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はてなキーワード: 定量的とは

2024-11-25

anond:20241125153500

週当たりの無償労働有償労働の男女での負担割合はほぼ同じな上、有償労働の方が辛いので男の方が辛い

定量的統計も出てるのに何言ってるんかさっぱりわからん

どうしてそこまで頑なにアレなのかさっぱりわからん

2024-11-18

anond:20241118114525

一つだけお勧め

財務報告は数字だけだから基本公正だしそれに対して自分がどう考えるかだけだからかなり公平に見れるぞ

まあ兵庫県財政解説動画なんてどこにもないか自分で読むしかないけどそれでも読んでない人間よりはだいぶ上

SNSとかマスコミとかどっちも定量的情報がほぼないからそれよりは財務報告見た方がいい

2024-11-15

都内での生活と車の維持

最近モラハラ気味の妻から車の維持はコスパが悪いから売れとの指示がきた。

そういった話はよくあるだろう。

最近は平日に車に乗ることはなくなったので、確かに金銭からみたコスパは良いとは言えない。

都内では、タクシーレンタカーカーシェア電車レンタサイクルキックボードシェア交通手段はたくさんある。

駐車場保険車検を月平均に鳴らすと3~4万はするであろう維持費は、上記交通手段で移動した場合上記交通手段での移動の方が安くなるだろう。(あくまでうちは週末に使うことがメインだったから)

  

から金銭面でのコスパは確かに悪い。

そしてこう "コスパ" という言葉をしきりに使う人(妻含め)がいるが、コスパってなんだろう?とふと疑問に思った。

google検索してAIがまとめたものによると、

  

コスパとは、コストパフォーマンス(cost performance)の略で、支払った費用に対して得られた効果満足度、つまり費用効果」を意味する言葉です。
「コスパが良い」とは、支払った金額に対して期待以上の成果を得られたときに使います。たとえば、お手頃な価格でバッグを購入したときに、想像よりも使い勝手が良かった・丈夫な作りだった場合などは満足感を得られるため、コスパが良いと言います。
「費用」は金銭だけでなく時間・労力・精神負担なども含まれ、「パフォーマンス」は、作業なら結果、工業製品なら性能、食べ物なら味、ファッションなら材質・デザイン性、人間関係なら他人から得られるものなど、様々なことに使われます。

  

表示される。

かに支払った費用に対して、週末にのみ使う金額だとコスパは悪く感じてしまうことはわかるだろう。

  

ただ、「費用」には、金銭だけでなく時間・労力・精神負担も含まれてるということに気がついた。

車の金銭的なコスパは悪い。

だが、苦労や精神負担という面からみると、コスパはとても良いんじゃないかと思った。

電車移動での待ち時間・急な雨での予定変更・カーシェアを予約できない時・カーシェアを予約できたけど、急に使えなくなった時などの精神的な負担やそれをカバーする労力・自転車では遠いけど、電車バスでは行きにくく、カーシェアレンタカーなどでは、駐車場に置いとく時間が長く勿体無いというところに行く時の時間、そしてそういうところに行くことの体験は、圧倒的に車を維持することのコスパは良い。

  

  

これを妻に説明しても理解できないだろう。なんといっても自分運転しないんだから....

最近よく聞くコスパは、金額面だけみている傾向が強い。しかし、車が本当にコスパは悪いのか?一旦考えると金銭面ではコスパが良いとは言い切れない面もあるが、

精神的には心を貧しくしているのではないか?と考えるようになった。

心の貧しさが、節約していきたいという発想になっている可能性もある。

(月の固定費(駐車場保険などの維持費など)に対してその金があれば他のことに回せるじゃんとの意見も言っていたので)

モラハラ気味だから、表面的なことしか見てないので、とりあえず攻撃したいだけかもしれない。

  

定量的に妻に伝えるのは難しいだろう。人の仕事道具すら売ろうとする人だから心に余裕がないと思う。

そもそも妻は私が正しい的な人で何を言っても聞かないから、車を手放す方向でさっさと済ませた方がこちらの精神的な負担も少ない。

  

でも、色々しらべてコスパという言葉定義からは決してコスパが悪いとは言えないというのは自分の中では認識をもてた。

子供に対しても、色々な体験をさせるには車がないと行きづらい場所もある。そういう体験経験を月3~4万できるのはお得ともとれる。

  

と、コスパって便利な言葉だなと思いつつ、車を売るための査定している。

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若干背景を書いとくと

2024-11-13

遊戯王勢が何か語ると異様に具体的なことをいうのなんで?

彼らと話すと具体的な事象を通してあらゆることを説明するんだが、他のオタクと比べると妙に抽象化ができていない気がする

喩え話ではなく数値的な話があまりない

たぶん遊び方が定性的すぎなので定量的に考える能力が衰えているのではないか

2024-10-28

anond:20241028112206

リベラルエリートたちが選民気取って誹謗中傷してるだけだからなこの手のは

俺は毎日仕事物事定量的理論的に立証することばっかり考えてるから慣れてるだけ。

そうしないとモノを作っても動かないから。

2024-10-23

こだわりが強いとは諦めが悪いということで見切りをつけられないということ

客観的定量的に観察することが出来れば見切りをつけられる

他人に見切りをつけないからと言って自分が見切られないことにはならないことを知らないといけない

たから見れば自分を見捨てるような行為にいそしまなくて済む

山一証券の株を持っていた人もいる

2024-10-18

仕事では当然やるだろう、イメージや定性評価を避けてミーシーな定量的評価に持ち込む方法を、政治の話になると100%忘れる人ばかりなのは不思議

2024-10-06

1. はじめに

研究は、「バカって言うやつがバカ」という仮説を検証することを目的とする。この仮説は、他者「バカ」と呼ぶ行為が、その発言者自身「バカ」に見せるという現象説明するものであるインターネット上の特定グループ対象に、この仮説がどのように現れるかを実験的に観察し、データ収集および分析方法を併せて考察する。

2. 方法

実験対象としたのは、SNS掲示板を主なコミュニケーション手段とするインターネット上のグループである。このグループにおいて、新たに「バカ界隈」という言葉を導入し、その言葉がどのように使用され、またどのように意味が変化していくかを追跡した。グループは、他者「バカ」と決めつける傾向が強いコミュニティとして定義し、彼らのコミュニケーションパターン定量的および定性的分析する。

2.1 データ収集手法

実験では、言葉使用パターン意味の変化、そして言葉の伝播を追跡するため、以下のデータ収集手法採用した。

キーワード分析: 「バカ界隈」という言葉がどのタイミングで使われ、どのような文脈で登場するかをテキストログから自動的抽出し、その使用頻度を定量的に記録した。

時間経過による頻度変化: 言葉使用頻度が時間とともにどのように変化するかを分析。これにより、言葉の伝播速度と影響範囲を把握する。

コンテクスト分析: 「バカ界隈」が使われる際の文脈調査し、文脈に応じた意味の変化を追跡する。

ネットワーク分析: 言葉がどのようにグループ内で広がるかを可視化し、特にインフルエンサーとなるメンバーや、言葉の伝播経路を特定する。

3. 結果

実験の結果、当初「バカ界隈」は他者軽蔑的に「バカ」と呼ぶ行為やその傾向が強いグループを指す言葉として認識された。しかし、時間が経過するにつれて、「バカ界隈」という言葉意味が変化し、頻繁に「バカ」と言う個人を暗に指すようになった。興味深いことに、この意味変化が進んでもグループ内では「バカ界隈」を使用すること自体「バカ」であるという指摘や批判は行われなかった。

3.1 言葉使用頻度

バカ界隈」は、グループ内で導入後急速に使用頻度を増加させた。特にインフルエンサー的なメンバー使用し始めることで、他のメンバーへと素早く広がっていった。

3.2 意味の変化

初期段階では、他者揶揄する言葉として使われていたが、時間が経過するにつれ、よりユーモラスな自己言及的な意味合いを帯びるようになった。

4. 考察

研究は、「バカって言うやつがバカ」という仮説を、インターネット上のコミュニティにおいて支持される現象として確認した。特に他者「バカ」と呼ぶ行為が、その意味を変化させながらもグループ全体に伝播し続けることが観察された。これは、感情伝染と似たメカニズム言葉が広まり侮蔑的行為が伝染する可能性を示唆する。

4.1 情動伝染との関連

「バカ」と呼ぶ行為が、情動伝染の一種である可能性が考えられる。情動伝染とは、特定感情他者に伝わり広がる現象であり、同様に侮蔑軽蔑が伝染する新たな情動伝染の形態として捉えられるかもしれない。

4.2 ネットワーク分析の結果

言葉の伝播において、特定メンバーインフルエンサー的な役割を果たし、「バカ界隈」という言葉流行寄与していることが明らかになった。彼らの影響力が、言葉意味の変化や使用の拡大に大きな影響を与えた。

5. 今後の課題

研究の結果は、侮蔑的言葉がどのようにグループ内で伝播し、意味が変化するかを示すが、これが他のコミュニティにおいても同様に発生するかはさらなる検証必要である。また、侮蔑行為の伝染が一種情動伝染である可能性をさらに探るため、感情分析を通じて、使用者の感情意図をより詳細に理解することが求められる。

6. 結論

研究では、「バカって言うやつがバカ」という仮説を、インターネット上の特定グループ内で支持される現象として確認した。言葉意味が変化しながらも、侮蔑行為グループ全体に伝播する様子を通して、他者「バカ」と呼ぶ行為が容易に伝染する可能性が示された。今後は、他のグループコミュニティ対象に同様の実験を行い、さらなるデータ収集分析を進めていく必要がある。

2024-09-29

anond:20240929192106

その発想捨てない?

狩猟採集縄文時代にその日のご飯の予定を立てるのは難しい。何が採れるか分からいからだ。最悪食事にありつけないまである

冷蔵庫がなかった時代も難しい。生魚や肉はすぐに食べないと腐るし、野菜そのままで長期間持たないものが多い。専業主婦割合が高く、毎日買い物をして毎日作るのが当たり前の常識だった。

でも今は違う。農家のように消費しきれないくらいの野菜が旬に大量に採れて計画に影響を与える人ならともかく、スーパーには1/2や1/4カットした食材が並び、冷蔵庫冷凍庫が大きく使いやすくなってサブまで持つ人が増えている。

そんな時代に残った食材と新しい食材を組み合わせてできるもの毎日考えて毎日作るって工夫しなさすぎだと思わない?

技術屋さんはどんな分野であれ一般的最初に作るものと量を決めて材料表を作って材料を買って調達して作る。今は料理でもそれができる環境が整っている。

働きながら家事もこなす人が多数を占める現代、買い物を毎日してその日食べるものを決めて自転車操業的に材料を回していく不合理なやり方は時代にそぐわない。冷蔵庫食材を眠らせて置くことは釣った魚をクーラーボックスに入れておくことと同じ。その場で調理して冷凍するのと、放置した食材で作る作りたて、どっちも大差ない。

食材を生で持つから腐る。だから1週間分の計画を先に立てて買い出しは週に一回。肉や魚はその場で冷凍して冷凍できない野菜はその日に使い切る。食材を生で持たなければ腐る心配はないし、作り置きにしてしまえばあとは食べる日だけを管理すればいい。いちいち、冷蔵庫食材でできるもの、足りないもの、飽きを毎日考えて意思決定するパズル毎日解くのは仕事できない人よ。献立を考えるのは週に一日。特売で得する額なんか知れてるんだから最初から買うものを決めてその日に使い切る。余計なものも買わなくなるから特売狙うより結局安くつく。

料理の上手い下手は色々意見あるけれど、味を評価指標にしたら必ず最終的には好みの差に行き着く。でも食材を腐らせないという評価基準は定量的に測ることができてなおかつ良いという方向性コンセンサスが確実に得られる客観的もの毎日考えるというクッソ無駄作業にお別れして一週間の献立を全部先に決めてしまうのが令和の時代のやり方だと思うわ。

2024-09-20

anond:20240920161411

ChatGPTって定量的もの以外は価値評価できないからそういう玉虫色の回答ばかりになるよな

殺人は悪いか?」って聞いてもいい面悪い面で答えそう

2024-09-11

anond:20240911163024

数字あげて定量的増田はてブの衰退を指摘してるのに対して、数字の読み方の誤りを指摘したり数字反論するわけでもなく、より価値があると根拠もない決めつけするお気持ちコメントしか書けない人を見てると不憫になってくる。泣けてきた。

2024-09-06

スキンケアルッキズム

https://anond.hatelabo.jp/20240904005812感想個人的な考えの羅列

この熱量の源泉はなんなんだろう

自分を含む多くの男性にとって、スキンケア日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止め化粧水乳液教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常ルーティンである

しかし、上記記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム社会的要求自己投資官能評価あいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。

美しい肌は恋愛市場ドレスコード

現代社会では、肌は単なる見た目以上の役割果たしている。

美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種ルッキズムを生んでいる。

(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)

スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。

スキンケア官能

スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュものであるスキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者評価依存せず、自分自身ケアする極めて個人的感覚的なプロセスだ。

定量的評価が難しい

容姿に関する特徴のひとつは、その定量的評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間試行錯誤必要であり、その過程で「暫定的解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまりスキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ

コミュニケーションの一部としてのスキンケア

興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割果たしている点だ。スキンケア女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。

肌は常に改善余地を持つ

最後に、肌は常に改善余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。

完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)

anond:20240906155453

増田です。ありがとう、君みたいな人をずっと待ってたよ。

結局自分の肌がどれくらい健康なのか、何が足りなくてなにが過剰なのかを知ることが慣用で、問題がある場合にはそれが緩和されるような成分を選ぶ、というのが成分との付き合い方かと思う。

成分を気にしないといけない、気にしたほうがいいのは、その製品効能の主となる成分、製品のメインコンセプトに係る部分であり、おまけ程度に「XX配合!」とか謳ってるのは正直賑やかしにすぎないことが多い。

完全に同意。肌状態を正しく把握して理想的状態に至るために何が必要かを知ることを抜きにしたスキンケアは、病気じゃないのに薬飲むのに等しい。そしてこの部分って正にスキンケア話題において語られない部分であるように思う。

例えば医療であれば、素人自分状態を知ろうとする場合医療機関での診察や検査を受けることで定量的データやそれに基づく専門的見解を得ることができる。自分美容クリニックもそれなりに利用しているが、そういう抜本的な検査というのは一度も受けたことも提案されたこともない。無論、弊増田が単に無知なだけでそういう対応を受けられる機関ごまんと存在しているのかもしれないが。よく肌タイプが云々みたいな話を見かけるが、あれは何の根拠があって言っているのか、それ16personalitiesより信憑性あるのかな?と常々考えている。

俺は、俺たち彷徨える「清潔になりたい男」たちは、一体どうやって正しく自分現在地点を知ればいいんだ。誰にそれを尋ねればいい? それが分からいからこそ、とりあえず細胞間脂質層の50%を占めるセラミドを塗布すればいいんだなと早合点してしまう俺のような哀れな羊が今も、ここが何処なのか、これから何処へ向かえばいいのか、何も分からないまま彷徨っているんだ。

ビタミンCとかビタミンA(レチノール)に関しては外用でのデータも多いけど、安定した形で化粧品に配合するのが難しかったりで、成分として配合されているといって効果が期待できないこともある。

通ってたクリニックの医師からビタミンCイオン導入でないと殆ど浸透しないと教わっていたんだが、同時にそのクリニックでビタミンC配合の化粧品販売していてどっちなんだよと思ったことを思い出した。ビタミンの外用に関するデータ自体結構あるんだな。PubMedarxivみたいに手軽に全文読めれば追従やすいんだが・・・・・・

anond:20240905235651

「その成分が実際効くかどうか」というのも、数字では表せないところがあって難しい

現状の科学領域では測りきれてない効能機能がたくさんある

これから科学進化によって、もっとそういう領域が増えていく

これはその通り。そのような領域存在することは勿論否定しない。

しかし、であれば一定再現性が確保できた段階になってから効果を謳うべきだろう。最悪、薬機法景品表示法といった制約があるとはいえ、まだ解明されていないだけかもしれないからなんて理由である事ない事アピールしていたら早晩信用を損なうだろうし、リテラシーの高い潜在消費者に訴求することも難しくなるんじゃないだろうか。

そういうことから、「美容品の消費者の大半がSTEM比率の低い女性である」っていうのはちょっと失礼というか、

それはそれで非科学的なのでは…?証拠あるの?

そこは「これは統計的差別だが~~疑っている」とあることから分かるかと思うが、当増田による根拠のない憶測に過ぎない。勿論、賢明美容ユーザー女性もたくさんいるだろうし、逆に男性消費者が多いであろうフィットネスAGAでも怪しい商品は少なから存在している。

あと追記だけど、官能検査については、例えば嗅覚信号のもの効果を測るような場合被験者側の盲検性を確保するのが難しい等の試験デザイン上の課題はありそうとは言え、留保を置いた上で定量的評価自体可能なのであって、官能検査から誤解されやすいとか数値で測れないみたいな話はよく分からなかった。

2024-08-27

anond:20240826170123

オンライン会議で「任意フィラー」って発言できないか

それじゃあ、順繰りですから本日増田さんに発表してもらいます任意フィラー増田です。よろしくお願いします。任意フィラー当番ということで私共任意フィラー事業部の取り組みについて簡単任意フィラーさらいさせて任意フィラーいただきますと、任意フィラー匿名掲示板における維持管理コストとしての例外的リスク定量的評価してみようということで取り組んでいました、任意フィラー取り組んでいます。この画面は見えていますかね、任意フィラー当然ですがこの数式でお示ししておりますように、収益任意フィラーこの場合広告収入ということになります、が、任意フィラー右辺つまりコストを上回るならば経営判断としてサービス継続ということになるかと思います原則的にはということです。任意フィラーここで右辺に着目しますと例外的リスクかけるピーまり確率プロバビリティという項が特に難しいということで、任意フィラーこれまで4つの方式を考えて来ているわけでして、

2024-08-24

anond:20240824220425

コミュニティノートエビデンス重要性とその過度な強調に関するいくつかの指摘は議論余地がある点です。以下に挙げる主要なポイントには一定根拠がありますが、その解釈には注意が必要です。

1. **数値化が困難な要素の軽視**:エビデンスに基づく意思決定が、数値化や定量化が難しい経験文化的価値観などを軽視しがちであるという主張は一理あります。一部の要素は数値では捉えきれませんが、定性調査や複合的な評価方法を用いることでこれらも意思決定に組み込むことは可能です。

2. **主観の入り込み**:エビデンス解釈には主観が入り込む余地があるという指摘も妥当です。データ収集方法分析手法によって結果が変わることがあり、客観性を完全に担保することは困難です。しかし、科学手法統計的分析適用することで、バイアスの影響を最小限に抑える努力はされています

3. **イノベーション創造性の阻害**:エビデンスに重きを置きすぎると、初期段階で十分なエビデンスがない新しいアイデア革新的な取り組みがリスクを取ることが難しくなる可能性があります。ただし、エビデンス直感創造性のバランスを取ることが重要です。エビデンスが全くない状態での意思決定リスクが高いため、判断には注意が必要です。

4. **短期効果の重視**:エビデンスに基づく政策決定短期的な効果を重視しがちであり、長期的影響や副作用を捉えきれない場合があるという点も考慮すべきです。長期的視点や全体的な影響を評価するためには、定量エビデンス限界認識したうえで、補完する要素を見出す必要があります

5. **時間コスト**:エビデンス収集分析には時間コストがかかるため、緊急時には迅速な判断が求められる状況でエビデンスを待つの現実的でないという指摘も正しいです。緊急対策には、エビデンスに頼りつつ、迅速な判断を下すための柔軟性も重要です。

総じて、エビデンス意思決定重要な要素ですが、それのみでは全ての状況に対応できないことを認識することが必要です。経験倫理的考慮、長期的視点なども含めた総合アプローチ重要であり、その限界を適切に認識し、バランスの取れた意思決定を目指すことが肝要です。

2024-08-16

anond:20240816045740

まあ個人的には必修でなくてもいいよなというのは同意で。「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話は後づけされた理由じゃないのかなあ……と。

ブコメでも書いたけど、20世紀初頭あたりまでは自然科学系でドイツ語フランス語特にドイツ語)が強くて、理系でも第二外国語としてこれらを抑えておかないと最新の動向を追うのがきつかった時代というのはあった(はず)なのだよな。"pH"の読み方が長らくドイツ語寄りだったあたりとか医師用語ドイツ語由来が多かったりとかもその名残り。

で、第一次大戦ヒトラーによるユダヤ人迫害第二次大戦という流れの中で欧州大陸から米国研究者が大量に流出し、さら冷戦期のアメリカ学術振興策が当たった結果、現在のような「研究論文英語で書くのが当然」な時代になった。

このあたりを定量的検証しているデータは無いものかなと思って探していて見つけたのがこれ。化学での使用言語推移。

データベースからみた論文使用言語の動向

1961年からデータなので上の流れがある程度定まったあとの情報ではあるものの、1961年時点でも英語割合が43%程度なのだよな。あと冷戦期なのでロシア語割合が18%と高いものの、20世紀初頭のドイツ語圏のような「その分野での圧倒的な強さ」みたいな印象はあんまり無い(おそらく、東欧研究者論文書いたときに「まずロシア語誌に投稿」」みたいな感じの仕組みがあったんじゃないかな)。

そして1980年には英語割合が60%超え、1985年には70%超え、1995年には80%となり、「研究論文英語で書くのが当然」 「研究動向を追いかけるには英語読めれば十分」が確立された(元のデータあくま化学だけど自然科学工学一般でも多分同じことが言えそう)。

話を第二外国語に戻すと、必修なのは制度ができた当時(旧制大学時代?)に必要があったからでしか無いんじゃないかなと。これで思い出すのが「履歴書手書き問題で。

https://nordot.app/961097046650388480

戦前履歴書毛筆が当たり前だったのを「事務処理に必要とされるのは毛筆ではなくてペン字だろ!」という合理的理由改革したものの、手書きよりワープロなりPCなりでの書類作成能力必要とされる時代になっても「ペン字でなければならない」という後づけ理由が発生した。第二外国語を必修する理由としての「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話にも同じような印象を感じてしまうんだよな。

あと、「研究論文英語で書くのが当然」 時代が将来的にいつまで続くかは分からないけど、この時代が終わったとき研究者サバイバル第二外国語が効くか?というと微妙な。

2024-08-15

味をととのえるってなんだよ

具体性がなくて意味不明

料理理系なんだろ?定量的にyeah

2024-08-14

女が女に臭いと言う時は集団で一人をボコる時

社会では女が女に臭いなんて言ったらそれはもうガチ宣戦布告のものなので、まず言わない。

言う時は集団から排除したい一人を集団ボコる時。

匂いは目に見えず定量的に測ることも難しく自分確認することも難しいので、集団ウソを付くことも容易く、武器として非常に優秀。

しかも「相手が」臭いということにしてしまえば、悪いのは臭い相手で、自分は実際には加害者でありながら被害者立場に収まることができ、心理的にも軽い。

このように匂い現代においてかなり効果の高い攻撃方法であるということは知っておくといいかもね。(だから「男は臭い」と性別限定して言う必要があったということ)

2024-08-11

コスパって概念だとタダの場合無限大に増大してしまう。じゃあ果たして0円のボロいママチャリ10円の新品のビアンキとで前者がコスパにおいて優位になるかって話で。そこまで極端でなくとも、フードコートの0円の水があるゆる有料の飲み物よりもコスパが優れてるって事になる。

0秒で完結する動作なんて無いし、金銭的なコストもまあそれを稼ぐのにかかる時間と考えれば無理矢理換算出来るし、タイパはそこん所に対処したものでもあるのかな。と思ったけどこっちはモノよりもむしろ体験行為フォーカスした概念なのかな。

まあそもそもパフォーマンス定義は何なんだよって思う。パソコンなり車なりカタログスペックのあるものなら、少なくとも一面的には意味あんのかもしれないけど。

やれ映画面白いまらんだの、運動健康に良いだの大して効果ないだの、定性的概念定量的な数量で割った所で何になる。経済学の入門で謎に数量化された効用なる概念を見た時にも思ったけど。

まあ選択吟味する時に失うものと得られる満足感の比較衡量くらいは誰しもするんだろうけど、それって他人と共有するには難のある概念だよねって思う。

2024-08-09

どっちやねん

嫁が「主婦家事年収1000万円分に相当する」って言ってきたか

「じゃあ査定するから日の仕事、週の仕事、月の仕事全部書き出して」って言ったら

主婦仕事定量的ものじゃないの!」って言い出した。

ほなら年収1000万とかい定量的指標を持ち出してくるなや。

しょうがないので「俺からお前への愛は年間1000万円ぶんはゆうにあるから問題ないな」って言って

話を終わらせた。

2024-08-06

anond:20240805211301

そもそも日本って強くなってるの?

からそこそこ強かったと思うけど

メダル割合とかで定量的検証できそうだけど誰か検証しました?

2024-08-02

画像へのタグのつけ方に表れるフェチズム

たとえばdanbooruでなら百万単位でヒットするくらいメジャー身体の部位についてのタグがあるのだけど、女性人気のジャンルでは該当する画像にもほとんどタグがつけられていない。

おそらく、このフェチズムを理解するのは男性ばかりなのだろう。

 

同じくdanbooruでは数十万単位でヒットするようなメジャータグがあり、日本人が描く画像はかなりの割合で該当するのだけれど、日本人はそのタグほとんどつけない。

他方、たとえば日本作品の該当するキャラ(非常に多くが該当する。)を外国人が描いた画像場合には、ほぼ確実にこのタグがつけられている。

おそらく、日本人以外からは「日本人は○○フェチだ」と思われているが、我々は無自覚なのだろう。

蛇足だが、自分の知る限り、「日本人かわいいと言うが現地ではそうでもない外国人女子」はだいたいこのタグがヒットするタイプ

 オフラインの知り合いに聞いた限りでは、この属性欧米ではネガティブに捉えられている。)

 

このような傾向を踏まえた上で、国や集団ごとの好みの傾向を定量的に把握したい、と思っている。

「肌が綺麗」のようなどの国でも肯定的評価される属性に対する地域ごとのウェイトの違いであれば、より容易に検証できるだろうが、そうではなく、「A国では減点要因だけどB国では加点要因」のようなはっきりと好みの分かれる属性を調べ上げたい。

2024-08-01

VR演劇はかなり厳しい気がする(現状は)

VRChatでフレンドの話を聞いてVR演劇に興味を持ち、VR演劇Youtube配信アーカイブを少し見てみた。

あらかじめ言えば、全編見るには耐えられず、飛び飛びで表現確認しただけである

ちなみに、実際にVR演劇VRで1度だけ見たことがあり、それは全編見た。

私自身の演劇の関わりを話すと、学生時代演劇が好きで、多いときは年間60本程度観劇し、自分舞台演出したことも何度かある。

そのため、全く演劇に対して知識がないわけではない。

最近は全く関わっていないけれど。

それで、VR演劇を見てみた率直な感想をいうと、現状ではVR演劇の良さを表現できているとは思えなかった。

プロニアムアーチでやる必要ある?

まず、個人的な考えとして、VRにも関わらずプロニアムアーチの中でやる芝居はナンセンスだと思う。

正直言って、今の技術ではアバターにどんな細かい演技をさせたところで、リアル人間から出るオーラに比べて、アバターから伝わるものは100分の1も満たないと思う。演技自体に魅力を感じない。

にも関わらず、VRという空間にもかかわらず舞台と客席をわざわざ分けて見れる部分を限定することは、あまりにもリアルに比べて不利な条件で戦いすぎていると思う。

勝てる要素がないどころか、演劇の魅力を一切表現できず、下手なお人形遊びを見せられているようにしか思えない。

人形遊び感を更に増しているのが、アバター統一感なさである

アバター統一感を持たせるのは大変だということはもちろんわかっているが、美少女とおじさんのアバターテイストが違いすぎて、違うおもちゃ人形を使っている感がすごい。

前述のとおり、細かい演技も表現できないから、余計におもちゃ感。

それをカバーできる演技力もないから(当然で、一流のプロでも難しいと思う)、見るに耐えない。

そんな悪条件のなかでわざわざプロニアムアーチの中で勝負する意味はどこにあるのだろうか。

やるだけ無駄演劇の魅力を伝えるどころか、ただでさえ受け入れられていない演劇をよりつまらないものとして発信しているように思える。

その打開策として、最初劇場ワールドだけど、開始すると劇場が壊れて、舞台セットが現れるといった演出を行っているのもあった。

プロニアムアーチの破壊としての演出自体には、VRならではの表現方法としてなるほどとはおもったけれど、どうやら客席自体は固定で、観客は結局固定した位置から見ることしかできないみたいであり、プロニアムアーチ自体破壊しても、本質的第四の壁破壊にはならず、結局は同じことやっているなと思ってしまった。

アトラクションのようなアプローチ

第四の壁破壊を目指したものとして、体験型VR演劇と銘を打った作品があり、これはなかなか挑戦的だとは思う。

観客自体ワールドを移動しながら、また物語としての役割を与えられて、役者から行動を促されながらストーリーが進んでいく。

テーマパークアトラクションのようなイメージだ。

これはVRからこそ作りやす作品ではあると思うし、VRならではの演劇を目指そうという気概は感じられた。

ただし、こういった体験型コンテンツというのは、現在リアルでも相当アプローチをかけられている分野で、ネットコンテンツが全盛な今、リアルの生き残る可能性として大きく取り扱われているものだと思う。

単なる体験型として見ると、インターネットコンテンツとしては挑戦的かもしれないけど、やはりリアルコンテンツ勝負するとどうしても分が悪い。

どうやってもリアルに勝る演技表現体感は今は難しいからだ。

もう一歩踏み込んだ演出がなければ、これも正直VRならではなものとも思えない。

VRならではってなんだろうね

VRリアルに勝てる可能性のある分野はリアルでは再現できないほどの視覚表現を駆使することだと思うが、これは映像アーティストが本腰入れたらできるものであり、VR演劇を行うような団体でそれを駆使するのは、まだ厳しいと思う。VR演劇ほとんどは無料で、参加者自己表現範囲内だから予算のかかることは難しいだろう。

映像アーティスト志望の人がVR演劇可能性を見出してくれるような魅力を表現できれば、そういった道もできてくると思う。

現状でいえば、VR演劇は実際の演劇の何段も劣る環境下で、同じ舞台勝負している印象があり、これでは勝負にならないどころか、演劇の魅力がほとんど伝わっていないなと思う。

もっとVRならではの視点での演出構造表現してくれれば、VR演劇可能性を感じることができるのだけれど。

個人的には、VRならではの演劇演出というのは一つ思いついているものもある。

演劇ならではの良さを、更にVRで伸ばす事ができるという視点があると思う。

そんなに特異な演出ではないから、すでに誰かがやっていると思うし、もしかしたらうまくいっていないのかもしれない。

これについては、もう少しちゃんVR演劇を見て、有効性が確信できたら書いて見るかも。

ちゃんと傾向がみえてきたら、VR演劇論的なものもできてくるんだろうね。

VRChattarが観客という可能

VRならではという意味では、まだまだ課題はたくさんあると思ってはいるけれど、私がVRChatを始めたばかりの2年前に見たVR演劇VRとはまた違った視点可能性を感じたことがある。

その演劇自体は、舞台上で行われる普通舞台で、第四の壁破壊する行為として、キャストが観客に語りかける演出があった。

それ自体リアル演劇アプローチと一切変わらないものであったが、観客の反応が違った。

そのキャストが観客に語りかけるシーンは、登場人物少女競売にかけられるといった内容で、キャストが観客に対して「◯◯円からです。オークションスタートです」みたいなセリフ?(うろ覚え)を言って、観客を競売参加者見立てて問いかけた。

これがリアルならば、ほとんどの場合は観客は反応せず、あたかも観客が競売しているかのようにキャストが装い、劇を進行させることが多いと思う。もしくは観客に仕込みをいれるかだ。

でも、VRChatは違った。

観客が突然ロールプレイを始め「いくらだ!」「この娘ならこれくらいの価値はあるはずだ」みたいな声を上げ、演技をし始めた。

多分仕込みではなく、自然発生的に観客がキャストになったのだ。(仕込みだったら申し訳ないけど)

VRChatを行っている人がロールプレイをして遊んでいる人が多いからこそ、発生した事象だと思う。

また、それを行うことが許される空気VRChatにはあるのだと思う。

いくらロールプレイに慣れている人でも、リアル舞台で振られて、観客席からそのようなことができる人は少ないと思う。そして多分リアルだとその行為自体を嫌がる観客も少なからずいるだろう。

私はここに、新たな第四の壁破壊可能性を感じることができた。

これ自体VRじゃなくてもできることであるが、ロールプレイという訓練をされた観客、また観客がロールプレイをして許されるという空気感。

これはリアルではなかなかできなかった文化形成ができているということで、リアルよりもVRが進んでいるものだと思う。

また、これは演出側の観客に対する信頼も評価したい。

これは反応がなければ白けるだけのリスクある演出だけれど、きっと演出側は観客がロールプレイをしてくれるという信頼の元行ったものだと思うから

とにかくこれにはすごく感動した。

ライブコールアンドレスポンスのような観客との一体感演劇で出せるとは。

この舞台と観客の一体感というのは、ライブからこそできるものだ。

そして、ライブ感というのはリアルに比べてVRはいろんな要素の欠落から、劣ってしまう部分がある。

けれど、観客側のアプローチによって、そのライブ感は現実にも勝る可能性を秘めていることがわかった。

演劇における観客との双方向コミュニケーションは、常に課題として挑戦されている分野で、それを解決できるなにかを感じ取れた。

今はまだ厳しいVR演劇というコンテンツだけれど、VRならではの演出双方向コミュニケーションで、リアルを超えるような演劇体験ができるようになったらいいなと思う。

ただ、VRChatはすこしずつ流行ってきており、一般的コンテンツとなってくると、参加者自体一般化し、こういった要素は薄まってくるのかもしれないという危惧もあるけれど。



辛辣感想にはなってしまったけれど、私がみた作品クオリティが低いだけな可能ももちろんあるので、良いVR演劇があれば教えてほしいところ。



余談

余談だけど、VRピアノ演奏イベントにいってきて、音楽VRでもかなり楽しめるなと思った。

演劇との違いはなんなのかは、またいつか分析してみたい。

単純にクオリティ問題もある気もするけれど。

演劇俳優は単純に技術の低い人が多いというのも大きな要素なんだとおもう。

演技は定量的技術の積み重ねで表現するのが難しい分野なので。

音楽はある程度定量的技術の積み重ねで行ける部分があるからこそ、定性的表現の域に達している人も多いのだろうという印象はある。

演技も定量的技術力がつけばいいのだけど、いろんな演技法があってもそうなっていないのが現状だと思う。

まあ、役者自体が他のジャンルに比べて、勉強不足ということも大いにあるのだけど。

日本指導者含め。

ただ、久しぶりに演劇勉強したくなってきたので、ちゃんと本を読みに図書館へ行こうと思った。

演劇に関する本は売れないか新規発行がなく、プレミアがつきすぎてて、中古で数千円から数万になるものが多くて嫌になるね。

2024-07-28

小学生でもわかる」が「馬鹿にはわからない」を意味するとき

 とある高名な環境建築家YouTube動画も上げている)が省エネ建築経済的社会福祉合理性説明するときに、「ちゃん計算すれば小学生でもわかる(のに、相応の地位にいる人がいい加減なことを言うのはけしからん)」という言い回しを多用する。

 いや、実際のところ、自分にとってそれは余りにも耳慣れたフレーズのため、特に気に留めるほどのものとも思っていなかったのだが、ある動画に「小学生だとか人を馬鹿にするような言い方はやめろ」とクレームがついていて驚いたのだ。

 

 それなりに整った環境理系教育を受けたものにならわかると思うが、「研究発表は『頭のいい小学生にならわかる』ようにせよ」というのは誰がいつ言い出したかもわからいくらいあまりにもそこら中で聞く言葉で、これを特に何かを見下したとか馬鹿にした言い方だと思う奴はいない。

 何故ならば、ここで言う『頭のいい小学生』は『特に専門知識はないが理解力は深い人』を意味するのであり、具体的には『専門分野の違う他ゼミ教授陣』のことを指すからだ。

 これが「人を馬鹿にした言い方」だと思う時点で驚き、非アカデミックキャリア詰んだ人々との文化の壁をまずは思わざるを得なかったが、よく考えるとこれこそがつまり理系』という知性の特殊性汎用性を表す側面なのだと思うに至った。

 

小学生にわかるとはどういうことか

 『小学生』と比較されると、普通の人は怒るらしい。何故か。小学生を劣った存在だと思っているからだ。

 この人たちにとって『小学生』と呼ばれることは『頭が悪い』とか『未熟』とかを意味するのだろう。

 しかし、理系認識においてはそんな意味合いはほとんどないと言って良い。

 理系思考力の学問なので、「知識がなくてもわかる奴には説明すればわかる」「わからない奴、考えようとしない奴はどれだけ本を読んでもわからない」という認識が当たり前だからだ。

 将棋囲碁などの知的スポーツと近いところがある。

 これらの競技若いうちに才能を発揮できなければ辛いと言われるように、数学物理仕事若いうちにできなければその後もあまり希望はない。

 若さ可能性ではあってもなんら見下す要素ではないのが理系世界だ。

 

 さらに考えを深めてみよう。

 では、なぜ理系は「そういう世界なのだろう。

 将棋囲碁は、ルールシンプルだが組み合わせが複雑で、知識より思考力がいるものだというのは誰にでもわかる。

 しか数学物理は難しい数式や抽象的な概念を覚えなければいけないから、小学生に難しい問題理解できないはずだ。と、考える人も多いかも知れない。

 だが実のところそれ自体、そんなことはないと証明されているのだ。

 

 チューリングマシンという概念がある。イギリス数学アラン・チューリングの考えた計算モデルで、現在コンピュータの元になっている。

 さて、ではなぜチューリングマシンは「コンピュータの元」たりうるのか? 言い換えれば、「チューリングマシンには何ができることが保証されているのか」?

 この答えが、まさに「理系議論に『小学生にもわかる』説明義務づけることができる理由である

 チューリングマシンは、本来ただの計算機のアイデアではない。それは『数学自体定義である

 『計算とは何か』『計算できるとはどういうことか』この答えを探した結果チューリングが得たのが、『計算とはチューリングマシンで解ける問題のことである(意訳)』という、現代ではもはや計算定義数学定義として認められている回答である

 計算とはチューリングマシンで解けるものことなので、どのような数学問題コンピュータプログラムとして書き、計算することができる。

 

 コンピュータプログラムとは、ifとgotoを伴った算数レベル計算連続ことなのだから、これはつまりどのような数学問題も、深い思考力さえあれば『算数レベル説明に落としこんで理解できることを意味する。(方程式がなくても鶴亀算が解けるように。)

 ここで必要なのは純粋算数程度の知識と、それを深く複雑に組み合わせる思考力だけである

 

 従って、理系説明数学的に表される定量的議論というものは、説明者にきちんとした理解があれば必ず算数レベルの話に落とし込める。

 最近は、ネットの声の大きいマナー講師たちによって「専門的なことを誰にでもわかるように説明することなんてできない」という言い訳を聞くことが多いが、少なくとも理系問題において、定量的議論をする限りは、『数学』は『算数』の複雑化、抽象化に過ぎないのであり、必ず噛み砕いて説明することは可能だ。

 ただし、ここで聞き手に求められるのは、何をおいても『算数レベルでならしっかり理解できる知能』ということになる。

 つまり『頭のいい小学生』には必ず理解させられても、算数すら苦手な『馬鹿大人』に希望はないということである

 

 『小学生でもわかる』は、小学生を劣ったものと考えている言葉では決してない。しかし、それ故にこそ、小学生レベル算数も覚束ない大多数の大人が、劣ってるどころではない論外の存在であることを突きつけてしまう厳しい言葉なのだ。使い方には気をつけなければいけない。と思った。

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