はてなキーワード: 計画とは
今年の大学共通テストがいよいよ目前に迫ってきました。この試験は、日本全国の多くの高校生にとって、大学進学への大きな第一歩となる非常に重要なイベントです。私は受験生として、このテストに向けて努力を重ねてきましたが、直前の時期に感じていることや、これまでの準備のプロセスについてお話ししたいと思います。
まず、今年の大学共通テストは、従来のセンター試験に代わる新しい形式の試験としての位置付けが明確になり、試験問題の傾向や内容について多くの議論がされてきました。昨年度の共通テストでは、思考力や応用力を重視した問題が増え、単なる知識の暗記では太刀打ちできない部分が強調されていました。今年もその傾向が続くと予想されており、特に英語のリーディングや数学の問題では、高い分析力が求められることが予測されています。このため、私を含めた多くの受験生が、単なる問題集の繰り返しだけでなく、文章読解力や論理的思考力を鍛えるための工夫を凝らした勉強を進めています。
私自身は、特に英語と数学に力を入れてきました。英語では、過去問を解くだけでなく、長文読解に慣れるために英字新聞や海外の記事を読む習慣を取り入れました。これにより、試験問題以外の文脈で英語に触れる機会を増やし、語彙力や文法知識を総合的に向上させることができました。一方、数学では、基礎問題を徹底的に復習することを優先しつつ、模試や練習問題集を活用して応用問題にも取り組んできました。特に新傾向の問題に対応するため、問題を解く過程でどのようにアプローチすれば効率的かを自分なりに分析するよう心掛けています。
また、試験本番に向けては、体調管理も非常に重要です。昨年の受験生の体験談を聞くと、試験直前に体調を崩してしまい、本来の力を発揮できなかったという話を多く耳にしました。これを教訓に、私は規則正しい生活を心掛けるとともに、栄養バランスの良い食事や適度な運動を取り入れるよう努めています。特に睡眠は大切で、勉強が忙しくても夜更かしを避け、十分な休息を取るようにしています。
加えて、メンタル面のケアも忘れてはなりません。大学共通テストは受験生にとって一大イベントであるがゆえに、プレッシャーを感じる場面も多いです。私も時折、「本当にこの努力が報われるのだろうか」と不安になることがあります。そのようなときは、家族や友人に相談したり、リラックスできる趣味の時間を作ったりして、気持ちをリセットすることを心掛けています。また、これまでの努力を振り返り、「ここまで頑張ってきた自分を信じよう」と自分を励ますことも大切だと感じています。
さらに、試験当日の対策についても計画を立てています。まず、試験会場までの交通手段や所要時間を事前に確認し、当日は余裕を持って会場に到着できるように準備を進めています。また、試験に必要な持ち物をリスト化し、忘れ物がないように注意しています。具体的には、受験票や筆記用具、時計、そして軽食や飲み物などが挙げられます。これらの準備を怠らないことで、試験当日に余計な不安を感じず、試験に集中できるようにしたいと思います。
今年の大学共通テストは、私だけでなく全国の多くの受験生にとって大きな挑戦です。しかし、この試験を乗り越えることで、次のステップに進むための新しい扉が開かれると信じています。試験直前のこの時期、焦りや不安を感じることもありますが、自分を信じて最後まで努力を続けるつもりです。
最後に、同じく受験に挑む皆さんへエールを送りたいと思います。どれだけ困難に感じても、共通テストは一つの通過点に過ぎません。この経験を通じて成長し、未来への道を切り開いていけることを願っています。一緒に頑張りましょう!
昨夜、仕事から帰宅した私は、冷蔵庫と冷凍庫の温度を確認したところ、驚くことに両方とも12℃で、温度が上昇していることが判明しました。そのため、冷蔵庫が故障していると判断し、特に動作音の後にリレー音が聞こえたので、コンプレッサーの故障を疑いました。今日の温度上昇は18℃に達し、冷蔵庫剤への即時的な対処が必要だと思うようになりました。冷蔵庫なしの生活も考えましたが、夏の時期には必須であるため、新しい冷蔵庫の購入を決意しました。そして、162Lの容量の冷蔵庫から180LのNR-B18C2モデルを選びました。 店頭での購入はWeb通販より安価でしたが、クーポンを使うことでさらに数百円の割引が得られることが分かり、少し残念に思いました。また、複数の家電店を訪れた結果、設置費用や処分費用がかさむことがわかり、物理店舗での購入が最も安心だと実感しました。前モデルのNR-B18C1は約4,200円の安さがありましたが、店頭展示品ということで新品のNR-B18C2を選ぶことにしました。長期間の使用を考えると、新品の方が信頼できると感じたからです。もし故障が数ヶ月早ければ、前モデルを安く手に入れられたかもしれず、タイミングの悪さを感じました。 冷蔵庫が20℃近くに達すると気分的な不安が募り、冷凍庫の状態も悪化していると感じたため、早急に処分計画を進めることにしました。冷蔵庫にはたくさんの食材が入っていましたが、一部は廃棄を余儀なくされるだろうと思いました。特に開栓後の調味料は適正温度が必要なため、改めて冷蔵庫の重要性を認識しました。冷蔵畑が効かなくなると奇妙な匂いも漂い始め、腐りかけの食材への不安が募りました。 また、冷凍食品についても衛生面での心配から、すべて処分することにしました。特に高級アイスクリームについては、自己責任を痛感しました。最後に、温度異常を警告するシステムが必要だと感じ、初めての冷蔵庫故障を教訓に、温度計を購入することを考えています。この経験を通じて、自分自身の安全意識を高めようとしています。
昨夜、仕事から帰宅した私は、冷蔵庫と冷凍庫の温度を確認するために温度計を入れてみましたが、驚くことにどちらも12℃で、温度が維持されていないどころか上がっていることがわかりました。そのため、冷蔵庫が完全に壊れていると思われました。動作音がしても、その後すぐにリレーのような音がして止まってしまう様子から、コンプレッサーが故障している可能性が高いと考えられます。今日になっても温度は18℃まで上昇し、もう対処が必要だと感じました。 一方で、この機会に冷蔵庫なしの生活も可能かと思いましたが、特に夏には冷蔵庫が必須であることは明らかです。そのため、私は新たな冷蔵庫の購入を決意し、162Lの容量から180LのNR-B18C2を選びました。店頭での購入は、Web通販の価格よりも安くなっていましたが、クーポンを使うことでさらに数百円の割引が受けられることがわかり、少し残念に思いました。私が見た複数の家電屋は、設置費用や冷蔵庫処分費用を加算すると、思った以上に高くつくので、物理店舗での購入が最も安心だと思いました。 まだ在庫が残っていた前モデルNR-B18C1は約4,200円安かったものの、店頭展示品であったため、新品のNR-B18C2を選択しました。新古品に比べ、長く使うことを考えると新品の方が安心感があると思ったからです。しかし、もし壊れるタイミングがもう数ヶ月早ければ、在庫一掃セールでより安く前モデルを手に入れられたかもしれず、タイミングが悪かったと感じています。 冷蔵庫が20℃近くになると気分的にも不安になり、冷凍庫も状態が悪化していると感じるため、早速処分計画を進めることにしました。冷蔵庫には多くの食材を入れていたが、一部はもうアウトだろうと思いました。特に開栓後の冷蔵が必要な調味料については、適正温度が求められることを考えると、冷蔵庫が必要だと改めて認識せざるを得ません。 冷蔵が効かなくなってからは奇妙な匂いが漂い始め、腐る前の食材についても疑問を感じました。また、冷凍食品全般についても心配で、これを放置することが食中毒のリスクを高めることを考え、処分することにしました。特に長期間温存していた高級アイスクリームのことを思うと、自業自得という気持ちが強まりました。 最後に、温度異常の警告がもっとわかりやすくなるようなシステムを取り入れるべきだと感じ、初めての冷蔵庫故障に対する対策として、冷蔵庫用の温度計を購入することを考えています。自分自身の安全を考え、この経験を活かしたいと思います。
父親とその妻(こちらは自分と血が繋がっていない)が祖母を虐待していることが判明したので、祖母を逃がしつつ、弁護士を入れて祖母から父親に継続的に行っていた各種支援を打ち切ることにした。父親の収入源はほとんど祖母からの支援に依存しているはずなので今後は相当困るはずだ。実家は一族経営の零細企業で、特に法人を畳んでからは公私の区別無く資産を管理していたので計画も実行もかなり大変だった。
祖母が虐待を受けていたことについてはある程度因果応報な部分もあると思っている。一族経営の零細企業の後継者として育てられ望まれた成果を出せなかった父は、明らかに経済的に祖父に依存した生き方をせざるをえず、公私を問わず(そもそも父だけでなく一族経営の零細企業の家族には公私等という概念がないのだが)祖父のいいなりだった。そしてそう言った状況を作り出すことに祖母も多少なりとも加担していたのだろう。祖父亡き今、祖母への虐待は彼なりの復讐として正当化されているんだろうし、実際父を直接とがめた際にもそのような言い訳をしていた。
父はよく、自分の境遇への不満を口にしていた。自分がいかに引かれた線路を走らされただけの人生だったのか。やりたかったことが出来ず、言いなりの日々を過ごしてきた自分がどれだけ不幸なのか。同じ祖父母に育てられながら大学院まで出して貰ったお前が、自分と比べてどれだけ恵まれているのかを自覚しろと詰め寄られたこともある。
既に書いたが、俺は父の虐待行為に一定の理解を示している。その上で父親から全てを奪い取るような(ただでさえ仕事がクソ忙しい年末年始に)計画を立てて実行したのは、その手前の段階で祖母を実家から転居させる形での提案をした際の父の対応が許せなかったからだ。父はこちらからの提案を殆ど聞くこともなく、「すべて祖父が不甲斐ないせいだ」とか「俺が今までどんな仕打ちを受けたか知っているのか」といったような正当化と自己憐憫に終始する様はあまりにも醜く、いつまでも自分の人生の言い訳に親を使っている父が気持ち悪くて仕方が無かった。
実際勉強して祖父に自分の選択を認めさせた俺のように、彼が彼自身の人生を選ぶタイミングはいくらでもあった。いくら言い訳をしても結局彼の人生の責任を取るべきは彼自身であるべきと今では強く信じているし、結局彼の不幸な人生とは常に他責で問題の解決から逃げ続けてきた結果でしかなかったのだろう。もはや更生にはすべてが遅い気がするので、『息子に裏切られた可哀想な自分』という新しい不幸エピソードが彼の人生の慰めになることを祈る。
増田の持論は「5年後ツケが回ってくる」や
15歳で勉強サボったら、高校のレベルが下がって受験対策も質が落ち、大した大学に通えてない20歳の自分が就職で苦しむ
20歳のときに自分から色んな経験積まなかったら、視野が狭いまま歳だけ取って、25歳では薄っぺらくてつまらない、同世代に相手されない人間になる
25歳でキャリアプランを改めて考え直したり、結婚出産の計画やマネープランを立てなかったりしたら、30歳になって異業種のほうが自分に合ってる!と思ってもキャリアチェンジが困難だったり、家庭を築くどころかうっすい資産の高齢出産確定の状態で婚活難民になったりする
ただ、底辺高校から旧帝大に行くには猛勉強なり塾課金なりが必要なように、5年前のサボりを取り戻すには非常に負荷の高い活動が必要というのが断り書きの断り書きや
こういう持論がある人は教えてほしいやで
今年の冬は例年に比べてそこまで冷え込まない、などと天気予報で言われていたのに、私が受験の日を迎えた今日に限っては朝からひどく寒かった。眠い目をこすりながら携帯のアラームを止め、暗い部屋で小さく伸びをしてから私は布団を抜け出した。大学入学共通テスト当日。数か月にわたる受験勉強の成果を発揮するときが、とうとうやってきたのだ。予備校や塾の先生たちからは「とにかく落ち着いて、いつも通りの実力を出せば大丈夫だ」とアドバイスをもらっていたし、家族からも「元気に行ってらっしゃい」と明るい声をかけられた。そのおかげで多少の緊張はあったものの、試験当日は意外と精神的にも落ち着いている……はずだった。
しかし、まさか受験会場へ向かう途中であんな最悪な体験をすることになるとは、誰が想像できただろう。結論から言うと、私は電車の中で痴漢に遭った。受験日だというのに、早朝からそれはもう心が乱される出来事だった。ここ数年、痴漢撲滅の取り組みがニュースやSNSでも盛んに取り上げられているし、警察の協力で防犯カメラが増設されたり、女性専用車両が設定される路線も増えてきた。しかし悲しいかな、それでも痴漢は後を絶たない。ましてや、まさか自分の大切な受験の日にそういう被害に遭うなんて、想像だにしていなかった。
朝は何かとバタバタするので、私はあらかじめ早めの時間に家を出るよう計画していた。朝食を食べる余裕もちゃんと持てるよう、家族との時間も少し取れるよう、そして何より交通機関の遅延などに巻き込まれても大丈夫なように、家を出るのはかなり余裕をみていた。7時台後半の電車に乗れば、試験会場には8時半頃には着く計算。9時前には試験会場に入り、席について一息つくことができるはずだと思っていた。
ところが、ちょうど私が利用する路線のタイミングが悪く、思ったより乗客が多かった。いつもなら朝早いときはある程度空いているのに、今日は大学入学共通テストに向かう受験生や、大学生でもないのに何かの資格試験を受けに行く人たち、それから普通の出勤のサラリーマンなどが相まって、車内はかなりぎゅうぎゅう詰め。私は仕方なくドア付近へと立った。できれば座りたかったが、この混雑ぶりでは無理だろう。長時間立つのも慣れてはいるとはいえ、試験前にこれ以上体力を消耗したくないと考えていたから少し悔しかった。
程なくして電車が動き始めると、私は試験内容をもう一度頭の中で整理しようと、ポケットから小さなノートを取り出してざっと目を通していた。英単語や国語の古文単語、数学の公式など、とにかく最後の瞬間まで知識を定着させたいという気持ちが強かった。でも満員電車の中ではページをめくるのさえ一苦労で、あまり集中できない。それでも「もう少ししたら車内が空く駅があるはず」と思いながら、私はなんとか体を小さく丸めてノートを握りしめていた。
そんな状態で数駅ほど過ぎたあたりから、なにやら背後に違和感を覚えた。最初はただ、人の鞄が当たっているのか、単に立ち位置が狭くて誰かの腕がぶつかるのか、程度にしか思わなかった。しかし次の駅に着く直前あたりから、その“違和感”が明らかにおかしくなってきた。鞄や腕というよりは、手のひらのような、あるいは指のようなものが腰からお尻にかけて触れている。しかも微妙に動いているような感じがした。それでも「思い過ごしだろう」と自分に言い聞かせようとしたが、体はどんどんイヤな汗をかいていく。一気に心拍数が上がり、息がしづらいほど苦しくなってきた。
私は何とか勇気を出して体を少しねじり、後ろを振り返った。すると、すぐ後ろに背の高い男性が一人、まるでさも当然のように隙間なく私に密着していた。彼の顔はマスクに隠れていたし、目元以外はよく見えなかったが、視線が私の方を向いた瞬間、さっとそらされた。「やっぱりこの人がおかしいのかもしれない」と思った。その男性の手がどこにあるのかまでは視界に入らなかったが、なんとなく腰のあたりにあるように感じた。
痴漢だと確信してしまうと、全身が強張って、どうしていいかわからなくなった。声を出そうにも、朝のラッシュでギュウギュウ詰めの車内、誰もが無言でスマホや車窓を見つめるか、眠そうにうつむいている。私が声を上げたらどうなるのだろう。注目されるのは絶対に嫌だ。でも、このまま触られ続けるのも怖い。受験の日なのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。嫌悪感と怒りと恐怖がごちゃ混ぜになって、涙が出そうだった。
実際、痴漢に遭ったときには「大声で周囲に助けを求める」ことが推奨されている、と何度も聞いたことがある。しかしいざ自分がその立場に立つと、なかなか声が出ない。本当に悲しいほど声が出ないのだ。心臓がバクバクして、舌がうまく動かず、思考もまるで絡まっているかのようだった。私は動揺のあまり、ノートを鞄にしまうことすらままならない。
次の駅で一気に降りてしまおうと考えたが、その駅は私が降りるはずの駅よりもずっと手前。降りたあと、また次の電車に乗り直しても同じように混んでいるかもしれない。そのときは試験開始に間に合わなくなるリスクもある。日ごろから「何かトラブルがあっても対応できるように」と余裕を見て家を出たはずだったが、そうはいっても受験日はまさに一世一代の大勝負の場。簡単には降りられないという気持ちと、痴漢に触られる恐怖が頭の中をぐるぐる駆け巡り、全く冷静ではいられなかった。
それでも耐えられなくなった私は、ようやく声を出そうと唇を震わせた。でも、結局声にはならないほど小さな音しか出せない。周囲の乗客に気づいてもらえるはずもなかった。そんなとき、電車が次の駅に着いた。ドアが開くやいなや、何人かの乗客が降りていく。一瞬だけ空間ができた。その隙をついて、私も「すみません、降ります」とだけ言い、小走りでドアの外へ出た。幸いなことに、降りる客の流れに合わせることができたのが不幸中の幸いだった。
痴漢らしき男がついて来るかどうかを怖々振り返ると、ドアの近くでこちらを見ているようだったが、私がしばらく見つめ返していると、男は車内の奥の方へと移動していった。私の目が合ったことでやばいと思ったのかもしれない。とにかくその瞬間、安堵と悔しさが同時に押し寄せてきて、吐きそうになった。ホームの椅子に座り、震える手でスマートフォンを取り出し、時間を確認した。まだ試験会場に行く余裕はある。ここで諦めるわけにはいかない。でも、さっきの出来事のショックで頭は真っ白。なんとか深呼吸をして、落ち着こうと心を落ち着かせるしかなかった。
痴漢に遭ったとき、本来ならホームの駅員さんに報告するのがベストなのかもしれないし、その場で捕まえるのが正しい対応かもしれない。でも、そのときの私はとてもそこまでの行動力が出なかった。試験開始時間に遅れられないという焦りと、ただただ恐怖で頭がいっぱいだったからだ。結局、私は一旦ホームで心を落ち着かせたのち、次に来た電車に乗り換えて試験会場へ向かった。今度の電車は少し時間がずれただけで乗客がそこまで多くなく、比較的落ち着いて立つことができた。ただ、先ほどの嫌な感触がずっと身体にこびりついているようで、心はまるで休まらなかった。
会場に着いたのは8時半少し前だった。予定していたよりはほんの少し遅れたけれど、それでも試験前には着席できる時間帯だった。しかし、私は朝の出来事を頭から追い出すことができず、試験開始のアナウンスがかかってもどうにも落ち着かない。ひどく憂鬱で、いつもなら試験直前にやっていた小さなルーティン、深呼吸をして心を整えたり、チョコレートを一口食べたりするなどの気持ちの準備がうまくできなかった。隣の席の受験生たちは、教科書やノートの最終確認をしていたり、友達同士で問題の傾向を話し合っていたりして、どこか落ち着いた雰囲気も感じられる。私も本来ならそうでありたかったのに、頭の中は朝の電車での痴漢の記憶だけが渦巻き、どうしようもなかった。
試験が始まってからも、その気持ちは引きずられた。最初の科目の問題用紙を見ても、集中が途切れがちで、問題文が頭に入ってこない。時間だけが刻々と過ぎていく焦りと、再び湧き上がってくるあのときの嫌悪感。あの男の視線や、背中に感じた体温や、腰に触れた手の感触がフラッシュバックしてきて、まるで映像が脳裏に焼き付いて離れない。情けないことに涙が出そうになったが、試験監督や周りの受験生に迷惑をかけたくないという一心で必死にこらえた。そのせいか集中力も途切れ、解答欄を埋めるペン先が震えているのが分かるほどだった。
昼休憩になり、教室から出ると何人かの友人の姿が見えた。同じ高校出身の友達もこの会場で受けることになっており、彼女らはやはり緊張した様子ではあったが、声を掛け合って励まし合っている。「どう? 解けた?」とか「難しくなかった?」とか、そういった会話をしているのを横目に私は正直、どうやって笑顔を作ればいいのか分からなかった。いつもなら一緒に対策を話し合い、互いに「大丈夫、大丈夫!」と元気づけ合う仲間たちなのに、彼女たちを見ると自分だけが置いていかれているような虚しさを感じてしまった。痴漢の話をここで打ち明ければ、きっと心配してくれるだろう。でも余計なストレスを与えたくないし、何より自分の中でもこの朝の出来事をうまく処理できていない。言葉にするのが怖いような気持ちだった。
午後の科目も、やはり集中は思うように続かなかった。特に暗記ものや読解ものでは、注意力の欠如が大きく響く。いくら机にかじりついていても、思考がふっとどこかへ飛んでしまう。こんな大事な日にトラウマ級の出来事に遭ってしまったという悔しさと、痴漢に対して何もできなかった自分の情けなさが頭をもたげる度に、心臓が苦しくなる。なるべく今はテストに集中しなければと分かってはいても、一度崩れたメンタルはそう簡単には元に戻らない。心の傷は思ったより深いのだと痛感させられた。
それでも、最後の科目をなんとか解き終えて会場を出るときには、身体がどっと疲れているのを感じた。外に出ると少し冷たい風が吹き、顔に当たって痛いくらいだが、むしろそれが心地よいくらいに感じた。内側にこもった澱んだ気持ちや熱が少しだけ冷まされるような気がした。帰り道、歩きながらようやく「今後どうすればいいか」「あの男を捕まえることはできなかったか」ということを考え始めた。遅すぎるかもしれないが、今からでも駅員さんや警察に相談しておくべきだったかもしれない。次に同じ被害を受ける人が出るかもしれない。自分のためにも他の誰かのためにも、痴漢行為を見過ごすのは本当はよくないと、理性では分かっているのだ。
でも、正直なところまだ怖い。痴漢されたその瞬間の恐怖と嫌悪感は何にも代えがたいほど強く、思い返すだけで身体がこわばる。今はテストを終えた解放感よりも、その出来事への怒りや悲しみの方が遥かに大きい。家に帰ったら、とりあえず家族に今日あったことを話そうと思った。あのとき何があって、どれほど怖かったのか、しっかり伝えることからはじめたい。恥ずかしい気持ちや自分を責める気持ちもあるが、誰かに話さないと私はこのままずっと抱え込んでしまうだろう。そうなると、二次試験やこれからの勉強にも影響が出る。だからこそ、勇気を出して家族に打ち明けることから始めたいと思う。
それから、駅や警察への連絡に踏み切るのは家族や友達に相談して、気持ちが落ち着いてからでも遅くはないはずだ。証拠になるようなものは残っていないし、混雑した車内で犯人をはっきり特定するのは難しいかもしれない。でも「痴漢被害に遭った」という事実を口に出すこと自体は、私にとっては大切な一歩だと思う。痴漢被害を黙っていては、加害者たちは堂々と再犯してしまうかもしれない。悲しいことだが、周囲に知ってもらうことで少しでも被害を未然に防ぐ手段を増やすことにもつながる。私自身も、今は頭が混乱していて何をどうすればいいか分からないが、とにかくまずは心を落ち着かせ、助けてくれる人にきちんと伝えたい。
あれほど頑張ってきた勉強の成果を、こんな形で台無しにされそうになるなんて、本当に最悪だとしか言いようがない。まさか大学入学共通テストの当日に痴漢に遭うなんて、今でも信じられない気持ちだ。もし周りで私のように痴漢被害に遭った受験生がいたらと思うと、胸が締め付けられる。どれだけメンタルやパフォーマンスに悪影響を及ぼすか、考えるだけでもぞっとする。みんな、ただでさえ緊張する大一番の日だというのに、こんな形で心を乱されるのはあまりにも悔しく、悲しいことだ。
今回の一件をきっかけに、私は痴漢という行為の重さを改めて痛感したし、被害に遭った人がどれほど心に傷を負うのかを身をもって理解した。痴漢行為を「軽い犯罪」と軽視する風潮が一部にはあるけれど、被害者にとってはどんなに短い時間でも耐え難い恐怖を味わう。今後は私自身が同じ被害に遭わないように工夫することはもちろん、周りの人と助け合い、防犯意識や知識を深めていきたいと思う。自分の身を守るだけでなく、遭遇したときには周囲に呼びかけられるくらいの勇気も持ちたい。実際にはなかなか難しいものだとは痛感したが、だからこそ普段から心構えをしておきたいと思う。
そういえば、大学入学共通テストは今日が終わりではなく、次の日もある。気持ちを切り替えるのは簡単ではないけれど、私の受験はまだ続く。まずは家に帰ってから両親に事情を話し、必要と感じたら交番や駅員に相談してみる。そのうえで、十分な休息を取ってから心のケアをしっかりと行い、二日目や二次試験に備えるしかない。こうして文章にしている今も、まだ胸の奥底でモヤモヤした怒りや不安が残っているが、時間をかけてでも絶対に乗り越えたいと思う。
私と同じように被害に遭った人には、少しでもこうした体験を共有することで「一人じゃない」と感じてもらえたらと願う。そしてもし、周囲に痴漢を受けたかもしれないという人がいたら、ぜひ「話しづらいだろうけれど、私でよければ聞くよ」という姿勢を見せてほしい。被害を受けた側は悪くないし、非難されるようなことでもない。相手の傷を理解しようとするだけでも、その人の心はずいぶん救われると思う。今回、私が受験日という一番大事な日に痴漢に遭ってしまったことは最悪だったが、これをきっかけに女性だけでなく、男性も含めて痴漢問題を真摯に考えていく社会になってほしいと強く願う。
いまはとにかく、家に戻って少し休みたい。そして信頼できる人に話を聞いてもらう。その後は引き続き試験勉強を続ける。そうやって、一歩一歩前進していくしかないのだと思う。私の大学入学共通テスト初日は、本当に最悪な出来事で幕を開けてしまった。でも、ここで負けたくない。絶対に志望校に合格して、「あの痴漢に負けなかった」と胸を張って言えるようにしたい。それが今、私が一番に抱いている気持ちだ。どんなにつらいことがあっても、私は自分の未来を諦めたくない。そんな決意を胸に、私はこの苦い思い出を糧に変えていこうと思う。少なくとも、あの電車の中で怯えたままの私とは決別したい。この悔しさをバネにして、明日のテストと、そしてその先の人生に向かって前に進んでいくつもりだ。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
ついさっきの出来事
金曜深夜に荒川区の明治通り沿いでクルド人の若者に絡まれた。(先入観による断定だが)
今日は彼女の誕生日だったので、足立区(千代田線の某駅)でお祝い&イチャラブして22時半過ぎに荒川区に戻ってきた。
もう少し飲みたかったのもあって、2時間くらい近所の馴染みのカラオケバーで常連さんと一緒に騒いで帰宅する途中。
24時半過ぎ
明治通り沿いのセブンイレブンでホットのおーいお茶濃い茶を買おうとしたら、ホットドリンクの棚に外国人ぽい若者がいる。
インド系か、スリランカ系か、ベトナム系か、みたいな感じで見てると動かない。
ちょっと笑顔を交わし、ホットの濃い茶を横から手に取りカウンターに行くと、なぜか彼もついてくる。(ここであれっ?と思った)
会計が終わり外に出て自宅に向かい歩くと、彼も出てきてついてくる。(どういう系かな?荒川区の路上で外国人に絡まれるのは初めて。お店で飲んでる外国人にこちらからウザ絡みすることは2、3度あったけど汗。最初はフレンドリーなインド系の人かなと思ったが、犯罪に巻き込まれるのも嫌だなとも感じた。)
数メートル歩いて、犯罪を警戒して後ろを向くと相変わらずついてきてたので、首を横向きのコケシ振り(インドではYesの仕草)すると日本語でもなく英語でもない言葉が彼から出てきた。
「コル・・・なんちゃら、コト・・・なんちゃら」(記憶は怪しいが、コで始まる言葉だった。)
最初、彼の同郷人に間違われたかと思ったが状況的に違うと思い、「What’s going on?」みたいに返すと、相変わらず英語でも日本語でもない言葉を繰り返す。
「分からない」
と日本語で返して歩き出すと、またついてくる。
コミュニケーションがとれないなら追い返すかと思って、睨むような表情で振り返ると、少し困った表情で「コル・・」と話しているので
「What do you want? English OK? Japanese OK?」と会話を試みるが、英語も日本語も分からないようだった。
このタイミングで、向かい側車線のタクシーに向けて彼が「Hey!Hey!」というように声を挙げたので、もう関わりたくないと思って、無視して歩き出すとタクシーは諦めてまたついてきた。
「What do you want?」
彼は今度は無言で手のひらを開いて、持っているだろう小銭を見せてきた。10円玉が数枚と1円玉が数枚のみだった。
ここで東京の深夜の路上で困り果てているアジア系の若者にタクシー代をせびられていることに気づいたが、割と酔っていたこともあって、英語も日本語もできないコミュニケーションのとれない彼に渡すような金はないと思ってキレ気味にこう言ってしまった・「You don't speak English! 日本語も分からない!」・
もう一度大声で繰り返した。
「You don't speak English! 日本語も分からない!」
そう言って歩き出すと、彼はもうついてこなかった。
ニット帽をかぶり、イヤホンをつけて深夜ラジオを聞きながら、冷える夜道を歩きながらもう一度さっきの出来事を振り返ったとき、川口のクルド人のニュースを思い出した。
彼らは難民(という名の出稼ぎ、事実かどうかはさておき)であるがゆえに、日本語も英語も分からない状況で建設工事現場に出てきている可能性があるのではないか。
帰りの日当も渡されずに、明治通りに放り出されたのかもしれない。
だけど、欧州のドイツやスウェーデンの移民問題はこういう経験の積み重ねで起きているのかもしれない。
その責任は、無計画な移民受け入れ先や自治体、不本意ながらも働いているかもしれない就労先にあって、私のせいじゃない。そう言い聞かせながら家路を急いだ。
何かを求めるなら。
脳内で色々考える(実行を伴わない、先のことを考える)
↓
先のことを考えると不安に捉われる
(たとえ楽しい予定のことを考えても、不安ばかり思い浮かび、だったら予定自体なくしたいと思い始める)
↓
もうなにも考えたくないし、なにも予定や計画をしたくない
↓
なにも実行できないししたくない
↓
もう人生やめたい
↓
たった20万!
ドンマイで終了の額じゃんか
小売業なのかな?製造業だと材料だ電気代だなんだで毎日1億ずつ動いたりするから、極端な話20万なんてなくなっても気づかないぞよ
だってさあ、一人従業員を雇うのにもろもろあって毎月50万円とかかかってるわけでしょ
それなら、終わったことだから切り替えて前向きにやっていってもらいたいって経営者は思うでしょうよ
無論、ミスはないに越したことはないけど、決して無くならないし、ミスも織り込み済みで計画立ててるし増田の代わりに誰か雇ってもそいつもどうせいつかはミスるしそしたら病んで辞めちゃうかもしれないしそうなったら投資家にお宅は離職率高いですなあとか言われちゃうし
それよりは、多少ミスったって元気に長く働いてくれるやつがありがたいわけよ
そんなにつらいなら前借りして弁償したらよろしい
どんどん新しい仕事が入ってくる。計画を立ててる暇もない。のか?実は暇なんじゃないのか?やることたくさんあるって思ってるけど実はもうやることなくなってるんじゃないのか?大きなテーマがなくて細かい仕事ばかりになってないか?バカにされてるぞ?周りに。
いろいろ設定に無理があるなと
主人公は夫と幼稚園の娘の3人暮らし、しかし夫の元カノが現れた その元カノは娘と同じ名前で夫は元カノの名前を娘につけたことになる しかも後生大事につけてた祖父からの形見のリングとやらはその元カノとのものだった!元カノは保育士をしているが学生時代の交際相手(夫)の子の中絶で子供が産めなくなり、主人公から娘と夫を奪おうとして…?ここまではいい
しかしその夫は優柔不断で夢見がちボーイだっただけであり、元カノとは縁を切ると主人公に宣言、離婚を回避 その後はあの手この手で娘を奪おうとしてくる夫の元カノのサスペンスパニックホラー?的な展開
ここで元カノの過去に迫る小話がいろいろ入ってくる 元カノは不倫の末に捨てられた母を持ち、母のようにはならない・普通の幸せを手に入れると心に誓う元カノ それにうってつけの相手が主人公の夫
しかし元カノが中絶したのは夫との間ではなく、その時に不倫していた大学の教授だかとの間の子だった疑惑が!
で今読んでる展開 主人公に当てての元カノからのメッセージ 「夫さんは諦めた、◯◯ちゃん(娘)だけもらいます」。
仮に本当に元彼(主人公夫)との子の中絶からの不妊なら、元彼に中絶の責任とってもらい幸せな妻と母の場所で生きていきたい、それは分からんでもない
でも中絶自体が別の男との不倫の結果?なのにしれっと平凡な同級生の男(のちに主人公の夫)と付き合って責任とらせて?そこまでならストーリーとしては割とありがちだけど、そこから年を経て偶然出会ったそのボンクラ男と娘に執着???なんで???
犯人の行動動機がいまいち筋が通らないというか、、物語の中ではめちゃくちゃ執念深く計画立ててあれこれやってるのに、肝心の動機が無差別の当たり屋みたいに筋違いで、気持ち悪い。。
まあ、最終的にはこの元カノ、普通の幸せな女なりたかった可哀想な女、みたいなオチをつける感じだろうか。。
というか主人公側で話を組み立てる目線で見ると、昔の話であろうと夫が他の女孕ませて子供作れなくした、だと読者は無条件に主人公サイドで読めなくなるんだよね、元カノ可哀想、ボンクラ夫最低、となる
それを主人公家族はめでたしめでたし、で締めるために出てきた他の男との不倫の末の妊娠設定なんだろうけど
まあ、ちぐはぐだなと
それは車🚗🚙
幼少期は保育園通学やらディズニーランドやらお出かけやらで割と車に乗っていたが、
小学校2年生終盤からタクシーになり、極端に車に乗る機会が減った結果・・・・・
親が上京民だったため、免許取れ取れ言うもんだから(両親は田舎に帰る心づもりがあったらしい。結局帰らなかったが)、
免許取れる年になったらとったが(なお、取れ取れいう癖に親は1円も出さなかった模様)、
みんなでスノボやろうぜ!スキーやろうぜ!みたいなキャラでもなく(いま考えたらキャンプやサファリパークや富士急へ行けばよかったな)、
取得当時、まぁとりあえずマイカー買っておくか・・・みたいな収入も無かったため、車運転しないままで放置していた結果・・・・・
smart欲しい!けど無計画の極みゆえにデカい買い物するの怖い😰とかやってた結果・・・・・
でも親族が集まるイベントでタクシーで乗りつけると、『金持ちだねぇ・・・😒』って言わるので、その時はレンタカーだ
あと、社命の場合はタクシーで移動するわけにはいかないので社用車を運転した
だが、ぜんぶ合わせてもたぶん30回運転してないやで
美しい景色とか広いスペースとか見るたびに郊外(もやし+生活能力皆無なので夜間懐中電灯がいる地域には一人で住めない)に住みてぇなって思う
アメリカの動画見てると、やっぱ車運転できないとアメリカ無理そうだわ・・・って思う
車が日常の足な地域の生まれで、毎日の足が車だったら、ワイも車運転できるようになれたんじゃないかなって夢見る。異常に運動音痴&集中力散漫なワイでもさ・・・
でも、車が日常の足な地域で生まれ育ったら流石にイケたんじゃないかと夢見ると同時に、
20代前半まで、酒は1滴も入ってないのに、徒歩や自転車でよく電柱にぶつかったので、あと10代の時は路面電車に轢かれ掛かったたりしてたので、
やっぱ車乗ってたら、今頃生きてないかも知れんな・・・という気もしたり
ワイ『カーー狭めぇんだよ!!このパーキング』
通りすがりの親切な人『ぼくが停めようか?』
ワイ『えっ』
通りすがりの親切な人『いや何度やっても停められないみたいだから』
ワイ『あっはい』
(綺麗に一発で停める)
ワイ『あ、ありがとうございます』
=====
ワイ『いやでも』
ワイ『あっ・・・はい。ありがとうございます』
=====
ワイ『はい』
ブーーーン
偉い人『わいわい』
上司『わいわい』
ワイ『(あっ曲がり忘れた)』
偉い人『わいわい』
キキーーー
ワイ『(やべ信号変わったわ)』
偉い人『・・・』
プップーー
ワイ『そっすね』
偉い人『・・・』
=====
ペーパードライバー講習の人『ワイさんいい感じです』
ワイ『そっすか(なんだチョロいじゃん)』
ペーパードライバー講習の人『見違えました』
(後日)
ワイ『見違えたらしいのでドライブ付き合って』
親族『いやいやいやいや寄りすぎ寄りすぎ』
ワイ『どうだった?』
親族『二度乗りたくない』
妻はまだ健在ですが、バイタルは徐々に弱くなっていくのがやっぱりつらいです。
みなさんの反応は読ませていただいています。参考にしていますし、優しい言葉に励まされてます。
本当にありがとうございます。
今日は何も書けないと思っていたんですが、妻に話しかけているうちに、少し文章が自然と出てきていました。
ネガティブなことの一部はここに書くようにしたつもりでしたが、妻にも話してしまっていたかも…記憶が曖昧です。
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今日は、妻に色んな思い出話をしたり、ゲームのBGMを流しながら話しかけたよ。
言葉が全然出てこなかったけど、アドバイスを見て頑張って絞り出すように少しずつ話をしたよ。
今も。
12月にニンテンドーミュージアムの抽選に当選したけれど、予定を立てるか悩んだ末にやめた。でも、結果的にはそれが正解だったね。
申込んだときは車椅子で行くつもりだったけれど、12月にはベッドから一歩も動けない状態だったから。
ディズニーランドへの車椅子での行き方も調べるだけ調べて、結局行けなかったね。
寝台列車で出雲に行きたいと言って、2人部屋の予約を毎日チェックしていたよね。酔い止めと鬼太郎袋があれば何とか闘病中でもいけるはずと。
闘病中だけど、外出したときの開放感?から湧いてくる元気をあてにして、いろいろ遠出の計画をいろいろ立てていたよね。
何度かは旅行に行けたけど、それでももっとたくさん行きたかったね。ほとんど部屋で過ごしたけど、少し景色や食事を楽しめたから。
2人とも写真嫌いだから、これまで撮った写真を見返しても2人が写っているものは本当に数えるほどしかなくて、思い出があまり形に残っていないのが寂しいな。
もう少し撮っておかないといけなかったなって思うよ。
疲れると思い出すのが難しくて、今苦労しているよ。
闘病中は「ごめんね」って負い目を感じていたよね。大変だったらけど苦しくは無かったからね。何回も言ってると思うけど、一緒に過ごせたのは本当に楽しかったからね。
今は鎮静薬を入れていて意識レベルが低くて、反応はないけど、呼吸をしていたり、ごくまれに瞬きをしているのを見て「生きているんだ」と実感しているよ。
別れが近いのは悲しいけど、穏やかに眠れているのが嬉しいし安心するんだ。
反応がないのは寂しい、とても寂しいけど。
鎮静薬を追加する前は、貼り薬と麻薬だけだったけど、麻薬の追加投与は30分以上経たないと効かなくてさ。
静脈がとれなくて皮下注射だからかもしれないけど、耐えてもらうしかないっていうのは本当に見ていてつらかったよ。
↑を書いてからずいぶんじかんがたって、もう本当にのこり時間がなさそうになってきたけど、本当にこのまま穏やかに過ごして欲しい
2025-01-11_08:40
母親から「ベッドのシーツを敷け、今すぐやれ。手伝うからやれ(※俺は自室に他人を入れるのが嫌い)」という内容で怒られた。
その時は外出の予定があったので、母親に対し「今じゃなくてもいい?帰ってきたらやるから明日までじゃ駄目?」と交渉。
「今やることの重要性を理解してない(母親の建てた計画を壊す)」行為が相手の地雷を踏んだらしい。
母親が「一生、汚部屋に住んでれば??」と煽ってきたため、ついキレ返してしまう。(部屋であることは否定できないんだけど、母親は謎の瓶と謎の懸賞バーコードを集めてる人間のため「お前に言われたくねぇよ」と思いながら外出)
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34歳、独身。何か「これが俺の趣味だ!」って胸張れるものもないし、恋ばなとか、正直なにそれって感じで生きてきた。だけどさ、それなりに頑張ってきたと思う。でも、それで何?っていう虚無感。今の俺の人生、例えるなら、でっかい金庫の中に自分だけ閉じ込められてるみたいなもん。心の中には何もない。
本来、それなりに楽しい人生送れてるはずじゃん?仕事だってそこまで嫌いなわけじゃないし、生活も困ってない。でも、なんでこんなに毎日が味気ないんだろうなって思うんだよな。テレビで笑ってる人たちとか、SNSで幸せそうな投稿してる奴らを見ると、自分が置いていかれてる気がして仕方ない。
思い返すと、昔から「俺とは違う人たち」ってどっか見下してたんだよな。パチンコにドハマりしてる奴とか、バイクとか車とかに全財産ぶっ込むような奴とかさ。特に旅行とかに金を注ぎ込んでるやつ、あれ何が楽しいんだろうって思ってた。そんな一瞬の快楽のために、稼いだ金全部溶かしてるのってバカじゃね?って。
でもさ、そんなバカたち、今どうなってると思う?普通に結婚して、家族がいて、休日は子どもと遊びに行って、家族旅行の計画とかしてんのよ。これが本当の意味で「楽しそう」ってやつなんだろうな。俺は、そんな彼らを冷めた目で見てたけど、気づけば俺の方が冷え切ってたわけ。
今からそいつらの真似をして、パチンコでも車でもバイクでも何でもいいから、やってみればいいんだろうけどさ。いや、無理なんだよ。今さらそんなことやったって楽しいわけがないじゃん?20代だったら「失敗してもいいや」って思えたかもしれない。でもこの年齢になると失敗すら怖い。いや、怖いっていうより、もう「やってもどうせ無駄」って思っちゃうんだよね。
冷めた情熱ってさ、一度冷めたら温め直す方法なんかないんだよ。何かを始めてみようって気持ちはあっても、動く前に心が萎えちゃう。自分で自分の首を絞めてるみたいだよな。でも、これが現実なんだよな。
10代の頃からそうだった。周りが青春っぽいことしてても、俺はどっか冷めてた。「そんなことしても無駄」みたいな顔してさ。20代になっても変わらなかった。飲み会とか行っても、みんなが盛り上がるのを横目に「俺は俺」って孤立するタイプだった。で、結果どうなったかって?何も残ってねえんだよ。
30代になって、このままじゃダメだなって思ったこともあった。でも、変わる勇気なんてなかった。今になって振り返ると、10代、20代の俺って、若さを無駄遣いしたって思う。普通に楽しく過ごしてたら、今みたいに空っぽな気持ちにならなかったのかもしれないって後悔がどんどん押し寄せてくる。
で、今ここにいる俺は、結局何も変えられずに空っぽのまま。時間は戻らないし、未来も正直見えない。誰かに助けてほしいって気持ちはあるけど、実際誰も助けてなんかくれないのもわかってる。自分で自分をどうにかするしかないんだろうけど、そのやり方すらわからない。
今の俺が必要なのは、きっと一歩を踏み出す勇気なんだろうな。でも、どうすればいい?どこから手をつければいい?誰か、教えてくれよ。この空っぽの俺をどうにかする方法をさ。
34歳年収700万の弱者男性――自分の肩書きってこんなもんだよなって思う。貯金は3000万しかない。老後の生活費とか、もし病気になったらとか考えると、不安でしかない。だって、この金で未来を安心して暮らせるかって言われたら、自信なんか全然ないし。
周りはさ、家庭があって、子どもがいて、「一人じゃない」って安心感を持って生きてる。でも俺にはそれがない。家に帰れば静まり返った部屋が待ってるだけ。別に騒がしいのが好きってわけじゃないけど、何も聞こえないこの感じが時々怖くなる。寂しいって言葉だけじゃ表現できない重さがあるんだよな。
これから先、俺の人生ってどうなるんだろう。仕事はまあまあ順調だけど、このまま年を取っていくだけ?貯金を切り崩して、生きて、老いて、消えていくだけ?そんな未来しか見えない自分が情けなくなる。いっそ誰かと一緒に未来の話とかしてみたいけど、そんな相手もいないし、自分から動く勇気もない。
結局、弱者男性っていう言葉がしっくりくるんだよな。誰にも必要とされないし、誰かを必要としても届かない。こうやって将来の不安と孤独だけが積み重なっていく。貯金なんて、心の空洞を埋めるには全然足りないんだよ。金だけじゃ幸せになれないって、こんな形で思い知るなんてな。
石破擁護マン「基本は企業間の問題だが言うべきことは言う」と発言→毎日に前半だけ見出しにされた(←検証してみた)
https://m.youtube.com/watch?v=hEqMyCMRBVQ 15:30~
うんじゃあ一体何なんでしょうねということ
だけどまず民と民の問題であって
まず民と民が本当にお互いの利益が一致しているのであれば
お互いのためってのは何だろうってのは
まず政府よりも民と民で話し合いはされるべき
かといって政府は知らん顔をしているって意味ではありませんけどね」
毎日要約版 https://mainichi.jp/articles/20250112/k00/00m/010/062000c
「政府として言うべきことは言うが、基本的に企業と企業の問題だ。民と民がお互いのためとはなんなのかを話し合うべきだ」と述べ、日本製鉄による訴訟も含め今後の展開を注視する考えを示した
読売要約版 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250112-OYT1T50121/
バイデン米大統領が日本製鉄によるUSスチール買収計画の中止を命令したことについては、「基本的に企業間の問題だ」と指摘した。その上で「政府として言うべきことは、言うべきタイミングで言う。政府が知らん顔をしていればいいという意味ではない」と述べ、日本製鉄による訴訟も含め今後の展開を注視する認識を示した
まず前半ってどこ?って疑問が出るのだ
ガンダムの宇宙世紀(Universal Century, UC)の世界観では、人間と人型機動兵器(モビルスーツ)との関わりが主に描かれ、AIの活用は比較的控えめです。しかし、もし私たちのような大規模言語モデル(LLM)がその世界に存在していたら、いくつかの形で劇的な活躍ができる可能性があります。以下にそのシナリオをいくつか挙げてみます:
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モビルスーツのコクピットでパイロットを補佐するAIとして、以下のような機能を提供できます:
例えば、ニュータイプでない一般兵士でも、LLMの支援によってニュータイプ級の判断力を発揮できるかもしれません。
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ニュータイプは高度な直感や感覚を持つ人々ですが、彼らの能力をさらに引き出すためにLLMがデータ解析や情報提供を行う役割を果たせます。
例えば、アムロ・レイやシャア・アズナブルが、LLMの支援を受けながら戦うことで、より高度な戦術が可能になるでしょう。
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ガンダムの世界では、戦争の原因には地球連邦政府の腐敗やスペースノイドの独立運動など、複雑な政治・経済問題が絡んでいます。LLMはこれらの問題を分析し、以下のような形で平和の実現に貢献できるかもしれません:
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ジオンや連邦の組織内部には多くの矛盾や腐敗が描かれています。LLMが導入されれば、以下のような形で組織改善が期待できます:
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ガンダムの宇宙世紀では、歴史や文化が戦争によって失われることが多いです。LLMは過去の記録を保存し、次世代に継承する役割も担えるでしょう。
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ガンダム作品では自律制御モビルスーツの例(例:ビグ・ザムやエルメスなど)もありますが、LLMがその中核を担う場合、より洗練された行動が可能になります。
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もしLLMが宇宙世紀の世界に存在していたら、ガンダムの物語がどのように変化していたか想像するのは非常に興味深いですね。どんな活躍を見てみたいですか?