はてなキーワード: あくまとは
現代の戦争が「内政干渉を目的として起こるものか、それとも別の要因が主で、内政干渉は正当化のための大義名分にすぎないのか」という問いは、非常に興味深い視点を含んでいます。
現代戦争に関して言えば、後者の考えのほうが現実に即していると考えられます。その理由を以下に説明します。
1. 戦争の主な要因
現代の戦争は、以下のような多様な要因が絡み合って引き起こされています:
- 地政学的要因:資源の争奪、重要地域の支配、経済的利益を守るため。
- 経済的要因:天然資源や貿易ルートの確保、経済危機の転嫁。
- 権力闘争:地域の勢力均衡や、国家間の競争。
- テロリズムや反乱の抑制:国家の安定性を維持するため、他国が介入することがある。
- イデオロギーの対立:民主主義、独裁主義、宗教的要因、国家主権とグローバル化の衝突。
このように、内政干渉を直接の目的とするというより、資源や安全保障、権力維持などの目的が先にあり、その手段として内政に干渉することがある、という方がより現実に合っています。
2. 内政干渉は正当化のための「名分」
歴史的に見て、現代の多くの戦争では「内政干渉」が正当化のための口実として用いられることが多いです。たとえば:
この場合、「内政干渉」という名目はあくまで表面的な理由であり、実際には資源、地政学、経済的な利益、または戦略的要因が裏にあることが多いです。
例えば、アメリカのイラク侵攻は「大量破壊兵器の存在」と「民主化支援」を大義名分としましたが、その背後には石油資源や中東地域の安全保障という要素が強く関わっていました。
3. 現代の戦争とグローバル化の影響
グローバル化が進展することで、国家間の相互依存が強まり、伝統的な領土紛争に加え、経済、技術、テロリズム、情報戦が要因となる新しい形態の戦争が現れています。こうした状況では、内政そのものが国家間の争いに巻き込まれやすくなり、内政への干渉は戦争の一側面に過ぎなくなっています。
たとえば、経済的制裁や情報操作を通じて相手国の内政に影響を与え、相手の安定性を揺るがすことで間接的に優位性を確保するケースも多くなっています。
結論
「内政干渉が戦争そのものの目的である」という考え方は限定的であり、現実には「内政干渉は戦争を正当化するための大義名分や手段」として機能するケースが多いです。つまり、経済的利益、権力闘争、資源競争、安全保障といった要因が根本的な動機となり、それらを合理化し、正当化するために内政干渉という枠組みが使われるのが現実です。
この視点に立てば、「内政干渉が主目的」という考えよりも、「他の要因や目的が主となり、それが正当化の口実として内政干渉を用いる」という考え方の方が、歴史的な事例や現代の国際情勢においても現実に即していると考えられます。
現代の戦争が「内政干渉を目的として起こるものか、それとも別の要因が主で、内政干渉は正当化のための大義名分にすぎないのか」という問いは、非常に興味深い視点を含んでいます。
現代戦争に関して言えば、後者の考えのほうが現実に即していると考えられます。その理由を以下に説明します。
1. 戦争の主な要因
現代の戦争は、以下のような多様な要因が絡み合って引き起こされています:
- 地政学的要因:資源の争奪、重要地域の支配、経済的利益を守るため。
- 経済的要因:天然資源や貿易ルートの確保、経済危機の転嫁。
- 権力闘争:地域の勢力均衡や、国家間の競争。
- テロリズムや反乱の抑制:国家の安定性を維持するため、他国が介入することがある。
- イデオロギーの対立:民主主義、独裁主義、宗教的要因、国家主権とグローバル化の衝突。
このように、内政干渉を直接の目的とするというより、資源や安全保障、権力維持などの目的が先にあり、その手段として内政に干渉することがある、という方がより現実に合っています。
2. 内政干渉は正当化のための「名分」
歴史的に見て、現代の多くの戦争では「内政干渉」が正当化のための口実として用いられることが多いです。たとえば:
この場合、「内政干渉」という名目はあくまで表面的な理由であり、実際には資源、地政学、経済的な利益、または戦略的要因が裏にあることが多いです。
例えば、アメリカのイラク侵攻は「大量破壊兵器の存在」と「民主化支援」を大義名分としましたが、その背後には石油資源や中東地域の安全保障という要素が強く関わっていました。
3. 現代の戦争とグローバル化の影響
グローバル化が進展することで、国家間の相互依存が強まり、伝統的な領土紛争に加え、経済、技術、テロリズム、情報戦が要因となる新しい形態の戦争が現れています。こうした状況では、内政そのものが国家間の争いに巻き込まれやすくなり、内政への干渉は戦争の一側面に過ぎなくなっています。
たとえば、経済的制裁や情報操作を通じて相手国の内政に影響を与え、相手の安定性を揺るがすことで間接的に優位性を確保するケースも多くなっています。
結論
「内政干渉が戦争そのものの目的である」という考え方は限定的であり、現実には「内政干渉は戦争を正当化するための大義名分や手段」として機能するケースが多いです。つまり、経済的利益、権力闘争、資源競争、安全保障といった要因が根本的な動機となり、それらを合理化し、正当化するために内政干渉という枠組みが使われるのが現実です。
この視点に立てば、「内政干渉が主目的」という考えよりも、「他の要因や目的が主となり、それが正当化の口実として内政干渉を用いる」という考え方の方が、歴史的な事例や現代の国際情勢においても現実に即していると考えられます。
ブコメの「そもそも外国人との国際結婚なら認められている夫婦別姓が日本人同士の結婚だと認められないのがおかしな話」について。
これは外国人配偶者が「姓のない名前」だった場合、そもそも同姓にする、ということが無理なので、それぞれの今までの名前を引き続き使えるようにしておくということだと思う。
結果的に夫婦別姓にもなることもあるし、日本人は姓のある名前、外国人配偶者は姓のない名前のまま、ということができるように。
例えば、モンゴル人力士が帰化するときに日本人の妻の姓を使うのは、そもそもモンゴル人に「姓」がないのも大きいと思ったりする(普段は父称を姓代わりに使ってるが、あくまで父称なので、配偶者が名乗ることはない)。
「佐藤」とかそういう感じの平凡な名字で生まれた。分かりやすいように「佐藤(仮)」とする。
日本人と外国人が結婚しても名字は変わらない。夫婦同氏は日本人同士の場合だけだ。
私はこれまで通りの日本の氏名で生活してきた。むしろ夫が通称名として「佐藤」を名乗るようになった。生まれた娘の戸籍名も「佐藤」である。
29歳の時に夫が帰化した。
在日韓国人が帰化をしたら名字は自由に決めれる。夫は帰化後の名字に「朴」を選択した。
帰化をしたら日本人同士の夫婦になるので、同じ苗字を名乗らなければならない。
夫と相談をした。私は戸籍上の名字が「朴」になっても、私と娘は夫が今まで使ってきたように通称名で「佐藤」が使えると思いこんでいた。不安はあったが、夫の意思を尊重したいと思った。
私は朴になった。
想像以上に辛かった。
学生時代、在日コリアンの人がクラスメートにいた。日本名を通称で使っていたので在日コリアンであることを知らず、成人式で再会してその子がチマチョゴリを着てるのを見て初めて知ったくらいだ。
だから「佐藤」を通称名で使えると思っていた。しかし、この「通称名」制度は日本国籍の人には適応されない。
在日韓国人の「朴さん」は住民票に通称名「佐藤」を登録できるが、日本人の「朴さん」は通称名「佐藤」を使えない。ただ、旧姓併記の制度があるので、旧姓として佐藤を登録はできる。でも旧姓はあくまで旧姓。
まず日本人だと思ってもらえない。
外国人と日本人が結婚した場合、婚姻届を出すだけで名字は変わらないが、届出をすれば名字を変更できる。しかし在日コリアンと結婚した日本人女性は、ほとんど名字を変更しない。
もし夫がアメリカ人で私が「スミス花子」なら「国際結婚ですか?」と聞かれるが、「朴花子」の場合は「在日コリアンですか?」となる。
可哀想なのが娘である。親の都合で佐藤から朴として生きていくことになった。
通常は片親が日本人なら日本の名字になるはずなので、朴の娘は両親とも在日コリアンだと思われている。そして日本国籍なので通称名で佐藤を名乗れない。
娘のクラスメートには在日中国人がいるが、その子は通称名で「張本」みたいな感じの日本名を名乗ってる。娘は日本人なのに朴。
正直、朴として生きていくことがこんなに辛いと思わなかった。差別よりも、自分の日本人としてのアイデンティティを奪われてる感じが辛いんよ。
まずもともとイイダのイラストはそんなに炎上しているわけじゃなかった、ぶくぶが指摘を受け止めて謝罪したことで反応が巻き起こった
この時点でぶくぶの謝罪の意図を無視して怒るオタクが爆誕した、こいつらはただ日本の創作(お前の創作じゃない)に文句をつけられたことが気に入らないから暴れてるだけでホワイトウォッシュもブラックウォッシュも理解していないと思う、ぶくぶは相手を炎上させるために謝ってみせたとまでいうオタクもいて、自分のエゴを押し付けて正しいと思い込むために勝手に意図を決めつけ創作を守る行為だと正当化する傲慢さに辟易した、この時点で危険だとは思っていた
はっきり言って作者が自分の意志で考えて謝罪したことをオタクが勝手にねじ曲げて暴れるのは迷惑でしかない、もし差別と関係ない内容でも同じことが起こったらと思うとゾッとする、オタクにとって作者が作品への考えを主張し、表明した意思を踏みにじって冒涜するのはもはや誰も指摘すらせず省みられない行為なのだということがわかる、だれもぶくぶの意思を尊重しろとは言わなかった、この事が本当に怖い
人種差別の問題なので、謝罪したことで相手に正当性を与える危険性や、今後の影響などを危惧するのは分かる、でもそんな慎重さや思慮深さとはほど遠い短慮と軽薄さでオタクが勝手に難癖をつけ続け、黒人化された二次創作イラストと声優が批判されるに至った、人種を変えるにしても二次創作と、キャストを変えるのと、作品内の人種を置き換えてしまうこと、そして人種の描写が間違って描かれることは全く違うだろうに
イイダのイラストは、最初の段階では謝罪に追い込まれたなどということはなく、無視できる程度の騒ぎだったが、ぶくぶがイイダというキャラへの理解と愛から確かにそうだったと考えたから出た言葉だったのだと考えている、確かにあのイイダのイラストは褐色肌に見えるからだ
日本人からしたら暗めの肌の色の変化くらい大した違いじゃないかもしれないが、褐色はアラブ系にもインド系にも見える、多様な人種が暮らす国では黒人(のような)キャラの肌色が明るくなることはそのキャラクターの性質そのものが変わって見えてしまうことも考えられる
「イイダというキャラクターへの理解が足りなかった」という反省を感じさせる誠意と愛ある言葉が日本人によって軽んじられ、他のファンアートを貶める動機になっていることが無念でならない、つうかお前ら、ほんとにぶくぶの謝罪を一言一句読んでるのかよ、あくまで「キャラへの愛」と「理解」を通して表現と人種について慎重に配慮したあの言葉の意味がわかってブラックウォッシュを批判しているのか?していないからあのイイダのイラストを使ってブラックウォッシュを批判できるんだろう、まず作者が謝罪したものを使うな、そもそも人のファンアートを自身の主張の攻撃の道具にするな
とにかくあの炎上をブラックウォッシュと繋げて批判するのはオタクのエゴが先行していることを自覚して欲しい、ブラックウォッシュが問題で差別だと思うなら切り分けて批判するべきだし、この炎上に加担しているオタクは発端となった作者の意思とキャラクターへの誠意を踏みにじっていることに気づいていない
肌の黒い声優が自身の演じるキャラの黒人化イラストを気に入るって中の人ネタの範疇で許されるべきだという気がする
むしろ日本の作品だと分かってるから吹き替えで自身と同化したアイコンを使うって二次創作的な遊びが成立するんだろうし
第一この炎上の火種になっているぶくぶのイラストは無意識に人種が変わってみえるレベルで肌の色が変わっていたことが良くなかったわけで、意識的に人種を変えて楽しむのとは根本的に性質が違う
向こうでオカルンを演じている声優が自身と近いキャラ表象を気に入ってアイコンにした、この現象自体がオタク的で、日本のナードな性質を持った黒人キャラのアイデンティティを持つ声優ってすごく日本文化に親和的な意図を持っていたんじゃないか
もしこれにリベラルや多様性からの作品への改変の意図が加わるなら話が変わってくるが、あくまで演じる人の自己認識を反映した表象として喜ばれたという点では否定されるべきではなかった、この現象がオタク的な文脈で楽しまれなかったことを残念に感じる
X(旧Twitter)を眺めてたら、「蛍光灯が2027年に生産終了!LED照明に移行しましょう」といったWeb記事を貼り付けて、「地獄の始まりだ」とコメントを付記しているツイートが流れてきた。
一見して何が地獄なのか意味不明だったのでツリーを掘っていくと、要するに「LEDは目に悪いというのに、今後照明は全てLEDに置き換わっていくのでもうこの世の終わりだよ」という主張のようだ。
もっと言えば、蛍光灯の製造販売の禁止は条約で定められたことなので、LED置換の流れは世界が強制していることになる。
あぁ、やっぱり陰謀論か。
と切って捨てることが出来ず、むしろこの陰謀論は初めて触れて妙に面白いと感じてしまったので少し調べることにした。
そもそもLEDが目に悪いという言説自体、増田は聞いたことが無かったのだが、どうもLEDというよりLEDの発するブルーライトが健康リスクなのだ、ということらしい。
ブルーライトは知っている。スマホが急速に普及し始めた時期に結構騒がれた事を覚えている。
じゃあブルーライトは目に悪いのか、となる。論文を参照する能は増田には無いので、ネットで軽く検索を掛けると、一応そういう研究はあるらしい。
らしいのだが、どうも根拠が薄い。あくまで動物実験で、20~30時間直接網膜に照射してダメージありました!程度の話で、じゃあ人間ではどのくらい影響があるのか、そもそもそこまで極端に目に入ってこないだろとか、いろいろ言いたくなる。
先述した通りブルーライト自体は騒がれてから久しく、人類は何十年もテレビ・パソコン・スマホ等で散々浴びてきたように思うが、ブルーライトに起因する有意な健康被害の報告は見たことが無い。
じゃあ蛍光灯はブルーライト出してないのかと思い返せば、当然出しているわけで。
これもネットで少し検索すれば蛍光灯とLED照明のブルーライトを比較したサイトがたくさん出てくるが、有意な差はないどころか蛍光灯の方が強いまである。
テレビやスマホに対する有機ELも同じような検証がされていて、これも同じような結論である。
このあたりの検証報告は結構豊富に見つかり、ブルーライト界隈では以前から騒がれてて既に否定されていることも見て取れた。
世界の陰謀に行き着く前に、その前提となるLEDは良くない論が破綻してしまった。
増田はこの陰謀論に満足している。陰謀論を通してブルーライトについて少し詳しくなったからだ。
調べる前はなんとなく目には良くないけどまぁ気にするほどではないのかなと思っていたが、実際気にするレベルではないことが分かった。
目の強度は正直個人差があるので、一概に無防備で良いだろとは言わないが、増田は生まれつき目が強いようなので気にしないことにした。
目への影響とは別に、ブルーライトは体内時計を狂わせるのでそれが良くないという研究結果があることも知った。
だから寝る前のスマホはやめましょうと言われてるのだが、増田はその生活を10年以上続けていて困っていないのでやっぱり気にしない。
これで話が終わればいいのだが、本当にこれで陰謀論が否定できたかと言えば、全然そうではないというのが陰謀論もといデマの怖いところなんだよな。
陰謀論を主張する者も、それを否定する者も、いくら根拠を並べ立てても、各々が都合良く情報の取捨選択をしてしまうのでお互いの溝は埋まらない。
100年後、実は長年のブルーライトの過剰摂取により人類のDNAが不可逆的で致命的な損傷を受けて変異してしまいました、となる世界線を主張されたら、それを完全に否定する術も人類は持ち合わせていないし、未来になって初めて分かることは今誰にも分からない。
効率を考えた時に過程の多様性が少ないのが地味に欠点かもしれない
ステータスでどうにかできる範疇が狭くて、個体はあくまで入れ物でしかなく、特定のスキルセットがついてさえいればどれでもいいっていうのが良くない
マッチングが罪深いのはあくまで自社の利益が出る形に正当性を持たせるという機序であるため、本当に相性のいい組み合わせの人間同士がいたとしても利益を最大化できるモデルに反している場合は引き合わせない事が正当化されているという話
数ヶ月前に子供が生まれて今までの人生から考え方が変わった気がするので言葉としてまとめようと思った。
(※あくまでも自分はこう思ったという事を言葉にしてみただけなので、自分と異なる立場や考え方の人について言及する意図は一切ないことを念の為前置きしておきます)
今まで人の子供を可愛いとはそんなに思わなかったけど、自分の子供はとにかく可愛いと感じている。生まれる前は泣きやまなかったらちょっと離れて放置しようとか思ってたけど、今や少しでも泣いたら、というかこっちをじっと見てるだけで可愛い可愛い言いながら構ってしまっている。
自分の子を可愛いと思うとともに、人に対する考え方が大きく変わったと思う。
今までは関わる人は全てただの人であって、自分が相手にどう思われるか、相手をどう思うかという自分軸だけで関わってきた。
一方、今は相手も誰かの大切な子供なんだな、という感情が湧くようになった。自分が我が子を可愛くて可愛くてたまらなくて、大切にしたいと心から思うように、相手もそういう風に誰かに大切に愛されているのかもしれない。
そう思うと、誰かが死んでしまったり、いじめだったり、そういうニュースに対して本当に心を痛めるようになった。自分の大切な子供がいじめられたり、人権を軽んじるような扱いをされたら辛くて悲しくて耐えられない。
相手の背景にいる親心を考えると、関わる人を尊重する心を軸として持っておきたいと思うようになった。(もちろんそういう心を持って関わった上で自分に害を為す人物であれば関わらず離れたり防衛したいと思うが)
今までの人生の中で誰かをいじめたり、自分の意思でわざと傷つけたりするような行為をした事はないが、苦手な人や自分より劣っていると感じた相手を心の中で軽んじたり見下したりする事はあった。たとえ心の中だけの事であってもそういった感情は恥ずかしく情けなく、自分の子供がそういう風に扱われたりしたら悲しく感じる。自分が心の中で軽んじた相手にも大切に思い育ててきた人がいるのだと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになっている。
最近は関わる人に対して、自分の子供がこの人の立場だったらどう扱われて欲しいか、というのを考えながら接するようにしたいと思うようになった。とはいえ相手を子供と同じように愛するなんてことではなく、例えば飲食店の店員さんにありがとうごちそうさまを笑顔で言ったり、アンケートに感謝と労りの言葉を添えたり、少し丁寧で良いお客さんをするくらいだけれど。
婚活の一番重要なスペック(というか要素)としては「惚れっぽさ」があると思う。
どういう人を好きになるのか、どういう人だったら好きになれるのか棚卸ししてみるといいんじゃないかな。
例えば、身近な人でも「この人なら好きになれるのかな?」「この人と結婚できるのかな?」を脳内シミュレーションしてみるといいかも。
非モテの中でも、俺は輪をかけて拗らせた、性格の悪いタイプだと思う。
だからこれをもとにモテない男は一般的にタチが悪いなどど早合点しないで欲しい、と最初に断っておく。俺の話はあくまで俺個人に限ったことで、世の中の男性のほとんどは俺よりよっぽどまともなはずなので。
大学時代、気になる女の子がいた。初対面の当初はそこまで気になっていたわけでもなく、大学時代の最初は高校時代の失恋の整理が終わってなかったことや非モテを拗らせていたこともあり、友人として信頼関係を築いていた。
大学生活も後半に差し掛かる頃、恋愛がしたくなり、その友人にアプローチをかけ始める。男女問わず友達がいない俺にとって恋愛対象は限られており、さらに友人としての信頼関係から恋愛に移るタイプだったので、もはやその女の子以外の選択肢はなかった。
しかしなかなか靡かない。デートにはたまに行けるが、それ以上は牽制されつつ、たまに寂しいときには寄ってくるという生殺しのような関係がしばらくあって、俺と彼女は三年生を迎える。
当時学俺は学業もサークルもうまくいかず、女の子の方もまたいろいろとうまくいかずといった状況で、お互いに余裕のない時期だった。そんな時期に性懲りも無く、気の良い脈もないのにちょっかいをかけようとする俺に愛想が尽きてきたのか、女の子も俺に呆れてきたようだ。自然な展開として、彼女とはかなり深刻な喧嘩になり、以降口も聞かなくなった。
彼女の近況は人づてに聞くしかないが、どうやら俺に信頼関係を裏切られたように感じて、憎んでいるみたいだ。そして不思議なことに、その事実でたまらなく満たされた気分になるのである。
そもそも俺は性欲と承認欲求の区別が曖昧で、恋愛関係に期待する幸福が一見して性的なものではない。気になっていた女の子に嫌われたことで、彼女の中では俺は「クソ男」のスタンダードとして彼女の恋愛観や人間観に残るはずであり、それだけで承認欲求が満たされて恋愛的な満足も得られてしまったのだろう。憎しみの強さは好意よりも持続するものだと思うので、むしろこの方が彼女の中に強く残るのである。彼女はこれ以降、俺のようなタイプの男を避けるだろうと想像すると、嬉しい。
また、たとえセックスできたとして、俺は彼女にとっての何になり得ただろうか。過去の恋愛感情はいつかは冷めるもので、現在の男に上書きされる運命でしかない。なぜなら対象とする男が違うだけで、どの好意もそれ自体はすべて同じものだからだ。しかし、俺に関する記憶は、人間関係の苦い思い出として彼女の中に残るはずである。恋愛にすら至らなかった曖昧さのために、完全に同一のものとしてカテゴライズされるべき競合の記憶が存在しない。名前のつく関係性や行為では不可能な位置を彼女の記憶の中に占めることができたのだ。
実際に記事を読んでみると「子どもの権利や貧困」を、じゃなくて、あくまで「子どもの権利条約」を、だし。
そりゃ内容を詳しく知ってるかって聞かれたら、憲法や民法だってなかなか「はい」とは答えられない人が多いだろうに。それをもって関心がないと決め付けるのは???
子供の貧困についてもあくまで「実態」を知っているかという問いなんだから、そりゃあニュースや本でどれだけ知ってても実際直接目にした事がなかったら「いいえ」と答えるでしょうに。印象操作が過ぎる…。
しかし子どもの貧困に関する報道が減ったって本当に?毎日毎日子供子供って、うるさいくらいに聞こえてくるが…。
そもそも子どもの権利が守られていないって、一体何処が?どう考えたって、守られていないのは大人の権利の方でしょうがよ。子供の未来は大人なのに、何故大人の権利は無視して子どもの権利だけを語るんだ?
貧困についても以前は単に「貧困」として、年齢を問わず救済が語られていたのに、東日本大震災の後辺りから「子どもの貧困」にとって替わられ、大人の貧困は自己責任として捨て置かれるようになったんだよ。
親は大金持ちだけど子供をネグレクトや教育虐待しているなんてレアケースを除いて、わざわざ「子どもの」と付ける意味がない。
子どもの権利も子どもの貧困も、大人の約5割「聞いたことない」
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASSD33DS5SD3UTFL00JM.html?ptoken=01JEMJD40NT8067ZAXBQWZP8XE
子どもの様々な権利を守るには、周りにいる大人が子どもの権利を知ることも大切だ。しかし、公益社団法人「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」が11月末に発表した調査によると、大人の約5割は子どもの権利条約を「聞いたことがない」と回答。普及啓発が課題になっている。
同法人は今年7月、子どもの権利と貧困に関する社会の意識を把握するためアンケートを実施。全国の約3万人(15~17歳の子ども2163人と大人2万7837人)から回答を得た。
条約について内容まで「よく知っている」と答えた大人は3.7%にとどまり、「少し知っている」は12.6%、「名前だけ聞いたことがある」は36.1%、「聞いたことがない」は47.6%にのぼった。
また日本における子どもの貧困の実態について大人の48.9%が「聞いたことがない」と回答し、2019年の前回調査より20.1ポイントも増えた。同法人は少子化で子どもの存在が身近でなくなっていることや、子どもの貧困に関する報道が減っていることも要因とみている。
そういうYouTuberも苦手だしそれを見てる人も苦手
ここでいうYouTuberは、YouTubeやってる人ではなく
顔出しで、数人でやってるタイプのアレ
狭義のYouTuberね
(厳密にいうとテーマ性の強い人も除く)
1.インタビュイー
4.視聴者
YouTuberって
2.インタビュイー
3.視聴者
なんだよね
このとき、YouTuberってあくまで視聴者の方見てて、インタビュイーをいじる構図なんだよね
これ最高にいじめの構図で
アメリカのインタビューもこういう感じだよね、昔のテレビもこうだったかもしれない
今のテレビは色々批判くらったためかスタジオの芸能人がめちゃくちゃバランスとる立場になってる
YouTuberが悪いというより、そういうの望んでる視聴者が結構な数いて、ヌルいテレビから移動してきてるんだろうけど
個人的にすごい嫌悪感というか、猿を見てるような、あとは性格悪い女グループとか、群れる男子グループを見てる気持ちになる
既に本社の人事部には「パワハラ・セクハラされた」と通報されてるし、その上で名誉毀損?での告訴を検討しているんだとか。
実際に会社休んでた日には旦那と弁護士同伴で人事部に怒鳴り込んでいたらしく、凄い憂鬱。
確かに彼女は、ADHDの特性なのかそそっかしいしケアレスミスをすることが多い。
しかも衝動性が高く、思ったことはすぐ口にするし、喧嘩腰になって高圧的な物言いをする。
例えば彼女が他の同僚に「この提出物、こことここが間違っていますし、後添付のファイルはフォーマットが違いますよ」
と何度目かの同じ様な注意を受けたとする。
すると同僚は「はいはい、直せば良いんでしょ。細かい事ばっか指摘してネチネチして陰湿ですね!」みたいな事を言う。
課やチーム全体のチャットで「こんな酷い事言われました!」との体で上記の様な告発()をする事もあれば
本人に直接、大きな声で言う事もある。
そして、自己発電でイライラして、更にミスを連発するし、それでまでストレス溜めて
当然、周囲からはドン引きされるし、ハッキリ言って嫌われている。
当たり前の指摘をしただけで人格批判される方はストレスが酷い。
でも本人は「私はADHDなので、すみませんねー」って感じで、いくら勤務態度や言動を注意しても、一切対策を取ろうとしない。
ADHDだから(多少の失礼やおかしな言動は)許してよ、と言わんばかりだ。
「彼女(ADHDおばさん)は仕事ができない上に、輪を乱し人間関係を悪化させ、その癖自己主張が強すぎるので、使えない」
という評価で、色々な所をたらい回しされながら、ウチに来ている次第。
「嫌がらせで細かい注意をしてくる」「女性だからと自分を下に見ている、ロクな仕事を回してくれない」
って主張しているみたいだけれど、正直な所、提出物一つにしたって誤字脱字が酷すぎてどうにもならないんだよね……
こちらで勝手に修正する訳にもいかないものは彼女自身に修正をお願いする事になるが
「(俺が)歳下なのに高圧的に注意しないで下さい!」ともキレられた事もあった。
こちらからすれば、新卒の新人ですらちょっと間違えるぐらいで次からは直ってる報告書一つですら
何で誤字脱字盛り盛りの主観だらけで報告書の体を為して無いのか、まるで意味が分からない。
仕事の方もお察しなので、誰でも出来る且つ、ミスがあってもスルーしたり他の人間がささっと修正するか
彼女の担当分を適当に作って出しても問題無い、程度の雑用しか任せられない
なんで良い歳して、同じミスを繰り返して逆ギレして信用ゼロ状態になっている現状より
恐らく彼女は、ADHDも持ってるだろうけど、もっと別のタチの悪い何かの要素が大きいのと思う。
一緒の職場にいるだけでとにかくメンタルが削れるし、こちらがストレスで不眠になってきている。
実際彼女の元同僚や元上司の中には、メンタルやられて休職者や退職者もいた。
「あくまでも形式上で(パワハラやセクハラの告発を)受け付けているだから」
「事情は逐次説明している、(俺さん)に全く落ち度は無い、寧ろ問題なのは彼女だと言っている」
「どうしても何らかの処分をせざるを得なくなっても、あくまでも形式上の事になると思う。(俺さん)が会社辞めると非常に困るから…」
とは言ってくれてはいるが、たとえ形式上でもパワハラ・セクハラで処分を受けるのは嫌すぎる。
ストレスでこっちの仕事のパフォーマンスも落ちまくってるし、家族もいるけど退職したいぐらい。
彼女は人を嫌な気持ちにさせることを悪意無くやって気づきも反省もしないし
社会と折り合いをつけて生きているADHDの人達の方が多いと思うけど
会社の人間の中にはADHD=彼女(おばさん社員)みたいな人、と思っている人間も少なく無いだろう。
その上、最悪裁判で訴えられ被告になるかもしれない不安もある。
裁判なんてしたくない、が彼女の主張を丸呑みして慰謝料を払うのは、色々な意味で無理すぎる。
辛い。憂鬱……
ママ友たちは子ども達が大人になっても仲良くして欲しいくらいの良い人たちなので、ママ友への愚痴ではなく、増田が勝手にみじめになっただけの話である。
こないだひっさしぶりに開催されたママ友ランチで、増田含め全員フルタイムのため、みんなの仕事の話になった。思えば仕事の話は初めてだった。
すると増田以外の全員がとても大きいところで働いていて、しかもものすごく世の中の役に立つ仕事をしていたことが分かった。高い技術力でインフラを支えていたり、世界中の人と話し合って大きな企画を作っていたり、専門スキルを活かしてたくさんの人を救っていたり。
一方増田は零細寄り中小企業の事務員で、ひとに話せるような誇れる仕事はしておらず、社内のベテラン女性達の陰口のターゲットにならないようヘラヘラしながらエクセルをいじっているだけである。結構暇な時間もあり、ぼんやりしていることも多い。「どんな仕事?」と聞かれてここまで答えられないとは思わなかった。(※会社の規模、業種、職種は関係なく、あくまで増田の働き方の問題です)
増田の子どもはトーマスが好きでよく観ているのだが、トーマスたちが「とっても役に立つ機関車」であることを誇りにしている場面が多く、人ではない機関車ですらこんなに人のために頑張っているのに自分は何をしているんだろうとよく勝手に落ち込んでいた。
が、今回トーマスたちからくらう微妙なジャブのダメージとは比較にならないダメージを食らってしまった。繰り返すがママ友たちはとても良い人たちなので増田が勝手にみじめになっているだけである。
まあ人の役に立つ大きな仕事に憧れ続けるだけで何もしてない自分が悪いんだが、だがそんな自分が浮き彫りになってしまったことに今更ながらショックで帰り道は魂が抜けていた。
ここで腐っててもしょうがないので、とりあえず第一歩としてとある資格の試験を受けることにした。受かったら転職して、役に立つ仕事が出来そうな資格だ。
示された内容は「イスラム教の基本」として述べられていますが、同様の主張を支持する宗教的な原典(クルアーン、ハディース)や、正統なイスラム法学(フィクフ)の立場を示す学術的・公的な資料は確認できません。イスラム教学、イスラーム研究の専門書、または信頼できる解説書・学者による解説を確認しても、そのような言説は見当たりません。
イスラム教学上の実際:
イスラム法やイスラム社会において、女性が単独で外出したり、髪や肌が見える場合、それが「売春婦」と見なされるといった一般的・正統的な主張は存在しません。また、「男性が自由に取って食って良い」というような表現はイスラム法の価値観や倫理に強く反するものであり、そのような解釈を正当化する根拠は全くありません。
ネット上や差別的な風評の文脈で、この種の根拠なき主張が流布されることがあります。これらはイスラム教、またはムスリム社会への偏見や敵意から生まれた誤情報である可能性が高く、宗教研究者や公的機関からの正式な出典は存在しないと考えられます。
結論:
ご提示の内容は、イスラム教の正統的な教えや文献に裏付けられたものではなく、正式な出典は見つかりません。むしろ、誤ったイメージやデマ情報の一例であると判断されます。
ご提示のような主張に対し、「拡大解釈されているとすれば、どのような原典や元ネタがあるのか」という問いは、以下のように考えられます。
イスラム教徒(特にスンナ派主流)においては、クルアーンやハディース、及びそれに基づくイスラーム法学(フィクフ)の中で、男女問わず服装や行動の端正さ、貞潔さが繰り返し強調されています。具体的には、「女性は公の場で体の特定部分を隠す(アウラを覆う)べきである」、「長距離の旅行にはマフラム(近親の男性家族)を伴うべき」などの規定が存在します。しかし、これらはあくまで宗教的・倫理的な推奨や規制であり、違反したからといって「売春婦」と同一視したり、男性が自由に女性を凌辱して良いといった発想につながるものではありません。
クルアーンやハディース内で女性の服装規範(ヒジャーブやアウラ覆い)について述べられている箇所
女性の安全確保や社会秩序のために女性が家族男性(マフラム)と行動することを推奨する伝統的解釈
これらの規定は「女性は慎ましくあれ」「安全を考慮しろ」といった、道徳的・社会的秩序維持の趣旨であり、決して「一人で外を歩く女性は売春婦」だとか「男は自由に襲ってよい」といった極端な結論を導くものではありません。
あくまで「女性の外出行動や服装に一定の制限や推奨事項がある」という原点的教えが、悪意的・偏見的な誇張や切り出しによって、「髪や肌を露出して外出=売春婦と同義」という過激な誤解に転化されていると考えられます。
イスラームの教えそのものではなく、一部地域的な文化・慣習で「不貞な女」「身持ちが悪い女」と見なされる行動規範が存在していた可能性はあります。これらの地域的偏見や差別的な見解が、イスラーム全体の教えであるかのように誤解され、または意図的に紛れ込まされた場合、上記のような主張になってしまうことがあります。
ヨーロッパやアメリカ、あるいは他の非イスラーム社会圏などで、反イスラーム的風潮を喚起するためにイスラームに関わる規範を歪曲したプロパガンダが出回ることがあります。このような情報の中には、イスラム教の教えを断片的に取り出し、極端に拡大解釈したり、正反対の意味合いにねじ曲げて伝えることで、反感や恐怖心を煽るものが存在します。
まとめ:
原典的な元は、イスラム教の基本文献(クルアーン、ハディース)中の「女性の貞潔や行動に対する規定」あるいは「安全確保のための同行推奨」などの正当な教えが、極端な拡大解釈・歪曲によって生み出された可能性が高いです。
それに加え、一部地域の文化的偏見や反イスラーム的プロパガンダが混ざり込み、本来の教えにはない過激な結論(「単独で肌を見せて歩く女性=売春婦」など)を導き出してしまっていると考えられます。
【前置き】
はてな匿名で書く内容なのかというのはともかく、私が美味しいと思うケーキ屋・パティシエを書き出して、順に並べてみた。私は製菓や料理について専門的な教育を受けたこともないし、生業としてフードライターをやっているわけでもない。仕事柄、堅い文章を書くことにはある程度慣れているけれど、エッセーのような柔らかい文章を書いた経験はほとんどない。
このランキングを作ってみようと思ったのは、怪我をして外を歩く気になれず暇だったからというのが一番の動機だけれど、ランキング作成の過程で「あの時のあのケーキは本当においしかったな」と幸せな思い出を振り返ることができたし、「自分はこういうケーキを美味しいと思っているのか」という傾向を何となく知ることができて面白かった。
このランキングは、私の個人的な好みに基づいて、偏差値表のような形で作成している(もちろん偏差値そのものは表していない。)。偏差値50を超えるケーキは基本的にどれも文句なく美味しいし、そこまで確固たる優劣があるとは思わない。特に、偏差値60-65のレンジはその日の気分によって順番が変わるだろうと思う。比較的趣向が近い友人に意見を聞いても、結構な食い違いがあったので、本当にその人の好み次第ということなのだと思う。また、日頃からメモを取っているわけでもなく、思い出した順に書きだしただけなので、ランキングに載っていて当然なのに書き落としているものもたくさんあると思う。
そんな感じで免責みたいなものを書き連ねたところで、ランキングをご覧ください。
80: Maxime Frédéric (Le Tout-Paris, Maxime Frédéric chez Louis Vuitton) (Paris)
79: Matthieu Carlin (Butterfly Pâtisserie at Hôtel de Crillon) (Paris), François Perret (Ritz Paris Le Comptoir) (Paris)
78:
77:
76:
75: Mori Yoshida (Paris), Cedric Grolet (Paris)
74:
73: [xxxxxxxxxxxx] (京橋)
71:
69: ASSEMBLAGES KAKIMOTO (京都), pàtisserie Tendresse (京都)
68:
67:
66: FOBS (蔵前), Les Alternatives (東小金井), Pâtisserie K-Vincent (神楽坂)
65: La Pâtisserie Cyril Lignac (Paris), Equal (幡ヶ谷), LE CAFE DU BONBON (代々木八幡)
64: Libertable(赤坂), grains de vanille (京都), Ryoura (用賀), Dining 33 Pâtisserie à la maison (麻布台), おかしやうっちー (北参道)
63: Yann Couvreur Pâtisserie (Paris), La Pâtisserie Ryoco (高輪), Fleurs d’été (代々木上原), Harmonika Kyoto (京都), sweets garden YUJI AJIKI (神奈川), Sweet Rehab (NY)
62: PIERRE HERMÉ PARIS, AU BON VIEUX TEMPS (尾山台), Paris S'éveille (自由が丘), AIGRE DOUCE (目白), CONFECT-CONCEPT (稲荷町), Paris S'éveille (自由が丘), AIGRE DOUCE (目白),
61: équilibre (不動前), Pâtisserie ease (日本橋), 銀座和光 (銀座), Palace Hotel Tokyo (大手町),その他美味しいホテル系, Asterisque (代々木上原), a tes souhaits! (吉祥寺), N'importe quoi (京都)
60: Avranches Guesnay (春日), Taisuke Endo (学芸大学), Préférence (新中野), feuquiage (調布), PÂTISSERIE ASAKO IWAYANAGI (等々力)
[...]
55: 千疋屋総本店, Henri Charpentier, その他デパ地下系・工場系
[...]
[...]
45: Lysee (NY)
[...]
【いくつか補足】
パリには複数回行ったことがあるが、パリのケーキは本当に美味しく感じた。もちろん遠路はるばる補正・思い出補正もあるのだと思うけれど、単純に値段がとても高いので、惜しむことなく良い材料を使えているのではないかと思う。パティシエの社会的地位が高いらしいので、その結果パティシエが制約なしで好きなようにケーキを作れる、ということもあるのかもしれない。
Maxime Frédéricは有名人だし、本当にどのケーキ(あと、ややテーマ外だけれど、レストランのデザートも)も美味しい。いつかホテルのシグネチャーレストランにも行ってみたい。Matthieu CarlinやFrançois Perretは、少なくとも私のアンテナでは情報がたくさん入ってくる感じではないけれど、複数のケーキで感動した。
Cedric GroletはMaxime Frédéricよりも有名人で、逆張りしてみたくはなるのだけれど、フルーツの使い方が独創的で、まあ確かに美味しい。あの値段であれだけの人を集められるのは、SNS映えだけでは説明できないと思う。
[xxxxxxxxxxxx]は、フルーツに真摯に向き合っていることや高い洋菓子基礎力に裏打ちされていることが素人の私にも伝わってくるような気がする。接客は独特で毎回緊張するけれど、敬意をもって謙虚に臨めば、丁寧に遇してくれるし、嫌な思いをしたことはない。職人ってそういうものなのかな、と思っている。
LESSは、以前はnomaやINUAみたいな雰囲気の実験的なケーキが多くて毎回面白かったのだけれど、最近はそれよりは分かりやすいケーキが多くなった。もちろん、それらもとても美味しい。たまに昔のLESSを食べてみたくなるときもある。
タンドレスは、もともと酒やムースとかのイデミスギノ的なものがあまり得意ではない私でも、これは凄いと感じる何かがある。私では理解が及ばないというか、置いて行かれている感じもする。
FOBSは一般的にはすごく高く評価されている感じはしないものの(ゴーフレットはとても有名)、ここのショートケーキは特に美味しいと思う。卵や牛乳などの素材がシンプルによくまとまっている感じがする。判官贔屓的なものが入っているかもしれないけれど。
Alternativeは夏の焼き菓子イベントのタルト類が全て美味しい。Equalのチーズケーキは瑞々しくてチーズの香りがよく整っていて、これより美味しいチーズケーキはなかなかないと思う。「フランス菓子道」の真ん中・正当を通ってきたかはよく分からないけれど、個人的な好みに合っている。
Ryouraは街のケーキの範疇で、傑出して美味しい。うっちーのシグネチャーのショートケーキの生クリームのミルク感は特徴的。
リョーコは(伝統的という意味ではなく)ちょっと古い感じがするけれど、分かりやすく美味しいと思う。セブンイレブンとのコラボレーションは。。カーヴァンソンやリベルターブルも私の中では同じような枠に入っているのだけれど、こちらの方が個人的な好みに合っている(何でだろう)。
étéをどう位置づけるかは難しかった。テンションの上がる見た目だし確かに美味しいのだけれど、洋菓子としての工夫・洗練を感じるかというと、そういうことを目指して作られたものでもないような気がする。
ピエールエルメのイスパハンは、なんだかんだといってやっぱり名作だと思う。ホテル系のちゃんと作られたケーキは、やや割高な感じはするものの、総じてしっかり美味しい。
easeは個人的な好みにはあまりハマらないけれど、美味しいし評価されていることもわかる。アステリスクやアテスウェイは家族で食べるのにとてもよいと思う。ナンポルトクワのリンゴのタルトは一つの発明だと思う(別途元祖があるのかな)。パリセヴェイユはフランス菓子の正当という感じで間違いなく美味しいのだけれど、個人的に好きなケーキとは少し違う(パンや焼き菓子はすごく好み)。
アメリカでウケているケーキは、個人的にはそこまでヒットしなかった。Sweet Rehabは見た目もきれいですごく高く評価されているけれど、高額すぎる点を措いても、評価に見合うほどではない気がする。
店名が大文字だったり小文字だったり「pàtisserie」が付いたり付かなかったりするのは、適当にgoogle検索した結果をそのまま引き写しているだけなので、正確ではないかもしれない。
こういう番付モノは、それ自体を批評の対象として「それは違う、こっちの方が上だ」等々とケチをつけることに楽しさがあると思う。コメントをいただけたら嬉しい。
【追記1209】
記事を公開した後、思ってもいなかった程たくさんの方に見ていただいて、色々なコメントをいただいた。一つ一つどれもありがたいと思っている。
書き忘れていたお店を何個か思い出したので、適宜ランキングに追加してみた(Asako Iwayanagi, AU BON VIEUX TEMPS, CONFECT-CONCEPT, Dining 33 Pâtisserie à la maison, équilibre, Libertable, sweets garden YUJI AJIKI, Patisserie Porte Bonheur)。また、説明部分にもいくつか加筆をした。加筆するにあたっても、既に順番を書き換えた方がいいのではないかという気がしてくるから、やっぱりその時の気分次第の順に過ぎないんだなと分かった。
「偏差値表のような形」というのが分かりにくいというコメントがあった。イメージしていた偏差値表は、例えばこんな感じのものだった。
https://www.syutoken-mosi.co.jp/application/hensachi/upload/dansi202412.pdf
もちろん、今回は母集団が正規分布かもよく分からないし平均や分散を求めて何かしているわけではない。あくまで偏差値「風」ということでご容赦いただきたい。今回は、偏差値50の重責をローソンに担ってもらった。個人的に偏差値(風)60以下かなと思ったものは、角が立つので基本的には取り上げなかった(NYでいくら角が立っても大丈夫。)。
神奈川・千葉・埼玉などの郊外や大阪・神戸のような別の都市圏はあまり開拓できていないので、いつか掘り下げてみたい。
中野のMORI YOSHIDAについては、どう取り上げるか迷った。例えば、パリで食べたババトロピックはミルクが入ったスポイトのようなものが刺さっていて、それを注入して食べるのがとても美味しかった記憶がある。中野の方はそうはなっていなくて、少なくとも何らかの「違い」はあるのだと思う(見た目に明らかに分かるもの以外も多分。)。ただ、だからといって劣るとかいうわけでもないし、でもそうすると今度は、中野のMORI YOSHIDAとLESSに大きな差があるかのようになるけれど、本当にそうなのかというとよく分からない。突き詰めていくと、遠路はるばる補正・思い出補正を数値化することにもつながりそうで、それは楽しい思い出のためにも止めておいた方がよいかなと思い、取り上げないことにしていた。
現職大統領のクーデター未遂とも呼ばれる戒厳令の布告による大混乱の渦中にある韓国社会。
その様子を見ると、とても情緒的に人々が物事の判断をしているように見えて怖い。
ユン大統領と前国防大臣の出身高校に対して苦情の電話が鳴り止まない、などという論理的思考からかけ離れた行為をする人々が多数いることなどはまだかわいい話としてもいいと思うが、
実際問題として韓国軍が最高司令官からの命令にサボタージュを行ったというのはまさに情緒に支配された社会というものを象徴していると思う。
たとえ正しくない命令だとしても最高司令官が命じたのならば、最低限の命令実行を行うのが然るべき民主主義社会におけるロジックだと思うのだが、
現場の指揮官などがなんとなくこれは従わなくていいだろう、と判断してなんとなく命令を無視し、
そしてそのことに対してなんとなく許容されていることなどは驚異的な出来事と感じる。
たとえ正しい行動だったとしても形だけは命令違反サボタージュを行ったことに対しての責任追及が行われて当然である。
あくまで理論的にせよ、命令違反を実行したのだからそのことはそのこととして問題化したうえで、あらためてその行動を不問とするべきである。
しかし、全く持って、正しいことをしたのだからそこは追求しない、などというのは理解しがたい。
このようななんとなくの雰囲気に流されがちな社会だからこそ、そもそものロジックな思考からかけ離れたクーデター騒ぎのようなものが起こるのだとも言える。
まあ、日本も他国から見たら甚だしくロジックな国ではないのだろうが、それは東アジア社会に共通したなにかがあるからなのだろうか。
2024年12月3日に大韓民国において宣告された非常戒厳(以下「本件戒厳」)の法的な問題点について(私的メモ)
1 非常戒厳の実施を国会に遅滞なく通告していない。(憲法77条4項、戒厳法4条)
2 本件戒厳を宣告するに先立ち、国務会議の審議を経ていないおそれがある。(憲法89条4号、戒厳法2条5項)
また、宣告・解除に係る国務会議の議事録が作成されていない(議事録作成担当者が会議に入っていない)との報道あり。
3 本件戒厳の内容及び本件戒厳を実行した政府・軍の行動が、憲法及び戒厳法による授権の範囲を超えている。(憲法77条3項、戒厳法9条)
具体的には国会・政党活動を含む政治活動の禁止(戒厳布告令第1号(1)に規定)や国会閉鎖。
「国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁止する。」(戒厳布告令第1号(1)。徐台教の翻訳による)
憲法及び戒厳法は、戒厳時に、国会・政党の活動をも制約できると規定していない。
つまり、大統領に対して、憲法・法律が、国会・政党活動の制約に関して、何らかの授権をしたという根拠がない。
国民の権利を制限したり、義務を課したりする場合その他の国民の生活に重大な影響を及ぼす場合は法律に基づかなければならないが、
4 抑々本件非常戒厳の理由が適切ではなく、根拠が不足している。
具体的には、国会審議等が停滞した程度では宣告できるものではない。(憲法77条1項、戒厳法2条2項)
5 目的と手段が見合っていない。(憲法37条2項、行政基本法10条、憲法原理の一つとしての「比例原則」又は「過剰禁止原則」)
尹錫悦は、
「親愛なる国民の皆さん、私は北韓(編注:朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮)共産勢力の脅威から自由大韓民国を守り、
韓国国民の自由と幸福を略奪している破廉恥な従北反国家勢力を一挙に剔抉(訳注:撲滅)し、
自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣布します。」(尹錫悦大統領『非常戒厳宣布』会見(2024-12-03)。徐台教の翻訳による)
また、特定の組織・集団・勢力・人物等を、「韓国国民の自由と幸福を略奪している破廉恥な従北反国家勢力」とするだけの根拠は
何ら示されないのだから、非常戒厳を宣布する理由にはならない。
6 また、以上のような点から、「憲法を守護する義務」や就任時の宣誓に違反しているおそれがある。(憲法66条2項、憲法69条)
※あくまでもこのメモは問題整理用の私的な試みに過ぎず、何らかの問題に対する法的な見地からの助言等ではない。
今年は当たり年などと言われるほど途中加入などで新規参戦したF1ドライバーが活躍している。
いきなり週末になって「乗れ」と言われて、ミスもなくしっかりと走り、あろうことかレギュラードライバーよりも好成績を発揮したりしている。
現在のF1はシミュレーター技術の向上により実車同様の挙動を再現することが可能であること、
また控えのドライバーが、そのシミュレーターを活用する時間が十分過ぎるほど長いことなどが挙げられている。
つまり初めて乗ったF1マシンでも、それほど違和感なくドライブできるということだ。
しかし、それだけではずっと長い経験をF1で積んでいるレギュラードライバーより活躍する理由にならない。
誰かひとりだけなら、そのドライバーの才能と技能ゆえといえるが、出てくる新人ドライバー全部が活躍する理由としては不足だ。
では、何が理由なのか?
それは以前、フェルナンド・アロンソがインタビューで答えていた内容が参考になる。
グランドエフェクトカーと呼ばれる現行レギュレーションのF1マシンの特徴は、
「とにかく攻めすぎていけない」
らしい。
とにかく一発のタイムを出そうと頑張りすぎたりすると途端にマシンが不安定になってコントロール不能になる特性がある。
そのような内容を答えていた。
これは、いまの新しいレギュレーションになって去年までのレッドブル以外の全チームが苦労したセッティングのピーキーさと相関関係にあると思われる。
だから、ある意味無難に走るほうがすべての面でうまくいく場面があるということだ。
変に力を入れて、技を見せようとするよりも、新人ドライバーのようにミスなく走ることに集中している方が結果が比較的、
その証拠に新人ドライバーのコラピントなど、デビューしたての頃はレギュラードライバーのアルボンを凌駕する場面も多く注目されたが