はてなキーワード: 動物とは
今回のネット炎上、フィクションの動物愛護が行き過ぎてる感はあったね。
動物が酷い目にあう話なら「カチカチ山」の時点で既に実例がある。
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
おい、ちょっと聞いてくれ。X(旧Twitter)でとんでもないポストを見てしまった。
酒で暴れて警察に捕まり一生の禁酒を決めた後輩と飯を食う時に、事前にマスター(仲良い)に
ワイ「あいつたぶんウーロン茶頼むんで、焼酎ちょっとだけ入れてあげてください」
ってお願いしてたことを思い出した。
これ、頭おかしいんじゃないの?
まず、前提としてこの後輩が禁酒を決めた理由は何だ?「酒で暴れて警察に捕まった」だろ。普通の失敗じゃない。人生のターニングポイントになるような、マジモンの深刻な問題があったってことだ。
それを受けて一生の禁酒という、どれだけの覚悟が必要な決断をしたのか。アルコール依存症の治療かもしれんし、暴行事件を起こしたPTSDかもしれん。そのくらい重い話なんだよ。
それをだ、「ウーロン茶にちょっとだけ焼酎を入れてあげてください」って、何を粋がってるんだ?
相手の真剣な努力を、自分の気の利いた悪戯とでも思っているのか?もし後輩が気づかずに飲んで、そこから依存が再発して、また警察沙汰になったらどう責任取るつもりだ?ちょっとしたジョークで済むレベルの話じゃないんだよ。マジで相手の人生ぶっ壊しかねない行為だろ、これ。
相手に害になる可能性のあるもの(アルコール)を、本人の意思に反して密かに投与する。
そして、その行為を発信する。
もし自分の飼い犬が病気で特定のフードを禁止されてるのに、獣医がこっそりその禁止フードを混ぜて「ちょっとしたサプライズ」とかやってたら、どう思う? 即刻、免許剥奪レベルの信用問題だろ。
「人間相手ならOK」というダブルスタンダードが、職業倫理としてありえない。人の心身の健康に対する想像力がこの程度なら、動物に対してもどこかでおざなりな扱いをしてるんじゃないかと勘繰ってしまう。
SNSで流れてくる「武勇伝」の中には、洒落にならないレベルの倫理観欠如が潜んでいる。
これは単なるやらかしじゃなくて、プロフェッショナルの倫理の崩壊だ。獣医師会とか、この手の問題について何も言わないのかね。
この投稿、拡散されて、この獣医師がどういう意図でやったのか、本当に反省してるのか、世間にちゃんと議論されるべきだと思うわ。
チューリッヒ工科大学の実験が明らかにしたのは、情報共有が集合知に与える三つの具体的な有害効果である。
第一の効果:社会的影響による多様性の喪失 人間は社会的動物であり、他者の意見に無意識に影響される。実験では、他者の回答を知った参加者の意見が徐々に収束していく様子が観察された。この収束は、表面的には「合意形成」として肯定的に見えるかもしれないが、実際には多様な視点の消失を意味している。多様性の喪失は、集合知の根本的な前提を破綻させる。
第二の効果:推定範囲の縮小 他者の意見を知ることで、個人の推定範囲が狭くなる現象も確認された。これは認知的アンカリング効果の一種であり、最初に提示された情報が後続の判断に過度な影響を与える心理的バイアスである。結果として、正解が推定範囲の境界近くにある場合、集団全体がその正解を見逃すリスクが高まる。
第三の効果:確信度の誤った上昇 最も興味深く、同時に最も危険な効果が、参加者たちが自分の推測により確信を深めたことである。他者の意見を参考にすることで、自分の判断に対する自信が高まったのだ。しかし、この確信度の上昇は実際の精度の向上を伴っていない。むしろ、誤った確信は修正機会を減少させ、集合知のさらなる悪化を招く。
昔あった動物系四コマとかSNSの動物エッセイ漫画好きだけど個人的に絵柄に思うこと
絵がリアルすぎ→一部を除いて大抵は写真の方が可愛い。漫画じゃなくて写真でそのシーンを見せて欲しい
絵がデフォルメキツすぎ→アニメハム太郎〜プリキュアの妖精くらいデフォルメきついと事前知識なしにその動物として認識できないし、動物よりも作者自身の分身を押し付けられている気分になる
程よくリアル、シンプルなデフォルメ→大人も使える感じの雑貨〜原作初期のハム太郎くらいのデフォルメだと現実の動物と同じくらい愛おしい。
そう考えると、動物名は基本侮蔑語として機能することの方が多いのかも?
犬、猿、豚、鳥、虫、タヌキ、
褒め言葉になる動物を考えてみたが、狼、獅子、虎とかか…、場合によるかもしれんが
あとは空想上の霊獣とかかなあ
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(Embodied Cognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、Cold Intelligence(処理能力)から Warm Intelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
1番 ショート:(乃木坂)早川、演出家のパワハラをラジオ生放送で告発し卒業
2番 サード:(日向坂)正源司、渡辺が46時間TV生放送中にケンカ
3番 ライト:(乃木坂)岡本、未発表のMV流出その他にて活動自粛
4番 DH:(欅坂)平手、脱退。後追いで他数名卒業し、グループ改名へ
5番 ファースト:(乃木坂)掛橋、舞台から転落し顔面骨折。復帰せず卒業
6番 センター:(乃木坂、櫻坂)池田、東京藝大に受かる。櫻坂に京大生が加入
7番 レフト:(櫻坂)漫画・ハンターハンターにメンバーが書かれる
9番 キャッチャー:(乃木坂)弓木、ペンと叩いたらギンギンになってしまう動物は?というなぞなぞを発表
中継ぎ:(櫻坂)松田、ネプリーグで「(犬も歩けば)棒にあなる」と回答
抑 え:(乃木坂)中西、加入直後にセンター抜擢されるも過去のTwitterアカウントが流出し活動自粛。MVも中西なしVerが作られる。
特にそういう願望はまったくない、あったとしても多分衝動的なものになると思う
単にYoutube見すぎただけ
タスクをわける
1.〜殺害まで
・その現場に証拠が残ってはいけない(あるいは調べられてはいけない)
・疑われるポジションにいてはいけない(疑われたらほぼ詰みだと思う、日本の警察はすごい)
2.遺体処理
・遺体を速やかに処理する必要がある(多くの計画犯罪ではここが上手く行っていない、1人でやるにはかなり重労働)
・処理の証拠が残ってはいけない(これも多くの事件で失敗している、警察をナメてはいけない)
3.捜査〜
・自分が疑われないのが望ましい(被害者と関係しないほうが良い)
・別件で捕まってはいけない
所感:
やはり多くの人にとってどう考えても難しい
・沖に出られる船を持ってる
それ以外の人にとってはムリゲーに思える
そういえば、創作では「海外に高跳び」ってよく聞くけどこれで成功した例ってあんまり聞かなくない?
日本に未練があるとか?
犯人がおそらく外国人だったっていうのは未解決事件のいくつかで聞くけどね
例えばそのくらいの大きさの動物を処理しろって言われたらしんどいと思うんだよね
なら自然の広いところで、って考えるけど結局見つかってるよね
海もダメらしい、沖に出ないと浜辺に流れてくる
もしちゃんとやるなら
・何かしらの施設を持つ
とかが準備の前段階として考えられるけど
それを準備した時点で怪しいんだわ
他の人の感想見る前の記録
吹き替え版で見た
•展開が早い。字幕版見てたら話に追いつけなかったかも。ワンシーズンのドラマの総集編見てるみたいだった。ぶつぶつしてるけど感動シーンはしっかり尺取る感じ。
•正直ジュディの物分かりの良さについていけなくて、逆転裁判の実況動画見てるみたいだった。最後らへんの謎解きパート見て分かった。
•映画館にちびっこたち多くて静かで面白いシーンとかでさわさわしてて(ざわざわではない)可愛かった。映画館で観てよかった〜。
•ガゼルの歌英語だった…ショック。アミちゃんの歌聴きたかったよ。歌の字幕は漢字がガンガン使われてたけど、ちびっこたちは歌詞の意味が分かっただろうか?
•なんとかガラはメットガラみたいなやつってこと?メットガラもよく知らないけども。単語がスッと頭に入ってこなかった。ちびっこたちは分かっただろうか?
•結構謎解きの重要シーンで新聞の見出しを写して説明するような描写だったけど、ちびっこたちは意味が分かっただろうか?ジュディが口に出す言葉だけで分かるもんかな?
•ジュディはどうしてヘビが水パイプの向こうに行っちゃったのにロッジ確認しようと思うの?まあでも今考えればもうヘビには追いつけないし、ヤギに教えてもらったし少しでも手がかり見つけたくて行ったのかな。
•そんなにジュディとニックがお互い気持ち分かり合えないもんか?分かるだろって思って見てたけど、ツンデレの概念が無ければあそこまですれ違うもんなのかな。まあでもずっとああならケンカもするか。なんか現実でいたらウザいけどフィクションならキャラクターとして普通のやりとりで、受け取りは現実的な受け取りしてたから不思議な感覚だった。キャラの発信はフィクションで受信は現実みたいな。
•ジュディの親の、疲れる親やりとりあるある凄いな。子供は、親は悪い人じゃないし自分の幸せ考えてくれてるわけだし…と思って突き放せないんだよね。言っても分からないしね。大変だねジュディ。
•頭使ったか?再起動したか?のハム、あの感じの人はパソコン横にパスワード貼らないでしょ。パスワード貼ってる人馬鹿にしてるタイプのハムでしょ。昔の職場の先輩思い出した。元気かな。
•ネットミームとか前作の小ネタとか他ディズニーオマージュとか動物あるあるがいっぱいあって面白かった。あと3回くらい見たいな〜。
•英語の動物ジョークを日本語翻訳するの大変そう…。原文読んでどんなことを言ってるか確認したい。
•現実だったら馬市長は正義に目覚めないし、哺乳類はそれでも爬虫類のこと信用しないだろうな。ヤマネコも捕まらない。ズートピアはハッピーエンドで良かった。ユートピアだからね。愛が大事だね。
ハードSFとしての正統性を保ちながら、宇宙探査という壮大なテーマを描き切った力作だ。
「フェルミのパラドックス」を題材にした異文明との交流、メガストラクチャーなどの概念、主人公たちの旅を通じて、人類の未来像を投げかける。
理系の読者はもちろん、哲学的思考を求める人にもおすすめできる傑作。
習慣がいかに脳の構造を変えるのか、神経科学的アプローチで解説した一冊。
単なる「習慣を作ろう」という精神論ではなく、脳可塑性に基づいた実践的なアドバイスが詰まっている。
ポジティブシンキングの限界を指摘し、「不安」や「恐怖」をいかに使いこなすかを論じた意欲的な一冊。
ストレス社会を生きる私たちにとって、心理学的に根拠のある思考法は本当に貴重だ。
バッタを研究するためにアフリコに来たのにバッタがいないという自虐的な始まり方から、その後の現地での奮闘が描かれる。
「令和のファーブル昆虫記」と評されるほど、学問的知見とユーモアが融合した傑作。
動物たちがいかに協力し、社会を形成し、生存戦略を立てているのかを、最新の研究に基づいて解説したノンフィクション。
カラスという身近すぎる存在を改めて見つめ直すことで、生態系全体への理解が深まる。
『一番大切なのに誰も教えてくれない メンタルマネジメント大全』ジュリー・スミス
自己啓発系の中でも「実践的で医学的根拠がある」と高く評価された一冊。
自然保護活動家のジェーングドールさんの団体とか、まず動物園に連絡しますよ、私なら…😟
いわゆる、無限の猿定理、
動物が浮気するのかどうか色々調べていて興味深い事がわかった。
そもそも人間や犬、猫の祖先は小動物の哺乳類ってことは有名だよね。
木の上に住んで昆虫や虫を食っていた。
その脳みその無さそうな小動物たちがどういう繁殖の仕方をしていたかというと、一夫一妻制。
なぜそうなるかと言えば、木の上は鳥や他の生物が多く、淘汰圧が強い。常に外敵に晒されている。
餌も少ない。なので一夫一妻制にして分業し、子供を育てていた。
その中でも力が強く体が大きくなりやすい染色体を持つのがオス、そうでない従来の生物はメスだったわけだね。
ぶっちゃけ子供を産む以外は、オスが餌を持ってきて外的から守った方が良い。
産んだ瞬間、オスの劣化版であるメスは、子供の生存に大きくかかわらなくなる。
そのような原始的なパートナーの形態を持つ有名な動物は代表的なものが2つあって、1つはオオカミ。もう一つは人間。
浮気性のオスも居たんだろうけど、その場合弱いメスだけが留まることになり、結果的に子供を守り切れずに遺伝子が残されない。
原始的な哺乳類と同じく、オスの役割が強くメスはサブなため、割とメスは暇になる。パートしてる団地妻みたいな感じ。
狩り中にローンウルフ(バイト大学生)と出会ったりして交尾して、子供を作ってしまう。実際、10%の確率で群れに母親は同じだが父親が違う子供がいる。
つまるところ、浮気を開発したのはメスってわけだ。
ここからは推測になるけど、ネコや人間の更に後期の祖先は一夫多妻制になっている。
これは恐らく、淘汰圧が減り、メスによって「浮気性」の遺伝子を持ったオスが生まれ大人まで育つ。
そのオスが浮気をするが、子供は死なないため浮気症の遺伝子が濃くなった結果だと思われる。
この一夫多妻制、男が強いように見えて実際は違う。夫の役割は防衛に固定され、夫は子育てしない。
オオカミの方が実は「家父長的」で、ネコや一夫多妻の人間は「女権的」
一夫一妻の哺乳類はオスが殺され、子が殺されるとメスはショックを受け、そのオスと番うことはない。子供を奪われた母イヌが子供をいつまでも探すってのはよくある話だよね。
しかし一夫多妻制のメス、子供が殺されるとメスは一瞬ショックを受けるが、すぐにオスに好意を寄せてオスと番ってしまう。
たまに人間のニュースでもあるよね、子育てしないオラオラ系の男が子供を虐待して、メスは見て見ぬふり、でも付き合い続けて共犯すらする。あれは一夫多妻時代の本能。
今の人間は恐らく、一夫多妻から一夫一妻の先祖返りの過渡期にある。
ここ100年で肉体労働から頭脳労働に変化し、性差は少なくオオカミ型の社会に近づいている。
人間同士の経済淘汰圧が強いため、子供の養育費はこの100年間で恐らく1000万円ほど上がった。
女が経済によって子育てに参加する割合がこれから増えていくだろうが、同時に男の経済負担も上がっていくだろう。