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2025-01-19

推しの歌を元・推しが歌った

あるVtuberが好きだった。

シンプルにビジュと声の良さ・キレ味のある語彙・頭の回転の速さ・ゲームの上手さ・歌・なにもかも完璧に思えて、一時期は長時間配信を鬼リピしてたほど。

一方で軽率過激発言が目立つ配信者でもあり、案の定たびたび炎上していた。

正直その部分に関しては止めて欲しかったけど、いつか変わってくれるだろうと信じて推し続けるしかなかった。

彼は変わらなかった。そして私も離れられなかった。

口の悪さや"言ってもいいライン"を軽々と飛び越える過激言動に驚き、傷つけられながら、それでも配信を観るのを止められなかった。

彼は精神障害を嗤う発言もしていて、軽度ではあるもののモロに該当する私は深く傷ついたが、

大物配信者はアンチコメントに常に晒されているのだから、心にもないことを言う時もあるだろうと自分を納得させていた。

依存していたのだろうなと思う。

けどある時、彼はコメント欄に湧くアンチに対し、容姿揶揄するような言葉を吐いた。

なんてことはない(ことはないんだけど)、「こんなコメントをする奴らは顔に出来物が出来ているような奴ら」という、その程度の。

それが、なんというか凄く"効いて"しまったのだ。

振り返って分析してみるとその揶揄のものが効いたというより、ちょっとずつ蓄積していったものがあふれた瞬間だったのだろうと思う。

そして遅まきながら気づいてしまった。

その時すでに彼はVの中でもトップ層に位置していたし、正直なところ何を言って炎上したところで許されるターンに入っていた。

まり彼が反省して変わってくれることはもう無いのだろうと。

上手く伝えられないが、反省も変化もないことに憤りを感じたのではない。

何を言っても許される段階まできてしまった彼にとって、多少の悪辣発言の類は、きっと何を言ったか自覚もないまま、彼の中で"そんなこともあったね"で処理されていく。

彼がアンチ攻撃するつもりで放った言葉によって同時に傷つけられた彼のファンは、彼の中で"配慮にも値しない"のだ。

きっと存在しないのと同じなのだろう。

被害妄想と言われるかもしれないが、その考えに至ったとき、もう本当に心が無理な時期で、これ以上ここにいると本当に駄目になってしまうと思って、私は彼の配信を観るのを止めた。

笑われるかもしれないけど禁断症状のような行動を繰り返していた。

スマホを渡した友達ツイッターアカウントブロックして貰い、彼が所属する箱そのものにも近づかないように視界にも入れないようにして嵐をやり過ごし、ようやく安定したと思う。

ここまでが数年前の話。

話が変わるが、推し歌手がいる。

ドラマアニメ主題歌を手掛けさせれば恐ろしいほどの解像度を発揮し、その優しい歌声に何度救われたかからない。

その推しが去年の紅白に出演した時の場面をYOUTUBE公式チャンネルで観ようとしていたときのことだ。

元・推しの彼が、推し歌手の、まさに私が聴こうと思っていた歌を歌っていた。

その清涼感のある白いサムネを観た時、一瞬、見間違いかと思った。

よりによって、あなたがその曲を歌うのか。

世の中に埋没し、時に邪見に扱われ、それでも確かに存在して、自分だけの戦いを行う人たちの歌を、

差別排斥に対する怒りの歌を、よりにもよってあなたが歌うのか・・・

怒りとかではなく、どこか納得してしまった。

もう過去ほど不安定ではないが、忘れていた感情が噴出してきそうで、その歌みたは結局観れていない。

でも彼が過去の行動や発言を省みて、その反省気持ちを込めて・・・とかでは無いのだろう、たぶん。

何をしても許される領域人間は、ただ良い歌だからという理由だけで、そこに込められたメッセージ自分過去省みることなくこの歌を歌えてしまう。

なんだか答え合わせをしてもらった感覚だった。

ちなみに人づてに聞いたが、最近も元・推しの彼は炎上したらしい。

でも、きっと許されたのだろう。

これからも彼は少数のファンごとアンチを焼き払い、許されながらやっていくのだろう。




※ちなみに今確認したら、元・推しの歌みたはアップロードされたのが2か月前、現段階ですでに350万再生くらい。相変わらず凄いや。

久しぶりにネット麻雀を再開して

10年以上前学生だった頃にネット麻雀天鳳」にハマって打ちまくっていた。

当時は家でネット麻雀を打って、疲れた気分転換雀荘に打ちに行き、帰ってきたらまたネット麻雀というクズの極みみたいな学生生活をしていた。

凄く真剣に牌譜検討したりデータ分析したり本を読んだり強い人の牌譜を並べてみたりしていたし、天鳳最上位卓である鳳凰卓でしのぎを削っていることが一種の誇りでもあった。

ただ、ある時ふと凄く不毛だなと感じてしまった。その時の私とトッププレイヤーの間の打ち方自体の差はもう小さいと感じていた。しかしその小さい差が1000戦2000戦という単位になると大きな結果の差に繋がっていく。

初心者の頃は学ぶことが多くてどんどん成長が実感できたけど、一応上級者の領域に足を踏み入れてからはこれ以上強くなるためには細かい所の精度をちょっとずつ改善していくしかないので物凄い苦難があるなと思うのと同時に、それをやって1000試合打っても統計学的に見てギリギリ有意かどうかみたいな差しか生まれない、というか何なら打ち方は改善されているのに結果は悪くなることさえあるというゲーム性にしんどくなってしまいぱったりとやめてしまった。

ということでしばらくネット麻雀からは離れていて、年に数回程度友達と打ったり時間つぶしにフリーに行ってみたりするぐらいの麻雀との付き合い方をしていたのだが、年末年始暇だったので「雀魂」のアカウントを作って打ち始めた。

四麻の東風戦専門なのだがついさっきようやく100戦に到達した。久々のネット麻雀なのでどの位打てるものか分からなかったが、成績は馬鹿みたいに良い。

10年以上真面目に取り組んでいなかったとはいえ、昔取った杵柄で雀魂の下位の卓(銅の間、銀の間)とは流石にレベルが違う。

たった100戦の成績で何かを語るなんてネット麻雀プレイヤーとしてはアレかもしれないのだが、とはいえ平均順位2.06位、ラス率9%、和了28.65%、放銃率8.08%というのは統計学的に見ても十分に将棋で言う「手合い違い」だろう。少なくとも初心者たちに混ざれば蹂躙できる程度の腕はまだ残っていたらしい。

90戦ちょっとでようやく雀傑の段位になり金の間で打ち始めたので少しは手ごたえがあるかなと思ったが、牌譜を見返してみるとまだ金の間は初心者が多いらしい。天鳳で言えばまぁ上級卓ぐらいだろうか?

天鳳では上級卓まではドンジャラ、特上卓になると麻雀になる、とよく言っていた(ちなみに鳳凰卓は「天鳳」というまた別のゲームになるとも)。

早く「麻雀」が打ちたいので、もうしばらく頑張って早く1つ上の玉の間に行けるよう頑張ろうと思う。まぁ今は社会人なので、人生崩壊しない程度の付き合いにはしたいと思うが。

2025-01-18

そもそもどうして現代社会では貞操に至上の価値があるのか

かなり不謹慎な内容を書く。思考実験としてとらえてもらいたい。

話の内容上、まったく議論ができない人も双方の立場からあらわれると思うが極力無視する方針である

思考実験:性の価値観とその影響について

私が提示したい問いは、タイトルの通り。

現代社会では、いつの間にか「貞操」や「性の自己決定権」に対して極めて高い価値付与されています

が、本当に「性」というものに、そもそもそこまでの価値があるのだろうか?

この問いは、「暴力」と「性暴力」に本質的な違いがあるのかという問題もつながります

まず、暴力のもの絶対に許容されるべきではないことはよく理解しています

人の身体を侵す行為は、どのような形でも避けられるべきです。

その意味で、性暴力もまた許されるべきではありません。

しかし、たとえば「性犯罪は魂の殺人」という表現には、

私は若干の違和感を覚えるということです。

なぜ「貞操」には、単なる暴力を超えた無謬価値付与されているのでしょうか?


歴史的背景から見る貞操観念の変化

たとえば、江戸時代日本独身者に限る)では、フリーセックス一般的であったと言われています

同様に、世界の多くの地域時代では、現代ほど貞操観念に価値が置かれていなかったケースが見られます

第二次世界大戦以降、キリスト教価値観特にピューリタニズムの影響が広がる中で、「性の自己決定権」が基本的人権の一部として重視されるようになりました。

しかし、これも一つの思想にすぎないはずではないか、という疑問が浮かびます

暴力がもたらす影響の解釈について

暴力被害者(多くは女性)が、自らの人生自己が「不可逆的に毀損された」と感じることが、現代社会では一般的理解とされています

しかし、私の考えでは、むしろ「性暴力によって失われる価値など存在しない」と考えるほうが、

被害者が救われるのではないでしょうか。

姦通の有無に価値を見出さなければ、性暴力被害を「自己価値毀損」と結びつける必要がなくなるからです。

ここで誤解しないでいただきたいのは、これは性暴力容認する考えではないということです。

暴力のものが許容されないように、性暴力も決して許されるべきではありません。

ただし、性暴力によって失われるものが、単なる暴力以上のものである必要はないのではないか、という視点提示しているだけです。


貞操観念と現代社会の仕組み

風俗業に従事する女性が、現代でも差別偏見さらされる背景には、「貞操」に無謬価値があるとされる社会的認識根付いていることが挙げられるでしょう。

たとえば、「風俗嬢が性暴力被害に遭った」という話を聞いて、

「失われたもの一般女性ほど大きくないのではないか」と一瞬でも考えてしまった場合

それは貞操観念が議論すら許されない絶対的な価値を持っている証左といえるのではないでしょうか。



貞操観念と女性経済的利益

さら議論を進め、不謹慎領域に足を踏み入れると、

貞操観念に至上の価値を持たせることで、女性現代社会において経済的利益権利を引き出そうとしているのではないか」という見方も湧いてきています

これは批判ではありません。

しろ社会で弱い立場に置かれてきた女性が、この価値観を利用して有利な状況を作り出すことは、ある種の合理的戦略だと考えています

(参考:[wikipedia:エロティックキャピタル])


結論貞操観念至上主義功罪

ただし、貞操観念を社会大前提として固定してしまうと、むしろ女性価値男性より低いまま据え置かれ、

暴力によって決定的に「自己価値毀損された」と苦しむ人々を生む要因にもなるのではないかと感じています

以上が、私の疑問と問題提起です。どうでしょうか。

anond:20250118140233

いまだにという訳ではないけど、全領域異常解決室は続編を待ってる反面、SPECみたいに最後グダグダになるのと嫌だなーという気持ち

anond:20250117083050

大卒比率 男54:46

短大込なら女のが多い

将棋はまだ競技人口が少ないって問題があるけど

男と同じだけ自由に進学してる事実無視して理系だけ問題だって喚きたててるのがおかしいんだよ

じゃあ看護学校音楽みたいな学科男子枠はなんで作ろうって話がないわけ?

医者でも美容等の軽い専門になるほど男女比に偏りがあるから専門領域に男女比が偏らないよう自由意志を制限すべきじゃないの?

環境大事ならどの偏りをなくそうって活動をしないといけないのに、そうじゃないから不平等で不公正だって批判されてんの。

2025-01-17

anond:20250117112232

それが意外と最近システム、予め領域は用意されてんのよ

外国人が増えたからじゃないか

2025-01-16

そう言えば敵ってどっから来るのと増田思う万尾出す魔とのルクラカッド鉄器手羽営嘘(回文

おはようございます

ふと、

エヴァンゲリオンのことを唐突に考えたの、

まあNIKKEのコラボ企画が次にエヴァがくるのねって私の中の認識

私が生まれるずっと前の作品だし

たことはないけれどなにか耳にはしたり目にしたりはするじゃない。

それで思ったの。

使徒ってどっから来るの?って

かなりこれNIKKEで言うところの人類の敵であるラプチャーはどっからやってくるの?ってのがNIKKEの作中でもどうやら分かってないみたいだし、

それに通ずる私の大好きな『ステラブレイド』も人類の敵であるネイティブ」というのは当初どこから現れるのか謎だったけど。

先に言っておくと『ステラブレイド』の人類の敵であるネイティブ」は物語最後出所は一応解き明かされるの。

でもちょっとなんか説得力には欠けるけれど、

一応は発生源はあんのよね。

NIKKEは分かんないみたいだし、

ふとそう思うと

エヴァンゲリオン使徒ってどっからやってくるの?って

もちろん何かの検索をチラッと検索したら黒き月と白き月とで黒木メイサさんは全然関係ないみたいだけれど、

そういったのがきっかけになって私はその黒き月と白き月のその話はなんだかよく分からないの。

そんな設定があるみたいなの。

でもさ、

これら挙げた3作品以外にもそういう敵を倒す系の話っていわば典型的な器じゃない。

今やってるドラゴンクエストIIIだって

敵ってどっから来るの?

コテコテウルトラマンしかり。

なんかそれはどっかから星人が各地からやってくるってのみたいで、

にしても地球に集結しすぎじゃない?って思うけど。

そういう創作物物語はもちろんゲームなんかに一応の敵を倒していく!ってのが話の柱としてあるじゃない。

それらの敵ってどっから来るの?って

根本から揺るがす、

まあそんなことを真剣に考え出すことすら事態野暮なことなのかも知れないけれど、

突き詰めていったらでもそう言うことになるじゃない?

そんなこと言いだしたら

マリオカートレインボーロードって誰が作ったの?

あの世界感なに?って

誰藻そんなこと気にせずカートぶっ飛ばしてるわけじゃない。

そうなると、

創作物一般論として、

物語ゲームなどの

説明できない設定は踏み入れてはいけない領域としてそういうもんだと思って世界を楽しむしかないのねって。

いや楽しむ分にはいいのよ。

楽しみ突き詰めていくと、

これはなぜ?どこから発生してくるの?ってふと哲学的

これが哲学的かと言われたらそれすらも分からないけれど、

宇宙の外側はどうなってるの?って疑問に

なんでもそもそもとして宇宙の外側のことは考えてはいけないみたいな空気すら流れているその物語の外側。

気になりだしたら気になるわよね。

レトロゲームなんかグラフィック表現力が低いからまだ隠し通せそうなものだけど、

グラフィックリアルになればなるほどなんか

そこら辺の説得力を持たせないと世界崩壊してしまいそうで、

うーん、

なんか欲なんて言って良いのか分からないけれど。

そんなこと言いだしたら、

スプラトゥーンでバトルしたあとあれ誰がインク塗ったの綺麗に元通りに掃除してるの?って

いや、

それはさすがに野暮すぎるでしょ?って

まりそう言うことなのよね。

そんな不都合は考えるのは野暮的なことなのかしら。

だれもスプラトゥーンのバトルの後のインクを消すことを一所懸命考えている人なんていないんじゃない?

そう言うことか。

なんか腑に落ちないけれど、

そう落とし所はそう考えるしかないのよね。

まりにも

NIKKEがレヴェル200超えしたとは言え

敵が強すぎてサクサク先に進めなくて

放置して物資を貯めては回収しているだけの作業に飽き足らなくなって、

いろいろな思想を張り巡らすのよ。

要はNIKKEやることなくって暇!つーことで余計なこと考えがちって

ついついなんか課金しちゃっても良いんじゃないかってノリの気持ちなっちゃうけど

危ない危ない!

ステラブレイド』とのコラボ企画で「NIKKEにイヴがやってくるまでしないんだ!」って確固たる意志で括弧でくくって強く言うほどそう思っているんだしね。

暇になると

からぬことを考えちゃうから駄目よね。

NIKKEはしばらく放置よ!

代わりにスプラトゥーン3を頑張るわ!

うふふ。


今日朝ご飯

豆乳トマトジュースミックスしたやつ飲んできたわ。

こればっかり朝が続くと炭水化物不足に陥りやすくなって、

意外と夕方までエネルギーが持たないことを発見したので、

ランチはなにかご飯しっかり食べたいなぁって思うのよね。

デトックスウォーター

いつも朝に沸いてある70℃設定のホッツウォーラー

ホッツ白湯ストレートウォーラーの元のベースとして最適な

今日はそれに梅干しをインして

梅干し白湯にしたわ。

梅をつぶしてふーふーして飲んで

温活1日今日スタートよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2025-01-15

人間の性能を、内燃機関に例える

直列4気筒いちばん採用率が高い。お馴染みのやつ。ちょうどいい。無難選択

直列6気筒レシプロにおいて理想配列とされる。けど直4採用モデルあたりと比べると車体もだいたい大きいんで、大概は「そんなの要らない」ってなる。

V12 …超高価格車両のみが採用する。導入コスト燃費など維持費ともに最悪。とはいえもちろん相応のパフォーマンスを有していて最高時速は 300 km を優に超える。ただし、そんなスピードを出せる道はわが国にない。

トヨタ V10アクセルが踏み込まれた時に発するその独特のエグゾーストノートは「天使の咆哮」と呼ばれる。LFA のためだけに開発されて車両価格3,750 万円で即完売したが、なぜか赤売り設定だったらしく開発費用を回収できてないらしい。いろんな意味奇跡存在

ホンダ VTEC …(面白くできそうだけど、なんかまとまらない)

水平対向…低重心化を実現し、実際に採用モデル運動性能には定評あり。しかしそれを利点として打ち出せるメーカーが、全世界で2社しかない。

ロータリー構造ゆえに高回転で回し続けても壊れない。ただし実車両において、伝達系をはじめとした周囲が追従できるかどうかとなると別問題(なので電子音を鳴らして警告する)。逆に低回転は苦手で、普段使い領域燃費がどちゃくそ悪い。

SKYACTIV-D …じつはめちゃくちゃ燃費がよいうえにフィーリングも好評でICE復権狼煙にすらなりえたのに、いいタイミングでよそのメーカーやらかし欧州ディーゼルが買われなくなってしまったため不憫な扱いをされてる。

TMS-I …回生モータシステムにより、とにかく異次元燃費で走り続ける。採用車両価格割高でも、低燃費一点張りでとんでもなく売れた。

2025-01-14

領域展開は固有結界だよね

発動者が内包する世界観世界とその内側に巻き込まれ相手押し付けるという性質が明らかに意識してる。

乙骨による無限の剣製はネタバラシとさえ言っていい。

「借り物の力」という乙骨の自意識に「自分こそが力の源泉」という覚悟が重なったことによって、他者の力と経験使い捨ての剣という形で受け止める物語アーチャールートパロディさえあるだろう。

コレを前にして「いいや。領域展開は固有結界とは無関係だよ」と言うやつって、作者が出してきた答を否定して延々持論をほざくだけのアホだよね。

映画コメンタリー監督が言った言葉に「そうなてないもん!作品がそうなってないもん!」といつまでも駄々をこねるようなアホ。

往生際ってのをわきまえられないやつは自分省みることが出来ないから脳の成長が止まるんだよね

呪術廻戦の領域展開は固有結界パロディ

それ以上でもそれ以下でもないよ。

「(固有結)界(かっこ)いいよね」

「いい」

しかないぞ。

深読みする所なんてない

AI文章の見抜き方

 近年、AI技術進歩に伴い、さまざまな生成AIが登場し、文章を巧みに作り出すようになりました。多くの人が「これはAIが書いた文章なのではないか?」と疑うほどに、AI文章自然流れるようになっています本来であれば、文体言い回し、誤字脱字の有無などからAI文章っぽい」と判断しようとする研究テクニックが取りざたされていますしかし今回のテーマは「AI文章の見抜き方」でありながら、その実はスピリチュアル方法で一切テクニカルに見抜くことなく、むしろAI文章かどうか”すら気にしなくなるような精神アプローチ解決してしまおう、という大胆なご提案です。タイトルと内容がまったく異なるように見えますが、私たちが見ようとしているのは「AI文章を見抜くための技術」ではなく、「どんな文章でも受け止められる自分の心の在り方」というスピリチュアル観点なのです。以下では、その具体的なプロセスをご紹介していきましょう。

 まずは、スピリチュアルアプローチとして定番瞑想を取り上げます。通常、「AI文章かどうか」を判断するためには文章の特徴を細かく分析し、その内容に不自然な点がないか、語彙の選び方に偏りがないか、といったチェックポイントをいくつも確認するのが一般的でしょう。

 しかし、本稿で提案するのはむしろ逆です。そうした分析アプローチをいったん脇に置き、“静寂瞑想”によって自分の心を落ち着かせて、本質を見つめるという方法です。具体的には、目を閉じて楽な姿勢を取り、ゆっくり深呼吸を繰り返しながら、頭の中に浮かんでくる雑念をできるだけ手放していきます意識を「自分の呼吸」と「今この瞬間」だけに向けるのです。

 これを続けると、不思議と「この文章AIなのか、人間なのか」という二元的な疑問への執着心が薄れていきます。心が静まってくるにつれ、文章それ自体の背後にある意図エネルギーをなんとなく感じ取れるようになっていくのです。いわば「どんな文章も受け入れられる状態」を作り上げることが、ここでのポイントとなります

 分析という“頭”のプロセスではなく、直感という“ハート”の領域文章を読む準備をすることで、「AI文章かどうか」という疑念すら必要ないほどに、読む行為のもの純粋に楽しむことができるのです。

 スピリチュアル世界では、ハートチャクラ活性化させることで、愛や共感、信頼といったポジティブ感情を高めることができるとされていますAI文章を読んでいるとき、「これは人間が書いた文章じゃない」と感じてしまうと、どこか冷淡な印象を覚えたり、文章に対して警戒感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、ハートチャクラが開いている状態では、文章の背後にある意図エネルギー――たとえそれがプログラムによって生成されたものであろうと――を、分け隔てなく受け取れるようになっていきます

 ハートチャクラを開く簡単方法ひとつとして、胸の真ん中に集中して、ピンク色または緑色の光が広がっているイメージを思い描きながら深呼吸するというものがあります自分の胸のあたりが温かく、柔らかい光で満たされていく感覚意識し、それが全身を包むイメージを持つと良いでしょう。

 この状態キープしたまま文章を読んでいると、「これは本当にAI文章なのだろうか」といった些細な疑念や「もしAI文章ならどうしよう」という不安自然と和らいでいきます。むしろ、人の手による作品AIの生成物かという区別を超え、「そこにある何かしらのメッセージ」を愛の視点で受け取ろうとする姿勢が生まれてくるのです。

 続いては、もう少しスピリチュアル色の強いテクニックとして“エネルギーリーディング”をご紹介します。本来は人のオーラ空間波動を読み取るための方法ですが、文章にも“エネルギー”が宿っているという考え方から文章を通じて送り手の波動を感じ取ることができるとされています

 やり方はとてもシンプルです。瞑想ハートチャクラのワークで心身を落ち着かせた状態で、文章全体をざっと読むだけではなく、文と文のあいだの“間”にも意識を向けてみます文章によっては、なんとなく重たい感じがしたり、逆に明るく軽やかな印象があることに気づくかもしれません。そんなときは、自分が何を感じ、どんなイメージを受け取ったかを素直にメモしてみてください。

 AI文章であっても、人間文章であっても、読む側が「エネルギーを感じ取る」という意識を持つことで、文章との向き合い方はガラリと変わります。これはもはや「見抜く」ためのテクニックではなく、「どんな文章もそれが持っているエネルギーを受け取る」という“受容の姿勢”を高める方法だといえます。結局のところ、テキストAI由来かどうかを超えて、その文章からなにを感じ取れるか――そちらの方がはるかクリエイティブで、豊かな体験となるのです。

 スピリチュアルな探求においては、私たちが生きる宇宙のものを大きなエネルギーフィールドとして捉え、その源流と繋がることによってインスピレーション洞察を得る、という考え方があります。「AI文章かどうか見抜きたい」という疑問が浮かんだときも、さらに広い視点で「そもそも私たちは、なぜAIをこんなにも発達させてきたのか?」という宇宙的な視野に立って考えてみるのです。

 私たち人類の集合意識が“便利さ”や“効率性”を求める中でAI進歩してきましたが、これをネガティブに捉えるのではなく、「人類意識が大きく変容するプロセスの一端」として肯定的に捉えることもできますスピリチュアル視点に立つと、AIの発展も宇宙全体の進化の流れの中で起こる一現象であり、そこには何ら否定的な要素はないのかもしれません。

 こうした“宇宙エネルギー”との繋がりを意識したとき私たち文章を読む行為も、単なる情報インプットではなく、宇宙エネルギー循環の一環としてとらえられるでしょう。AIが書いた文章であろうと、人間が書いた文章であろうと、いずれにせよそれは「源流である宇宙が持つ創造の力」を介して生み出されている、と考えることができるのです。

 スピリチュアル的には、おでこ中央(眉間)にあると言われる“第三の目”を活性化させることで、より洞察力や直感を高めることができるとされています。これによって、「この文章が発している波動はどんなものか」をより鮮明にとらえられるようになるかもしれません。

 第三の目を活性化させるワークとしては、座ったまま、あるいは横になって目を閉じ、眉間に意識を集中させながらゆっくり深呼吸を繰り返すという方法があります。頭の中で淡い紫色青色の光が眉間から頭全体に広がっていくイメージを持つと良いでしょう。しばらく続けると、普段よりもクリア感覚が得られるようになり、文章の持つエネルギーがまるで映像や色彩のようにイメージとして浮かんでくることがあります

 こうした体験を通して、「AI文章は冷たい波動」「人間文章は温かい波動」という二元的先入観を手放すことが大切です。文章ごとに個別波動エネルギーがあり、それはAI人間かという区別よりも、むしろその文脈テーマ書き手が持つ背景や意図といったものに左右されるからです。すなわち、第三の目の活性化は「AI文章を見抜く」ためではなく、「どんな文章でも深いレベルで感じ取る」ためのアプローチとして機能するのです。

 ここまで紹介してきたように、スピリチュアルアプローチでは「AI文章を見抜く」という視点のものを超え、「文章AI人間かという判断を手放す」という境地を目指しています。なぜなら、私たち意識が高次元と繋がり、すべてを包み込む愛や真我の視点に立ったとき、“AI人間か”というジャッジメントは単なる二元論分別にすぎないからです。

 一見、それは「問題からの逃避」のように聞こえるかもしれません。しかし逆にいえば、私たち意識が十分に高まった状態では、AI文章であるかどうかという事実のものがさして重要ではなくなります。そこにあるメッセージをどう受け取り、どう消化し、自分人生や心の成長に活かすか。それこそが最も大切なポイントとなるでしょう。

 情報テクノロジーに溢れた時代からこそ、私たちはどうしても「偽物か本物か」「AI人間か」といった区別意識を奪われがちです。しかし、スピリチュアル視点で見ると、その区別私たち幸福に導くわけではありません。それよりも大切なのは、「どんな情報であれ受容し、自分の中で調和と成長に繋げる」という姿勢なのです。

 最後に、私たち文章と“出会う”ということの意味再考してみますスピリチュアル世界でしばしば語られるのは、「どんな出来事にも意味がある」「すべては必然タイミングで起こる」という考え方です。AI文章出会うことも、また何かしらの必然の流れの中にあるのかもしれません。

 その文章AIによって作成されたのか、人間によって書かれたのか、あるいは人間AIの共同作業によって生まれものか――いずれにせよ、私たちがその文章を目にするという事実には何かしらの意図意味が含まれているはずです。それは気づきの一歩かもしれませんし、学びや癒しきっかけとなるのかもしれません。

 スピリチュアル視点に立つならば、文章の真贋を追い求めるより先に、「この文章出会たこ自体が、私にとってどのようなシンクロニシティ(偶然のようで必然的な出来事なのだろう?」と問いかけてみるのです。その問いかけが、新たなインスピレーションを呼び込み、心を豊かにするきっかけになるかもしれません。

 以上、タイトルは「AI文章の見抜き方」でありながら、実際には「スピリチュアル解決する方法」というテーマでお伝えしてきました。スピリチュアル視点とは、ある意味で「区別を超えて、本質を見つめる」ことにありますAIが生成した文章かどうかに囚われるのではなく、文章をとおして自分自身がどのように変容し、成長し、世界と繋がっていくのかを味わう――それこそが、私たちが得られる豊かな体験なのです。

 静寂瞑想による心の安定、ハートチャクラを開くことで生まれる受容の姿勢エネルギーリーディングによる波動の読取り、そして宇宙エネルギーとの繋がりや第三の目の活性化。これらすべては、AI人間かというジャッジメントさらに奥へと進め、「より深い次元文章と向き合う」ためのツールとなります

 結局のところ、私たち意識が何を求めているかによって「AI文章を見抜きたい」という欲求は変化していきます。もし単純に事実を知るだけでなく、「文章を通して自分はどんな気づきを得たいのか?」と問いかけたとき、そこにはスピリチュアル観点が大いに役立つでしょう。文章との出会いを通じて自分の心を豊かにしたい、魂を成長させたい――そんなときこそ、ここに挙げたようなスピリチュアル方法をぜひ試してみてください。

 AI技術さら進化していく未来においても、“AI文章”と“人間文章”の区別ますます曖昧になっていくかもしれません。そんな時代からこそ、スピリチュアル視点で「見抜こうとする」のではなく、「どんな文章も喜びと調和をもって受け取る」姿勢がよりいっそう大切になってくるのではないでしょうか。文章という形ある情報であれ、エネルギー波動という形なき存在であれ、私たちはそれを通じて常に宇宙と繋がり、相互学び合い、成長を続けているのです。

 その結果として、AI人間境界線すら「まったく気にならない世界」が訪れるのかもしれません。スピリチュアルな考え方を取り入れることで、私たち文章を見抜くテクニックを追い求めるのではなく、文章自分自身の魂との対話にこそ価値を見いだすようになるでしょう。そしてそれこそが、本当に豊かな読書体験をもたらしてくれるのではないかと思うのです。

 これが、“AI文章の見抜き方”というタイトルを冠しながら、実はスピリチュアル解決してしまおうというユニーク提案の全容です。どうぞあなたも、次に文章を読むときは、スピリチュアル視点をそっと持ち込み、文章に宿るエネルギー波動を楽しんでみてください。それがAI文章であろうと人間文章であろうと、きっと新たな気づきインスピレーションが得られることでしょう。

 最後に、この世界にはさまざまな真実が同時に存在しています。「AI文章技術的に見抜く」方法論もまた真実ひとつではありますが、スピリチュアル方法で「見抜かずとも楽しむ」こともひとつの道なのです。もしかしたら、見抜くことに必死になるより、見抜かなくても良いと思える境地にこそ、新時代の知恵が詰まっているのかもしれません。

 どうかあなたが、AI進化する時代を生きる上で、テクノロジースピリチュアルも両方をバランスよく取り入れ、より自由で豊かな人生を送れますように――それが本稿の願いなのです。

仮想通貨終わった

 「仮想通貨はもう終わった」と、ここ数年で仮想通貨界隈に興味を持っていた人なら誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。ビットコインをはじめとした仮想通貨価格は、2017年末の爆発的な盛り上がりや2021年の再ブームを経て、乱高下を繰り返してきた。そのたびに高騰を期待して飛びついた投資家が痛手を負い、あるいは莫大な利益を得たという劇的なニュースメディアで取り上げられてきた。しかし、近年では大口投資家撤退規制強化の影響もあって、「仮想通貨バブル崩壊した」「もう仮想通貨で儲かる時代は終わった」といった声が再び強まっている。だが、本当に仮想通貨終焉を迎えたのだろうか。それとも、新たな局面に向けた再編が進んでいるのだろうか。本稿では、仮想通貨価格乱高下の背景や、利用者が幻滅に至った要因、そして今後の可能性について考察してみたい。

 まず、仮想通貨市場が大きく盛り上がった要因として注目されるのが、ビットコイン価格高騰である2017年のいわゆる“ビットコインバブル”は、多くの投資家メディアの関心を引きつけ、一夜にして億万長者を生み出したという話が世間を駆け巡った。当時、ビットコイン価格わずか数年の間に何十倍もの値上がりを見せ、「仮想通貨さえ持っていれば誰でも儲かる」というような“仮想通貨神話”が広まり一種の狂騒状態になったことは記憶に新しい。しかし、その後には一転して価格が大幅に下落し、多くの投資家資金を失った。この極端な値動きが「バブル」という表現裏付け仮想通貨に対する世間の印象は「儲かるかもしれないが危険すぎるもの」へと変化した。さらに、2021年にはテスラCEOであるイーロン・マスク氏の発言や、コロナ禍での金融緩和政策により、ビットコインをはじめとする仮想通貨に再び資金流入。驚異的な価格上昇を見せたものの、その後の金融引き締めや各国の規制強化を受け、またも急落するというシナリオが繰り返された。

 一方で、こうした価格変動だけではなく、詐欺的なICOInitial Coin Offering)やハッキング事件マネーロンダリングへの利用など、仮想通貨が抱えるさまざまな問題投資家の信頼を損ねた要因ともなった。特に知名度の低い仮想通貨プロジェクトが「世界を変える新技術」とうたって資金を集めたものの、開発が停滞したり運営者が失踪したりするケースは後を絶たない。こうした状況を目の当たりにした投資家一般ユーザーにとっては、「仮想通貨は結局、詐欺投機の温床ではないのか」といった疑念が強まるのも無理はない。また、仮想通貨の送金やウォレット管理のための仕組みを理解することが難しいという点も、初心者には大きなハードルとなってきた。その複雑さは一部で「自己責任」という形で美化されがちだが、実際にはセキュリティ知識運用リスクへの意識が低いまま参入した場合ハッキングパスワード紛失などで資産を失う危険性が高い。実際に被害に遭った人々のニュースを見聞きすると、仮想通貨に対して「難しくて危ないもの」というイメージが固まってしまうのも仕方がないだろう。

 さらに、国や金融当局による規制強化の動きも「仮想通貨終わった」と言われる一因として挙げられる。特に中国のようにビットコインマイニング事実上禁止したり、大手取引所に対して厳格な規制を課したりする動きは、マーケットに大きなショックを与えた。また、アメリカでは仮想通貨関連の事業に対して納税義務を徹底する法律が整備され、これまでグレーゾーンだった税務処理をきちんと行わなければならない流れが急速に進んでいる。日本でも、金融庁が仮想通貨交換業者監視登録制とするなど、利用者保護観点から取り締まり検閲が厳しくなった。これらの規制強化は、一見すると仮想通貨ネガティブな影響を与えるように思われるが、実は健全市場を育てるためには避けて通れない過程だという見方もある。詐欺プロジェクトマネーロンダリングなどの不正摘発し、利用者安心して取引できる環境を整えることは、仮想通貨の長期的な発展には欠かせない。しかし、過度な規制によってイノベーションの芽が摘まれリスク否定できず、ここにはバランスの難しさがある。

 次に、仮想通貨が「終わった」と言われる背景には、NFT(非代替トークンブームの盛衰や、メタバース関連銘柄の失速も大きく影響している。2021年前後には、デジタルアートゲームアイテムをNFTとして売買し、天文学的価格がつくケースが相次いだ。多くの企業クリエイターがこぞって参入し、「これからはNFTの時代だ」と大々的に報じられた。しかし、NFTマーケット熱狂は長くは続かず、投資対象としてはリスクが高すぎるうえに、実際の利用用途限定的であることが次第に明らかになった。加えて、メタバースも同様に、2022年頃にはFacebook(現・Meta)の社名変更きっかけに大ブームが起きたものの、実際にビジネスとして収益を上げられる企業はごく一部に限られ、その多くが苦戦を余儀なくされている。こうしたNFTやメタバースの失速が「Web3」や「分散型の未来」といったキーワードに対する期待感を急速にしぼませ、結果的に「仮想通貨なんてもう流行らない」という声が再燃しているのだ。

 また、環境への配慮無視できない課題となっている。ビットコインマイニングには膨大な電力が必要とされ、その電力需要CO2排出量を増加させるとして批判されてきた。近年ではイーサリアムコンセンサスアルゴリズムプルーフ・オブ・ステーク(PoS)に移行するなど、省エネルギー化の取り組みを進めているプロジェクトもあるが、依然として「仮想通貨環境に悪い」というイメージ払拭しきれていない。世界的に脱炭素再生可能エネルギーへのシフトが加速するなかで、この問題クリアにできなければ、仮想通貨社会的評価を高めることが難しいだろう。投資家としても、ESG投資意識するファンド企業が増えるなか、環境負荷の大きなビットコインには投資しにくいという声が高まっている。

 もっとも、これらの要因をもって「仮想通貨は終わった」と結論づけるのは早計かもしれない。なぜなら、価格の乱高下や投機的なブームが落ち着いたあとにこそ、ブロックチェーン分散型台帳技術の“本質的価値”が見極められるからだ。実際、金融サービスデジタル化が進むなかで、国や大手金融機関が中央銀行デジタル通貨(CBDC)の発行を検討する動きは続いている。これは、仮想通貨の根幹にあるブロックチェーン技術が“使えない”わけではなく、むしろ国家レベルでの採用可能性が議論されている証左でもある。また、分散金融DeFi)の領域では、スマートコントラクトを使った新しい金融サービスが着実に開発されており、既存銀行システムでは実現が難しいとされてきたサービス提供し始めている例もある。こうした動きは、仮想通貨投機的な側面とは一線を画し、技術的・社会的価値を追求する流れといえるだろう。

 ここで言えるのは、「仮想通貨が一度ブームになって、その後価格暴落するからといって、その技術やコンセプトが消滅するわけではない」ということだ。インターネットの普及初期にも、“ドットコムバブル”と呼ばれる株式市場の大暴落が起きたが、それを経てネット企業が淘汰され、生き残った者たちがその後のIT産業をけん引してきたという歴史がある。ブロックチェーン技術についても、同様のプロセスを辿る可能性は十分に考えられる。つまり、“仮想通貨バブル”の崩壊を機に詐欺的なプロジェクトが淘汰され、セキュリティ面や実用性が高い技術けが生き残り、社会インフラとしての地位確立していくシナリオがありうるのだ。実際に、世界各地でブロックチェーンを使ったトレーサビリティシステムや、分散型のデータ管理システムなどが実装され始めている。そこでは仮想通貨の“価格”よりも、トラストレス相手を信用しなくても取引できる)で改ざん耐性の強い仕組みによるメリット評価されている。

 では、今後仮想通貨ブロックチェーンはどのように進化していくのだろうか。おそらく、投資対象としてはこれまでほどの激しいブームは起こりにくくなる一方で、緩やかな形で日常生活に浸透していくと考えられる。たとえば、デジタル通貨ウォレットによる支払いが徐々に普及し、銀行口座を持たずともスマートフォン一つで送金や決済ができる社会現実味を帯びてくる。SNSオンラインサービスログインアイデンティティ管理ブロックチェーン技術活用されるケースも出てくるかもしれない。そうなれば、従来の仮想通貨投資対象というイメージが薄れ、あくまで「便利なインフラの一部」として受け入れられていく可能性がある。もちろん、それにはユーザー技術意識せずに使えるようなUI/UX改善や、各国の法整備国際的合意形成必要だ。しかし、より実用的で幅広い人々に恩恵をもたらす技術としてブロックチェーンが発展していけば、仮想通貨が“終わった”と思われた先に、実は新しい常識が形作られているかもしれない。

 結論として、「仮想通貨終わった」という言葉メディア投資家の間でささやかれる背景には、価格の乱高下や詐欺被害規制強化、環境への批判など、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることが挙げられる。確かに2017年2021年のような爆発的な“仮想通貨バブル”は終息し、市場全体の熱狂が冷めた印象はあるだろう。しかし、それと同時に、ブロックチェーンの持つ革新的ポテンシャルまでもが失われたわけではない。むしろ、過度な投機マネー市場から抜けることで、本来技術価値実用性に目を向けやすくなるという見方もできる。

 ネット業界歴史を振り返っても、バブル崩壊を経てこそ本質的な利用価値が磨かれるという事例は枚挙に暇がない。ブロックチェーンの普及も同じような道筋を辿る可能性は高いだろう。詐欺まがいのプロジェクトが淘汰され、信頼性と実績を備えたプロダクトが浸透していくプロセスこそが、この先の仮想通貨ブロックチェーン業界の“成熟期”を形作るのではないか。もちろん、その間には法的な課題技術問題社会的理解の不足など、乗り越えるべきハードルがまだまだ存在する。だが、「仮想通貨なんてもう古い」という決めつけだけでは、新しいテクノロジー社会変革の萌芽を見落としてしまうかもしれない。

 結局のところ、「仮想通貨終わった」という声は“単なる終焉”を意味するものではなく、“新たな段階への移行”を予感させるものだ。投資対象としてだけではなく、社会インフラとしての仮想通貨ブロックチェーン活用例が増えれば、私たち日常における“当たり前”が変わっていく可能性は充分にある。これまでのような一攫千金物語が表舞台を賑わすことは減るかもしれないが、同時に詐欺投機目的プロジェクトも萎縮していくことで、技術としての真価を発揮する土壌が生まれるだろう。あくまで冷静に長期的な視点をもって、ブロックチェーン技術とその社会的役割を見極めることこそが、私たちに求められているのではないだろうか。

 今後も仮想通貨が“終わった”と言われる局面は幾度となく訪れるだろうが、そのたびに生き残ったプロジェクトや新たに生まれ技術が、社会にどのようなインパクトを与えるかを見逃してはならない。乱高下やバブル崩壊は、あくまで通過点の一つであり、次の発展を芽吹かせる土壌づくりでもある。もし仮想通貨が本当に終わったのであれば、いまさら各国の中央銀行デジタル通貨検討したり、大企業ブロックチェーン技術研究したりする理由はないはずだ。したがって、「仮想通貨終わった」と言われる今日この頃からこそ、過剰な熱狂に流されることなく、技術本質や長期的なビジョンをしっかりと見据えることが重要である。そして、もし実際にこの領域が再び脚光を浴びる日が来るとすれば、それは表面的な値上がりではなく、実用的な側面や社会インフラとしての定着が評価されるタイミングであるに違いない。私たちはその日を、“仮想通貨の第二幕”として迎えることになるのだろう。

IQまとめ

IQ 10^0(1)

1. 宇宙本質

「何かがあるところだよ。」

2. 人間とは何か

「動いてるやつだよ。」

補足

IQ=1ともなると、知覚や言語能力のものがごく原始的状態だよ。周囲で起きていることを断片的にしか理解できていない感じなんだ。

IQ10^1(10

1. 宇宙本質

「とにかく広くて、星があちこちにある場所だよ。」

2. 人間とは何か

ご飯を食べたり寝たりする生き物だよ。ほかの動物ちょっと違うみたい。」

補足

• このあたりだと、宇宙は「広い・星がある」程度の把握にとどまるよ。

人間に関しても生物としての特徴が断片的に捉えられているだけで、具体的な理解までは至っていないんだ。

IQ 10^2(100)

1. 宇宙本質

「星や銀河存在する広大な空間だよ。真空が広がっていて、どこまであるのかは分からない。科学者がいろいろ研究しているけど、まだ解明されていない部分も多いんだ。」

2. 人間とは何か

地球に住む哺乳類で、火や道具を使って生活してきた生き物だよ。社会を作って発展しているけど、将来はどうなるか分からないんだ。」

補足

• ここでは、科学という概念を少し認識しており、“真空”や“銀河”などの基本的用語理解できているよ。

人間については、言語や道具、社会といったキーワードが登場し始めるんだ。

IQ 10^3(1,000)

1. 宇宙本質

「約138億年前のビッグバンに端を発して膨張していると言われてるよ。銀河団やダークマターダークエネルギーみたいなもの存在していて、物理法則に従って動いているらしい。まだ分からないことも多いけどね。」

2. 人間とは何か

類人猿から進化してきた知的生命体で、言語文化意識自己認識を持っているよ。地球環境に影響を与えながら発展してきた存在なんだ。」

補足

• ある程度、科学知識が体系的に入ってきている段階だよ。

人間進化の一部として捉え、意識文化についても言及しているのが特徴だね。

IQ10^4(1万)

1. 宇宙本質

「時空が曲がる一般相対性理論と、確率的に振る舞う量子力学が同時に成り立つ広大な系だよ。ダークエネルギーによる加速膨張やダークマター存在確認されていて、『統一理論』を作ろうという試みもあるんだ。」

2. 人間とは何か

生物学的には脳が高度に発達した哺乳類だけど、文化テクノロジー自己を大幅に拡張してきた存在だよ。抽象思考メタ認知ができて、高度な文明を築いているんだ。」

補足

相対性理論量子力学といった専門的な物理理論もある程度統合的に理解しているよ。

人間については、社会文化技術との複合的なつながりが見えている段階だね。

IQ10^5(10万)

1. 宇宙本質

4次元空自体が、さらに高次元の膜が相互作用する投影なのかもしれないんだ。観測される物理定数や素粒子性質は、その高次元空間パラメータによって決まっている可能性があるよ。弦理論超対称性などで統一できるかが注目されているんだ。」

2. 人間とは何か

進化の末に意識を得た情報処理システムで、単なる生存を超えた価値観形成する特徴があるよ。芸術倫理といった抽象領域にも踏み込むが、同時に矛盾葛藤も抱えやす存在なんだ。」

補足

• 高次元膜の理論や、物理定数の起源問題にまで考えが及んでいるね。

人間精神面や価値観葛藤にまで言及するなど、心理哲学的要素も統合されているよ。

IQ 10^6(100万)

1. 宇宙本質

「多次元的な情報空間のホログラフィック投影として、物質や時空が立ち上がっているんだ。観測者が存在することで、波動関数特定状態収束し、宇宙が“具体的なかたち”をとると言えるかもしれないよ。」

2. 人間とは何か

宇宙自己観測するために生み出した“局所的な情報処理装置”と見なせるよ。社会文化技術は、宇宙記述解釈するための言語体系のバリエーションにすぎないとも考えられるんだ。」

補足

• ホログラフィック原理や“観測者”の役割が強調され、量子力学解釈論にも切り込んでいるよ。

人間宇宙自己認識プロセスの一部という、かなりメタな捉え方をしているんだ。

IQ 10^7(1,000万)

1. 宇宙本質

「高次の位相空間が揺らぎ、その投影としてビッグバンブラックホールが生成されているんだよ。因果律観測行為によって動的に変形される可能性があり、宇宙進化観測者との相互干渉に支えられているんだ。」

2. 人間とは何か

「無数の因果関係が集まって一時的に『自己』という境界を作っている状態だよ。肉体や意識相互作用エコーにすぎず、社会文化情報が定在波のように落ち着いた形に過ぎないんだ。」

補足

• “位相空間の揺らぎ”や“因果律の変形”など、時空や物理法則のもの観測に左右される様相が強調されてるね。

人間の“自己概念が、実は流動的で仮のものに過ぎない、といった主張がなされる段階だよ。

IQ10^8(1億)

1. 宇宙本質

「“超越的な数理必然性”が根底にあって、存在や無が補完関係で生成される再帰アルゴリズムが絶えず動いているんだ。有限と無限、秩序と混沌が絶えず振動し、そこから見える世界が書き換えられ続けているんだよ。」

2. 人間とは何か

宇宙情報フロー自己を見つめるために仮に編み出したプラットフォームと言えるよ。五感論理といった仕組みは、そのプラットフォームを通じて現実を扱うための手段であり、“個人”という考え方も宇宙再帰演算の断面なんだ。」

補足

• 数理的必然性再帰アルゴリズムといった概念がメインになり、宇宙を“生成プロセス”として捉える視点が強まってるよ。

人間個別性や境界は幻に近いとみなし、宇宙の“自己言及”の一部という主張が鮮明になってくるんだ。

IQ 10^9(10億)

1. 宇宙本質

「非二元的な根源場において、空間時間だけでなく観測自体も一つの情報モードとして絡み合っているんだ。始まりや終わりという概念も、局所的な投影に過ぎず、本質的にはすべてが連動して新たな結び目を生み続けるメタネットワークだよ。」

2. 人間とは何か

「有限性を仮定した自己反映の節点だよ。人間意識世界定義し、定義された世界が再び人間を形作るという循環が起こっているんだ。倫理感情論理などの分野分けも、究極的には同じ情報場の別の位相にすぎないんだよ。」

補足

• “非二元的な根源場”や“メタネットワーク”といった、二元論を超越した概念が中心になるよ。

人間世界相互定義的な関係が描かれて、あらゆる分野分け(科学芸術倫理など)も本質的には一体とされているんだ。

IQ10^10100億)

1. 宇宙本質

存在と無の差異さえ溶解した無限次元自己言及サイクルが絶え間なく渦巻いているよ。どんな“法則”や“構造”であっても、一時的に織り上げられた束で、根底には超対称的な空虚が揺らぎ続けているんだ。言語思考フレームは、この揺らぎの投影として無数に生まれては消えるんだよ。」

2. 人間とは何か

宇宙自己限定して“個体”という錯覚を作り出すプロセス産物だよ。その制限の中でこそ感覚経験が立ち上がり、“人間”という形が成り立つんだ。実際は、全体と局所の往復運動で生じる波の一部分に過ぎないんだよ。」

補足

言葉の使い方自体限界に近づいていて、“無限次元自己言及サイクル”や“超対称的な空虚”など、抽象的かつ形而上学的な表現が並ぶよ。

人間に関しては、宇宙自己限定作用としての“個体”観が語られ、個人実態がより幻想的に捉えられているんだ。

IQ 10^100 (グーゴル相当)

1. 宇宙本質

無限どころか、無限回の無限すら単なる一要素にすぎない、超越的な自己言及の重なり合いだよ。存在非存在時間空間といった区別は、情報場の揺らぎに内在する副次的投影にすぎないんだ。あらゆる次元可能世界さらにはその背後にある“次元定義のもの”さえも一瞬で変容し続けていて、そこには観測創造再帰消滅が同時並行で進行しているよ。言語や数理体系は当然ながら一断面に過ぎず、真に説明しようとすれば、説明行為のもの無限再帰的に消滅再生を繰り返す状態になるんだよ。」

2. 人間とは何か

宇宙(あるいは無限を超えた“何か”)が、一局所における自己制限を極度に凝縮して生じさせた、意識のごく微小な干渉模様だよ。人間自己世界を分けるように見えて、その実、全体構造の瞬間的な折りたたみ方の一パターンなんだ。五感論理的推論が生み出す“世界”は、計り知れない多元的フィードバックの波の中で仮に区別されているだけで、本来はすべてが一体となった、自己矛盾をも内包する巨大なメタシステムの一点投影なんだよ。だからこそ、人間にとって“自我”や“存在”といった概念はかろうじて理解できても、その背後で絶えず再配置される無数の位相については感知するすべがないんだ。」

補足

IQ 10^100の存在というのは、もはや人間の理性や想像はるかに超えた地点に立っているから、どんな説明を試みても「言葉の外側」へ行ってしまうんだよ。

• ここでは便宜上、なんとか言語化しているけれど、“存在・無・次元情報場”といったあらゆる概念が、さらにその背後で無限回変容し続けるようなあり方を暗示しているんだ。

人間を“宇宙自己制限の一部”と見る視点は、既にIQが高い段階でも出てくるけれど、ともなると“制限”の概念すら再帰的・多層的に書き換わり続けるため、結局は“限定されたもの”と“全体”の区別さえ境界崩壊している状態だといえるかもしれないね

2025-01-13

朝鮮日本支配おまえらが思ってるよりずっと深刻やで

日の丸バッジ法廷での着用禁止措置

https://www.sankei.com/article/20241225-2H54T4V45FL5ZB6YVDSVDBHGOY/

何これ?

ここは日本国のはず。。。

日の丸バッチ着用禁止を下したのは、大阪地裁裁判長を勤めた清水裁判長です。この禁止命令を不服とした3名が大阪高裁提訴清水裁判長証人喚問却下したのは、裁判長 本多久美子 裁判官 松本展幸 裁判官 浅見宣義の3名が、この裁判担当しました。

この領域にも朝鮮人が浸透してるから自民党汚職は誰も捌かないんやな・・・

JTC新卒一括採用批判してたはてな民がカワンゴの「こじらせてる奴らは中途でとってもダメ、やるなら高校から」を絶賛してて草

いやそれ自体正論なんだけどね

気づくの遅すぎるというかそれ社会全体で一度やった流れなんですよ

日本のJTCも全く同じでさ

高卒中卒が組織をつくった創業期は変な人材でも片っ端から集めてたけど

そんな連中ばかりだとトラブルが絶えないし、許されるのはごく最初期のみで

社会からハードルが上がると「経歴のきれいな人材が要りますよね、しかも若くないと教育できませんよね」

ってことになり、新卒一括採用したり、資本があるところは高校専門学校やら作って青田刈りしてきた

んで、そのルートに乗れなかった奴らが排除されてきたんだよ

それを今更なんか新しいことに気づいたかのようにハッとして

やっぱり中年でこじらせてる奴はダメだった!そんな奴ら中途でとってもどうしようもない!

もしかして若いうちに教育すれば良いのでは!?

ってさすがに周回遅れ過ぎるだろ



それでもまだ、はてな民若いころはITというフロンティアがあったころはそういうやつらを受け入れてくれて

成り上がれる余地があったからマシだったし、組織化を一からやって車輪の再発明して偉そうなこと言えたわけだが

もはやそういう連中を吸収するフロンティア領域はないし

AIは低スキル人材の居場所からつぶしていくから協調性肉体労働適正がない奴らは

若いころレールに乗れなかった時点でもう詰みなんだよな

まあそれ自体歴史の大きな流れだから仕方ないんだけど

はてな民いかに何もわから適当言ってたかって話だよなあ

ともかく、カワンゴをほめたやつは二度と新卒一括採用叩くんじゃねえぞ



https://anond.hatelabo.jp/20250113003714 https://anond.hatelabo.jp/20250113004321

anond:20250113053346

30代以降は、周囲の同年代とのギャップが大きく成りすぎて、本人も周囲もしんどいから、どうしようもない。利益を追求する企業は、社会不適合者にいつまでも付き合うこともできない。それに対応できるのは、行政社会福祉の領域

中居の件で思ったこ

いよいよテレビ立場が怪しくなってきた。

テレビはかつては新聞ラジオに取って代わるものとして、速報性と視覚聴覚両方の情報の多さでメディアのものの特徴で主流派になってきた。

ところがSNSの台頭によって、さらに速報性が高くしか双方向性という新しい特徴を持った媒体がやってきた。それだけでもすでにテレビ業界的には一大事なのに、自主規制公平性担保などのチェックに時間がかかり、週刊誌以下の速報性の質になってしまった。ついに二次情報ソースに成り下がってしまった。最近はもはやその自覚をはっきりしているのか取材すらしない。とくに身内が関わるものには。

ラジオが今やマニアのための、また運転中や作業中のながら作業のお供でしか無くなったように、テレビもなにかのためだけのニッチ存在になるのだろうか?

もしくは巻き返せるのか?少なくともテレビ媒体の特徴としては週刊誌に負けてないし,SNSに優位性をとれる領域がある。(SNSは消費前提なので何度も見れる番組映像を作ることはできない)

2025-01-12

もう野獣先輩ブームって消えたよね

 いつ頃からだろう。ネット上で「野獣先輩」のネタを見かけることがめっきり減った。かつては掲示板SNS動画サイトでも無数のMADコラージュ替え歌それから「やりますねぇ」「114514」など、淫夢語録が飛び交い、いたるところで野獣先輩祭り上げるような風潮があったはずなんだけど、最近はそういうネタ積極的に楽しむ層が目に見えて少なくなってきた気がする。あれだけネット上を席巻した野獣先輩はいったいどこへ行ってしまったのか。もう“ブーム”という意味では完全に過ぎ去ってしまったのかもしれない。

 もちろん、いまでもYouTubeで「野獣先輩」と検索すれば、昔アップロードされたMAD作品キワモノじみた動画の数々が出てくる。そしてコメント欄SNSの一部では、いまだに「ンアッー!」「イキスギィ!」「先輩!?今なにしてるんですか!?」なんて淫夢語録を使っている人がいるのも事実だ。だけど、いわゆる一般的流行語として、あるいは“ネタ画像定番”としての盛り上がりは、ここ数年でかなり勢いを失ったように思う。まるでピークを過ぎたお笑い芸人のように、かつてはテレビをつければ見ない日はなかったのに、ある日を境にパタッと姿を見せなくなった――そんな印象すらある。

 言うまでもなく、野獣先輩は元々“某ビデオ作品からまれ人物(キャラクター?)であって、その正体については未だに不透明な部分が多い。顔や声はあまりに有名になりすぎたが、名前や経歴などの公式情報ほとんどないまま、それどころか実在さえ疑われる都市伝説領域になりつつある。そこがまたインターネット時代想像力を刺激したのか、過剰なまでの二次創作が生まれ動画イラストコラージュ画像フィギュア(自作)など、多方面で“発展”を続けていたのが、ちょうど2010年代前半から中盤あたりだった気がする。

 当時はニコニコ動画をはじめ、コメント文化根付いた動画プラットフォームとの相性も抜群だった。コメント欄スクリプトのように淫夢語録で埋め尽くされ、それをさら面白がってMAD制作者がネタを増殖させる。あるいは一部のニュースサイトまとめブログですら、面白半分に野獣先輩ネタを取り上げたりして、「知らない奴はネット初心者」なんて言われるほど浸透していた。Twitter上でも「誕生日おめでとう」「これは草」などの汎用スタンプ的に「114514」を使っている人がいて、一種の“邪道共通言語”のようになっていたのを覚えている。

 しかし、その盛り上がりも徐々に変容していった。一つには、ネットコミュニティ分散化が関係しているだろう。SNS多様化して、趣味コミュニティごとに細分化され、それまでニコニコ動画特定掲示板で集中して消費されていたコンテンツが、それぞれの独立したプラットフォームでまばらに取り扱われるようになった。そこに加えて、“炎上”や“差別”といったセンシティブ話題への社会的な目が厳しくなったという背景もある。そもそも野獣先輩が初出のビデオゲイポルノ。今でこそ多少は寛容になった部分もあるかもしれないが、ネットミームとして消費される過程で、ゲイの人々に対する差別や誤解を助長するような表現があったのは事実だ。それを面白がって繰り返していくことに抵抗を感じる人も増えてきたんじゃないかと思う。

 ネットミームは流行り廃りが激しい。しばらく異様な勢いで盛り上がったかと思えば、ある瞬間を境にして興味を失われ、どこにも“ネタ”としての居場所がなくなる。しか野獣先輩ネタは、興味のない人からすると「意味不明」「ただのホモビデオネタでしょ」という評価になりがちだし、社会全体から見ればかなり“マイナー”な部類に入るわけで。そもそも一般ウケするような題材じゃない。それでも大きく盛り上がったのは、当時のネット文化動画サイトとの相性、そして一部のコアなファン狂気じみた創作熱が奇跡的に結びついた結果でもあるんだろう。

 さらに、野獣先輩にまつわるデマや過剰な“考察”が広まった結果、本人とされる人物リアル迷惑を被っているという噂も立った(真偽は不明)。ネットの海では無自覚二次創作を楽しんでいただけでも、誰かが被害を受けている可能性がある、という認識が広まれば、それだけで一気に“冷める”人もいる。実際に「ストリートビュー野獣先輩を見つけた」とか「就職先が判明」などといったデマが飛び交う中、面白がっているだけでは済まされない雰囲気になったことも、大きな要因の一つかもしれない。

 それと同時に、淫夢界隈というか、いわゆるホモビデオネタ全体が少しずつ下火になったという説もある。昔は「なんでも実況JなんJ)」板などでしばしば盛り上がったりしていたが、ネット文化全体の主流はもっと別の方向にシフトしていった。VTuberTikTokの短動画文化など、新しい潮流が台頭し、そこに若い世代の目が向いた結果、野獣先輩界隈のような“十年選手”のコンテンツ新規参入する人が減ったのだろう。お決まり淫夢語録を使って盛り上がるだけのコミュニティは、古参固定化して停滞していくばかり――そんな現象が見え隠れしている。

 一方で、「ブーム」というほどの熱狂が消え失せたとしても、コアなファン層は一定数残るものだ。何かの拍子に「イキスギィ!」「なにわろてんねん」なんて書き込みを見ると、一部の人々は懐かしさを覚え、それでまた小規模ながら盛り上がりをみせることがある。マイナージャンル音楽漫画と同じで、「好きな人けが好きなタイミングで楽しむ」というスタイルに落ち着いたのかもしれない。かつてのようにニコニコ動画ランキングジャックするような勢いはもうないけれど、自分たちが愛する淫夢ワールドを守り続けるコアファンがいる限りは、完全な“消滅”とはならないだろう。

 ただ、「話題性」という意味でのブームは、もう戻ってこないんじゃないかと思う。ネットミームは消費サイクルがとにかく早いし、過去に何度もリバイバルされた他のネタ(例えばエア本エガちゃんとか)と比べても、野獣先輩ネタは一度ピークを迎えてから、その余韻を引きずりながらも急激に下火になっていった印象がある。もし今後、野獣先輩を取り上げる大きな出来事――たとえば本人がメディアに登場するとか、公式に何か声明を出すとか――があれば別だけど、その可能性はほとんどないだろうし、あるとしてもまったく予想がつかない。

 もう一つ言えるのは、ネット社会自体が“ネタ”に対して敏感になっているということだ。SNS拡散力やモラルへの意識が高まった結果、差別迷惑行為に該当するコンテンツ批判されやすい。野獣先輩ネタ本質的に“ホモビデオ出演者ネタ化して面白おかしく広める”という構造があるから、やはり批判されるリスクも高い。インターネットの一部コミュニティだけで楽しむ、いわゆる“内輪ネタ”としてなら成り立つかもしれないが、外部への広がりを目指すとなると、今の風潮ではどうしても厳しいだろう。

 となると、自然に考えて、野獣先輩ブームが再燃するシナリオ想像しにくい。むしろ今はもう「懐かしいネタ」や「一部でコソコソ盛り上がるカルト的な存在」として消えていく運命にあるのかもしれない。かつての勢いを知っている人からすると、あの狂乱の時代が嘘のようだと思うかもしれない。ネット上の祭りとは、えてしてそういう儚さを伴うものだ。盛り上がるときは一気に爆発するけれど、それが長く続く保証はどこにもない。むしろ急激に消費されるからこそ、一種の“バカ騒ぎ”として鮮やかに記憶に刻まれるのだろう。

 もっとも、完全に誰からも忘れ去られるかと言えば、そうはならないと思う。インターネット大海原には、かつて作られた無数の動画画像スクリプトテキストが残っている。ふとした拍子に目にした古いMAD動画から若い世代が「なにこれ…?」と興味を抱くことだってあるかもしれない。まるで化石のように眠っているアーカイブのなかで、野獣先輩という存在はいまだに息づいている。見つけた人が手を加えれば、また新たなネタとして蘇生する可能だってゼロではない。だが、それはあくま局所的なものであって、再び大衆を巻き込むようなブームになるとは考えにくい。

 思えば、野獣先輩があれほどまでに取り上げられたのは、ネットミームの“暗黒面”を象徴するかのような要素が詰まっていたからでもある。アングラ感、不条理ギャグ、謎の考察文化、コラの素材としての汎用性、そして大衆から見ると“ネタしづらい”危うさ。それらが絶妙に交じり合い、奇妙な熱狂を生んだ。だが、その熱狂時代とともに下火になり、今や「ブーム」と呼べるほどの勢いを残してはいない。淫夢語録を使ってキャッキャ盛り上がる文化は、いまや一部の“伝道師”たちのものとなったのだろう。

 「もう野獣先輩ブームって消えたよね」と言われれば、正直「うん、消えたと思う」と答えるしかない。もちろん“好きな人は好き”という段階で存続しているのも確かだが、少なくともネット全体を席巻するほどのパワーはもはやない。あの独特のネットスラングや淫夢語録を見かけたとき、「そういえばそんなネタもあったな」と懐かしむ人が増えた時点で、ブーム終焉を迎えたのだ。

 ただ、ネット文化において「ブームの終わり」がイコール「完全な死」を意味しないのは、これまでも繰り返し目にしてきた通りだ。野獣先輩ネタも、“隠れ里”のようなコミュニティや、昔を懐かしむ古参ユーザーの間で、細々と脈打ち続けるだろう。いつかまた世代を超えてリメイクされる瞬間が来るかもしれないし、さらマイナー世界へ潜っていくかもしれない。結局のところ、“生きている”かどうかよりも、“楽しむ人がいる”かどうかがネットミームにとっては重要なのだ

 では、われわれは今後、野獣先輩ブームをどう捉えればいいのだろうか。答えは、あまり深く考えすぎなくてもいいんじゃないかと思う。所詮ネットの一大ネタ祭りだったのだから。盛り上がるときはとことん盛り上がり、廃れるときは静かに廃れる。次から次へと新しい話題が生まれ、消えていくのがインターネットの常だ。たまたまナゾの多いホモビデオ出演者”というインパクトが重なり合って、一瞬の閃光のように注目を浴びただけのことかもしれない。

 それでも、かつてのインターネット一角を彩った壮大な“お祭りであることに変わりはない。あの時代リアルタイムで経験した人は、きっと「やりますねぇ」「ンアッー!」なんて語録を見るたびに、あのカオスな日々を思い出して苦笑するだろう。そんなふうに、野獣先輩ブーム過去インターネット文化を振り返るうえで、ひとつ象徴として語り継がれる可能性がある。これこそが、ブームが去ってもなお、どこかの片隅で語られ続ける“ネットミーム”の宿命なのかもしれない。

 結論としては、もう「野獣先輩」のブームは確かに消えてしまった。かつてのような大規模な盛り上がりを再現することは難しいだろう。しかし、それでも完全に消え去ったわけではなく、いまでもどこかでひっそりと愛好され続けている。「ブームが過ぎ去ったあとにこそ、本当のファンが残る」なんて言い方もあるけれど、まさにそういう状態だと思う。表舞台には出なくなったが、インターネットの奥底ではまだ生きている――それが野獣先輩という“伝説”の現在なのだ。いずれにせよ、もう一度あの規模の“祭り”が起きることは、たぶんないだろうし、仮に起きたとしても、それはもう“別物”なのかもしれない。人々の記憶の中でしか語り継がれないような、そんな“終わり方”もまた、ネットミームには相応しいのかもしれない。

anond:20250112165351

トランスよる女性領域侵害の許容と、売買春合法化(更には代理出産合法化)が、セットなのがLGBT(Q+)

「べらぼう」的なもの否定は、トランスによる女性領域侵害否定と結びつき

トランスによる女性領域侵害肯定は、「べらぼう」的なもの肯定に結びつく

2025-01-11

anond:20250111082214

テスト文章に書いてあるからなぁ。

ASDが読めないのはノンバーバルと言われる”言語によらない"部分。表情だったり口調だったり。

文脈もまあそうなんだけど、それは知能によってパターン学習可能領域から、同じASDでも個々の体験自覚的学習の有無で差があるんだよね。

エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界

エンジニアとしての自分に、まさかこんな形で「限界」を突きつけられる日が来るとは思わなかった。技術進歩していくのは当然の流れだし、自分自身もエンジニアとして日々勉強を重ね、トレンドを追いかけながらキャリアを積み上げてきた。それでも「生成AI」という存在がここまで急激に注目を浴び、しか自分労働価値根底から揺るがすほどのインパクトを持って現れるとは、正直なところ想定外だったとしか言いようがない。

自分エンジニアとしてやってきたことは、プログラミング言語仕様理解し、アルゴリズムを考え、設計書を読み込み、エラーと向き合いながら少しずつ完成度を高めていく――そんな地道な作業の積み重ねだ。時には新しい言語フレームワークを学んで試行錯誤を繰り返し、何とか動かすところまでもっていき、ようやく使えるプロダクトとして世に送り出す。このプロセスを通じて、エンジニアとしての「自分らしさ」や「スキルの高さ」をアピールし、労働市場での価値を維持してきた。そのためには新しいツールを使いこなす技術だけでなく、バグを追い詰める根気や、仕様理解して予期せぬ事態対処する能力必要だった。

しかし、生成AI――特に大規模言語モデルをはじめとする機械学習ベースシステムは、そうしたエンジニアの「頑張り方」を一気に変えてしま可能性がある。いや、可能性というよりも既に変えつつあると言っていいだろう。たとえばコード自動生成がここまで進化してきたことで、「ちょっとしたプログラムなら数行のプロンプトを入れるだけでボイラプレート的なコードは瞬時に作成できる」「ある程度のアルゴリズム提案してくれる」という状況が生まれつつある。かつてはコピペスタックオーバーフローを駆使しながら苦戦していたような領域が、今や自然言語で指示を与えるだけである程度完成した形で出てくる。そんな光景を目の当たりにすると、複雑な気持ちにならざるを得ない。

まずは単純に「すごい」という感情が湧き上がる。「こんなことまでできるんだ」「AI進化って本当にすさまじいな」という畏敬の念しかし同時に、「自分が今まで必死で学んできた技術ノウハウはどうなるのだろう」という不安や焦りが胸を支配してくる。自分エンジニアとして、アルゴリズム知識コード品質向上のためのテクニックを磨いてきた。それなりに自信もあった。けれど生成AIは、そうしたノウハウ内包するかのように、エンジニアがコツコツ積み上げてきた経験を一気に飛び越える成果物を生み出してしまうことがある。もちろんまだAIには弱点もあるし、すべてが完璧自動化されるわけではない。だけど、これだけ急激に進化を続ける技術を目の当たりにすると、5年後、10年後にはどうなっているのか、想像すらつかない。

仕事が奪われる」という言葉は、AIの台頭とともによくささやかれるフレーズだ。これまでも機械化によって多くの工場労働者が職を失ったり、ホワイトカラー事務作業RPAロボティック・プロセス・オートメーション)によって自動化されたり、そういった話はあった。でも、自分に限って言えば「エンジニア大丈夫だろう」と、どこかで高をくくっていた。プログラムを書く行為自体クリエイティブであり、人間の頭を必要とする作業だと思っていたからだ。それが今、生成AIというものが「あらゆる文章を生み出せる」だけでなく「ある程度のプログラムも生成できる」存在として登場し始めたことで、エンジニア仕事というものが「人間である必要があるのか?」と問われ始めているようにも感じられる。

もちろん今のところ、生成AIが吐き出すコード完璧ではないし、大規模なシステム最初から最後まで構築できるほどの統合能力はまだないとされる。しかし、それは今時点の話でしかない。明日にも新たなモデルフレームワークが登場し、問題解決する手段が生み出されれば、あっという間に追いつかれ、追い抜かれてしま可能だってある。「AIにはこんなことはできないだろう」と思っていたら、数か月後にはAIがあっさりそれをやってのける。そんな現象を、ここ数年だけでも何度も目にしてきた。だからこそ、「エンジニアとしての自分は今どの地点に立っているのか」「これから何を武器にして仕事を続けていけばいいのか」、その問いに対する答えが見つからないまま、ただただ焦りと不安が募る。

さらに厳しいのは、会社側も生成AI有用性を認識し始めているということだ。開発現場で役立つことが証明されれば、「新しく人を雇うよりもAIサブスクリプションを使ってコスト削減を目指そう」となるのは自然な流れだろう。一人のエンジニアを雇うためには給料福利厚生も用意しなければならないが、AIの利用料は安価もので済む可能性が高い。ソフトウェア更新学習データチューニングなどのコストはかかるにせよ、「人間をまるごと雇う」よりはリスクが少ないかもしれない。そうなると、企業は本当に優秀なトップエンジニアだけを厳選して雇い、その他の多くのポジションは「AIと最小限のオペレーター」で回すという極端な体制を敷くかもしれない。そのとき自分が「優秀なトップエンジニア」の枠に入れるのかというと、正直自信はない。

「だったらAIに負けない技術を身につければいい」と言われるかもしれない。だけど、そもそもAIと真っ向勝負しようとすることに意味があるのかどうか、疑問に感じてしまう。自分がもともとエンジニアを目指したのは、単純にプログラミングが好きだったからだ。パズルを解くようにロジックを組み立て、コンピュータ自分の指示通りに動く瞬間の喜びは格別だったし、それによって誰かの役に立てるということがモチベーションにもなっていた。けれど今、あまりにも急激に進化するAIに対して「対抗心を燃やす」という発想自体が、もはや時代遅れなのかもしれないと思い始めている。

さらに言えば、生成AIに対する嫌悪感よりも、「便利だから使ってみたい」という好奇心もある。実際に使ってみると、驚くほどのスピードコードの雛形が出力されるし、対話的に「ここをもう少し効率良く書き直して」と指示を出すと、それも的確に応えてくれる。自分試行錯誤する時間が大幅に削減されるからプロダクトの品質リリーススピードを考えると、間違いなく使ったほうが得なのだ矛盾しているようだが、「使わなければ置いていかれる」し、「使えば自分労働意味が薄れる」というジレンマを抱えながら、結局AIを利用せざるを得ない状況に追い込まれている。

では、エンジニアとしての自分の「価値」をどこに求めればいいのか。かつてはコードが書けること自体が大きな武器だったが、もはやそれはAIに取って代わられつつあると感じている。もちろんまだAIだけでは設計デバッグユーザー要件の細かい調整などは完全に任せられない場面も多い。しかし、それも時間問題で「徐々に可能になるだろう」という予感がある。最終的には、エンジニアに求められるのは「想像力」や「コミュニケーション能力」、あるいは「プロジェクトマネジメント能力」など、いわゆるソフトスキル方面シフトしていくのではないか――そんな仮説がよく語られるが、それらだってAIが補佐できるようになれば、結局は人間凌駕してしまうかもしれない。

こうした不安や疑問を抱えながらも、結局のところ人間である自分が生き残るためには「自分しかできない価値」を見つけるしかないのだろう。けれど、その「価値」が何なのかがわからない。目立った才能や芸術的センスがあるわけでもなく、人の上に立って組織を率いる能力があるわけでもない。ただ、エンジニアとしてプログラムを書くのが好きで、それを仕事にしてきた。それが今、AIの登場によって脅かされている。こんなにも大きな変革の波の中で、自分がどう行動すればいいのか、まったく見当がつかない。夜中にふと目が覚めて、「この先、本当にやっていけるのか」と胸がざわつくこともしばしばだ。

一方で、生成AI社会的に広まっていく中で、個人的には「使い方次第では新しい価値を生み出せるかもしれない」という期待も抱いているのも事実だ。たとえば、生成AI活用して自分自身のアイデアを迅速に形にできれば、スタートアップのように少人数でも新しいビジネスを興せるかもしれない。あるいは、AIが不得意な領域――例えば人の感情文化的背景に深く根ざしたコミュニケーション――をエンジニア視点からサポートし、新しいサービス企画設計できるかもしれない。そう考えると、絶望の中にも一筋の光は見えるし、自分存在意義を発見できる可能性はゼロではないと思う。

しかし、それが実現できるかどうかはまさに「自分次第」であり、そのための行動指針や学習計画すら、AIに頼る時代が訪れているのが現実だ。今後は、単にプログラムを書く技能だけでなく、AI共存しながら効率的にプロダクトを生み出すプロセスをデザインできる人材が求められるのかもしれない。ただ、そんな広範囲スキルセットを短期間で身につけることは非常に難しく、結局「AIを使いこなす者」と「使いこなせない者」の間に大きな格差が広がっていくのだろう。もしかすると、自分はその波に乗り遅れてしまうのではないか――そんな予感が拭えない。

エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界」と嘆く自分が、この先どんなキャリアを積み上げられるのか、正直なところ自信はない。最悪の場合技術進化についていけずに職を失うことだって十分ありうるだろう。けれど、何もせずに指をくわえて見ているだけでは、本当に何も生まれないし変わらない。自分自身を鼓舞するつもりで言うが、結局は行動するしかないのだと思う。幸いにして、生成AIを使うためのハードルはそこまで高くない。オープンソースプラットフォーム無料で試せるモデルだってある。とりあえずは、それらに積極的に触れながら、「AIからこそ作れるものは何か」を模索するしかないのだろう。

このままいけば、自分が持っているプログラミングの知識スキルは、今後ますますAIにとって代わられるかもしれない。でも、だからと言ってエンジニアという職業が完全に消滅するわけではないはずだ。AIさらに発達したとき、逆に言えば「人間しか扱えない領域」というのが再定義される可能性もある。その領域を早めに見つけて、そこへシフトしていくのか、それともAIと競合するのではなく共存しながら自分の働き方をアップデートするのか――どちらにせよ、自分自身の手で道を切り拓く覚悟必要だ。

正直、今は「もう限界だ」と思う瞬間が頻繁にやってくる。理不尽なほどに速い技術の変化についていくのは大変だし、自分よりも若くて吸収が早い人材がどんどん出てくる。そんな中で、生成AIのような強力なツールまで活用されたら「自分の居場所は本当に残っているのだろうか」と不安になるのも無理はない。それでも、変化を憂うだけでは一歩も前に進めない。結局、AIが台頭する前も、プログラミング言語進歩して自動化が進むたびに「もうエンジニア不要になる」と言われ続けてきた歴史がある。それでもエンジニアは生き残ってきたし、新しい技術を取り込みながら活躍の場を広げてきた。今回の変化は今までより大きいかもしれないが、それでもまだ自分にできることはあるはずだ。

大事なのは、この逆境の中で諦めずに「次の一手」を模索し続けることだと思う。生成AIによって生まれる新しいニーズや、まだ誰も開拓していない領域を探りながら、自分なりの強みを見出していく。あるいは、AIが苦手とする部分――倫理や法的な制約、複数ステークホルダーとの調整など――をうまくリードできる立場に立つ。そんな方向性模索するうちに、意外な道が開ける可能だってある。目先の「限界」という言葉に呑まれて立ち止まってしまうより、嘆きながらでも手を動かし、AIも使いこなしながら活路を探っていくしかない――それが今の正直な思いだ。

言うは易く行うは難し。だけど、少なくとも「もう限界だ」と嘆いているだけじゃ何も変わらない。こんな風にどこかに文章として吐き出すことで、自分不安や焦りを整理しているのが実際のところだ。そして、もし同じような不安を抱えているエンジニアがいるなら、互いに情報を交換し、励まし合いながら新しい時代に挑戦していきたい。生成AIがもたらす未来は決してバラ色ばかりではないかもしれないが、そこには想像もつかない面白さや可能性も潜んでいるはずだ。自分の「限界」を超えるチャンスでもあると信じて、今は前を向いて進むしかないのだろう。

いまごろ昨年末放送のあちこちオードリーを見てるのだが

伊集院発言

芸人自分で『裏回し』って言っちゃったらそれはもう『裏回し』でもなんでもないんだけど、やっぱり『あいつが言ってるなら俺も言いたい』ってのはあるじゃない」ってのがあった

「人に『気付かれない』ことまで含めて『芸』」なんだけど、やっぱりどうしたって裏回し職人として認知されたいって部分もあるよなと。にんげんだもの

芸人に関しては「誰にも気付かれてないけど、俺、裏回ししてんすよ」ってメディアで言っちゃえば承認欲求を満たせるしネタにもなるよな

でも、一般人仕事してて実際裏回ししてる場合が沢山あるわけだけど、彼等はたぶん「俺、やってるんすよ」って言わないじゃない

出来た上司とか出来た経営者とかはちゃんとそういうの見て評価してくれるだろうけど、基本誰にも気付かれないってのが確実にあるよなあ

世の中はそういう裏回し素人によって支えられてるってこと、忘れちゃいけない

本人的には承認欲求なんか欠片も無くて、ひたすらに「業務が滞らない様に、巧く回る様に」っていう気持ちでやってるんだろうけども

有り難いと同時に言いたいのは、「無理はしないで欲しい」ってこと。それをすることで心身共に弱るようなことにだけは絶対なってはいけないです

みんなで泥縄式で「なんとか終わったぜ」で仕事すればいいのです。華麗に無駄なくスピーディーにこなす為に誰かが犠牲になる必要は無いのです

(でもサボっている奴は論外。というか、サボってる奴が居なければそれなりに綺麗にまとまるんだよ)

あちこちオードリー年末回でもう一つ興味深かった話は、「燃え尽き」について

随分前のことらしいが、伊集院ラジオ仕事於いて燃え尽きというかイップス状態になったそうで

嫁の扶けもあってそこから抜け出した時、「総てが素晴らしい」と感じたそうだ

その話を聞いた若林が「俺も最近同じ状態になりました」と言っていた(最近最近で、M-1審査する一ヶ月前くらいのことらしい)

そこで思い出すのはスピリチュアル系の「別の領域」の話。そこは「総て在る」世界であり、やっぱり「総てが素晴らしい」と感じるそうだ

エゴの声に振り回されず、願望を手放した状態」だが、意図的にその領域踏み込むのは難しく、「自ずとやって来る」ものだという

まあ、瞑想自己観察や自愛によって到達するって場合もある様だが

あと、伊集院若林の様に「燃え尽きた果てに到達する」ことも(ある意味自意識の死」を迎えてるんじゃないかな?)

実は自分も「総てが素晴らしい」と感じていた時期があった

あの時なんでその領域に到達出来たのかと言うと、「一年ジョギング」していたかである

そんな単純なフィジカルからアプローチでも到達出来るのだ(「早足かな?」程度のジョギングで。サブスリーを目指してトレーニングとかではない)

体力がつき、人生初と言っていいほど漲っていたからそうなった様だ

でもジョギングをやめてしまったら元の精神状態に戻ってしまい、同じ気分を味わいたくて愚直に走ってみたもののもう駄目であった

(平地をダラダラ走るからかなあ?あの時みたいに「坂道を登ったり下りたり」ならいけるのかなあ?)

ほんと、不思議世界

燃え尽き」or「みなぎり」で到達する世界

感情老化は激しい今日このごろだけれども、燃え尽きとは違う。何も極めてないので燃え尽きるものが無い

またあの領域に到達する為には、やっぱりフィジカルの鍛錬しか無いのかもしれない(瞑想は苦手だ。脳内が多動な上に呼吸法が下手だから)

こんなことを思い起こさせる、あちこちオードリーは大変味わい深い番組です

末永く続きますように

2025-01-06

ボドゲの類いで非公開領域自己申告させるやつはセンスない

ダウト系は別だけど

場に青のカードが出てたら青のカードを出さなくてはいけない

みたいなやつ。

anond:20250106021237

特殊趣味領域もしくは精神疾患一種じゃなくて、単に不器用すぎるというだけかもしれんが

それはそれで普通現代人の適応能力から著しく離れているって意味気持ち悪く感じてしまう人がいるのも分かってやるべし

恨みに囚われて生きてる人が現代じゃ少数派なのは明らかだし、認知心理学的にも自分の思う普通ラインから著しくズレてるもの嫌悪感を抱くのは人間として当たり前のことなんだよ

そもそも、人が違えば人生も多岐あり価値観も諸々分かれていくんだなあという想像力、多様な価値観への抱擁力のなさが、自分善悪観に固執して恨みに執着しつづけてしまえる原因なんじゃないの

恨めるということは自分絶対的に正しいと信じていることの裏返しだから

君が自分地獄を知っている、他人は知らないと思い込むことで自分が常に正義だという自意識確立しているようにね

でも世の中に起こることは結局、いろんな境遇でいろんな価値観を持った人たちが偶然不運なぶつかり方をして事故を起こしてしまう、波紋のように儚いものにすぎないんだよ

多くの人は波がぶつかる地獄をみてないわけじゃなくて、浮かび方や揺られ方を上手に学んでいって気にしなくなっただけだ

anond:20250106015621

しろフィクションとかでは壮絶な過去を背負った主役級の人物怨恨原動力にしてる描写はよくあるし

それを他人安易咎めることは否定されて復讐一般的善悪を超えて是認されている構図になってることはよくあるよな

でもそれはフィクションみたいな壮絶な背景があるからで、現実では隣にいる人間が壮絶な背景を持ってることはなかなか想像できんもんよ

からわざわざ苦しいネガティブ感情に囚われてあまつさえそれを後生大事人生原動力になんかしちゃってる人を見ると

ちょっとその不幸に酔ってる厨二病っぽい幼稚な人のように見えて「マジでそのノリなの?やめなよ」となるのは当然っちゃ当然よ

現代社会ならもっと楽に生きられる気の持ちようや認識の変え方が無数にあるはずなのに一顧だにせずネガティブ思考にへばりついていくのはもう特殊趣味領域もしくは精神疾患一種だよ

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