はてなキーワード: 王朝とは
しかし、それは**「盛唐の繁栄」**のような一時の幻影にすぎなかったのではないか。
京都本社はまるで長安のごとく、黄金の瓦が輝き、経営陣は「任天堂の時代は続く」と豪語した。
だが、いまその都の地下では、制度が腐り始めている。
Switch帝国はすでに、静かなる安史の乱を迎えているのだ。
唐王朝が詩と礼の形式に縛られたように、任天堂もまた「伝統」の檻に閉じ込められた。
一見、美しい理念だ。だがそれは同時に、挑戦を抑圧するシステムでもある。
内部では新規IPは通りにくく、革新よりも“前作の延長線”が求められる。
若い才能は沈黙し、外部のスタジオに依存する比率が増えている。
それはもはや「遊びの会社」ではなく、形式を守るだけの官僚機構だ。
いまや多くの開発が社外で進められ、本社は“監修”と“承認”しか行わない。
それは、かつての唐が地方軍閥に統制を失った姿とまるで同じだ。
「任天堂ブランドの統制」を掲げながら、その実態は分権化の嵐。
唐の末期、民の不満が爆発して起きたのが黄巣の乱だった。
その炎が都を焼いたように、いま任天堂を蝕むのはユーザーの無言の反乱だ。
SNSにはこうした声が並ぶ。
その兆しは、すでに“数字に現れない危機”として進行している。
■「盛唐の夢」から醒めよ
唐の玄宗は晩年、滅びゆく王朝を前にしてなお、「盛唐の夢」を見続けた。
任天堂もまた、Switchの成功を“永遠の栄光”と錯覚している。
「任天堂らしさ」という美辞麗句の下で、創造の精神は失われつつある。
経営陣の決断が遅れ、技術革新に出遅れ、クラウドやAIの波を見逃す。
その様は、かつて文明の中心にありながら衰退していった唐と何が違うのか。
唐の長安も、いつか砂に埋もれた。
任天堂のSwitch帝国も、いずれ同じ運命を辿るかもしれない。
任天堂が“盛唐”を抜け出せるか、それとも“後唐”として歴史に消えるのか。
その分岐点は、もう目前に迫っている。
近年、「末代」の誤用が指摘されることが増えてきた。
たとえば「子供ができないので私が末代だ」などの発言に対して「誤用である」と言うのである。
「末代」とは自分が死んだあとの「遠い未来」のことであって、「最後の代」の意味はない、というのが誤用派の主張である。
末代,汉语词语,拼音mò dài,注音ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ,外文名the last reign of a dynasty,原指一个朝代的最后一代,最早记载于东晋王嘉《拾遗记·秦始皇》。
「末代」(中国語の語彙、拼音 mò dài、注音 ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ、英語 the last reign of a dynasty)は、もともと一つの王朝の最後の一代を指す語で、最初の記載は東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に見られる。
「王朝の最後の一代」を指すというので、まさに「初代」の対義語としての「末代」である。
たとえば、清王朝の最後の皇帝・溥儀を描いた映画『ラストエンペラー』の中国語題が『末代皇帝』であることからも、そうした意味で流通していることがわかる。
ただ、もともとは中国でも「後世」という意味で使われることが多かったようだ。
初出とされている東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に書かれているのも「末代浮誣(後世のでたらめ)」といったような用法である。
「末代皇帝」のような用法は、おそらく明代にはあったようだが、そこからどこまで遡れるかはわからなかった。
(明代の『卜筮全書』の注釈に「桀 夏朝末代君主」とあったが注釈が後世のものという可能性はある)
さて、それでは「末代」は日本ではどう使われてきたのか。
「末代」という語は、平安時代から概ね「後世」の意味で使われてきたようだ。
「王朝の末代」と言う場面がなく「末代天皇」などもいないのである。
とはいえ、日本に「末代天皇」はいなくとも「末代将軍」なら存在する。
実際に、国会図書館DCで検索してみれば、明治時代の書籍に「足利の末代」や「徳川末代将軍」のような言い回しを見つけることができる。
また、中国の歴代王朝を紹介するのに、その初代と末代を書き並べているものなどもあった。
であれば「末代」を「最後の代」という意味で使うのも問題はないと考える。
もちろん「あくまで日本では『後世』の意味がメジャーなんだよ」という主張はできる。
しかし「最後の代」という用法も少なくとも「誤用」ではないし、わざわざ修正する必要もないと思うのである。
なお、
死んでからのちの世。
という辞書の説明を見て「末代」を「死後の世界(あの世)」の意味だと早合点している人もいるようだ。
「末代」を「後世」とするか「最後の代」とするかは解釈の問題であるが、「末代」を「あの世」とするのは完全なる勘違いであるので定着しないことを祈る。
そこには二人の王子があった。
兄は岩の塔のごとく静かに立ち、
父王の影を継ぐ者として人々に仰がれた。
弟は風の笛のように軽やかで、
王宮の調べを己の胸に響かせることはなかった。
その姫は光をまとうも、
王宮の律に馴染まぬ星であった。
されど弟の眼には、
その光が唯一の道しるべとなった。
こうして弟は、姫に導かれ、
波のかなたへと去り、
城には父王と兄王子とが残された。
そこにあったのは沈黙と嘆き、
そして空虚の鐘であった。
やがて父王の胸に病の影が差し、
国土を覆う霧のように広がった。
その報せは海を渡り、
弟の耳に届いた。
彼は灰色の門をくぐり、
父王の館の扉を叩いた。
ふたりは茶を分かち、
その盃より立ちのぼる湯気は、
風となって広間を満たし、
堅く閉ざされた扉に、
かすかなひびを刻んだ。
そのひびはやがて道となるのか、
あるいは石に吸い込まれて消えるのか。
それを知るのは、
ただ霧の向こうに住まう時のみであった。
根拠と注記:
中国の都市部の公式失業率(調査失業率/城鎮調査失業率)は、2022–2023年に若年層で高止まりし、若年失業率は歴史的に高い水準を記録した時期があるが、公式の「過去最大」と断定するのは文脈依存。全国ベースの長期統計と定義が変わるため単純比較は誤解を生む。
インフレ(消費者物価指数 CPI):近年はゼロ近傍〜低めのインフレ率で、2022–2024年はデフレ圧力や低成長懸念がしばしば報じられた。したがって「インフレに苦しむ」と一括するのは誇張の可能性あり(局所的・品目別の価格上昇はある)。
税収について:中国の中央・地方の財政・税収は2020年代に回復基調で増加した年もあるが、「過去最大」の主張は年次・範囲(中央のみか全国か)を特定しないと検証不能。2021–2023年には税収増の年もあるが、それが歴史的最高かは年度比較が必要。
判定:誤解を含む。
根拠と注記:
中国政府は感染症対策や景気対策としてインフラ投資、減税・猶予、中小企業支援や雇用促進策などを行ってきた。直接的な現金給付(欧州や米国の大規模一時給付)とは異なる形だが「支援を一切行わない」は事実と異なる。支援規模や対象に関する評価は分かれる。
根拠と注記:
共産党員(党員)と公務員や党幹部の給与政策は別々の制度だが、公的に「党員の基本給を一律で30%引き上げた」という公式発表や信頼できる報道は確認できない(2025年9月時点の公開情報に基づく)。賃金改定は段階的・職位別で、地方ごとに差があるため一律30%増という断定は疑わしい。
判定:過度な単純化。
根拠と注記:
アリババや中国のハイテク企業が直面した困難(規制強化、独占禁止調査、金融持株会社構造改革、景気後退、消費低迷など)は複合要因による。政府支出・税収や党幹部の給与だけを原因とするのは因果関係の過剰単純化。
判定:誤り。
根拠と注記:
中国史では複数回の「天下統一」が存在する(秦・漢・隋・唐・元・明・清など)。王朝の交代は長期的周期で繰り返されたが、「天下統一されたことがない」は明確に誤り。
「200年足らずでどの国も滅んでた」というのも一般化しすぎ。王朝の寿命は短いものも長いものもあり、地域や時代で差異が大きい。
「今回の中国もチベットや香港取れずにそろそろ国が終わりそう」
判定:誤り・推測的。
根拠と注記:
チベットと香港は現状で中華人民共和国の一部と位置付けられており、特に「取れずに」や「国が終わりそう」といった表現は事実に基づく分析ではなく予測的・感情的評価。国の存続を左右するかどうかを示す具体的根拠は示されていない。
共産党員の一律30%昇給など具体的政策の主張は確認できず誤報または根拠不十分。
2021年の岸田政権から売国政策が加速したけど、やっぱなーって感じですわ
Japan fast becoming a nest of spies:
https://japantoday.com/category/features/kuchikomi/japan-fast-becoming-a-nest-of-spies
「六本木の星条旗通りや歌舞伎町の職安通りにスナックを開店しないかと誘われた」と、訪日外国人向けのホステルを経営するこの男性は、アサヒ芸能の記者に語った。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる訪日旅行者の激減で、彼のビジネスは当然ながら資金繰りに苦しんでいました。そんな時、ある中国人から「おいしい利益」を生み出す取引を提案されました。
「パンデミックのおかげで、倒産した店の跡地に進出するチャンスはたくさんあります。全額融資します。スタッフとして入店すれば、固定給に加え、利益率に応じた歩合給も受け取れます」と中国人から言われた。
「外国人に人気のエリアというだけで、本業との相乗効果で大儲けできるという直感がありました」とホステル経営者は語った。しかし、その後、彼の表情は一変した。
「店には隠しマイクと隠しカメラが設置されており、外国人要人や省庁の官僚が来たら必ず報告するように言われました。『最悪の場合、赤字でも構わない』と中国人男性は言いました」
日本は6月10日から外国人団体旅行客の受け入れを始めたばかり。警視庁目黒署は22日、講演会を開き「スパイから接触があったと感じた企業職員が相談しやすい環境を整えたい」と呼びかけた。
しかし、場合によっては、まったく見知らぬ人のアプローチから始まることもあります。
「2月の北京冬季オリンピック開幕の約2か月前、上海公安警察員を名乗る『李』という男から携帯電話に電話がかかってきました」と、アジアから商品を仕入れる貿易会社に勤める男性は語った。「彼はチベットやウイグルの政治活動家のリストを入手してほしいと頼んできました。どうやら日本当局はCIAからそのようなリストを入手していたようです。もちろん断りましたが、彼は『心配するな、日本の警察が金で売ってくれる』と言い続けました」
「日本における中国の諜報活動において、経験豊富な諜報員が関与している例はほとんど見られません」と、日本政府筋はアサヒ芸能に語った。「中国は日本の先端技術、特に医療と通信分野をターゲットにしています。そのため、日本の大学で学ぶ学生のリストを作成し、彼らの求めるものに応じてアプローチしているのです。」
これらのリストには写真も保存されており、魅力的な女子学生は、新宿の歌舞伎町や四谷付近のクラブでアルバイトをするよう奨励され、そこでアナグマの罠にかける日本人のターゲットを仕向けられる。
国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、「中国国民や企業は、政府から指示があれば、スパイ活動に従事するのは事実上義務です。多くの場合、家族の年金の増額や帰国後のより良い仕事の約束といった特典が提示されます。しかし、拒否しても家族の安全は保証されません。いわば、家族が人質に取られているのと同じなのです。『祖国のために』と促されると、結局、断れる人はほとんどいないのです」と解説する。
ロシアのGRUと北朝鮮の工作員たちも日本の脆弱性を嘲笑している。
「日本は北朝鮮の貯金箱になっている」と政府筋は述べ、パチンコ店や焼肉店の経営者が北朝鮮の家族に送金している実態を指摘した。「北朝鮮軍の選抜メンバーは簡単に中国のパスポートを入手し、日本に潜入できる。しかも、彼らは中国のパスポートで渡航しているため、簡単に拘束されることはない」
アサヒ芸能によると、日本のこれまでの諜報漏洩対策は、諜報活動の監督を担う外務課長や警察署長を通じた「アウトリーチ」だった。こうした取り組みは、2018年からアメリカのFBIに設置された「チャイナ・イニシアチブ」を模倣したものとされている。
以下コメント
中国は他国の内政に干渉しないと主張してきたが、それは間違いだ。
現代における幕末2.0。日本は多くの外国人居留地に分割され、外国人居留地として機能するだろう。日本の未来を支配するのは、三大外国人人口の勢力だと私は明確に見ている。
中国系とベトナム系の住民は、農村部と都市部をまたいでチャイナタウンやベトナムタウンを形成するだろう。アメリカ人は、米軍基地周辺の広大な土地に家族を定住させようと争うだろう。
北朝鮮とつながりがあり、利害関係があり、日本の与党の暗黙の同意や承認を得て日本人から金を巻き上げている韓国の特定の略奪的カルトのように?
統一教会の騒動は、日本の超国家主義者たちが最初から騙されてきたことを如実に物語っています。このカルトは、日本人と韓国人を交配させて純潔を重んじるというメッセージを説き、日本の自民党エリートたちはムーニーの足元にキスをしています!
岸田政権から売国政策が加速したけど、やっぱりなタイミングやで。
Japan fast becoming a nest of spies:
https://japantoday.com/category/features/kuchikomi/japan-fast-becoming-a-nest-of-spies
「六本木の星条旗通りや歌舞伎町の職安通りにスナックを開店しないかと誘われた」と、訪日外国人向けのホステルを経営するこの男性は、アサヒ芸能の記者に語った。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる訪日旅行者の激減で、彼のビジネスは当然ながら資金繰りに苦しんでいました。そんな時、ある中国人から「おいしい利益」を生み出す取引を提案されました。
「パンデミックのおかげで、倒産した店の跡地に進出するチャンスはたくさんあります。全額融資します。スタッフとして入店すれば、固定給に加え、利益率に応じた歩合給も受け取れます」と中国人から言われた。
「外国人に人気のエリアというだけで、本業との相乗効果で大儲けできるという直感がありました」とホステル経営者は語った。しかし、その後、彼の表情は一変した。
「店には隠しマイクと隠しカメラが設置されており、外国人要人や省庁の官僚が来たら必ず報告するように言われました。『最悪の場合、赤字でも構わない』と中国人男性は言いました」
日本は6月10日から外国人団体旅行客の受け入れを始めたばかり。警視庁目黒署は22日、講演会を開き「スパイから接触があったと感じた企業職員が相談しやすい環境を整えたい」と呼びかけた。
しかし、場合によっては、まったく見知らぬ人のアプローチから始まることもあります。
「2月の北京冬季オリンピック開幕の約2か月前、上海公安警察員を名乗る『李』という男から携帯電話に電話がかかってきました」と、アジアから商品を仕入れる貿易会社に勤める男性は語った。「彼はチベットやウイグルの政治活動家のリストを入手してほしいと頼んできました。どうやら日本当局はCIAからそのようなリストを入手していたようです。もちろん断りましたが、彼は『心配するな、日本の警察が金で売ってくれる』と言い続けました」
「日本における中国の諜報活動において、経験豊富な諜報員が関与している例はほとんど見られません」と、日本政府筋はアサヒ芸能に語った。「中国は日本の先端技術、特に医療と通信分野をターゲットにしています。そのため、日本の大学で学ぶ学生のリストを作成し、彼らの求めるものに応じてアプローチしているのです。」
これらのリストには写真も保存されており、魅力的な女子学生は、新宿の歌舞伎町や四谷付近のクラブでアルバイトをするよう奨励され、そこでアナグマの罠にかける日本人のターゲットを仕向けられる。
国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、「中国国民や企業は、政府から指示があれば、スパイ活動に従事するのは事実上義務です。多くの場合、家族の年金の増額や帰国後のより良い仕事の約束といった特典が提示されます。しかし、拒否しても家族の安全は保証されません。いわば、家族が人質に取られているのと同じなのです。『祖国のために』と促されると、結局、断れる人はほとんどいないのです」と解説する。
ロシアのGRUと北朝鮮の工作員たちも日本の脆弱性を嘲笑している。
「日本は北朝鮮の貯金箱になっている」と政府筋は述べ、パチンコ店や焼肉店の経営者が北朝鮮の家族に送金している実態を指摘した。「北朝鮮軍の選抜メンバーは簡単に中国のパスポートを入手し、日本に潜入できる。しかも、彼らは中国のパスポートで渡航しているため、簡単に拘束されることはない」
アサヒ芸能によると、日本のこれまでの諜報漏洩対策は、諜報活動の監督を担う外務課長や警察署長を通じた「アウトリーチ」だった。こうした取り組みは、2018年からアメリカのFBIに設置された「チャイナ・イニシアチブ」を模倣したものとされている。
以下コメント
中国は他国の内政に干渉しないと主張してきたが、それは間違いだ。
現代における幕末2.0。日本は多くの外国人居留地に分割され、外国人居留地として機能するだろう。日本の未来を支配するのは、三大外国人人口の勢力だと私は明確に見ている。
中国系とベトナム系の住民は、農村部と都市部をまたいでチャイナタウンやベトナムタウンを形成するだろう。アメリカ人は、米軍基地周辺の広大な土地に家族を定住させようと争うだろう。
北朝鮮とつながりがあり、利害関係があり、日本の与党の暗黙の同意や承認を得て日本人から金を巻き上げている韓国の特定の略奪的カルトのように?
統一教会の騒動は、日本の超国家主義者たちが最初から騙されてきたことを如実に物語っています。このカルトは、日本人と韓国人を交配させて純潔を重んじるというメッセージを説き、日本の自民党エリートたちはムーニーの足元にキスをしています!
Japan fast becoming a nest of spies:
https://japantoday.com/category/features/kuchikomi/japan-fast-becoming-a-nest-of-spies
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新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる訪日旅行者の激減で、彼のビジネスは当然ながら資金繰りに苦しんでいました。そんな時、ある中国人から「おいしい利益」を生み出す取引を提案されました。
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「店には隠しマイクと隠しカメラが設置されており、外国人要人や省庁の官僚が来たら必ず報告するように言われました。『最悪の場合、赤字でも構わない』と中国人男性は言いました」
日本は6月10日から外国人団体旅行客の受け入れを始めたばかり。警視庁目黒署は22日、講演会を開き「スパイから接触があったと感じた企業職員が相談しやすい環境を整えたい」と呼びかけた。
しかし、場合によっては、まったく見知らぬ人のアプローチから始まることもあります。
「2月の北京冬季オリンピック開幕の約2か月前、上海公安警察員を名乗る『李』という男から携帯電話に電話がかかってきました」と、アジアから商品を仕入れる貿易会社に勤める男性は語った。「彼はチベットやウイグルの政治活動家のリストを入手してほしいと頼んできました。どうやら日本当局はCIAからそのようなリストを入手していたようです。もちろん断りましたが、彼は『心配するな、日本の警察が金で売ってくれる』と言い続けました」
「日本における中国の諜報活動において、経験豊富な諜報員が関与している例はほとんど見られません」と、日本政府筋はアサヒ芸能に語った。「中国は日本の先端技術、特に医療と通信分野をターゲットにしています。そのため、日本の大学で学ぶ学生のリストを作成し、彼らの求めるものに応じてアプローチしているのです。」
これらのリストには写真も保存されており、魅力的な女子学生は、新宿の歌舞伎町や四谷付近のクラブでアルバイトをするよう奨励され、そこでアナグマの罠にかける日本人のターゲットを仕向けられる。
国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、「中国国民や企業は、政府から指示があれば、スパイ活動に従事するのは事実上義務です。多くの場合、家族の年金の増額や帰国後のより良い仕事の約束といった特典が提示されます。しかし、拒否しても家族の安全は保証されません。いわば、家族が人質に取られているのと同じなのです。『祖国のために』と促されると、結局、断れる人はほとんどいないのです」と解説する。
ロシアのGRUと北朝鮮の工作員たちも日本の脆弱性を嘲笑している。
「日本は北朝鮮の貯金箱になっている」と政府筋は述べ、パチンコ店や焼肉店の経営者が北朝鮮の家族に送金している実態を指摘した。「北朝鮮軍の選抜メンバーは簡単に中国のパスポートを入手し、日本に潜入できる。しかも、彼らは中国のパスポートで渡航しているため、簡単に拘束されることはない」
アサヒ芸能によると、日本のこれまでの諜報漏洩対策は、諜報活動の監督を担う外務課長や警察署長を通じた「アウトリーチ」だった。こうした取り組みは、2018年からアメリカのFBIに設置された「チャイナ・イニシアチブ」を模倣したものとされている。
以下コメント
中国は他国の内政に干渉しないと主張してきたが、それは間違いだ。
現代における幕末2.0。日本は多くの外国人居留地に分割され、外国人居留地として機能するだろう。日本の未来を支配するのは、三大外国人人口の勢力だと私は明確に見ている。
中国系とベトナム系の住民は、農村部と都市部をまたいでチャイナタウンやベトナムタウンを形成するだろう。アメリカ人は、米軍基地周辺の広大な土地に家族を定住させようと争うだろう。
北朝鮮とつながりがあり、利害関係があり、日本の与党の暗黙の同意や承認を得て日本人から金を巻き上げている韓国の特定の略奪的カルトのように?
統一教会の騒動は、日本の超国家主義者たちが最初から騙されてきたことを如実に物語っています。このカルトは、日本人と韓国人を交配させて純潔を重んじるというメッセージを説き、日本の自民党エリートたちはムーニーの足元にキスをしています!
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
テーマ:宋儒の道統構築学と日本の公武合体内閣の失敗理由について
儒学は歴代王朝の歴史観と同様に後代に作られた構築物であり、宋代以降に「道統」という連続した正統性の学説として体系化された。
それ以前の漢唐では、先秦の儒学は古代のものであっても直結した連続性は強調されていなかった。
宋儒は禅宗の開祖継承体系を模倣しつつ、儒学の連続性を強調して組織を強化しようとした。
古代の部族や宗教集団では、厳格に記憶され唱えられる口伝による伝承が神聖視されていた。
文字記録は信頼できず、かえって官僚や士大夫の利益のために歴史や法律の改竄や争いを生んだ。
英国の普通法も元は口伝習慣法で、文字化は利益対立から生まれたものであり、自由は元来古いが専制は新しい体制である。
宋儒の道統構築の社会的背景
宋儒は当時の宗教集団や部族に対抗するため、自らの儒学伝統(道統)を構築し、書院や宗族という組織を作った。
これらの組織は基層共同体を争奪し、社会的権威を強化するためのものだった。
それまでは書院は主に仏教のものであり、儒者は官僚か貴族の子弟で組織化されていなかった。
唐代は鮮卑系の征服者貴族が支配し、家族集団がほぼ国家のような性質を持っていた。
南方の「矮民」(主に東南アジア系)には強い種族差別があり、黒く猿のような外見が貶められ、奴隷や貢物として扱われた。
こうした差別は宋明以降も続き、歴史叙述や文学にも影響を与えた。
宗教(仏教やキリスト教)は政治支配より安価で広範な影響力を持ち、技術や医療と結びつけて広まった。
しかし宗教は知識人には理論的な影響力があったが、庶民や権力者は実際の効果で信仰を判断した。
現代知識人の歴史解釈は階級的利益や偏見を反映し、実際の歴史真実とは乖離している場合が多い。
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論 満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹) 高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金) 女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国) 満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義) 日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國) 満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意 チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
劉仲敬は中国出身の歴史学者、思想家、作家であり、東アジアの歴史・民族問題、政治思想に関する独自の視点で知られています。特に「中国史の再解釈」や「民族・国家のあり方」に関する論考で注目されており、中国の体制批判や分裂論、地域主義的な思想を持つことで話題を集めています。
活動拠点:主に海外(日本やアメリカなど)、インターネット上でも発言多数
主な思想・特徴
劉仲敬は、中国共産党や中華思想が唱える「中華民族=一体的な統一民族」という見方を強く批判しています。彼は、現代中国の「中華民族」という概念は後付けの政治的な神話であり、実際には多民族国家である中国は複数の異なる民族・文化圏の集合体だと考えています。
中国の広大な領域を複数の地域に分け、それぞれが独立や自治を持つべきだという考え方を支持しています。歴史的には、元・明・清などの王朝も「多民族連合体」であり、単一民族国家ではなかったと強調します。
3. 「諸夏(しょか)」論
彼が提唱する「諸夏主義」とは、中国全体を「複数の夏(文明圏や文化単位)」の集合体とみなし、これらが連合してきたという概念です。これにより、漢民族中心の大中華主義を相対化しています。
国家や民族は歴史的・文化的に流動的なものであり、固定的・普遍的なものではないと考えます。そのため、現在の国境や民族単位も時代と共に変わっていくものだという視点を持っています。
日本人にとって注目される点
日本の歴史教育では、中国は連綿と続く一つの大国というイメージが一般的ですが、劉仲敬はそれを「作られた神話」とみなします。これは、日本の歴史認識や中国理解を見直すきっかけになるかもしれません。
劉仲敬は、中国の中でも特に少数民族や独自文化を持つ地域の独立・自治問題に関心が深いです。たとえば琉球(沖縄)を「独自の民族圏」としてとらえ、中華民族の範囲に含める中国の主張を批判しています。これにより、日本の安全保障や地域情勢への示唆を与えています。
彼の思想は中国共産党の一党支配体制に対する批判も含み、中国の未来や分裂可能性についての議論を促しています。中国理解の深化に役立つ視点です。
発信方法と影響力
劉仲敬は動画やブログ、SNSを通じて思想を発信し、特に中国語圏や日本、台湾、香港の知識層に影響を与えています。
学問的には異端ともされますが、彼の自由な発想と大胆な主張は、若い世代やネットユーザーの間で支持を集めています。
簡単なまとめ
ポイント 内容
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
その新しいPUの開発競争においてメルセデスが一歩リードしている。
などという怪情報がまことしやかに流通するのが現在の海外のF1ジャーナリスト界のダメさ加減がよく表している。
そもそも競争を一度もしたことがない状態で、メルセデスが一歩リードしているなどと判断するのはクレージーとしか言いようがない。
その情報が独り歩きして、それが定説としてまかり通らせる記事を書くとなどと仮にもジャーナリズムを名乗るのであればありえない行為だ。
メルセデスがリードしているというのなら、その根拠を提示しなければならない。
そして更にミスリードしているのが、
などと書き立てることだ。
これは現行のPUに切り替わった2014年から2020年までドライバーズタイトルを7連覇
コンストラクタータイトルは2021年までの8連覇を成し遂げたことに由来している。
2014年からメルセデスのPUは圧倒的に他者を凌駕した性能を示し、
その性能差により盤石のメルセデス王朝を築くことなったことを引き合いに出している。
という
そんなことが起こり得るわけがない。
と
(これが重要だが)レギュレーションによりPUの改良がトークンシステムという
PUの改良を矢継ぎ早に行うことを出来なくしてしまっていたことによる。
どういうことか?
しかし、FIAは開発競争で莫大な資金を湯水のようにメーカーが使うことに規制をかけようという立場を貫いていた。
ゆえにメーカーが開発できる範囲を一定の範囲内に留めるためにトークン制度を導入した。
そして年間に与えられたトークンを使い切ったらもう部品は改良できない。
つまりどれだけ問題がある部品を使っていたとしてもトークンを使い切ったらその駄目な仕組みを使い続けなければならない。
これがメルセデスに対して劣勢に立たされたメーカーのトライ・アンド・エラーを阻害して、
7年間にも及ぶメルセデスの圧倒的アドバンテージを維持させることに多大な影響を与えた。
ホンダなどは、このトークン制度によってどうすることも出来ない窮状に立たされてしまった。
それでも、そのルールを変更すること無く、メルセデス全盛を維持することにFIAは加担していたのだ。
これはより多数のメーカーの参入を促すために決められたことであり、
実際その通りになりアウディとキャデラックが参加することになった。
現行の複雑なPUのままであったらならこれはあり得なかったことだろう。
また同時に、開発に縛りが多いトークンシステムも導入されない。
それはつまり、劣勢に立たされたメーカーもより素早く性能をマッチアップさせることが出来るということだ。
以上のような理由により
その状態が2年も3年も続くようなことはあり得ないことが容易に予想される。
にも関わらず、