はてなキーワード: 要求とは
文化大革命による停滞期
文化大革命開始
6601型(成都級)をリバースエンジニアリングして、65型フリゲート(前053型/江南級)を建造
033型潜水艦 1番艦 ? 就役 ソ連から提供された633型潜水艦を参考に建造された、中国初の国産潜水艦
ベトナム戦争が泥沼化しニクソン大統領がベトナム戦争からの撤退を公約にして当選、キッシンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢入り
リアリズム(現実主義)に基づく外交政策の擁護者として知られている
力の均衡論者で、イデオロギー的な外交を嫌い、国家間の力の均衡を保つことに腐心した
ソ連と敵対する中国と友好関係を築くことでソ連へ東から圧力をかけることを目的とした
『重要なのは何が真実であるかではなく、何が真実であると認識されるかである。』
『外交政策に道徳的完璧を要求する国は、完璧も安全も達成できない』
『結局のところ、平和は覇権か力の均衡によってのみ達成できるのです。』
『アメリカの敵になることは危険かもしれないが、友人になることは致命的である』(南ベトナムの傀儡政府を見捨て撤退したときの発言)
排水量8,000t以上の大型駆逐艦として構想され艦隊防空能力を備え、外洋での長期作戦における護衛艦隊の中核を占める艦とされたが、当時の技術的限界から未成に終わった
40年後、排水量13,000tの055型駆逐艦として結実する
051型駆逐艦(旅大I型) 1番艦 济南 就役 56型駆逐艦(コトリン型駆逐艦)をモデルに太平洋で行動しうる駆逐艦として建造された、中国が初めて独自開発した水上戦闘艦
★091型原子力潜水艦 1番艦 長征1号 就役 中国初の原子力潜水艦 静粛性と信頼性がきわめて劣悪だった
035型潜水艦 1番艦 232 就役 033型潜水艦の改良版
★西沙諸島の戦い 南ベトナム軍と戦闘を行い、西沙諸島全域を占領
https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2022/3%E6%9C%88/2203_02anami.pdf
1974年1月、解放軍の南海艦隊は、当時南ベトナムが実効支配していたパラセル諸島(中国名:西沙群島)に部隊を派遣し、南ベトナムの守備隊や艦艇との交戦の末に同諸島を占領した。
南ベトナムは、パラセル諸島のみならず中国が領有権を主張するスプラトリ—諸島(中国名:南沙群島)の複数の島嶼・岩礁も実効支配していたため、次はそれらを攻略せねばならないという議論が解放軍内で盛り上がった。
その翌年の5月には、それまで海軍建設に後ろ向きだった毛沢東が海軍を増強するための10年計画にGOサインを出した。
そこに好機を見出した劉華清は、同年9月に毛沢東と鄧小平に宛てて海軍の装備に関する意見書を送った。
この意見書のなかで劉華清は、既存の海軍の装備導入計画を批判しつつ、海軍の装備導入計画のあるべき姿について持論を大胆に展開した。
この時の意見書では、海軍が「帝国主義の海上からの侵略」を粉砕し、「対台湾作戦」の任務を遂行するに足る能力を確保せねばならないという基本認識が示されたうえで、当時の解放軍がそうした水準にはなく、10 年後もそうした水準に達することはないという評価がなされた。
また、50年代にソ連から入手した時代遅れの通常動力型潜水艦のコピー版を大量に生産するという当時の装備導入計画に対し、潜水艦に大きく依存する形で米英の海軍に対抗しようとしたドイツの失敗例などを根拠とした批判がなされた。
そうした批判を踏まえて、劉華清は、今後は、水中、水上、空中の戦力をバランスよく整備していく必要があり、核抑止力を担う原子力潜水艦、水上艦隊の要となるミサイル駆逐艦、艦隊に航空支援を提供できる戦闘行動半径の長い航空機の開発・配備に力をいれるべきだと主張した。
この意見書でさらに注目されるのは、中国の経済発展に伴い海外からの「戦略物資」の輸入が拡大すれば、シーレーン防衛の重要性が増し、中国本土から遠く離れた海域での航空戦力の展開を可能にする航空母艦が必要になると指摘している点である。
つまり、劉華清は、1975 年の時点で中国の対外貿易が今後盛んになるという未来予測にたってシーレーン防衛について論じたわけだが、当時遠洋航海の経験が皆無だったうえに中国沿岸海域での作戦すら満足に遂行できないようなレベルにあった解放軍の海軍のなかで、このような議論は異色のものだったといえる。
(一)「覇権主義」や「帝国主義」による海上からの侵略に備える、
(四)核戦力の残存性を高めることに貢献する、ことであった。
053K型フリゲート(江東型フリゲート)1番艦 鷹潭 就役 65型の発展型、中国海軍初の艦対空ミサイル搭載艦、しかし国産ミサイルの性能が貧弱だったため2隻目で建造打ち切り
イギリスのロールスロイス・スペイ ターボファンエンジンをライセンス生産
★文化大革命終了
上海にある江南造船廠が三菱重工業社長の古賀繁一(元長崎造船所所長、戦艦武蔵の設計に関わる)の直接指導で再建される
053H型フリゲート(江滬I型フリゲート) 1番艦 常徳 就役 艦対空ミサイル搭載艦である053K型と共に行動する艦対艦ミサイル搭載艦として設計された、しかしレーダー等電子機器の性能は不足し全天候戦闘能力もなかった
053H1型フリゲート(江滬II型フリゲート) 1番艦 台州 就役 053H型フリゲートの改良型
051DT型駆逐艦(旅大III型) 1番艦 開封 就役 フランス製クロタル8MS個艦防空ミサイル・システム、フランス製DRBV-15対空レーダー、スウェーデン製機関砲を搭載
アメリカからCFM56-3ターボファンエンジンを入手、後のWS-10ターボファンエンジンの基礎となる
劉華清の主導で中国人民解放軍海軍装備実証研究センター(現在の中国人民解放軍海軍装備研究所)が成立
★053H1Q型フリゲート(江滬IV型) 西側の対潜技術を学ぶための技術検証艦 フランス製のAS 365N ドーファン・ヘリコプターをライセンス生産したZ-9、光学射撃指揮装置、ソナーシステム、水中攻撃指揮装置、イタリア製短魚雷などが搭載された
★092型原子力潜水艦 1番艦 406号 就役 中国初の原子力弾道ミサイル潜水艦
就役後も長い間航行することはなくアメリカ軍からは「not operational」と判断された
091型と同様に静粛性と信頼性が非常に劣っていた
UH-60ブラックホークをアメリカから購入、後のZ-20中型多用途ヘリコプターの基礎となる
アメリカから入手したCFM56-3ターボファンエンジンを参考に、WS-10エンジンの開発が始まる
★053H2型フリゲート(江滬III型フリゲート) 1番艦 黄石 就役 053H1型フリゲートの改良型、イギリス製の戦術情報処理装置(CTC-1629のコピーZKJ-3)とイタリア製の電子戦装置を搭載し大幅に能力が向上した
フランスよりクロタル個艦防空ミサイル・システムとともに、トムソンCSF社(現在のタレス)の戦術情報処理装置であるTAVITAC(旧称 Vega III)を輸入、リバースエンジニアリングによってZKJ-4を完成させる
ペレストロイカ開始
タスク管理、段取り、情報整理、感情コントロールなど、多くのスキルが必要になるが、
現実には誰でも親になれるため、育児スキルのレベルと親になるハードルが一致していない。
就業や起業には一定の能力が求められるのに、育児だけはその制約が存在しない。
人口の約13.6%を占める境界知能(IQ70〜85)の人々は、平均より認知処理力が低く、
といった特徴がある。
育児は、抽象性・段取り・情報量・マルチタスクが必要なので、こいつらが母親になっても、まともに育児はできない。
加えて、行政サービスや教育プログラムは、前提として一定の情報処理力を要求するものが多く、こいつらには使いこなせない。
で、育児がうまくいかないと、ストレスがたまり、問題の原因を正確に把握することが難しくなる。
そういう女様だけを集めて作った事業部が弊社にあるけど本当にひどすぎて笑えるよ。 事業部の蔑称は保育園。
その事業部では会社の本業とは1ミリも関係ない分野に関するYouTubeチャンネルをかれこれ2年も運営してる。
今のところチャンネル登録者数は40人で、動画の平均再生数は100未満。
事業部単体での売上は当然0円だし、他の事業とシナジーがあるわけでもない。 本物の虚無。 無能なのに要求だけは人一倍の女様を隔離するためだけにつくられた事業部。
でもその事業部の女様は今の仕事にすごく誇りをもっているらしい。 努力している自分の姿に感動するらしい。 全く社会の役には立ってないのにね。
1.証券口座を開く
〇iDecoについて
〇手もと現金について
〇将来
1.証券口座を開く
三大ネット証券、楽天証券、SBI証券、マネックス証券のいずれかがいい。
基本は楽天かSBIから選ぶのだけど、この2社は結構システム変更がある。
情報を追いかけるのが面倒なので、個人的にはマネックス証券をお勧めする。ネット証券の黎明期からずっと安定して営業してきている。
どちらも買収されており、楽天はDLGディレクトSFG証券の商号変更、SBIはE*TRADE証券の商号変更だしね。変更・変更で来ている。
マネックスははじめからずっとマネックス。他社に劣る部分は色々あるが、これまで大きな変更が少なかった印象(ドコモに買収されたけど)。
銀行でも投資できるけど、ネット証券は0.03~0.3%程度のポイントが付くのが馬鹿にならない。100万円の投資に対して、300-3,000円/年程度。
年間最大の240万円分を eMaxis slim世界株式インデックス(除く日本) に投資する。
日本を除くのはリスク分散のため。日本で働いている以上、日本に投資するのはダブルリスクになる。
いきなりこんなにたくさん買うのに抵抗があるなら、ぶっちゃけ買わなくても良い。積立投資だけでもいい。
最大額、月々10万円分を eMaxis slim世界株式インデックス(除く日本) に投資する。
〇iDecoについて
iDecoは良し悪しがある。税金を減らせるメリットがある反面、退職まで引き出せない。
仮に「家を買いたい」となっても引き出せないし、大病をして「あと1年の命」と言われても引き出せない。
〇手もと現金について
何かあった時(「家族が交通事故」「パワハラうつ退職」etc…)のためにある程度の手元資金は現金で置いておくべし。
資産が増えてきたら、 NISA 枠以上に投資をすることになる。200万円なり余裕資金は取って置き、超えた分だけを同じく eMaxis slim 世界株に投資する。
投資信託は売却から現金化し、銀行に移して引き出せるまでに1週間から10日ぐらいかかる。
すぐには引き出せないことに注意!!
〇将来
家を買いたい、車を買いたい、結婚式をあげたいとか、お金が必要になったら必要な分だけ現金化して利用する。
株式インデックス投資は10年とか20年以上投資できれば ほぼほぼプラスになる。逆に言えば10年・20年未満は赤字になってる可能性も十分にあり、それを理解・納得しておく必要がある。
日本人の平均寿命は80歳を超えている。中年以降、徐々に頭や体が動かなくなる中、豊かな生活を送るために早めの投資開始が安全。
将来妻や子供に贈与・遺産相続するつもりなら一生売る必要はない。投資信託のままで贈与・相続できる。
土地とか仮想通貨とか石油のような商品に投資するかとか、為替がどうこう、FXが儲かるだの投資先悩むと思うんだけど。
そういった諸々含め、様々なビジネスを利用してお金を儲けているのが株式会社。あまり色々考えず、株式インデックス投資を開始するのが吉。
歴史的に見て、安定して長期間儲けられる(られた)のが株式インデックス投資っていう話。
それ以外のには安定性とか歴史が不足している。一時的には大きく儲かる可能性はある。ただ、それはギャンブルに近い。
株式投資(資本家)の方が労働者よりも儲かる(R>g 参考図書:21世紀の資本)のは、資本家の方がより多くのリスクを取っているからだと思う。リスクを取った人がより大きく儲けられる(リスクプレミアム)が存在する以上、今後も株式投資は儲かる可能性が高い。
労働者は労働時間や労働量、成果物に対して確定した賃金を要求する。一方で資本家は、儲かるか儲からないかわからないリスクを一手に引き受けている。この大きなリスクを受け入れるにはより多くのリターンがないと成り立たない。この部分がリスクプレミアム。
この利益を個人・労働者でも取りに行けるのが株式(インデックス)投資。
1つの会社だけに投資するのはリスクが高いけど、世界経済全体に投資することができる世界株式インデックスは、今後も安定して儲かる可能性が高い。実際に多くの年金基金(≒国家と言ってもいい)が株式インデックスに投資をしているからね。
多くの国家が株式インデックスに損をさせるわけにはいかないんだよ。株式インデックスが損をする事態になったら税は不足し年金も破綻し、それは国家の破綻も意味するからね。
景気が悪くなると、国家は経済対策をして結果として株式が上がる。ね?
◆自分はネット証券の出てきた2000年頃から投資してる。インデックス投資のみで資産>億。45歳。
わー、ホッテントリ載ったの初めて!!
イエーイ! みんな見てる!?
>「NISA一般枠」とか「積み立てNISA」とか存在しないものを出されると初心者は一瞬で詰む
なーほーね。確かに。
もう、自分は老人だし、夢みたいなことというか、自分が今子供だったらの夢を語ると、
ノーベル賞じゃないけど、今不可能なことを可能にする、それはAIもパクりようがないんで、
シンギュラリティでAIがサクッと解決するかもしれないけど、それでも解決できない問題はあるはず…😟
ガデュリンって昔のOVAに登場する主人公はサラリーマンで、上司がAIのロボットなんだけど、
上司はいわゆる仕事ができない駄目なサラリーマンで、名刺を渡すとか、自分の上司へのおべっかは上手い、
多分、飲み会のお酌とかは上手い、みたいな変なAIなんだけど、なんかこういうのいいなあ、と思ってて、
攻殻機動隊で、アニメもまあいいけど、原作でもフチコマ同士で、
【正月休みにちょうどいいマンガってなんかないかな〜。頭使わないと筋が追えないようなのはカンベンだけど、あまりにもワンパターンな幼稚なのもちょっとね。】
なんでこういう違いが出るのかと言うと、まずバカは【相手の意図に乗らない】のが知的な姿勢だと思い込んでるからだろう。
また、「抽象度に幅がある話」にどう対応すればいいのかわからないのが大きいと思う。
例えば「マンガの面白さとは何か」は抽象的な問いであり、「今年最も売り上げた作品は何か」は具体的な問いである。そして「暇潰しにちょうどいいマンガは?」は抽象的でもあり具体的でもある疑問だ。
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
自分がしたくないことを要求する命令に従う義務はない。というよりお前に従わせる権利はない。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251207185845# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaTVP1wAKCRBwMdsubs4+ SNlaAPwOPaBg+YEqqEBBIX/V10RZyvnbxqw4hmtiHNQNXXVxVgD/R7szVSVLIBZg t9qbq1DyToOFHHSsvTd/eUKPk/iIUQo= =JyeU -----END PGP SIGNATURE-----
米国のシンクタンク、CSISは中国による台湾軍事侵攻が生起した場合のシミュレーションを行っている。
(原文:https://www.csis.org/analysis/first-battle-next-war-wargaming-chinese-invasion-taiwan)
時々ニュースなどでも断片的に取り上げられているのでご存じの方も多いかもしれない。この報告は検討可能なオープンソースのシミュレーションとして提示されている点が特徴である。
様々な条件のもとでシミュレーションを行い、どの条件が台湾侵攻の趨勢に大きな影響を及ぼすか分析している。
この報告の結論として、侵攻のシミュレーション結果に「決定的/根本的な変化」を引き起こす要素として挙げられていることが2点ある。
「米国が介入しない」「米国は介入するが日本が在日米軍基地の使用を許可しない」という条件である。
前者はそりゃそうだという感じだが、後者に関しては意外に思う人も多いのではないだろうか。
まず、「米国が介入しない」シナリオの場合、当然ながらシミュレーションは中国の圧勝で終わった。膠着状態にすら持ち込めない。
ウクライナのような間接的な支援による戦線の維持ができるのではないかと考える人もいるかと思うが、 ウクライナと異なり友好国への陸路も航空優勢もない台湾ではこの方法は不可能である。
中国の支配によって台湾の自治は失われ、周辺の戦略的環境は激変する。
ただ、中国の勝利までに約70日を要するというシミュレーション結果は興味深い。
この月日はおそらく日米の世論に大きな影響を及ぼすだろう。
次に、この報告書の主題である「中国の軍事侵攻に対して米国が介入した」場合のシミュレーション結果である。
いろいろと前提のある話なので詳細は確認してほしいが、基本的に日米が協調して介入する限り悲観的な条件でも中国が勝利した例はなかった、という結論である。
この報告ではどういうとき米軍は目的を達成できないのか検討するため「ラグナロクシナリオ」と銘打った検討を行っており、その仮定というのが「日本が在日米軍基地の使用を認めない」ことである。
中国の米艦隊とグアムへの攻撃で米国の戦力投射は封殺され、この前提条件では逆に完全な中国の勝利に終わった。
つまり米軍が十全に活動できるかどうかを決定するという意味において、台湾侵攻が生起した時点で自動的に日本は米中台に次ぐキーパーソンになってしまうのである。
そのため米国から見れば、もし台湾侵攻に介入すると決めたなら日本にはどうしても協力してもらう必要がある(在日米軍基地が使えないと米国に勝ち筋がない)。
逆に言うと日本が強硬に台湾侵攻への非干渉を主張すれば、米国も介入をあきらめざるを得ないという言い方もできる。
しかし、これは日米同盟の破棄とほぼ同義なので現在の日本の政治環境では考え難く、基本的には米国が介入すれば日本も参戦を決断することになると思う。
とはいえこのシミュレーション結果は、米国からすると中国の艦艇に対する先制攻撃や早期の核兵器使用など、リスクの高い戦略を検討する必要がないことを示している。
そのため、中国は先制攻撃によって前方配備されている米空母打撃群と在日米軍を排除しようとする必然性がある。
そのとき米艦隊と共に嘉手納、岩国、横田、三沢などが攻撃され、多数の日本人犠牲者がでるだろう。
実際、CSISの報告では多くのパターンで米艦隊と在日米軍基地を中国が先制攻撃する前提でシミュレーションが行われている(ただし、この前提でも中国は勝利できない)。
米軍との直接対決を避けたい中国が、米軍(と日本)を放置して台湾のみを攻撃する可能性もあるのでは?と思われるかもしれないが、この場合日米からすると(軍事的に)簡単なケースになる。
先制攻撃して空母打撃群を初手壊滅、在日米軍に大損害を与えた前提でも、中国の最終的な勝機はほぼないというのがCSISのシミュレーション結果だったのである。
米軍を丸ごと放置したまま台湾に攻め込んだとして、米軍が座視してくれればいいが、もし無傷の米軍が介入しようものならワンサイドゲームになってしまう。
台湾に攻め入るのに米軍を放置するというのは、中国からすると米国に生殺与奪権を差し出したようなものだとも言える。
まとめると、中国は台湾への武力行使を決断した場合、高確率で在日米軍基地への先制攻撃を行う(しない場合より容易に米軍に叩き潰される)。
そして米軍は戦闘を実行するため必要不可欠な要素として日本の協力を非常に強く要求するだろう。
これらのことから仮に中国が台湾に軍事侵攻した場合、日本が無関係でいられる可能性は非常に低い、というのがこの問題に取り組む人の共通見解だと思う。
(逆に台湾侵攻の勝敗に対する影響の比較的少ないインド、フィリピン、シンガポール、韓国などの国は積極的な関与を避けると予想される。西洋諸国のいくつかは介入を志向するかもしれないが、可能な限りの艦隊を派遣しても戦況には大きな影響がない)
一応、中国が台湾に軍事侵攻した上で日本人に戦死者がほとんど出ないシナリオとして「台湾が早期に降伏する」「中国の米軍への先制攻撃がなく、かつ米国が介入を行わない」というパターンが考えられる。
ただこの場合地域での中国の存在感は高まり、中国との係争地への圧力も強くなることから、必ずしも日本にとって容易なルートではない。
また前述のように、日米が協調すれば中国の勝ち筋はほぼないというのがシミュレーション結果ではあるが、「勝てるなら問題ない」とはならない。
中国の侵攻は阻止されるが、そのとき日米台は非常に重大な損失を被ることになる。
悲観的なシナリオでは、米空母2隻を含む数十隻の艦船、数百機の航空機の損失、一万名近い死者が日米で出る。
これは戦後秩序にも重大な影響を及ぼすだろう。
つまり、台湾侵攻は仮に発生すれば米中台日が全員損をするクソイベントであるのは明らかである。
冷静に考えればこんな特大のクソを漏らしたい国などないと思いたいし、筆者も正直「あまり起こりそうにない」という考えだが、それでもありえないとは言えない。
「防衛費をGDPの5%まで」というのは、数字だけ見るとだいぶ乱暴に見えるけど、実際はかなり計算ずくの「ふっかけ」に近いと思う。
「日本やNATOはアメリカの安全保障にタダ乗りしてきた、だから俺たちは同盟国にちゃんと払わせる」と言いたい。
そのために、どう考えても達成が難しい5%という高めの数字を最初から掲げて、「ここまで要求した」という実績を作るという面。
これまでの「負担をみんなで分け合う」という発想から、「負担そのものを同盟国側に押し付けていく」という方向に、完全に軸足が移ってきている感じも強い。
アメリカは自国周辺と国内にリソースを回して、ヨーロッパはヨーロッパ、アジアは日本や韓国が前線を支えろ、という世界観。
その延長線上で「アジアの抑止コストはまず日本が背負え」という話になっていて、5%要求はその象徴みたいなものに見える。
アメリカとしては、中国を止める「城壁」を作りたいわけで、日本が本気で軍事力を増強すれば、その壁はかなり分厚くなる。
万一アメリカが別の地域や国内問題で手一杯になっても、日本だけである程度踏ん張れる状態にしておきたい、という思惑も透けて見える。
あとはもちろん軍需産業の話。
防衛費が上がれば、トマホークだの戦闘機だのミサイル防衛だの、アメリカ製の装備がますます売れる。
5%なんて数字を掲げておけば、「まだまだ買えるよね?」という余白を意図的に作れる。安全保障と産業政策が、ほぼ同じ方向を向いている感じ。
「役割を果たさない同盟国は結果に直面する」という言い回し、あれは半分、交渉用の脅し文句だろうし。
駐留米軍の扱い、駐留経費、関税、半導体規制、対米投資、全部ひっくるめて「防衛費」とバーターに使えるカード。
NATO相手にやってきた揺さぶりを、日本にも本気で適用してくる可能性は十分ある。
⸻
第6章は、タタルスキーが 広告の力を社会的・政治的文脈で意識し始める章 です。
⸻
◆ 1. 新しいクライアントの登場
タタルスキーの代理店に 大規模なクライアント が登場します。
• 外資ブランドではあるが、ロシア国内向けの政治的・社会的メッセージも含む
この時点でタタルスキーは
⸻
タタルスキーは単なる文章ではなく、広告キャンペーン全体を設計する任務を負います。
• 商品の機能や利点ではなく、消費者の心理的・感情的反応を操作
世界を改変する道具だ。」
ここで、タタルスキーは広告と社会操作の相似性に気づき始めます。
⸻
• どのイメージが購買欲を刺激するか
タタルスキーは、詩人としての直感を駆使して無意識を“読み解く”。
• これまでのコピーは単純な文章だったが、今や「人間心理を操作する設計図」となる
⸻
• 商品の魅力は誇張され、消費者はそれを真実として受け入れる
ここでペレーヴィンは、広告の**「現実超越的な力」**を象徴的に描写します。
⸻
第6章の後半で、タタルスキーは初めて 政治的権力と広告の接点 に触れます。
• 「ブランド=国家イメージ」の同一化という概念が暗示される
タタルスキーはここで、
広告の才能は単なる消費社会だけでなく、国家規模のイメージ操作に応用可能
⸻
• これまでの詩的直感が新しい力として具現化
3. 野望の芽生え
⸻
◆ 7. 第6章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント 高度な広告戦略に携わり、政治的応用の兆しを掴む
物語的役割 タタルスキーが“広告→社会→政治”の拡張を初めて意識する章
⸻
第6章は、
タタルスキーが個人消費の魔術師から、社会的・政治的魔術師へと意識を拡張する重要な章
です。
⸻
第5章は、タタルスキーが 広告コピーライターとしてのスキルを活かし、初めて“消費者だけでなく政治・社会”に影響を与える可能性 を感じる章です。
⸻
広告代理店での仕事は順調に進み、タタルスキーは次第に自信をつける。
⸻
“売上が落ちている高級飲料” がある。
• タタルスキーはコピーだけでなく、広告キャンペーン全体を企画することに
具体的には:
• 「消費者に“自分が成功者であるかのような錯覚”を与える」
⸻
• タタルスキーは初めて、自分のコピーが個人の購買だけでなく、社会全体に影響を与える可能性を知る
これが後に、タタルスキーが国家プロジェクトに関わる伏線になる。
⸻
• 人々は「物語」を信じることで行動する
• 広告は商品を神格化する手段であり、現代の“新しい宗教”のようだ
⸻
代理店での仕事に慣れてくると、タタルスキーは金銭的な快感を覚える。
• 社会的地位が少しずつ上がる
⸻
• しかし、現実世界ではそれが強力な権力手段になることを自覚
3. 未来の予感
• 広告技術は個人消費だけでなく、政治や社会操作にも応用できる
• 自分の才能が“国家レベルのイメージ戦略”で試される日が来るかもしれない
⸻
◆ 7. 第5章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント タタルスキーが広告の現実操作力に気づき、政治的応用の可能性を意識する
物語的役割 タタルスキーが“個人消費から社会・政治操作へ”視野を広げる章
⸻
第5章は、
広告の魔術的力を自覚しつつ、政治や権力に接続する兆候を掴む重要な章
です。
🟥 第4章:広告の“現場”へ —— タタルスキー、映像制作の狂気に触れる
⸻
第4章は、タタルスキーが
コピーの文章だけでなく、“映像広告そのもの”が動く現場に初めて立ち会う章 です。
・金
・暴力の影
・外国資本
によって動いていることが、タタルスキーに生々しく突きつけられます。
タタルスキーの“広告魔術師”としての進化は、ここから一気に加速します。
⸻
これはペレーヴィンが何度も描く、
⸻
指示は簡単。
30分で。」
タタルスキーは驚く。
映像制作の準備すら終わっていない段階で、すでに撮影を始めなければならないのだ。
この業界では
すべてが“同時進行”で、異常なテンションで動いている。
⸻
タタルスキーは急遽、
• 古びた倉庫が“アメリカ風のキッチンセット”に改造されている
• スタッフはロシア語・英語が交じった奇妙なクレオール語を喋る
タタルスキーは完全に圧倒される。
⸻
現実の事実よりも、カメラで撮られる“見え方”の方が絶対に優先される という点。
例えば:
• モデルは疲れているが、ライトの下では“幸せそう”に笑わされる
• 食品サンプルは実物より綺麗な偽造品
タタルスキーは息を呑む。
ここで彼の中で、
⸻
撮影が進む中で、
ことを把握している。
監督は理解不能だが、ディレクターやロシア側のスタッフは納得する。
きわめて重要な萌芽。
⸻
• 外国資本の横暴
⸻
◆ 7. 撮影終了後の“陶酔”
長い撮影が終わった後、
ディレクターたちは酒とドラッグを混ぜたようなテンションで盛り上がる。
「人は商品を買うのではなく、
この思想が、後に政治的“国家イメージ”へと発展していくことになる。
⸻
◆ 8. タタルスキーの内的変化
• 映像は嘘だが、人はそれを本当だと思う
彼はふと怖くなるが、同時に強烈な興奮にも包まれる。
ここでタタルスキーは
⸻
◆ 第4章まとめ(象徴的整理)
要素 内容
物語的役割 タタルスキーが“現実操作の側”に立つ最初の本格段階
第4章は、
広告世界の“暴力性・儀式性・魔術性”をタタルスキーが直接体験し、
彼の変身プロセスが不可逆になる章
といえます。
Q.以下のやり取り、両者の妥当性は?
A:■議員、元公務員、医者ではない年金納め終わった男をトリアージしようって国に財政のアドバイスする仕事無いかな
B:トリアージの意味を説明してみ? そんで元の文脈にその意味を当てはめて、その意味で君の言いたいことが説明できてるか、もう一回検討してみなよ。
A:分からないふりをしたい人がこういうことで煙に巻こうとする よく覚えておきなさい
A.
このやり取りにおける両者の**妥当性(論理的整合性やコミュニケーションとしての成立度)**を分析すると、Bの方が圧倒的に妥当性が高いと言えます。
一方で、Aは「ブラックジョークや皮肉」を言いたいという動機が先行しており、議論としては破綻しています。
Aは「トリアージ」を「不要な人間を切り捨てる(間引く)」という意味で使っています。
本来のトリアージは「資源が限られた状況で、救える命を最大化するために治療の優先順位をつけること」であり、単なる「殺処分」や「切り捨て」とは意味が異なります。Aの文脈(年金を納め終わった男を対象にする)は、医学的な緊急度判定ではなく、優生思想的な「口減らし」に近いため、言葉の選択として不適切です。
「二葉亭四迷(ふたばていしめい)」は、明治の文豪の名前ですが、語源となった「くたばってしめえ(死んでしまえ)」という江戸言葉の掛詞(ダジャレ)として使っています。
つまり、Aは最初から真面目な財政提案をしているわけではなく、「役に立たない男は死んでしまえ」という暴論・悪態をつきたいだけです。
Bに用語の定義を問われた際、「分からないふりをしたい人が~」「啓蒙しない」と、説明を拒否して相手の人格攻撃(レッテル貼り)に逃げています。これは「自分の言葉の定義が不正確であること」を認められない場合の典型的な防衛反応です。
用語の正確性への指摘
BはAの主張の内容(道徳的是非)に踏み込む前に、まず「トリアージという言葉の使い方が間違っている」という前提の崩れを指摘しています。これは議論において非常に重要なプロセスです。
Aがトリアージの定義を誤っている以上、その後の「財政のアドバイス」という文脈も成立しません。
一貫した態度
Aが話をそらしたり、精神的勝利宣言(捨て台詞)をして逃げようとしても、一貫して「意味を説明しろ」と要求し続けています。
結論:Bの勝ち(Aの自滅)
このやり取りは、以下のような構図になっています。
Aが「死んでしまえ」という悪口を、インテリぶった言葉(トリアージ、二葉亭四迷)で包んで発信した。
Bが「包み紙(言葉の意味)」が間違っていることを冷静に指摘した。
Aは図星を突かれ、説明できずに「お前はわかってない」とマウントを取って逃亡した。
判定:
Aの妥当性: 低。用語の誤用、説明責任の放棄、人格攻撃による論点回避。
Aは「賢いふりをして毒を吐こうとしたが、言葉の意味を間違えてツッコまれ、恥ずかしくなって逃げた」というのが客観的な評価になります。
さすがステージに上がっちゃったやつは違うわ(笑
頑張れば15年後くらいで済むかな
「恋愛をしてみたい」じゃねえんだわ。
まずおとぼけビ〜バ〜の『ジジイ is waiting for my reaction』を聴け。
聴いたか?
じゃあ話を始めよう。
あのな、お前が中学の頃どうだったとか高校の頃どうだったかとかどうでもいい。
死ぬほどどうでもいい。
お前の恋愛に対する憧れもどうでもいい。
そんなもんはない。
毎日仕事をし、生活をしている人間が、「この人といるのは楽しい」「会えると嬉しい」「尊敬できる」と感じるのはどんな人間だ?
少なくとも、ただでさえ毎日忙しいのに相手をするのがめんどくせ〜奴や、こちらからの気遣いを要求してくる奴ではないよな?
会う時にいつも感じがいい。
機嫌が一定している。
人の事を悪く言わない。
デリカシーがあり、言いたくないことに突っ込んで来ない。
ふとした時に気が利く。
こういう人間との単純接触を繰り返していくうちに、人としての好感は確実に積まれていく。
要するに人望だ。
人望のある人間は人として好かれる。
一緒にいたい、遊びたい、話をしたいと思われる。
それだけの単純な話なのだ。
そういう人間的成長のための努力をせずに、「初期コストが〜」とか言ってるのかお前は?
バカか??
アルマーニのスーツを着ろとかロレックスの腕時計をしろとか表参道の美容院へ行けとか言ってるんじゃない。
周りの人間に対して能動的に善意を向けられる人間であれと言ってるんだ。
うちの職場は薄給だが、家庭のある人間、彼女のいる人間は多い。彼らは別にイケメンでもオシャレでもない。
たとえ地味な人でも「あの人を選んだ奥さんは見る目あるよね」と言われているタイプは一定数いて、そういう人たちは総じて普段から利他的な行動を取っている、人望の厚い人たちだ。
外向的な人もいれば無口で内向的な人もいる。
問題はそこではないのだ。
だから会話が下手とか口下手とか共通の話題が〜、とかしょうもない言い訳をするな。
お前がフッ軽な陽キャだと思っている人間の中で、自分に自信があって喋るの大好きな、生まれついてのムードメーカーなんて半分もいない。
残りの半分以上は(というかほとんどの人間は)「自分から話振ったりするのは面倒だけど、誰かがやらなきゃ場が回らない」「疲れてるけど顔に出したら場が暗くなるから」という義務感(善意)で、場を回したり自分なりの笑顔でリアクションしたりしてる、普通の人間だ。
コミュニケーションにおいて、見返りを求めずにそういう努力を継続したことはあるか?
口下手でも口下手なりに、黙々と誰かの役に立つことはできる。
見ている人は見ているから人望は必ず付いてくる。
この人になら相談できると思って異性から相談を持ちかけられたりすることもあるかもしれないし、そこでも変な下心を出さずに真摯に振る舞えば、そこからまた親密になるかもしれない。
そんな事は起こらないかもしれないが、起こらなかったからと言って誰も損はしないだろう。
お前が周りからうっすらと「良い奴だな」と思われ続けるだけだ。
それでも同性から人望を集めれば、出会いのきっかけも増えるだろう。
女を口説こうとするな。
自分のことばかり考えるな。
時には割を食ってでも人を助けろ。
ごくごく当たり前の、こういう心構えなんだよ。
お年寄りを助けろ。
道を譲れ。
店員にお礼を言え。
人の話を興味を持って聞け。
相手が興味があることに興味を持ち、相手が大事にしていることを大事にしろ。
それが人を尊重するということだ。
「女だから荷物を持ってあげる」とか「女だから歩道側を譲ってやる」とかじゃないぞ。
男だろうが女だろうが大変そうなら手伝ってやり、そうじゃないなら余計なことはするな。
人として当たり前のことだ。
ここまでやっても好かれないかもしれないんでしょ?僕ちゃん傷つきたくないよぉ〜と言っていたいなら一生やってろ。もう知らねえ。
だがな、40代独身だけどデートして連れ回してほしいみたいな事を書いてた増田もいたが、お前らがやりたいデートだの恋愛だのにおいて「相手が払っているコスト」という概念を忘れてないか???
遊園地で手作りのお弁当食べてイチャイチャしたいと言うとき、相手の女(別に男でもいいが)は、お前と遊ぶために休日の時間を割き、前の日から準備をし、その日やる予定だったことを別の日に回し、何を着るか、何を話すか、何を食べるか考え、楽しい時間を過ごすために気を遣い、頭を遣い、金を使うわけだ。
人生のために大事な資格の勉強とかを後回しにしてお前との時間を取るかもしれないのだ。
そのことをスッポリ考えから抜かして、「女の子に好きなように連れ回してほしいよぉ〜」じゃねえんだわ、甘えん坊か?
タクシー代全部払わされて道中無言でスマホいじっててもいいならともかく、お前らは自分と過ごしてニコニコ楽しそうにしていてほしいんだろうが。
会話を弾ませ、素敵な服を着て、機嫌を悪くすることもなく。
相手にそれを要求していることに全く無自覚なまま、自分は受動的でいいと思ってるのか?
王様かお前らは。
私がどういう立場からこれを書いているのかも表明しておこうと思う。
会社員として、どちらかと言えば男が多めの職場で働くミドサーの女である。
若い頃は別にモテる方でもなかったが、この年齢になって「手近なところでワンチャンいけそうな、レベルの高すぎない独身の女」としての需要が出てきてしまい、下心ありありの非モテのおっさん(同世代〜50代)によく絡まれている。
奢ってあげるから飲みに行こうだの、ご飯食べに行こうだの、チケット取ってあげるから◯◯行こうだの、今暇?だの
うるっっっっせええええんだよ
黙れ。散れ。こっちの反応を横目に窺うようなその気色悪い顔をやめろ。
ワンチャンねえんだよ。
お前らにとっては私はキャバクラのお姉ちゃんやP活より金のかからなそうな手近な女かもしれないが、私はお前らと出かけるために化粧をしたくないし、十年くらい前で時代が止まってるつまんね〜話をニコニコ聞きたくねえんだよ。
それと総じて「◯◯してあげる」って上から目線だけど、どうしてこっちから望んだわけでもないのに実費さえ出せば感謝されると思ってるんだ。
大体、なんにも努力はしたくないけど恋愛はしたいよぉ〜、セックスはしたいよぉ〜、なんつ〜のは、すね毛も乳毛もボーボーに生やした女が鼻くそほじりながら「イケメンにクンニされてえなあ〜ありのまま愛されてえ〜」とほざくようなもんなんだよ。
嫌だろそんな女。
目の前の相手に、「女」という幻想や幻覚ではない、人間としての興味関心を持ち、相手が嫌がるだろうなとか、困るだろうなと思うことはやるな。
ここしばらく、この言葉を使う「上級(w)」エンジニア数名に出会ったことがある。
でもさぁ、おいらが会ったこの言葉を使うエンジニアって、全員が全員、技術力は低いし世界観は狭いし知識ベースは古い。けど自己評価だけは火星のオリンポス山より高い、って人だったんだよね。
「勉強熱心」で「意識高く」て、Netflixの採用ページの話題をWebページで浅く読んで「これだ!」ってなったんだろうけど。
問題は「それがブリリアントジャークなのか?」という評価が、無知、知識不足からくるただの思い込みに過ぎないにも関わらず、確固とした絶対的な評価だと思い込んでることなんだよね。
「チームをかき乱す」
ってだけで、「ブリリアントジャーク」ってレッテル貼って、「俺が正義!」とか言うてんのよ。
でも、この2点だけでその判定は無理なんよね。
「技術的に正当であっても、許されねぇ!」みたいにもっともらしく言うのもいるけど、そのチームでのやり方が「圧倒的技術的失当」だったらお話にならんのよね。
そのせいで事業成長の可能性を潰してるところ、たくさんあるし。
そりゃね、経営判断がーってのもわかるんよ。
でもさ、その判断の元になる情報がこの手の「ブリリアントジャークガー」な輩なわけでさ、そもそも正しい経営判断が下せてるか? って問題があるんよ。
ちゃんと説明した結果、判断が覆るなんてこと、珍しくないからねぇ。
無茶苦茶、恨み買うけど w
「こうした方がいいよ?」
「そんな余裕ない!」
別に、全体を一気に変えるとは言っとらんのに、激昂する。
単に、正しい方法を理解できなかったり、移行イメージがわかなかったり、「この僕を否定してる!」ってなったりしてるんだよね。
新規開発しながら、既存部分を修正していくなんて、たいして難しくないのに。
結果、ダメの上のダメを積み上げていって、エンジニアリングの大半がドキュメント書きと打ち合わせと副業、みたいな開発チームが企業価値をこれっぽっちも上げないまま仕事してるふりして、札束を燃え上がらせてる。
もしお前がこちらを「ブリリアントジャーク」とか決めつけるなら、お前はただひたすら「No-value Jerk」なんよ。
同じJerkならまだブリリアントの方がマシだよ。
結果出すから。
ベンチャー企業が惜しいところで停滞して、VCからの要求で新しいサービスを、同じ手法で増やしまくって、どれもこれも使いづらい停滞サービスにしちゃって、必要なエンジニアの数だけ増えて、成長が止まる。
みたいなのが、はたから見てて勿体無くてもったいなくてね。
まず先に断っておくと詐欺に遭ったことは本当だが、この文章はAIに書いてもらっている。
理由はまだ傷が癒えきっていないことと、自分の言葉で振り返ることができるほどまだ冷静ではないからだ。
ちょうどAmazonで注文していたから、疑いなんて一切なかった。
URLを踏んで、開いたページのロゴは完璧にクロネコ。フォントも、黒×黄色の配色も、文面も“本物”。
追跡番号っぽい数字が一列あって、それを見たときにはもう「これは本当のやつだ」と思い込んでいた。
“そういうものだと思った”のが一番の失敗だった。
カード番号。
有効期限。
全部入れて送信。
……画面が固まった。
次のページに進むでもない。
戻るでもない。
「あれ?」と思った瞬間には、もう取り返しがつかなくなっていた。
翌日、昼。
スマホが鳴った。
「本日の深夜、海外で約10万円のご利用があります。ご本人様でしょうか?」
血の気が、すっと引いた。
呼吸がうまく出来ない。
指も震える。
深夜なんて爆睡してたのに。
合計 107,840円
頭が真っ白になって、
パスワード変更。
全部仕事中。
全部俺のせい。
でも、何の救いにもならなかった。
すると必ずこうなる ↓
固定費が全滅する
引き落とし日にカードが止まってたら
→ 支払い失敗 → 催促メール → 最悪停止
再発行まで1~3週間。
その間、ずっと不便
同じ失敗をする人が、これ以上増えないようにこれを書いている。
忙しい日ほど。疲れた夜ほど。
だれでも、だれでも、だれでも落ちる。
次に来るそのメールは、本物のフリをした“狩りの罠”かもしれない。
周りに言えない恥ずかしさ。
夜になると、あの時入力した数字を相手が眺めていたと思うと吐き気がした。
スマホに触るのが怖い。
ネット通販の決済画面を見るだけで動悸がする。
後から見返せば変なんだ。
そして何より、配送業者がクレカ情報を要求するはずがない。でも、その瞬間の俺は、「現実に起きていること」だけしか見てなかった。
もう一度言う。
男助産師の話題でSNSが荒れててさ、「男が助産師になれないのは性差別だろ!」って意見が出てるわけよ。
で、それに対して「フェミニストは男性差別を正当化してる!ダブスタだ!」みたいにキレてる人がいるんだけど、正直そこズレてるんだよね。
まずさ、そもそもフェミニズムって「男女どっちも平等にしようね〜」っていう中立のバランス取り運動だと思われがちなんだけど、実際は違う。
フェミニズムは歴史的に女性が受けてきた不利益を是正するための政治思想で、中心にあるのは女性の権利の拡張。つまり女側の不利益に焦点を当てる思想なんだよ。
だからそこに向かって「男性差別にも向き合えよ!」って要求しても噛み合わない。
つまりさ、フェミニズムの目的は「女性の問題を優先して扱って改善する」ことであって、男女両方の不利益を平等に扱う万能思想ではないんだよね。
だから男をいくら差別しても、加害してもフェミニズム的には許されるわけ。
「男性差別問題」に取り組みたいなら、本来はフェミニズムとは別の枠組みが必要で、そこをフェミニストにぶつけたところで議論がズレるだけ。
正直、アプリがクソすぎるし、インフラ周りもクソすぎて、話にならんって話だと思う。
レントゲン画像だなんだ、ディスプレイに呼び出せはするんだけど、サムネイルもパッと返ってこないし、本体を表示させようとしても数秒かかる。
どの画像か探すのに、あっち行ったりこっち行ったりで、説明を受けてる側ですらとてもストレスフル。
00年代前半にこう言うソフト、よく見たわ、って感じの骨董品のようなソフト。
その間、患者はどうするの?
ってSIer仕草で作られてるから、分かりづらいし、「想定される最善シナリオから逸れた途端」何をどうしていいかわからなくなって、しかもその割合がうんざりするほと高い。
病院の職員と会社は、このうんこシステムの例外対応に習熟したいわけじゃねーんだわ。
こんなシステム、まるで存在しないかのように必要な業務に集中したいんよ。
マイナカードへの紐付けでクソみたいなシステム作っておいて、不具合対応でも大金たかったSIer、いい加減にしろよな。フェイルセーフとかフールプルーフって概念、存在しねぇのか? と。
って言われて、20年は経ってるだろ。
病院のDX化とか、マイナ保険証のようなものの「理念」は十分理解できるんだけど、「設計実装単価保守料」がゲロクソなんよ。
役所関係の受託開発やったこともあるけど、役人も無責任だし、物事知らんくせに偉そうに指示だけはしてくる。
素人は黙ってろ、って言いたいけど、要求仕様書時点でうんこだからお話にならんのよ。
にも関わらず、何でこれでしてやったりドヤ顔で「紙の保険証はもう使えません」とかほざいてんだよ、って話。
「リテイクだ!」
って全部ひっくり返したい気分で胸いっぱいいっぱいだわ。
普通に「DX化!!」って言ってるいろんなシステムについてもそう。
「このシステムを導入することによってDX化が云々カンヌン……」
で、現場の手間が増え、不具合例外対応に時間を取られ、できるようになったことといえば取締役会でのグラフ鑑賞とか、無駄無駄無駄〜っ!
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる https://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
最終更新
·