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渋沢栄一の論語とパリ万博?


【 渋沢栄一:論語とパリ万博】

 


 以下は、「この1冊、ここまで読むか!」(祥伝社、鹿島茂(フランス文学者 ALL REVIEWS主催)との対談)からの一部抜粋。

 


第3章 出口治明×鹿島茂
『論語』
ー世界史から読む

 


ナポレオン三世とサン=シモン主義

 

鹿島 1820年代後半から30年代にかけて大きな影響力のあった「サン=シモン主義」というものがあります。サン=シモン主義とは、わかりやすくいうと、富はヒトとモノと金とアイデアが、ぐるぐる循環することによって初めて生み出されるとする思想です。これらが循環せずに停滞しているかぎり、何も生み出さない。だから、これらを人工的にでも循環するようにするシステムを考え出して、循環を現実化しなければならない。サン=シモン主義のいちばんわかりやすい解説はこのようになります。

 


もともとフランスには平等を重んじるメンタリティがありまして、共産主義国となったロシアなどと同じく、競争が得意ではありません。これに対し、アングロサクソン系は競争原理一本槍の社会です。資本主義を根付かせるために競争原理をフランスに持ち込もうとしたときにナポレオン三世がやったのが、万国博覧会なんですね。万博はいまでこそ単なるワールドフェアになっていますが、当初はモノとモノを競争させる実験場でした。オリンピックも万博から派生して生まれたのです。いずれも、サン=シモン主義と直結しているんですね。

 


朱子学に対抗するために『論語』に立ち返った渋沢栄一

 

鹿島 僕なりに理解すると、渋沢栄一は、お金儲けを卑しいものとする朱子学の教え方をぶち壊したかったということです。朱子学的価値観では資本主義は発展しない。自分の利益のみを追求しないかぎり、お金儲け自体は卑しむべきことではない、それどころか社会に貢献することであると証明したかったんです。

 

 これは、実のところサン=シモン主義とかなり近いんです。僕なりに解釈すると、ちょっと資本主義に傾いた社会民主主義がサン=シモン主義ではないかと思うんです。ですから、「暴利を貪ってもOK」という英米型の資本主義とは違う。渋沢の求めていた資本主義も暴利を否定しますから、親和性があるんです。渋沢がサン=シモン主義を知っていたわけではないのですが、渋沢は、第二帝政とパリ万博で現実化されたサン=シモン主義をモノとして、あるいはシステムとして目撃したことで、これと似た資本主義を模索するために『論語』を援用したわけです。

 


<感想>
 1867年のパリ万国博覧会に、徳川昭武一行に会計係として随行した渋沢栄一。
 利益が自分の与えたサービスとちゃんと釣り合っているか、暴利じゃなければ、お金儲けをしてよいという、資本主義のための渋沢の『論語』の解釈。
 渋沢のパリ万博参加と論語の解釈が今日の日本を築き上げたと言えるかもしれない。 

 

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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「人間の器量」⑤



「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  渋沢栄一

 もともとは深谷の豪農の出ですね、渋沢は。若い時には、徹底した攘夷主義者で、横浜の外国人居留地の襲撃を計画したこともあったという。

 徳川慶喜の知遇を得て、幕末にその弟のパリ万博使節団に参加し、ヨーロッパ経済の実態に触れた経験が、実業家としての大成をもたらす機縁となりました。

 といっても、渋沢は薄っぺらな外国かぶれにならなかった。

 後に論語の解説書を執筆した事が示しているように、渋沢にとって経済とは、儒教道徳を実現するための手段にすぎなかったのです。

 第一国立銀行の設立をはじめとして、王子製紙、富岡製糸場、日本鉄道など、百数十と云われる会社を設立しました。

 商工会議所の前身である東京商法会議所を設立して、企業人の親睦、切磋琢磨を促してもいます。

 逸話を一つ。

 原敬が内務大臣をやっていた時の事です。

 ある議員が、面会に訪れると、沢山の人が待っている。自分は議員だからと順番を飛び越して入ろうとすると、列の後ろの方に、ちょこなんと渋沢栄一が座っている。

 本当だったら、渋沢は原にとっても大先輩なのですから、大手をふって入っていけそうなものなのですが、それをけしてしない。

 代議士は大いに恥じたというのですが、こういうところにも渋沢の、実業家という枠には収まらない、人間としての高貴さが出ています。


>>渋沢の器の大きさに少しでもあやかりたい


 

「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」


「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」(渋沢栄一著、三笠書房)より


 現在の境遇に不平を鳴らすよりも、現在の境遇にいて、自分がはたして役に立っているかどうかを考え、その仕事に全力を傾注するがよい。そうでなければ何年経っても、真の安心立命は得られない。毎日を不安、不安の念に駆られながら生活しなければならないことになる。

 これが孔子の「位なきを患えずして立つ所以を患えよ」という教えである。

 人はいかに自分を世間に認識させようとして、自己を吹聴して歩いたところで、世間はそう簡単に認めてくれるものではない。それよりも、平素の修養によって着実に実力を養成し、実行によって実績をあげるようにするがよい。こうすれば、あえて自ら求めなくても、その人の力は世間に知られるようになるものである。


>>現在の境遇に不平を鳴らすことなく、仕事に全力を傾注して行きたい


「渋沢栄一 Ⅰ算盤篇」


「渋沢栄一 Ⅰ算盤篇」(鹿島茂著、文藝春秋)より


 明治14年に東京府会で廃校が決議されてから3年、明治12年の予算半減から数えれば5年の長きにわたって、渋沢は商法講習所の存続を訴えて、あらゆる努力を続けてきたわけである。これ一つとっても、彼が商業教育というものに注いだ情熱のほどを理解することができるだろう。商業教育の充実こそが、日本の「官」と「民」の間の溝を埋める唯一の方策であると彼が考えたためである。こうした渋沢の努力は、翌明治18年、さらなるかたちで報いられることになる。この年、内閣官制の改正に伴って、商法講習所の創始者である森有礼が文部大臣となり、東京商業学校が文部省の管轄に移されることが決まったのである。神田一橋に新校舎が建設され、経費も大幅増額となって、面目が一新された。文部省管轄に移転後、東京商業学校は高等商業学校、さらには東京高等商業学校と改称された。これが現在の一橋大学の前身である。

 東京高等商業学校を大学に昇格させるということは、渋沢にとっては、己の奉ずる義利合一主義の国家的な商人であり、自己の存在理由の確認なのである。たんに、「官」が「民」に歩み寄ればいいというのではなく、「民」が「官」にいささかのコンプレックスもなく、己の存在に誇りを持って対等に接するようにしなければいけないのだ。だから、当時の文部大臣である小松原英太郎が、帝国大学の法科の一部として商科大学を置き、東京高等商業学校は専門学校として存続させるという方針を打ち出したとき、渋沢はこれに強く反対した。それでは、「官」による上からの「民」の承認にすぎなくなる。必要なのは、「民」が矜持を持って、自分たちこそが国家の礎であると主張し、「官」と対等の意識で上昇することなのだから、東京高等商業学校が大学に昇格することをなんとしても実現する必要があるのである。


>>渋沢翁あってのわが母校。人格、知識 信念、思想。「論語」と「算盤」の調和。自己の利殖ではなく、先ず国家社会の利益を考える。晩年は、大半の役職を辞任し、外交に力を注ぎ、『徳川慶喜公伝』に心血注ぐ


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