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「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」③


「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」(若菜みどり著、集英社)より


  エピローグ


 世界経済と世界布教というふたつの大きな波が16世紀の戦国時代の日本に怒涛のように押し寄せた。それは大きくみれば世界のなかのすべての国を世界のひとつのシステムのなかに包みこもうとする近代世界への大きな流れだった。戦国時代の大名たちは自分の領土に公益の巨大な利益をもたらす外国船を誘致するために、あるいはまた明日をも知れない戦国の乱世において死後の救済を約束するキリスト教に牽かれて、つぎつぎとキリシタンになり、そのとき領民の多くもキリシタンになった。イエズス会のザビエルが鹿児島に上陸した1549年(天文18年)から、江戸幕府が第一次鎖国令を出す1633年(寛永10年)までの80余年間、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えていたのである。そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。そのシンボルとして少年使節の派遣があったのである。

 
 この使節派遣を計画したひとりのイタリア人の神父ヴァリニヤーノはルネサンス的な教養をもった高い知性の人で、日本と中国を西欧とは異なっているものの同じように高い文明をもった国として尊敬していた。東西の文明の相互理解をめざしたのがこの使節派遣の大きな目的だったのである。

 しかし、少年たちが日本に帰ってきいたときに、時代は戦国時代から統一的な国家権力のもとに集中され、他の文明や宗教を排除する鎖国体制に向かっていた。そのために彼らの運命はこの大きな時代の流れのなかで悲劇的なものになった。ある人びとは彼らの事業は無益だったという。しかし、4人の悲劇はすなわち日本人の悲劇であった。日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである。

 しかし、私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、それに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。この中には信長も、秀吉も、フェリペ2世もトスカーナ大公も、グレゴリー13世もシスト5世も登場するが、みな4人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとが大勢出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志をもってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーロ-だ。そしてもし無名の無数の人びとがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜならわたしたちの多くはその無名なひとりなのだから。

  2003年9月13日  若菜みどり


>>我々一人ひとり、みな無名ではあるが、歴史をたどる意味のあるヒーローの存在であると思いたい

「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」②



「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」(若菜みどり著、集英社)より


 日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい。究極、この今の私と結びつくことを研究したい。そのテーマはいったいなにか。それがわからなかった。そして自分のほんとうのテーマを探すために大学に一年間の休学を申し出たのである。

 そのとき、1961年に横浜から船に乗ってマルセイユまで行った最初の外国旅行の強烈な体験が、無意識の蓋をあけたように復活してきた。


 このとき、おおぜいの日本人の留学生のなかに、ひときわ私の注目を惹くグループがあった。非常に若い、質素なシャツを来た三人の青年だった。 甲板では読書をしていることが多く、たまには卓球をしていた。好奇心にたえかねて、あるとき、彼らがどこへ行くのかを尋ねた。彼らはみな神学生だった。そして選ばれてローマのコレジオ(神学校)に神学を学びに行くのだった。


 青いシャツのさわやかな笑顔の青年が答えた。「家族をもてば、人間はみな、その家族が世界のなによりもだいじになります。ぼくたちが家族をもたないのは、世界のあらゆる人間を愛するためなのです」


 21世紀の最初の1年は、平和な世紀を予告しはしなかった。それどころか、異なった言語、異なった文化のあいだで、今や地球を破壊しかねない戦争が起こったのである。

 この世紀は、16世紀にはじまる、世界を支配する欧米の強大な力と、これと拮抗する異なった宗教と文化の高層が最終局面を迎える世紀になるだろう。人類は異なった文化のあいだの平和共存の叡智を見いだすことができるだろうか。それとも争い続けるのだろうか? それこそはこの本の真のテーマなのである。

 この500年を回顧することは、世界のなかでの日本のありかたを示してくれるかもしれない。私たちはいま500年単位で歴史を考えるときがきている。そのような思いで、2002年9月ツイン・ビルの悲劇から1年後に、7年をかけたこの本の第一稿を完成した。

 私はずいぶん旅をしていきた。でもこれでほんとうに私がやりたかったこと、知りたかったことが書けた。この主人公は私と無縁ではなかった。彼らは描かれたばかりのミケランジェロの祭壇画を仰ぎ見、青年カラヴェッジョが歩いた町を歩いたのだ。ローマの輝く空の下にいた4人の少年のことを書くことは、まるで私の人生を書くようなおもいであった。島国日本を出て広大な異文化の世界を行く船の旅はあらゆる意味で私の生涯の転換点であった。ローマのコレジオに留学する3人の若い神学生の輝く青春の姿が、天正の4人の少年の姿にいつも重なって見えた。アジアからヨーロッパへ行く船の上に、彼らといっしょに、青春のさなかにあった自分の姿もまた重なって見えたのである。そして日本に帰ったあとの4人の少年の苦渋と苦難のいくぶんかも、私のものであった。なぜならこの4人の少年の運命は日本の運命にほかならかいからである。そのことはこの本の最後のページを措かれたときに読者にはおわかりになるであろう。


>>世界の中での日本のありかたを考える上で、この500年を回顧することは非常に大切なことであるように思う

「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」①



「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」(若菜みどり著、集英社)より


  プロローグ


 なぜ今、そしてどうして私が、400年以上も前の天正少年使節の話などを書くのだろう。
 日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統一をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名三名がヨーロッパに派遣した四人の少年は正式な使節として遠く海をわたっていた。

 彼らは中国、インド、ポルトガルを経て、スペインにわたり、その領土に「太陽は沈まない」と言われた国王フェリペに親しく謁見した。彼らはそこからイタリアにわたり、ルネサンスの最後の栄光をまだ輝かせていたフィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチの熱烈な接待を受け、芸術史上の大パトロン、ファルネーゼ枢機卿に迎えられて永遠の都ローマに入り、カトリック世界の帝王であるグレゴリウス13世と全枢機卿によって公式に応接され、つぎの教皇であり大都市建設者であったしクストゥス5世の即位式で先導を務めたのである。8年後に彼らは日本に帰り、秀吉に親しく接してその成果を報告し、西欧の知識・文物と印刷技術を日本にもたらしたのだった。

 つまり彼らは、16世紀の世界地図をまたぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地、全ての人間をその足で踏み、その目で見、その声を聞いたのである! そのとき日本人がどれほど世界の人日びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも。

 私は1995年、ちょうど日本の敗戦から50年たった年に、大学を1年休んでしばらくものを考えることにした。敗戦の年に10歳だった私にとって、戦後の50年めとは、自分の人生や、日本の運命について考えなくてはならない節目の年に見えたのである。戦後、数多くの日本の若者が、世界に取り残され、孤立していた日本を変えようとして、西欧の科学や文化を九州市、それを日本に持ち帰り、日本を世界のなかに置くためにその人生を賭けてきた。毎年、何艘の船が向学精神をもった若者を満載して神戸や横浜から西欧に向けて帆をあげただろう。1960年代までは貧しい学生はみな船でヨーロッパに行っていたのである。1961年に横浜を旅立った私もそのなかのひとりだった。

 私は研究の土地としてローマを、研究のテーマとしてカトリック美術を選んだ。焼跡からじゅうぶんに立ち直っていなかった貧しい日本から来た私には、壮麗なローマの都市はまばゆいばかりの栄光に満ちていた。蒼白のサン・ピエトロ大聖堂、宇宙的なミケランジェロの天井画の下で、うちのめされたまま呻吟した私は、自分をかぎりなく矮小な、かぎりなく貧しいものと感じだ。最初私はカラヴァッジョを研究しに行ったのだが、ヴァティカンでミケランジェロを見てしまったので、それに圧倒されてしまった。


>>2015年、ちょうど日本の敗戦から70年たった今年、私も自分の人生や、日本の運命について考えなくてはならない節目を迎えたように思う



「21世紀の資本」




「21世紀の資本」(トマ・ピケティ著、みすず書房)より


  資本主義の第一基本法則―― a = r×β

 これで資本主義の第一基本法則を提示できる。これは資本ストックを、資本からの所得フローと結びつけるものだ。資本/所得比率βは、国民所得の中で資本からの所得の割合(aで表す)と単純な関係を持っており、以下の式で表される。

  a = r×β

ここでrは資本収益率だ。

 たとえば、β=600%でr=5%なら、a=r×β=30%となる。

 言い換えると、国富が国民所得6年分で、資本収益率が年5%なら、国民所得における資本のシェアは30%ということだ。

 a = r×βという式は純粋な会計上の恒等式だ。定義により、歴史上のあらゆる時点のあらゆる社会に当てはまる。トートロジーめいてはいるが、それでもこれは資本主義の第一基本法則だと言える。というのも、これは資本主義システムを分析するための三つの最重要概念の間にある、単純で明確な関係を表現したものだからだ。その三つの最重要概念とは、資本/所得比率、所得の中の資本シェア、資本収益率だ。

 資本収益率は、多くの経済理論で中心的な概念となる。特にマルクス主義の分析は利潤率がだんだん低下すると強調する――この歴史的な予想はまったくまちがっていたが、おもしろい直観がここには含まれている。資本収益率という概念は他の多くの理論でも中心的な役割を果たす。いずれにしても、資本収益率は、1年にわたる資本からの収益を、その法的な形態(利潤、賃料、配当、利子、ロイヤルティ、キャピタル・ゲイン等々)によらず、その投資された資本の価値に対する比率として表すものだ。だから「利潤率」よりも広い概念だし、「利子率」よりはるかに広い。この両方を包含する概念だ。

 当然ながら、収益率は投資の種類によって大きく変ってくる。企業によっては年率10%以上の収益率を叩き出すし、損失(マイナスの収益率)を出す企業もある。株式の平均長期収益率は、多くの国だと7-8%だ。不動産や債券投資は3-4%くらいの収益率が多く、公債の実質収益率はときにずっと低い。a = r×βという式を見てもこういう細かい話はまったくわからないが、この三つの量をどう関係づけるかがわかるので、議論の枠組みを設定するには便利だ。

 たとえば2010年頃の富裕国だと、資本所得(利潤、金利、配当、賃料等等)はおおむね国民所得の30%くらいをうろうろしていた。資本/所得比率が600%くらいの水準なので、資本収益率は5%くらいということになる。

 具体的には、これは富裕国の現在の1人当たり国民所得である年3万ユーロというのは、労働所得2万1000ユーロ(70%)と資本所得9000ユーロ(30%)で構成されるということだ。各市民は平均で資本18万ユーロを持つので、資本からの9000ユーロの所得は、平均年間収益率5%に相当する。

 ここでも、話は平均でしかない。一部の個人は資本から年額90004ユーロよりはるかにたくさん得ているし、一部は何も受け取らず、地主に家賃を払って債権者には金利を支払っている。また、国ごとにもかなりの差がある。さらに、資本所得のシェアを計測するのはしばしば、概念的にも実際問題としてもむずかしいことが多い。というのも、所得の一部のカテゴリー(たとえば非賃金自営所得や起業所得など)は、資本所得と労働所得とに仕分けするのがむずかしい。おかげで、比較が不適切になる場合もある。こうした問題がある場合、不完全性の最も少ない、資本所得が総所得に占める比率の計測手法は、資本/所得比率に対して、もっともらしい平均収益率を適用することだったりする。この段階では、先に挙げた規模感(β=600%、a=30%、r=5%)が典型的な値と考えていいだろう。


>>資本収益率(r)>経済成長率(g)により、持てる人と持たざる人の格差が進んでいる

「働き方」の教科書⑩



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


  終章  世界経営計画のサブシステムを生きる


 僕は「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉を、別の言葉で解釈するようにしています。それが「世界経営計画のサブシステム」です。

 人間は、職場であれ地域であれ、自分の周囲の世界を理解して生きています。しかしながら人間には向上心があるので、誰一人として、現在の状況に100%満足している人はいないと思うのです。

 今より世界をもっとよくしたい。
 何かを変えたい。

 こう考えるのは、人間の自然な性だと思います。周囲の世界を理解して、今よりもっとよくしたい、何かを変えたいと考えることは、言い方を変えれば次のようになります。

「すべての人間は、自分の周囲の世界を経営して、自分が思うように世界を変えてみたいという世界経営計画を持っている」


 五○代での起業を勧めました。
 ベンチャーは「強い思い」と「算数」という話もしました。

 その「強い思い」というのが「世界経営計画のサブシステム」なのです。世界はこうなっていて、そのなかのどこが嫌で、その嫌なことを変えるために自分は何ができるのかということを整理すれば「強い思い」を描き出せると思います。

 周囲の世界をよく見たうえで、何かを変えたいと強い欲求を覚えることは、世界を自分の思うとおりに経営したいという感覚を持っていることに他なりません。

 問題は、人間は感情の動物であるため、見たいものしか見えない傾向があることです。都合のいいものだけをとらえて世界を解釈してしまうと、本当の世界経営計画がつくれません。よく考えたつもりでも、本当に自分の納得するものはできないと思います。周囲の世界を正しくとらえるためには、少なくとも次の二つを実行する必要があります。

 タテ・ヨコ思考。即ち時間軸と空間軸を広げること。
 国語ではなく、算数で考えること。即ち「数字・ファクト・ロジック」でフェアに考えること。


 現在の世界は、歴史上に存在した無数の先達の、無数の「世界経営計画のサブシステム」が重なり合った結果できた産物です。これから先に続いていく世界も、無数の人の無数の「世界経営計画のサブシステム」でつくられていくでしょう。

 それぞれの人が、それぞれの世界経営計画を見つけ、そのサブシステムを一所懸命に担っていく。それが、次世代のために生きるという、人間本来の役割を担うことにほかならないのです。


>>何かを変えたいという「強い思い」を持ち続けて行きたい

「働き方」の教科書 ⑨



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


第六章  あなたが生きるこれから三○年の世界


  日本の未来  ~赤ちゃんを産みやすい社会に~


 フランスは「シラク三原則」を定め、赤ちゃんを産んでも経済的に苦しくならない仕組みを構築しました。その一つ目の原則は、子どもを持つ持たないは女性が自由に決めればいいというものです。ただし、女性が産みたい時期と女性の経済状況が必ずしも一致するとは限らないので、子どもが多いほど多くの補助金を出すようにしたのです。赤ちゃんが増えるにしたがって給付を増やせば、収入が安定して産みやすくなるという発想です。逆に言えば、赤ちゃんを何人産んでも女性が経済的に困らないようにしたということです。

 二つ目の原則は、保育園の充実です。欧州では女性も働くのが一般的なので、保育園の待機児童がゼロになるよう、自治体の責任で保育を整備させました。

 三つ目の原則は、三年間の育児休暇は留学と同じ位置づけにして、戻ってきたときに元のポストで仕事ができるようにしたことです。人事評価も育児休暇に入る前のままだとすれば、誰でも安心して育児休暇を取れるようになります。加えてPACS(市民連帯契約)を導入し、法律婚と事実婚の差別をなくしました。シラク三原則のような子育て支援政策を実施すれば、フランスの出生率が1996年の1.65から2010年の2.01に上がったように、日本の出生率も上がると考えています。


 五○代のあなた。
 誰だって、いつでも、何にでもチャレンジできることを忘れないでください。
「今のあなたがいちばん若い」のですから。


>>チャレンジする気持ちを失ったら人生おしまい

「働き方」の教科書⑧



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


第五章  五○代になったら何をするか


  五○代の企業は合理的かつ健全


 起業に大切なのは「目利き」と「お金」です。


 ベンチャーに必要な目利き、資金調達力、人脈、ノウハウなどの条件は、二○代に比べれば五○代のほうがはるかに整っているのです。デメリットを言えば、向う見ずなところがないことと、体力が多少衰えていることぐらいでしょう。五○代と二○代との星取表をつくったら、五○代のほうが圧倒的に白丸が多いはずです。

 冷静に比較してみると、五○代で起業するという選択肢は、二○代で起業するよりもはるかに成功する確率が高いことが実感できるはずです。もし新しい仕事に若いセンスや無鉄砲さ、体力が必要だったら、若いパートナーを連れてくればいいだけの話です。


 だいたい、年をとるほど感覚も鈍るので、田舎に引っ込んでしまって刺激を受けないと、何の起伏もないつまらない人生になってしまうのではないかと危惧します。人間の幸せは喜怒哀楽の総量であると言いました。田舎でプラスにもマイナスにも振れない平板な人生を送るよりも、むしろ年をとったら都会の中心にある繁華街の横に小さな部屋を借りて、毎日繁華街に通うぐらいの人生のほうが楽しいように思えてなりません。少なくとも、僕はそうありたいと思っています。


  まず旗を掲げよ


 旗を掲げるとは、強い思いと算数を文書化する作業にほかなりません。株式会社でもNPOでも、旗に大義がなければ人の心を打ちません。また大義には共感しても、本当に実現可能な事業であると理解されなければ。人もお金も集めることはできないのです。

 強い思いを文書化するときに考えなければならない三つの要素があります。

「ミッション」
「コアバリュー」
「ビジョン」
 
 ライフネット生命のミッションはこうです。
「生命保険料を半分にして、安心して赤ちゃんを産み育てることができる社会をつくりたい」

 コアバリューについては、ライフネット生命の場合はマニフェストという形でまとめました。四つの柱から構成されています。

「私たちの行動指針(真っ正直に経営して情報公開を徹底する)」
「生命保険を、もっと、わかりやすく」
「生命保険料を、安くする」
「生命保険を、もっと、手軽で便利に」

 コアバリューとは「どういう会社をつくりたいのか」という思いそのものです。


最後に、ライフネット生命が掲げるビジョンです。
「一○○年後に世界一の生命保険会社になる」


 現在の世界では、どれほどニッチな分野で新しい事業を始めても、すでに世の中にあるモノやサービスの亜流の域を出ないと思います。そうであれば、真の意味で差別化が図れる要素は、大義や理念のようなものになっていくはずです。真っ当なことをやり、その理念に共感してもらうことが、ビジネスの成功確率を高めるのではないでしょうか。


>>五○代の今、「ミッション」「コアバリュー」「ビジョン」の三つの要素を考えてみたい

「働き方」の教科書 ⑦


「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


 第四章  三○代、四○代のうちにやっておくべきこと


 変な人間であり、それほどまともでも立派でもない、なまけものの部下。それでも彼らを働かせるのが上司の役割です。そのために必要なのはどのような視点でしょうか。僕は、上司としての考え方をはっきり伝えることだと思っています。そのうえで、何を期待しているか、何をしてほしいのかということを、的確に伝えなければなりません。

 理想を言えば、伝えたことに共感してもらいたいところです。人間は面従腹背ができる動物なので、表面上はわかったフリをしていても、心の中では納得していないかもしれないからです。心の底から共感してもらうには、こちらも腹蔵なく伝えるべきです。

 まずは、上司である自分と部下の役割を明らかにします。そのうえで、一つ一つの仕事を与えるときは、目的と期限を明確に提示する癖をつけるべきです。


  四○代になったら得意分野を捨てる


 愚かな管理者ほど、有限な感覚に乏しいものです。

 時間も無限にあり、部下の能力も鍛えれば無限に伸びると思っています。四○代になったら有限の感覚を持つべきです。与えられた一定の時間のなかで、どの幹を押さえ、どの枝を見ないようにするかという訓練をしなければなりません。


 組織を任される立場に立ったのだから、わからない、知らないという不安を捨てなければよき管理者にはなれないと悟りました。個別具体的なことがわからないステージに移ったのですから、わかろうとする必要はないと思えば気が楽になります。断捨離という言葉が流行りましたが、大きいグループを任された四○代は、捨てることを覚えないと全体が見えなくなっていくのです。


「二○代は自分一人でやる仕事のやり方を覚え、三○代では人を使いながらチームで仕事をすることを覚え、四○代では組織を率いることを覚える」

 すると、五○歳になった段階では、仕事のやり方のノウハウはすべて身についていることになります。人間と人間がつくる社会を理解し、人やチームの動かし方がわかっていて、リスクもあまりないということは、外の世界に向かって飛び出す準備ができたということなのです。


>>52歳になった今、社会を理解した上で、人やチームの動かし方をわかっているだろうか

「働き方」の教科書 ⑥



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


第三章 二○代の人に伝えたいこと


  考える癖をつける


 仕事の成果を出すために必要なのは、まず第一に仕事の目的を考えることです。

 この仕事は何のためにやっているのか。常に考える癖をつければ、どのように仕事を進めればいいかということも、自ずとわかってくるものです。いつまでたっても仕事ができない人は、ただ漫然と言われたとおりに仕事をやっているからです。目的を考えて仕事をすれば、成果を出せるだけではなく、仕事が面白く感じるようにもなりますし、ビジネスパーソンとして賢くもなるのです。


 仕事に打ち込むということは、がむしゃらに時間を費やすことではありません。

 自分に与えられた仕事が、課や部や企業全体の仕事のどの部分に当たるのか。そうしたことをよく考える必要があると思います。しっかりと仕事の目的や位置づけを理解していれば、自分なりの応用を効かせることもでき、つまらない仕事を楽しい仕事に変えることもできます。考えながら仕事に取り組むことで、仕事の能力は加速度的に上がっていくはずです。


 どんなに努力をしても成果を出さなければ無に等しいことを肝に銘じ、何を要求されているかを必死に考える癖をつけ、成果を上げる努力をすることです。最初は考えてもわからないことが多いでしょう。そのために上司がいるのですから、上司をつかめてわかるまで食い下がってください。上司の最も大切な仕事は、部下を育てることにあるのです。


  身近なターゲットを置く


 日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本五十六が「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」と言ったように、優秀なリーダーは指示するだけにとどまらず、自らやってみせることを意識しています。二○代は、その上司の振る舞いを目を皿のようにして凝視し、仕事ぶりを盗むことを意識してほしいと思います。


 「グローバル人材」についてどう考えるか

 
 何でも一通りこなせるゼネラリストが通用したのは高度成長期までの話です。グローバル人材はゼネラリストではなくスペシャリストであるべきだと考えています。自分の得意分野を持たないと世界に通用しません。


 日本の企業の実態はどうでしょうか。力のある投手をショートにコンバートするような人事が平気で行われています。分析が得意な従業員を営業に回したり、営業が得意な従業員を経理に活かせるような人事です。これで、グローバル人材が育つと考えているのでしょうか。

 人は本当にやりたいことや得意な分野においてこそ、本来の力を発揮するものです。昔から適材適所という素晴らしい言葉があるではありませんか。


>>仕事の目的を考える癖をつけつつ、スペシャリストを目指したい

「働き方」の教科書 ⑤



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


  仕事の質は「楽しさ」で決まる


 仕事の質を上げるためにはどうすればいいのでしょうか。

「元気に明るく楽しく」

 僕はそう思っています。元気で明るく楽しく仕事ができてはじめて、お客さまに心のこもったサービスが実行でき、お客さまが増えると考えるからです。お客さまが増えれば増えるほど、株主をはじめとするステークホルダーも喜ぶという好循環になります。


 お金と時間を無制限にかければ何でもできるということは、換言すれば時間とお金さえかければほとんどのビジネスモデルは真似されるということです。ここに、差別化が生まれる余地はありません。だとすると、差別化の要因になり得るのは、従業員のやる気とモチベーションに尽きるということになります。

「朝起きて、今日も会社に行くのが本当に楽しい」

「お客さまに良いサービスを提供することを考えると、ワクワクする」

 従業員がそう感じていれば、それぞれがいろいろなことを考えるようになります。

「どうしたら会社がもっと楽しくなるだろうか」

「お客さまにもっと喜んでいただくために、何ができるだろうか」

 大企業によくあるパターンは、会社に行くのが憂鬱で、それでも妻子の顔を見たら行くしかないと自らを奮い立たせている従業員です。そんな従業員では、きっと指示された最低限の仕事しかやらないでしょう。そこから決していいものは生まれません。

 いい仕事は、すべて人間の脳から生じるものです。優秀な人の定義は「頭のなかにさまざまな情報を持っていて、その情報を材料に自分の頭で考えて、自分の言葉で自分の意見やアイデアを表明出来る人」です。つまり、いろいろな情報をインプットし、自分の頭で人とは違うことを考える能力の高い人のことです。

 ところが、いくら優秀でも企業の雰囲気が暗く、上司が理不尽で怒鳴ってばかりいれば、浮かんだアイデアを出そうとはしないでしょう。従業員が優秀であることは必要条件であって、十分条件は従業員が元気で明るく、ワクワクするほど楽しい雰囲気の企業であることなのです。


>>これからも「元気に明るく楽しく」仕事を続けて行きたい

「働き方」の教科書④



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


 連合王国の教育について少し勉強することにしました。今でも印象に残っている教育方針がいくつもありました。

 保育園では、入ったばかりの園児全員が一対一で向き合います。

「目の前のお友だちをよく見てください。お目め、お鼻、お口をよく見てください。一緒ですか? 違いますか?」

 これをクラスの全員の間で何度も繰り返すのです。すると、園児は人間の外見がみんな違うということを心の底から理解するのです。

 次に、先生は園児に違う質問をします。

「お友だちの顔がみんな違うことがわかりましたね。じゃあ、見た目が違うお友だちの心の中はどうですか? どんなことを思っていて、どんなことを感じているか、それはみんな一緒だと思いますか? それとも違うと思いますか?」

 園児は、みんなの外見が違うのであれば、中に入っているものもきっと違うと思うと答えるそうです。

「よくわかりましたね。みんな違うということは、自分の感じたことや思ったことを、お友だちにはちゃんと話さないとわかってもらえませんね」

 連合王国の保育園では、三年間はそのことだけを徹底的に繰り返し、あとは何もしなくていいという方針だといいます。人は誰一人として同じではない。だから自分が考えたことや感じたことを相手にわかるように伝えなければ、永遠に理解し合うことはできない。このことを学ぶための期間が、保育園の三年間だというのです。

 続いて、小学校の低学年(キーステージ1)の教育方針について尋ねました。

 連合王国では、野山に出て、ひたすら下半身を鍛えるといいます。人間は二足歩行の動物なので裸足で土をふむべきだ、それが健全な心身の成長につながるという考え方です。それさえ徹底できれば、あとは知識の詰め込みだけで十分だそうです。体力がついて、自分の意見が言えれば、いくら詰め込んでも何の問題もないという考え方です。

 この話を聞いて、僕は正論だと思いました。

 自分の意見を言うとき、独りよがりの理屈では絶対に相手に通じません。できる限り誰にでも理解できるように普遍化しなければ、相手に伝わらないのです。この普遍化は、数字・ファクト・ロジックと言い換えることができます。コミュニケーションで大切なのはまさにこの点です。保育園児からそれを徹底している連合王国は、教育の合理性という点では日本のはるか先を歩んでいることを実感しました。


>>連合王国の教育方針を日本も学ぶべき時のようだ

「働き方」の教科書③



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


  仕事はプライベートより簡単


 ひょっとしたら、多くの人は仕事を難しく考えすぎているのかもしれません。

 人生のパートナーとのプライベートな関係には、明確なルールがありません。法律もなければ規則や権限規定もありません。あるのは二人の間の総合的な力関係だけです。この関係をスムーズに構築することがいかに大変かということは、誰もが実感しているはずです。

 それに比べれば、仕事は相対的に簡単だと思います。なぜなら仕事は本来、合理的、合目的にやるものだからです。仕事には「がんじがらめ」と言っていいほどルールがあります。労働法規、就業規則、権限規定、経営理念、経営計画、予算等々。こうしたルールのなかで数字・ファクト・ロジックを駆使して合理的、合目的的に議論すれば、自ずと解は一つに収斂するはずです。それにもかかわらず、仕事上の意思決定が簡単なことを理解している人は、以外に多くありません。


 ライフネット生命の経営理念であるマニフェストも経営計画も、二人で議論を尽くしてつくり上げています。日々の業務は、この経営理念や経営計画を実現するために数字・ファクト・ロジックを駆使して互いに詰めていき、どちらの考え方がより合理的で実効的かを判断するだけのプロセスです。

 単純化すれば、仕事は「y=f(x)」で表すことができます。ある目的(y)を実現するための関数です。この関数では、x1、x2、x3・・・・・・など考えるポイントが数多く存在しています。そのポイントごとに自分が考えたロジックの観点や切り口、その切り口に沿ったデータを出して検証していけば、どちらが正しいかは簡単に導き出すことができるのです。

 あるテーマに対して、一方がx1からx3までのポイントを挙げ、数字・ファクト・ロジックで詰めればこういう結論になると主張してきたとします。それに対して、もう一方はx3までの視点に加えてx4、x5までのポイントを考えていたとします。その場合は、後者のほうに分があるのは当然です。前者と後者の間に情報量の差があったということです。


>>仕事より、明確なルールがないプライベートの方が難しいことは間違いない

「働き方」の教科書②


「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


第二章 仕事と人生の関係


  仕事は人生の三割


 仕事と人生の関係は、次のように表現するのが実態に合っているのではないでしょうか。

「人生とは、三割の時間を使ってお金を稼ぎ、そのお金で食べて、寝て、遊んで、子育てをすることである」

「仕事とは、人生の七割を占める最も大切な時間の兵糧を確保するための手段である」

 だとすると、最近よく使われる「ワークライフバランス」という言葉も間違っていることがわかります。人生に占める割合は仕事(ワーク)が三割、それ以外の生活(ライフ)が七割なのですから、正しくは「ライフワークバランス」と言うべきです。



  仕事は美学ではなく合理性


 誤解を恐れずに言えば、人生の三割しかない仕事は「どうでもいいこと」です。

 仕事をするうえでは、この「どうでもいいこと」だという認識が大切です。ところが、世の中のビジネスパーソンは「仕事が人生のすべて」だと錯覚しています。


 仕事を「どうでもいいこと」だと考えれば。合わない上司に仕えることも「どうでもいいこと」に変わるはずです。たまたまアンラッキーな時期にぶつかってしまったという程度に思っていれば、気が楽になるというものです。仕事に対する認識が間違っている人ほど、精神的に歪んでいくように見えます。

 これがもう一つの大きな間違いです。自分が納得していないことを無理に上司に合わせていると、精神的に苦しくなります。うつ病になったり仕事にやる気が起きなくなったりする原因は、人間関係がうまくいかない場合が大半です。「仕事が人生のすべて」だと錯覚しているから、人間関係で悩むのです。仕事は「どうでもいいこと」だと思っていれば、人生のたった三割の時間を過ごす仕事での人間関係で悩む必要などないのです。

 加えて「仕事が人生のすべて」だと思い続けていると、こんどは自分が上司になったときに仕事に趣味を持ち込むようになってしまいます。つまり、自分の美学や価値観を部下に押しつけるようになるのです。これほどはた迷惑なことがあるでしょうか。


>>「仕事は人生のすべて」ではなく、「どうでもいいこと」だという考えに同感

「働き方」の教科書①



「働き方」の教科書
「無敵の50代」になるための仕事人生の基本(出口治明著、新潮社)より


第一章 人間と人生をどう考えるか


  人生は99%失敗する


 そもそも、チャンスを手に入れた(舞台でうまく踊れた)からといって、やりたいことをやり遂げることができる人は100人中1人ぐらいしかいないことを知っておくべきです。少し長いレンジで歴史を眺めれば、100人中99人は失敗していることが容易にわかります。しかも行動した結果は、後の時代にならなければわからないケースがほとんどなのです。

 それさえ知っていれば、仮に失敗したとしてもショックを受けることはありません。大切なのは「99人が失敗するのだからチャレンジしない」という結論を導き出さないことです。99人が失敗するとしても、チャレンジしなければ世界を変えることはできません。今みなさんが生きている社会は、かつて100人が変えられると思って挑戦し、1人が成功したからこそ成り立っているのです。世界を変えようと思う人がたくさんいなければ、1%の絶対数が少なくなり、社会が変わる可能性はそれだけ低くなってしまいます。

 チャレンジする自分が、99%に入るか1%に入るか、それは死ぬまでわかりません。むしろ死んだあとにしかわからないことのほうが多いのです。

 キリスト教の創始者イエスは30歳ぐらいで刑死したので、失敗した人の典型とも言えそうです。しかし、キリスト教は今や世界を取り仕切っている大宗教の一つです。イエスの生涯を見ると、死んでから何百年、何千年も経って成功する例があることがわかります。チャレンジしているそばから、成功するか失敗するかということを考えても仕方がないのです。

 
 人間の能力もチョボチョボ、訪れるチャンスもチョボチョボ、さまざまな偶然もチョボチョボ。そして99%は失敗する。失敗するとわかっていても、1%の可能性をめざしてチャレンジした人がいたからこそ今の世界がある。世界を変えるためには、失敗を恐れずチャレンジすべし。そういうことです。

 すでにお話したように、僕は死ぬときに後悔するのは嫌です。可能な限り、やりたいことにはチャレンジし、その結果は後世の判断に委ねればいいと思っています。みなさんもそういう人生観を持ってはいかがでしょうか。チャレンジすることは何歳になってからでも遅くはありません。


>>私も生涯チャレンジし続けて社会を変えてみたい

「女遊び」



「女遊び」(上野千鶴子著、学陽書房)より
初版発行・1988年6月10日/17刷発行・1990年5月8日


  産む産まないは女の権利


 ニューヨークの計画出産協会で入手したパンフレットの表紙に、計画出産に生涯を捧げたマーガレット・サンガーさんの美しい言葉が載っていましたが、それには「女性が産む自由と産まない自由を完全に手に入れるまでは、女性解法はない」とありました。全くそのとおりにはちがいありません。


 「産む権利・産まない権利」を女の手に、という標語は、何という大それた要求なのでしょう。


 人類史は、生命の再生産を確保するためのさまざまな社会的・文化的な制度で満ちています。だからこそ、私たちは、異性愛へと強制され、生殖へと強制されています。しかしその制度が強制ではなく選択だとわかってしまったときに、私たちに何を選び直すことができるのでしょう。そして、女たちは、いまその制度の解体を要求していることになるのです。

 「産む権利・産まない権利」の要求が私たちをそうした根源的な問題にまで連れていってしまうこと、これは政治の問題でもましてヒューマニズムの問題でもなく、思想のたたかいであること、それを考え抜くタフさが、女の人たちに要求されているのだと思います。


>>「産む権利・産まない権利」は、男性側でも認める必要があるのは間違いない


「女という快楽」③



「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より


15 女性にとっての性の開放


  7  産む権利・産まない権利

 はじめ「中絶の権利(アボーション・ライト)として出発したはずの「産まない権利」は、「産む権利」をその裏面にともなった「生殖の権利(リプロダクティヴ・ライト)」一般への拡張されていく。「セックスする自由」が「セックスしない自由」をともなっていなければ無意味なように「産まない自由」は「産む自由」に裏づけられていなければならない。「産まない自由」の追求を通じて、アメリカでも日本でも、女たちは現在の社会の「産めない不自由」を告発するに至ったのである。それは、出産・育児が女性の喜びでなく、桎梏にしかならないような社会の仕組みへの批判に向かっていった。


  9  「解放された性」とは何か?

 フェミニストにとっては、「性の開放」は、男性優位の性規範から自由な「解放された性」を意味する。そして女たちにとって「解放された性」が男たちのそれと違う点は、それが一瞬の性愛の快楽の追求以上に、生殖につながる持続的な長いタイムスパンを持っていることだ。女たちの「性の自由」には、「産む自由」までが射程に収められている。

 女たちは家族や生殖からの解放ではなく、抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族を求めている。女たちは「解放された性」を求めて「性の実験」をつづけるだろうし、逆に性を問題にしないような女性解放運動は、ニセモノでありつづけるだろう。


  あとがき

 本書は1979年から1985年までに書かれた私の女性についての論稿のうち、主要なものをほぼすべて収録したものである。読者は私のフェミニズムの原点を、この一冊で了解されることだろう。

  1986年10月  上野千鶴子


>>抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族というのは理想であるに違いない


「女という快楽」②



「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より


  9  近代家族の解体と再編  ――核家族の孤立をどう抜け出すか――


 ところで、都市雇用者核家族型、しかも妻も就業しているというダブル・インカム型の家族状況の中で子育てというテマとヒマのかかるレジャーを実践しようとしたら――そのうえ妻の就労は、子どもの社会科費用のために、今や不可欠ときている――家族はどう変わらなければならないだろうか。女性がもはやフルタイムの母親にならず、他の女手も家族の中にないとなれば、その育児ゲームの当のパートナーである夫を、引きこむほかはない。女性たちは、働き、結婚し、その上で子育てをとっくに趣味化してしまったが、今度は男たちをこの趣味に招き入れてあげようというのである。さもなければ、人生の余暇=老後にあたって、彼らはマが持たないだろう。

 女たちが男に要求している育児参加――出産・授乳を除けば、その他のすべての育児活動は男性にもできる、と主張して――は、歴史的に見るとかなり非常識な要求である。そんなこと言ったって、古来子育ては女の領分だ・・・・・・と男たちが狼狽し、不平を唱え、いっかな納得しそうもないのも無理はない。まして女たちが、出産の経験までシェアしようと夫に分娩のたち合いを要求するに至っては、たいがいの男は怖気づいて逃げ口上を並べたてるに至る。


 私たちにとって必要なのは、<近代家族>が解体してしまったこと、つまり<家族>が変質してしまったという現実を素直に受けとめて、そのプラス面を積極的に受け容れていくことでしかない。そうやって得られた<家族>像が、過去のどの家族とも似ても似つかない「非常識」なものであったとしても、私たちは過去の経験よりは自分たちの現実の方を信じるべきなのだ。


 いずれにしても、子育てがもっともテマヒマのかかる「共遊」のレジャーである事情は変わらないだろうし、人間の子どもの長期にわたる社会化が、成人メンバーの間の、多少なりとも安定的に持続した関係をもたらす実体的な基盤になる、という事情にそう変わりはないだろう。いずれにせよ、再生産を、これまでの性別役割分担型の<近代家族>モデルで考えることは、とっくに破産しているのである。


>>まずは、子育ては女性の役割というこれまでの固定観念を転換していく必要があろう


「女という快楽」①



「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より
1986年11月30日第1版第1刷発行


7  産む性・産まない性

  『産む自由・産まない自由は、女性解放の基礎です』
  ――マーガレット・サンガー――

  1  母になるオブセッション

 「女性の自己実現のために、母になることは必要か」という質問に対してイエスと答える女性は、日本では欧米諸国に比して格段に高い比率にのぼる。この国では、女であることはどうやら母であることと同義になっているらしい。母でない女は、女とみなされない傾向がある。


  2  母という名の地位

  母になることへの、このオブセッション(強制的な思いこみ)の強さは、いったい何によるのだろうか。

 第一に、日本のような家父長制直系家族の中では、ヨソモノとして嫁いできたヨメは、跡取りの母になることではじめて安定した地位を家族の中で得られる、ということがある。


 第二に、このタテ型家族構造の中での、母子(もちろん息子)密着がある。妻には専制的に君臨しても、母には絶対服従の封建家長は、戦前にはたくさんいた。


 第三に、伝統的な直系家族制がすたれた近代核家族の中でも、「男は仕事・女は家庭」の性別役割分担の中では、女はもう、子どもを産むほか何にもすることがない、という事情がある。


  5  産む選択・産まない選択

 いずれにせよ、「産まない選択」もオプションのうちに入ってきたことはたしかだ。避妊法の普及で、「産めない女」だけでなく、自発的は「産まない女」も登場している。「産まない女」の存在は、母になること以外の生き方のオプションを示すことで、「産めない女」にも救いになるはずだ。かつてなら、「石女」という言葉は、女を全否定する最大の侮蔑の言葉だったのだから。


  6  「選択の時代」の幸と不幸

 イヤな時代だと思いながら、ともあれ「何も考えずに」子どもを産むより、「選択して」産むほうが親にとっても子どもにとってもまだましだろうと、私は思うことにしている。そして、個々の女の産む選択・産まない選択を超えて、オリアナ・ファラチが言うように、「人類はつづいて行く」(『生まれなかった子への手紙』講談社、1977年)のだから。


>>産まない自由は、女性解放の基礎であることは間違いない

「流星ひとつ」⑨



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  五杯目の火酒


「手術は・・・・・・」

「五年前。手術前のビデオがあれば、あたしも見たいんだ。違うんだ、ほんとに」


「見たら、あたしの悩みがわかってくれると思うよ。だから、この五年間、苦労してきたんだもん。みんなが持っているあたしのイメージと、歌のイメージと、それもうすっかり変ってしまったあたしの声を、どうやって一致させるかってことを・・・・・・。可哀そうなあたし、なんてね」


「みんなは前の声で歌った歌を知っているわけ。それをこの声で歌わなければならないところに、無理があったわけ。みんなの持っているイメージから、そう離れるわけにいかないでしょ?まったく違う、新しい歌を歌うのなら、まだいいんだ。でも、どんな場合でも、何曲か歌う場合には、初期の頃の曲を歌わないわけにはいかなんだよね。それがつらかった。そういう歌を、この、喉に引っ掛からない声で歌うのが、ね」

「少し、わかってきたような気がする。あなたが引退しなければならなかった理由が、少し・・・・・・」

「この五年、歌うのがつらかった」

「いつでも?どんなときでも?」

「うん・・・・・・」


「一生懸命歌ってきたから、あたしのいいものは、出しつくしたと思うんだ。藤圭子は自分を出しつくしたんだよ。それでも歌うことはできるけど、燃えカスの、余韻で生きていくことになっちゃう。そんなのはいやだよ」


「あたしはもういいの。出せるものは出しきった。屑を出しながら続けることはないよ。やることはやって。だから、やめてもいいんだよ」


「一度どこかの頂上に登っちゃった人が、そのあとどうするか、どうしたらいいか・・・・・・。あの<敗れざる者たち>っていう沢木さんの本の中に出てきたよね」


「あたしは、やっぱり、あたしの頂に一度は登ってしまったんだと思うんだよね。ほんの短い期間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。一年で登った人も、十年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。ゆっくり降りるなんていうことはできないの。もう、すごい勢いで転げ落ちるか、低くてもいいからよその頂に跳び移るか。うまく、その傍に、もうひとつの頂があればいいけど、それが見つけられなければ、転げ落ちるのを待つだけなんだ。もしかして、それが見つかっても、跳び移るのに失敗すれば、同じこと。<敗れざる者たち>に出てくる人たちは、みんな、跳び移れないで、だから悲しい目にあっているわけじゃない?」


「ぼくはね、あそこで、<敗れざる者たち>って本で言いたかったのは、しようがないよなあ、ってことだったんだ。ほんとにしようがないよなあ、って。あんなにボロボロになるまでやらなくてもいいのに・・・・・・でも、しようがないよなあ・・・・・・それが、あなたたちの宿命なら・・・・・・しようがないよなあ、ってことを書きたかっただけなんだ。ぼくはね、あなたに、やっぱり、歌いつづけるより仕方ないような、まあ、そういう言い方をすれば、宿命みたいのを感じてたんだ。だから・・・・・・」


「ほんとは感動してるのさ。あなたの潔さに感動してるんだよ。でも、ぼくはあなたの歌が好きだから、まだ歌っていてほしいんだろうな、きっと。だから、難癖をつけている」


「あなたは、勇敢にも、どこかに跳び移ろうとしているわけだ」

「うん」

「どこへ跳ぶの?」

「女にとって、いちばん跳び移りやすい頂っていうのは、結婚なんだよね。それが最も成功率の高い跳び移りみたい。でも、あたしにはそれができそうにもないし・・・・・・」


「勉強しようと思うんだ、あたし」


>>手術から五年、余韻で生き続けることなく、選んだのは潔い引退だった

「流星ひとつ」⑧



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  五杯目の火酒


「確かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、残念なことに、あたしは前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ」

「そうか。どうしたって、あなたは、あの人と比べないわけにはいかないよな」

「そうなんだ。そうすると、もう、絶望しかないあけ。藤圭子の歌を歌うんだけど、それは藤圭子の歌じゃないんだ。違う歌になっているの。人がどんなにいいと言ってくれても駄目なんだ。それは理屈じゃないの。あたし自身がよくないって思えるんだから、それは駄目なんだよ。だいいち、あたしが歌ってて、少しも気持がよくないんだ」


「手術のあとからは、みんなに声がよくなりましたね、よく出るようになりましたね、よかったですね、って言われるようになったけど、そして、表面的には、ええ、なんて応えてたけど、ほんとは、違う、違う、とおなかの中で言いつづけてたんだ。よくない、よくない、って」

「微妙なものなんだね、声っていうのも」

「そうなの。それなのに、そこにメスを入れちゃったんだ。変わるはずだよね。お母さんはね、これで、純ちゃんがいつ声が出なくなるかとヒヤヒヤしながら聞いていなくてすむ、って喜んでたんだ。でも、本当はね、あたしの声が変わっちゃった、駄目になっちゃったということを、いちばん早く知ったのは、お母さんだったんだよ」

「どういうこと?それは」

「手術してすぐのショーのとき、会場にお母さんも来ていたんだよね。あたしが本番の前に音合わせか何かをしてたらしいんだ。それをね、舞台の袖で聞いていたお母さんが、傍にいる人に訊ねたんだって。純ちゃんの歌をとても上手に歌っている人がいるけど、あれは誰かしら、って。その人が驚いて、何を言っているんですお母さん、あれは純ちゃんが歌っているんじゃありませんか・・・・・・」


「お母さんは耳を澄ましてもういちど聴いたらしい。でも、そう言えば純ちゃんの歌い方に似ているけど・・・・・・としか言えなかったんだって。お母さんは、その話を、最近になるまで教えてくれなかったんだけど、ね」


「手術する前のあなたって、どんなだったんだろう」


「無心で、ただ歌うだけだった。ところが、手術してから気になり出したんだよ。いろんなことが、ね。自分の声についても、人の反応についても気になってきた。手術して、確かに声は変わった。でも、そのことによって、急に気になりはじめったていうことの方が、あたしにとってはいけなかったのかもしれないんだ。歌手としては、わかりはじめたことが恐いんだよ」


「無心だからよかったんだよ。無心だったから、ああいう歌が歌えたんだよ。いろんなことがわかり出したら、もう駄目だったんだ」


「うまいへたというより、つまらないの。聞いていてもつまらないし、歌っていてもつまらないんだ」


「気持がよくないんだ」


「そのときは無意識だったからわからなかったけど、いま、考えてみれば、きっと気持よかったんだと思うよ。たとえばね、前にはよく声が出なくなった、と言ったでしょ。お母さんは身内だから心配するわけ。ショーなんか見にきていると、終わってから訊ねるの。すごく苦しそうだったけど大丈夫、って。そのとき、あたしは、何を言われているのかよくわからないわけ。とても苦しそうに歌ってたよと言われて、どうしてそんなことを言うのって驚くんだ。ちっとも苦しくなんかなかったよ、とても気持よかったよ・・・・・・そうだ、とても気持よかったよって、お母さんに言った覚えがある」


「あたしはバラードが好きなの。バラード風に歌える歌が好きなんだ。歌うときにね、いとど喉に引っ掛かって出てくるような声を使って歌える歌が大好きなんだよ。気持がいいんだ。なんか、うっとりするような感じがするときがある」


「フランク・シナトラやなんかがカヴァーしている<サニー>みたいな曲を、バラード風に歌うのは、ほんとに好きなんだ」


>>ピーク時の自分と比較したり、つまらなくなったり、気持よくなくなったりしたら、終わりかもしれない


「流星ひとつ」⑦



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  五杯目の火酒


「声が変ってしまったんだよ。まったく違う声になっちゃったの」

「そんなに変わった?ぼくたちにはよくわかんないけどなあ・・・・・・」

「変わったんだよ。わたしたちも、はじめの頃はそれに気づかなかった。手術して、しばらく休んで、初めて歌ったとき、あれっ、とは思ったんだよ。声がとても澄んでいたんだ。あれっ、とは思ったけど、おかしいなとは思わなかった。長く休んでいたから声がきれいになっただけだろう、歌いこんでいくうちに元のかすれ声に戻るだろう、と思っていたわけ。ところが、いつまでたっても澄んだままなの。変だな、と少しは思うようになったんだ、時の経つのにつれて。でも、それが手術のせいだとは思わなかったの。思いたくなかったのかな。手術によって声の質が変わったなんて、それこそ考えたくもなかった。でもね、どうしても、それに気づかざるをえないときがきちゃったんだ・・・・・・」


「レコーディングのときなんだよ。手術後、初めてのレコーディングがあったの。<私は京都へ帰ります>という歌だったんだけど。そのときなんだ」


「みんな、おかしい、おかしい、と言い出して、もう一度やるんだけど、同じなんだ。高音が、澄んだ、キンキンした高音になってしまっていたわけ。あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して・・・・・・高音に引っ張りあげていって・・・・・・そこで爆発するわけ。そこが聞かせどころだったんだよ。ところが、その高音が高すぎるわけ。あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくとこに、ひとつのよさがあったと思うんだ。高音でも同じように引っ掛かりながら出ていってた。ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。前のあたしに比べると、キーンとした高音になってしまったんだよ。ミキサーの機械が、ハレーションを起こすみたいになっちゃうわけ」


「ミキサーの人も困って、仕方がないから、高音のとこにさしかかると、レベルをグッと下げるようにしたの。そうしないと、うまく収まらなくなってしまったんだよ。そのためにどういうことになったかというと、歌に幅がなくなったんだ。歌というよりは音だね。音に奥行がなくなっちゃった」


「手術する前は、夜遊びしても、声が出なくなるのが心配で決して騒がなかったの。でも、手術してからはその心配がなくなった。いくらでも声が出る。でも、その声はあたしの声じゃないんだよ」

「少なくとも、前の、あなたの声じゃない」

「まるで前と違ってたんだ。そのことに気がついてから、歌うのがつらくなりはじめた」

「つらくなっちゃったのか・・・・・・」

「つらいのはね、あたしの声が、聞く人の心のどこかに引っ掛からなくなってしまったことなの。声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった・・・・・・なんてね。でも、ほんとだよ。歌っていうのは、聞いてる人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。だけど、あたしの歌に、それがなくなってしまった。あれっ、と立ち止まらせる力が、あたしの声になくなっちゃったんだ」


>>人間つらくなりはじめたら終わりかもしれない


「流星ひとつ」⑥



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  五杯目の火酒


「切ったんだ。切っちゃったんだ。思うんだけど、あたしのは結節なんかではなかったんじゃないだろうか」


「よくはわかんないんだけど、あれば先天性のものだったんじゃないかなあ。あたしのは、喉を使いすぎたから、ああなったというわけじゃなかったんだ。子供の頃から、歌い出す前から、そうだったんだ。あれば、先天的なものだったんじゃないだろうか。だって、そうじゃなければ、子供の頃からあんな声が出るわけがないもん」


「歌手になってから、使いすぎて急にできたっていうはずもない。だって、その前の方が、むしろいっぱい歌ってたんだから。あのときも、ただ休めばよかったんだ」


「あなたは、あまり後悔したりしない人のように思うけど、それは別なんだね」

「別だね、残念だね。自分の声に無知だったことが、口惜しいね」

「口惜しいか・・・・・・」

「うん。決まってたんだよね、その、先天的な結節みたいのを取っちゃえば、声が変ってしまうということは、ね。でも、あのときはわからなかった。結節さえ取れば、これから楽に声が出るようになるって。それしか考えなかったんだ。でも、それを切り取ることで、あたしの、歌の、命まで切り取ることになっちゃったんだ」


「もし、そのとき、手術をしなかったとしたら・・・・・・」

「今度の、この引退はなかったと思う」

「ほんと?」

「その手術が、あたしの人生を変えたと思う。よいとか悪いとか言いたいわけじゃなくて、結果として変ってしまったと思うんだ。引退ということの、いちばん最初のキッカケは、この手術にあるんだから・・・・・・」


>>喉の結節の手術を選択しなければ引退はなかったに違いない


「流星ひとつ」⑤



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  五杯目の火酒


「デビューして、五年目くらいかな。どうしても声が出なくなっちゃって、入院したんだ。一週間、スケジュールを無理しておけて、休養したわけ。デレビはそういうとき、かなり融通がきくんだけど、営業はそうはいかないの・・・・・・」

「営業?営業っていうのは・・・・・・」

「ああ、それはね、地方でショーをやったりクラブへ出たりして、日建ていくらでお金をもらう仕事のことを言うの」

「へえ、それを営業と呼ぶのか。まあ、まさに、営業そのものだけどね。で?」

「うん、一週間くらい入院して、声の方も少しよくなったんで、退院したわけ。でも、営業のスケジュールは変更がきかないんで、退院した翌日、もう地方へ行って、ショーか何かに出演しなければならなかったんだ。久しぶりに歌うわけじゃない。嬉しくてね、張り切って歌っちゃったの。ショーだから、二十曲くらい歌わなくてはならないんだ。ワァーッと歌って・・・・・・ところが、翌日から、また、パタッと声が出なくなった。それで、みんな慌てちゃったんだ」

「それまで、そんなことはなかったの?」

「いや、前から声が出なくなることはよくあったんだ。でも、そのときは、一週間も休んだのに、そのすぐあとにまた出なくなったんで、これは大変だということになったわけ。あれだけ休んだのに、どういうわけだろう、ただの疲労とは違うんじゃないか、って」

「なるほど、声帯の疲れじゃなくて、喉の異常と考えたわけだ」

「そうなんだ。そこでね、国立病院で見てもらったら、結節だから切らなくてはいけない、ということになったの」


「前は、休めば元に戻っていたの?」

「そうだね・・・・・・声は昔からよく出なかったんだ。それが心配だから、ふだん話すときもほとんど声を使わなかったくらいでね。どうしてもしゃべらなくてはいけないときは、小さな、空気のかすれるような声で話してた。もったいなかったんだよ。人とおしゃべりする声があったら、歌う声に残しておきたかったkら。デビューした頃、あたしが無口だと思われてたのは、ひとつにはそれもあると思う。だから、なんて言うのかな、出ないのが普通だったんだ、あたしにとっては。その声を貯めて、それを絞り出していたんだよね、きっと。だから、一週間休んで出なくなったときも、そんなに慌てることはなかったはずなんだ。何かの条件が重なっただけのことで、やっぱり少し休んで、また声を貯めれば、それでよかったんだよね。ところが・・・・・・。切っちゃったんだよね。早く楽になりたいもんだから、横着をして、切っちゃったわけ」


>>二者択一による選択を誤ると取り返しの付かなくなることがある


「流星ひとつ」④



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  四杯目の火酒


「藤圭子は、藤圭子じゃなくたってしまったの?」

「・・・・・・そうさ。そうだよ。あたしは・・・・・・あたしでなくなっちゃった。そうなんだよ」


「歌っていても、女としてズキンとしないんだよね」

「あなたにとって、ズキンとする曲だったのは、たとえばどんなものだった?」

「たとえば・・・・・・そう、<女のブルース>。

  女ですもの 恋をする
  女ですもの 夢に酔う
  女ですもの ただ一人
  女ですもの 生きて行く

 この歌はよくわかった。歌詞を見たときからズキンときた。うん、そうだった」

「そうか、<面影平野>はあなたの心に引っかからなかったのか」

「そうなんだ、引っかからなかったの。だから、人の心に引っ掛かるという自信がないままに、歌っていたわけ。それでヒットするわけがないよね」
  

「あの<面影平野>がヒットしなかったのは、あたしの詞の心をわからなかったから・・・・・・だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」

「落ちた?なぜ?」

「もう・・・・・・昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ」

「どういうこと?」

「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの・・・・・・」


「無知なために・・・・・・手術をしてしまったから、さ」

「そうか、喉の手術があなたを変えてしまったのか」

「そう・・・・・・そうなんだ、残念ながら」


>>ウォッカ・トニックを四杯飲んで、ようやく核心に近づいて行く


「流星ひとつ」③



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より


  後記


 藤圭子の死後に発表された宇多田ヒカルの「コメント」の中に、《幼い頃から、母の病気が進行していくのをみていました》という一文がある。

 もしそうだとすれば、宇多田ヒカルはごく小さい頃から、母親である藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したことになる。

 宇多田ヒカルは、かつて自身のツイッターにこんなことを書いていたという。

《「面影平野」歌うカーチャンすごくかっこ良くて美しくて、おおくそどうにかあれダウンロード(保存?)そときゃよかった・・・・・・》


 『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。

 28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・・・・・。


 私の執筆ノートに、「あとがき」の断片ではないかと思われる文章が残されている。

 美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。だが、この作品では、読み手にその清潔さや純粋さが充分に伝わり切らなかったのではないかという気がする。私はあまりにも「方法」を追うのに急だった。だからこそ、せめてタイトルだけは、『インタヴュー』という無味乾燥なものではなく、『流星ひとつ』というタイトルをつけたかったのだ。それが、旅立つこの作品の主人公に贈ることのできる、唯一のものだったからだ。


2013年秋 沢木耕太郎


>>宇多田ヒカルは、『流星ひとつ』をどう受け止めたのだろうか


「流星ひとつ」②



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より
2013年10月10日発行


  後記


 やがて藤圭子はニューヨークで宇多田照實氏と知り合い、結婚し、光さんというお嬢さんを得た。さらに、その光さんが成長すると宇多田ヒカルとして音楽の世界にデビューし、藤圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。私は藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいことを喜んだ。

 
 この『流星ひとつ』は、コピーを一部とっただけで、そのまま長いあいだ放置されたままだった。


 ところが、この8月22日の昼前、思いがけない人から「藤圭子が新宿のマンションの13階から投身自殺をした」という知らせが入った。


 私はあらためて手元に残った『流星ひとつ』のコピーを読み返した。そこには、「精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた。


「これを、宇多田ヒカルさんに読ませてあげたいと思いました」

 宇多田ヒカルとほぼ同じ年齢の若い女性である武政さんの言葉は私を強く撃った。自分もどこかで同じことを感じていたように思ったからだ。

 私にとって宇多田ヒカルはやはり気になる存在だった。

 初めて歌声を聴いたときも驚いたし、19歳で母や祖母や伯母と同じように早い結婚をしたと知ったときも驚いた。その四年後に母や祖母や伯母と同じように離婚したことを聞いて、どのような巡り合わせなのかと心を痛めた。

 さらに28歳のとき、「もっと人間活動をしたい」と音楽活動を休止したのを知って、みたび驚かされた。藤圭子が「別の生き方をしてみたい」と芸能界を引退したときと同じ年齢であり、同じような理由だったからだ。


>>宇多田ヒカルは母が輝くような精神の持ち主だったことを知っていだだろうか




「流星ひとつ」①



「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社)より
2013年10月10日発行


  後記


 そのとき私は31歳だった。
 当時の私は、いくらか大袈裟に言えば、日夜、ノンフィクションの「方法」について考え続けていた。


 温泉宿の滞在が二週間ほど過ぎたときのことだった。午後、執筆に疲れ、一休みするため部屋のテレビをつけると、ワイドショーのような番組をやっており、そこで「藤圭子引退!」というニュースが取り上げられていた。

 私はそれを見て、強い衝撃を受けた。私はその数ヵ月前に、偶然、藤圭子と会っていた。その場に共通の知人がいたことから言葉をかわすこともできていた。

 そのときのことだ。知人がトイレに立ち、藤圭子と二人で話をするという状況が訪れた。話の内容はとりとめもないことだったと思う。しかし、その最後に、ぽつりと藤圭子が言ったのだ。

「もうやめようと思うんだ」

 それは、話の流れからすると、その前に「歌手を」、あるいは「芸能界を」とつくはずのものだった。私は思わず訊ねていた。

「どうして?」

 そこに、知人が戻ってきたため、話はそれまでになった。

ワイドショーのニュースを見て驚いたのは、言葉にすれば、こういう思いだったろう。

<あのときのあの言葉は本物だったのだ・・・・・・>

そして、次にこう思った。

<あのとき得られなかった、「どうして?」という問いに対する答えを手に入れたい・・・・・・>

 私は即座に伊豆の山を降り、知人を介して藤圭子に直接連絡を取ることに成功すると、インタヴューをさせてもらう約束を取り付けた。


 その過程で、私は藤圭子が語る話の内容に強く心を動かされることになった。とりわけ、彼女が芸能界を「引退」したいと思う理由には、私がジャーナリズムの世界から離れたときの思いと共通するものがあった。


>>『流星ひとつ』を読み終えたら、宇多田ヒカルの第一子出産との報に接して驚いた

「銀の森へ」②


「銀の森へ」(沢木耕太郎著、朝日新聞出版)より


  戦場の無残さと戦争の虚しさと  『父親たちの星条旗』


 第二次世界大戦において撮られた写真の中で、最も有名なもののひとつが「硫黄島に掲げられる星条旗」である。かつて私はピューツァー賞を受賞した写真の歴史を調べる過程出、これがある種の「ヤラセ」写真であることを知った。しかし、それがどのようなプロセスを経て撮られたものか正確にはわからなかった。

 この『父親たちの星条旗』は、その「ヤラセ」写真において、二度目に星条旗を掲げる役割を担ってしまった兵士たちの苦悩の物語であるといってよい。


 硫黄島で「二度目に」星条旗を掲げた者たちは、たまたま写真に撮られたというただそれだけのことで英雄とされ、本土に連れ戻されて戦費調達を目的とする「戦時国債」の売り上げを増やすためのキャンペーンに使われることになる。あの有名になった写真と共にアメリカ中を「ツアー」することを強いられるのだ。パレードが行われ、歓迎会が開かれ、晩餐会が催される。そこで、彼らは、地元の名士や富裕な人々と共に記念写真に収まらなくてはならなくなる。

 ――自分たちは「二度目に」掲げたにすぎないのに、そしてその六人のうち三人はすでに戦死しているというのに、どうして英雄を演じなくてはならないのか?

 ひとりは酒に溺れ、ひとりは自分たちの置かれたその特別な状況をうまく利用しようとし、ひとりはじっと耐えようとする。

 その三人のうちのひとりの兵士の子どもが、五十年後に、父は終生なぜあの戦争のことを語ろうとしなかったのかを知ろうとする旅に出る。そこで、あの有名な写真がどのように撮られたかの真実と、他の二人の兵士な苛酷な「その後」の人生を知ることになる。

 
 祖国のために戦った若者たちは戦友たちのために死んだ。

 これが表のメッセージである。しかし、言葉になっていないもうひとつのメッセージを探すとすれば、次のようなものであるかもしれない。

 戦争を美しく語る者を信用するな、彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから、と。


  『父親たちの星条旗』
  監督:クリント・イーストウッド
  出演:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード
  2006年 アメリカ


>>成果を美しく語る者を信用するな、彼らは決まってディールに直接関わっていなかった者なのだから


「銀の森へ」①


「銀の森へ」(沢木耕太郎著、朝日新聞出版)より
2015年3月30日第一冊発行


  地上に舞い降りた天女  『ローマの休日』


 なぜ王女は旅先の宿舎から真夜中に街に抜け出してしまうのか。その王女を、通りすがりの新聞記者がどんないきさつで自分の部屋に泊めざるをえなくなるのか。彼は、ソファーで眠っている娘が、ローマ訪問中で、いまは急病だと発表されている王女だと、いつ、どのようにして気がつくことになるのか。そして、相棒のカメラマンと、王女の「休日」をどのように取材していくのか・・・・・・。

 すべてについて過不足なく説明されている。それも伏線といったような大仰なものではなく、さりげなく積み重ねられていく細部が、ストーリーの流れに勢いを与えるよう巧みに配されている。その果てに、王女と記者の恋、という御伽噺の花を咲かせることに成功するのだ。それは、どこに無理があっても咲かないはずの花である。


 その意味では、ハリウッドの「赤狩り」によって、自分の名前を明らかにできなかった脚本家のダルトン・トランボの力が、この傑作にとってどれほど大きなものだったかを改めて認識させられることになった。


 この映画を成功に導いたひとつの要因は、当時のヘプバーンの無名性にあった。撮影時に、彼女が歩いていてもローマの街の人は対して気にしない。それが、ただ街を歩くということに喜びを見いだす王女の幸福感と、ある意味での悲しみを見事に表現することになった。その代表的なものが、スペイン階段でアイスクリームを食べるシーンである。だが、そのとき、階段上の大都計が、本来、王女がそこにいるはずのない時刻を指しているのだ。さすがに練達の監督であるウィリアム・ワイラーといえども、時計の針だけは勝手に動かせなかったのだろう。しかし、もちろん、そんなことは映画の出来と本質的な関係はない。


 それにしても、もしこれが現実の出来事だとしたら、記者はこの「スクープ」を死ぬまで書くことはなかっただろうか。王女も絶対、周囲に漏らすことはなかったのだろうか。存外、孫のプリンセスなどに過去の武勇伝を語ったりしたかもしれない。
「昔は、わたくしもね・・・・・・」などと。


  『ローマの休日』
  監督:ウィリアム・ワイラー
  出演:オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック
  1953年 アメリカ


>>将来、語りたくなるような自分の過去の武勇伝って、果たして何だろうか

「橋をかける」



「橋をかける 子供時代の読書の思い出」(美智子様著、文藝春秋)より


 今振り返って、私にとり、子供時代の読書とは何だったのでしょう。

 何よりも、それは私に楽しみを与えてくれました。そして、その後に来る、青年期の読書のための基礎を作ってくれました。

 それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼とは、私が私に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。

 読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。

 自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、なお悲しみはあったと言うことを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり、ひとりひとりの子供の涙には、それなりの重さがあります。私が、自分の小さな悲しみの中で、本のなかに喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、他者への思いを深めますが、本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、悲しみに絶える心が養われると共に、喜びを敏感に感じとる心、又、喜びに向かっての伸びようとする心が養われることが大切だと思います。

 そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。


 子供達が、自分の中に、しっかりとした根を持つために
 子供達が、喜びと想像の強い翼を持つために
 子供達が、痛みを伴う愛を知るために
 そして、子供達が人生の複雑さに耐え、それぞれに与えられた人生を受け入れて生き、やがて一人一人、私共全てのふるさとであるこの地球で、平和の道具となっていくために。


>>読書が人と人との関係の複雑さに耐えて生きていかなければならないことを教えてくれた、という美智子様のお言葉に心動かされた


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