はてなキーワード: 自覚とは
それは確定事項なのか?
それは何を根拠にそう考えたのか?
本人に体調が悪いという自覚が無ければ「はぁ?何が大丈夫?なんだ?」
となるのは当然ではないのか?
本人に体調が悪いという自覚が無いのに「大丈夫?」と聞かれたら
とっさに「自分の体調が悪いと心配してくれたんですね、何も悪いところはありません。心配してくれてありがとう」
と察して反応して欲しいということか?
あるVtuberが好きだった。
シンプルにビジュと声の良さ・キレ味のある語彙・頭の回転の速さ・ゲームの上手さ・歌・なにもかも完璧に思えて、一時期は長時間配信を鬼リピしてたほど。
一方で軽率で過激な発言が目立つ配信者でもあり、案の定たびたび炎上していた。
正直その部分に関しては止めて欲しかったけど、いつか変わってくれるだろうと信じて推し続けるしかなかった。
彼は変わらなかった。そして私も離れられなかった。
口の悪さや"言ってもいいライン"を軽々と飛び越える過激な言動に驚き、傷つけられながら、それでも配信を観るのを止められなかった。
彼は精神障害を嗤う発言もしていて、軽度ではあるもののモロに該当する私は深く傷ついたが、
大物配信者はアンチのコメントに常に晒されているのだから、心にもないことを言う時もあるだろうと自分を納得させていた。
依存していたのだろうなと思う。
けどある時、彼はコメント欄に湧くアンチに対し、容姿を揶揄するような言葉を吐いた。
なんてことはない(ことはないんだけど)、「こんなコメントをする奴らは顔に出来物が出来ているような奴ら」という、その程度の。
それが、なんというか凄く"効いて"しまったのだ。
振り返って分析してみるとその揶揄そのものが効いたというより、ちょっとずつ蓄積していったものがあふれた瞬間だったのだろうと思う。
そして遅まきながら気づいてしまった。
その時すでに彼はVの中でもトップ層に位置していたし、正直なところ何を言って炎上したところで許されるターンに入っていた。
上手く伝えられないが、反省も変化もないことに憤りを感じたのではない。
何を言っても許される段階まできてしまった彼にとって、多少の悪辣な発言の類は、きっと何を言ったかの自覚もないまま、彼の中で"そんなこともあったね"で処理されていく。
彼がアンチを攻撃するつもりで放った言葉によって同時に傷つけられた彼のファンは、彼の中で"配慮にも値しない"のだ。
被害妄想と言われるかもしれないが、その考えに至ったとき、もう本当に心が無理な時期で、これ以上ここにいると本当に駄目になってしまうと思って、私は彼の配信を観るのを止めた。
笑われるかもしれないけど禁断症状のような行動を繰り返していた。
スマホを渡した友達にツイッターアカウントをブロックして貰い、彼が所属する箱そのものにも近づかないように視界にも入れないようにして嵐をやり過ごし、ようやく安定したと思う。
ここまでが数年前の話。
ドラマやアニメの主題歌を手掛けさせれば恐ろしいほどの解像度を発揮し、その優しい歌声に何度救われたか分からない。
その推しが去年の紅白に出演した時の場面をYOUTUBEの公式チャンネルで観ようとしていたときのことだ。
元・推しの彼が、推しの歌手の、まさに私が聴こうと思っていた歌を歌っていた。
その清涼感のある白いサムネを観た時、一瞬、見間違いかと思った。
よりによって、あなたがその曲を歌うのか。
世の中に埋没し、時に邪見に扱われ、それでも確かに存在して、自分だけの戦いを行う人たちの歌を、
差別や排斥に対する怒りの歌を、よりにもよってあなたが歌うのか・・・。
怒りとかではなく、どこか納得してしまった。
もう過去ほど不安定ではないが、忘れていた感情が噴出してきそうで、その歌みたは結局観れていない。
でも彼が過去の行動や発言を省みて、その反省の気持ちを込めて・・・とかでは無いのだろう、たぶん。
何をしても許される領域の人間は、ただ良い歌だからという理由だけで、そこに込められたメッセージや自分の過去を省みることなくこの歌を歌えてしまう。
なんだか答え合わせをしてもらった感覚だった。
ちなみに人づてに聞いたが、最近も元・推しの彼は炎上したらしい。
でも、きっと許されたのだろう。
これからも彼は少数のファンごとアンチを焼き払い、許されながらやっていくのだろう。
※ちなみに今確認したら、元・推しの歌みたはアップロードされたのが2か月前、現段階ですでに350万再生くらい。相変わらず凄いや。
父親とその妻(こちらは自分と血が繋がっていない)が祖母を虐待していることが判明したので、祖母を逃がしつつ、弁護士を入れて祖母から父親に継続的に行っていた各種支援を打ち切ることにした。父親の収入源はほとんど祖母からの支援に依存しているはずなので今後は相当困るはずだ。実家は一族経営の零細企業で、特に法人を畳んでからは公私の区別無く資産を管理していたので計画も実行もかなり大変だった。
祖母が虐待を受けていたことについてはある程度因果応報な部分もあると思っている。一族経営の零細企業の後継者として育てられ望まれた成果を出せなかった父は、明らかに経済的に祖父に依存した生き方をせざるをえず、公私を問わず(そもそも父だけでなく一族経営の零細企業の家族には公私等という概念がないのだが)祖父のいいなりだった。そしてそう言った状況を作り出すことに祖母も多少なりとも加担していたのだろう。祖父亡き今、祖母への虐待は彼なりの復讐として正当化されているんだろうし、実際父を直接とがめた際にもそのような言い訳をしていた。
父はよく、自分の境遇への不満を口にしていた。自分がいかに引かれた線路を走らされただけの人生だったのか。やりたかったことが出来ず、言いなりの日々を過ごしてきた自分がどれだけ不幸なのか。同じ祖父母に育てられながら大学院まで出して貰ったお前が、自分と比べてどれだけ恵まれているのかを自覚しろと詰め寄られたこともある。
既に書いたが、俺は父の虐待行為に一定の理解を示している。その上で父親から全てを奪い取るような(ただでさえ仕事がクソ忙しい年末年始に)計画を立てて実行したのは、その手前の段階で祖母を実家から転居させる形での提案をした際の父の対応が許せなかったからだ。父はこちらからの提案を殆ど聞くこともなく、「すべて祖父が不甲斐ないせいだ」とか「俺が今までどんな仕打ちを受けたか知っているのか」といったような正当化と自己憐憫に終始する様はあまりにも醜く、いつまでも自分の人生の言い訳に親を使っている父が気持ち悪くて仕方が無かった。
実際勉強して祖父に自分の選択を認めさせた俺のように、彼が彼自身の人生を選ぶタイミングはいくらでもあった。いくら言い訳をしても結局彼の人生の責任を取るべきは彼自身であるべきと今では強く信じているし、結局彼の不幸な人生とは常に他責で問題の解決から逃げ続けてきた結果でしかなかったのだろう。もはや更生にはすべてが遅い気がするので、『息子に裏切られた可哀想な自分』という新しい不幸エピソードが彼の人生の慰めになることを祈る。
「普通の暮らしを知らない街でしてみたい」なんて聞こえは良いですが、実際には自分で何も調べる気もなく、他人に責任を押し付けているだけですよね。結局、あなたが求めているのは「自分で選ぶ責任から逃れるための他人の意見」でしかありません。それってただの怠惰ですよ。
生まれてこの方、札幌からほとんど出たことがない自分の視野の狭さを直視することなく、「五能線にはいつか」とか「島根も気になるけど今は違う」といった曖昧な言い訳で、行動しない自分を正当化しているだけでは?自分の人生に興味を持っていないのはあなた自身であって、他人に「ここいいよ」と言われたところで、何一つ変わらないでしょう。
そもそも「普通の街」なんて曖昧なものを基準にしている時点で、あなたが本気で行きたい場所なんてないことは明白です。ただ「環境を変えたら何かが変わるかも」という甘えた幻想に浸っているだけで、本当は自分が何を求めているのかすら分かっていないのでは?自分の無気力さを旅に責任転嫁しないでください。
「どうせなら西日本」程度の発想しか出てこないという自覚があるなら、まずはその浅はかな思考から変えたらどうですか?現実逃避のために一時的に違う場所へ行ったところで、あなた自身が変わらない限り、どこに行こうと何も得られませんよ。自分の無策さを恥じるところから始めるべきです。
3年前に書いた、長らく不登校をしていたことが原因でコミュニケーション力が他人と比較して足りていないと感じる内容の増田を書いたけど、大学卒業して社会人一年目の今でもそれはたまに感じているし、コミュ障の自分を自覚することは度々ある
でも社会人でのコミュニケーションはいわゆる報連相を意識したり、周りの方の連絡のやり方を参考にしたら、だいぶ楽になってる
不登校からの社会復帰という面では、会社の雰囲気が自分にあってると思うことや、たまにリモートしながらお仕事してるので不登校だった自分が信じられないほど普通に働いている
休みの日は友人や恋人と遊んだり好きなことやったりしていて、なんだかすごい充実しててたまに涙が出そうになる
不登校や保健室登校していた時期が長かったけど、そこそこの大学入ってホワイト寄りの会社で働けているので人生って何が起こるかわからないのだから悲観することはないのだなと思いました。
3年前に分かりづらい長文で悩みを書いた際にコメントをくれた方がいたのですが、涙が出るくらいすごく嬉しかったです。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
完全に嫉妬ですよね。自分の旦那さんが優しくなくて本当は優しくしてほしいのに現実はそうじゃないから、優しい旦那さんがいる人に当たってるんだと思います
自分の本心を自分で把握してない人ほど他人様と自分の境界が曖昧で、自分の感情すら他人様のせいにするんですよね
自分が結婚できてないことに納得がいってないんでしょうね…。諦めたのは自分自身なのに、そうなってる現実そのものが受け入れられてないから悔しくて幸せな人に片っ端から嫉妬してるんじゃないかと…
描いてる間にピクチャーインピクチャーにして動画を見たり、隙あらば開きっぱなしのブラウザでSNSやヤフーニュースやはてブを見ている。というかほぼ見ながら描いてる。
なので絵の進みは遅いし、絵にまつわる不安(見て貰えるだろうかとか評価されるだろうか)というのを紛らわせるためにブラウザを開きっぱなしにしてるので、はてブやSNSでの話題や評価されてる別の絵を見て余計に不安やストレスを溜めているという悪循環に陥っていた。今から思うと。
とはいえ映画観るのは時間かかるし、某ゲームクリエイターもエアロバイク漕ぎながら映画とか観てるとの事で「マルチタスクかっけー!」な憧れもあってやめられなかった。
あと冷静になるとニュースとかは基本半日〜一日の振り返りでいいレベルだし速報は通知設定にすればいいのに5分10分でチェックしてるのも異常だった。そら進み遅いわ。
ただ去年上半期くらいは見たい映画や行きたいライブもあったが、それ以降があまり無かったのと原稿の忙しさもあって映画館のような強制的に集中するような場所に行けなかった。
そのうちに職場の忙しさも相まってどんどんメンタルを崩していき、いつしか絵すら描けなくなっていた。
これはやばいと思い、擬似映画館を作ろうとでっかいチューナーレステレビといいヘッドホンを買った。そして、ながら作業して全然進まないなら2時間映画観ても同じじゃね?と思い真っ直ぐ一つの画面を見てみた。
私は漫画が読むのが苦手。
厳密に言えば読めなくはないけど、後述する問題点の影響で疲れるので結果的に読む機会が少ない。
子供の頃から漫画はある程度読んではいるけど、結果的にアニメや映画や小説を見るのがメインで、今までの人生で漫画というものをあまり見たことないなと大人になってから人生を振り返った時に気がついた。
まず1つ目が、コマ割りが作者や作品によって変わるので1ページにおけるコマ割りが多いとどのような順番で読めばいいのか分からなくて混乱する。
台詞も読む順番が入れ替わっても成立するページとかだと、正解の順番が分からなくて困惑する。
2つ目が吹き出しのセリフしか見てなくて絵を基本的に殆ど見てない。というよりも一瞬だけ絵をチラっと見て次のページに移るので、「ドッカーン」とか「ズバッ」みたいなオノマトペというか効果音の文字が目に入らない。
どうも自分の中で、「漫画の絵=挿絵」程度にしか思ってないのか、どんだけ描き込まれていてもページ事にじっくり見ることが無いし、寧ろ情報量が多いと目を逸らしてしまう。
絵も台詞も一緒に見るというのが難しい。無意識に出来ない。字幕映画なら出来て見れるのに。
だから、「このコマに書いてある◯◯って――」という話が出る度に皆そんな細かい所まで一々見ているのかと思う。
なので、例えば独特な効果音で有名なジョジョとか読んでいても「あそこの◯◯って効果音面白いよね」とか言われても全く気がついてなくて、指摘されて読み返して初めて気がつく事が多い。
私は吹き出しのセリフ等の文章を読んでいるだけで絵を含めた漫画を読んではいないんだなと大人になって自覚した。
そういう点では一定方向に進むだけの映像作品や小説は楽だなと思う。
3つ目が絵でしか説明されないシーンだとどういう意味なのかだとか、どう解釈していいのか分からなくて困るという部分。
これは私自身に問題がある部分もあるとは思うけど、作品によっては本当に分からなくて困る。
映像作品なら前後を含めた動きで把握出来るし、小説ならある程度書いてくれるので理解出来るけど、漫画だと一言二言程度の台詞だけで後は絵で説明する感じなので悩む。
場合によっては台詞も無く絵のみのシーンだと何やっているか分からない事が多い。
例えばギャグ漫画はあまり読まないけど、たまに見ても絵で説明するシーンが多いので「これは何がネタで、どこで笑えばいいんだ……?」と困惑する事が多いのでギャグ漫画は読まなくなった。
ここまで書くと無理して読まなくてもと思われそうだけど、気になる作品はあるので読みたくても読むのに問題を抱えているという状況にモヤモヤしてしまう。
漫画好きな人とか見ていると、よくそんなに読めるなと思うし羨ましく思う。
ただ調べると私みたいな人は以外といるみたいなので、珍しい問題ではないのかな。
「ノンデリ」って言葉、最近よく聞くけど、正直なところ、それを使ってる人たちのセンスや知性に疑問を感じずにはいられない。誰が始めたか知らないけど、その軽いノリで作られた言葉が、ここまで広まるのが怖い。だって、冷静に考えてみてください。「ノンデリ」って何?言語として意味が破綻してるんですよ。
まず、「non-」って英語の否定を表す接頭辞と「デリカシー」をくっつけたものらしいけど、これ、英語圏の人が聞いたら「え、それ何?」ってなるやつです。元の英語 "delicacy" は「繊細さ」とか「優雅さ」みたいな意味で、英語で「non-delicacy」なんて表現、そもそも存在しない。日本語としても「デリカシー」が「配慮」や「気遣い」の意味で使われてるから、文法的にも意味的にも二重におかしい。
で、そんなおかしな言葉を使う人たちって、自分が「デリカシーがある側」だっていう謎の優越感に浸ってるんですよね。いやいや、ちょっと待ってくださいよ。その言葉を使うことで、あなた自身の品位とか知性がガタ落ちしてるのに気づいてますか?むしろ「ノンデリ」なんて言葉を使うこと自体が、デリカシーない行為そのものなんです。
しかもこの言葉、他人を「お前デリカシーないな」って簡単に切り捨てる道具にされてる。それ、めちゃくちゃ傲慢だしコミュニケーションの放棄じゃないですか?ちゃんと伝えるべきことを言わず、浅はかな言葉で相手をラベリングすることで、何が生まれるかって?対立と分断ですよ。
最後に言いたいのは、「ノンデリ」を使うことで自分を正当化しようとするその姿勢が、何よりも恥ずかしいってことです。本当に他人の言動に問題があるなら、もっと的確で深い言葉で伝えるべきです。軽々しい造語に頼っている時点で、自分の語彙力と考えの浅さをさらけ出しているんですよ。
だからお願いです。「ノンデリ」という言葉を使うの、そろそろやめませんか?それを使うたびに、あなた自身の価値が下がっていることを、そろそろ自覚してほしいんです。
年一くらいで実家に帰省してて、その度に思うんだけど、親が会話不全でキツイ。小さい頃から親との会話はキャッチボールというより千本ノックのようなもので、親は基本的に自分の言いたいことばかり言って、相手の言い分は聞き入れない。こっちが少しでも不服そうにすれば、何が不満かとか聞いてくることもなく、すぐに逆ギレするか不貞腐れて投げやりになるか。両親は似た者同士だからか言い争いはしょっちゅうで、お互いに自分の非を認めることがない。聞いていてとても醜く幼稚な言い争いをよくしていた。(ようやく片方が少し丸くなったけど、割と最近のこと)
こんなん浴び続けて、どうやって外の世界で自分の意見を言ったり、円滑に他人様とコミュニケーション取れというのか。特に社会人になってから、どれだけ苦労したか。自分では表面上はある程度繕うことはできるてると思ってるけど、気質はすっかり親と似てしまった自覚があり、それを押さえつけながら話すからぎこちなくなることもある。こんなんだから、プライベートでも基本的に他人様との交流はしない。というか、他人様と交流して仲良くなってくるとストレスが溜まるからできない。自分も立派にコミュ障だわ。
一見奥さんが激しい人っぽく書いてるけど、それだけ追い詰めてるってこと。
そして「そんなふうに感情的になる妻が悪い」といつも思い、それ前提に行動している。自分が追い詰めているにもかかわらず。
こういう時には妻のように怒ればいいんだと娘が学習しないように怒らないでほしいと伝えていた。
ならば増田のように他人に「頭がおかしい」とか「バカなの?」と学習して言い出すのはどうなんだ? 自分は酷い言葉を口にして妻をばかり責めるのはダブスタじゃないのか?
人に言う前に自分が娘に対して良い姿を見せるべきだったんじゃないのか?
芸能界なんてヤクザみたいなのが仕切ってるって分かってるよね?
少しでもテレビ見たことあれば女子アナ(特に民法女子アナ)が一種の芸者稼業でジャーナリズムから程遠いことなんて分かってるよね?
女子アナになる時点で良識の通じない芸能界に足踏み入れてるって分かってるよね?
それでもキラキラした世界で一般人にチヤホヤされたい、って思って選んだ道なんだよね?
性についてモラルの欠片もないような世界に自ら望んで飛び込んでいって、当たり前に性被害に遭って、なんでそれを異常事態みたいに言えるのかな?