はてなキーワード: コンプラとは
非正規かブラックでワーキングプアな暮らしに喘ぎ、転職しようにも更にドブラックor介護土建の肉体労働しかなくて絶望のドン底。
そのくせ世間では初任給30万円だの春闘満額回答だの景気の良いニュースばかり。そんな人生にゲボ吐いて禿げあがりそうな氷河期世代。多いだろ。
そんな氷河期のお前、俺の話を聞いてくれ。
原子力といっても独立系は駄目だぞ、ブラック臭漂う掃き溜めが多い。
電力子会社の原子力専業会社を狙うんだ。腐ってもクソデカJTCの電力様だ。子会社だってコンプラ面は問題ない。
そういう子会社は今まさに異次元の人手不足で悲鳴を上げている。原子力というだけで学生からは敬遠され、40前までの若手はボンボコ辞めて行き、中途は中々入って来ない。偶に転職者が来ても原子力の素養はほぼゼロのトーシロだ。前職派遣もちょくちょく見る。そんな奴でも戦力にしてやり繰りしている状態だ。
逆に言えば、四十超えた元派遣という、底辺氷河期のテンプレみたいな奴でも十分採用される余地があるってことだ。
流石に五十オーバーは見たことないが、過去に46歳原子力未経験のオッサンが中途で入社してきたことはある。
ちなみに本社は都会だがほぼほぼ確実に親会社の発電所勤務になる。つまり田舎だ。場所によっては僻地と言っても過言じゃない。
待遇も親の7掛けくらい。
ちなみに、実績ベースでいうと弊社で未経験43歳の中途採用者が額面38万円+残業代、ボーナス年4ヶ月。
どうだろう、今のお前より多いだろうか。
確かに最大手とは比べるべくも無いが、世間一般の中小企業よりは出しているはずだ。
正社員で日本の平均年収は優に超えるし、法に触れない限りリストラもまぁ無い。電力のコンプラ意識を信じろ。カルテルはするが社員は守る。
興味が湧いたらリ○ルートでもD○DAでも何でも良いから大手のエージェントに登録して原子力興味ありますと言ってこい。なんだかんだそれが一番安牌だ。
20代の頃と違って覚える能力が衰えたと感じる。覚えたと思ったこともなんも覚えてない。
で、個人的には、人を覚えるにはその人(ら)について他の人と楽しく話すと覚えやすいなと。
この手の話題、コンプラアウトだけど悪口が一番盛り上がる、し、効果抜群。
マジ人の悪評とか一発で覚えるし、興味の向き方が変わる。「あっ、噂のキレ方w」「確かにこの喋り方ウザい」とか、実際体験もすることで「あーーー、コレがタナカサン(仮名)ね、完全に理解した」ってなる。
まぁ普通に性格がクズなだけなんだが、クズにはそういう方法が適してるって心底。
小学校教員増田だが、ここ10年くらい、あらゆる教科で「調べ学習」の比重が急激に上がり続けている
総合はもちろん、理科でも社会でも国語でも、とにかく「各自で課題を見つけて」、「ネットで調べて答えを探す」を繰り返している
ただ、1クラス30~40人でそれぞれがバラバラの課題をググってる状態なので教員によるファクトチェックが全く追い付いていない
クラスの1割は発達障害で、他の子も昔と比べると生活能力が低く、家庭のしつけも期待できない現代
デジタルネイティブの世代が闇バイトとかSNSに扇動されるのは小学校教員から見ると当然だと思う
何が問題視されたのか、広告の引用リツイートの中で、いいねが多いツイートを雑にピックアップしてみた。
女版
https://x.com/toyosuisan_jp/status/1887410904540848485?t=0AEyybdJVKur3jiQhY_gLg&s=19
普通に赤いきつねは美味いんだから、夜一人で食うなら受験生でも仕事終わりで疲れてる会社員でも育児してる親でも夜中に小腹が空いたおじいおばあでもええやん。そうやって全年齢に寄り添う商品ですよとアピールすりゃいいのに、何でこんな頬を赤らめた女がクネクネするCM作っちゃうんだよ。
5.4万いいね
描写と画角のあまりの違いに、女性キャラクターに対してではなく、それを作った人の意図や長年染みついた癖が見えてしまって「キモっ!」って感じた事ない?
4.5万いいね
きっしょ!!!!
女性を赤面させるなら男側もキッチリ赤面させろや どんだけキモいCMか分かるから
2.5万いいね
さすがにこれ炎上させるのはもう無茶苦茶やろ。カップ麺食べるキャラの頬を紅潮させることさえ性的で我慢出来ないというのは病気。企業はそういう「繊細お化け」に配慮して、彼らを付け上がらせてはいけない。謝罪や修正などせず、毅然としていることが企業の社会的責任でさえある。
2.4万いいね
エロ記号はもう日本の社会病やしな……って思って同情してたけど男バージョンのアニメがまともすぎて同情の気持ちも失せてしもたわろた。
1.8万いいね
みんな過剰に反応しすぎかと思ったら本当に気持ち悪かった
1.4万いいね
1.1万いいね
1万いいね
男版
https://x.com/toyosuisan_jp/status/1887773298450485696?t=_e3tT-4umo3CjJi5K_T7JQ&s=19
男のほうは残業代出ない教員に晩ごはん食べる時間まで残業させてるし
コンプラって難しいよなぁ
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男バージョンの方がおいしそうに見えるって聞いてそんなことあるか?と思って見たら変な間とかなくふつうにズルズル食っててマジでおいしそうだった
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例えばこれには、伸びをしてゆがむ表情と首筋、湯気を浴びて緊張がほぐれ頬が赤らむ表情の微妙な変化、邪魔な前髪を払う指先と耳元、かき揚げを噛む口元とこぼれ落ちるかき揚げの質感の描写がなぜないのか。商品の訴求においてこれらが余計な要素であるなら、女性版でのこの種の描写も同じです。
5009いいね
男性も頬染めろよ。
市ノ瀬さんのバージョンは「男性向け」に作られたCMとして、これが女性向けに作られているともさほど思わんけどな。
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男バージョンがこれか。
男は残業、口元アップは2回、目元は1回。方や女は部屋着で恋愛映画?を見て涙を流し、目元口元のアップ複数回、髪を耳にかける仕草、赤らむ頬。
なぜ男女で表現の差を付けたのか、そこにジェンダーロールの刷り込みがないか考えるべきでは?
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フジの「ボクらの時代」、朝やってる番組でなんらかの関係性のある3人がトークするやつ。
今日は令和ロマンくるま、バッテリィズエース、伊沢拓司だったんだけど、
伊沢さんとくるまが鼻につく人もいるかもしれないが最後までみてほしい。
内容知らないほうが楽しめるから、見てもらえるのならもう読まずに見てほしい。
https://tver.jp/episodes/epiq937r41
どういう感じなのか知りたい人だけこの後読んでください。
起:初めにこの3人になった経緯とくるまが自分は対極の2人の中間だという話をする
(くるまに最初出演オファーがあり、同い年で対極の伊沢さんとエースが話してるのを見たいということで
この3人になった。視聴者に対してはくるまは伊沢寄りだろというフックが効いている)
承:それぞれの長所短所を話し、エースのすごさを伊沢さんが例え、くるまが嚙み砕いて説明してエースが喜ぶ
(くるまの自分が中間である説明、ダメエピソードが具体的で的確で共感できてくそー話が上手いなーと感じる。
伊沢さん、くるまともに自分の高学歴話を人を不快にさせないよう最適解で自然に話していて、
説明もわかりやすく、人柄の良さも伝わり、上からは言っていないんだけど、屈折している自分としては
(だよね。)
結:エース!!!
(今までの十分に面白かったトークを全部フリにして、エースがオチをかっさらっていく。引っかかっていたものが解き放たれる。)
見返したら、狙って編集しているのが伝わってきて、してやられた感がある。
コンプラ的にアホという言葉がTVで使えるギリな気がしていて、
あとエースの面白さってアホの部分じゃなくて感性の部分だと思うので、
この展開が嫌って思う人もいるだろうけど、自分としては面白かった。
最後のエース、間とか言い方がめちゃくちゃ上手いのでエースの良さも出ていると思う。
いまフジテレビの番組を見てとは言いずらいし、ロム専SNSで宣伝しても
みてもらえないと思ったので書いてみた。
楽しみにしている。
難しいよな。
おれも思うところがあるよ。
結局、そういうのってゼロヒャクじゃなくて、相手の微細な反応を読んでこの人ならこれぐらいは踏み込んで大丈夫だなと見極める判断能力が必要とされるんだと思う。
生存競争みたいなもので、結果的に適切な距離感で踏み込めた人間は成功するし、距離感を間違ったやつは見えないところで淘汰されてる。
あとは当事者の魅力。同じことをしてても、相手から望まれない人間は排除される。
みんなコンプラに違反しないかビビってるから自分からは踏み込めない一方で、相手から来てくれなかったら「この人は自分に興味ないんだな」と判断されたりする。
終わりなんだよ。
人間社会はもう、18歳までに適切な人間関係を学べなかった人間は、その後の社会ではたった1回の失敗でそのコミュニティでは悪人の烙印を押される。
それをみんな心の底では感じてるから、余計に踏み込めない。
人間に求められる当たり前のハードルは、時代とともにどんどん上がってる。
どこかでこの流れが止まってほしい。
人を傷つけたり、不快にさせたりするのはそりゃ良くないけど、人は生きている以上、容易に誰かにとっての加害者になり得るんだよ。
どんな善人でも。
人間はそんなに立派な生き物じゃないということを社会に思い出してほしい。
でも、そんなことは、それこそ立派な人間じゃないと出来ないのかもな。
こんな事言うと自分が立派な人間だと言ってるように聞こえてしまうかもしれないけど、
戦争世代がまだ言論にいた頃だったら絶対に信じられないような発言が飛び出しててビックリしてるんだが。
フジテレビ問題 「重大コンプラ違反でも免許取り消せず」と総務相
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20250204/k00/00m/010/190000c
本業に一切関係ない、たかが性犯罪一つで放送免許取り上げてしまえとか言い出す醜態がヤバすぎるでしょ。
マスメディアが政府に介入される隙を与えず自由にし続けようと、戦後の日本のメディアは延々と戦い続けてたのはもう無かったことになったの?
そんなに信用できる政府になったっけ?相変わらず自民党が与党のままだってのに。
量刑でいえばショボい性犯罪で放送免許取り上げできるなら、社員がどんな犯罪しても政府はいつでも放送免許取り上げてよくなるんだが。
免許はく奪をチラつかせ、共謀罪とか比じゃないくらいに政府はマスコミに圧力かけ放題になっちゃうんだけど本当に理解してる?
政府がハニトラなりちょっと工作するだけで簡単にマスメディア操作できちゃうわ
以下、池澤夏樹の文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。
川村裕子・訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性の立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙やLINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性、結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。
こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか。
田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女の青春と重なった第二次世界大戦の空気だろう。
後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。
余談だが、平安時代の著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊や生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。
話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり、政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想に燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。
なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティに所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか。趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。
人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である。
元カレの弟(帥宮敦道親王)からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズで和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注。
注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分は文学を研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部の感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮、自分は楽しむことが主である素人である。生活の種には到底できまい。
あまりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。
やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。
ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーンは日本人の日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおもぼのぼのの人生相談で「世界で一番面白い本は自分の日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。
思うのだが、本を読む男性が文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手の属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプの女性に片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分の片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちはゼロにはならない。
やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名でしか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。
困ったことに、他人に批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口は依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。
実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。
確かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。
なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分の感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。
実際、今は過去の出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能や暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか。
最終選考の電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。
だが、若い頃は創作によって自分の感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実を直視したほうがいい。事実を日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。
「結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹のリストにあったもの、神話物語、歴史書、それから江戸時代の物語だ。
まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に「日本霊異記」はKADOKAWAが現代語訳を出している。それから、神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。
歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから「吾妻鏡」も気になっている。この並びからは大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ、自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。
あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹の日本文学全集の現代語訳が訳者の個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである。
「好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。
あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。
読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから、卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。
同時に、自分の感受性がゆっくりと時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これからも古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。
そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。
確かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したことを意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。
叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分を幸せにしてくれる。
そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。
以上。
30代後半の男。
身長体重は普通。見た目もまあ普通と思う。高校時代には同級生と付き合ってた。
で、上京して、女遊びをしたくなった。まずモテるためにとにかく清潔感は気をつけた。小まめな散髪、眉毛カット、常にコンタクト、ファストファッションでもいいからサイズの合う新品、人と会う前はシャワー、直前や中座してブレスケア。
会話面では高圧的にならないようにとか、下ネタを言わない、あと何より相手の意見を肯定するとかの基本を抑えた。
1年目は東京や学生生活に馴れるのに精一杯だったが、2年目からは成果が見え始めた。2年の夏休みから女と寝なかった月はまったくないと思う。
20代まではそのまま常に女には困らない程度にはモテた。ナンパとかはやってない。
大学時代はイケメンや面白いやつには負けるけど、「相談しやすい人」という枠でサークルやバイトの後輩の誰かとはいい雰囲気になってた。
意識的に3番手を狙った節もある。競争率低い、というか競争するほどではない手軽さ、それでいて他の男よりは身綺麗にしてるちょうどよさみたいなのを意識した。
大学生の男なんて(とくに20年近く前のZ世代など影も形もなかった時代は)みんな大体清潔感なくて、女にもだいたい偉そうですぐ下ネタを言った。なので逆をやってるだけで、平均よりかは相対的に上になったんだよ。
良い行いではないとわかっているが、大学とバイト先とで常にセフレが三人くらい同時並行いた。
色んな女の子と遊びたいから彼女になりたがってるなーと思ったらリリースしてた。まあ裏では実は評判悪かったかもしれない。
卒業してからはマッチングアプリをやると学生時代よりから面倒になったが誰かとは常に男女の関係になって、もう一人くらいはキープできてた。あと趣味のサークルとかね。これも女の子多いとこを狙ってた。
基本は2歳差くらいが一番相性よかったけど、20代後半は10歳近く年下とも結構関係持ってた。いわゆる周りの男がガキに見える女の子みたいなタイプ。これもまあ褒められたことではないと分かってるので、友達とかにもあんま話したことはない。
逆に年上とも年下ほどは多くないがちょくちょくあった。
就職してからは仕事の人と男女関係になったことはないので、そこらへんのコンプラに関しては心配していない。
同意形成も意識して、酔わせた勢いでみたいなこともない。酔いすぎてたらなにもせず帰した。
一般的な痴話喧嘩以上になったことはない。大学以降は誰か特定の相手と付き合ってなかったし、そこを誤解させることはしなかった。
なんにせよ、ナンパ師ほど数を自慢できるわけではないが、とにかく女に飢えたことがない。風俗とか行く気がしれなかった。特殊なプレイをしたいならわからんが。
そんな感じで、女遊びをしようと思った18歳から20年弱、ピークは28歳だっただろうか。セフレが5人いるみたいなのがデフォルトだった。自分がテクニックも上がったのか、大学生の頃より明らかに色々手軽になった。
このまま自分は上手く女の子と遊んで、イケおじポジションに落ちつけるのだと思い込んでいた。なにせ年々成果は上がってるのだから。
が、甘かった。というか勘違いだった。30歳を越えたあたりで怪しくなり、半ばを越えて確信した。モテなくなっていってるのだ。
とにかく同じことをやっていても、女の子といい雰囲気にならない。同世代は清潔感があるだけじゃ足りないし、結婚も視野に入れるか、そうでなくとも20代みたいなズルズルした関係を望む子は絶対的に少なくなった。
30代にもなってそういうことやってるのはみっともないという見方が強まった。後半になればなるほど強まる。
この年になるとむしろ遊び好きは不倫してる人たちの方が多い印象すらある。結婚してなくとも、決まった恋人がいる人が多い。
いや20代でも社会人になれば一般的にそうかもしれないが、風当たりの強さがぜんぜん違う。その風は年々強くなる。
そして、そういうルーズな男女関係を望むタイプの20代半ばまでの若い子は、29歳はギリ「周囲のガキな男とは違う話のわかるお兄さん」と見てくれていたが、30代になると一気におじさん扱い。もう本当にぜんぜん違う。35歳になると物の数にも入らない。
「19歳や20歳から見たら28歳はおじさん」も正論とは思うし、勘違い男を増やさないためにも、それを世の中的な正論とすべきと思う。
だが自分の見てきた現実ではそれくらいならお兄さん扱いしてくれる子も結構いる。相当いる。少なくとも30歳のおじさん扱いとは雲泥の差。この2、3歳は天と地ほど差がある。これは世の中的に正しい正しくないではなく、俺の実感ベース。
もう本当に年齢言った瞬間に態度がぜんぜん違う。
マッチングアプリなんかは年齢でソートできるからマッチ数が露骨だし。
40代以降も女遊びしたいなら相応の収入と地位が必要になるのでそこをがんばるのは当然として、女遊びは卒業してどこかに落ちつくか、それとも一発勝負のナンパ師、パパ活なんかすらも見えてくる。
そういうのが嫌なら本当に落ちつくべきなんだろうなと思って最近は遊ぶのをやめて、真面目に一人の女性と交際している。結婚するかはわからん。結婚するかもしれない。不倫のチャンスがあったら我慢できるだろうか。