はてなキーワード: 受験生とは
はてなブックマーク創設期(2005年前後)には、ITリテラシーの高いユーザーが集まり始め、政治・社会系の記事にもコメントが付くようになりました。当初はユーザーコミュニティの規模が小さく、議論は活発でしたが、コメント内容には玉石混交の傾向もありました。例えば2007年頃には、ある有名ブロガーが「もしネット右翼のメッカが2ちゃんねるだとすれば、ネットイナゴ(烏合の衆)が集まるのははてなブックマークだ」と苦言を呈しています。
実際この時期、記事内容を論理的に批判するコメントは少なく、**「バカ」「○ねばいいのに」**といった過激な罵倒やスラングが人気コメント欄に並ぶこともあり、2ちゃんねる的な粗野さが指摘されました。
はてなブックマークのコメント欄は当初、必ずしも洗練された言論空間ではなく、極端な言葉遣いや叩きがスターボタンによって増幅されるケースも見られたのです。 とはいえ、この黎明期には既にリベラル寄りの思想傾向が芽生えていました。長年自民党政権が続く中、ネット上では反権力・改革志向の声も強まり、はてなユーザーも例外ではありませんでした。たとえば当時「はてな左翼(はてサ)」と呼ばれる進歩的ブロガー/論客が台頭し始め、歴史認識や人権問題で保守派を批判する動きが散見されます。
実際、南京事件や憲法9条などの論戦では左派的スタンスのユーザーが詳しい知識で議論をリードし、右派的主張に反論・説教するといった場面も見られました。
極端な例では、ある著名ユーザーが「『自衛隊は人殺し』『日本人という存在自体が悪だ』」とまで発言し物議を醸したこともあります。
こうした過激な表現はさすがに例外ですが、総じて反権力・リベラル志向のコメントが共感を集めやすい土壌が形成されつつありました。2009年の政権交代(自民党から民主党へ)の際にも、はてなブックマーク上ではそれを歓迎・期待するリベラル派ユーザーのコメントが多く見られ、長年の保守政権に対する変革への期待感が読み取れます。もっとも、この時期のコメント欄はまだ手探り状態で、思想的スタンスよりもコメント文化自体の模索が続いていたとも言えます。スター(★)による評価システムも始まったばかりで、どのようなコメントが支持を集めやすいか(ユーモア、皮肉、批判精神など)コミュニティ全体で試行錯誤している段階でした。
2010年代前半になると、はてなブックマークの政治系コメント欄ではリベラル(左派)的な論調がいよいよ優勢となっていきました。民主党政権(2009〜2012年)の発足や2011年の東日本大震災・福島第一原発事故といった出来事を契機に、反原発・反権力の声がネット世論で高まり、はてなでも人気コメントとして多くの支持を集めました。たとえば震災後の原発政策を巡っては、政府や電力会社を批判するコメントがスターを集め、「脱原発」「政府の隠蔽体質批判」などリベラル色の強い意見が目立ちました(※当時、多くのはてなユーザーが原発推進派の政治家・官僚に厳しい目を向け、代替エネルギーや市民運動を支持する姿勢を示していました)。また、2012年に第二次安倍政権が発足すると、保守色の強い安倍政権の政策(憲法改正論議や国粋主義的発言など)に対し、はてな人気コメント欄では批判的な論調が一貫して支配的になります。「はてな左翼(はてサ)」**と総称された進歩的ユーザーコミュニティがこの頃確立し、彼らが多くのスターを集めるコメントを量産したのです。
具体的な傾向として、保守・ナショナリスト的な対象への批判や揶揄が盛んでした。たとえば2012年前後には、大阪市長・橋下徹氏(保守的・改革派の政治家)に批判的なコメントや、石原慎太郎都知事の過激発言を皮肉るコメントが多数支持を集めています。実際、あるユーザーは「坊主(橋下)が憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺をもじり、橋下氏の行動全般を痛烈に批判してスターを集めました。
またヘイトスピーチなど社会問題化したテーマでは、右派的な差別扇動に対する強い糾弾が人気コメント欄を賑わせました。2013年頃から在日コリアンに対するヘイトデモが問題視され始めましたが、その際もはてなでは反レイシズムの立場から「表現の自由を履き違えた差別は許されない」といったコメントが支持を集めています(2016年のヘイトスピーチ解消法成立に至る世論形成にも、そうしたネット上の批判世論が背景にありました)。このように、2010年代前半のはてなブックマークはリベラル志向の論者が主導権を握り、保守的な主張や差別的言説には厳しい反応が集まる傾向が強かったのです。 同時に、ジェンダーやマイノリティの権利に関するトピックでもリベラル寄りのコメントが目立ちました。例えば女性やLGBTQの権利問題についての記事では、「多様性の尊重」や「男女平等」を訴えるコメントが人気化しやすく、ミソジニー(女性蔑視)的な発言や古い価値観への批判が数多く見られました。はてなコミュニティ内でもフェミニスト的観点を持つユーザーが増え、「はてな村」のフェミニズム論争が活発化します。これに対し一部では反発も生じ、2014年には匿名日記上で「はてブって女性のことになると、ネット右翼よりも全体主義の低能集団。集合知ではなく集合恥だな」という辛辣な批判も投稿されました。
この発言者は、はてなブックマーク上で女性擁護やフェミニズム的主張ばかりがスターを集める状況に苦言を呈したものです。「日本人だからすごい!女性だからすごい!──ネット右翼とはてフェミってどっちも変わらん」とも綴られており、愛国心を拗らせたネット右翼と同様に、はてなのリベラル・フェミニスト層も思考が偏っていると批判していました。このような反発意見自体が注目されるほど、当時の人気コメント欄はリベラル(時に急進的)一色になりがちだったと言えます。実際、2012年にはあるユーザーが右派系新聞記者(産経新聞の阿比留記者)への個人攻撃をたしなめたところ、「相手があの記者だから何を言ってもいいのか」と諫めた彼自身が「はてなサヨク」層から猛反発**を受けたというエピソードも伝えられています。
このように2010年代前半は、リベラル派ユーザーが結束してスターを投じ合い、彼らの価値観に合致しない意見には容赦なく批判が向けられる風潮が強まりました。 **まとめると、2010〜2014年のはてなブックマーク政治ジャンル人気コメントは「リベラル派が主導し、保守派・差別的言説への対抗言論が突出した時代」でした。民主党政権期のリベラルな改革期待、そして第二次安倍政権開始後の保守回帰への反動もあり、左派的なスタンスのコメントが常に上位を占める傾向が続きました。もっとも、コメント全体のトーンとしては皮肉や辛辣さも増し、しばしば断定口調で上から目線の批評がスターを集めるという独特の「はてな語り」**も醸成されていきました。
実際あるユーザーは2010年時点で「妙に上から目線で断定するコメントがスターを集めていて、いつの間にか自分まで嫌な人間になりかけた」と感じ、はてなブックマーク熱が冷めたと告白しています。
それでもなお、この時期は活発な左派言論によって他のネットコミュニティにはない独特の盛り上がりを見せていたと言えるでしょう。
2015年以降も、はてなブックマーク上の政治的コメントは基本的にリベラル(左派)優位の傾向が継続しました。 第二次安倍政権下で保守色の強い政策が次々と打ち出される中、人気コメント欄ではそれらを批判・揶揄する声が依然として主流でした。象徴的な出来事として、2015年の安全保障関連法案(いわゆる安保法制)強行採決があります。このときは国内で大規模な反対デモ(SEALDsなど若者中心の抗議運動)が起きましたが、はてなでも法案に批判的な意見が圧倒的多数を占めました。「憲法違反だ」「民主主義の危機」「戦争法反対」といったコメントが軒並みスターを集め、安倍政権の右傾化への強い警戒感がうかがえました。また2017年前後の森友・加計学園問題(政権スキャンダル)でも、真相解明を求める論調や「安倍晋三首相は責任を取れ」といった厳しい批判コメントが人気上位に並び、政権追及一色の様相でした。このように安倍長期政権に対する不信・批判がはてなでは一貫して根強く、人気コメントの思想的スタンスは反権力・リベラル路線が盤石だったといえます。 同時期、社会文化的な論争でもはてなの人気コメントはリベラル派に軍配が上がることがほとんどでした。例えば2018年には東京医科大学の入試差別問題(女子受験生の点数を一律減点)が発覚しましたが、このニュースに対しては「時代錯誤な男女差別だ」「女性の機会を奪う不公正」という糾弾コメントが大量に付き、スターを集めました。さらに2017年頃から世界的に#MeToo運動が広がり、日本でも伊藤詩織さんの性暴力被害告発が注目されましたが、はてなブックマークでも彼女を支持し日本の性暴力問題に警鐘を鳴らすコメントが多数賛同を得ました。逆に、杉田水脈議員による「LGBTは生産性がない」発言(2018年)など保守政治家の差別的な発言に対しては、「公人として許せない」「差別そのものだ」と厳しく非難するコメントが目立ちました(抗議デモの記事にも「まず謝罪を」「議員辞職すべき」といったユーザーの声が集まっています)。
このように、ジェンダー平等やマイノリティ人権の擁護など進歩的価値観を支持するコメントが引き続き優勢であり、はてなにおけるリベラル志向は揺るがないままでした。 しかし、2010年代後半になると、そのリベラル優勢が「行き過ぎた内輪化」として指摘される場面も増えてきます。活発だったユーザー層が次第に高年齢化し、新規参入者や多様な意見が減ったことで、「同じメンバーによる同じような主張」が目立つようになったのです。実際2020年直前のある分析では、「最近のはてブは負のオーラがすごい。一般感覚とかけ離れた左寄りコメで埋め尽くされ、陰謀論じみた人気コメントがトップになることもある」と嘆く声がありました。
このユーザーは「明らかにユーザーが高年齢化し、40代前半くらいのおっさんばかりになった」と指摘しています。つまり、ネット上で極端なイデオロギーを露わにする層は中高年男性が多く、はてなブックマークは左翼のおじさんの溜まり場になってしまったという自己分析です。この指摘の通り、2015〜19年頃の人気コメント欄では、同じ論調・メンバーがスターを付け合って盛り上がるエコーチェンバー化が進行した側面があります。「安倍政権=悪」「リベラルこそ正義」という大枠に沿うコメントは容易に支持を集める一方で、それに異を唱える意見は最初から敬遠・排斥されやすい空気が醸成されていました。 もっとも、当のリベラル派ユーザーたちは自分たちの主張を**「正論」「市民感覚」だと信じていたため、そうした内輪化を自覚しにくかったようです。はてなブックマークを長年使ってきた一部のユーザーには閉塞感も広がり、2010年代後半には「最近のはてブはひどい」「昔はもっと面白い情報が拾えたのに」という懐古的な意見も増えました。例えばある匿名日記では、「2年以上前から“はてブは終わった”と言われているが、最近本格的に面白い情報が見つからなくなった気がする」と嘆かれています。この背景には、政治ジャンルに限らずホッテントリの固定化(いつも似たような記事・コメントが上位に上がる)や、新興メディア(NAVERまとめ、Togetter、Twitter等)への関心分散がありました。 総じて、2015〜2019年はリベラル優勢が定着する一方で、その強い傾向ゆえの弊害(画一化・内輪化)も指摘された時期と言えます。依然として人気コメントは「右派批判」「市民目線の政府批判」が主流でしたが、その論調はどこかマンネリ化し、新鮮味に欠けるとの声も出始めたのです。
ただ、この頃まではまだ保守的論調が人気上位に食い込むことは稀で、基本路線としては**「反自民・リベラル」**の牙城が守られていたと総括できます。
昔の大学生(団塊~それ以前)の方が頭が良かったみたいなことを言う人がいるけどそれが怪しいものだと感じられる記述を発見した。
「崩壊する日本の数学」によれば昭和20年代の東大入試には一次関数の式を求める問題が出ていたらしい。
筆者自身が受験生だったあたりのころにも教科書レベルの単純な三項間漸化式の一般項を求める問題が出ていたそうだ。
今の東大その他難関校の入試がここまで難問になっているのは、競争原理によってどんどん学校同士がお互いを意識して難易度を釣り上げていった結果だそうだ。
「そんななら俺でも入れた」って思う人も多いのではないか?本当に昔の大学は頭が今と比べてよくないと入れなかったと考えていいのだろうか?
でもなあ昭和20年とかの教育水準の環境で生まれてたら多分今よりも解ける問題のレベルが下がるのは当然だから、地頭ってことで考えるとそう単純に結論を出せるものでもないのか?
江戸時代にタイムスリップすれば四則計算できるだけで俺ツエーできるからなあ(といっても士族=必ずしも学者階級ではないは四則計算は普通にできるからなあ)。
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東京科学大学をはじめとする理工系大学で導入が進む女子枠制度は、受験制度におけるジェンダー不均衡の是正を目的としたアファーマティブ・アクションの一環である。本来これは、社会的・構造的要因によって理系進学を阻まれてきた女性に対し、機会の平等を保障するという、意義ある制度であった。
しかし、その運用が現場の実態と乖離すれば、教育機関における公平性や学問的整合性を大きく損なう。実際、近年では都内の上位進学校において、一般入試では合格が難しい女子生徒が、東京科学大学女子枠制度を活用して進学するケースが目立っている。こうした受験戦略が「枠取り合戦」として定着し、制度の理念とは裏腹に、学内では“姫”のような立場を享受する構造すら生じている。優遇措置が、かえって新たなヒエラルキーや分断を生むリスクを孕んでいるのだ。
一方、ネット上では“チー牛”と呼ばれる男子層が、「女子に近づきたくて女子枠を叩くチー牛を叩く」という、ジェンダー平等を謳う制度が、皮肉にも学生間の関係性をより複雑で不健康なものにしている側面がある。
さらに制度の空洞化を示すのが、進学後の進路選択の偏りである。女子枠で入学した学生の多くが、電気電子・機械・土木といった基幹工学分野ではなく、経営工学といった文理融合型の分野に集中している。いわゆる「アクセンチュア直行型」の学部卒キャリアを志向する傾向が強く、技術系の職場に女性人材を定着させるというアファーマティブ・アクションの目的とは明らかにかけ離れている。
もちろん進路選択の自由は尊重されるべきだが、それでも制度が本来掲げた「現場の構造的ジェンダー格差の是正」という課題に向き合う姿勢が、現在の運用には見られない。代わりに、「女子比率」という表面的な指標を満たすことが制度の自己目的化し、形式ばかりが優先される現状は、制度の持続的正当性を損ないかねない。
制度の背景には、大学側の思惑もある。研究費獲得、広報戦略、官庁へのアピール、さらには教員の業績評価の一環として、「女子比率」の数字を積み上げることが求められている。その結果、「教育機会の平等」を謳う女子枠制度は、補助金と組織評価の手段として機能する“数字合わせ”へと堕している。加えて、特定の大学ではこの制度を擁護する目的で“ジェンダー教育”が必修化され、特定の価値観を一方的に学生に刷り込むという、教育の中立性を脅かす事態すら起きている。
問題は制度の存在そのものではない。むしろ重要なのは、その理念を現場にどう実装し、どのような出口戦略を描くかである。現行制度は「入り口の公平性」ばかりを強調し、「出口の整合性」――社会における役割・貢献――を欠いている。このギャップが、制度への信頼喪失や“制度疲労”として表出しつつある。
受験制度は、単に点数を競うものではなく、社会の価値観と接続された制度設計そのものである。理念だけが先行し、実態がともなわない制度が継続される限り、受験生は制度全体への信頼を失っていく。すでに一部の男子受験生の間では、「理不尽な女子枠と向き合うくらいなら、男女平等が保証された医学部再受験のほうがまだ納得できる」という声すら聞かれるようになった。
多様性を推進する制度は、数値ではなく内容に、枠ではなく質に光を当てるべきである。受験制度こそが社会の縮図である以上、教育の現場には、最も厳密な公平性と透明性が求められている。
友人が女子枠を使おうとしている。特定回避のため大学名と学部は明記しないが、難関国公立大学のうちの一つである。
彼女は賢い。日々懸命に勉強しているし、必死に努力している。しかし、女子枠が逆差別の仕組みであることは理解していない。いや、しているのかもしれないが、そのことに言及をしたことはない。
彼女はその大学に入学するに値する人物だと思う。真面目だし、理系分野への好奇心も旺盛だ。一度も大学に行ったことのない私がこんなことを言うのはおかしいのはわかっているが、彼女はきっと、真摯に勉学に励む大学生になると思う。
しかし、女子枠を使おうとしている。彼女が女子枠についてどう考えているかわからない。多分、受験できる機会が増やせるなら受けておこう、ぐらいの気持ちだと思う。
それは受験戦略として正しい。金持ちのボンボンや嬢ちゃんが私立大学乱れ打ちをするように、彼女は生まれ持った女性という性別を使って受験しようとしているだけだ。
友人が女子枠を使おうとしているのを知った時。私はそれを肯定してしまった。
受験の機会が増やせるのは良いよね、◯◯オリンピック頑張ってたもんね……
女子枠を使おうとしている賢い友人への落胆を振り払うように、私は女子枠を使うことを後押しした。
女子枠を使って入学した友人のことを想像する。私も含めた、世間の人が想像するような「女子枠」女子にはならないだろう。苦手な社会や国語から解放されて、自分の好きな化学について存分に学ぶ姿が想像できる。
まぁ私は大学に入学したことがないので、あくまでもすべて想像に過ぎないのだが。
まだ彼女が女子枠を使うと確定したわけではないし、使ったとて必ず受かるわけでもない。
それでも、「女子枠」を使った友人を肯定しながら、女子枠を非難することは許されるのだろうか。私は一生、彼女を「女子枠」だと心の奥底では思って接してしまうのだろうか。
悪いのは制度であり、使う人ではないのだ。そう自分に言い聞かせながら。
なーんちゃって⭐︎
女子枠だろうと指定校推薦だろうと一般だろうと受かれば全部一緒。それを人格にまで当てはめて考えるのは愚かしいことだよね⭐︎
あ、ちなみに東京医科大学の女子及び浪人生一律減点には賛成しています。当該者だったら死ぬまで恨むだろうけれど、私は医療サービスを享受する側の人間なので、女性の比率が増えるにつれて不都合が起こるなら減らしてもらった方が良いです。減点じゃなくて少ない人数を取る方式にすればよかったのにとか思うところはあるけれど、私立だし、別に良いんでない?
ちなみに、受験生の男女比はどんなもんなんだろ
「教え子の 胸に灯しし そのひかり 絶ゆることなく 世を照らしけり」
柳 傲雲『照道遺詠』より
一、詩人・柳 傲雲について
柳 傲雲(りゅう・ごううん、紀元前192年~紀元前120年)は、前漢時代中期に活躍した思想詩人であり、孔子以降の「徳の詩人」として名を馳せた人物です。
若年より老荘・儒家・墨家の教えに通じ、詩を通じて「師弟の縁」や「教えの永続性」を主題とした作品を数多く残しました。
晩年には宮廷を離れ、楚の山中に隠棲し、弟子たちに囲まれながら「照道遺詠」という詩集を著しました。本作はその中の最後の詩とされています。
この和歌は、表面的には師の死を悼む詠でありながら、真に歌われているのは「教えの光の永続性」です。
教え子の 胸に灯しし そのひかり
師は言葉や行いによって、教え子の胸に灯(ともしび)を灯した。
絶ゆることなく 世を照らしけり
その灯は師の死によっても消えることなく、教え子の行いを通じてさらに世界を照らし続ける――。
この詩には、儒家思想の「仁」や「伝道」、道家の「自然と永劫」の観念が絶妙に融合されています。
また、「灯」という語の使い方は仏教的な転生・灯明思想を先取りしているともされ、一説には仏典が中国に伝来する以前に、すでに精神的な「継承と光明」の象徴表現を確立していた証左とも言われています(※創作的解釈)。
三、後世への影響
柳 傲雲のこの詩は、後世の科挙制度における受験生たちの座右の銘とされ、師弟関係の理想像として長らく引用されました。
唐の杜甫はこの詩を範として「懐師詩」を詠んだという伝承もあり、宋代の朱熹は『朱子語類』の中でこの詩を「教化の極み」と称しました。
この詩が現代においても語り継がれる理由は明快です。人は去っても、志は残る。光は受け継がれ、やがて新たな光源となる。
教えるという行為は、単なる知識の伝達ではなく、「未来の光を託す営み」であるという深い真理を、たった31音で語りきったこの作品は、まさに時空を超えた遺産なのです。
の言う事、どっちを信じるかなんて明白だよなぁ!
Togetter にまとめられた 「ここ1、2年で大学入試の試験会場や開始時刻を間違えて来る受験生が急増しました。」を読んで胃が痛くなった。
https://togetter.com/li/2535697?page=2
なぜなら、私は、実際に大学入試(推薦)の「試験日」を間違えた子の親だからだ。
思い出すだけで辛くなるが、幸い今、うちの子は別の大学で元気に勉学に励んでいる。
当時、どうしてこういうことになったのか、嫌と言うほど考えたので、そこで思った理由をここに書いてみる。
今後、同じような受験生が出ないことを祈って。
先に書いておくと、おそらく大学側でできることはたくさんある。今どきの子は・・と言うのはあまりに当人にかわいそうだと思う。
そして、全般的に私立大学は間違えを防ぐための工夫がされているが、国立大学は罠が多いケースが多い。
・ 受験を意識し始めたときには新しい募集要項が公開されていない。なおかつ、古い募集要項が残っている。
↑ 次の理由との組み合わせで、古い募集要項を最新のものと勘違いしてしまう。
・募集要項に書かれている年度(入学年度)を、受験を行う年度と間違えやすい
↑ 募集要項に「令和5年度」と大きく書かれていると、令和5年度に実施する試験だと思い込んでしまう(正しくは令和4年度に受験する)
↑ これは信じられないかもしれないが、本当にそうだった。親が受験票を見ても受験日はわからない。ネットにアクセスして得られる情報を参照するしかない。
・スマホの画面の情報は親子で確認しにくい。そしてネットリテラシーは、子どもの方が高いと思い込んでしまう。
↑ ここ数年での話は、これが当てはまりそう。つまり、紙媒体ではなくてネット上の情報を見る、ということになったとき、主導権が親から子に移る。
子どもが、スマホで受験日を確認していた時に、スマホの扱いは子供の方が得意であり、スマホの所有者は子どもであることから、主導権が子どもに移ってしまう。
わざわざ親が画面を覗き込んで「裏を取る」ことをしないですませてしまう。まさかうちの子が受験日を間違えているとは、思っていなかった。
↑ ここ数年の大学受験関係者でないとわからないと思うが、入試が多種多様化していて、めちゃくちゃ複雑。志望する学部学科の該当する試験の要項を見つけるだけで大変。その中で、受験のための手続きも煩雑で、それ以外のところに注意が分散してしまって「試験日」という最重要項目への注意が低下してしまったことも理由だと思う。
結局、前年の受験日に会場に行ってしまい、それは実際の受験日の次の日だったので、親子で泣き崩れたよ。
1日早めに行ってしまったのなら問題ないが、終わったあとではどうしようもない。
親としても情けない。
どうか、こういった不幸が無くなりますように。
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思ったより関心を得られていて不要な心配が発生してしまっているようなので、釣り気味なタイトルを謝罪するとともにあらすじを追記しときます。
という話です。
殆どの人は直接関係ないし、さすがに5年後10年後とかには改善されてるといいな。
近いうちに15歳での更新をむかえる人が手続きのスケジュールたてるのの一助となれば。
(追記ここまで)
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10歳のときにつくったマイナンバーカードの有効期限は15歳の誕生日までとなる。
期限切れを発生させずに更新するには14歳のあいだに手続きをする必要があるが、その場合、「署名用電子証明書」が発行されない。
15歳からも使えるようにするための更新だし、普通に発行されると思っていたので割と念入りに確認したが、誕生日以降でないと発行できないとのこと。
仕組み的には証明書の有効期限を15歳の誕生日以降にすればよいだけのような気がするが、そういったこともできないらしい。
この情報、自分が知りたくてネットを探したけど見つからなかったのでここに記しておきます。誰かのお役にたてば。
(以下、愚痴です)
最近はオンラインでの本人確認で署名用電子証明書を使うことが結構あるので普通に困る。
総務省の説明でも「*原則として*発行しません」とあるので、どういう場合に発行されるのかを役所の人に聞いてみたけど「理由がなければ基本的には発行しません」の一点張り。
「(数日後に)15歳になったら必要になるので」では理由として認められなかった。
ちなみに、パスポート申請や銀行のオンライン本人確認も理由としてあげたけどダメでした。
# 『15歳未満は親権者が代理でできるから』と言われたけど、この14歳は数日後には15歳になってしまうのだよ...
## 余談だが、電子証明書発行の手続きをしてから実際に使えるようになるまでは数日のリードタイムがあるので、仮に今日証明書を発行できたとしても使えるのは15歳になったあと...でもダメなものはダメ。(それはそう)
(お役所だし、もしかしたら14歳時点で更新したら証明書発行されなかったりするのかも...)とか思ってちょこちょこ検索とかしてみたけど、
「発行されなかった」と明言しているものは見つからなかったので流石に杞憂過ぎたかと思ってたら、全然杞憂じゃなかった。
デフォで発行されなくても、申し出ればやってくれるだろうと高をくくってたけど、けんもほろろ。
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通常20歳まで使うカードなのに、期限に間に合うように更新すると証明書が発行されないのが意外だったという愚痴です。
『必要な理由』を問われても、国がいう『マイナンバーカードで便利になること』を享受したいからでしかないんだけど、それ聞くの?っていう
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(追記)
「暗証番号設定のためだけにまた役所に行くのが面倒だ」というより、
「事前に知ってれば、(自分の場合は)誕生日後に取りにきたのに」と思ったので、情報としてネットの海に放流しました。
何人からか指摘があるように、15歳での更新だけが特別"損"というわけでもないのだけど、
タイトルはちょっと釣りぎみにしときました。ここは増田なので。
マイナンバーカードはもうじきアプデあるみたいなので、この辺のアホらしさが解消されてるといいですね。
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「役所に行けばいいだけ」なんだけど、15歳の中学生が役所に行くのは割と困難ですよ。土曜も部活があるし、受験生だし。
マイナンバーカード更新のために頑張ってスケジュールしたのに、直後にまた来いってなったら脱力するよ。
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(もう誰も読んでないと思うけど、ひっそりと追記)
ここで愚痴るよりも意見窓口に言った方がよいというご意見をいくつかいただいたので、
デジ庁と総務省のフォームから、『15歳での更新で(カード受取時14歳でも)、署名用電子証明書を発行して欲しい』旨を意見しておきました。