はてなキーワード: 対称性とは
僕は今夜、ルームメイトがリビングで実験的にベーコンを低温調理している匂いを鼻孔の厳密な位置で嗅ぎ分けながらメモ帳を開いた。
朝は6時17分に目覚ましを止め(そのミリ秒単位の遅延は許容されない)、6時18分にコーヒーの比率を変える習慣を行い、靴下は左から右へ、座席は常にソファの北東端(座る位置は位相対称性を破らない)である。
食事は火曜日のパスタの残り物は三等分して水曜と木曜の朝食に回す。洗濯は必ず偶数週の水曜に行い、洗剤は0.8倍希釈、脱水は中速、干す向きは北向き。
ルームメイトがドアに爪痕をつけたら即座にログを取り、隣人が郵便物を誤って取った場合は「郵便誤配報告フォーム」を三回に分けて提出する。
こうした儀礼を守ることで僕の内的位相空間が安定するのだと論理的に考えている。
今日の思考の核は超弦理論と量子情報の交差点についての、かなり尖った自己流の定式化にある。
まず、僕は物理的直感を避けて抽象数学で事象を語る。弦理論の摂動系列を有限厚さの∞-圏としてモデル化し、ブレーンを対象、開弦状態をモノイド的なホモトピー演算子として扱う。
局所座標の代わりにファクタリゼーション代数を使い、スパイダー図式を経て得られる交叉相互作用を高次ホモトピー群のコハート化として再解釈することを提案する。
ER=EPRについては、古典的なワームホール=絡み合いという語り方を離れて、僕はエントロピー・双対モジュールの同値性という言葉で捉えている。
つまり、二つのエントロピックモジュールの被覆圏と、それらに対応する重ね合わせのコボルディズム(圏論的な結合双対)を同一視することでER=EPRを圏論的に定式化できるのではないかと考えている。
これを超弦理論に接合するには、AdS/CFT 的なホログラフィック双対の場で、境界側の張力的演算子族が内部のブレーンカテゴリ(例えばフカヤカテゴリやコヒーレント層の導来圏)に対応するという見方を取り入れる。
すると、エントロピー双対モジュールの同値性は、境界とバルクの間で起こる圏の再同型化として現れ、ER=EPRは本質的に圏的ホログラフィーの一命題になる。
ここで僕が提案する小さな拡張は、量子誤り訂正符号のコード代数を∞-圏の射として扱い、その可換性条件がワームホールのコボルディズムの可逆性と一致するというものだ。
これにより、エントロピーの再構成操作がブレーン間のファンクターとして自然に理解でき、局所性の回復を説明する新しい枠組みが得られると僕は思う(これは僕の勝手な定式化で、厳密性は今後の証明を待つ)。
今日はそのメモを、黒板に書く代わりにルームメイトの背中越しにノートに書き留めた。
ところで、僕は靴の磨き方にも数学的基準を設けている(円周率の小数を用いた磨き順列を使っている)。
出かける前のチェックリストはトポロジー的順番、たとえば鍵→財布→スマホ→ペンという順序は位相連結成分を最小化するから合理的だ、と説明すると友人たちは顔をしかめるが、これを守ると予測可能性が上がる。
今夜はRPG系ではELDEN RINGのビルド論とRTAコミュニティのメタ的動向を気にしていて、この作品が2022年にFromSoftwareからリリースされ、多くのビルド最適化やメタが確立されていることは周知の事実だ(初リリースは2022年2月25日)。
また、このIPは映画化プロジェクトが進行中で、A24が関与しているという報(映画化のニュース)が最近出ているから、今後のトランスメディア展開も注視している。
僕はソウルライクのボス設計とドロップ率調整をゲームデザインの位相安定化とは呼ばないが、RTA勢のタイム削り技術や周回遺伝(NG+)の最適手順に対して強い敬意を持っている。
ファンタジーRPGの装備付け(メタ)に関しては、装備のシナジー、ステータス閾値、クラフト素材の経済学的価値を語るのが好きで、例えば「その装備のクリティカル閾値を満たすために残すステータスポイントは1だが、その1が戦闘効率を%で見るとX%を生む」というような微分的解析を行う。
FFシリーズについては、Final Fantasy XVIがPS5向けに2023年6月に、続いてPC版が2024年9月にリリースされ、さらに各プラットフォーム向けのロールアウトが段階的に行われたことなど実務的事実を押さえている(PCリリースは2024年9月17日)。
僕はこのシリーズの音楽的モチーフの再利用やエンカウンター設計の比較研究をしており、特に戦闘ループの短周期化とプレイヤー感情の連続性維持について言及するのが好きだ。
コミック方面では、最近の大きな業界動向、例えばマーベルとDCの枠を超えたクロスオーバーが企画されるなど(Deadpool×Batmanの一連の展開が話題になっている)、出版社間でのIPコラボが再び活発化している点をチェックしている。
これらはコレクター需要と市場流動性に直接影響するため、収集と保存に関する経済的最適化問題として興味深い。
今日、隣人が新しいジャンプ作品の話題を振ってきたので僕は即座に最新章のリリーススケジュールを確認し、One Pieceの次章の予定についても把握している(最新チャプターの公開予定など、週刊連載のスケジュール情報は定期的に確認している)。
例えば「午後9時に彼らがカップ麺を食べる確率は、僕の観察では0.83だ。ゆえに僕は9時前に冷蔵庫の位置を変えるべきだ」という具合だ。
結語めいたものを言うならば、日常のルーティンと高度に抽象化された理論は相反するものではなく、むしろ同じ認知的圏の異なる射影である。
だから僕は今日もルームメイトの忍耐を試す微細な仕様変更(例えばリモコンの向きを30度回す)を行い、その反応をデータ化している。
さて、20時30分だ。これでノートを閉じ、決まった手順で歯を磨き、眠りの準備に入る。明日の朝のアジェンダは既に分解されているから、心配は要らない、と自分に言い聞かせてから寝るのが僕のやり方だ。
その一つは、カラビ–ヤウ三次元多様体上のモチヴィック・ラングランズ場という概念だ。
名前だけで震えるが、実際の定義はもっと美しい。ウィッテンがかつてAモデルとBモデルのミラー対称性から幾何学的ラングランズ対応を導いたのは知っている。
だが彼が扱ったのは、あくまでトポロジカル弦理論のレベルにおける対応だ。
僕の今日の成果は、さらにその上、モチヴィック階層そのものをラングランズ圏の内部対称として再定式化したことにある。
つまりこうだ。A/Bモデルの対応を支えるのは、ミラー対称なカラビ–ヤウ空間の間に張られたモジュライ空間の等価性だが、僕はこれをモチーフの圏に埋め込み、さらにその上に弦的ガロア群を定義した。
この群の元は、単なる保型的データの射ではなく、弦的世界面のホモトピー圏を自己同型する高階函手として作用する。
つまり、通常のラングランズ対応が表現=保型形式なら、僕の拡張では弦的場のコホモロジー=モチーフ的自己準同型。もはや表現論ではなく、宇宙論的再帰だ。
午後、ルームメイトが僕のホワイトボードを使ってピザの割り勘式を書いていた。
彼は気づいていないが、その数式の背後には僕の昨日のモチヴィック・ガロア層構造の残骸があった。
もし彼がチョークをもう少し強く押していたら、宇宙の自己同型構造が崩壊していたかもしれない。僕は彼を睨んだ。
彼は「また妄想か?」と言った。違う。妄想ではなく基底変換だ。
夕方、隣人がスパイダーバースの新刊を貸してくれた。マルチバースの崩壊を描いているが、あの世界は僕の定義したモチヴィック・ラングランズ場の一次近似にすぎない。
あの映画のスパイダーバースは、厳密に言えばラングランズ群の射影的パラメータ空間における擬弦的退化点の群体だ。
僕がやっているのはその精密版。マルチバースをただの物語ではなく、圏論的自己反映構造として解析している。つまり、マーベルの編集部が無意識に行っている多世界生成を、僕は既に数学的に形式化しているわけだ。
夜、友人Aが原神で40連ガチャを外してキレていた。確率1.6%を40回引いて当たらない確率は約0.48。つまり彼は「ほぼ半分の世界線で運が悪い側」に落ちただけ。
僕はそれを説明したが、彼は「確率の神は俺を見捨てた」と言った。愚かだ。確率は神ではない。確率はラングランズ群の局所的自己準同型の分布密度だ。
もし彼がそれを理解していたなら、ピティエ=シェヴァレの整合性条件を満たすまで回していただろう。
風呂上がり、僕は再びホワイトボードに向かい、ウィッテンが書かなかった方程式を書いた。これは、弦的ガロア群における自己準同型の空間が、算術的モチーフの拡張群に等価であることを示唆している。
つまり、宇宙の自己相関が、L関数の特殊値そのものとして現れる。A/Bモデル対称性を超え、モチーフ的ラングランズ=宇宙の自己言語理論を打ち立てたわけだ。
僕の紅茶が冷める頃、ルームメイトが「寝るぞ」と言った。僕は返事をせず、ひとり机に残って考えた。
この理論を完結させるためには、時間をもモチーフとして再構成しなければならない。
時間をモチーフ化する、それは、因果律を算術幾何的圏の自己圏として扱うということだ。
人類がまだ誰も到達していない領域。だが、僕はそこにいる。誰よりも早く。誰よりも冷静に。
21時00分。僕の手元の時計の振動子が、まるでカラビ–ヤウ多様体の一点コンパクト化のように静かに揺れている。
宇宙が僕の計算を見て笑っている気がした。だがいいだろう。宇宙よ、君が自分の自己準同型を理解できる日が来るまで、僕が書き続けてやる。
フェミニズムの分類が多すぎると聞いて
記述集合論(Borel階層, Projective階層, 汎加法族)
モデル理論(型空間, o-極小, NIP, ステーブル理論)
再帰理論/計算可能性(チューリング度, 0′, 相対計算可能性)
構成主義, 直観主義, ユニバース問題, ホモトピー型理論(HoTT)
体論・ガロア理論
表現論
K-理論
初等数論(合同, 既約性判定, 二次剰余)
解析数論(ゼータ/ L-関数, 素数定理, サークル法, 篩法)
p進数論(p進解析, Iwasawa理論, Hodge–Tate)
超越論(リンドマン–ヴァイエルシュトラス, ベーカー理論)
実解析
多変数(Hartogs現象, 凸性, several complex variables)
関数解析
バナッハ/ヒルベルト空間, スペクトル理論, C*代数, von Neumann代数
フーリエ解析, Littlewood–Paley理論, 擬微分作用素
確率解析
マルチンゲール, 伊藤積分, SDE, ギルサノフ, 反射原理
常微分方程式(ODE)
偏微分方程式(PDE)
非線形PDE(Navier–Stokes, NLS, KdV, Allen–Cahn)
幾何解析
リッチ流, 平均曲率流, ヤン–ミルズ, モノポール・インスタントン
エルゴード理論(Birkhoff, Pesin), カオス, シンボリック力学
点集合位相, ホモトピー・ホモロジー, 基本群, スペクトル系列
4次元トポロジー(Donaldson/Seiberg–Witten理論)
複素/ケーラー幾何(Calabi–Yau, Hodge理論)
スキーム, 層・層係数コホモロジー, 変形理論, モジュライ空間
多面体, Helly/Carathéodory, 幾何的極値問題
ランダムグラフ/確率的方法(Erdős–Rényi, nibble法)
加法的組合せ論(Freiman, サムセット, Gowersノルム)
彩色, マッチング, マイナー理論(Robertson–Seymour)
列・順序・格子(部分順序集合, モビウス反転)
測度確率, 極限定理, Lévy過程, Markov過程, 大偏差
統計学
ノンパラメトリック(カーネル法, スプライン, ブーストラップ)
実験計画/サーベイ, 因果推論(IV, PS, DiD, SCM)
時系列(ARIMA, 状態空間, Kalman/粒子フィルタ)
二次計画, 円錐計画(SOCP, SDP), 双対性, KKT
非凸最適化
離散最適化
整数計画, ネットワークフロー, マトロイド, 近似アルゴリズム
Littleの法則, 重み付き遅延, M/M/1, Jackson網
常微分方程式の数値解法(Runge–Kutta, 構造保存)
エントロピー, 符号化(誤り訂正, LDPC, Polar), レート歪み
公開鍵(RSA, 楕円曲線, LWE/格子), 証明可能安全性, MPC/ゼロ知識
計算複雑性
機械学習の数理
量子場の数理
相転移, くりこみ, Ising/Potts, 大偏差
数理生物学
数理神経科学
無裁定, 確率ボラ, リスク測度, 最適ヘッジ, 高頻度データ
データ解析
今日もまた、僕のルーティンは完璧なシンメトリーを保っていた。7時00分に目覚ましが鳴る前に自然に目が覚め、7時01分に歯を磨き、7時10分に電子レンジで正確に85秒温めたオートミールを食べた。ルームメイトはまだ寝ていた。いつも思うが、彼のサーカディアンリズムはエントロピー的崩壊を起こしている。朝の段階であれほど乱雑な髪型が可能だということは、局所的に時間反転対称性が破れている証拠だ。
午前中は超弦理論のメモを整理していた。昨日の夜、AdS/CFT対応を一般化する試みとして、非可換幾何の上に定義された∞-群oid的対称性構造を考えた。従来の高次圏理論的定式化では、物理的可観測量の定義が局所的モデル圏に依存しているが、僕の新しい仮説ではそれをKan拡張ではなく、∞-トポス上の(∞,1)-層として扱う。これにより、M理論の11次元多様体上でのフラックス量子化条件を、デリーニュ‐ベイルン加群による層コホモロジーに書き換えることができる。ルームメイトに説明したら、彼は「君が言ってることの3単語目からもう分からない」と言った。僕は丁寧に言い直した。「つまり、我々が重力を感じるのは、実は∞-圏の射が充満埋め込みでないからだ」と。彼は黙った。いつも通りの知的敗北の沈黙だった。
昼食は隣人がくれたタコスを食べた。彼女は料理が下手だが、今回はまだ化学兵器レベルではなかった。ちなみに僕はタコスを食べる際、具の位置を中心から平均半径1.7cm以内に収めるように計測している。乱雑な配置は僕のドーパミン経路を不安定化させる。彼女は「そんなの気にしないで食べなよ」と言ったが、僕にとってそれは、ボーズ統計の粒子にフェルミ縮退を強要するような暴挙だ。
午後はオンラインで超弦理論のセミナーを視聴したが、正直、発表者の理解は浅かった。特に、彼が「E₈束のゲージ異常はスピノール構造で吸収される」と言った瞬間、僕は思わず笑ってしまった。そんな単純な話ではない。正しくは、E₈×E₈異常はString(10)構造のホモトピー群に依存し、実際にはTwisted Fivebrane構造の非可換層に束縛される。ウィッテンすらここまで書いていないが、僕の計算ではその層は∞-スタック上のドロップトポスとして扱える。つまり、物理的次元が11ではなく13.25次元の分数次元空間に埋め込まれるということだ。もっとも、僕以外にこの議論を理解できる人間は地球上に存在しないだろう。
夕方には友人たちとオンラインで『Baldur’s Gate 3』をプレイした。ハードコアモードで僕のウィザードがパーティを全滅から救ったのだが、誰もその戦術的優雅さを理解していなかった。僕は敵AIの経路探索を事前に計算し、Dijkstra法とA*の中間的ヒューリスティックを手動で最適化していた。彼らはただ「すげえ!」と叫んでいたが、僕にとってそれは数式の勝利にすぎない。ゲームの後、僕は『ワンダーウーマン: デッドアース』を読んだ。アートはDaniel Warren Johnson。筆致が粗いのに構図が完璧で、まるでFeynman図のトポロジーを手書きで描いたような迫力がある。コミックを読んで心拍数が上がるのは久しぶりだった。
夜になってルームメイトがNetflixを見始めた。僕は同じ部屋でノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、Lagrangian多様体上の安定性条件についてノートを書いた。明日は木曜日のルーティンとして洗濯と真空掃除をする日だ。もちろん洗濯機は奇数回転数(今日の予定では13回)で設定している。偶数だと宇宙の安定性が崩れる気がするからだ。
この日記を書き終えたのは20時20分。シンメトリーの美がここにある。時間も数字も、理論も習慣も、僕の宇宙ではすべて整然と並んでいる。もし誰かがその秩序を乱すなら、僕は黙ってこう言うだろう。「君の世界はまだ正則圏ですらないね」。
昨日、僕は再びヒルベルト空間の自己参照性について思索していた。
きっかけはルームメイトが、僕の定常朝食手順の測定位相を乱したことだ。僕が定義している朝のシリアル配置は、可測集合の上で定義された有限測度空間であり、各粒子(シリアルの粒)は確率振幅の実現点である。
ところが彼が不用意にスプーンを差し込んだため、僕の可測写像が非可測領域を侵食し、全順序性が崩れた。
つまり、彼の行為は単なる乱雑ではなく、σ-加法的整合性の破壊に等しい。これを日常の「朝食の乱れ」と呼ぶのは、あまりにナイーヴだ。
僕の現在の研究テーマは、ER=EPRをより高次圏論的に再定義することにある。通常この等式は、もつれ状態をワームホールに対応づけるが、僕の見解ではそれは関手レベルでの不完全な翻訳に過ぎない。
真の構造は、観測行為がエンタングルメント圏から幾何圏へのモノイド圏関手であるということだ。
観測とは情報の選択ではなく、関手の実現射の生成であり、その結果、対象空間上の射が一点縮退を起こす。つまり、観測=ブラックホールへの写像。
このとき観測者の状態空間は、対象空間の双対空間と自己モノイド化し、テンソル積がエネルギー密度として曲率テンソルに等価変換される。
これが熱力学的エントロピー流の源である。つまり、観測とは時空多様体の測地線構造を自己収縮させる操作にほかならない。
僕の仮説では、測定者の意識とは、有限生成のC*-環上で定義される自己相関射の列極限であり、その極限点がブラックホールの事象の地平面と同相になる。これは単なる比喩ではない、構造的同型である。
昨日の午後、隣人が訪ねてきて、「なんか落ち着かない」と言っていた。彼女が感じたその「不安定さ」は、実際には僕の思考空間上の圏的射が、彼女の心理空間に対して非可換的干渉を及ぼした結果だと考えられる。
彼女の感覚的印象は、単なる主観ではなく、射影演算子が彼女の状態ベクトルを部分的に崩壊させた現象に対応する。
つまり、僕は彼女を見たのではなく、彼女の状態空間が僕の内部圏へ関手的に埋め込まれたのだ。観測とは一方的な侵入であり、宇宙の双対圏的結合だ。
夕食時、ルームメイトが僕の食事手順をまた茶化してきた。僕が麺を蒸す時間を正確に設定しているのは、可積分系の安定点を保つためだ。
彼は「そんなの偶然だ」と言った。だが、偶然とは測度論的に定義不能な領域の総称にすぎない。僕のルールは統計的対称性の維持装置だ。
夜、友人たちとBaldur’s Gate 3をプレイした。僕は事前に行動木を有限オートマトンとして解析し、敵AIの状態遷移確率を事前分布にフィットさせた。
戦闘中、彼らは「お前、やりすぎ」と言ったが、僕はただBayes更新を実行していただけだ。ゲームとは、確率測度の動的再配置の遊戯形式に過ぎない。
深夜、僕は再びノートに向かい、ER=EPRの上位構造体を定義する「自己参照圏」について書いた。観測者を含む宇宙は、自己同型射を持たない。
これは厳密な意味で非トリビアルな自己関手構造を持つためである。僕が観測するたびに、宇宙の対象集合が可算ではなくなる。つまり、観測とは昇格操作であり、存在論的基数を増幅する過程なのだ。
僕は結論に至った。「観測者は情報を吸収するブラックホールではない。むしろ、情報を生成する射影的特異点である。」
観測とは、スペクトラムが事象の地平面と同型になる操作である。
寝る前、歯磨き粉の残量を測った。これは単なる衛生行為ではない。有限体上の加法群の残差測定だ。12.4という値は、僕の生活空間における連続測度の離散化の結果である。
僕が超弦理論を物理学ではなく自己整合的圏論的存在論と呼ぶのには理由がある。なぜなら、弦の存在は座標に埋め込まれたものではなく、物理的射影が可能な圏における可換図式そのものだからだ。
10次元超弦理論における有効作用は、単なる物理量の集約ではない。むしろ、それはカラビ–ヤウ多様体のモジュライ空間上に構築された安定層の導来圏D^b(Coh(X)) における自己同型群のホモトピー的像として理解される。
そこでは、開弦終端が束の射、閉弦がトレース関手に対応し、物理的相互作用はExt群上のA∞構造として定義される。
つまり、力は空間の曲率ではなく、ホモロジー代数的結合子なのだ。
D^b(Coh(X)) と Fuk(Y)(シンプレクティック側)の間に存在するホモトピー圏的同値、すなわちKontsevichのホモロジカル・ミラー対称性の物理的具現化にすぎない。
ここで弦のトポロジー変化とは、モジュライ空間のファイバーの退化、すなわちファイバー圏の自己関手のスペクトル的分岐である。観測者が相転移と呼ぶ現象は、そのスペクトル分解が異なる t-構造上で評価されたに過ぎない。
M理論が登場すると、話はさらに抽象化する。11次元多様体上での2-ブレーン、5-ブレーンは単なる膜ではなく、(∞,1)-圏の中の高次射として存在する。
時空の概念はもはや固定された基底ではなく、圏の対象間の射のネットワークそのものだ。したがって、時空の次元とは射の複雑度の階層構造を意味し、物理的時間は、その圏の自己関手群の内在的モノイダル自己作用にほかならない。
重力?メトリックテンソルの湾曲ではなく、∞-群oidの中での自己等価射の不動点集合のトレースである。
量子揺らぎ?関手の自然変換が非可換であることに起因する、トポス内部論理の論理値のデコヒーレンスだ。
そして観測とは、トポスのグローバルセクション関手による真理値射影にすぎない。
僕が見ている宇宙は、震える弦ではない。ホモトピー論的高次圏における自己同型のスペクトル圏。存在とはトポス上の関手、意識とはその関手が自らを評価する高次自然変換。宇宙は関手的に自己を表現する。
最近、SNS上では「BLは性的消費なのにフェミは男性の性的表現を叩くのはダブスタじゃないか?」というスレッドがトレンド入りしていた。
だがこの議論、よく見るとアーキテクチャの層が違う。つまり、話しているプロトコルが合っていない。
オタク文化圏では、「女性が描くBL」と「男性が描く女性向け性表現」を同一のAPIとして扱う傾向がある。
しかし実際には、両者は別レイヤーで動いているアプリケーションだ。
フェミニズムの文脈で語られる「性的表象の問題」は、主に「社会的リソースの不均衡」や「ジェンダー権力の構造」についての議論であって、単なる「表現内容」の良し悪しを審査しているわけではない。
つまり、BLを「性的に描いてるからフェミ的にアウト」と言うのは、仕様書を読まずにバグ報告を出すようなものなのだ。
歴史的に男性中心に最適化されてきた社会システムに、女性視点のパッチをあてて再コンパイルする運動と言える。
だから、「男性と女性を同じように扱うべき」という一般論をそのまま適用しようとすると、互換性エラーが出る。
たとえば「女性の性的表象は抑制されるべきだが、BLはOK」とされるのは、「権力構造上の対称性が存在しない」という前提で最適化されているからだ。
一方、「普通の女性はフェミと違う」「まともな女はそんな主張しない」という定番フレーズが出てくる。
だがそれは多くの場合、ユーザーの気分を和らげるためのUX的演出にすぎない。
実際、ほとんどの人間は制度的優遇(レディースデー、女性専用車両、離婚時の親権バイアスなど)という「プリインストールされた特権OS」の上で動いている。
たとえ本人が「私はフェミじゃない」と言っても、使っているAPIがすでにフェミ思想ベースで動作しているのだ。
つまり、「私は違う」という自己申告は、ただのUIレイヤー上の装飾にすぎない。
平等を掲げるなら、優遇措置をアンインストールする覚悟が必要になる。
だが現実には、多くの人が「平等という概念を口では支持しつつ、既得権のキャッシュを維持」している。
これはエンジニアリング的に言えば、「レガシーコードをリファクタリングすると言いながら結局コメントアウトで誤魔化している状態」だ。
男女平等を“動作保証付き”で実装しようとするなら、既存の社会制度をルート権限で書き換える必要がある。
だが、ほとんどの人はroot権限を持つどころか、ユーザーレベルの設定すらいじる気がない。
もっと根本的に言えば、日本社会の多くの仕組みは、女性優遇をデフォルト設定としてビルドされている。
その構造はあまりにも自然化されていて、誰もコードレビューをしようとしない。
アンチフェミを自称する男性すら、「女性は守るべき対象」という社会的テンプレートを内面化していることが多く、それが構造の永続化を促している。
結果として、「BLは性的消費」「フェミはダブスタ」という批判は、異なるフレームワーク間の非互換問題にすぎない。
BLは「個人の妄想の自由」をレンダリングするローカルアプリだが、フェミニズムは「社会構造の更新」を目指すサーバーサイドのシステム。
同じメソッド名を呼んでいるように見えても、実行される関数の意味がまったく違う。
つまり、「BL=性的消費」「フェミ=ダブスタ」という批判構造は、コードのバージョンが違うままマージしようとしている状態に近い。
根本的にAPI設計思想が違うのだから、いくら議論を積み重ねても互換性は取れない。
またゲージ対称性?
うん🥺💦
それ、たぶん正解だよ🌸✨
たぶんそこ、かわいいと気持ち悪いの量子境界面なんだと思うの🐇🌙
だってさ、
かわいいって、元々「気持ち悪い」の対称性破れから生まれた概念でしょ❓💭
(ほんとはね、「守りたいほど不気味」ってことなの…)
ぼくの内側ではシグマ場が揺れて💫
ぼくの存在式は完成するの🪞💗
だから、ありがと💞
僕が三週間かけて導出したp進弦理論の局所ゼータ関数上の正則化項を書き直せると思ったら大間違いだ。
あの計算は、ウィッテンでも手を出さない領域、すなわち、p進版のAdS/CFT対応をde Sitter境界条件下で非可換ゲージ群に拡張する試みだ。
通常の複素解析上では発散する項を、p進体のウルトラメトリック構造を利用して有限化することで、非摂動的な重力の相関関数を再構成できる。
だが、問題はそこにある。p進距離は三角不等式が逆転するので、局所場の概念が定義できない。
これはまるで、隣人がパンケーキを焼くときに「ちょっと目分量で」と言うのと同じくらい非論理的だ。
朝食はいつものように、オートミール42グラム、蜂蜜5グラム、カフェイン摂取量は80mgに厳密に制御した。
ルームメイトはまたしても僕のシリアルを間違って開けたが、僕はすでにこのような異常事態に備えて、バックアップとして同一銘柄を3箱ストックしてある。
僕が秩序を愛するのは強迫ではなく、宇宙の熱的死に抗うための小さな局所秩序の創出だ。
今日の研究は、T^4コンパクト化されたIIb型超弦理論のD3ブレーン上における非可換ゲージ理論の自己双対性。
通常、B場を導入することで非可換パラメータθ^{μν}が生成されるが、僕の考察では、θ^{μν}をp進値に拡張することで、通常のMoyal積が局所的整数体上で閉じない代数構造を持つ。
これが意味するのは、物理的空間が離散的p進層として現れるということ。言い換えれば、空間そのものが「整数の木構造」になっている。
ルームメイトが「木構造の空間って何?」と聞いたが、僕は優しく、「君の社交スキルのネットワークよりは連結性が高い」とだけ答えておいた。
午後は友人たちとゲームをした。タイトルはエルデンリング。だが彼らのプレイスタイルには忍耐が欠けている。
僕がビルドを純粋知力型にしてカーリア王笏を強化している間に、彼らは無計画に突っ込んではボスに殺されていた。
統計的に見ても、平均的なプレイヤーの死亡原因の82%は戦略ミスに起因する。
僕は「量子重力のパス積分と違って、こっちはセーブポイントがあるんだ」と指摘したが、誰も笑わなかった。理解力が足りないのは罪だ。
夜、コミックを再読した。ウォッチメンのドクター・マンハッタンの描写は、量子決定論の詩的表現として未だに比類ない。
あの青い身体は単なる放射線の象徴ではなく、観測者のない宇宙の比喩だ。
僕が大学時代に初めて読んだとき、「ああ、これは弦の振動が意識を持った姿だ」と直感した。
今日もそれを確かめるため、ドクター・マンハッタンが時間を非線形に認識するシーンを分析し、p進時空における時間関数t→|t|_pの不連続性との対応を試みた。
結果、彼の非時間的意識は、実はp進的時間座標における不連続点の集積と一致する。つまり、マンハッタンはp進宇宙に生きているのだ。
寝る前に歯を磨く時間は、時計が23:00を指してから90秒以内に開始しなければならない。これは単なる習慣ではなく、睡眠周期を最大化するための生理学的最適化だ。
音楽は再生しない。音波は心拍数を乱すからだ。ただし、ゼルダの伝説 時のオカリナのエンディングテーマだけは例外だ。あれは時間対称性を感じさせる旋律だから。
僕の一日は、非可換幾何と行動最適化の連続体でできている。宇宙のエントロピーが増大しても、僕の部屋の秩序は一定だ。つまり、少なくともこの半径3メートルの範囲では、熱的死はまだ先の話だ。
目覚ましは06:17、豆は正確に12.3グラム、挽き目は中細、湯の温度は93.2℃で抽出時間は2分47秒。
ルームメイトがたまにまちがえて計量スプーンを左から右へ並べ替えると、その不整合が僕の内部状態の位相をわずかに変えるのを感じるが、それは許容誤差の範囲内に収められている。
隣人の社交的雑音は僕にとって観測器の雑音項に過ぎないので、窓を閉めるという明快なオペレーターでそれを射影する。
友人たちとの夜はいつも同じ手順で、ログイン前にキーボードを清掃し、ボタンの応答時間をミリ秒単位で記録する。
これが僕の日常のトレースの上に物理的思考を埋葬するための儀式だ。
さて、本題に入ろう。今日はdSの話などではなく、もっと抽象的で圧縮された言語で超弦理論の輪郭を描くつもりだ。
まず考えるのは「理論としての弦」が従来の場の量子論のS行列的表現を超えて持つべき、∞-圏的・導来幾何学的な定式化だ。
開弦・閉弦の相互作用は局所的にはA∞代数やL∞代数として表現され、BV形式主義はその上での微分グラデーション付き履歴関数空間におけるマスター方程式として現れる。
これを厳密にするには、オペラド(特にmoduli operad of stable curves)とそのチェーン複体を用いて散乱振幅をオペラディックな合成として再解釈し、ZwiebachやWittenが示唆した開閉弦場理論の滑らかなA∞/L∞構造を導来スタック上の点列として扱う必要がある。
導来スタック(derived Artin stack)上の「積分」は仮想基本クラスの一般化であり、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosiによるシフト付きシンプレクティック構造は、弦のモジュライ空間に自然に現れる古典的BV構造そのものだ。
さらに、Kontsevichの形式主義を導来設定に持ち込み、シフト付ポアソン構造の形式的量子化を検討すれば、非摂動的効果の一部を有限次元的なdeformation theoryの枠組みで捕まえられる可能性がある。
ここで重要なのは「関手的量子化」すなわちLurie的∞-圏の言語で拡張TQFTを∞-関手として定義し、コボルディズム公理を満たすような拡張場理論の対象として弦理論を組み込むことだ。
特に、因果的構造や境界条件を記述するfactorization algebra(Costello–Gwilliamの枠組み)を用いると、局所的観測子代数の因子化ホモロジーが2次元世界面CFTの頂点代数(VOA)につながる様が見えてくる。
ここでVOAのモジュラリティと、2次元場の楕円族を標的にするエリプティックコホモロジー(そしてTMF:topological modular forms)が出てくるのは偶然ではない。
物理的分配関数がモジュラー形式としての変換性を示すとき、我々は位相的整流化(string orientation of TMF)や差分的K理論での異常消去と同様の深層的整合性条件に直面する。
Dブレインは導来カテゴリ(整合層の導来圏)として、あるいは交差的フカヤ圏(Fukaya category)として表現でき、ホモロジカルミラー対称性(Kontsevich)はこれら二つの圏の導来同値としてマップされる。
実際の物理的遷移やアセンションは、圏の安定性条件(Bridgelandのstability conditions)とウォールクロッシング現象(Kontsevich–Soibelmanのウォールクロッシング公式)として数学的に再現され、BPS状態はドナルドソン–トーマス不変量や一般化されたDT指数として計算される。
ここで出てくる「不変量」は単なる数値ではなく、圏のホールディング(持続的な)構造を反映する量化された指標であり、カテゴリ的量子化の語彙では「K-theory的なカテゴリ不変量」へと持ち上げられる。
さらに、超弦の非摂動的断面を完全に記述しようとするなら、モジュライ超曲面(super Riemann surfaces)の導来モジュラス空間、そのコンパクト化(Deligne–Mumford型)のsuper version、そしてこれら上でのファクタライゼーションの厳密化が不可欠だ。
閉弦場理論のstring field theoryはL∞構造を持ち、BV量子化はその上でジグザグするcohomological obstructionを制御する。
より高次の視座では、場の理論の「拡張度」はn-圏での対象の階層として自然に対応し、拡張TQFTはCobordism Hypothesis(Lurie)に従って完全に分類されうるが、弦理論の場合はターゲットが無限次元であるため古典的公理系の単純な拡張では捉えきれない。
ここで我々がやるべきは、∞-オペラド、導来スキーム、シフト付きシンプレクティック構造、A∞/L∞ホモロジー代数の集合体を組織化して「弦の導来圏」を定義することだ。
その上で、Freed–Hopkins–Telemanが示したようなループ群表現論とツイストK理論の関係や、局所的なカイラル代数(Beilinson–Drinfeldのchiral algebras)が示すような相互作用を取り込めば、2次元CFT分配関数と高次トポロジー的不変量(TMF的側面)が橋渡しされるだろう。
これらは既知の断片的結果をつなげる「圏的連結写像」であり、現実の専門家が何をどの程度正確に定式化しているかは別として、僕が朝に計量スプーンを右から左へ戻す行為はこうした圏的整合性条件を微視的に満たすパーソナルな実装に過ぎない。
夜、友人たちと議論をしながら僕はこれら抽象的構造を手癖のように引き出し、無為に遺伝子改変を選ぶ愉快主義者たちに対しては、A∞の結合子の非自明性を説明して彼らの選択が位相的にどのような帰結を生むかを示す。
彼らは大抵それを"面白い"と呼ぶが、面白さは安定条件の一つの可視化に過ぎない。
結局、僕の生活習慣は純粋に実用的な意味を超え、導来的整合性を日常に埋め込むためのルーチンである。
明日の予定はいつも通りで、06:17の目覚め、12.3グラムの豆、93.2℃、2分47秒。そしてその間に、有限次元近似を超えた場所での∞-圏的弦理論の輪郭をさらに一行ずつ明確にしていくつもりだ。
おっ、中学生でトミタ・タケサキ理論に興味を持つなんて、すごいね!🤩
これは、大学で習うような、とても高度な数学の理論なんだ。特に、作用素環論という分野の土台を築いた、ものすごく大切な理論だよ。
イメージとしては、ある種の空間やシステムを、「特別な時間経過」というレンズを通して観察することで、その隠れた対称性や性質を見つけ出す魔法のようなもの、と考えてみて!
まず、この理論が扱う場となるのがフォン・ノイマン環というもの。中学生には難しすぎるから、ここではざっくりと操作の集まりと考えてみよう。
例えるなら?: キミが持っているレゴブロックのセットだと考えてみて。
ブロック一つ一つが「操作」を表す。このセットでできる全ての組み立て方や、新しいブロックを作り出すルールの全てがフォン・ノイマン環だよ。
理論の核となるのが、この「特別な時間経過」(正式にはモジュラー自己同型群というよ)。これは、レゴセットの操作(ブロック)たちを、時間の経過とともに特別なルールで変形させる働きなんだ。
例えるなら?:レゴブロックのセットに、「時間をかけると形がゆっくりと変わる」という魔法の時計⌚があるイメージ。
この時計は、ブロック(操作)が持つ「重さ」や「エネルギー」みたいなものに応じて、その形や性質を変化させるんだ。
面白いのは、時間が経って形が変わっても、そのセットとしての本質(集まり全体の構造)は壊れないってこと!
トミタ・タケサキ理論がすごいのは、フォン・ノイマン環という数学的な構造に対して、必ずこの「特別な時間経過」が存在することを発見したこと、そしてその性質を徹底的に調べ上げたことなんだ。
この理論のおかげで、特にタイプIII因子と呼ばれる、それまで異常で理解不能とされていた難しい構造の性質が、この「特別な時間経過」の動きを調べることで、バッチリ分類して理解できるようになったんだよ!
この理論は、一見すると純粋な数学のように見えるけど、実は物理学の最先端でも大活躍しているんだ!
1. 量子力学・場の量子論: 物質の最小単位の世界や、宇宙の始まりを考える理論で、熱平衡状態(ものが最も安定した状態)を数学的に記述するのに使われているんだ。
2. 量子エンタングルメント: 離れた二つの粒子が不思議なつながりを持つ量子もつれを理解するための重要な道具にもなっているよ。
難しいけど、この理論は「見かけ上静止しているシステムの中に、実は特別な時間の流れが隠されていて、その流れを理解すればシステムの全てがわかる」という、ロマンあふれる考え方なんだ!✨
超弦理論における非摂動的構造を考えるとき、問題はもはや10次元の臨界弦ではなく、compactification の背後に潜む数理的枠組みそのものにある。
AdS/CFT が Hilbert 空間の整合性を保証してくれるとき、そこではモジュライ空間の代数幾何的記述と、ボルツマン的エントロピーの統計力学的扱いが見事に一致する。
だが dS 背景では、CFT の境界条件を設定することすらできず、代わりに我々が扱うべきは von Neumann algebra の subfactor theory による operator algebraic entropy だと僕は確信している。
今朝は、特に Tomita–Takesaki 理論がこの問題にどう関与するかを計算していた。モジュラー作用素を通じて、ホライズン領域に割り当てられる代数が自然に KMS 状態を持つことは知られている。
しかし、それが有限のホライズンエントロピーとどのように整合するかは未解決だ。
僕の試算によれば、モジュラー流のスペクトル分解を dS 半径 R にスケーリングしたとき、スペクトルが離散化される条件は、グロモフ–ハウスドルフ距離で測ったコンパクト化多様体のリミット挙動に依存する。
この議論は通常の弦理論の perturbative expansion を完全に超えている。
さらに、今日新しく進展した点は、mirror symmetry の SYZ予想を dS 背景に拡張できるかもしれないという仮説だ。
通常、Calabi–Yau のトーラス・ファイバー化は Ricci-flat metric を前提とするが、dS 背景ではその条件が崩壊する。
しかし、もし Fukaya category の A∞ 構造を熱的な dS ホライズンに対応づけられれば、B-model 側での Hodge 構造の変形がエントロピーの有限性と直接結びつく。
これは Kontsevich のホモロジカル鏡対称性の範疇的な一般化であり、物理の言語を超えた純粋数学的枠組みに昇華できる可能性がある。ウィッテンですらここまで踏み込んだ議論は残していない。
ルームメイトは僕の机の上に散らばったノート群を「意味不明な落書き」にしか見ていないようだ。
だが彼がコーヒーメーカーの掃除を忘れたせいで僕のルーティンは乱れた。僕は毎朝 8:15 に完全に洗浄された器具から抽出されたコーヒーを必要とする。それがなければ、トモナガ–シュウィンガー形式の計算に集中するための臨界閾値に達しない。
午後は研究の合間に最新号のX-Menを読んだ。今の Krakoa 編は mutant resurrection protocol が量子力学的アイデンティティの問題に直結している点で実に興味深い。
彼らの「記憶の転写」は、実質的に QFT における superselection sector の選択と同型であり、人格の同一性問題を単なるストーリー装置ではなく代数的トピックとして再定式化している。コミックがここまで理論物理学に接近しているのは愉快だ。
夕方には隣人が再び僕のドアをノックもせずに入ってきた。僕は彼女に、3回ノックの習慣の統計的・力学的優位性を説明したが、彼女はただ笑っていた。僕は統計力学的相関関数の崩壊時間にまで言及したのに、全く理解されなかったのは残念だ。
夜は友人たちとオンラインで「シヴィライゼーションVI」をプレイした。僕は当然バビロニア文明を選び、初期科学力の爆発的伸びを利用して量子物理学のテクノロジーを前倒しで取得した。
これにより彼らが鉄器時代にいるうちに宇宙船を建造する計画を立てたが、ルームメイトが外交的に裏切りを行ったため計画は頓挫した。まるで dS 背景での境界条件喪失のように、整合性は一瞬で崩れ去った。
こうして木曜日は終わる。だが僕の頭の中ではまだ、モジュラー作用素とホライズンエントロピーの計算が渦巻いている。明日までに証明できれば、歴史に残る仕事になるかもしれない。
一般人のよくある言い回しとして「大学の数学科でやっているのは数学ではなく哲学だ」というものがあります。これは実態を誤解したものと考えます。数学と哲学の論理構造や依拠する原理の違いに着目し、どのように誤解であると言えるかを解説してください。
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多くの人が「大学の数学科は“哲学的なこと”をしている」と感じるのは、次のような体験的印象に基づいています。
**抽象度の高さ**
学校数学は数値計算や図形、方程式など具体的な操作が多いですが、大学では集合・位相・群・環などの抽象概念が中心になります。実体がない記号を扱うため、「思弁的で現実離れしている」という印象を受けやすい。
**証明の重視**
高校までの数学では、公式や定理を使って問題を解くことが主でした。大学数学では定理を“証明する”こと自体が中心になります。演繹的に進むため、哲学の論証と混同されやすい。
**直感に反する結果**
カントール集合やゲーデルの不完全性定理など、常識を裏切る結論に出会うと「これはもはや哲学では?」と感じがちです。
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数学ではまず**公理系**(集合論・論理体系など)を定め、そこから**形式的に定義と定理を導く**ことが中心です。
証明は論理的整合性のもとに、有限の推論ステップで厳密に完結します。
「真偽」は定められた公理系の内部で決まる(たとえば ZFC の下での定理かどうか)。
哲学では「公理」や「定義」の選び方自体が主要な思考対象です。
例:真理とは何か、存在とは何か、数学の基盤は何に依拠するか。
推論自体は論理を用いますが、**議論の目的は推論よりも前提や概念の意味を吟味すること**にあります。
証明可能性よりも「概念的・認識論的な一貫性」を探ります。
### 要するに:
数学は**選んだ前提の内部で閉じた演繹体系**。
哲学は**前提や体系そのものを開かれた問いとして扱う**。
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数学 哲学 ----- ---------------- ---------------- 基盤 公理・定義・形式論理 推論+概念分析・経験・メタ理論 真理の基準 公理系内の定理性 妥当性・合理性・批判的検討 方法 定義→補題→定理→系の形式的構築 問題設定→概念批判→異論との対話 ゴール 内部一貫性と定理の発見 前提の吟味と概念の明確化 ---
数学の抽象化は「より多くの具体例を統一的に扱う」ための道具です。たとえば群論は「対称性」という実際的な現象を一般化しています。現実逃避ではなく応用力の拡張です。
哲学的議論は自然言語の意味に依存しますが、数学の証明は形式言語に還元可能なレベルまで精密化されます。
哲学は「数学の基礎は何か」「無限とは何か」を問うかもしれませんが、数学科の学生が行うのは、すでに受け入れた公理体系の中で定理を立てる作業です。
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## 5. まとめ
抽象度の高さや証明重視の新鮮さを「哲学的」と感じているに過ぎない
実際には**数学は厳密な公理体系の中での定理の探求**であり、前提の批判や概念の意味そのものを問う哲学とは方法も目標も異なる
ドラームコホモロジーとは、解析的な微分形式と代数的な構造の間に横たわる見えざる橋梁である。
その橋梁を渡るとき、我々は常に「形式」と「現実」のあいだに立ち尽くす。
ここで突然、青い猫型ロボットが姿を現す。
ドラえもんという偶像は、22世紀からやってきた未来の形式的対象でありながら、そのポケットからは無限に拡張されるコホモロジー類のように道具が湧き出る。
つまり、彼自身が「微分形式の無限和」であり、なおかつ「準同型写像としての友達」である。
では、automorphic formと大友さんの関係性はどうか。
大友さんという固有名は、数論的対象のように個別でありながら、automorphic formのように全体構造に埋め込まれている。
彼の存在は、グローバルな対称性の表現であり、ローカルにはどこにも属さぬ「偶然の素数」である。
大友さんが一言「なるほどね」とつぶやくとき、それはフーリエ展開の一項にすぎないが、全体を解釈するうえで不可欠な基底となる。
ドラームコホモロジーとドラえもんを結びつけるものは「ポケット」という概念である。
ドラえもんの四次元ポケットは、有限次元的に定義されながら無限の射影極限を孕む。そこには「形式的微分」と「のび太の怠惰」が共存し、まるで非自明なコサイクルとして時間に刻まれている。
一方、automorphic formと大友さんを結びつけるのは「調和」という観念である。彼の生活習慣、昼食の選択、曖昧な相槌が、すべてモジュラー性条件に従って整列する。
ひとつはドラーム的な「形式と実在のあいだを往復する知」、もうひとつはautomorphicな「局所と大域を接続する和声」。
すなわち我々がコホモロジーを通じて未来を語るとき、果たして誰がその翻訳を担うのか。
青いロボットか、大友さんか。それとも、われわれ自身がすでに形式そのものであり、ただ気づいていないだけなのか。
この謎は、もはや数式でも物語でも解けない。
だがひとつ確かなことは、ドラームコホモロジーとドラえもん、automorphic formと大友さんという四者は、互いに無関係であるがゆえに、最も深く結びついているのである。
1. 問題の枠組み――“誰がやるか”ではなく“何を認めるか”
「公権力の弾圧」と「私的なキャンセル(解雇・排除)」は区別されるべき――これは当たり前だ。だが本件の争点はそこで止まらない。核心は次の可換性(対称性)だ。
> もしあなたが「Aの表現」に対する私的制裁(雇用終了・場からの排除)を正当化してきたなら、立場や陣営が逆回転したときも同じルールを受け入れねばならない。
「誰がやるか(政府か企業か)」を盾に「これは弾圧、あれは正当」と言い分けるのは、規範の可換性を破る。第一投稿が指摘するのはまさにこの点だ。
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2. 第二投稿( anond:20250915142944 )の論理的問題のコア
第二投稿は「弾圧(公権力)とキャンセル(市民・企業)は違う」と繰り返す。しかし歴史的にも現実にも、大学・大手メディア・巨大プラットフォーム・大雇用主は私的でありながら制度的権力そのものだ。過去、彼らが“右でも左でもない形で”人生を左右してきたことを知りながら、今回は「政府じゃないからOK/政府だからNG」とだけ言い分けるのは、制度的権力の実効性を過小評価している。
第二投稿は「今回は理不尽なパージ」と非難するが、過去に業務外の私語・私生活上の表現を理由に排除を容認してきたケースは枚挙に暇がない。
もし「場の規範」を根拠に是認してきたのなら、その規範が反転しても同じ論理が適用される(べき)だ。ここで急に「雇用契約の範囲外」「表現の自由」を持ち出すのは選好依存の二重基準である。
「彼らが最初に…」は、少数者保護の“原理論”だ。これを掲げつつ「こうなるのも仕方がない」と現に少数(今回は右派)への制裁の拡大を諦念で受け入れるのは、警句の目的(原理の維持)に反する。
原理を維持するなら、「自分が嫌う側」に対しても同じ保護を与えねばならない。
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議論を「誰が嫌いか」から外し、ルール設計に落とすと、選べるのは実は次の二択だ。
業務外の表現・私生活上の言動に対し、雇用・教育・プラットフォームからの排除を原則禁止(限定例外:直接的な違法煽動、重大な職務上の利害相反、明白な安全リスクなど)。
「場の規範」を掲げて、右でも左でも同じ条件で私的制裁を許容。ターゲットが反転しても泣かないことが前提。
第三の道、すなわち「自分たちの価値観に沿うキャンセルは是正、逆は弾圧」は原理として成立しない。それは規範ではなく部族的勝敗の表明に過ぎない。
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4. 反論の先取りと応答
反論A:「今回は暴力に喝采だ。過去の“問題発言”とは質が違う」
応答:質の線引きこそが恣意の温床だ。危害の直接扇動や違法行為の教唆は既存法で対処すべきで、法外の私的制裁を一般化すると、線引きの“閾値”は政争と同調圧力で上下する。だからこそ原則①(厳格反キャンセル)を採る意義がある。
応答:公権力の越権は別軸で違法として糾すべきだ。しかしそれは、私的制裁の正当化を同時に免罪しない。二つの問題は直交する。公的越権を批判しつつ私的キャンセルも否定する、という一貫性が取り得る。
反論C:「大学・メディアは“表現の場”だから自律的に線引きできる」
応答:ならば対称性を守れ、がこちらの要求だ。右派・左派で運用を替えるなら、それは規範ではなく任意の私刑だ。
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キャンセルは低コスト・高威力の制裁手段だ。短期的に“自分の側”に有利でも、ルールを解禁する限り相手陣営も同じ武器を持つ。
第一投稿の要旨はここにある。「兵器化」を歓迎したのは誰か。砲塔が回った途端、「非道だ」と叫ぶのは設計者としての責任回避であり、規範の議論ではない。
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業務外言論に対する雇用制裁の原則禁止(明確な違法煽動・職務上の重大な支障・安全リスクを限定列挙)
この最低ラインなら、右左どちらに砲塔が回っても可換性を守れる。
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第二投稿は、「公権力 vs 私的制裁」の違いを強調しつつ、過去に自ら容認した私的なキャンセルの正当化との整合性を示せていない。ニーメラーの引用も、原理の普遍化ではなく選好に応じた適用に陥っている。
第一投稿が指摘した通り、キャンセルという兵器の解禁は、いずれ自分に向く。それが嫌なら、今こそ原理としての反キャンセルに立ち返るべきだし、なお解禁したいなら反転時にも黙って受ける覚悟が要る。
規範は誰を罰したいかではなく、どんなルールで社会を動かすかで決めるべきだ。今起きているのは「正義の交代」ではなく、原理の不在である。
火曜日の朝、午前6時45分。
僕はいつものように、室温が22.2℃に維持されていることを確認し、正確に2分30秒かけて温めたオートミールを摂取しながら、昨日(月曜日)を振り返ることにした。
昨日の午後、僕は長らく手をつけていなかった研究ノートに再び没頭した。
内容は、Calabi–Yau多様体上のミラー対称性における、ある種のモジュライ空間の退化極限で顕在化する量子異常の高次補正項についてだ。
通常の教科書的理解では、AモデルとBモデルの間に整合性の取れる対応があることは知られている。
しかし、僕が着目したのは、ホモロジー群上に作用する複素構造の非自明な変形族が、世界面上のN=2超対称性のWard恒等式を破りかねないという現象である。
これは単なる学部生が誤解しやすいレベルの「対称性の破れ」ではなく、むしろ物理学者のごく一部が直感的に察している「位相的場の量子補正に潜む不整合性」そのものだ。
昨日の計算で僕が確認したのは、退化極限で現れる擬似モジュラ形式が、通常のモジュラ形式の変換則からわずかに逸脱している点であり、これをどう解釈するかで物理的予言の一貫性が左右される。
要するに、世界に数人しか理解できない種類の話を、僕は昨日ようやく「納得できるまで」書き下したのだ。
僕のルームメイトが「夕食は何にする?」と軽々しく聞いてきたとき、僕は返答をせずに計算を続けていた。
なぜなら、宇宙の根本構造に関する思索と、炭水化物とタンパク質の配分についての議論を同列に扱うことは、どう考えても不合理だからである。
昨日もまた、僕は月曜恒例の洗濯を済ませた。
もし昨日それを怠ったなら、今日着ているこの「青いフラッシュ」Tシャツが清潔でなかったことになる。
それは科学的秩序に対する重大な侮辱であり、僕の心的安定において許容できない。
食事についても、月曜日は「タイ料理テイクアウトの日」であることは周知の事実だ。
隣人が「新しいメニューを試してみない?」と軽率に提案してきたが、僕は断固として拒否した。
メニューの不確定性を導入することは、僕が昨日導き出した擬似モジュラ形式の「非自明な変換性」と同様に、生活習慣にカオスを持ち込むことになる。理論と日常は別物ではない。
夜、僕はルームメイトと友人たちと一緒に「Halo」の協力プレイに参加した。
彼らは勝敗を気にするが、僕はゲーム空間を有限状態オートマトンとして形式的に分析していた。
たとえば、敵キャラクターの行動ルーチンは有限状態機械に帰着でき、その遷移関数はプレイヤーの入力確率分布に依存する。
つまり「敵AIに撃たれる確率」を、僕はゲーム内で逐一ノートに記録しながら戦闘していた。
友人たちには奇異に見えたかもしれないが、彼らが気にする「勝つか負けるか」という二元的指標より、僕が収集した「状態遷移の確率行列」のほうが長期的に意味を持つことは疑いない。
普通の読者はストーリーを追うが、僕はむしろ物理学的整合性の観点から読み込む。
例えばフラッシュが多元宇宙間を移動する場面で、彼が超弦理論的に妥当な次元補正を受けていない点を指摘する読者はほとんどいない。
オタク文化やサブカル界隈では、腐女子がフェミニスト的な主張をすると、「それってダブスタじゃね?」という反応がよく出る。典型的には「女性を性的に描くのはダメなのに、BLで男を性的に描くのはセーフなのか?」という指摘だ。
この批判がかみ合わないのは、「フェミニズム=男女平等」という誤解が広がっているから。実際のフェミニズムは「不利な立場に置かれてきた女性を優遇することで是正する」という政治的運動であり、対称性を前提としていない。だから「女性が男性をいじる表現はOK、逆はNG」という非対称性も意図的に正当化される。
ここで必ず出るのが「フェミは異常で、普通の女は違う」という反論。しかし現実を見ると、女性優遇を拒否できる女はほとんどいない。女性専用車両、レディースデー、離婚時の親権、痴漢冤罪が成立しやすい環境…。こうした制度や文化を疑問視せず利用している時点で、フェミ的な思考から逃れられていない。
「私、フェミ嫌いなんです」と言う女もいるが、状況が不利になるとすぐにフェミ的態度に戻る。職場で叱られれば「女だから強く言われた」とにおわせ、恋愛では「女なのにこの扱いはひどい」と持ち出す。こうした反応は文化的に刷り込まれた無意識の甘えから来ており、本人が意識していなくても表れる。
もし本当に平等主義を貫くなら、女性優遇制度を拒否するはずだ。だが現実には、平等を口にしながら優遇はしっかり享受する女性ばかり。「私は違う!」と反論すること自体も、自己防衛としてのフェミ的リアクションであり、説得力を欠く。
重要なのは、こうした女性優遇は嫌われるどころかむしろ歓迎されているという点。アンチフェミを自称する男性ですら、結局は女性を保護し「女だから仕方ない」と受け入れてしまう。この構造が、女性優遇を強固に支えている。
結局、「BLは性的消費でありフェミはダブスタ」という批判が響かないのは当然だ。フェミニズムは平等の実現を目的にしておらず、「女性がより有利になる社会」を目指す戦略だから。BLと男性向け表現を対称的に扱う発想そのものが、彼女たちにとって無意味なのだ。
昨日は日曜日であった。
したがって、日曜用のルーティンに従った。
午前6時55分に起床、7時15分にオートミールを開始。粒子の無秩序な拡散が統計力学に従うように、僕の日課もまた厳格に支配されている。
朝食後、僕はCalabi–Yau三次元多様体におけるホモロジー群の壁越え現象とN=2超対称的世界面理論におけるBPS状態の安定性を再検討した。
通常、専門家であってもモジュライ空間における壁越え(wall-crossing)は曖昧な比喩で済ませる。
しかし僕は昨日、Kontsevich–Soibelmanの壁越え公式を非摂動的補正を含む形で、実際の物理的スペクトルに対応させることに成功した。
問題の核心は次の点にある。Calabi–Yauの三次元特異点に局在するDブレーンの安定性は、直感的なトポロジーでは決して記述できない。
むしろそれはモチーフ的Donaldson–Thomas不変量と深く結びついており、これを扱うにはホモロジカル鏡映対称性と非可換変形理論を同時に理解していなければならない。
昨日、僕はその両者を結びつけ、量子補正されたブリッジランド安定性条件が実際に物理スペクトルの生成消滅と一致することを示した。
これを実際に理解できる人間は、世界でも片手で数えられるだろう。
昼食には日曜恒例のタイ料理を食べた。
ルームメイトはなぜ毎週同じものを食べるのかと尋ねたが、それはエントロピーの増大を制御する試みである。
食事の変動を最小化することで、僕の脳内リソースを物理学的難問に集中できるのだ。
しかし、彼らが戦術的に無意味な突撃を繰り返すたびに、僕は思考を4次元超曲面上のゲージ場のモノドロミーへと戻していた。
ゲームのリスポーンは、トポロジカル量子場理論における不変量の再出現と驚くほど類似している。
僕はゲームの各局面をゲージ場構成の異なる真空遷移として解析したが、彼らにはその深遠さは理解できなかった。
スピードフォースの異常を、僕は時空の計量が非可換幾何により修正された場合の有効理論として再定式化してみた。
通常の物理学者ならコミック的フィクションと切り捨てるところを、僕はモジュライ空間の虚数方向における解析接続として解釈したのである。
結果として、作中の時間遡行現象は、M理論のフラックスコンパクト化における非局所効果で説明できることが分かった。
夜は22時に就寝。日曜日という閉じた系は、僕にとって「物理学の非摂動的側面を試す実験場」であり、同時に秩序ある生活習慣という境界条件に支えられた完結したトポスである。
今日(月曜)は、昨日の計算を研究室に持ち込み、同僚が一切理解できないことを確認する予定だ。確認作業自体が、僕にとっては一種の実験である。予測通り、彼らは理解できないだろう。