の思出」の中で、大山巌元帥の次の談話を引用し、フランス士官の弱点と見ているようだ。

 「佛國士官等は、厳めしき軍服姿で、途上婦人を伴ひ、或は集会場で婦人に戯るなどと、殆ど勝敗を耻ぢらう色もないので、此の一事を以てするも、両軍未だ戦はざるに勝敗の数既に知るべきであったと人に語ってゐる。元帥の此の言、洵に味ふべきものがある」。

 さらに、宿利重一は、フランス人を「無気力なるにかゝはらず、口舌の雄のみなりしフランスの人々」と形容し、普仏戦争におけるその敗因を国民性に帰している。

 山県ら軍指導部は、以後、軍における士官の自由な発言を一切禁止した。なるほど、メッケル少佐は、プロシャ軍制の長所を日本人に教授し、ドイツで隠遁していたが、日露戦争で彼の非凡な愛弟子、児玉[源太郎]が全野戦軍の総参謀長になったという報に接して、「児玉がいるかぎり、日本が勝つだろう」とメッケルが予言した(司馬遼太郎『街道をゆく』)とも伝えられている。薄氷を踏む思いで勝利した日露戦争ではプロシャ式の軍制がほどよく機能したであろうことは認めざるをえないが、その後、旧日本軍では軍人、いや、むしろ人間の自由をないがしろにしてまで、極端な規律一辺倒のドイツ式軍規を金科玉条のごとく励行した結果、第二次世界大戦での痛恨の日本敗戦を招いたこともここでは、もう一度想起すべきではないだろうか。


>>第二次対戦の敗戦を規律一辺倒のドイツ式軍規に起因させるには無理があるのではないか

「日仏交流史研究ことはじめ」①


「日仏交流史研究ことはじめ」(市川慎一著、彩流社)より
2016年5月20日 初版第一刷


 プロローグ 日仏交流のはじまり

  幕末日本に常備軍が存在しなかった


 国内では軍事的・経済的にも徳川幕府を圧倒しつつあった西国雄藩(薩摩、長州藩等)にたいして、衰微をみせはじめた幕府は、最後の将軍、徳川慶喜(1837~1913)に好意的態度をしめすナポレオン三世の第二帝政期フランスに頼り、その両面の立て直しを図ろうとした。

 軍事面においては、1867年には、第一次フランス軍事顧問団を招聘したが、幕府の瓦解により、翌年、最初の軍事顧問団は解消した。団員の中に事業半ばで帰仏するのをいさぎよしととしないで、榎本武揚率いる箱館戦争に参加し、明治新政府に反旗を翻す者もいた(ジュール・ブリュネ大尉ら)。

 それでも、明治新政府も引き続き、第二次軍事顧問団(1872~80)・第三次軍事顧問団(1884~89)を招聘したのだから、フランスとわが国との軍事面での関係は、普仏戦争(1870~71)でフランスがプロシャに敗れても維持されたのである。

 とはいえ、極東の島国、日本はフランス陸軍をモデルに仰ぎ、国防軍の近代化を図っていたが、ヨーロッパの遠隔地、メキシコや日本にたいするナポレオン三世の関心は、それほど強くはなく、ナポレオン一世による失政の轍を踏むことなく、彼は英国外交と協調関係を穏便に保ちたいがために極東の国々(中国、日本)へフランス外交団を派遣したのではないか、というのがわたしの見方である。

 軍事的・外交的な日仏交流は、以上のような経緯をたどったが、実は言語の上では、フランス語と日本とは、それよりも早く結ばれていた。フランス学の始祖と称される松代藩藩医の村上英俊(1811~90)は、独学で仏語を習得し、安政元年(1854)に『三語便覧』なる辞書を刊行していたからであった。三語とは、仏蘭西語、英傑烈語(英語)と和蘭語(オランダ語)を指し、それら三外国語の単語と日本語の単語とがはじめてつながったのだった。


>>第一次フランス軍事顧問団の中に、箱館戦争に参加し、明治新政府に反旗を翻す者がいたというのは驚きだ

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