はてなキーワード: レッテルとは
一般枠に女子枠を入れ込むから問題なのであって、一般枠と女子枠を完全に分ければ入学後の問題は解決する
女子枠の学力は一般枠に比べて劣ることが多いから女子枠レッテルはあるかもしれんが、それは枠自体を自分で選んでるから許容しろってなる
入った後にお前どっち枠なの。どうせ女子枠でバカなんでしょ。とか言ったり邪推するやつはいるかもしれんが、枠まで分けててそこまで気にするような無能は
そんなにいないと信じたい
という考え方に反するからだと思うのね。
女子枠があると、いくらその女子が実力で入ったとしても、「女子 = 能力が低い」というレッテルが貼られるんだよね。
これはすでに女子枠が設けられた場所で起きたことで、女子枠の存在が女子は能力が低いというレッテル貼りに貢献しちゃうんだよね。
「人それぞれ」という割には、「あの人は」と決めつける人が多い。人それぞれなんだから、人って奥深いんだから、決めつけられるようなもんじゃないはずなのに、なんでこんな矛盾を孕むかというと、人それぞれと言う人が、それぞれって言葉で思考停止させてるからだと思う。人を知るという難問で答えがないが故に「それぞれだよねー」と棚上げして、人を知ろうとしてこなかった。知ろうとしないが故にレッテル貼って対処しようとする。じゃあ本当に人の機微に敏感な人はこう言う時になんて言うかというと、これも「人それぞれだよね」って言う。ただそれは、様々な人間を真に見てきた結果としての言葉であって、前者の思考を停止させる言葉ではない。
一方で、バカの真似はせぬと心に決めて、「人は分けられる」と主張すると、これはいよいよ何もわかっていない人だと見られる。が、悲しいことにこれも専門家が言うと、人は分けられるように聞こえてしまう。
バカと天才の紙一重を分つものは、話者に貼られたレッテルなのかも知れない。この構造下では巡り巡って、人を知ろうとしないレッテル貼りマンが貼ったレッテルに皆左右されてしまうと言うこと。結局この世界ってこうなんだよ。
よく発達障害(主にASD)の人間について、人の心が分からない、人の気持ちが分からないと言われるけれど、
個人的にはその特徴って寧ろ定型発達の人達の方だと思うんだよな。
だって定型発達の人達って、人の凄く表面だけ見て判断してくる。表に出さなくとも内面で色々考えてたりするのかもという事に考えが及ばないらしい。
自分は発達障害だけど、こっちの表に表れない部分で考えている事を無視してくる人達が人の心が分かるという扱いなのに納得いかない。
性暴力の場面でも、嫌だと言ってないから同意があっただとかいうアクロバティック認定してくるのって定型発達の人間じゃない?殺されたくないから嫌々従うとかの当たり前の洞察もしようとしない。
漫画やアニメ等のフィクション作品についても、物語を全体として捉えるのではなく一部分だけを切り取って、
涙を流していないから悲しんでいないだとか回想シーンがないから忘れているだとかの単純化したレッテルを貼る。
定型発達の人間って、基本的に相手の内面を想像しないんだよ。表に表れた部分だけ見て決め付けてる。
他人を複雑な内面を持った人間ではなく、決まった刺激で決まった反応をする機械か何かのように捉えているのが定型発達だと思う。
今日は約束していたとおり、C国とその手先になった氷河期世代によって変えられた日本について語ろう。
氷河期世代は、自分たちの青春時代の象徴として、過去に廃止された女子学生の体操服であるブルマを復活させた。
この政策は「伝統の復活」という名目で進められたが、実際には氷河期世代のノスタルジーと復讐心が絡んだものだった。
当然ながら、当事者である学生やその親たちからの反発は激しかった。
だが、氷河期世代の政策担当者たちはそれを一蹴し、強硬策を取った。
その中の一人、氷河期世代の女性官僚は、批判に対し冷たくこう言い放った。
「私たちが普通にしていた恰好だよ。あんたはそれが恥ずかしいっていうのかい?」
この言葉により、議論は事実上封じ込められ、女子学生たちは全員がブルマを履くことを強制されることとなった。
学校現場では、学生たちが羞恥心と怒りを抱えながらも従わざるを得ない状況が広がった。
さらに、この政策に逆らおうとした教育関係者や保護者には、社会的排除が待っていた。
教育現場で反対意見を表明した教師たちは左遷され、保護者たちはメディアによって「時代錯誤」とレッテルを貼られた。
相手のことを誹謗中傷とレッテル貼ってもお前が正しいことにはなんねーし、お前が技術をわかんねえのに首を突っ込んで反論できないから「ニワカ老害」とか言い出した間抜けって事実は揺るがないけどな
ある日、俺はいつものようにネットを徘徊していた。ネトウヨとしての誇りを持ちながらも、何か物足りなさを感じていたんだ。そんな時、ふと目に入ったのが「パヨクとの交流会」というイベント。最初は「なんでそんなことするんだ」と思ったけど、好奇心が勝って参加することにした。
会場に着くと、俺の周りには様々な人たちがいた。ネトウヨ仲間もいれば、パヨクの人たちもいる。最初はお互いに警戒し合っていたが、徐々に話が弾んできた。政治の話から始まり、趣味や好きな食べ物についてまで、まるで友達のように盛り上がった。
そこで出会った一人のパヨクの女性が、とても魅力的だった。彼女は自分の意見を持ちながらも、他人の意見を尊重する姿勢が印象的だった。「ネトウヨだって悪い人ばかりじゃないんだね」と言われたとき、俺はちょっと照れくさくなった。彼女と話すうちに、政治的な立場なんて関係ないんじゃないかと思えてきた。
時間が経つにつれて、俺たちの距離は縮まっていった。そして、気がつけば彼女と二人きりになっていた。お互いの意見をぶつけ合う中で、いつしか笑顔が絶えなくなり、その瞬間、思わず彼女にキスをしてしまった。まさかパヨクとチューするなんて夢にも思わなかったけれど、その瞬間は本当に特別だった。
その後、俺たちは連絡先を交換し、お互いの考え方についてさらに深く話し合うようになった。政治的な立場を超えて、人としてのつながりを感じることができたんだ。もちろん、ネットでは相変わらず激しい議論が繰り広げられているけれど、リアルな世界ではこうした交流が大切だと思うようになった。
結局、「ネトウヨ」と「パヨク」というレッテルは、自分たちを分けるためのものに過ぎないんじゃないかと気づいた。大切なのは、お互いを理解し合うこと。そして、その中で生まれる友情や愛情こそが、本当に価値あるものなんだと感じるようになった。
だからこそ、これからも色んな人と出会い、お互いの違いを楽しみながら生きていきたいと思う。ネトウヨであろうとパヨクであろうと、人間同士には共通点がある。それを大切にしていきたいと思う今日この頃だ。
・特権持ち
・生理のある人
・膣ユーザー
・子宮を持つ人
・膣を持つ人
・出血体
・non-man
何故か女という呼び名を消そうと必死に気持ち悪い呼称を生み出し続けている。
子宮がある人呼びに反発したJ・K・ローリングは差別主義者のレッテルを貼られて猛烈なバッシングを受けたほどに、トランス界隈はなぜか女という呼び名を消そうとしている。
でも何故か男に対してはこういうことを全然やらない。
レズビアンバーには月イチ身体女限定イベントに突撃して晒し上げバッシングし潰したが、ゲイバーにはやらない。
なんであの界隈の攻撃は女に集中するのだろう。
最近、友人に勧められて始めたマッチングアプリ。最初は半信半疑だったが、気軽に新しい出会いができるということで試してみることにした。プロフィールを作成し、写真も工夫してアップロードした。数日後、ついに「チー牛」とマッチングした。正直、その瞬間「人生損した」と感じた。
「チー牛」という言葉は、インターネット上でネガティブな意味合いで使われることが多い。オタクやインドア派のイメージが強く、恋愛や社交に自信がない人を揶揄する表現だ。そんな相手とマッチングするとは思わなかったし、正直ショックだった。
メッセージのやり取りが始まった。当初は軽い会話が続いていたが、次第に彼の趣味や考え方が私と大きく違うことに気づいた。彼はアニメやゲームが大好きで、その話題ばかり。私が外出や旅行が好きなのに対し、彼は家に引きこもることが多い。共通の話題が少ないと感じ始め、次第に会話が苦痛に感じられるようになった。
実際に会ってみることにした。彼の部屋はアニメグッズで溢れており、私の想像以上に彼の世界観に浸っていた。会話は一方通行で、私の話題にはほとんど興味を示さなかった。時間が経つにつれ、彼との関係が私の生活にどんどんマイナスの影響を与えていることに気づいた。外出の予定がキャンセルされ、友人との約束も減っていった。まさに「人生損した」と感じる瞬間だった。
この経験から学んだことは、自分の価値観やライフスタイルに合わない相手と無理に関係を続けることの危険性だ。マッチングアプリでは、多種多様な人々と出会うことができるが、すべての出会いが良いものとは限らない。自分にとって本当に大切なものを見極め、相手との相性を慎重に判断することが重要だと痛感した。
また、「チー牛」というレッテルを貼られた相手にも、一人の人間としての尊厳があることを忘れてはならない。私自身、相手に対して不快感や失望感を抱いたが、彼にも彼なりの魅力や価値観があるはずだ。偏見やステレオタイプに基づいた判断は、真実の出会いを逃す原因にもなりかねない。
この経験を通じて、マッチングアプリを利用する際には、プロフィールの内容や相手の趣味・価値観をしっかりと確認し、自分に合った相手を見つける努力が必要だと感じた。また、出会いの場としてのアプリの利点と欠点を理解し、適切に利用することが大切だ。
結局のところ、チー牛とマッチングしたことは一時的に私の人生にネガティブな影響を与えたが、それを通じて自分自身の価値観や求めるものを再確認する機会ともなった。今後は、より慎重に相手を選び、無理なく自然な関係を築けるよう心がけたい。マッチングアプリは便利なツールである一方、使い方次第で得るものも失うものも大きい。自分自身の幸せを第一に考え、賢く活用していきたいと思う。
チー牛は残念ながら侮蔑語として定着したようだが豚丼がそのカウンターとして定着するかどうかは読めない
ひとつは、チー牛が主に「顔面」を対象にした言葉であるのに対し「豚丼」は「体型」を対象にした言葉だという点が非対称的で攻撃性に欠けるところが引っ掛かる
一方でこれまでなんとなくフワフワしていた非モテ女性に多く見られるとされる外見イメージを(手の写真やいらすとやによって)打ち出したのは案外画期的なことかもしれない
いや、今回の場合は非モテ女性というよりも男性嫌悪を内面化したとみられる外見の醜い女性を指す言葉として用いられたという点が大きいことかもしれない
少なくともチー牛のイコンは女性を攻撃する男性のものではない、何の根拠もない言いがかり的なものであった
だが今回豚丼のイコンとなり得る女性の手は実際の迷惑さ・有害性に結び付けられている
そしてチー牛がおそらく実際に「あの特徴」を持つ(かもしれない)男性を深刻に傷つけたことと同様に豚丼は「あの特徴」を持つ(かもしれない)女性を強烈に傷つけるだろう
というかそういう要素が仮になくても「チー牛」「豚丼」というレッテルは貼り付けられ得るものであり、それが争いを拗らせる
コロンバインのような拡大自殺はこれまで男性の例が目立っていたが、異性嫌悪の進み方次第では女性の犯行が起きないとも限らんなということを思った次第だ
物価が上がるたびに、僕の生活はどんどん苦しくなっていった。少し前までは「節約すればなんとかなる」と思っていたし、実際にそうしてやりくりしていたのだが、この一年ほどの急激な物価高にはもう歯が立たなくなってしまった。もともと贅沢をしていたわけではないのに、食費も光熱費も家賃も地味に、しかし確実に積み上がる。毎月の給料ではどうにも追いつかないのだ。
僕は地方の中小企業で事務職に就いている。給与水準は決して高くはないが、何とか暮らせる程度の収入はあった。ところがここ数年の物価上昇のなか、昇給のペースが全く追いついていない。むしろ会社としても経営が厳しいらしく、業績を理由にボーナスまで削られてしまった。一方で、スーパーに行けば野菜や肉の値段は軒並み高騰し、コンビニ弁当を買う気にもなれないくらい値上がりしている。気づけば、日々の食事すら値段に敏感になり、安売りの広告を睨みながら買い出しに出るようになってしまった。
家賃だって馬鹿にならない。できるだけ安い部屋を選んで住んでいるはずが、更新のたびに家賃は微増している。わずかな値上げとはいえ、年々積み重なる負担は僕の家計を確実に圧迫してきた。引っ越しを考えるにも、敷金礼金や引っ越し費用を捻出するのが容易ではない。結局、「今より悪い条件にはなりたくない」という恐怖に勝てず、ずるずると同じ物件で契約を更新する日々が続いている。
貯金だって、ほとんどできなくなった。月末が近づくといつも預金残高を確認しては、食費や日用品の購入を控える。そうすると心身ともにギスギスしてしまい、休日も満足に外出できない。友人の誘いにも気軽に応じられず、いつからか飲み会や趣味の集まりに顔を出す回数が減っていった。結果的に人間関係も希薄になり、一人でいることが当たり前になってしまった。
恋愛だってままならない。実際、同年代の女性をデートに誘おうにも、まず食事代が気になって気軽に誘えない。「奢るくらいの余裕を見せたい」と思う気持ちはあるが、そのための資金が十分ではない。カフェに行ってお茶をするだけでも、次の食事の予算を削らなければならない状態では格好がつかない。恥ずかしいと思ってしまい、つい二の足を踏んでしまう。いつの間にか、自分は恋愛からも距離をとってしまっている。
周囲の男性を見れば、ちゃんと年収を上げて結婚している人もいるし、新しい仕事に挑戦してスキルを磨いている人もいる。SNSを見ると、充実した日常を共有している友人たちの姿が映し出される。もちろん、その裏で努力をしているのだろうけれど、僕はつい「恵まれている人たち」というレッテルを貼って羨んでしまう。そして、彼らとの格差を肌で感じるたびに、自分の卑屈さが増幅されていくのを抑えられない。
そうして日々をやり過ごすうちに、「弱者男性」という言葉が目に留まった。最初は何気なく耳にしていただけだったが、ネットの掲示板や動画を覗くにつれて、その言葉が自分に向けられているように感じるようになった。経済力が乏しく、恋愛や結婚、あるいは仕事でのキャリアアップが望めない男性を指すとされるこの表現に、僕は思いのほか強い共感を覚えてしまったのだ。
これまでは、自分をそんな負のレッテルで括りたくないと思っていた。いわゆる「弱者男性」なんて言葉はインターネット上の偏見か、あるいは誇張されたネガティブキャンペーンだろうと考えていた。ところが、物価高に押しつぶされるように生活がままならなくなり、気力や向上心も削がれはじめた今、「自分はまさにそう呼ばれる存在なのかもしれない」と感じざるを得なくなった。
しかし同時に、このままでは嫌だという気持ちも確かにある。弱い立場であることを認めたうえで、何か行動を起こさなければ、さらに状況は悪化してしまうのではないか。たとえ小さな変化であっても、今のままやり過ごすのは危険だと感じている。たとえば転職活動を始めてみるとか、在宅ワークの副業を探してみるとか、思いつくことはあるはずだ。
もちろん、行動したところで劇的に生活が改善する保証はない。大きな失敗をするかもしれないし、周囲との格差を埋めるには時間がかかるだろう。けれども、何もしなければ「弱者男性」という言葉に飲み込まれ、そのまま沈んでいくだけだ。物価高が引き金となって気づけたのは、いかに自分が無力であるか、そしてその無力を放置し続ける恐ろしさだ。
だからこそ、僕はなんとか一歩を踏み出してみたい。資格試験の勉強でも、給与の高い会社への転職でも、何か挑戦し続けていくことでしか、この境遇を抜け出す道はないのだろう。もし転落してしまっても、そのときはまた別のやり方を考えてみるしかない。どうせ最初から失うものは少ないのだから。
物価高のせいで弱者男性になったと嘆くだけでは何も変わらない。むしろ、追いつめられたことを転機と捉え、自分自身の足で立ち上がれる方法を模索していくしかない。まだ僕にどれだけの力が残されているかはわからないが、少なくとも自ら行動しようと思えるなら、今が再スタートを切る最初で最後のチャンスかもしれないのだ。