はてなキーワード: 入学とは
70年代末のジャニーズ冬の時代〜80年代初頭のたのきんブレイク期にジャニーズ事務所ファミクラに出入りしていた婆さんが身内にいるけど
その頃ですら女子大生短大生専門学校生高校生ばかりで高卒社会人なんていなかったんですよ
そもそも東京都心が通勤圏内にある金に余裕がある家庭の子女しか追っかけをするという発想がない
都心通勤圏は進学率が高い上に、昨今の少子化で不登校や通信制高校卒でも名のある大学に入学している
最初は親金で推し活して、足りなくなったり成人したら学校や仕事との掛け持ちで夜職やダフなどのバイトで資金を稼ぐパターン
なんか、昔からちょっと相性悪いなーとは薄々思ってはいたんだけど、いよいよしんどくなっている
発端は高校入学時に伯父が入学祝いとして時計をプレゼントしてくれたこと
そしたら母親になんかスイッチが入ってしまったらしく、事あるごとに
「高校につけていったら盗まれるかもしれないからつけるのはやめなさい」
「高校生にはもったいない、お母さんがつけてあげようか?」←マジで何?
という感じで、隙あらば使おうとしてきた
怖いので逆に毎日つけて登校してた
そしてメルカリでseikoの時計を買い漁り、日替わりでつけるようになった
いいでしょ〜とかなり自慢されたが、別にそう興味なかったので反応するのが大変だった
次が成人の際、振袖を借りなかった(家にあるのを着た)のでお金が浮いたからということで、成人祝いにダイヤのネックレスをもらった
そしたらまた母親のスイッチが入って、なんか高いのを買っていた
いつも私のと並べて「ほら!輝きが全然違う!」と言っていた
2回目くらいまでは本当に値段が違うと全然違うんだなあと感心したものの、3回目以降は完全に飽きていたので、反応に困った
自分でニューバランスのスニーカーを買って愛用していたら母親が大量にニューバランスを買っては自慢してきたり、ライダースジャケットを買ったらいろんな素材のライダースを取り揃え出したりしていた
実家を出てからは、なるべく新しく買ったものは母親の視界に入らないようにしている
うっかり新しく買ったバッグを使っていたら似たようなバッグを欲しがって面倒だった
親戚の助けは多分にあったとはいえ、女手一つで育ててもらって感謝しているけどあんまり会いたくない
まあ実際なるべく避けてて会ってないんだけど
なんか結婚とかすることになったら超めんどくさそうで紹介したくないなあ…
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
少し関係はあるが本題はそこじゃない。
問題は文科省が掲げてる『GIGAスクール構想』と言うもので、『子どもたちに1人1台、コンピュータ端末』と言う原則を掲げている。
この構想自体は令和3年から実施されていて、小中高の子供には1人1台のタブレットが支給されている。
今までは令和3年に購入されたタブレットを貸与し、卒業した人から回収して、次の新入生に貸与するというサイクルを取っていた。
問題なのは「令和8年度の新高校生から貸与を終了し、原則高校生一人一人が自分で購入する」と新たに子供たちに購入させることを決めたことだ。
今まではリース品を貸与・回収して繰り返し使っていたので新たな購入は発生しなかったのだが、来年度から一人一人が購入しなくてはいけない。
そして大問題なのだが、ほとんどの自治体(と言うか学校)で来年度購入するタブレットorPCの確保が、今の段階で全くされてない。
某G県やK県などは、いまだに貸与を続けろと言う抗議をしていて新しいタブレットの確保の動きが全くない。
毎年、新たに高校生になるのは300万人強だ。
(自治体が用意するのは公立高校のみだが)多ければ300万台の在庫が動くことになる。
その300万台が来年の春にどのように用意されるかが『業者への確保打診もされてない』。
これがどれだけ恐ろしいことか発注業務をしたことがある人ならわかるだろう。
確保の打診がされてないとか嘘乙。って思うかもしれないが事実だ。
何しろほとんどの学校でまだ『来年度なんのタブレットを使うかが決まってない』段階だ。
今までは用意された端末を配布していただけだが、来年度からは子供一人一人が買うので、入学する生徒の経済状況に合わせて推奨機種を決めなくてはいけない。
大学でノートPCを買わせるのと同じで、推奨機種は出すが何を購入するかは最終的に家庭の自由と言う形だ。
大学でできているんだったら大丈夫と思うかもしれないが、大学はもう何年もそういうことをやっているから業者側とも話が通ってる。
生徒が何を買うかもわかってないから、業者も来年タブレットが必要なことが分かっていても在庫を確保する動きが出来ない。
そして来年の年度末に合格者説明会で教えられた保護者が各々でわっと注文を入れる。
予想でしかないが推奨機種は必要数すら用意できない可能性がある。
特に学校はiPadを信頼しているのでiPadに大量の注文が入るだろうから、iPadあたりは来年の春品薄になる。
(appleは世界で在庫を持っているからすぐに解消されるだろうが)
生徒の中には実際に手に入るのが数か月後とか言うこともあり得る。
ここにメモリの高騰が状況を悪化させるだろうことは想像に難くない。
そもそもタブレットも含めてPCの値段が来年の春には1万円ぐらいは値上がりしているはずだ。
大量の需要で在庫がはけたら、今の値段を維持できずにしばらくロー~ミドルクラスのタブレットやノートPCが買えないことは最悪ありうるだろう。
オレはもし息子が女子枠のせいで希望の大学に入学出来なくなったら、一生制度を作ったフェミども(もしかしてむしろ文科省の公務員を恨むべきなんか?)を恨む自信があるわ
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3. 格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4. 結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義: テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点: 共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保: 大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論: 現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
→どうやら本当っぽい
アメリカでも信用度が高いとされるThe Atlantic誌の調査記事が出てる。
https://www.theatlantic.com/magazine/2026/01/elite-university-student-accommodation/684946/
At Brown and Harvard, more than 20 percent of undergraduates are registered as disabled. At Amherst, that figure is 34 percent.
ブラウン大学とハーバード大学の学部生の20%以上が障害者として登録されており、アマースト大学ではその割合が34%に達しています。
原因としては
2008年にアメリカ障碍者法が改定され「学習障害」が障碍に加えられることになったこと。
2013年に精神障害の診断と統計マニュアル(DSM-5)が更新されてADHDの診断基準が緩和されたこと。
そして昨今のADHDブームにより、診断を受ける若者が増えたことが挙げられている。
そしてコミュニティカレッジ(日本で言う短大みたいなもん)が3-4%なのも事実として指摘されている。
なぜここまで過大な差が開いているかはいくつか原因があると考えられるが
現在、アメリカの反ポリコレの民が大卒未満層が多いとされているのと同じように
コミュニティカレッジにおいて何らかの障碍を負っているということは負の側面のほうが大きいということ
言い換えれば知的エリート層では「障碍者差別」への忌避感の高さから公表するメリットが大きいということ
そういった情報にアクセスできるかどうか、診断書を得るための金(数十万)があるかどうかという点で
エリート校とコミュニティカレッジでは条件が違いすぎること
などが挙げられている
また障碍者を騙って入学を行い障碍者制度を悪用したとして裁判になる例も増えており
弱者であることがある種の特権であるような制度設計がエリート校ほど整備されているのも問題の一端となっている
つまり同じ能力であれば障碍者カードを切れる人間のほうが有利に立ち回れてしまう社会になっている
このあたりはトランスジェンダー問題と同じように現在、問題が大きくなってきているので
どこかで揺り戻しが来る可能性が高いんじゃないかと勝手に思ってる
だいぶん経ったと思うんだけど、結局あの時「トランスジェンダーを入れるなんて!」って怒ってた連中が危惧してたようなトラブルって何かあったの?
人口比率的にもほとんど入学者はいないだろうし、いたとしたらすでに十分移行が済んでいる見た目にも違和感のない人だろうし、せっかく入れた大学で問題になる行動もそんなにしはしないだろうし、「別に何も起こらず、数人の学生に安心できる進路の可能性が広がるだけ」という当事者達が言っていた以上のことが起きているような話は聞かないけれど。
もちろんトランスフォビアを抱えた他学生がそのせいで不快に感じるとかはあるかもしれないけど、それは当人の気持ちの問題だしね。
いまの反トランスジェンダーの運動って日本ではこれが出発点だとされることが多いから(2018年頃)、特に何もないならトランス当事者的にはただただ殴られ損なんだけど。
昔、京都大学に入学して京都で一人暮らしをしていた頃、近くに王将があった。今でも別にどこで食べても大差ない気はするけれど、その店のギョウザが食べたい気がする。京都大学じゃなくても、絶命館大学でも王将ライフは楽しめただろう。どちらの地域の方が王将密度が高いのかな?絶命は教員になると絶命するほど忙しいだけで、学生として在籍する分には絶命しないと思う。
選定基準
『ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います』に似ているので読まなくて良し
『弟のように思っていた年下幼馴染、実は女の子でした〜知らずにルームシェアを提案してしまった俺の末路……全部幼馴染の計算通りだったようです〜』に似ているので読まなくて良し
『モテたいので俺をパーティーから追放してください!』に似ているので読まなくて良し
『妻に浮気された夜からJKと同居することになりました。しあわせに暮らしているので今さら謝られても相手にしません』に似ているので読まなくて良し
『最強古竜の養子、常識を学ぶため入学し無双する~え、俺の母さんが伝説のドラゴン? いやいや、ただのトカゲですよ~』に似ているので読まなくて良し
『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』に似ているので読まなくて良し
『弟のように思っていた年下幼馴染、実は女の子でした』に似ているので読まなくて良し
『宮廷テイマー、コストカットで追放されて自由を得たので未開拓領域に使い魔の楽園を作ることにする ~竜も馬も言うことを聞かなくなったから帰って来いと今更言われても……もうエルフと同盟を結んだので……~』に似ているので読まなくて良し
『Sランク冒険者パーティーのサポート役をクビになった俺は、念願の錬金術師となりスローライフを送りたい』に似ているので読まなくて良し
『敵国のワガママ皇女の従者として仕えた僕は帝国から逃げ出す事にしました 実力を隠して自由都市で悠々自適に生活します』に似ているので読まなくて良し
『引きこもりの義妹が大人気VTuberなんだか配信を切り忘れて俺との会話が放送されてしまった〜内容が完全に放送事故で義妹のブラコンが完全にバレてしまった件〜』に似ているので読まなくて良し
『魔女と傭兵』『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』『我が焔炎にひれ伏せ世界』のキメラなので読まなくて良し
『断罪された悪役令嬢が送られてきますが、修道院はゴミ箱ではありません!』『失格聖女の下克上 左遷先の悪魔な神父様になぜか溺愛されています』のキメラなので読まなくて良し
『外れスキル〈チート・デバッガー〉の無双譚(バトルログ) ワンポチで世界を改変する』に似ているので読まなくて良し
『最強出戻り中年冒険者は、いまさら命なんてかけたくない』に似ているので読まなくて良し
『冒険者ライセンスを剥奪されたおっさんだけど、愛娘ができたのでのんびり人生を謳歌する』に似ているので読まなくて良し
というか読みたくても「エラーが発生しました。この小説は作者によって削除されました。」「エラーが発生しました。小説家になろう運営により非公開となった可能性があります。」なので読めない
「除籍」というのは学校教育法で記載が義務付けられている「退学」と違って
各大学が学則にそって定める制度なので意味することは大学によってまちまちです
東洋大学学則
https://www.toyo.ac.jp/assets/about/112730.pdf
第38 条 次に掲げる各号のいずれかに該当する者は、所定の手続を経て、除籍する。
(3) 第35 条第2項に規定する休学期間を超えた者
(4) 新入生で指定された期限までに履修登録を行わないこと、その他本学において修学の意思がないと認められる者
(5) 外国人留学生で出入国管理及び難民認定法に定める「留学」の在留資格の入国査証の発給が拒否された者
東洋大学では学生が自主的に申し出て大学を止めることを退学、その他の理由を除籍としています
場合によっては再入学も可能ということなので在籍記録を消されるなんてことでもありません。
デマをばら撒くのはやめましょう
行ったら、箱庭療法の箱庭があったりして、なんかそこにいるオバチャンと適当に話して終了したんだけど…😟
俺、そんなに変な絵を描いたのかな?
時期的に攻殻機動隊の1巻の頃なので、あれも模写してましたよ、木とか草とか…😟
そういえば、あの頃は個人的に超能力バトルみたいなの描きたくて、
ロシアの科学アカデミーみたいな胡散臭いところ出身の女性超能力者が主人公で、みたいなネタを毎日考えてて、
とりあえず、超能力バトルが単に描きたかっただけなんだけど、武装ヘリ描いたり、
雪山とか草木描いてるだけでバテてた気がする意味ねーなおい…😟
そういうのはハリウッドでやれよ、みたいな身の丈に合わないものを描く前に日常系とかちいかわでも描いてろよ、
というか、ちいかわもアレはアレで難しいよね、線が少ないなら少ないで難しい…😟
そういえば、木を描くには描いたけど、リンゴも描け、みたいな指示だったから、
上から取って付けたようにリンゴ描いちゃった気がするけど、何が問題だったんだか分からん…😟
Xのポストで、絵師に敢えて木を描かせるって何かのプレイなの?みたいに書いてる人いるけど、
俺も同じこと、大昔だけどテストのとき似たようなこと考えてたんだよね、
小学校入学前に判明する子は5〜6歳で確定診断が多いけど、3歳とかで確定診断される子は重度じゃん。
重度の子は療育早ければ治るとかの問題ではない。という子が結構いると思うぞ。知的障害も併発している子多いし。
逆に小中学生で判明する子は軽度が多い。
ここでその文を書くと、誤解が起きそうだから書いておいた。
俺はよくいろんな地方へ旅に出るが、なんやかんやその土地で文化系/サブカル/陰キャ/芋系/オタク女子を見るのが大好きなんだろう。
だって新卒の時に配属された人口数万の地方都市(一応ショボい大学はあるんだけど)ではそういう女子を見かけないからね。これは人口比だけじゃ説明出来ない。「都会には文化がある」かはさておき「かわいい陰キャ女子」ならたくさんいるってことくらいは言ってもよかろう。
高校入学の頃に一軍女子の癒し枠的なヤツにベタ惚れしていたこともあって、人生で唯一俺に告ってきたクラスの嫌われ者オタク女を好きになれなかった後悔(損した感)からそういう女子をどうにか好きになろうと自らを"調教"してきた節はある。
でもそれとは別に昔からAKBやらの美人顔の区別がまるでつかなかったし(嵐は多少いける)、大体同じだろとしか思わない。最近なんか顔面加工写真ばっかりでさらに似たり寄ったりだからワケがわからんし、写真どころか写される身体の方を弄るヤツも増えた。
きっとそれは地方都市に住みつつ国内地方旅行を繰り返す自分の趣向とも似て、商品として磨かれていないものを敢えて楽しむ趣向と自分の前にある陰キャ女子を楽しむ趣向が共通していないはずがない。
(ほら、よくマンガの話で「美男美女の方がブスよりも無個性的で描きやすい」ってあるじゃん?)
そして、俺は陰キャ女子を見る時に自分にも陽キャ的価値観に膝を屈することなく女と楽しく付き合っていける(例えば「たのピク」のように)可能性がある(あった)ことを"確認"しているわけだが、「文化がある」都会で陰キャ女子を見るということはそこそこの確率で男連れシーンを見ることを通じての"確認"にもなりえる。
別に陰キャ女子が俺みたいな陰キャ男子と付き合ってる分にはやきもち妬くだけだからいいんだけど、陰キャ女子が消費社会の頂点(そんなものがあるとして)に繋がるアルファオスの部類にメロついてるのを見た日にゃ「裏切りだ!」としか思えない。
ちなみに新左翼系の文献を読むようになってからは(竹内洋的造語癖か小山晃弘的マルキシズム趣味かもしれないが)「階級的裏切り」と呼ぶことにした。
俺はなるべく誠実でありたい。
俺は中学生の頃インターネットの「リア充爆発しろ!」的なノリに(別に面白いとは思わなかったけど)期待していて、非モテ連帯を信じて革命的非モテ同盟のクリスマス粉砕デモの隊列に加わろうとしていたが、どうも連中が「ネタ」でやっているらしく失望した。
何よりも許し難いのは常日頃「リア充爆発しろ」とか宣っておきながら恋人を作ると見せつけたら匂わせたりする連中のことで、そりゃあ「リア充〜」は恋人が欲しい気持ちの裏返しなんだから恋人を作ること自体は認められるべきだが、それにしても見せつけるのは「階級的裏切り」じゃないか?というか、自分が吐いた唾に対して不誠実じゃないの?
せめて俺は階級的に誠実でありたい。
この場合、誠実であることの証明は"やせ我慢"でするのがいいだろう。
(それも性的魅力に溢れる)から求愛されても断固断るべきなのだ。
年齢的な理由もあって非処女もイケるようになった俺がそれでも陰キャ女子が雑にセックスした話を嫌うように、いつか俺を好きになる陰キャ女子に「コイツ本当は陽キャ女子が好きなのに妥協しているのか?」と疑われるような過去を持たないように生きていたい。
(誠実でありたいので言うが俺は童貞は捨てた)
モテないからチョロそうな陰キャ女子を狙ってんだろ?とお思いの読者もいると思うが、現に陰キャ女子とも付き合えてないんだから、それは虚しい「努力」でしかない。
そしてギャルと付き合っていない現状が"主義"を貫いた(例えば冷戦期の日共党員だったかがわざわざ東欧のショボいおもちゃを子供に買い与えていたような)ためであるという証明は不可能だ。
読者は皆それは単なる非モテの結果だろうと冷笑するだろうし、俺もそう思う。
デジタル回路が「0」と「1」のどちらを示すかによってデータを表現することが主流な現代において「0」であり続けることに積極的意義だとか「強度」を見出すことは難しい。
だからこそ浅羽通明はゼロ年代に出した『昭和三十年代主義』で「確かに清貧は積極的に選び取られた価値観ではないが、だからこそいいんだ」(曖昧)と書きゼロ年代の昭和ブームに期待してみせたのだろう。
そして俺もまた「0」か「1」の世界で「1」であり続けなきゃならない圧に膝をちょっと曲げ「ギャルと付き合わない」主義を自嘲し、内実はともかくとりあえず「1」ではあるところの国内地方旅行(動いている)で美人などとは違い「0」では言い表せないほど多様な陰キャ女子を見かけて(見つけている)喜ぶしかない日々を送っている。