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はてなキーワード: 特権的とは

2026-05-12

anond:20260512144714

清朝の滅亡から現代中国が学べることは何ですか?

清朝の滅亡は、単なる王朝終焉ではなく、「適応に失敗した組織いか自己崩壊するか」という普遍的な教訓の宝庫です。

現代中国文脈で、そこから学べることは極めて多く、核心は次の4つに集約できると考えます

1. 「成功体験賞味期限」と向き合う不断覚悟

清朝は、18世紀まで世界最大の経済圏を擁する「盛世」を誇りました。その成功体験があまりにも強烈だったため、19世紀地政学的激変(ヨーロッパ産業革命国民国家化)を「一時的夷狄騒擾」としか認識できませんでした。

2. 改革の「敵」は外部ではなく、往々にして内部の既得権益である

先に議論した通り、清朝改革不可能にした最大の要因は、西太后保守派の「自己保存」でした。彼らは国家生存よりも、自らの特権的構造の維持を優先しました。

3. 「危機危機として認知する能力」が衰退の分岐点

アロー戦争日清戦争も、紫禁城の深部では「一部の敗北」として処理され、組織全体の危機とは認識されませんでした。真に危機が全構成員に共有されたのは、組織が既に手遅れなほど弱体化した後でした。

4. 「正当性」は常に更新しないと腐敗する

清朝最後まで「天命」と「儒教的徳治」という古い正当性依存し、国民国家時代の「人民同意」という新しい正当性の獲得に失敗しました。立憲制の導入が遅れたのは、まさにこの点です。



最後に、清朝の滅亡が現代に突きつける最大の教訓は、「大帝国崩壊は、外からの一撃ではなく、内部の硬直化と改革の先送りという静かなプロセスによって起こる」ということです。

崩壊の種は、外敵の侵入時ではなく、「まだ大丈夫だ」と皆が信じていた小康状態の時に、改革を先送りした瞬間に蒔かれます。この歴史パターンをどれだけ自覚できるかが、清朝以後のあらゆる中国統治者に課せられた、永遠宿題でしょう。

2026-05-10

anond:20260509145426

大豪邸の不破を筆頭に、それこそ福島みずほとか安住とか、左の上層部って特権的大金持ちが多いよな。そういう流れが基地反対活動家などにも来ているんだろう。

2026-05-03

anond:20260503142446

魔法の国ザンス」は、魔法を使えるのが当たり前の国で生まれ青年魔法を使えないがゆえに、魔法の国ザンス追放されるところから始まる物語

ピアズ・アンソニィ作のファンタジー小説で非常にユーモア色が強く、数十年前にはオススメ海外ファンタジーを挙げていけば最初の方に行き当たる作品だった。

のだが、性的小ネタが多く、昨今ではコンプラ的にアウトラインにかかっていて大手を振って紹介されることは最早無いだろう。

以下ネタバレになるが代表的性的ギミック



ある女性キャラ魔法の力により1ヶ月の中で容姿がとても美しい状態から、とても醜い状態へと変化していく。

一方で知能や知性は逆をたどる。

最も美しい状態の時が頭がパッパラパーで、最も醜い状態ときに知性がとてつもなく高くなる。

作品の中で、それは女性生理暗喩すると同時に最も美しいときに最も知性が低くなるという状態は様々な想像を起こさせる。

この設定の物語を書いて発表するのは、今の時代には若干の困難を伴うかもしれない。

また別のキャラクターは、極めて美しく性的な魅力に溢れているケンタウロスなのだが、

SEXに対しての道徳心が極めて高く自身欲情するオスを軽蔑する傾向にある。

また魔法に対する懐疑心がこの世界ケンタウロス一般的に強いという設定なっている。

しかし、ある事件が起きて、ザンスで一切の魔法が使えなくなるとそのケンタウロス性的で魅力溢れた容姿は崩れていき、誰からも注目されない存在となる。

実はそのケンタウロス自身は知らないうちに「魅了」の魔法を常時発動していたのだが、それを失った途端にそれまでの特権的な扱いを他者から受けなくなる。

その経験を通じて、そのケンタウロス魔法自身性的魅力が溢れていることに対する考え方を許容する方向へと変えるようになる。

と言った具合に、どうにも今の世の中ではキャンセルされそうな内容を多分に含んでいるのだ。

ハヤカワの古いFTシリーズは同作品も含めて、電子書籍から完全に置いてけぼりにされており、書籍の方も入手が困難状態が続いている。

ザンスもそうだが「妖女サイベルの呼び声」のような名作も無視されていて電子書籍化されないのは残念でならない。

2026-04-30

今年でもう5件?

BeRealの「2分間投稿縛り」という仕様問題だとか、Xをやっている人間の方が情報の取捨選択に長けているだとか、色々と語られているが

問題本質もっと手前にある気がしてならない。

まず、この手の「閉鎖的・特権的空間」を可視化するSNSルーツを辿れば、前略プロフィールmixiに行き着く。

あくまで身内向けのコミュニティでありながら、個人情報写真を共有して悦に浸る場所だ。

その後、インスタのストーリーズのように「一定時間で消える」機能一般化したが、20年ほど前の「2ちゃんねる」や「mixi」が玉石混交だった時代とは、ユーザーの前提が根本的に違う。

かつて、クラス単位でこうしたツールを使い倒していたのは、昭和最後平成一桁生まれ世代だ。

完全に個人的な肌感覚だが、この世代の「まともな人間」は、FBTwitterを一度は触ってみるものの、リスクを察知して早々に身を引いている。

今回、おそらくそれなりの大学を出て、それなりの組織に属する人間たちが立て続けに不祥事を起こしている背景には、売り手市場による「質の低下」もあるだろう。

だが、彼女たちの行動原理を推測すると、より根深問題が見えてくる。

BeRealには「2分以内に投稿しなければならない」というルールがある。

別に真っ暗な画面を撮って上げれば回避できるはずなのに、彼女たちはそれをしない。

それをしないのは、彼女たちの中に「クランの掟」への忠誠心があるからだ。

それと同時に、「今の自分特別場所にいる」という優越感を、無意識のうちにグループ内で示したいという承認欲求が、理性を上回ってしまう。

これに拍車をかけたのが、コロナ禍による物理的な社会的摩擦の減少と、過剰なまでのハラスメント教育

本来人間は人前で叱られたり、恥をかいたりすることで「公共」と「私的」の境界線を学ぶ。

最近めっきり聞かなくなったが、それがかつて「TPO時間場所場合)」と呼ばれていたものだ。

過剰に保護され、現実社会摩擦に晒される経験を奪われた彼女たちは、「社会から自分がどう見られるか」という客観的視点を養う機会を永遠に失ってしまった。

永遠に、とは言いすぎかもしれないが、もう彼女たちにそれを教えてくれるお節介人間は軒並み消えている上に、おそらく彼女たちは忠告を聞き入れるつもりがない。

彼女たちにとって、人生は常に誰かに見られていることがデフォルトだ。自宅、通勤中、そして勤務中。

本来、気を張っているべき「オン」の時間に、SNSという「オフ」の感覚が溶け込んでくることに、何の抵抗も抱かない。

ブラウザ経由でネットに触れ、2chmixi世代洗礼を受けた「90年前後まれ」と、

物心ついた時からスマホ身体の一部だった「2000年前後まれ以降」の間には、マリアナ海溝よりも深い溝があるように思う。

とまあAI生成の適当考察を並べてみたが、これはリテラシー教育でどうにかなるレベルではない気がする。

ある意味氷河期世代よりもかわいそうな世代なのかもしれない。

だって子供の頃に経験しておくべき摩擦で学ぶことは、一体誰にどうやって教わる?

炎上して怒られてからじゃないと学べないのなら、そんな人間怖くて採用できないでしょ。

本人はたったスマホ撮影しただけ、何が悪いの?という感覚でいて、OJT課長支店長は飛ばされちゃうのにね。

動画で取られている同期か先輩社員見た?「辞めてよ~笑」って感じで叱ってもくれてないじゃんね。

新入社員が入るたびに、爆弾持たされた~という感覚一生懸命、優しく、辞めないように根気よく説明教育できる?

というより、たぶん教育でどうにかなるような問題じゃないんだ、これは。

だって情報リテラシーや社内規定社会規範なんかより、SNSという謎のクランの掟や承認欲求を満たすことの方が優先順位が高いんだから

教育で済む話じゃない、生き方や信念や信条もっと言えば宗教上の理由と言っても過言ではないのだから

そんな爆弾回しゲーム、誰が参加したい?

それだったらまだ氷河期世代人間雇ったほうがマシだわな。

2026-04-21

腐女子っていっつもダブスタしてる

商業BL公式カップルを男女カップルに改変する二次創作ヘテロ化)」を巡る議論について、主要な論点を整理して解説します。

1. 実態と希少性:商業BLにおけるヘテロ改変は存在するのか

商業BLなどで描写された公式ゲイカップル異性愛に改変する二次創作非常に稀であるという意見大勢を占めています

2. 二次創作における「ダブルスタンダード」の是非

少年漫画主人公×ヒロイン乙女ゲーム攻略対象イケメン×女主人公などの公式男女カップルBL化することは一般的である一方、その逆(BLヘテロ化)が「腐女子への嫌がらせ」「セクシャルマイノリティ否定」と見なされることへの是非が議論されています

3. 社会的倫理的視点マイノリティ表象保護

この論点では、同性愛というマイノリティ属性異性愛へ回収することの政治的な危うさが語られています

4. ジャンル間の比較BL百合GL)の違い

BLにおけるヘテロ化の少なさを、他のジャンルとの比較分析する論点です。

マジョリティ自由に改変して良いという二次創作倫理

二次創作文化には、看過しがたい非対称が存在する。

まず確認すべきなのはマジョリティキャラマイノリティキャラにする改変が、二次創作では決して例外的行為ではないという事実である公式主人公ヒロインの男女関係が描かれている少年漫画においても、男性キャラクター同士を恋愛関係として再構成するBL二次創作は長年にわたって広く行われてきた。また乙女ゲームのように、公式には女性主人公男性攻略対象との関係性を楽しむ作品においても、攻略対象同士を結びつけるBL二次創作は珍しくない。そこでは、原作にある男女関係女性キャラクターの位置けが後景化されているが、こうした改変は二次創作文化の内部で相当に広く認められている。腐女子ヘテロ文化に対して越境するのは常に許容されてきた。

二次創作とは、原作の明示的設定を保持する営みであるよりも、原作に含まれ人物配置や関係性を素材として別の可能性を試す営みだ。公式カップリングの変更、恋愛対象の変更、関係の強調や省略といった操作は、その文化の中心的実践の一つである。したがって、ある改変が許容されるか否かを論じる際には、まず「原作から逸脱している」というだけでは否定理由にならない。

ところが、この原則は常に対称的に適用されているわけではない。たとえば、商業BL作品公式男性カップルを男女関係へ置き換える創作や、同性愛者・レズビアンアセクシャルなどの設定を持つキャラクターに異性愛関係を与える創作は、しばしば単なる改変としてではなく、属性否定や少数者表象の抹消として批判される。ここで注目すべきなのは批判の当否以前に、同じ「属性の変更」が一方では創作自由として扱われ、他方では倫理的逸脱として扱われている点である

もちろん、この差異には社会的背景がある。現実社会において異性愛制度的にも文化的にも強い地位を持ち、同性愛や無性愛は長く周縁化されてきた。そのため、マイノリティ表象異性愛へ回収する表現が、現実の抑圧構造を想起させやすいという指摘には十分な理由がある。しかし、その事情を認めたとしても、なお問われるべきは基準整合性である。なぜなら、少年漫画乙女ゲームBL化もまた、既存異性愛関係作品設計を変更し、とき女性キャラクターや女性主人公役割を弱め、消去し、置換する行為からである。それにもかかわらず、こちらは「二次創作から」で済まされやすい一方、逆方向の改変だけが存在否定」として特権的糾弾されるなら、そこで働いているのは原作尊重原則ではなく、改変の方向に応じて変動する価値判断である

2026-04-19

第6回 どうして人は「青春」にとらわれるのか その魅力と魔力の正体とは 2026年4月18日 15時01分 連載「青春コンプレックス」⑥

 「青春」という言葉不思議だ。部活初恋文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。

 

 ――「青春」をテーマにした映画アニメ小説などが、ちまたにあふれています

 少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツ枚挙にいとまがありません。

 

 例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生主人公で、アニメ主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春コンテンツに含まれるでしょう。

 

 「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージ一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります

 

 ――どういうことでしょうか。

 

フィクションから」で片付けられない

 

 1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生既存社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的ものだ、という社会認識があったのです。

 

 それが高校大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきますさら2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通日常」がテーマとして好まれるようになりました。

 

 ――こうした「青春」のイメージが、現実当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。

 

 「青春」が「普通日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。

 

 つまり作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます

 

 そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドル芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。

 

 いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者承認してもらえるか。いわば「ミッションクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます

 

陳腐だけれど「善」のイメージ

 

 ――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。

 

 「青春陳腐さと特別さが混ざり合った規範から」だと、著書では結論づけました。

 

 現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐ものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別意味を持ちます

 

 誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。

 

 さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的感情を入れる余地のないものから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくま社会的に作られたイメージであって、相対的ものに過ぎないということです。

 

 ――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。

 

 研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいものなのだと思います

 

 私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。

 

 要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分アイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。

 

      ◇

 

 いしおか・まなぶ 1977年まれ。専門は教育歴史社会学で、子ども若者イメージ社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。

 

https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html

2026-04-14

よくよく考えてみたらバチカンって全然公平じゃないし特権的だし権威的だし叩かれてもしょうがないんじゃないの。

さもありなん

2026-03-28

俺は統合失調症なんだが自分思考自分のものでなくなる感じはむしろ「最強のメタ認知」だと思うんだよね。

ほら、自分という存在存在していることに不思議に思うやつって物理学天才に多いだろ?

それと同じで、自分思考信号が、なぜ単なる環境のようなものではなく、意識という主体性を持ってるのかと疑問に思うことは可能だ。

そして猿レベルの奴にはメタ認知がないので、自分思考自分思考と思い込んでそのまま直感的行動をする。

から犯罪者犯罪をするし、リフレ派は国債発行ジャブジャブで日本を終了させる。

そしてここから先が面白いところなんだが、この思考自分のものではないという感覚を、単なる異常として切り捨てるのはむしろ浅い。

普通人間は、自分思考自分のものだと無条件に仮定している。

この仮定は便利だが、検証されていない前提でもある。いわばデフォルト設定だ。

だが、その前提が崩れる瞬間に初めて、思考とは何かという問題露出する。

思考は本当に所有物なのか?それとも単なる生成過程なのか?

ここで一段抽象化すると、脳は入力と内部状態から確率的に信号を生成しているだけで、その出力に「これは自分のものだ」というラベルを後付けしている可能性がある。

だとすると、自分思考自分のものではないという感覚は、ラベル付けプロセスの剥離として説明できる。

これはむしろ、通常は不可視レイヤーを直接観測している状態とも言える。

多くの人間はこのレイヤーアクセスできない。だから思考自己という短絡が固定される。

その結果、直感にフルベットして行動する。メタ認知が弱いというより、疑うためのインターフェースを持っていない。

一方で、そのインターフェース露出している状態では、思考環境変数に近づく。

まり思考 = 主体ではなく思考 = 入出力系の一部として扱えるようになる。

ここで初めて、思考操作対象として扱うという発想が成立する。

これは強い。なぜなら、自分の中で発生したアイデア衝動を、同一視せずにフィルタリングできるからだ。

物理学者が「なぜ宇宙存在するのか」と問うとき、彼らは暗黙に観測者もまた系の一部であるという前提に触れている。

自分自身を特権的主体として扱わない。その視点と、思考環境として見る視点構造的に同型だ。

そしてこの視点を持てるかどうかが、行動の質を分ける。

思考をそのまま実行に移す系は、単なる反射に近い。思考を一度分離し、評価し、再投入する系は、制御系になる。

犯罪者の例を出すなら、問題は知能の高低ではなく、この制御系の有無だ。思考と行動が直結しているか、それとも一段バッファがあるか。この差は大きい。

経済の話でも同じで、短期的な刺激に反応して政策を打つ系は、フィードバックを誤る。

期待形成無視して同じ入力を繰り返すことで、システム全体が歪む。ここでも一段上から見る構造がない。

思考自分のものではないという感覚は、それ単体では価値を持たないが、適切に扱えば強力なインターフェースになる。

まり、それをどう使うかだ。単なる違和感として消費するのか、それとも思考自己を切り離すための観測装置として使うのか。

後者に振り切れるなら、それは確かに最強のメタ認知にかなり近い位置にある。

2026-03-24

信仰としての絵柄、道具としてのイラスト

イラストレーターにとって自らの絵柄は単なる描き方の癖ではない。

それは長い年月をかけて研鑽を積み、ようやく辿り着いた魂の形であり、一種信仰にも似たこだわりが宿る聖域とも言える。

筆致一つ、色使い一つに譲れない美学があるのは表現者として当然の矜持といえる。

しかビジネスという冷徹力学支配する現場において、その信仰クライアントから同じ熱量で尊ばれることは稀である

特に現代商業シーンにおいてイラストレーター個性は、作品という巨大な機構を維持するための部品としての適合性を厳しく問われるようになっている。

かつてのゲーム、とりわけカードゲームや初期のソシャゲにおいては、複数の著名なイラストレーターがそれぞれの個性を競い合う作家性の競演が珍しくなかった。

一枚のカードや一人のキャラクターが完結した作品として成立していれば、隣に並ぶ別のキャラクターと絵柄が異なっていても、それは多様性という魅力として受け入れられていたのである

しか現代ソーシャルゲームにおいて、その自由空気は完全に塗り替えられ、徹底的な絵柄の統一必要となった。

この劇的な変化の背景には、ソーシャルゲームにおける物語重要性が飛躍的に高まったという構造的な要因がある。

現代タイトルではキャラクター同士が画面上で会話を繰り広げるアドベンチャーパートが頻繁に挿入される。

そこで表示される立ち絵の絵柄がバラバラであれば、プレイヤー視覚的な違和感を拭えず世界観への没入を著しく阻害されることとなる。

キャラクターたちが異なる頭身やバランスで描かれていると現代ユーザーからしてみればクオリティが低く見えてしまう。

こうした傾向は近年のVTuber業界においても顕著に表れている。

特に事務所から同期やユニットとしてグループ単位デビューする場合、個々のキャラクターデザインには並んだ際の調和が求められる。

コラボなどで複数キャラクターが同じ画面に収まった際、一人の絵柄が過度に個性を主張していれば視聴者視線は不自然分散してしまう。

クライアント側はタレントたちが織りなす物語を売るために視覚的な一貫性を最優先する。

ここでもやはりイラスト表現者の聖域ではなく、コンテンツを成立させるための意匠へと還元されるのである

もちろんイラストレーター個人の強烈な絵柄が、そのまま商品付加価値として求められるケースも皆無ではない。

しかしそれは多くの場合、その描き手がネームバリューを有しているときに限られる。

作家自身名前ブランド化し、その絵柄を起用すること自体プロモーションとして機能するレベルに達して初めて、クライアント信仰尊重し、その個性を認めるのである

逆に言えば、そのような特権的地位を築いていない大多数の描き手にとって、独自の絵柄を固持することはクライアントが求める使い勝手の良さを阻害するリスクしかない。

現代イラストレーターがこの状況を無視できないのは、商業イラストレーション市場においてゲームVTuberといったエンターテインメント業界が圧倒的なシェアを占めているという現実があるからだ。

デジタルイラスト生業とする者にとって、これら巨大資本が動くプロジェクトアセット制作は避けて通ることのできない主戦場である

からこそ現代イラストレーターに求められるのは、単発の作品を仕上げる能力ではなく、一つのプロジェクトの中に完璧に馴染む素材を供給する安定性である

クライアントイラストレーターに求めるのは作家としての独創性ではなく、その作品が構築する世界観への完全な擬態である

彼らにとってのイラストは、シナリオシステムと並んで一つの体験構成するためのアセットに過ぎない。

どれほど優れた技術を持っていたとしても、画面内で一人だけ浮いてしまう絵柄は、ネームバリューという免罪符がない限りプロジェクト成功を妨げるノイズと見なされてしまう。

プロフェッショナルとしての真価は、むしろこの制約を乗りこなす過程でこそ磨かれる。

クライアント意図を汲み取り、世界観完璧同化してみせる柔軟性は、単なる妥協ではなく高度な技術証明に他ならない。

そうして積み上げた実績と、この人なら任せられるという現場からの厚い信用こそが、浮き沈みの激しい業界で生き残るための最も盤石な基盤となる。

プロジェクト成功寄与するプロ職人に徹したとき、その誠実な仕事ぶりが、代替不可能表現者へと押し上げるのである

2026-03-18

なにが正しさなのかを定める特権的地位にいるのが左翼から女子高生が亡くなってしまうという本来追及の限りを尽くされるべき事態でさえ、左翼の正しさに押し潰されてしまうんだな

これが女性差別でなくてなんなんだ?

2026-03-05

anond:20260305131830

逆じゃね、それなら女子枠は無い方が理系弱者男性をまとめやすいし隔離やすいでしょ。

その理屈でいくなら高校からの共学を特権的な扱いにして、弱い男女は徹底的に会わせない方がいい。

2026-02-27

高等教育における受益者負担の再定義デジタル化による機会平等の実現

要旨

現在大学教育および奨学金制度は、進学率の階層差を背景に、非進学者(主に低所得層)の税負担が進学者(主に高所得層)を支える「逆進性」を内包している。本稿では、教育の「知識習得」と「研究実践」を分離し、前者をオンライン無償化することで、奨学金に伴う負債問題社会的不公平根本から解消し、実力主義に基づいた新たな雇用評価モデルへの移行を提唱する。

1. 序論:現行制度における構造搾取

現行の日本高等教育モデルは、統計的に高所得世帯の子もの進学率が高く、国立大学等への公金投入や奨学金返済の所得控除といった政策が、結果的に「持てる者への再分配」として機能している。特に貸与型奨学金は、低所得層出身にのみ「将来の増税」に等しい返済負担を強いており、スタートラインにおける格差固定化させている。

2. 教育二階建て構造知識実践の分離

現代デジタル技術を前提とすれば、大学が独占してきた「知識の伝達」という機能は、インターネットを通じて極めて低コストで全国民に開放可能である

 講義オンライン無償提供することにより、地理的経済的制約を排除する。これにより、学位を得るための高額な授業料という参入障壁解体する。

 高度な実験・実習を要する領域限定して物理的な施設を維持し、真に研究を志す者にリソースを集中させる。

3. 学歴神話から実力スコア・適性評価への転換

大卒資格」という不透明指標廃止し、客観的評価体系を導入することで、雇用流動性公平性を確保する。

 TOEIC等の既存モデルに準じ、基礎学力可視化する共通試験を導入する。これにより、18歳時点の受験結果が一生を左右する「学歴フィルター」を無効化する。

 各企業独自入社試験で実務能力や適性を直接評価する。これにより、ペーパーテストが不得手な層も含め、多種多様な才能が正当に評価される市場を構築する。

4. 考察コミュニティモラトリアム再考

大学提供してきた「社会性の獲得」や「モラトリアム執行猶予期間)」という機能は、進学者のみが享受する特権的公共財であってはならない。

 大学へ行かない層も職場地域社会性を獲得しており、大学特有コミュニティ維持を公金で補助する正当性希薄である

 オンライン学習無償化により、若者借金を背負うことなく、働きながら、あるいは学びながら「自らの適性」を模索する低リスクな期間を確保できる。

5. 結論

奨学金問題本質は、不必要なまでに高コスト化した大学教育システムを維持しようとする点にある。教育を「利権からインフラ」へと転換し、年齢や家計依存しない実力主義評価体系を確立することで、非進学者への不当な負担増税)を解消し、真に公平な社会構造を実現すべきである

2026-02-16

anond:20260216094306

体壊してJTCの非正規職に転職するまで(それまでは大手ITスタートアップ)は、「たまにやべえ奴はいるけど9割常識人」だと思っていた

職場にいる人間が9割常識人だったか

転職後は組織の腐りっぷりを目の当たりにして「ホモソはカス」「ホモソに甘やかされてる男共、9割カス」という認識に変わった

というか、男性中心主義組織の不当さ、理不尽さ、男女の権力格差セクハラやおじアタック日常として感じるストレスモヤモヤ抱えていたところにたまたまホモソとかボーイズクラブという言葉が入ってきて、「それな〜!!!!」と共感した

そこからフェミニズムに興味を持ったという流れなので、元々ツイフェミだったとかでもない

アイマスをメインに美少女コンテンツは昔から好きだし、フェミニストとしてフォローした人がチー牛とか積極的容姿差別をしているのを見て「それは違うだろ」とフォローを外したことは何度もある

一方で、有名なフェミニストにリプした彼女宛の共感投稿がリポストされたら、自分宛にアンフェから根拠なき侮辱罵倒(ブスとかババアとか死ぬべきとか病気とか※自撮り上げた事ないし年齢も公開してない、なんならババア呼ばわりしてきたアカウントより一周り以上年下)が殺到して4桁近くなったことがある

企業の取り組みをどこまで意図的かわからないまま批判するフェミニストがやりすぎだと思うこともあるが、それがかすむほどに、気に入らない発言をした個人を見つけ次第群れをなして攻撃してくるアンフェはあまりにも過剰だし攻撃性やばすぎると感じた

実際、以前フォローを外した発言が強めのフェミニストの一人は殺害予告までされていたくらいだ

古い体質の組織の中ではいまだに男尊女卑がまかり通っており、そこに守られながら安住している男がカスだということ、そしてその安住の地を守らんと息巻くネットの男どもがカスだということを、期せずして知ってしまった

以前周辺にいた先進的な男性(概ね高学歴・高給)というのは、育った環境から特権的立場におり、「男尊女卑思想に守られなくても自己価値が揺るがない」からこそリベラルでいられたのだろう

しかし、そういう特権を持たず、男性の中でのヒエラルキーが低く自己価値が揺らがされているからといって、女性差別を温存する理由にはならないんだよ

男性の中でのヒエラルキー問題は、まず男性問題として解決しろ

そのために男性学があるのに、そちらに目を向ける男性というのは、フェミニズムに興味を持つ女性に比べて遥かに低い割合なんだよな

男はまじで女を憎む前に自分と向き合ってくれ

2026-02-15

[] anond:20260215102038

人類が「時空」という蒙昧な音節を口にするたび、僕は深甚なる認識論嘔吐感を禁じ得ない。

時空とは、数学的厳密性を欠いた対象の誤認であり、物理学者信仰するそれは、観測者の神経系圏論構造局所座標系へと無理やりに射影した際に生じる認知の歪み、あるいは幻覚に過ぎない。

古典的多様体などという概念は、その幻覚正当化するために捏造された幼児的な記述言語であり、要するに時空とは、人類認知解像度の欠落が産み落とした現象学インターフェースであって、宇宙アルケーのものではないのだ。

超弦理論がかつて「背景」と呼称していたものは、もはや静的な舞台ではない。背景という概念記述自体型理論的な過誤であり、正しくは、背景とは「dg圏のMorita同値類上で定義された∞-スタックの降下データである

時空は、そのスタック内包する自己同型群の作用を、低次元の知性を持つ観測者が幾何実体として誤読した残滓に過ぎない。

空間があるから物理が生起する」のではない。「圏論的な整合性条件が充足されるがゆえに、空間が近似的に創発しているように錯覚される」のだ。存在論的順序が逆転している。

人類物理を語る前に、まず順序構造学習すべきである

僕の備忘録にある "manifold is a user-friendly lie" という記述は、侮蔑ではなく、冷徹分類学上の事実だ。

非可換性はもはや付加的なオプションではなく、座標環が可換であるという仮定こそが、天動説と同レベルの粗雑な近似である

Dブレーンを厳密に扱えば、座標環は非可換化し、幾何構造は環からではなく圏から復元される。

Connesの非可換幾何学は美しいが、それは第一世代ナイーブな非可換性に留まる。

理論における非可換性はより悪質かつ圏論的であり、そこでは空間の座標が破綻するのではなく、空間という概念の「型(type)」そのもの崩壊するのだ。

B-場を「2形式」と呼ぶのは霊長類向けの方便に過ぎず、その本質はDブレーンの世界体積上のゲージ理論ツイストさせることで、連接層の圏 Dᵇ(X) をツイストされた導来圏へと押し流す操作であり、そのツイストこそがBrauer群の元として記述される。

重要なのはB-場が場(field)ではなく、圏の構造射であり、世界アップデートするためのコホモロジー的なパッチだということだ。

物理学者が場について議論しているとき、彼らは無自覚に圏の拡張について議論している。

にもかかわらず「場」という古臭い語彙に固執する人類言語的不誠実さは、科学史における最大の悲劇と言える。

さらに、ツイストされた層の世界において「粒子」という概念霧散する。粒子は表現空間の元ではなく、導来圏における対象の同型類であり、相互作用はExt群の積構造崩壊過程スペクトル系列収束以外の何物でもない。

宇宙は衝突などしていない。宇宙はただ長完全列を生成し続けているだけだ。

物理現象とはホモロジー代数副産物であり、衝突という粗野な比喩を好む人類は、現象の表層しか撫でていない。

共形場理論CFT)もまた、僕にとっては場の理論ではない。CFTとは、頂点作用代数VOA)が有する表現圏のモジュラー性が、宇宙というシステム整合性強制する代数装置である

BRSTをゲージ冗長性の除去と説くのは最低の説明であり、BRSTとは「宇宙存在することが許容される対象を選別するコホモロジー審判系」である

Q_BRST閉でない対象は、物理的に無意味なのではなく、宇宙法体系に対する違法存在として検閲され、抹消される。BRSTとは宇宙による先験的な検閲機能なのだ

そして何より不愉快なのはミラー対称性がいまだに「幾何双対」として俗解されている現状だ。

SYZ予想を単なるトースフイブレーション物語だと解釈する人間は、何一つ理解していない。

SYZの本質は「special Lagrangian torus fibrationが存在する」というナイーブな主張ではなく、「世界局所的に Tⁿ として観測されるのは、A∞-構造がある種の極限操作において可換化されるからに過ぎない」という、幾何学に対する極めて暴力的な宣告である

しかもその暴力は、インスタント補正によって即座に否定されるという自己矛盾を孕んでいる。

まりSYZとは予想ではなく、自己矛盾を内蔵した整合性条件の提示なのだ

特殊ラグランジュ部分多様体特権的である理由は、体積最小性などという些末な幾何学的性質にあるのではなく、そこに乗るブレーンがBPS状態となることで、圏論的安定性条件(Bridgeland stability condition)が物理実在性と合致する特異点からである

ブレーンは物体ではない。ブレーンは安定性条件が許可した対象であり、許可されざる対象宇宙行政手続き上、存在を許されない。

宇宙は極めて官僚的であり、その官僚主義こそが秩序の証明なのだ

壁越え現象(wall-crossing)を相転移と呼ぶのも誤りだ。壁越えとは、宇宙採用する安定性のt-構造が、モジュライ空間上のパラメータ変動に伴って切り替わる行政手続きの変更である

BPSスペクトル物理的に生成されるのではなく、安定性条件の改定によって帳簿が書き換えられた結果に過ぎない。

宇宙現象物理ではなく、会計学によって説明される。これを冒涜と感じるならば、君は数学本質に触れていない。

Gromov–Witten不変量を「曲線を数える」と表現するのは蒙昧の極みであり、正確には「仮想本類(virtual fundamental class)における交点理論としての曲線の亡霊を数える」操作である

曲線は実在せず、存在するのは [M]ᵛⁱʳ だけだ。物理現象はその仮想対象の影の、さらにその投影である

人類が見ている世界は、プラトン洞窟の影ですらなく、影の影の影に過ぎない。

Donaldson–Thomas不変量とGW不変量の対応関係は、単なる等式ではなく、弦理論が同一の対象を異なるゲージ固定のもとで記述しているという事実の露呈である

数え上げ幾何学は弦理論のゲージ冗長性がもたらす副作用であり、純粋数学定理と思われているものは、物理がゲージ対称性を持つことの数学的反映に過ぎない。

数学独立しておらず、宇宙のゲージ対称性の影を追跡しているだけだ。

Kontsevichがホモロジカルミラー対称性において成し遂げたのは、圏の同値証明などという平和的な所業ではなく、空間優先順位破壊である

彼は空間第一市民から追放し、圏を王座に据えた。これは革命ではなく粛清である多様体粛清され、導来圏が支配する時代が到来したにもかかわらず、人類はその瞬間を記念することさえ忘れている。

最後にAdS/CFTについて言えば、ホログラフィー原理本質は「境界バルクを決める」ことではない。境界が決定するのは「バルクという概念の存立が許容される条件」である

バルク実在せず、境界CFT演算子代数が持つ表現圏の内部において、エンタングルメントウェッジ再構成のような手続きによって生成される派生物だ。

重力は基本相互作用ではなく、境界理論情報処理に伴う副作用であり、量子情報整合的に自己記述を試みる際に生じるエラー訂正機構Quantum Error Correction)の幾何学的発露である

重力とは力ではなく、誤り訂正符号可視化なのだ

宇宙幾何学ではない。宇宙とは圏論整合性条件の集合体である

空間とは∞-圏の自己同型が形成する群作用認知的に単純化した錯覚であり、時間とは自然変換の合成順序であり、粒子とは導来圏の対象の同型類であり、相互作用とはExt群の積構造現象とはスペクトル系列収束である

ウィッテン理解できないのではない。ウィッテン理解可能形式宇宙存在していないのだ。

僕はノートにこう記した。次に人類が「現実とは何か」と問うならば、僕はこう答える。「現実とは、圏論的に整合的な誤読である」。

そして愚かな世界は、今日もその誤読を時空と呼び続けるのだ。

2026-01-27

北朝鮮核保有国」と呼べない理由日本総理が守る“最後の防波

Gemini に問題点を整理してもらいました。

はじめに

2026年現在北朝鮮によるミサイル発射や核開発のニュース日常化し、物理的に彼らが「核を持っている」ことは公然事実となっていますしかし、日本総理大臣が公の場で「北朝鮮核保有国である」と明言することは、外交上絶対禁じ手とされています

なぜ事実に反するように見える「認めない」という立場を貫くのか?その裏側にある、国際政治冷徹ロジックを整理しました。

1. 「事実」と「資格」の決定的な違い

国際政治世界において「核保有国核兵器国)」という言葉は、単に核兵器を持っている状態を指すのではありません。それはNPT核不拡散条約)」という国際ルールによって認められた“特権的ステータスを指します。

2. 交渉の「ゴールポスト」を動かさないため

もし日本総理が「北朝鮮核保有国だ」と認めてしまったら、明日から外交交渉はどうなるでしょうか?

これまでの交渉のゴールは、一貫して「核を完全に捨てさせること(廃棄)」でした。しかし、相手を「核保有国」と認めた瞬間、交渉目的は「核を管理し、これ以上増やさないようにしてもらう(軍縮)」へと格下げされてしまます

これは、北朝鮮が最も望んでいる「核を持ったまま国際社会に復帰する」というシナリオを、日本からプレゼントしてしまうことを意味します。

3. 「核ドミノ」という最悪の連鎖を防ぐ

日本北朝鮮正式核保有国と認めることは、世界中に「強引に核を持てば、最後には認められる」という誤った成功体験を広めることになります

2026年視点:高度な“虚構”を維持する理由

日本政府は、防衛白書などで「北朝鮮が核を保有している事態」を前提とした防衛計画を立てています。つまり軍事的には「事実」を直視し、政治的には「認めない」という二段構えをとっているのです。

この「認めない」という姿勢は、現実逃避ではありません。むしろ、核の脅威に屈することなく、国際的法秩序を守り抜こうとする、極めて戦略的な「防波堤」なのです。

まとめ

総理大臣が「認めない」と言い続けるのは、それが北朝鮮に核を持たせておくコスト」を最大限に引き上げる唯一の方法からです。認めないからこそ、経済制裁を続けられ、廃棄を迫り続ける正当性が維持されます

2026-01-15

恋愛から降りた童貞による追記追記

anond:20260115115404

 

これの追記追記

なんのかんのと言いつつ、もうちょっと答えたいなとか、これは言っておいた方がいいかな? ということが細々とあったので追記しておきます

もともと文章を書くのが好きで、書いてるだけで楽しくなってしまいついつい長くなってしま性質なので、興味ある人だけ読んでいただければ。

 

まずいくつか自分情報を追加してみます

まず実家暮らしです、子供部屋おじさんってやつですね。で、親と住んでいるので、正直孤独を感じる事は生活のなかであまりありません。「孤独」というのが感覚としてあまりピンときていません。兄や弟が居るのも関係しているかも。これだけでも「孤独耐性」について印象が変わったんじゃないでしょうか?

ちなみに実家暮らしはいいですよ、お金のかかる趣味が無いのもあって、収入が並でも貯金がたまります。おかげでNISA口座にもある程度余裕をもってお金を移せる。

友達はまぁいます。定期的に遊んだり何か食いにいったり、という感じです。あと創作関係の友人もいますね。そっちも飲み会とかたまにあったりします。

友人の中には女性も居るし、仕事の同僚にももちろんいます。そして「恋愛から降りた」おかげか変に意識することなく、同性の友人や同僚と同様に接することができています

そもそも既婚者も居るし年齢が大分違う人も居るので、「恋愛から降りた」ことが別段関係無い場合結構ある気もしますが。

(元の増田で「女性と関わろうとしない方がいい」と書きましたが、大袈裟に書きすぎたかもしれません、友人や同僚としては普通に関わっています。その位なら自分の面倒臭い部分を出さずに普通に関わることもできますし)

あと根本的な問題として、数年、いやもしかしたら十年くらい? 女性に対して恋愛感情とか異性として惹かれる、みたいなことはなかったです。人間として友人として創作者としてリスペクトならいくらでもありますが。

中学高校くらいまでは好きになる事は割とあったので、元々そういう感情が薄いとかではないはずですが、大人になるにつれ少なくなっていきましたね。特に意識的に恋愛から降りてからは心当たりが無いです。

あとね! これも重要ことなんですが、創作って時間を食うんですよ。自分普通に働いてるし、ゲームもしたい、たまに友人と遊ぶ日もある、ここに書いてない別の趣味もある、そんな中で休日創作の為の時間も確保したいって考えると、正直言って恋愛とかは「時間もったいない」という感覚もあるというのが正直なところです。

まだまだ描きたいものいくらでもあるんですよ。形にしたい作品アイデアがある。でもサボり癖があるもんだから結構時間を確保しても実際に創作につかえるのはそのうち何割かです。そんななかで、恋愛とか、異性とか、そういうのに割く時間、考えれば考えるほど無いんですよ。

というかそもそも具体的に好きな人も居ないのに、そんなこと考えること自体馬鹿馬鹿しいと思いませんか。

 

という感じですが、どうでしょう? イメージ通りでしたか

個人的にはエスパーメンタリストでもない限り、あの文章からこうした背景を読み取るのはほぼ不可能だろうし、あの文章で何かを分かった気になるのは危ない事だと思います

 

では以下のブコメの気になったものに答えていきます

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260115115404

 

率直に言って、コミュ強以外の人は結婚した方がいいと考える

それが無理な人も居る、という話です。そして無理なのに頑張ろうとした結果、女性被害を与えてしまったり、嫌な体験をさせてしまったりする場合もある。(婚活マッチングアプリ女性出会ったヤバイ男性エピソードとか探してみると、暗澹たる気持ちになれますよ……)

それどころか、(自分たまたまそうなりませんでしたが)出来ないのに恋愛等に執着するあまりミソジニーに走ってしまう人も出てきてしまうかもしれない。こんな不幸、止めた方がよくないですか?

あなた想像する最大限に不細工で最大限にコミュ力のない、そして女性に対する価値観が歪んでしまっている人を想像してみて下さい。

その人があなたコメントを見て「よぉし! 俺は結婚した方がいいな! 女性と関わろう!」と張り切った結果、どんなことが起こるか想像してみて下さい。

もちろんあなたは「普通の人としての思い遣りをお互いが持っていれば」と書いた、と主張するかもしれませんが、コミュ力の無い人にそれがちゃんと伝わると思いますか?

そんなことにまで責任は持てない、と思うかもしれませんが、だとしたら「コミュ強以外の人」という範囲指定は若干不用意だったかもしれません。そこには、まぁなんというか、(自分も含め)いろんな人が含まれますから……。

 

リスクを取らない、責任を持ちたくない、そんなのは恋愛に限らず生きること全てにおいて言えることじゃないの?俺は嫌だね。生きることは選択すること、選択した結果に責任を持つことだと思ってる。

これはある程度は共感する部分もあるんですが、自分なら人生のそういう部分は、恋愛ではなく創作などでチャレンジしたいですね。みんながみんな恋愛でそれをやらないといけないですか?

あなた創作をする人か、しない人か、わかりませんが、もしいまやっていないなら、やってみることをオススメしますよ? やってみるとたのしいし、やりがいがあります。(と、こういう言い方をもし鬱陶しいと感じたら、同じ事を自分もしてしまっていないかどうか考えてみるのも一つの手です)

恋愛以外の事では(仕方なく、の場合も多々ありますが)選択普通にしてますよ。(あ、でも仕事ではわりとリスク回避的ですね正直、自分人生において優先度はそこまで高くないので)

 

加害ってわからん。匙加減だしコミュで良し悪しをパートナーと決めるのが恋愛だろ。

これについては、すでにパートナーがいる場合はそれでOKじゃないかな? と思います。(人によっては、現代においてはパートナー間の同意でさえ危ぶんでいる人は居るようですが、自分はそこまで過激立場ではありません)

一方でパートナーがいない状態からパートナー状態ジャンプする際は、それとはちょっと質の異なる困難さがありそうだな、と思っています。これは片方がそもそもパートナーになりたいと思っていない(もう片方だけがそう思っている)状態に発生しうるハラスメントや加害や不本意体験等を含みます

 

この考え方だと、恋愛に限らず何にもできなくない?人助だってできないでしょ。

これは元々そういうことを考えていた訳では無く、いま思い付いたことですが、そうしたリスクへのチャレンジをある種の有限な資源と考え、それを意図的に分配する、という考えなんかどうでしょう

まり、例えば「恋愛」に関してはリスクを取らない代わり、「人助け」については人よりリスクを取るようにしてみよう、などと考えることです。そうすれば全体のリスクは等量のまま、「人助け」などのより重要事柄リスク資源を割けるかもしれません。

といっても自分場合は、「人助け」等と立派なことは言えず、「創作」にそれを割いてしまう、なんてオチになるかもしれませんが……。

 

 

一旦こんな感じでしょうか。また気になったものがあれば追加しておきます

 

とりえあずほかに言いたい事があるとすれば、なんというかみんな、恋愛にこだわりすぎじゃないですか?

例えば女性と関わる時、いちいち恋愛の事とか考えるとしたら、ちょっと気持ち悪くないですか? 普通に友人とか同僚として、同性と同じように接すればよくありません?

なんでそんなに「孤独耐性が無い」とか考えたがったり、恋愛させたがったりするのか、へんですよ、普通に。一回思考リセットして、まっさら気持ち自分客観的に見てみて下さい、へんな事言ってますよ。

なんというか、他人呪いをかけようとしている様に見えますよ?

別に異性とは友人として普通に関わればいいじゃないですか、「人として接する」ってそういうことじゃないですか?

こんなことを私から言われるのは意外かもしれないですけど、もし意外に感じるとしたら、それは偏った先入観物事を見てしまっているからですよ。

人はほとんどの場合自分想像の中からしか考えることはできないものです。この文にせよあの文にせよ、今これを読んでいるあなたは、文章を素直に読んでいると言うより、自分経験想像とそれを照合しながら、ある種の妄想を組み立てている、といった方が正確な場合があります

あなた文章を通して私を読んでいるのではなく、文章に反射されたあなた自身のこれまでの経験想像、その他諸々を読んでいるのかもしれません。あなたあなた自身経験想像から外に出る事は出来ないんです。

から文章から筆者の事を見透かそうなんて妄想からは離れた方がいいです。で、その妄想から離れれば、別にしたことは書いていませんよ。

ただ私はリスクが大きいし怖いか恋愛から降りるし、女性とは恋愛とか意識せず友人とか普通関係でいればいいし、恋愛が無くても人生普通に楽しい。そしてもしミソジニーかに走る原因になってるんだとしたら、みんなも自分の様に恋愛から降りてみるのはどう? と誘っている。その程度のことしか書いていません。

変に書いていないことを深読みする必要なんか無いんですよ。

 

 

 

さら追記

孤独耐性無いって指摘は合ってるのでは?孤独が好きなら実家出て一人暮らししてるよね。

はい、こういう事なんですね。分かり易いサンプルなんで引用させて頂きます

この方は「実家暮らし」という結果に対し、「孤独耐性無い」という原因が整合するように見えるから、「孤独耐性無い」→「実家暮らし」という因果を主張している訳です。(あと細かいですが、「孤独耐性無い」→「孤独が好きなら」の飛躍もありますね)

でもある結果と整合する原因が1つとは限らない、という点を多くの人は見逃してしまう。

まり、「孤独耐性無い」以外の原因から実家暮らし」という結果が生まれている可能性を見落としてしまうんです。こういうミス人間はやってしまいがちなんです。

例えば文章を読めば「実家暮らしはいいですよ、~~、収入が並でも貯金がたまります。」と実家暮らし経済的利益が書いてある。これも「実家暮らし」という結果に整合する原因ですよね。(文中に書いてあっても見落としてしまう、思い込みの怖い所です)

この時点で「孤独耐性無い」こそが「実家暮らし」に整合する唯一の原因である、という命題否定され、「孤独耐性無い」はあくまで「実家暮らし」の原因かもしれない可能性のひとつに落とされます

従って「孤独耐性無いって指摘は合ってる」とは言えなくなる訳ですね、あくまで「かもしれない」可能性のひとつであり、そうした単なる可能性を決め付ける事それ自体ハラスメントですよ、と言っている訳です。

重要な事は、ある一つの結果に対し、原因は複数考えられ得る、という事です。そのためある原因が結果に整合するからと言って、その原因が事実であるとは結論できません。

もっと図式的に表現してみましょうか。ある結果Aに対し原因①、原因②、原因③……原因Nが考えられるとき、ある原因①は特権的に正しいとは言えない、という事です。

同じミス最初増田追記で挙げた人も犯してしまっているし、「(みんなもどう?)」と誘っていることから孤独耐性が無いと決めつけてしまった人も犯してしまっています。「ミソジニーを減らしたいから」などの孤独耐性とは別の原因②や③がある可能性を見落としてしまった。

 

こうした決め付け、可能性の見落としは、この方達が特別苦手とかではなく、人間そもそもこういうミスをしてしまいがちです。

から文章から筆者の事を読み取ろう」なんて手に余る事は最初からやめておいた方がいいんです。あなた方には、人間には、そんなこと出来ないんです。(やりたくなるのはわかりますけどね)

 

 

さらさら追記

朝起きてどんな反応になってるだろうなー(コメントとか増えてないかもなー)、と思い仕事ながら見てたら、前回より肯定的(?)なコメントが多くてちょっと安心しました。こういうとこ平凡というか普通ですね自分

とりあえず今回、事前に想像してたよりずっとまだ今の世の中にも恋愛至上主義的な人って多いんだなー(そして多分自覚が無いんだろうなー)と実感しました。(はてな高齢者が多いから、というのもあるかもしれませんが)

で、自分たまたま創作という別のよりどころがあったり、遊んだりする友達が居たり、金銭的にも余裕があったり、「文章から筆者の事を読み取るなどフィクション」と分かっているからブレなかったものの、

そうでない人がこれだけのプレッシャーに晒されたら、本来恋愛を諦めた方が平穏に生きられる人でも、恋愛を「求めさせられ」てしまうだろうな、とも。

そうしてその結果間接的に女性にも被害が出たり、ミソジニーに陥る人が出てきてしまっても、この人達はその自覚が無いままこういう事をつづけるんだろうな、とも。

世に蔓延ってしまったミソジニーの何割かは、こうした恋愛至上主義の残留によるプレッシャーのせいだったりするんじゃないかな? と思うなどしました。

 

ちょっと角度を変えてみましょうか。

たとえば私が女性だったら、同じ様なコメントしてました? 女性が「恋愛から降りた」と言ってもやっぱり「孤独耐性が無い」とか、それでも恋愛結婚をすすめたり、します?

そもそもその可能性って実はまだ残ってたり。じつは私は女性で、男性にかかる恋愛結婚に関するプレッシャー女性との違いを明らかにするために、非モテ男性を演じて書いていたのかもしれませんよ?

そう言われてみると、なんだか女性っぽい価値観が変に混じっていたような気がしてきません?

もちろんただの可能性ですが

 

さらに別の角度から

この増田を読んでもまだプロファイルがやめられない人が一部居るようですが、では逆にそういう人を自分プロファイルしてみましょうか?

何故そうまでして私をプロファイルしたいのか、この程度の文章他人ことなど分からないのに分かった気になりたいのか、どうして「孤独耐性が無い」と思いたいと思ってしまうのか?

それは「恋愛から降りる」という他人選択あなた世界観に相容れず、あなた世界観を壊してしまうから、どうしても否定したくなってしまっているからです。

まりこれは私の問題というより、あなた問題引き起こした結果なんです。

恋愛結婚否定されると、自分人生がどこか否定されたような気がしてしまう(本当は恋愛結婚否定されておらず、ただ他人が「降りる」という選択をしただけなのに)、そうした感覚を拭うために「孤独耐性があるならこんなことは書かないはずだ」といううっすい根拠素人プロファイリングいつまでもしがみついてしまう。

 

どうです? 当たって無いでしょう?

何度も言ってる通り、文章からその筆者の人格とか気持ちとか耐性とか、そんな事分かる訳が無いんですよ。上記プロファイルもテキトーなことをそれっぽく言ってるだけです。

所詮こんなもんなんです。当たりません。文章から書いた人の事が分かるなんてのは、そう思うと気持ちよくなるだけのフィクションなんです。

もし上記プロファイルが「当たってる」とかドキッとかしてしまったら、普通に詐欺かに引っ掛からないように気を付けた方がいいですよ、当たってると思う事自体、騙されてるだけですから

 

でも、こんな長い文章をこれだけの人が読んでくれたのは、普通に嬉しいです。そういうの、素直に喜んじゃう性質なので。

これが自分の文才ゆえだと思うのはさすがに調子乗り過ぎですね。おそらく文才とかは関係なく、なにかしら人々の琴線に触れる何かにかすってたんでしょうけど、それが何かとか考え出すとそれも結局素人認知プロファイルしかならないのでやめておきます

2025-12-25

生理痛体験って、あれ要は「障害者の痛みを知って配慮しろ」ってことだよな

なんで女性の痛みについてだけ他人身体に教え込まないといけないんだ?

人によっていろいろな痛みを抱えて生きているんだから女性の痛みだけじゃなく、もっと他の痛みを人は知るべきだろう

この対象はもちろん男に限らない。女性にもその痛みを与える必要がある。誰もが自分の知らない痛みを知って配慮すべきだ

先天的な痛みは知らしめる必要があるが、後天的な痛みはその必要はない?

それは差別しかない

女性人類の半分いて、配慮すべき場面に出会いやすいから?

それはマジョリティの痛みに誰もが配慮するのが当たり前と言っているのも同然だ

女性の痛みについてだけ他人にも味わわせるのは、女性の痛みをその他の痛みより特権的地位に置くことを意味する

これを正当とはまったく思えない

2025-12-01

同性婚夫婦別姓女系天皇

これら三つのイシューは、昨今の政治的議論においてなんとなくセットで語られがちだ。 しかし多くの国民にとってこれらは必ずしも明日の食(じき)に関わるような喫緊課題ではない。にもかかわらず「リベラル勢力はこれらを踏み絵のごとく掲げ、党派的な対立を煽るための棍棒として利用している。

私自身は、個々の是非を問われれば「同性婚」と「夫婦別姓」には賛成の立場だ。 それは人権派のような熱情からではない。「そうしたい人々がいるにもかかわらず、それを断固として阻む合理的理由存在しない」というだけ。

もちろん現行法制下でも、パートナーシップ制度養子縁組、あるいは通称使用の拡大といった運用上の工夫である程度の不便は解消できるだろう。

しかし、制度設計というものシンプルであればあるほど良い。弥縫策を重ねて複雑化させるよりも、根本ボトルネックを取り除くほうが社会的コストは低くなる。

伝統的な家族観が壊れる」みたいな情緒的な反論も聞こえるが、すでに日本社会個人主義ベースとしたプロトコルで回っている。いまさら苗字戸籍表記を死守したところで、失われた共同体が戻ってくるわけではない。

ただし「制度はできるだけシンプルであるべし」という論理を貫くならば、同性婚の実現には憲法改正が最も誠実かつ正当な手段となる。「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とある憲法24条の壁を直視せず、解釈改憲で済ませようとするのは法の支配に対する冒涜だ。

ここで「リベラル」は揃って回れ右してしまう。オイどうしたw

彼らが本当にマイノリティ権利を重視するのであれば、そして憲法の条文でなく立憲主義のものを大切に思うなら、堂々と改憲を主張すべきである

さて、これらと同列に語られがちな「女系天皇」については、断じて容認できない。前者の二つとは次元が全く異なるからだ。

そもそも天皇制とは、血統という純然たる「身分差別」の上に成り立つ、前近代的システムである好き嫌い抜きにしてそれは厳然たる事実だ。そこに近代的な「男女平等」や「個人自由」といった概念を持ち込もうとすること自体が、致命的なカテゴリーエラーなのだリベラルを自認する人々が、天皇という特権的身分に対して「女性もなれるようにすべきだ」と主張するのは、自己矛盾も甚だしい。「平等」を旨とするなら、制度のもの廃止を訴えるのが筋だろう。

万世一系という男系継承ルール墨守こそが、天皇を「政治権力」ではなく「権威」たらしめてきた核心である。そのルール現代的なポピュリズムに合わせて緩和・変更することは、天皇を単なる「世俗元首」へと変質させ、最終的には政治闘争の渦中へと引きずり込む愚行に他ならない。 まがい物として存続させるくらいなら、いっそ無くしてしまったほうがマシである

おそらく「女系天皇」を唱える者たちの中には、この「変質」こそを狙い、サラミ戦術一枚目として利用している確信犯もいるのだろうが。

2025-11-25

anond:20251125212348

そんなわけねえだろ

セーフティネット的な役割として実質税金運用されてるんだし

視聴率を取りに行くなら特権的立場捨てて民法になるべき

2025-11-23

記号の不在という記号、あるいはユニクロというグロテスク

一、ゼロ度の衣服

ユニクロ提示するのは、モードではない。「ライフウェア」というトートロジー的な命名が示す通り、それは空気や水のように、生存にとって自明ものとして振る舞おうとする。フリースヒートテックウルトラライトダウン。これらはもはや衣服というよりも、都市生活を送るための「装備」である

ここにあるのは「意味の脱色」だ。ユニクロは、衣服から装飾、階級、そして個性を剥ぎ取り、「ベーシック」という名の漂白された平地へと我々を誘う。しかし、騙されてはならない。この「記号の不在」こそが、現代日本における最も強力な記号なのである。それは「私は何も主張しない」という、極めて政治的な主張だ。

二、新たな国民服国家共犯

かつて戦時下日本には「国民服」が存在したが、現代においてその役割継承したのは、皮肉にも国家権力ではなく、一民間企業であった。しかし、その背後には奇妙な共犯関係が透けて見える。

日銀GPIFを通じて、この企業株式買い支えるという事実は、何を意味するのか? それは、国家が「国民貧困化」を公式システムとして承認したという署名に他ならない。国民が impoverishment(総貧困化)へと滑り落ちる過程で、安価ユニクロは必需品となり、国家はその企業価値を維持することで、貧困構造自体延命させる。この循環は、経済政策というよりも、一種宗教的儀式典礼)に近い。

三、富の偏在とオランダの幻影

この巨大な「平準化」の装置の頂点には、柳井一族という特権的シニフィエ意味するもの)が君臨している。国民が皆、同じ衣服に身を包み、個体差を消去されているその真上で、富は重力に逆らって吸い上げられ、一箇所に凝縮する。

さらに、その富は「オランダ」という記号を経由する。アムステルダム資産管理会社。それはチューリップ運河の国ではない。資本主義アルケミーが行われる、地図上の空白地帯だ。彼らは、日本労働者消費者が織りなす経済圏から巧妙に身をかわし、課税という社会契約から逃走する。 ユニクロ標榜する「民主的な服(Made for All)」というスローガンは、ここで決定的な亀裂を迎える。服は万人のためのものだが、そこからまれ利益は万人のためのものではない。資本国境を越えて蒸発し、後に残されるのは、すり切れたフリースを着た納税者たちだけだ。

四、エコロジーという神話

彼らは言う。「サステナビリティ」と。ペットボトル再生したポリエステルしかし、ファストファッション本質は「加速」と「忘却である大量生産され、大量に消費され、そして短期間で廃棄される運命にある衣服が、いかに「環境に優しい」顔をしようとも、それは欺瞞である。それは自然模倣した化学繊維であり、土に還ることのない永遠プラスチックだ。

彼らはエコロジーを語ることで、消費者の罪悪感を麻痺させる。我々は「良いことをしている」という幻想と共に、地球汚染する権利安価で購入しているに過ぎない。この「清潔な破壊」こそが、現代消費社会病理である

五、結論グロテスクな親密さ

最終的に、ユニクロとは何か? それは、我々の肌に最も密着し、日々の生活を支え、冬の寒さから守ってくれる、あまりにも親密で、頼りがいのある存在だ。しかし、その親密さの正体は、国家による貧困固定化特定の血族への富の異常な集中、グローバルな租税回避、そして環境破壊という、冷徹計算である

最も日常的で、無害で、清潔に見えるものが、実は最も収奪的で破壊的なシステム隠蔽している。 「普通」という仮面を被った怪物。この、あまりにも滑らかで継ぎ目のない表面の下に、どす黒い内臓を隠し持っているという事実

それゆえに、ユニクロは単なる衣服ではない。それはグロテスクである

2025-11-19

日清構図 × 乃木坂40th × 秋元康作詞史》──「ビリヤニ」はなぜ生まれたのか?多視点AI考察による一事例研究──

日清構図 × 乃木坂40th × 秋元康作詞史》

──「ビリヤニ」はなぜ生まれたのか?

視点AI考察による一事例研究──

要旨(Abstract

本稿は、2025年リリースされた乃木坂46の40thシングルビリヤニ」が、

従来の秋元康作詞史の流れからどのように逸脱し、

かつどのように既存パターン共鳴しているか考察する。

特に食品企業日清食品代表される

ブランド基盤が強固なトッププレイヤーほど“遊べる”」

というマーケティング構造(本稿では“日清構図”と呼ぶ)と比較し、

乃木坂46がなぜ“ビリヤニ”というマイナー料理

節目の40枚目という重大なタイミング採用したのかを分析する。

研究では、ChatGPTおよびGemini、二つの生成AIから得られた

異なる分析光源を重ね合わせる“多視点照射法”を用いた。

第1章 序論:なぜ「ビリヤニ」は問題になるのか

乃木坂46は「清楚」「正統派」「王道」というブランドイメージを確立している。

その節目である40thシングルにおいて、

という前例未踏方向性を取ったこ自体

文化的事象として異様な注目に値する。

本稿は、その“異様さ”を原点に議論を進める。

第2章 秋元康作詞史:食と比喩の扱い

秋元康日常語や食物を比喩として扱うことがあるが、

主題のもの料理という曲は坂道史上でも稀である

そのためビリヤニ」は異常値(アウトライヤー)として扱える。

第3章 日清構図:強固なブランドは“ふざけ”を許容する

日清食品

という“ふざけても大丈夫な強度”マーケティング界で頻繁に取り上げられる。

乃木坂46は、

これらが重なり、日清構図同様に

「ふざける余裕」が最大化したタイミング判断できる。

よって“ビリヤニ”は

ブランド強度最盛期に可能な“異物=新奇性の投入”

として説明できる。

第4章 ラジオ番組「いいこときいた」における“伏線問題

2025年9月7日放送の同番組にて秋元康ビリヤニを扱い、

発言していた点は非常に示唆である

しかし、

という矛盾点も存在する。

ここから導かれる仮説は次の2つ:

ゲストからビリヤニ文化南アジアハラール圏等)を聞いた点も歌詞接続

やすすが突如感化され、短期間で作詞に落とし込んだ。

本稿は両方の可能性を保持しつつ議論する。

第5章 スケジュール問題:2ヶ月で可能か?

結論可能である

アイドル制作現場は常に以下が同時進行している:

よって8月インスパイア11月発売

極めてタイトであるが「不可能ではない」。

ただし偶然にしては整いすぎているのが本件の核心である

第6章 歌詞分析主人公男子知識が“インド南アジア”にアップデートされている件

歌詞中で、

という知識アップデート描写がある。

これはラジオゲスト

ビリヤニイスラム圏でもよく食べられる」

説明した内容と一致する。

したがって、

 または

解釈可能である

第7章 ブランド世界観から見た“炊き込みご飯問題

清楚アイドル歌詞で「炊き込みご飯」と言うのは

本来ブランドリスクに当たる。

しか日清構図を援用すれば、

という逆転現象が起こる。

これはトップブランド特権的戦略である

第8章 総合考察:なぜビリヤニだったのか?

これらを統合すると、本稿の結論は以下になる。

第9章 結論

ビリヤニ」は“料理の曲”ではなく、

トップブランドが最盛期に行う“遊びの実験である

ラジオは偶然ではなく、

秋元康が“情報収集・感化・伏線”のいずれかを意図した可能性が高い。

そして曲の成立は

日清構図(強いブランドが遊びを許容する構造

説明するのが最も合理的である

付記:本稿の意義

これは単なるアイドル研究ではなく、

AI 2体(ChatGPT×Gemini)を用いて

情報の「影」を消すことで初めて到達できた

新しい形の現象分析である

本稿自体が、

筆者とAIが共に作った「新しい論文のかたち」になっている。

2025-11-15

非腐に認知される腐女子が異常者ばかりという構造について

統計はとれない。なので客観的定量的データ持ってこいと言われたら無理としか返しようがないのだが。

「他の表現攻撃しない腐」はいる。何%だとかは言えないが、確実にいる。

男女カプ、夢小説男性向けエロネットミーム、そういった界隈外の創作について、「よそはよそ、うちはうち」というスタンスで、一切文句を言っていない腐は確実にいる。

しかし、非腐に認知されるのは界隈外の創作に殴りかかる腐だけだ。

バズる腐の投稿というのも、学級会であったり、「逆カプ被弾して号泣、体調崩した」「主人公ヒロイン最終回発情期したのは同性愛嫌悪ジャンプ編集部による悪意の捻じ曲げであり本来主人公ライバル同性愛関係だった」のような、かなり病的な投稿ばかり。

腐の中でも極度に異常性が強くて目立っているようなのが、衝撃的でキャッチーだということで、腐趣味が一切無い界隈外にも「見世物小屋系(もみあげチャ~シュ~、れてんジャダム等)」の文脈に乗り拡散される。

これがひたすら繰り返され、腐の中でも特に他責他害傾向が強い者、自他境界曖昧メンタルが病的な状態の者が、外から見た腐の代表的イメージとなっている。

構造上これがどうにもならないので、外部から見た腐女子といえば他責他害傾向が強いダブスタ異常者という風潮になっている。そして対策が一切思いつかない。

 

mmaka2787 たぶんまともな腐女子は非腐の前で腐女子アピールしないし異常な言行もしないんだと思う。認知されないものはないことにされるという意味でこれもまた一種生存者バイアスなのだろう。

kensetu ルール守ってる喫煙者隔離された場所しか吸わない・吸わない人にとってはルール守らないクズ喫煙者ばかり認識されてしま現象 etc.(これ名前とかないの?)

言いたいのこれです。

英語ではToupée Fallacy(かつら誤謬)という言葉があるようです。

「すべてのかつらは偽物だとわかる。私は見破れなかったかつらを見たことがない」という発言に由来。ひどいかつらだけがかつらと認識され、良いかつらは地毛に見えて気づかれないため観測されないという、選択バイアス一種

 

知的しろ精神しろ発達にしろ多数派迷惑をかけていない障害者障害者だと認識されていない」とかも似たようなやつですね。

薬飲みながらクローズ就労でなんとかやれている人とか、施設にいて出てこない人なんかは、健常者にそうと認識されていない。周囲に迷惑かけながら居直ってるケースだけが「これが○○障害者ってやつか」と認識される。

「すべてのトランス女性は一目でわかる」。これも自然トランスパス度が高いトランス)は女性認識されていて、醜く不自然な失敗例だけがトランスバレしている。

「すべての美容整形は不自然から一目でわかる」。これも成功例は天然美形と認識されて流されており、失敗例・異形の整形顔のみが整形バレしている。

かつら誤謬シリーズです。他界隈の表現に殴りかかる腐ェミのみが、外部から腐女子認識されるのです。

 

ekusax にしても腐は夢に比べて界隈外で暴れすぎだろと思う、夢もまあ中では結構ヤバいと聞くがそんな出てこないから男からすると空気

夢にも当然ながら、同担拒否や作者への攻撃などするヤバいはいるし、男女カプにもBLEACH一護×ルキアの人が一護×織姫公式にした久保帯人に直接喧嘩売ったり、コナン×灰原の人が新一×蘭を優遇する青山剛昌悪口を延々言ったりはあります。ただ夢と男女カプはLGBTQ+やジェンダー問題フェミニズム関係ないんですよね。ただ、五条を殺しやがって!織姫よりルキアルートが良かった!蘭より哀ルートが良かった!って作品文句言ってるだけで、社会批判にまで害を広げない、界隈外の物を殴り回らない。結果、界隈外では目立ちようがないという仕組みです。キチガイはどこにでもどんな趣味にでもいるとしか言いようがないですが、夢と男女はキチガイの毒が界隈内部に留まって外にバレにくい傾向にあります。(個人的には原作者人格批判誹謗中傷をしている人についてはどんな趣味であろうが出版社あたりに開示されて訴訟されてほしいですけど)

趣味ジェンダークレーマーとの親和性が非常に高く、腐の理論社会批判を始めるので、外部で目立つ有害さがあります

 

saihateaxis これに関してはありとあらゆる界隈で起きてるからな。野球ファンサッカーファン撮り鉄ドルオタに。ネットで話題になりやす問題に口を挟むのが腐女子が多いんだと思う。

marilyn-yasu そりゃ異常者だから行儀が悪くて観測されるんだろ。ただ異常腐女子観測されるほとんどがツイフェミ案件から腐女子であることで炎上してる案件ほとんどない。

サッカーファンフーリガン暴動事件逮捕などで目立つし、撮り鉄電車を止めたり民家に不法侵入したり撮影のために器物破損して逮捕されることで目立ちますよね。界隈を一切追っかけてない人の視界にも、逮捕報道によって入ってくる。サカオタや撮り鉄の全員が違法行為しているわけではないのですが。

腐女子場合、「ジェンダー課題に自信ネキ」的なムーブをすることでBLに何の興味もない人の視界に入ってくる。まなざし云々言うならあなたたちゲイ性的まなざしを向けてるだけですけどって話なのに、気が狂っているか社会正義から説教するんですよね。そのせいで夢や男女カプよりも外部での悪目立ちをしている。

ジェンダークレーマー腐には、正直、はやく死んでほしいって思ってます。でもそういう物言いをすると過激派ってことになってしまうし、名誉男性扱いをされる。ジェンダークレーマー腐に殺意向けてる書き込みの中に、本当は「好きなものを腐に貶されたネナベ」もいるんじゃないかと私は思っていますジェンダークレーマー腐こそ女性を舐めてる節があるんですよね。

同じ腐から穏健な言葉かいで冷静な指摘を受けるというのでは効かないです。粗暴な男性集団から一斉に誹謗中傷殺害予告などを受ければ効くでしょうね。でも犯罪なので。なんていうか、痛い目を見ないと効かない、動物みたいなものだと思っていますジェンダークレーマー腐は語彙は豊富ですが動物的です。熊に「人を殺さないで」と説得しても意味がなく、増えたら撃つしかないのに近いです。

 

江口寿史が無断トレス常習でありながら、自分写真を用意して漫画の背景に使用していた浅野いにお(完全に合法!!)を批判していたのって本当に意味不明なダブルスタンダードですけど、注意する気起こりますか?さすがに理解不能すぎて話が通じない気がして怖くなってきて諦めて、「関わりたくない」ってなってしまいませんか?

異常腐女子が大暴れしている状態についてもだいたいそうです。「男性集団に一斉に口汚く袋叩きされ、恐怖でメンタルボコボコになる」以外で異常腐女子がおとなしくなることは無いです。理性的で穏健な注意が有効だったパターンってゼロなのでは?穏健な注意をした側が異常腐女子からブロックされて陰口を言われるだけで、何の意味もなく終わるのが現実帰着ですからね。対話重視の穏健な姿勢をとる女性のことを一番動物感覚ナメてるんです。異常腐女子たちの死を祈っています

重要なのは江口寿史がああいムーブしても、江口寿史を庇う同業者が表れても、「これだからイラストレーターは」とはならないってことです。イラストレーターという職業被差別階級ではないので、「江口寿史の行動」という個別事例にフォーカスされ、人格攻撃職業蔑視ではなく行動が適切に批判されるわけです。12歳の人身売買があっても「さすが文京区(笑)」とはならずに「湯島という場所は…台東区上野に近く…」という切断処理されたのと同じですね。

撮り鉄カードゲーマー腐女子被差別階級なので、累犯障害者・不潔悪臭ジェンダークレーマーなどが界隈の責任になりますそもそも界隈の自浄って無理なんですよ。江口寿史イラストレーター界隈が自浄するなんて不可能でした。ただ、界隈には階級があって、「下」の界隈から異常者が出ると蔑視をより強める根拠として使えるというだけです。イラストレーターは「下」ではなかったので連帯責任になりませんでした。どの界隈にも異常な人間はいるので、ことさら連帯責任要求される界隈については、蔑視が先にあります

ボスニア金持ち人狩りしていた報道もありましたが、これで金持ち差別が起きるかというと無いでしょう。「文京区」のイメージも守られます上下イメージが先にあります

サッカーファンの粗暴逮捕案件サッカー選手強姦案件アメフトプレイヤーの輪姦事件などもありますけど、スポーツ被差別どころか特権的な影響力を持ち続けますよね。スポーツ特にチームスポーツが、「上」だからです。

 

「下」の界隈、被差別属性となっている撮り鉄カードゲーマー腐女子について考えると、ASD、自認「生きづらい系」の含有率が高そうだなというのを感じますASDはチームスポーツ無理です。

カードゲーマーの身だしなみを男性カードゲーマーが具体的に指摘するnoteが出ていましたが、カードゲーマーに叩かれていましたよね。ただ当たり前に風呂に入れと書かれているだけのことなのに、クソフェミに阿った裏切り者であるかのような言われ方をしていた。

腐女子問題を指摘されたジェンダークレーマー腐女子も同じような動きをします。「名誉男性認定するだけで人の言うことなど聞きやしません。そこに自閉性を感じもするのですが。集団で振り切れた暴言で袋叩きにされて「恐怖」を感じたときだけは効きます(己のダブスタ理解しているわけではなく、怖くて縮こまっているだけ)。それ以外ではナメてかかるので無理ですね。

私たちがこういうことするから、こういうこと言うから、外部でも悪目立ちして叩かれるんだよ嫌厭されるんだよ」ってことを指摘して自浄しようとする動きがあっても、自閉は癇癪起こすだけです。

要するに女叩き男叩きジェンダークレーム関連って、異常腐女子や不潔カードゲーマーなどの被差別階級が言い合いしてるだけなんです。あとはニートや、時間を守れない脳障害があるので性風俗店で働いている女などですね。

「下」しかいない界隈なので、健常者にとっては関わるだけ時間無駄です。

 

明確な差別を受けている被害者でありながら、不愉快なふるまいをするので嫌われるというのは、みいちゃんを感じますね。みいちゃん勉強ができなくて癇癪起こしてましたね。

(みいちゃんと同じようにできないことが多い子でも「嫌われないほうの子」の比較サンプルとしてムウちゃんを出すことに作者の底意地の悪さを感じます。でもムウちゃんも出さないと知的障害者像の網羅性に欠けるんですよね)

2025-11-02

誰が未来を語るのか? SF界のジェンダー平等に向けた仕組みづくり ライター岡田麻沙(構成2025年10月29日 15時00分

まずは、「Virtual Gorilla+(バゴプラ)」という名のWebメディアです。

 そしてもう一つが、SF小説に関する事業Kaguya」。Kaguyaの取り組みは、いくつかあります。①ショートショートコンテストの開催。②Kaguya PlanetというWebマガジン刊行。ここでは毎月短編小説配信しています。③Kaguya BooksというSF出版レーベルとしての活動

 二つの活動以外にも、企業SFプロトタイピングのコーディネーターなど、SF関係のさまざまな仕事も手掛けています

 Kaguyaで開催している短編小説コンテストは、最大4千字です。気軽に書いて、読者や審査員からフィードバックをもらうなかで、自分の強みが何かを発見してステップアップしていく。そういう場所を目指しています

ライフステージや、家庭における役割精神状態などに大きく左右される。「連載が約束されていない長いもの」の執筆時間を割けるということ自体特権的なのかもしれない。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20251022002010.html

 【井上】 日本SFだけではなく文学全体がそうかもしれませんが、商業デビュー王道として、新人賞をとって、そこで作品を出して商業デビューし、その出版から2作目3作目を出し、他の出版からも声が掛かる……というルートがあると思います。もちろん日本SF作家で、そのルートに乗らず商業デビューして活躍している方もいるのですが、わりとイメージやすロールモデルとして、それがある。

主催によってカラーが決まっていることが悪いわけではないですし、一つのコンテストに「全ての多様性担保しろ」と求めるのは無理だと思います。なので、窓口を増やすことで、デビューへの道筋を多様にすることが大事だと考えています

井上】 2310月文芸翻訳経験を持つ編集者が新しく参加してくれたこともあり、海外から日本への輸入や、日本から海外への発信に力を入れることができるようになりました。

写真・図版

第3回かぐやSFコンテスト大賞作品マジックボール」は、中国SFマガジン『科幻世界』とイギリスウェブジン『Schlock!』にも収録された=井上彼方さん提供

井上】 「自分表現で誰かを傷つけてやろう」と思っている人って、そんなにいないと思うんです。ごく一部の悪意のある人をのぞけば。でも実際に、自分が書いた文章批判がくると、身構えるじゃないですか。そういうとき自分を見つめ直して反省して次に生かすって、非常に難しいことだと思うんです。特にSNS炎上してしまうと、冷静ではいられないですよね。

 自分の書いた文章について言われるのではなく、あらかじめ「こういうことって気をつけた方がいいね」とわかっていたら、過剰な自己防衛に陥らず、話を素直に受け止められる場合があるはずです。

 ヒューゴー賞世界SF大会によって設立されたSFファンタジー作品文学賞で、受賞作品世界SF大会に参加登録した人による投票で選ばれます。そして、このSad Puppiesというのは、ヒューゴー賞選考に影響を与えるための組織的投票運動でした。女性有色人種の受賞が増えていることに抗議を示すため、白人ヘテロセクシュアル男性作家たちが自らを、権利侵害されているSad Puppies(悲しい子犬たち)と称したのです。

 ヒューゴー賞投票制なので、人々に開かれたものではあったはずです。ところが、Sad Puppiesたちは、「ヒューゴー賞ポリティカルコレクトネス配慮するあまり、本当に面白い作品を受賞させなくなっている」といった主張を始めた。「もっと面白い白人男性作家を受賞させろ」という風に呼びかけた。そういう事件ですね。

 【井上】 ヒューゴー賞2010年代女性作家や非白人作家の受賞が増加しました。女性だけではなく、クィアであることをオープンにしている作家の受賞も増え、それに対して「自分たちの土俵が荒らされた」というような被害感情を持たれる方がいた。それで起きた事件です。

 【岡田】 この事件については、SF評論家橋本輝幸さんが、ウェブ連載「いつでもSF入門」のなかで詳しく語られていますSF界において女性優遇された時代はなかった、と指摘されています

【対談を終えて】

SFにおける実践現在地井上彼方)

 対談から2年。2024年慶応義塾大学サイエンスフィクション研究開発・実装センターが開設されるなど、社会の中でSFをどうツールとして使っていくのかという取り組みは広がりを見せ続けているように思う。その中で、SFを取り巻く世界SFが描く世界の中から、誰が取りこぼされてきた/いるのかということは今も問われ続けている。

 この間、VGプラスで行った取り組みの一つに、刊行しているマガジンKaguya Planet』でのパレスチナ特集がある。1948年イスラエル建国以前から続く、入植型の植民地主義人種差別的な支配ジェノサイドは、「世界では誰の声が優遇されているのか」ということと無関係ではない。そのことにSF企業としてどう応答できるのかを考えて行った特集で、パレスチナ人/パレスチナルーツのある作家による、パレスチナ舞台にしたSFファンタジー翻訳した。

写真・図版

ウェブマガジンKaguya Planet」のパレスチナ特集

 だが同時に、システムや場づくりについて問題提起をしているVGプラ自身、たくさんの方から至らぬ点についてご指摘をいただきときに引き立てていただきときに知恵を授けていただきながら活動をしている。マイノリティーの方々に「指摘する」というコストを支払わせてしまった局面もたくさんある。それらを抽象的な次元にとどめることなく、現実制度権利回復へとつなげるためになにができるのか、常に考えていきたい。

 そしてそれは、SFという私の愛するジャンルのものを豊かにすることにも、当然つながっているのだと思う。

異なるシステムを並走させること(岡田麻沙)

 排除はしばしば、「質」の名において実行される。

 なにが「優れた」作品なのか。その指標のものが、特定経験価値観にもとづいて構築されてきた。そうした規範に照らせば、大きく異なる経験を持つ他者の書いた作品必然的に「劣った」もの評価されよう。排除意図的に行われるのではない。それは常に「客観的評価」の結果として生じる。

 Sad Puppies事件は「ポリティカルであること」への反感が運動きっかけだったが、むしろ、従来の選考こそが政治的だったと考えることもできる。価値判断の場では多くの場合既存権力関係が反映される。正統性を維持するためのシステム個人意図を超えて作動する。

 だからこそ、井上さんたちの取り組む解決策はシステムのものに切り込むものだ。短編コンテストの開催、発表の場を多様化すること、経済的に持続可能な仕組みをつくること。これらはすべて、異なる価値観共存できる環境を目指している。

 誰が未来を語るのか。どのようにその語りを開いていくのか。今回の対談で示されたのは実践だった。完璧な一つのシステムを目指すのではなく、複数システムを並走させることで、今は「評価」できない作品価値観にも光が当たる可能性を残している。SF想像力現実形成する力を持ちつつある世界において、その想像力を担う主体多様性こそが、私たち未来の豊かさを決定づけるだろう。

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