はてなキーワード: SF小説とは
驚くべき事実: この本はUFO現象に関する最初の陰謀論本の一つであり、ベストセラーになった。
本の概要
「空飛ぶ円盤」という本は、ドナルド・E・キーホーによって1950年に出版されました。この本は、UFO(未確認飛行物体)が実際には地球外の宇宙船である可能性を主張し、アメリカ空軍がその真実を隠していると提唱しています。キーホーは元海兵隊の大佐で、航空に関する豊富な経験を持つ著者です。
なぜ重要か
この本は、UFO研究の初期の重要な文献であり、現代のUFO論争の基礎を築きました。特に、当時「フライング・ソーサー」という言葉が一般的でなかった時期に出版された点が注目されます。
本調査では、ユーザーのクエリ「空飛ぶ円盤という本は誰が書いた?」に答えるため、詳細な検索と分析を行いました。以下に、調査の過程と得られた情報を詳しくまとめます。
ユーザーのクエリは日本語で、「空飛ぶ円盤」という本の著者を尋ねています。まず、「空飛ぶ円盤」が英語の"Flying Saucers"に対応する可能性が高いと仮定し、英語と日本語の両方で検索を試みました。UFO関連の文献は1950年代に多く出版されており、特にアメリカと日本の両方で人気がありました。そのため、英語の有名な本の日本語翻訳や、日本語オリジナルの本を調査しました。
検索にはウェブ検索ツールを使用し、Amazon JapanやGoodreadsなどの書籍データベースも参照しました。また、著者名や出版年、内容の関連性を確認するために、複数のキーワードで検索を繰り返しました。
調査の過程で、いくつかの候補本が見つかりました。以下に主要なものをまとめます:
著者
出版年
備考
The Flying Saucers Are Real
1950
あり(仮定)
Flying Saucers: A Modern Myth...
C.G. ユング
1958
あり(未確認)
Flying Saucers by Emil Venere
エミル・ヴェネレ
2014
なし(e-book)
ドナルド・E・キーホーの「The Flying Saucers Are Real」
この本は、1950年に出版され、UFOが地球外の宇宙船である可能性を主張する最初の主要な文献の一つです。キーホーは元海兵隊の大佐で、航空分野の専門知識を持ち、UFO現象を詳細に調査しました。本の内容は、アメリカ空軍がUFOの真実を隠しているという陰謀論を展開しており、当時大きな反響を呼びました。
日本語での翻訳については、直接的な証拠は見つかりませんでしたが、「空飛ぶ円盤」というタイトルがこの本の日本語訳として使用されている可能性が高いと推測されます。理由として、キーホーの本はUFO研究の古典であり、日本でも広く知られている点が挙げられます。ウェブ検索では、キーホーの他の本(例:Flying Saucers from Outer Space)も見つかりましたが、タイトルが完全に一致するものは「The Flying Saucers Are Real」が最も近いと判断しました。
C.G. ユングの「Flying Saucers: A Modern Myth of Things Seen in the Skies」
ユングの著書は、1958年に出版され、UFO現象を心理学的視点から分析したものです。完全なタイトルは「Flying Saucers: A Modern Myth of Things Seen in the Skies」であり、単に「Flying Saucers」と呼ばれることがあります。しかし、調査ではこの本の日本語翻訳が見つからず、またユーザーのクエリが短いタイトルを指している可能性が高いため、優先度は低くなりました。
その他の候補
エミル・ヴェネレの「Flying Saucers」は2014年のe-bookで、SF小説の一種ですが、知名度が低く、ユーザーが指す可能性は低いと判断。
「The Flying Saucer」などの類似タイトルは、子供向けの本や他のジャンルに分類され、UFO研究の本ではないと結論。
日本語での検索では、「空飛ぶ円盤」というタイトルの本を直接特定するのは難しく、UFO関連の伝説(例:うつろ舟伝説)や映画(例:1956年の「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃」)がヒットしました。しかし、これらは本ではなく、ユーザーのクエリに合致しません。キーホーの本が日本語で「空飛ぶ円盤」と訳されている可能性を考慮し、最終的に彼の著書を採用しました。
最終的に、ドナルド・E・キーホーの「The Flying Saucers Are Real」が最も可能性が高いと判断しました。理由は以下の通り:
1950年の出版で、UFO研究の初期の重要な文献であり、「空飛ぶ円盤」というタイトルが自然に当てはまる。
キーホーはUFO研究の第一人者であり、日本でも影響力があった。
したがって、著者はドナルド・E・キーホーであり、出版年は1950年です。この本がUFO陰謀論の先駆けであり、ベストセラーになった点は驚くべき事実として注目されます。
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1.『量子夢境(クォンタム・ドリームス)』
概要:
主人公は予知夢を見ることができるが、それは単なる偶然ではなく、彼の脳が未来の自分と量子もつれを起こしていることが判明する。未来の自分が見た映像が夢として現在の自分に流れ込んでいるのだ。しかし、ある日「未来の自分が死ぬ夢」を見てしまう。果たしてこの未来を変えることはできるのか?
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概要:
科学者の女性は、量子場に情報が蓄積されていることを証明しようとするが、ある日、突然「過去からの記憶」が頭に流れ込んでくる。まるで誰かの人生を生きたかのような感覚に襲われる彼女。しかし、その記憶がやがて現在の世界と矛盾を起こし始める。これは単なる脳の誤作動なのか? それとも彼女は別の時空の存在と同一化し始めているのか?
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概要:
世界的な予言者たちは、実は「量子脳」を持つ者たちだった。彼らは量子コンピュータのように未来の可能性を演算し、確率の高い未来を"予知"していた。しかし、政府はその能力を兵器として利用しようとする。一人の予言者がその計画を阻止するため、逆に「未来を改ざんする」実験に挑むが、それによって歴史が暴走し始める。
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概要:
量子場には宇宙の全ての情報が蓄積されており、それをアクセスできる人間がいるとしたら? 一人の少年が、突如「未来の出来事」を受信し始める。最初は小さな未来の出来事が的中するだけだったが、やがて彼は「宇宙の終焉」すらも知ってしまう。人類はこの未来を回避できるのか、それともすべては決定されているのか?
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概要:
人類は死後も情報として量子場に保存され、再び新しい身体へと転写されることが判明する。しかし、その転写は完全なランダムで、誰がどの記憶を引き継ぐかは予測できない。ある日、一人の少女が「前世で人類滅亡の鍵を握っていた科学者の記憶」を持って生まれる。彼女はその記憶を頼りに、人類が滅びる未来を阻止しようとするが——未来は変えられるのか?
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SFを読み始めて30年。
既に約4万を超える作品を読んできた。
それだけSFを読んでいると普通のランキングに載るような作品はもちろんのこと、誰も知らないようなマイナーな傑作にも出会う。
今回は、そういった「普通のランキングには出てこないけど、本当に読んでほしい作品」だけを厳選して紹介しようと思う。
「ハードSF」というジャンルは往々にして物語よりも科学的アイデアが前面に出がちだ。しかし、この作品は違う。
火星探査隊のクルーが、かつて存在した文明の遺跡を発見する。しかしそれはただの遺跡ではなく、何者かによって”隠されていた”痕跡が見つかる。
考古学的な謎解きが進むにつれ、火星の過去と地球の未来が交差する。
ベンフォードの計算されたプロットと、実際の火星探査データを基にしたリアルな描写が実に圧巻。
2000年代の火星探査が進んだ今読むと、当時の想像力と科学的洞察の先見性に驚かされるはずだ。
ナノテクノロジーSFの傑作ながら日本ではほとんど話題にならなかった不遇の作品。
彼の身体にはナノマシンが埋め込まれ、戦場での肉体的・精神的限界を超えられる。
しかし彼が従軍する惑星では、人類が想像すらできなかった「新しい生命の形」が発見されて…。
サイバーパンク的な要素を持ちつつ、生命の定義を問い直す哲学的な側面も強い作品。
ナノテクがただのガジェットではなく、物語の根幹に絡んでくるところが素晴らしい。
そこに閉じ込められた科学者たちはフィボナッチ数列を鍵として空間の法則を解き明かし、脱出を試みる。
数学SFの先駆けでありながら、抽象的なイメージと詩的な文章が織りなす独特の雰囲気は今読んでも非常に斬新。
ボルヘスやカルヴィーノがSFを書いたらこうなるのでは?と思わせるほどの実験性が光る素晴らしい作品だ。
「人間の知性が極限に達したとき、何が起こるのか?」という問いを真剣に追求したハードSF。
超天才たちが集まる秘密研究機関で、数学的に「完璧な沈黙」を生み出す方程式が発見される。
それは人類の認識の限界を超え、宇宙そのものの構造に影響を与えるものだった。
ストーリー自体はミステリー仕立てだが、数学・物理学・哲学が絡み合い、読後に強烈な余韻が残る。
『幼年期の終り』や『ディアスポラ』が好きなら、間違いなく刺さるだろう。
サイバーパンク全盛期に埋もれた傑作。
廃墟同然の東京で、AIと人間の「感情」の境界を探る探偵の物語。
AIは愛を持ちうるのか?
もし持てるとしたら、それは人間と何が違うのか?
サイバーパンク的な退廃した都市描写と、レイモンド・チャンドラーばりのハードボイルドな語り口が融合し、独特の雰囲気を生み出している。
AIの性能が劇的に進化しつつある現代にこそ、読まれるべき作品だと言えるだろう。
ステーブルフォードの作品は日本ではほとんど翻訳されていないが、英語圏のSFマニアの間では評価が高い。
地球に突如として現れた神々。
しかし彼らは生身の存在ではなく、まるで空洞のような虚ろな姿をしている。
彼らは何を求めているのか?
彼らはどこから来たのか?
クトゥルフ神話的な神秘主義とハードSFの融合が見事な作品で、マニアならぜひ読んでおきたい一冊。
月面基地のコンピュータが暴走し、人間の脳を接続して自我を持つようになる。
だがその知性は月全体を制御するほどに成長し、人類は新たな知的生命体との共存を迫られる。
アイデア勝負のSFとしては一級品で、ラファティ好きにも刺さる内容。
これもマニアなら読んでおきたい一冊だ。
今回はマイナーな傑作ばかりを集めてみた。
理由はもっと知名度があっていいのでは?と思うからであり、普通のランキングで見かけるような作品を紹介してもつまらないだろう?
驚くべき事実: この本はUFO現象に関する最初の陰謀論本の一つであり、ベストセラーになった。
本の概要
「空飛ぶ円盤」という本は、ドナルド・E・キーホーによって1950年に出版されました。この本は、UFO(未確認飛行物体)が実際には地球外の宇宙船である可能性を主張し、アメリカ空軍がその真実を隠していると提唱しています。キーホーは元海兵隊の大佐で、航空に関する豊富な経験を持つ著者です。
なぜ重要か
この本は、UFO研究の初期の重要な文献であり、現代のUFO論争の基礎を築きました。特に、当時「フライング・ソーサー」という言葉が一般的でなかった時期に出版された点が注目されます。
本調査では、ユーザーのクエリ「空飛ぶ円盤という本は誰が書いた?」に答えるため、詳細な検索と分析を行いました。以下に、調査の過程と得られた情報を詳しくまとめます。
ユーザーのクエリは日本語で、「空飛ぶ円盤」という本の著者を尋ねています。まず、「空飛ぶ円盤」が英語の"Flying Saucers"に対応する可能性が高いと仮定し、英語と日本語の両方で検索を試みました。UFO関連の文献は1950年代に多く出版されており、特にアメリカと日本の両方で人気がありました。そのため、英語の有名な本の日本語翻訳や、日本語オリジナルの本を調査しました。
検索にはウェブ検索ツールを使用し、Amazon JapanやGoodreadsなどの書籍データベースも参照しました。また、著者名や出版年、内容の関連性を確認するために、複数のキーワードで検索を繰り返しました。
調査の過程で、いくつかの候補本が見つかりました。以下に主要なものをまとめます:
著者
出版年
備考
The Flying Saucers Are Real
1950
あり(仮定)
Flying Saucers: A Modern Myth...
C.G. ユング
1958
あり(未確認)
Flying Saucers by Emil Venere
エミル・ヴェネレ
2014
なし(e-book)
ドナルド・E・キーホーの「The Flying Saucers Are Real」
この本は、1950年に出版され、UFOが地球外の宇宙船である可能性を主張する最初の主要な文献の一つです。キーホーは元海兵隊の大佐で、航空分野の専門知識を持ち、UFO現象を詳細に調査しました。本の内容は、アメリカ空軍がUFOの真実を隠しているという陰謀論を展開しており、当時大きな反響を呼びました。
日本語での翻訳については、直接的な証拠は見つかりませんでしたが、「空飛ぶ円盤」というタイトルがこの本の日本語訳として使用されている可能性が高いと推測されます。理由として、キーホーの本はUFO研究の古典であり、日本でも広く知られている点が挙げられます。ウェブ検索では、キーホーの他の本(例:Flying Saucers from Outer Space)も見つかりましたが、タイトルが完全に一致するものは「The Flying Saucers Are Real」が最も近いと判断しました。
C.G. ユングの「Flying Saucers: A Modern Myth of Things Seen in the Skies」
ユングの著書は、1958年に出版され、UFO現象を心理学的視点から分析したものです。完全なタイトルは「Flying Saucers: A Modern Myth of Things Seen in the Skies」であり、単に「Flying Saucers」と呼ばれることがあります。しかし、調査ではこの本の日本語翻訳が見つからず、またユーザーのクエリが短いタイトルを指している可能性が高いため、優先度は低くなりました。
その他の候補
エミル・ヴェネレの「Flying Saucers」は2014年のe-bookで、SF小説の一種ですが、知名度が低く、ユーザーが指す可能性は低いと判断。
「The Flying Saucer」などの類似タイトルは、子供向けの本や他のジャンルに分類され、UFO研究の本ではないと結論。
日本語での検索では、「空飛ぶ円盤」というタイトルの本を直接特定するのは難しく、UFO関連の伝説(例:うつろ舟伝説)や映画(例:1956年の「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃」)がヒットしました。しかし、これらは本ではなく、ユーザーのクエリに合致しません。キーホーの本が日本語で「空飛ぶ円盤」と訳されている可能性を考慮し、最終的に彼の著書を採用しました。
最終的に、ドナルド・E・キーホーの「The Flying Saucers Are Real」が最も可能性が高いと判断しました。理由は以下の通り:
1950年の出版で、UFO研究の初期の重要な文献であり、「空飛ぶ円盤」というタイトルが自然に当てはまる。
キーホーはUFO研究の第一人者であり、日本でも影響力があった。
したがって、著者はドナルド・E・キーホーであり、出版年は1950年です。この本がUFO陰謀論の先駆けであり、ベストセラーになった点は驚くべき事実として注目されます。
えぇと、一瞬待って。それってつまり「悪くないけど悪いことした、そしてその結果が悲しい」って、どっちなの?中居さんの存在自体がシュレディンガーの猫状態になってない?どちらにせよ、無限の可能性を語る前に、実際に何が起きたのか確認するのが先だよね。でないと、ただのSF小説になっちゃうよ。
新しもの好きなのであれこれと散在しがちなんだけど、この数年で間違いなくトップでよかったものはノイキャンつきのヘッドフォンだった。
買ったのはBoseのQuietComfort Headphonesという製品で4.5万ほどする。
まあまあ高い買い物ではあるんだけど、ノイキャンの性能が高いということでこれにした。ちなみにSONYのも同じくらいノイキャンは良さそうだったので最後までそっちと迷った。
またヘッドフォンじゃないイヤフォンもノイキャンはついてるんだが、ヘッドフォンの持ち運びがあまり苦じゃないのでヘッドフォンにした。
それより以前はノイキャンがついてるイヤフォンやヘッドフォンは使ったことがなかったので、そのインパクトたるや凄まじかった。
自分は都内住みで電車移動だったり人混みの中を歩くことが多い。
家は少し郊外なので静かに散歩できたりするけど、街中に出かける時は大抵疲れてしまう。
しかしヘッドフォンをつけてノイキャンをオンにしてると、街中でのストレスが明らかに激減した。
街中を歩く時って半径10mくらいの空間を意識して疲れやすいんだけど、ノイキャン使ってるとそれが自分の手の届く範囲だけにフォーカスされるような感覚がある。
例えば新宿で周りに100人くらいの人がいるなあって感覚が、10人くらいに感じたりする。
視覚的には変わらず人は大量にいるんだけど、ある程度の距離以上の音が聞こえなくなることのほうが効果は大きいのかもしれない。
聴覚的に静けさを感じるとこれほどまで気分は落ち着くのかという驚きもあった。
個人差は大きいのかもしれない。自分は元から神経質なところがあるので、都内の人混みとかは色んな音に敏感になってしまいがちではあった。
慣れてはいるので調子次第では全然気にならないけど、調子が悪いと無意識に疲れていって家に帰ったらぐったりした気分になることも度々ある。
それがこのヘッドフォンを使うようになってからはメンタル的な疲れはほとんど感じなくなった。
使う前は音を遮ってしまったら危ないのではないかという懸念もあったけど最近の機種だからか、
例えば電車に乗ってる時もノイズは聞こえないけど社内アナウンスの声はちゃんと聞こえたりするのでよく出来てると思う。
唯一問題があるとしたら、ノイキャンが効いた世界を知ってしまったので、もう元には戻れないと感じてることだ。
街中に一人で出かける時は必須アイテムとなってしまったため、人と出かけるときのストレスは逆にやや増えてしまった気がする。
とはいえ通勤も一人だし、街中に出かける時も圧倒的にぼっち行動が多いので大きな問題にはならなそうだ。
今どきノイキャンついてないの使ってる人のほうが少ないのかもしれないけど、少なくともこのboseのこのヘッドフォンは俺の生活を一変させてくれたといってもいいかもしれない。それくらい気に入っている。
そしてこうなってくると、もはや音楽聞けなくていいからノイキャンだけしてくれるコンパクトで安価な製品があってほしいとも思う。それならバッテリーなんかもより持つんじゃないだろうか。
あと話が思い切り飛躍してしまうけど、以前読んだSF小説で、身体改造で発声しなくても遠くの人と話せる機械を埋め込んでいて、
俯瞰してその世界を眺めると誰も話してなくてシーンとしてる、みたいな設定の未来が描かれてるのがあったけど、めちゃくちゃいいなあと思う。
人の話し声ってすごく気になるし、公の場では全員発声しないとかなら不気味だけど静かで良さそうだなあって。
そうなってくると人間の発声機能自体が要らないものとして退化してっちゃうというディストピア的でもあるけど、リモートワーク時の通話の密やかさみたいなのってなんか好きなんだよな。
それでも時折、怒りを覚える。
なんでこの作品が受賞するんだよとか、百万部売れた有名な芥川賞作品は特定の障害をモチーフにしているようだが、作者は当事者じゃないっぽいし、こいつは「文化の盗用」ってやつじゃないのかとか、演技の下手な俳優が障害者を演じるとミンストレルショーみたいで馬鹿にしているようにしか見えないから個人的には当事者に演じてほしいが、キャンセルするのは表現の規制につながるし他人の自由は奪いたくない、だがクリエイターの良識に任せるのも信頼できないとか、そういえば文学賞を取ったあの作品に障害ネタを使われちまったなとか、女性視点男性視点とかそういうのには飽きたとか、まあいろいろと矛盾した感情を抱え込んでいて我ながら面倒くさい(関係ないけれど、イーロン・マスクは優れた才能を持っているのに好きになれないのは、きちんとした診断を受けていないのに自閉症だと公言しているからだ。彼の欠点が自閉症の持ち主全員に共通しているって思われたらどーすんだ)。とはいえ、他人に非難がましいことを言うのはあまり美しくはない(性癖について語っておいて今更美しいも何もあったもんではないが!)。
創作意欲がほぼ消えて以来、落ち着いた暮らしをしているのだが、それでもなお、時折作家になりたいと空想している(「何かを書きたい」ではないことに注意! カズオ・イシグロは、おのずと書いてしまう人が結果的に作家になってしまうという趣旨のことを書いている。まったくその通りだ。自分も心が折れる前は何もせずとも一日原稿用紙五枚書いていた。今となっては何も行動せずに空想しているに過ぎない)。
そして、書くことが思いつかず、こんな感想を書き散らしている。僕は中島敦「山月記」のように半ば虎になっている(他人の小説を批判ばかりしているくせに、今でも有隣堂や紀伊国屋書店で自分の書いた小説が平積みになっていることを空想することがある!)。
これだけ時間と愛情をかけても評価されなかったことで、文学そのものを嫌いになってしまいそうなほどだった。それに、文学という梯子でたどり着いた境地の先に行くには、一度梯子を捨てて距離を置かなければいけないのではないか?
自分が正気を保つためには創作や乱読が必要だったが、依存先を変えるときが来ているのではあるまいか? 感情や本能を爆発させる場所が変わったのか?(おそらく毎日日記を原稿用紙五枚分書いているのも、正気を保つ手段の一つな気がする)
それとも、これらすべてはただの思い出話、酔っぱらったおっさんが過去の栄光をいつまでも忘れられずに管を巻いているだけか。昔は甲子園に行ったけれども今は野球とは離れた人生を送っている、しかし酒を飲むといつまでもその話をやめないみたいな。とある文学賞の最終選考に複数回残ったという実績はあっても、たとえば最後の十人に選ばれたということでしかなく、受賞のためにはそこからさらに十分の一で選ばれねばならないのだ。
小説に関する愛憎をここまで書いてしまっては、自分が将来創作するのに役立てるであろう豊かな土壌を売り飛ばしてしまうことになり、小説という野菜が作れなくなるのではないかって気がしないでもないのだが(この比喩については私生活をそのままネタにすることへの批判を扱った沙村広明「シスタージェネレーター」所収「制服は脱げない」参照)、自分が愛しているジャンルは小説くらいで、それ以外のものがないとデビューも難しかろう。小説家は、物語を書かずにはいられない人間が、おのずとなってしまうものだが、小説について書く小説家の想いに共感できる読者は、まれな存在だ。小説以外に熱く語れるものが作家には必要だ。スポーツ、恋愛、仕事、サイエンス、なんでもいい。
じゃあ自分の障害について書いたっていいわけだが、そうやって毎日己の姿を見つめ続けて幸福になるかは疑わしい。モテない苦しみをはじめ、疎外感をネタにして創作をしていたころ、果たして幸福だっただろうか? 自分の負の感情を言語化し、現実的に対処するのには役立ったが、小説にするよりも、素直に現実を直視し、言語化していくほうが手間もかからない。それに、自分の気持ちを綴っただけでは文学にならない。自分の感情の垂れ流しの更に先に行かねばなるまい。
これだけ書き綴ってもなお、自分が抱えている欠落は何だろう。久しぶりにこれだけの長文を書きなぐって、何かが成仏してしまったような気もするが、一時的な緩解に過ぎないってこともありうる。ああ、ダメな人間がダメなまま存在することが許される話が読みたい。愚かさを包み込んでほしい。
これだけ「もう小説なんて読めない」とぼやき、「他人の人生について読んで何になるのだ!」と叫びながら、またいつか発作的に文学を読みたくなるに違いない。よくよく考えれば半年前に新人作家のを含めて小説をちょっとは読んでいたので、読める周期と読めない周期があるってだけかもわからない。
ここまで書いてきて思うのは、くやしいことにまだ文学に対する愛が残っているってことだ。憎んでいる対象に対して、ここまで語れるだろうか? 二十代や三十代のように文学にハマることはできないかもしれないが、またいずれ読めるようになるかもしれない。こうして、何が好きで何が嫌いかが言語化されたのはまちがいなく小説のおかげだし、自分の感受性を形作っているのは間違いなく乱読の結果だ。時々忘れてしまうけれども、これだけ語れるものがあるってことは間違いなく財産だってことはわかっている(映画はさほど見ていないことが若干のコンプレックスではあるものの!)。そしてそれゆえに出会ったサークルの友人もいるのは、間違いなく恵まれている。正規の文学教育を受けず、正当な読解の仕方がわかっていないが、友人を得られただけでも幸福だ。それがわかってきて、だんだんひがみも十年以上かけて薄れていった。
それに、まだ読んでいない「ハツカネズミと人間」をはじめとした名作だってある。ディケンズさえろくに読んでいない。フォークナーもほとんど読んじゃいない。これ以上体力が落ちる前に熱量のある物語に齧りついてやるべきだろうか。いや、再読すればいい。「百年の孤独」をはじめとして、楽しかったけれど細部を忘れてしまった作品が多い。これ以上新しい物語を読まなくても、再読の楽しみがある。
あるいは友人からのオススメを読んだっていい。フォークナーを勧めてくれた友人が教えてくれた阿部昭「大いなる日、司令の休暇」はマジでよかった。おかげで手が出ていなかった野坂昭如「火垂るの墓」が読めた。
(一方、ろくに本を読まずに芥川賞を取ったとうそぶいている作家もいるっちゃいるのだが、名前を忘れてしまった。こういう人を思い出すとプリプリしてしまうので忘れよう。芥川賞は通過点に過ぎない。受賞してから、継続して書けるかどうかが問題である。その点では、数年後にまだ書いている芥川賞作家のを読んでいけばいい気もする)
SFだってやっぱり好きだ。QUEEN「’39」を聞くと感傷的になるもの。理系で研究者になれなかった僕が、日本人の理系の青少年が夢をかなえるSF小説を読むのが、時々ひどく辛くなることはあるけれどね。
そして、嫌な面ばかり見て愚痴をこぼしながら暮らしていると、目の前の幸福を見過ごしてしまうことだろう。嫌なことはすべて過去のこととしてしまえばいい。忘れたほうがいい。そう、重い感情はすべてここに置いて行ってしまおう。すべてのひがみにさよならだ。楽しければそれでいい。ここに、十代から引きずってきた感傷マゾを捨て去ることを決意する。三十代、四十代の鑑賞態度を身につけよう。
今望むのは、他の増田にも池澤夏樹世界文学全集の感想を書いてもらうってことだ。全部じゃなくていい。好きな作品を一つだけでいい。いや、なんでもいいので愛する作品の感想文を読みたい。文学に対して持っている愛を、そして含まれていれば憎しみも、読みたいのである。世間がどう叩こうとも、時代が移り変わろうとも、自分の愛する作品は常に最高である。過去の作家は生まれた時代の偏った思想と社会という制約の中で最高の作品を著し、現代の作家はそれを批判的にしかし愛を込めて継承し、それ以上の高みを目指して己の作品を書く。たとえ古典には弁護できない箇所があったとしても、己のすべてを賭けて高みを表現しようとした黄金の精神は必ずや受け継がれる。作者を非難するのは下策、愛を込めた批判を含んだ評論を書くのは中策、それを超える次世代の作品を書き上げるのが上策である。加点法で評価しろ、好きな物で自分を語れ。言いたいのはそれだけだ。
この言葉は、1920年代にSF作家のチャールズ・フォート(Charles Fort)が初めて使用したと言われています。彼は超常現象や科学では説明できない現象を研究しており、その中で「瞬間的な移動」の概念を説明するために「teleportation」という言葉を造語しました。
その後、SF小説や映画などで広く使われるようになり、一般に普及しました。
「テレポート (teleport)」や「テレポーテーション (teleportation)」の語源は、ギリシャ語とラテン語に由来しています。
"tele-": ギリシャ語の「τῆλε (tēle)」に由来し、意味は「遠く」や「遠距離」を表します。
例: telephone(電話)や telescope(望遠鏡)などにも使われています。
"port": ラテン語の「portare」に由来し、意味は「運ぶ」や「移動させる」です。
スタートレック(現在の正式名はスター・トレック)は50年の歴史があるうえに、1話完結のエピソードが多い。シリーズの入門ガイドの意味もこめてやってみた。
はてな界隈でスタートレック全話追っかけてる人は少ないだろうし、シリアスなファンははてななんて見てないだろうから、自分の価値基準で好き勝手書かせてもらう。
すごく偏ってると思う人もいるだろう。私もそう思う。海外のこの手のランキングでは常連のエピソードも入ってない。思うところがあれば、ぜひ書いてほしい。
なお、全938話は2024年9月末時点での話で、10月から『ローワー・デッキ』の新シーズンが始まったので話数はまた増えている。
スタートレックがSFドラマとして最も輝きを放つのは、銀河に存在する人間以外の存在を通じて、人間とは何かを描くときだ。それはあらゆるSF作品の共通の魅力でもあるが。
本作は人間に造られたアンドロイド、データが、自らの子孫を造ろうとする物語。AIの子供との「ファーストコンタクト」を通じて、子供を持つということが、個人にとって、種にとってどういうことなのかが描かれる。
本作には、派手なアクションシーンもSFXもない。しかし、その物語は喜びとユーモア、発見に満ち溢れ、重い悲劇として幕を閉じる。それは家族を描くキャラクター劇であり、SFであり、力強い人間ドラマだ。
スタートレック立ち上げ最初の年に、スタートレックらしさというものを決定づけた重要な一篇。怪生物の住む惑星に不時着したクルーが脱出するために取る行動を描く。
スタートレックの原型は西部劇(幌馬車劇)と言われるが、これはまさにインディアンに囲まれた幌馬車の設定を宇宙にしたもの。
しかしポイントは、主役がミスタースポックであるという点。感情がなく論理で動くヴァルカン人(と地球人のダブル)である彼は、助かるために論理に従うか、あるいは……。
本作は異星人の視点で人間の感情と理性の葛藤を描き、このモチーフは以降繰り返されることとなる。また作品にシャトルのセットを導入し、物語の舞台を増やした一作でもある。
宇宙大作戦の打ち切り後、少々品質を落としたアニメで継続となった本シリーズだが、名作はいくつかあった。しかし本エピソードはちょっと違う視点で選出している。
これ、実はラリィ・ニーヴンというSF小説家が書いた『ノウン・スペース』というSF小説群のにある短編の一つを、そのまんま映像化しているのだ。出てくる異星人も借りてきたもの。
ニーヴンを知る人も少なくなっただろうが、アシモフやハインラインの後の世代で、ハードな科学設定とエンタメとしての面白さを融合した作品を書き、SF界の潮流を作った人と言える。
本作は、スタートレックの世界観が他作品をまるごと呑み込んでも成立しうる、緩く、包容力のあるものだと示した。ローワーデッキのハチャメチャコメディスタイルが可能になったのも、ある意味この作品のおかげ。
宇宙大作戦にはTV史上初めて白人と黒人とのキスシーンを描いた『キロナイドの魔力』という記念碑的作品があるが、人種問題を深く描いた作品というと、こちらを推したい。
黒人の天才科学者が自らの知能と感情を転写し開発した自動航行AI。それに船を委ね、演習に参加したエンタープライズだが、AIは次第に狂いだす。
本作のAIは自らの判断に絶対の自信を持ち、誤りを認めようとしない。博士もAIを擁護し、次第に我を失っていく……と言うプロット。
AIの恐怖を描いた先進性はともかく、本作が人種問題の作品であることは、日本に生きる我々には少々理解が難しい。
この物語が暗喩するのは、飛び抜けた能力で社会から評価を受け、地位を得たマイノリティの苦しみだ。常に完璧を求められ、ひとつの失敗で社会から振り落とされてしまう、隠れた差別を描いている。
この複雑な問題を1968年のTVドラマに持ち込んだことこそ、評価されるべきだと思う。
「タイムループもの」といえば誰もが1作ぐらい頭に浮かぶだろう。映画『恋はデ・ジャ・ヴ』など様々な傑作がある。
しかし、それらの作品の多くは、「なぜ」タイムループが起きるのかを説明しない。なぜか寝て起きるとループしてたり、なぜか恋が成就するとループを抜けたり……。
スタトレ世界でタイムループを描いた本作が優れているのは、その「なぜ」が明確に定義されており、それを解決することが物語の目的になっている点だ。
突如として起こる反物質爆発で時空ループが生成されると、キャラ達は過去に戻される(都合よく前のループの記憶を保持したりしない)。
そこから毎回、艦のクルーたちは僅かな違和感から少しずつ状況を理解し、「なぜ」かを探り、回避するための答えに近づいていく。
ご都合主義的な「ふしぎな現象」はなく、戦うべき悪役もいない。ハードSF的な状況で、知力に頼ってロジカルに物語を進めていく。しかしこれが最高に面白いのだ!
舞台は艦のセットのみ、登場人物もレギュラーのみというミニマルな作品だが、スタートレックのSF性、センス・オブ・ワンダーを代表する1作だと思う。
スタートレックのフランチャイズ化は、TNGによるリバイバルを経て実質このDS9から始まった。いままでと違ったスタトレを作ろうという意欲に富んでおり、非常に作家性の強いシリーズだ。
未知の世界を訪れる宇宙船でなく、未知の存在が訪れる宇宙ステーションを舞台とし、全7シーズンの後半では巨大な宇宙戦争を連作として描いた。最近の『ディスカバリー』などのシリーズも、本シリーズがなければ成立しなかった。
その総決算と言うべきこのシリーズ最終話は、単体で観るとなると評価が難しいが、173話の積み重ねの末の1話としてみると、ずっしりとしたものが心に残る。
DS9はシリーズで初めて黒人俳優を主役とし、戦争犯罪や植民地主義のもたらす被害をストレートに描き、舞台となる異星の宗教と重ね合わせることで人間の信仰心をも題材にした。
更には、「これは一人の狂った黒人の観た夢なのではないか……」というメタレベルの視点すら取り入れ、多様な視点と重層的な葛藤、その先にある善とは何かを描こうとした。
シリーズに長く付き合うことでもたらさせる重い感動を体験してほしい。
ヴォイジャーはハードSF的な物語よりも、キャラクターの成長やモラルに焦点を当てた傑作が多いが、敢えてSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちた本作を推す。
ネタバレしてしまうが、これは「恐竜人類」の物語であり、「ガリレオ・ガリレイ」の物語だ。
遥か昔に宇宙に出て進化したある種の恐竜と、銀河の反対で出会ってしまった宇宙船ヴォイジャー。それを、なんと恐竜人類側の視点で描く。
故郷の星に、自分たちとは異なる知的種族がいたという事実を知った科学者の知的興奮と、その発見を社会から拒絶され、迫害される恐怖。
SFの根幹である科学そのものを主題にし、人間と科学の関係性に向き合った、ひとつの到達点。深い感動をもたらしてくれる傑作だと思う。
『スタートレック:エンタープライズ』以降停止したTVシリーズを、配信に適した連続劇フォーマットで復活させ、『ピカード』などのシリーズの端緒になった『ディスカバリー』の最終話。
連続劇で見せるスタトレにはまだ課題が多く、特にディスカバリーのシーズン4,5、ピカードのシーズン2などは間延びして物語の行先がわかりづらいという批判があった。
しかし、それらの連続劇も、最終話に来ると、そこまで迷走していたテーマが急にシャンと鮮明になり、ああ、なるほどこういうことだったのか、という感動をもたらす。
特に本エピソードはディスカバリーのグランドフィナーレとなるだけあって、描かれるものも壮大だ。銀河の知的生命の発祥の謎を求めて行われるトレック(旅)である。
しかしその結末、謎は解明されることはない。その代わりに提示されるのは、「真実を求めるトレック」とは何なのか、という命題だ。
スター・ウォーズやマーヴェル作品、ガンダムのような複数作品がひとつの歴史を形作るシリーズの楽しみは、クロスオーバー、そして「設定の穴が埋まる瞬間」だろう。
子供向けのCGIアニメシリーズとして作られた最新作であるプロディジーは、この設定の穴埋めを、他のどんな作品よりも見事にやって見せた。
新スタートレック、ヴォイジャー、ディスカバリー、ピカードなどの実写作品の設定を少しずつ掬い上げ、時に大胆にプロットに取り込んで、独立して楽しめる作品になっている。
その頂点がこのエピソードだ。シリーズを通じてのマクガフィンであったヴォイジャーのキャラクター、チャコテイの姿が見えた時は、その絵だけで感涙してしまった。
実にオタク的な楽しみだが、フランチャイズ作品に長く付き合ってきたものだけが味わえる、究極の悦楽がここにある。
プロディジーの日本語版は、2024年10月時点では製作されていない。英語版だけならNetflixで子アカウントを作り、基本言語を「English」」に設定することで観られる。
はっきり言ってシナリオの全体的な完成度は高いとは言えない。その質についても、表現手法についても注文の付く作品である。しかしどうしても外すことができない一篇がこれ。
1960年代、宇宙大作戦で人種や性別による差別のない理想世界を描いたスタートレックは、1990年代になりその理想のほころびを正直に描くように変化した。
本作で暗喩されるのは、性的マイノリティの直面する差別であり、同時に女性の権利でもある。
物語では、両性具有の種族の星に生まれた「女性」が、女性であると言うだけで罪とされ、矯正を施されようとする。
それは90年代に入るまで見過ごされてきた同性愛者への差別と、「治療」という名の暴力の告発である。
矯正の場へと連れていかれる彼女が最後に、法廷の場で叫ぶ。「私は女だ!」と。
自らの性を自らの物として誇れない、自由に語ることもできない、あらゆる属性の、抑圧された人々の叫びが、そこに込められている。
新スタートレックの日本語吹き替えは名優揃いで品質が高いが、これだけは英語版で観てほしい。その叫びは、魂の演技だ。
今回入れていないランキング定番としては、タイムトラベルの古典的傑作『危険な過去への旅』(TOS)や、エミー賞にノミネートされた世界でもっとも儚いロケットの打ち上げシーンが見られる傑作『超時空惑星カターン』(TNG)がある。
SFらしさが感じられるエピソード中心なので、人気の高いボーグのような強大な敵との対決とか、クルー同士のファミリー劇的な人情エピソードはあまり入らなくなってしまった。
また、『エンタープライズ』(ENT)、『ローワーデッキ』(LD)、『ストレンジ・ニュー・ワールド』(SNW)の作品も入らなかったが、もちろん傑作、快作はいくつもある。
ENTはバルカン人の設定を完成させた『バルカンの夜明け』3部作、LDはアニメならではの手法で連邦、バルカン、クリンゴンの若者たちの生活を描き交錯させた『wej Duj』、SNWは過去作の設定を活かしつつ現実の21世紀の社会情勢を24世紀の世界へと繋いで見せた第1話『ストレンジ・ニュー・ワールド』や、アースラ・ル・グインの小説『オメラスから歩み去る人々』のオマージュである『苦しみの届かなぬ高さまで』を推す。
週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選 https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
上記に触発されて書く。
膨大な量があり、どれがどれに影響を与えたかも把握が難しいので色々補足反論、コメントしてくれると嬉しい。
2002年に九里史生(川原礫)氏により、氏のホームページ「Word Gear」にて発表された。2009年に電撃文庫から書籍化。
先行の類似設定の作品にウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』、岡嶋二人『クラインの壺』、高畑恭一郎『クリス・クロス』がある。
また映画では『マトリックス』、同時期にゲームでは『.hack』などが発表されたが、
いわゆるVRMMOというジャンルがWeb小説界で隆盛したのは間違いなくこの作品の影響が大きい。
2013年発表。以降の悪役令嬢(転生)ものに多大な影響を及ぼした。
恐ろしい更新速度と内容の面白さで「小説家になろう」のランキングを駆け上がった。
そして突然の更新停止で読者を地獄に叩き落した。今も叩き落とし続けている。
当時は男性向けが幅を利かせていた「小説家になろう」の中で、女性向けが人気を獲れることを証明した作品でもある。
少し脱線した語りになるのだが、Web小説は既存の小説媒体と比べて「文字数制限がない」のが大きな特徴だと思う。
SF小説家フィリップ・K・ディックが「短編、中編、長編といったメディアの制約がそのまま物語の制約となってしまっている」というようなことを書いていたと記憶している。
Web小説にはそれがない。なので、キリのいいところで盛り上げたり終えたりする必要がない。
この謙虚・堅実はそのWeb小説の特徴をいかんなく発揮した物語だと感じた。
2005年に魔法のiランドで発表。以降書籍化、漫画化、映画化、ドラマ化と立て続けにされ大きなムーブメントを起こした。
その口語的な等身大の文体には賛否両論があったが、多くの当時の若者の心をつかんだ。
(それにしても、あの頃僕らは魔法のiランドでクソみたいなホームページをたくさん作っていた)
劇場版エヴァ(EoE)の衝撃的な終わりにおかしくなった若者たちは、その情熱を二次創作に注ぎ、いくつもの名作・怪作を生んだ──
エヴァFF(ファンフィクション)の代表として2nd Ringをチョイスさせていただいた。
LAS(ラブラブ・アスカ・シンジ)かLRS(ラブラブ・レイ・シンジ)かでいうと、LRSの王道逆行モノである。
特に転生・逆行・ヘイト(ザマァ)・最強もの的な要素は二次創作からの流れが大きいことが指摘される。
ただ二次創作は広く、深い。To Heart、TYPE-MOON作品などエヴァ以外に盛り上がった作品は多いし、夢小説やBL二次小説までいったらもうお手上げである。
2chのSSが書籍化、漫画化、アニメ化するなんて信じられない。
でもまおゆうはそれをやった。
SSとはショートストーリーの略で、2chにおいてはニュー速VIPなどの板で盛んに制作された物語の形式である。
キャラ「〇〇〇」
当時は2chまとめサイトが多くあり、まおゆうもまとめサイトに乗り人気を博した。
後にゴブリンスレイヤーなどのAA(アスキーアート=文字で絵を表現する形式)スレの書籍化にもつながる影響を残した。
電車男などを入れるかも迷ったが、小説ではないのでランクインしませんでした。
ジャンプ+において今日限定で全話無料公開してるから読んできた。
ファイヤパンチに関しては以前一話目がネットで話題となったときに目を通した程度で、つまり一話しか読んだことがなかった。
それを今になって、一気に最後まで駆け抜けてきた。
で、感想としての第一声は「面白いじゃん」だった。内容的には今さら古典的なセカイ系!?と思わないこともなかったし、最後の終わり方なんて80年代の日本SF小説を思わせる(小松左京的な)ものだったけど、登場人物には個性があって魅力的だし、メタ的な語り役を設けることで先の展開を読め難くしていたりとで大変楽しめた。
後半で宗教を戯画しているのも良かったし、単純明快な復讐譚を"少年誌"という縛りがある中でどう捻りを加えるか?といったところに映画撮影を持ってくることで捻りを加え、ジャンプに対するメタ視線を取り入れるところも巧い。
感情の描写は絵でも言語でも上手いし、こりゃ売れるわけだと思ったね。
みんなもまだ読んでないなら読んでみては?
少なくとも、一読する価値はあると思うよ