はてなキーワード: トリエンナーレとは
「トリエンナーレに毎年行ってたけどもう行かない」系の人かな
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(14) | 17:44
フジロックの配信スケジュールを見てると、クラフトワークの配信が無いとの事だったのでXでその事をぼんやり検索していると、
https://twitter.com/tsuda/status/1816127190721061137?t=vMksfaHyQiugSPFJuQb7ww&s=19
このツイートが目に入って、何かモヤモヤするので書こうと思った。
普通に考えてトリエンナーレっていう税金の補助があるイベントにそもそもクラフトワーク呼ぼうとする発想がおかしいと思わないの?
クラフトワークは坂本龍一が呼びかけた反原発イベントNonukesにも出演した経緯があるから、思想に共感してあいちトリエンナーレにもいけると思ったのか?
ただ、あいちトリエンナーレの件で同様の目が向けられた余波でトリエンナーレが中止になったり打ち切られた所に住んでいる地方民だ。
津田が思う以上に地方で芸術文化に触れる機会って貴重で楽しみにしていたし、担当者だって一生懸命やっていたと思う。
はい。学芸員資格持ちがまずは神奈川県のおすすめ美術館を書くよ。
昔は鶴岡八幡宮の境内にあった(建築が坂倉準三で有名)けど、今は葉山の海沿いにある美術館。(鶴岡八幡宮のそばの鎌倉別館は今もあるはず)近代美術館としては国近美に次ぐ歴史のある美術館で、長いだけあって渋めも多いが、確かな企画、作品が多い。葉山の雰囲気も良いね。ここにいた学芸員のかたがいろいろな美術館の館長として活躍していたりするよ。
個人的には彼の作品では「シアター」シリーズが素晴らしいと思う。その後の歴史や宗教に接続する作品群も戦略的とは思うけどね。ちなみにこの施設、中学生未満は入場不可。
改修工事が終わり、トリエンナーレから再開。建築は丹下健三。ロビーが印象的。作品としてはダリ等の近代美術が有名。個人的にはコンスタンティン・ブランクーシの作品が好きかな。
横浜創造都市の一環で創設された美術館類似施設。メインの施設を銀行跡→倉庫→駅構内と変えながらもボトムアップでの運営が続く。代表が亡くなったが、今まで積み上げた関係性の中で様々な取り組みをしている。ボルタンスキーの展覧会とか刺激的なことをときどきやっている。
海沿いの丘の途中にある美術館。プリツカー賞受賞の山本理顕氏の建築。近年はジブリとか巨大ロボット展とかやっている。窓の形や位置などもあり、空間への陽の入り方が特徴的。増田は、開館の時の展覧会の木村太陽氏の作品が印象に残っているね。
「TARO賞」の受賞作品の展示が毎年あるからその時に行くといいよ。賞の性格上、エッジの効いた作品が見られると思いますー
箱根にある美術館。印象派の展覧会が多い。たまに現代もやっている。
フジサンケイグループが運営する美術館。イロモノかと思ったら良い作品が広い空間に配置されていていい意味で想像を裏切ってくれる。彫刻って触れる作品もあるし、「モノ」感がすごいから絵画とはまた別の印象を与えるよね。ニキ・ド・サン・ファールとか。ピカソ館、ネットの森、幸せを呼ぶシンフォニー彫刻とかいろんなものがあるから好きなものがひとつは見つかるんじゃないだろうか。
趣味的には合わないけど、お金かけて良いものを集め、いい箱をつくったの間違いない。企画展は江戸期の作品を中心に組み立てることが多い。
他に川崎市民ミュージアムも書きたかったけど、水害があったり、今は閉館しているのね。施設なしでも活動自体は継続しているみたいだけど、どうなるんでしょうかね。
気が向いたら、
【追記】
コメントのとおり確かに江之浦とBankartは正確には美術館ではない(4要件を満たしていないですし、登録もしていないでしょう。さらに言うならBankartは施設ですらなく、プロジェクトですね。)ですが、展示の機能的性質からここに含めています。
「ゲージュツなんだから意味がわからなくて当たり前」というならな
それこそ淫夢動画だってその場の思い付きとしょうもない身内ノリばっかりで、外部の人間には意味不明だろ
「どうしてこの動画がそんなに草生えるのか」なんて、文脈と過去の積み重ねをちゃんと踏まえた、ネット全体からすりゃごく一部の物好き以外にはわかんねーんだよ
(だいたい「草」の由来からしてそういうコンテキスト込みなわけで)
そんなものはふたばみたいに身内ノリやジャーゴンが幅を利かせるタコツボムラ社会であれば、所詮どこにでも見られる光景でしかない
タコツボエコチェンなんていくらでもあるのに、現代アートだけがむやみに孤高面したって笑わせるだけだわ
だから結局、トリエンナーレや不自由展みたいな文化ムラが文化ムラたり得ている要素って、作品や社会派・党派性まみれのメッセージそれ自体じゃないんだよね
単にこいつらの利害関係共犯関係で成り立った、いたって資本主義的な営為でしかなくて(ここは元増田もある程度自覚的ではあるが)
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
東日本大震災のあったこの年、カオスラウンジのメンバーである梅ラボが
画像掲示板のふたばで作られた「キメこな」を丸パクリしたことが発覚
リーダーの黒瀬陽平が「ネットの画像は好き勝手に使わせてもらう」と明言したことで
pixivを巻き込んだ大炎上となったことで一躍有名となった。
当時のカオスラウンジは
アート業界からは村上隆、オタク業界からはpixiv、言論業界からは東浩紀という
三業界からの強力なバックアップを受けた一大プロジェクトであった。
しかし、この炎上が原因となり、村上とpixivはカスラジとの関係を断ち
以降は東浩紀率いるゲンロンのバックアップの下で活動していくことになる。
当時、東浩紀は「福島もチェルノブイリのようにダークツーリズムで客を集めよう」との考えから
https://togetter.com/li/609484
また、2015年には「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」を開設。
「表現の不自由展」で有名になったあいちトリエンナーレ2019には
2020年、当時カオスラウンジ社員の女性が黒瀬のセクハラ、パワハラを告発し告訴。
後に「調査した結果そのような事実はなかった」として女性側を逆告訴した。
2022年に「セクハラはあったがパワハラはなかった」と判決が下ったが、女性側は控訴している。
なお、黒瀬は本件の責任を取りカスラジを退任。後任は藤代嘘となった。
2011年の炎上の当事者である梅ラボは、本件には無関係で被告にもなっていない。
本人曰く「黒瀬らと被害女性との話し合いの仲介をしていたが、裁判を避けられなかった」として
同時に「契約違反があった」としてカオスラウンジを提訴しているが、違反の内容や裁判の結果は明らかになっていない。
2013年8月にキュレーターとして「お分かりでしょうけれど、私は画家であることをやめていません。」展を開催した。
「表現の不自由展かんさい」大阪会場に13・14日脅迫状が届いた件。本日15日警察庁に事実関係と開催前後の対応を確認。警察は主催者の要請により開催前から予め警備を行なっており、現在脅迫罪容疑で捜査中。行政として脅迫に屈せず、表現の自由と主催者関係者を最後まで守り通すことを警察に念押し。
https://twitter.com/yamadataro43/status/1415625472172388355
「表現の不自由展・その後」が開かれていた名古屋の市民ギャラリー栄で8日郵送物が破裂し実質中止に追い込まれた件。9日警察庁に事実関係と捜査や対応を確認。現時点で威力業務妨害の可能性。展示内容が気に入らないからと暴力により従わせようとするのは犯罪で、表現の自由からも許されるものではない
https://twitter.com/yamadataro43/status/1413438359389671426
愛知国際芸術祭への補助金不交付の件、現段階では報道でしか確認が出来ていませんが、このような事はあってはならないと考えています。
https://twitter.com/yamadataro43/status/1177036726948118528
事実確認として。まず第一に、行われたのが内覧会で、当然、招待状をもらった人向けの限定的な式典。
>美術館は公共に開かれた場 とか意味不明な事言っているけど、
勝手に第三者が入ってきて主催者とも美術館とも無関係に自分勝手な事をしてるだけの話ですよね。
そりゃ、警察を呼ばれるのは当たり前。
https://www.timeout.jp/tokyo/ja/news/nmwa-stopgenocide-031124
「展覧会出品作家有志を中心とする市民」によって計画実行されたもので、同館や展覧会主催者にとっては、全くの予想外の出来事であったという
右翼の集団が入ってきて、主催者の諸々の展覧会を邪魔しても右翼の主張を聞きましょうと思ってるの?
そして、それが「表現の自由」だとでも本気で思ってるの?
あいちトリエンナーレ訴訟、名古屋市の敗訴確定 最高裁が上告棄却:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASS3756V2S37UTIL01H.html
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」をめぐり、大村秀章・愛知県知事が会長を務める実行委員会が、名古屋市に未払いの負担金の支払いを求めた訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は市側の上告を退けた。6日付の決定。支払い拒否は違法として、市に未払い分全額の約3380万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。
天皇の写真が燃える風作品を展示した表現の不自由展の未払い費用3380万支払い確定だってよ!
やったね!
表自界隈ちゃん!
表現の自由が守られたよ!
そもそも、あいつらが焼いてるのってオナニーのネタですらないしな。
これ全部、オナニーのネタですらない、ただの全年齢向け表現だから。
本当にオナニーのネタ、つまり性器や乳房や肛門が露出してるような広告だったら、まあ規制されても仕方ないかと思わなくもないけど、たかだかこの程度の表現に、UN Women日本支部やらフェミニスト議員連盟やら立憲民主党の元議員やら共産党の地方議員の皆さんやらが噛み付いて、ゾーニングだの性犯罪を誘発だのと言ってきたわけで。
で、UN Women日本支部は結局、国連加盟国である日本に対してアンステレオタイプなんちゃらの規約は公開してないんでしたっけ?
フェミ議連の人たちは集められた署名にノーコメント貫いたんでしたっけ?
ふざけんなよ、お前ら。
なんでこれで俺たちがお前らを支持すると思ってるんだ? 俺たちが支持できない以前に手続き的正義すら満たしてねえじゃねえか。
立憲民主党はまだいい。個々の議員の自主性が高く、いくつも派閥みたいなのがあって、上意下達とかが機能してない分権的な党だから、栗下善行前都議とか、藪原太郎武蔵野市議とか、そういう表現の自由を掲げる政治家や、枝野幸男代議士みたいな本来の意味でのリベラリストを支持すればいい。問題なのは共産党、お前らだよお前ら。民主集中制で上意下達の党で、これだけ多くの議員が萌えバッシングに血道を上げてんのは、もう党の方針がそういうことだって見做していいんだよな? 吉良佳子参院議員が選挙前に言ってた表現規制方針も、つまりそういうことなんだろ? 池内沙織元代議士みたいなひと目で限界フェミだとわかるやべーやつと違ってマトモそうだなと思って入れた俺の一票を、表現規制に使いやがって。党所属の地方議員たちによる温泉むすめや撮影会への執拗なバッシングを党中央がなんも諌めてないってことは、要するにそういうことなんだな? 地方選挙で入れ続けてきた票を踏み躙りやがって。俺は一度も自民や維新や公明に入れずお前らに入れ続けてきたのに、とんだ恩返しだよ。外交や防衛ではカスだけど俺たちの生活を守ってくれたり腐敗を追及してくれることを期待して入れてたのに、俺らの趣味を攻撃しはじめたりずさんな会計をしてた団体を庇いだすならもうお前らに見るべき点なんて欠片もないんだよクソが。趣味も生活の一部に決まってんだろーが。どんな高給になれても趣味を十分に謳歌できないならそれは豊かな人生じゃねーんだよクズ。趣味人にとっては趣味弾圧党より増税党の方がまだマシに決まってんだろバーカ。
ほんと、独身男性として「現在の」共産党に入れることは肉屋を支持する豚と同じでしかない。はやくフェミと手を切って男女問わずすべての庶民の厚生に資する党に戻ってくれ~~~~~~~~~。
それに性的興奮を感じる殿方がいる理論すげーな。たとえば大概の異性愛者男性にとってある程度の性欲をそそられるであろうピーチジョンの広告は当然アウトだし、手フェチや足フェチや首筋フェチの存在を考慮すると普通の婦人服の広告も駄目だし、ゲイを考えると男性を起用した広告も規制されるべきで、ズーフィリアがいるから動物もセーフじゃないよな。子供を使った広告? 論外だ論外!
薄味が好きなものとしてはそこはかとない情緒があるものをエロくないって言い張るの相手の土俵に自ら乗ってるような危惧があるんだよな。別にオナネタにしてもいいだろ
「性的」って言葉、濫用されすぎて無意味になりつつあるから「広い意味で生殖や性愛に関わっているので性的」「異性愛者としてつい目を惹きつけられてしまう程度に性的」「子供に見せられない程度に性的」「勃起する程度に性的」「公共の場での掲示が制限されてしかるべきほどに性的」「法で禁止されるべきほどに性的」みたいに「どのくらい性的なのか」を意識して喋ってほしいんだよな。たとえばpixivのガイドラインではキスや抱擁は「軽度な性的描写」だけど、これを性的といって排除する人はいないだろう。美少女を使ったポスターの類も、多くは「異性愛者としてつい目を惹きつけられてしまう程度に性的」だろうけど、「公共の場での掲示が制限されてしかるべきほどに性的」ではないわけで、そこで後者の意味で性的じゃないだろって言ってる人に対して前者の意味を持ち出して「オタクはしらばっくれるな」とか言われても困るんすよね、的な(「性愛の対象として魅力を感じる程度に性的」をアウトとするなら、多くの異性愛者女性が性的に魅力を感じるであろうイケメンを起用した広告なんかは全部性的だからアウトってことになる)。
オナニー云々とか全年齢云々って関係あるの?sexual objectificationをやめろという話しか普通されていないと思うのだが。
sexual objectification(性的モノ化)概念、「オリエンタリズム」みたいに批評の中で用いられる分には意味のある概念かもしれないと思うんだけど(たとえば「あの展示はオリエンタリズムど真ん中だよね~」みたいな展評はいくらでもあるけど、それで展覧会がキャンセルされたり抗議のお電話とかが来たりしないので、いい塩梅の使われ方をしていると思う)、展示・発表の場を狭めるために用いるとするならファジーすぎてまったくお話にならない。厳格に「モノ化」概念を適用するなら、そもそもオタクが愛好する美少女の多くはそれぞれの作品内で人格や主体性を持った存在として扱われているんだから何ら「モノ化」には当たらないし、何らかの道具として使われているから駄目だという広い意味での「モノ化」概念を採用するなら羽生結弦を起用した献血ポスターだってアウトだろ。客引きに宇崎花を使うのはモノ化だけど羽生結弦を使うのはモノ化じゃない、なんて理屈が通ると思ってんのか?(個々の作品の背景を知らなければ単なる美少女の絵にしか見えず主体性を窺い知れない? スケートに興味がなければ羽生結弦のポスターだってただのイケメンの写真であって何ら主体性は見えてこないだろ?)
いかにも保守派が言いそうな決め台詞でニッコリしちゃった。ゾーニングされてる県営公園での水着撮影会が公序良俗に反するというなら、ゾーニングされてる愛知芸術文化センターで天皇の写真を焼くアートも公序良俗に反するよな? もちろん俺は表現の自由戦士だから、あいちトリエンナーレへの妨害は許せない、特に河村たかし市長のような公人が潰そうとしてたのは表現の自由の危機だ、って思うけど。
その理屈なら、作中で明白に成人(当時)を迎えて酒も飲んでる宇崎ちゃんは何も問題なかったはずだし、VTuberや温泉むすめが叩かれたのは何だったの? ってなるでしょ。
だいたい、「非実在であっても未成年を性的な目で見てはならない」という規範は存在しないからね。たとえばテニスの大坂なおみ選手は、設定上は中学生である越前リョーマを「My husband」と公言してるけど、何も叩かれてないでしょ。仮に越前が実在の人物だったら児童婚で一発アウトだけど、越前は非実在なんだから性的な目で見てもいいんだよ。
男性が自慰行為できるかはどうでもいい。「男は接待される側で女は接待する側」「女の接待にはエロがつきもの」という思想が見えるから批判している。男性向けゲーならいいけど公的に出すなら女も客なんだから。
女性向けイケメンゲームが献血ルームとコラボしたこともあるし、岩手県がリンゴを美男子の姿に擬人化して話題になってたけど、ああいうのに対して男も客なんだぞ男を無視するなって怒ればいいの? 女性向けコラボ全部ダメになる自爆攻撃仕掛けてる自覚ある?
「全年齢向け」の線引きが違うから話が平行線 保育園前に置いたら炎上必至な性的描写ばかり 18禁漫画の手法を全年齢向けにしないでくれよなーって話 「あのお姉さんの漫画読みたい」って3才が言ったら困るのばっか
3歳児に見せたくない、が基準なの? すごいね! 『鬼滅の刃』も『名探偵コナン』も『島耕作』もゾーニングしなきゃね! 少女漫画もけっこうゾーニング対象になっちゃうね! レイプされた女の子が心の傷を負いつつも立ち上がる描写がある『生徒諸君!』とか、最後にアンドレ・グランディエの妻に……なる『ベルサイユのばら』とか、言うまでもない『あさきゆめみし』とかも、3歳児にはまだ早いからゾーニングして公共空間からは排除しようね!
たとえば男性モデルの水着撮影会なんてあまり聞かないし、女性を好きに見る対象にしたいとの底意が見え見え。男女の権力差をはっきりと作ってるわけだ。
男性モデルの水着撮影会、やりたい女性が大勢いるならやればいいと思うよ! 誰にも禁止されてないんだから好きに開けばいいんじゃないかな! もし自民党の県議にイチャモンつけられたら表現の自由戦士として連帯するから教えてくれ!
無関係な外交等をわざわざ貶してる時点で元より反左派では。性的消費風潮への批判=陽キャのオタ見下しコンテンツについてぶつくさ言うのと同じだと思うがね、それも「快不快で文句を言うな」で済ませるのか。
前段、反左派だと共産党に投票しちゃいけないの? 言ってる意味がマジでわからないんだけど。外交・防衛政策のクソさと庶民の生活向上とか教育とか医療とかそういった方面での政策とを天秤にかけて後者を選んでただけなんだけど、そういう消極的な支持者はお呼びじゃなかったってこと? ふーん。左派に忠実な支持者だけで頑張ってくださいね、どれだけいるか知らんけど。
後段、本当に「ぶつくさ言う」程度だったら別に何も言わないけど(誰しも嫌いなコンテンツはあるし)、議員連盟やら国連機関やら元衆院議員やらが圧力かけるのが「ぶつくさ言う」になるわけ? そんなら河村たかし市長があいちトリエンナーレに「ぶつくさ言う」のも、自民党のセンセイ方が歴史教科書に「ぶつくさ言う」のもアリになるじゃねーか。次からは右派の政治家が表現に「ぶつくさ言う」のを咎めないであげてね!
弱者男性問題ってオタク差別問題の延長なんだと思う。増田も趣味人(=オタク)の問題であり、独身男性(=モテない)の問題だとしている。オタクって弱者なのかなあというのがなんかずっと疑問としてある
ちょっと前までは「もうオタク差別なんて残ってないやろ。いい時代になったなぁ」と思ってたけど、ここ数年の左派野党の狂乱っぷり見てたら「オタク差別、まだあるじゃん……」って真顔になっちゃうよね。弱者かどうかは知らんけど明らかに蔑視があるっしょ。
性犯罪被害の告発に対しては、セカンドレイプという主張が濫用されすぎだと思う。こんなん「時と場合による」としか言いようがないよね。
この場では、とにかく「被害者」の言うことが真実であるという前提で接するべき。仮に「被害者」の言うことが疑わしいのだとしても、ダイレクトに伝えるのではなく、治療者として適切な言葉遣いで伝えたりそれとなく適切な治療に繋げたりすることが求められるだろう。カウンセラーは知らんが、医師は国家資格があるわけで、そういう配慮も当然要求されるだろう。「嘘なんじゃないですか?」とか直截に言うような心療内科医やカウンセラーは看板を下ろすべきだ。
刑事裁判は、圧倒的強者である国家権力が、無力な弱者である市民(被告人)に対して、罰を科すかどうか決める場である。当然、被告人は、全力で自らの身を守る権利がある。被告人は身を守るために、「その日はアリバイがありました」とか「そんなことをする動機がありません」とか「踏み間違いではなく車の欠陥ではないでしょうか」とか「ドラえもんに助けてもらおうと思いました」とか「被害者の証言はここがおかしいと思います」とか、ありとあらゆる反論を国家権力に対して行うことが許されるべきだ。
実際、今回の事件や会津若松虚偽告訴事件のように虚偽の被害を訴えた事件だけではなく、「本当にレイプ事件はあったのだが、被害者が被告人を犯人と勘違いした」事件もある(氷見事件)。「本当の被害者なのだから、その証言を疑ってはいけない」などという原則を採用することは、刑事裁判の原則から考えてありえない。たとえどれだけ悲惨な被害に遭い苦しんだ被害者の証言であったとしても、疑われてしかるべきなのだ。なぜなら、被害が本当にあったのだとしても、被告人は犯人ではないのかもしれないのだから。
たとえば、仲の良い善良な女友達が泣きながら被害に遭ったという話をしてるときに、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言うのは割と人の心がない所業だと思うし、周囲のやつらからドン引きされ絶交されたりしても、まあ仕方ないだろう。
逆に、隣近所では評判のウソツキ女が被害に遭ったという話を吹聴していたら、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言っても、まあ、仕方ないだろう。日頃の行い、オオカミ少年、ってやつで、こういう場合に被害を疑うのは社会で生きていく上でなんら問題ない。
もちろん、善良な女友達が実は痴漢冤罪カツアゲ犯であり、評判のウソツキ女が実は本当にレイプ被害に遭っていたということもあり得るわけだし、実際の社会にはこのあいだに広大なグレーゾーンが広がっていて、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」なんて、実際のところはどうだか全くわからないだろう。というか性犯罪だけじゃなくて、殺人だって詐欺だって何だってそうであって、つまり本当に大事なのは「それ、わざわざ話題に出す意味ある? あなたがコメントする意味ある?」ということだろう。友達や近所の人なら意味も必然性もあるかもしれない。友達が泣き崩れてる横で「僕はノーコメントで」とか言うのは(よほどの事情がない限りは)人でなしのすることだ。しかし、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」にあなたがコメントする意味はあるのか?
さらに言えば、そのコメントを公開の場でする必然性もあるのか? もし「草津町ってひどいところだよね~」とか「絶対草津には行きたくないわ~」みたいなことを家族や友人のあいだでだけ喋っているなら、たとえばSNSの発言をめぐって訴訟リスクを抱えるようなことには基本的にはならない。草津町長は名誉毀損で何人もの人たちを訴える意向だと聞いているが、彼ら彼女らが身内の飲み会でそういうことを言っているだけだったら、町長は何の手出しもできなかっただろうし、フェミニスト学者の人たちが謝罪を求められることにもならなかったはずだ(cf. anond:20221117054344; anond:20221118212515; https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/okisayaka/status/1592551751072509953)。
もちろん、自由社会には「表現の自由」という大原則があり、意味も必然性もなくとも表現は自由であって、それを否定するとあいちトリエンナーレやクジラックスが弾圧される世界になってしまうから、SNSなどのオープンな場で自分にとって縁の薄い場所で起きた犯罪についての論評を行うのは自由であるべきだ。だが、天皇アートやロリ漫画と違って、実在の犯罪への言及には「冤罪に加担してしまう」というリスクが常につきまとう。「七色のおっちゃん」である(単なるざまぁ物かと思って読み始めたら期待値よりは面白かった)。義憤を燃やすのはいいが、それは後に訴えられるリスクを負ってまで燃やすべき義憤なのか? はよくよく考えた方がいいだろう。別に黙れとは言ってない。たとえば加藤智大のように現行犯で取り押さえられた人物については、冤罪の危険はそこまで大きくないので、言及しても比較的安全かもしれない。しかしもちろん、四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件のように、現行犯であっても冤罪があり得、取り返しのつかない結果が起きていることも忘れるべきではないだろう。そういうリスクを織り込み済みで、公的な場で義憤を表明したい、というならそれはもちろん表現の自由なので、どんどんX(旧ツイッター)で呟かれたりはてなブックマークでブクマコメントを残されたり、たまに裁判を起こされたりすればよいのではないかと思う。
https://twitter.com/dokinbi/status/1695632225549865351?t=gDZaNRHPzigAaQa2N0cQow&s=19
「揺さぶる絵ー変貌する日本画のイメージ」展(9/16-11/12)出品作紹介④
フェイスパックの裏側に現れたのは真実の顔か、それとも…。機知と皮肉、古典絵画へのオマージュが複雑に絡み合あう画面の解読は、さながら知的ゲームのようです。
フェミニストの反応
うちの娘が通ってた画塾の先生が、女の子は日本の美大や芸術系大学行かずに海外行った方がいいと言っていた理由が、よくわかる。日本の女性蔑視に搾取されないためだ。
田中武氏が恥漢図で描いた「食欲、色欲、金銭欲などの煩悩や欲望を露わにした現代人」、全員女性。
artid.jp/tanaka_works_c…
あいちトリエンナーレで、アーティストもキュレーターもジェンダー平等を目指したのは、このような女性蔑視を「知的ゲーム」などと礼賛しないようにだと思います。
北海道近代美術館に苦情のメールを送りました。メールを見ないと、美術館の人も、先進的だと思いあがっている自分たちガラパゴス業界の感性が、実は市民感覚より劣っているということがわからないと思う。本来は、彼らが社会の発展をリードするべき存在なのですが、
「エロい」は多義語。あらゆる「エロい」が性生活をサポートするための商品ではない。
人がシースルーを着る時、語彙力のない人は「エロいから好き」と表現したくなるかもしれないが、だからといって「誘ってる」と言われたら怒るだろう。
「見せパン」や「つけ乳首」のような過激なファッションが流行ったこともあるが、それらも「下品だ」と顔をしかめられたことはあっても、「性的消費だ」「性差別だ」とレッテルを貼られたことはないだろう。
むしろ、なぜ自身の身体以外によって自らのジェンダーを表現することを、ファッションの在り方として認めないのか。なぜそうしたファッションの文化を持つ人々へ訴求する「アイコン」の存在を認めないのか。SNSで「絵師」が人気を集めるのは、彼らが「アイコン」だからだ。
こうしたイラストを「オシャレ」「かっこいい」とする感覚は、ファッションモデルを見て「オシャレ」「かっこいい」とする感覚と同じもの。ただ「ファッション」とは何かという部分で異なる文化を持つだけ。
「誰にも邪魔されずこっそりエロ漫画を読む自由」という「性的営みの自由」は、対人性愛者が対人セックスを行うのと同様に守られなければいけない。
「多少なりとも性的文脈を汲んだジェンダーエクスプレッションをファッションとして楽しむ自由」という「文化的営みの自由」は、物理的身体をベースにジェンダーエクスプレッションを行う人々と同様に守られなければいけない。
「そうしたマイノリティ達が受けている差別を明らかにするために、敢えてゾーニングを破ることによって人々を挑発し、怒らせる」という「政治的営みの自由」は、あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」などと同様に守られなければいけない。
その上で、それらが現象としては重なっていたり、区別が難しい現実も丁寧に語っていこう。「見せパン」や「つけ乳首」のような過激なファッションは、少なからずの政治性が見出されたからこそ「かっこいい」と認識された側面はある。
グラビア撮影会中止ついでに話すカメコのポートレート撮影術というエントリを投稿した増田です。
水着撮影イベントと「あいちトリエンナーレ」は違う? 不勉強なのは津田大介さんだったな のブコメページで気になるブコメがあったので引用します。
これね、水着の撮影を阻止するのは戦略が間違いです。表現の自由が盾だと潰せないもん。価値を潰す間接アプローチ戦略の案件です。LGBTに配慮し、男女並んでの撮影が必須と立法すればカメオタは泣いて引っ込みます。
結論から言ってしまえば「引っ込まないだろうな」というのが正直な感想。単に男女一緒に撮影するだけ。
カメラってシャッターを切れば切るほど、構図を考えれば考えるほど、レンズを工夫すれば工夫するほど、様々なシチュエーションを探れば探るほど上手くなるのよ。
プロやハイアマチュアなんて年間数万枚を撮影して作品として公開するのが数万枚の中の数%ってだけなんだ。
世の中には作品として公開するため関係者の同意が事実上必要なシチュエーションの撮影環境ってのがある。
著作権法的に写真は撮影者が著作者なわけで編集・加工・修正・公開なども撮影者が自由に行えるのだけれど、肖像権の視点もあり撮影した作品を撮影者が完全なフリーハンドで自由に扱えるのか?と言えばそうじゃない。
例えば盗撮なんかはこれらを語る上で参考になる事例と考えることができ、盗撮は撮影者・著作者自身による作品の利用という行為が法の制限下にあることを意味する。犯罪指定による作品利用制限ってわけだ。
もちろんコレは撮影のモデルとなり自身を作品として表現する被写体自身にも掛かる制限がある。
いわゆる公然わいせつと呼ばれるもので、表現者は社会一般においてフリーハンドで自由な服装もとより裸体でいることはできず、法の制限下にあるわけだな。
もしも水着撮影という行為が社会一般において犯罪もしくは犯罪に類似し、社会通念上の倫理に反し、水着を撮影した者に責任が問われるとしたならば被写体の水着と水着姿やポージングも責任が問われるものとなり、水着撮影に関わった共同責任者という立場となる。
だからこそ写真撮影会という関係各所が相互に合意をもって安心して撮影及び作品利用ができるシチュエーションを用意するという結論に至った。
被写体のモデルは撮影者が安心して作品利用できる水着そのものやポージングを選択する責任があり、撮影者は自身が作品利用ができるように配慮して撮影する必要があり、それらをもって合意が成されている。
これは撮影者と被写体モデル双方が犯罪者にならないための合意であるわけだ。
ポートレート撮影というものを実践的に修練を積める相互に安心した環境が様々な撮影会なのだ。
そもそも公然わいせつというものは物凄く恣意的な解釈が可能な概念で、もしも今回の水着撮影会の件で勢いのまま規制をしたら影響する範囲は正直に言って予想が付かない。
例えばアイドル界隈にも撮影会は存在する。チェキ会などと呼ばれるもので、アイドル界隈の中にいわゆる地下アイドルやメン地下も含まれる。
アイドル撮影会にはハグや頬にキスなどの"オプション"の存在がアイドル界隈では認知されているけれども、これらは水着撮影の件から勢いのまま規制に走るとおそらくは影響してくる。
当然ながら撮影のシチュエーションとしては男女揃った状態であり、水着でもないし勢いのまま規制を明文化するとアイドル界隈は"レギュレーションに準拠した撮影会"を企画する。これが明るみになった場合、倫理上の問題で裁かれるのは当然ながら推しのアイドルとチェキを依頼したファンだ。共同責任者だからね。
今ある自由を制限するときは本当に慎重な議論が必要だし、もしも誤った解釈で冤罪の憂き目にあった場合の保障も必要だと考えている。誤った解釈で急な中止になった場合の補填とか。
そしてこのエントリを作った者として訴えておくけれど、件のブコメの人を非難しないししたくはない。あのブコメがなければエントリ書いてなかったから。
老若男女が犯罪者にならないで済むことは我々が愛する自由への開放へ繋がることだと思うよ。フェミニストだろうが表自戦士だろうが急に犯罪者にならないことは良いことのはずだ。
各方面から突っ込み多数!?ポリタスTVで活躍の津田大介氏の「TPO」発言に日本共産党と深い繋がりのある埼玉県水着撮影会中止問題界隈が沸き立つ!「... https://youtu.be/pJg1SyGCMc0
こういう津田大介の幼稚な幼稚なバカほどTPOやゾーニングとか言う。
津田大介氏「法的にOKでも公共の場で、少なくない人が顔をしかめるイベントが“堂々と”開催されていたら、その範囲を狭めましょうって動きは出てくる。トリエンナーレとは違う。」
https://togetter.com/li/2165161
ええと、その論理が通るなら、表現の不自由展もダメになると思うのですが…。私は表現の不自由展は開催してよかったと思うのと同様に、水着撮影会もルールに則った運営がなされる限り、開催に問題ないと思います。表現の不自由展に反対した表現の自由戦士が水着撮影会に賛成するのも、表現の不自由展に… twitter.com/i/web/status/1… twitter.com/tsuda/status/1…
因みに皆さん「公共施設は公共目的に使うべき」と誤解をされているようですが、「公共施設は、皆のお金で作ったのだから、不適切でなければ、皆が、其々、自分の目的で使っていいもの」だと思います。窮屈でない世の中を作りたいものです。
先ず恐らく「ゾーニング」を勘違いされていそうですが、このイベントは夏季でない、一般にプールが使われていない時期の貸切で、ただプールだから外からも見えるというだけです。それを全部シートで囲うのは可能でしょうが、結構な費用ですし、違法でない撮影がされているなら、果たしてそれを主催者に… twitter.com/i/web/status/1… twitter.com/tsuda/status/1…
山口貴士 aka無駄に感じが悪いヤマベン @otakulawyer
表現の不自由展を開催したトリエンナーレの芸術監督が表現の自由の意義と機能を理解していないことを自白してどうする。
「法的にOKだったとしても公共の場で、少なくない人が顔をしかめるようなイベントが「堂々と」開催されていたら、そりゃその範囲を狭めましょうって動きは必然的に出てくるわけ」
CDB@初書籍発売中! @C4Dbeginner
津田大介氏は昨夜10時の埼玉県知事中止撤回声明の2時間後に「開催に問題があったとは言ってない」とコメントしてますが、問題のない開催に対する中止命令をろくに批判しないまま「表自界隈はTPOをわきまえるよう言え」「うざいですねマジで」と異論を次々ブロックしてたことになり、理解しがたいです… pic.twitter.com/JOjvwY4cH8
共産党に失望した三十代オタクだけど、今回の水着撮影会中止騒動で「流石にダメだろ……」としか言えなくなったので、共産党に入れないを超えて共産党は議会から追い出すべきだと思うようになった。もちろん民主的な手段で。
同意を得た上での未成年の水着姿の撮影自体は現状ではまったくの合法なのだから(そうでなかったら旅行先での家族写真や友達と海に行ったときの記念写真すらも撮れなくなる)、たとえばガッツリ違法行為である未成年との淫行などと違って「行為が判明したので即座に許可取り消し」のような処分が許容されるとは思えない。「今月から禁止になったから、きちんと年齢確認やってね」とか、「今回は許可出したからやっていいけど、今後は貸さないから」のようなもっと穏健な手段はいくらでもあった。
(未成年の水着姿の撮影はキモいかキモくないかでいえばキモいし、無理強いのようなことがあってはならないが、たとえば性行為と違ってそれ自体が身体的な健康を害する行為ではない。だってただの写真撮影であり、隠すべき部位も隠れているんだから。である以上、性行為と同列の厳しい規制を行うことが適切とも思えない。ピアス穴を開けたりするのと同程度の自己決定権が未成年にも認められていいんじゃないだろうか。まあ俺はピアス開けたことないけど……)
(というかこの手の話は、10歳と17歳を「未成年」と一括りに論じているのがおかしい。小学生のピアスは児童虐待が疑われるので校則で禁止するのも妥当性があるかもしれないが、高校2年生がピアスをつけるのは、小遣いやバイト代の範囲で勝手にしろ、体育の授業や工業高校の実習では危ないから外せ、程度の介入で構わないと思う。セックスのような重大事項ならともかく、たかだか水着での写真撮影程度のことにピアス以上の重みを与えるのは賛同しない。というかほんと、そこまで言うなら子役の禁止も主張しろよ、と言いたくなる案件が多すぎる。まあはてなーの多くは子役も禁止すべきと考えているのかもしれないが……)
そもそも、主催団体が「県の許可条件に反した写真は弊社ではない」って言ってるんだけど、そのへんちゃんと確認したんすか? 条件守ってるところまで一律で排除されるのはどう考えてもおかしい。ある音楽団体が県営ホールで狼藉を行ったから、二度と県営ホールは音楽家には貸しません、というのが乱暴な話なのは誰だってわかると思うんだけど、どうして撮影会は排除してオッケーということになるのか。ホワイトリスト制で貸し出すこともできただろう。民営ならともかく、公営なんだからそこは偏見で対処しちゃいけない領域でしょうよ。
(「タトゥー入れてるやつはろくなやつじゃないから入居を断る」といったような偏見に基づく対応ができるのは民間の大家だけで、公営住宅はそんな差別をすべきではない、っていうのと同じ話。もちろん本来は民間でもタトゥーの有無で差別されるべきではないんだけど……公衆浴場のタトゥー禁止、ふつうに人権問題でしょ)
とにかく規則の後出しが最悪。一度は許可を出したものを、直前になって撤回させるよう働きかけるとか、行政のあり方としてそれでいいのかという話だよ。「今回のことは仕方ないが、二度と許可しないように」みたいな穏健な働きかけじゃダメだったのか? 弁当を注文されてたご飯屋さんも困ってるじゃん。市井の小さな飯屋の仕入れを台無しにするのが共産党の正義なのか? 俺はそういう市井の人々のささやかな暮らしを守ってくれそうだから共産党に入れてたのに、撮影会を中止させて、主催者や出演者や飯屋の商売を邪魔して、カメコをガッカリさせる、それが共産党の目指す社会なのか?
ゾーニングだの公共の場だのといった言い訳が出てきていることがもう本当にここまで来たかという感じ。ゾーニングされてるよな? 最近の日本では6月前半からプール開きするのか? 気候変動の影響ってやつか? プールが営業してない時期に開かれる撮影会なんて完璧にゾーニングできてるだろ。水遊びに来た親子連れがそれを目にする可能性はゼロに等しい。ゾーニングされた県営公園は公共の場だから挑発的な催しはけしからん、と言うなら、入場券を買わないと入れない愛知芸術文化センターで挑発的な展示をすることも許されないだろ。バカなのか? あいちトリエンナーレが河村たかしみたいなクソ野郎に弾圧されたときには俺は津田大介を応援したけど、今回の件では、津田大介は「少なくない人が顔をしかめるようなイベントが「堂々と」開催されていたら、そりゃその範囲を狭めましょうって動きは必然的に出てくる」とか言ってるんだよな。卑劣な裏切り行為だろ。俺は表現の自由戦士だからこんな連中の展示も制限されるべきじゃないって言い続けるけど、そこまで自由主義にコミットしてないふつうのオタクがこいつらの展示に敵対的になるのは責められんよ。あなた……『覚悟して表現を弾圧しにきた人』……ですよね。人の表現を「弾圧」しようとするって事は、逆に「弾圧」されるかもしれないという危険を常に『覚悟して来ている人』ってわけですよね……
でもって、やっぱりこれは共産党が議員を送り込んで権力を持っているからこういうことになるんだろうな、と。とにかく、市井の人々のふつうの暮らしを守ってくれる共産党は死んだんだと思うしかない。歪んだイデオロギーに染まって俺たちお前たちの自由な暮らしに制約をかけようとしてくるのが共産党だ、と認識しないといけない。俺はこれまで他人の支持政党に口出ししてこなかった。俺の友人には自民党支持者や公明党支持者もいるし、そいつらと政治の話もしたりするが、お互いに意見を述べつつも説得や勧誘はしてこなかった。だが共産党は別だ。もしも友人に共産党支持者がいたら友情の許す範囲で共産党に入れるべきではないと説得しようと思う。やるやる詐欺で十年も棚晒しの憲法改正なんかよりも、今目の前にある弾圧の方がよっぽど危機なのだから。
選挙権を得てからこのかた、自民党(+維新)にだけは入れたことがなかった。ずっと民主党(解党後は立憲民主党)や共産党、たまにれいわに入れてきた。なぜなら自民党への拒否感が強かったからだ。けど気づけば、自民党への拒否感を共産党への拒否感が強く上回ってしまっている。憲法改正やるやる詐欺で、圧倒的多数を握っていながら発議の気配すら見せない自民党と、現在進行形で色んなことにクレームを入れて潰そうとする共産党。温泉むすめ、戸定梨香、月曜日のたわわ、そして撮影会。どちらがより差し迫った危険かなんて、少し考えればわかることだ。俺がずっと入れてきた一票がこんな連中に権力を与えていたなんて。EU離脱で後悔してるイギリスのブレグジット派の気持ちがよくわかったわ。俺のこれまでの投票は間違っていたんだ。ようやく気づいた。
加えて。近年の国際情勢に対する態度がありえなさすぎるというのもある。ロシア・ウクライナ戦争での岸田文雄の外交は日本外交の枠内ではパーフェクトだった。安倍晋三や菅義偉といった無能どもが外交をかき回すのを見た後だと、岸田のウクライナを支持するという一貫した姿勢は敬意に値するものだと思えるし、戦後日本の平和主義の体現だとも思った。だが、侵略戦争と防衛戦争とを「反戦」の名の下に一緒くたにし即時停戦を求める連中には心底呆れ返る。戦争への反省ってのは侵略戦争への反省ってことなんだよ、知らなかったのか? 大日本帝国の侵略と大日本帝国に対する中国人民の抵抗は、同じ「戦争」でも倫理的にまったく別物だろう。だが彼らにはこんな簡単なことがわからないらしい。
(沖縄の左翼に関しては、正直同情する。沖縄人は防衛という名目で自国軍から集団自決を強いられたのだから、防衛戦争にすらアレルギーを起こすのは当たり前だろう。少なくとも沖縄戦に関しては、日本軍がさっさと降伏していればあれだけ多くの沖縄人が死に沖縄の文化や歴史が壊され沖縄の土地が奪われることはなかったのだから……)
これまでは、共産党の国際情勢への認識がおかしくても許していた。地方議会でなら外交も防衛も関係ない。地域住民の暮らしを守ってくれていれば、ふつうの民衆の自由や権利を擁護してくれるなら、多少外交安保への認識がおかしくたって許せる。だからずっと共産党に入れてきた。自分の生活を良くするために。だけど彼らが自分たちの自由を奪おうとするなら、もう彼らに入れる必要なんて何一つなくなる。それどころか打倒すべき対象だろう。
とにかく選挙で共産党を地方議会から追い出さなければいけない。モリカケサクラみたいな疑獄の追及用に国会に数議席ある程度で十分だろう。自分にできることはなるべくやってみる。共産党には入れない。知人が共産党支持者だったら可能な限り説得する。地元で共産党やフェミニズム関係の催しがあるなら、行政にクレームを入れられる材料を探す(もちろん本来はそういうのも自由であるべきなんだけど、流石にそろそろしっぺ返し戦略を適用しても許されるでしょ……)。そうやって彼らに対抗していかないと。こんな連中に議席や権力を与えてはいけないのだから。
公共施設で過激なポーズのグラビア撮影や女子中学生の水着の撮影してた事を法律に違反してないから良い、そんな事言ったら家族写真も取れなくなるで通すのは無理だって。。こんなチキンレースは止めようよ。。
直ちに法律に違反してはいない、のだから、ここまで直前になっての中止要請は正当化しづらいだろう、というのはいい? 今後は年齢に関する新しい規則を厳格に適用しますよ、というのであればともかく、去年未成年を出してたから、今年作った規則に違反です! なんていうのはおかしいよね? これが「未成年との性行為」であれば問答無用でお取り潰しに遭うのも仕方ないけど、それほどの悪行ではないでしょう。「今月から新しい規則で未成年NGにするから年齢確認ちゃんとやれよ」程度の話ならここまで言わないよ。
っていうか、「過激なポーズ」って何? どういうポーズが過激なの? 俺はグラビアとか見ないからまったくわからん。健全なポーズ is 何? 何が過激で何が健全かを誰が判定するのか? 公共施設で過激なポーズはよくない、なるほど確かに、では公共施設で過激なアートを展示するのもいけませんね、と言われたらどう返すのか? 「過激なのはけしからんですなぁ」ってのは保守派のオッサンの決め台詞だろう。未成年云々の話には、未成年がまだ判断能力が未熟であることを考えると首肯できる点もあるが(たとえば「ドラマや映画で18歳未満の役者を使ってはいけない」という主張をする人が撮影会を叩くのは理解できる)、なんら具体性のない「過激なポーズ」はまったくの理解不能。「ならぬことはならぬものです」ってやつですか?
感覚的にはまったくの別物だけど、法的に禁止できるか? っていうと、いや厳しいでしょ、って話になるやつなので。友達の水着写真を撮ることや子役が出演する映画や子供の出るスポーツ大会(典型的には甲子園など。池江璃花子が日本代表入りしたのは15歳、宇野昌磨が世界ジュニアで優勝したのは17歳のときだっけ?)の中継はよくて、撮影会はダメ、というのは、感覚としては納得がいくけど理屈で考え出すと根拠がわからない(映画もスポーツ大会も撮影会もダメ、という立場は理解できる。子供には十分な判断能力がないから全部禁止、は、賛成反対は別として納得がいく見解)。
子供の判断能力を考えるなら、17歳のグラビアより、10歳の子役の方がよっぽど強制性高くて悪質でしょ、という判断になると思う。17歳でも未成年は未成年だ! グラビア撮影なんて認められん! という立場もあり得るけど、そうすると、たとえば16歳の高校球児は無理やりやらされてるんじゃないんですか、みたいな話になってくる。まあでも最近は、高校球児が投げたいと言っていても無理やり休ませるべきだ、という話になりつつあるようなので、未成年アイドルが脱ぎたいと言っていても無理やり止めるべきだ、という話になるのもわからなくはないけれど。
えっ!? 撮影者の性的興奮が基準なの!? そうすると、たとえばノンケの友人に頼まれて女子の水着姿を撮影しにきたゲイはセーフで、イケメン球児に興奮する女子アナや女子カメラマンは甲子園の中継や取材から外されるべきなの!? そんな馬鹿な! もっと真面目に考えてください。
こと規制の後出しやら突然の一律中止を決定したのは施設や行政という理解なのだが?共産党がアレコレ言っても規約や法に従って粛々と対応すべきだったと思うけどな。イレギュラーな対応した背景は気になる。
こういう見解には一理あると思っていて、とにかく役所側が何でもかんでもクレームに屈するのは、真っ当なクレームを入れようとする一部の人を萎縮させ、クレーマーを勢いづかせるだけなので、基本的には役所の側ももっとスルースキルを鍛えるべきという話はよくわかる。「自分のクレームですぐに変わったりはしない」と思えば少しはクレームを言いやすくもなるだろう。ただやっぱり、地方議会の議員さんは地方政府から見れば権力者でしょう、普通に……。
ところで、都議会自民党が都教育委員会に圧力をかけた結果、障害児向けの性教育が大幅に縮小されたとしたら、それは都議会自民党じゃなくて都教育委員会の責任ってことでいいですか? 自民党はクレームを言っただけで、屈する行政が悪いんですもんね? 俺のようなリベラル派は、んなもん自民党が悪いに決まってんだろ、って思っちゃうけれども。
完全に無料で、私的な時間を費やして書いていて、当然一銭の得にもならない。安倍晋三をこき下ろす増田も無償で書いたし、東京五輪への反対も無償で書いたし、それと同様に、これも無償で書いたということ。勝手に期待して勝手に失望しただけです。まあ所詮は根無し草の無名のリベラル派ですので。
吉良よし子に投票したり自民党支持者の友人の前で共産党への投票を公言したりしててもこんなふうに嘘認定されるんっすね~~~~~~。
まあ、国政や首長選では立憲やれいわに入れたりもしてたから、忠実な支持者ってわけじゃないけど、地方議会選挙はマジで欠かさず共産党に入れてたのに党からも支持者からもこの仕打ちよ。
こういうタイプの支持者がいるんだって知らなかった? 共産党に投票する人はみ~~~んな同じ考え方の人だとでも思ってました? 熱心に活動する人たちだけが票田だって思ってましたか? 違うんだよなぁ! 俺みたいに「外交と安保はゴミカスだけど福祉の充実や雇用の安定では頼りになるから比例と地方議会は共産党に入れとくか」って思って入れてた人もいたんですよ! そういう人からの支持は要らないみたいなんで、もう入れませんけどね!