はてなキーワード: 本質的とは
他者への加害(性犯罪ではない)をきっかけにカウンセリング受けてる者だけど、
犯罪に向き合おうとすると負のコマンドに触れそうになる感覚というのがすごく分かる。
抜けきっていない「自分を大きく見せようとする感覚」から、自分が責められているような気持ちになって腹が立って加害欲(支配欲)と被害者意識みたいなものが綯い交ぜになったような気持ちを抑えられなくなる。
ただ、カウンセリングのおかげでこのままでは良くないというのが理解できるようになったので、別のことに体も頭も使うことで一旦その考えから離れるようにしている。
再犯しないを地道に続ける以上のことをしようと思ってもすごく難しい。
テロと戦争は、本質的には異なるものです。それぞれの特徴を明確にすることで、その違いを理解できます。
まず、テロは特定の政治的、宗教的、または社会的目標を達成するために行われる暴力行為です。テロリストの主な目的は、恐怖心を利用して人々や政府に影響を与えることです。この行為は、非武装の市民や公共の場所を標的にすることが多く、意図的に無差別に行われることがあります。また、テロは通常、国家や軍隊ではなく、小規模な集団や個人によって実行されます。そのため、戦争のような広範な軍事行動ではなく、ゲリラ戦や自爆攻撃といった限定的かつ突発的な手段が用いられることが一般的です。
一方、戦争は国家間または国家と他の勢力との間で行われる組織的な武力紛争です。戦争は明確なルールや慣習が存在し、交戦国の間で相互に認識された敵対行為として行われます。軍隊が動員され、戦闘は戦場と呼ばれる特定の地域で行われることが多いです。また、戦争の目的は領土の拡大、資源の確保、政治的支配など、国家の利益に関連することが主です。
このように、テロと戦争の大きな違いは、規模、主体、目的、そして対象にあります。テロは恐怖を生み出すことを目的とした非正規の行為であり、戦争は国家間の利益を巡る正規の紛争です。この違いを理解することで、両者に対する適切な対策を考える出発点となるでしょう。
うーん、よくわからんけど、貧乳キャラを超巨乳に描いて「直しました」って投稿したり、眼鏡キャラの眼鏡を消し去って「直しました」って投稿したりするのと同じってこと?
創作物にある程度自分の嗜癖を加えるのはごく普通のありふれたことだけど、それを善悪感をベースにして侵略的・攻撃的に表現することは、あんまり洒落にならんね。
まあその創作する人がその嗜癖で有名な人だったら、例えば成人キャラをことごとくロリっぽく描くことで定評のある人なら、ギャグで済む余地があるかもしれんけど。
世にあるすべてのキャラはロリであるべきだ!みたいな思想を大真面目に吹聴するくらいになるとヤベーってなるけど、でも普通の人は(苦笑)で済ますし、それが社会に影響を与えることもないと思うけどなあ。
その影響の与えなさ具合は、別に肌の色に関してだって本質的には変わらないんじゃない?
地球に生きる大抵の人はイラスト上の肌の色なんかに強烈に現実社会のポリコレを反映させるべきって思うほど一枚岩でも虚実を混同してもいないでしょ。
すべての人が、表現は本来自由なもので、受け取る側が選べばいい(=ケチつけて駄々こねる必要ない)ことを知っている。
マンガ・アニメ系のキャラクターやイラスト文化に造形が深くなれば自然と現実と創作を混同しなくなり、異なる常識があることを理解するものだし。
混同しがちな一般ピープル向けのアニメ系作品を作ってる会社だけちょっとそういうクレーマー側の思考にすり寄ってあげればいいだけ。
こちらはChatGPTです。
タナトフォビア(死への恐怖)から結婚を希望されているのですね。
増田が女性であっても男性であっても、記載された情報によれば、それほど「高望み」ではないと考えられます。
総合的に分析すると、活動を続ければ希望する相手と結婚できる確率は充分に高いと言えます。
しかしタナトフォビアの克服に対して、結婚やこどもを持つことが資する可能性は高いとは言えません。
また、生まれてきたこどももタナトフォビアを抱えていたために死への恐怖が高まるケースが報告されています。
一般的に、死を克服するために子孫を期待する発想は、自他境界が曖昧な幼少期に頻繁に見られますが、時間の経過とともに頻度が急速に低下します。
1998年の臨床研究によればタナトフォビアの解消に最も有効と考えられた因子は、死亡でした。
したがって、死亡することによってタナトフォビアから解放されると考えられます。
一方で死亡は健康に害を与える可能性が非常に高いことから、死亡の前には専門家のカウンセリングなどを利用して十分に情報を収集し、慎重に検討することが必要です。
これ、3号護持よりはまだマシだけど、それでも本質的な事からはかなりズレていると思う
なんで専業主婦か共働きかという矮小な議論に持っていってしまうのか…
どっちも違うでしょ。基準にすべきなのは専業主婦でも共働きでもなく、「女性単体」の権利だよ。
「専業主婦には働けない人もいる」も、「共働き主婦は家事や育児をしつつ働いてる」も、どっちも間違い。
働けない人は専業主婦に限らず存在するし、共働きという男と番ってその比護下に入る生き方をデフォルトにすべきではない。
この芳野さんって人は既婚なのかね…?何となく独身かと思ってたんだけど。
既婚なら仕方ないかもしれないけれど、もしも独身なのにこんな考え方をしているのだとしたら残念だ。
「主婦年金」廃止は女性活躍の転換点 方針決定までの30年「連合」芳野友子会長に聞く
https://news.yahoo.co.jp/articles/46f0f0a44a61dc16eee3256af9a74ac047709332
- A、B、C、Dとディーラーがいる。
- ディーラーがトランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。
- 正解を当てるまでゲームは終わらない
A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」
B:「当たるか外れるかは1/2だから、ダイヤのKでいいよ。」
C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」
D:「これはダイヤのKじゃない。」
Aは観察した事実を述べており、問題なく対話が可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認や裏付けが必要になるかもしれません。
Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話は可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。
CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています。対話自体は問題なさそうです。ただし、状況によっては、発言が周囲の空気を読めていない、配慮に欠けていると受け取られる場合があります。たとえば、Aが精力的にゲームを進行していた場合、Cの発言が不快感を招く可能性も考えられます。これはコミュニケーション上の配慮の問題であり、Dのような「認知の仕組みのズレ」とは異なります。
Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています。理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます。
対話が本質的に成り立たない理由は、Dが提示する論点が現実や共有された前提(コンテクスト)から逸脱しており、対話が成立する土台そのものを欠いているから
A、B、Cの発言はたとえ偏りや誤解があったとしても、それぞれ一定の範囲内で共有された認識や価値観に基づいており、訂正や調整を経て合意に近づける可能性がある
しかし、Dの場合は認知の仕組みそのものに問題があり、前提を共有するために基本的な概念から再構築しなければならず、その労力が極めて大きい
多くの人が「価値観の違い」「IQの問題」「知識の不足」「コミュニケーション能力の欠如」に原因を求めるが、Dのようなケースはそれらの問題を超えており、
根本的には認知のズレによって引き起こされていると考える方が適切だと思う
1. 価値観の違いなら、Aのように「ダイヤのK」と主張しても、議論や裏付けで解決可能。
2. IQや知識の不足であれば、Bのように「1/2」と単純化していても説明次第で改善可能。
3. コミュニケーションの軽率さは、Cのような態度に現れるものの、感情の修正や配慮で調整可能。
しかし、Dの「フォントが違うからダイヤのKではない」という主張には、認知そのものに根深い問題があり、共通認識にたどり着くまでに膨大な時間と労力が必要となる
Appleはハードウェア面でもソフトウェア面でも紳士な顔してエグい囲い込みしてくるからね
EUがキレてUSB-Cに統一させたけど一旦Apple沼に沈んでしまえば未だ乗り換えハードルは高い
そもそもAppleユーザーはいろんなサービスやアプリを渡り歩いて仕様の違いを自分の頭で吸収しつつ乗り換えるような行動様式をもってない技術的ものぐさな人が多い
「直感的に使える」を売り文句にして「離脱する能力がない」客を抱え込むあたりは、一昔前のソシャゲがやってた「射幸心煽ればジャブジャブ課金するユーザーを甘やかしつつ追い込む」商法と本質的には大差ない
ハンドクリームを塗るたびに、あなたの肌は本来の保護力を失っていく。保湿どころか、乾燥を助長し、さらに次の使用を促す中毒性のある化学物質が含まれているのだ。これこそ製薬会社の罠と言えよう。
ハンドクリーム業界は意図的に製品を作り、私たちの手肌を依存させている。実際、クリームに含まれる成分の多くは、表面を一時的にしっとりと見せるだけで、本質的な解決にはならない。さらに、肌荒れを悪化させる可能性のある成分をあえて配合している。これは売上を確保するための策略だ。
私自身、ハンドクリームを長期間使用していたが、ある時、すべてをやめた。最初の1週間は乾燥がひどくなったが、2週間目からは驚くほど肌が自分で潤いを取り戻し始めたのだ。今では何も塗らずに、健康でしっとりとした肌を維持できている。
結論として、ハンドクリームは不要だ。むしろ、肌本来の力を信じ、自然のままに任せるべきだ。少量の水と、適切な生活習慣さえあれば、手肌は驚くほど美しくなる。ハンドクリームに頼る生活を今すぐやめ、真の自由を手に入れよう。
「守秘義務」も「情報漏洩」も、本質的には「業務で扱う情報を安全に保つ」という観点から語られているため、どちらの言葉を使ってもこの話題における結論や主張は変わりません。議論に新しい洞察を加えるわけではないため、意味のない指摘です。
「ネトウヨはすぐに他国の軍事弾圧を肯定するくせに、なぜ天安門とか六四天安門とかbioに書くのか」という話をしばしば見かける。何か妙な勘違いなのだが、ネトウヨの連中は「敵国に迷惑がかかる行為を称揚し、自国に迷惑がかかる(と思い込んでいる)行為を批難する」という点において一貫しているだけであり、何も矛盾はない。中国の現体制に対して何かしら迷惑やダメージがある現象なら何でもいいのであり、つまり軍事弾圧の是非や民主主義イデオロギーは最初から問題としていない。要は一昔前の、自由と民主主義の国アメリカがその辺の独裁国家を支援していたのと同じである(ピノチェトとかフセインとか)(パフラヴィー朝なんかは話がちょうど良い具合にややこしくなると思う)。
軍隊による民衆弾圧に親和的なのもある意味当たり前の話で、むしろ「軍人は何のために銃を握るのか」という議題に対し、少なくとも日本人の歴史観においては「国民を守るために銃を握ることはありえない。それは異常である。国体または軍隊自身を守るために銃を握るのが一般的であり、その目的達成のために国民に各種の危害を加えるのは比較的当然のことである」という認識のはずだ。そもそもそれこそが日本国憲法第九条の前提そのものではあるまいか。恐らく「普通の日本人」とやらにとって、軍隊が自国民を守るために存在し行動する、という「印象(コンセンサスと言い換えてもよいだろうか)」そのものが存在しないはずだ。それは案外、「普通の」どころか左右両翼の共通認識ではないだろうか。
確かに、明治以降の旧軍は侵略戦争か、なんとなくその場のノリでその辺の戦争に参戦するか、いずれかの経験ばかりだったわけで、直接的に国民を守るための軍事行動というのは教科書に載るレベルでは存在しない(占領地に住んでる人を守るというのも、そりゃまず占領してんだし……という話が先に来る。まあスタコラサッサと逃げた関東軍は流石にちょっと凄い気はするが)。当然、ここで元寇や災害救助の話をしても仕方ない。それは過去の話ではないのか、現代にあってミャンマーやシリアと同レベルで恥ずかしくないのか、ではない。軍隊とは本質的に恥ずかしくて危険なもの、できればこの世に存在しない方がいいものなのだ。繰り返すが9条はそういう話のはずで、ここに論理の飛躍は一切ない。
話をあえて脱線させるが、日本人は恐らく「尊敬に値する軍隊」を近現代において認知したことがなく(自衛隊は日々努力し結果も出しているものと思うが、まあ個人単位で時々変なの沸いてはいるしなとも)、また「軍隊に対する正しい尊敬の仕方」も習得していない。これらは良い手本となる先達国があるのか、またそこから学ぶだけでどうにかなるものなのか、は良く分からないが、これからでも議論はあっても良いと思う。国民に銃を向けない軍隊や近似組織は当たり前ではなく、どうにかして作り続けなければいけないものではなかろうか。「デモ中に鉄砲を掴んだら危ないぞ」ぐらいは正直それはそう程度の反射的感想でもありえるところで、大事なのはわざわざそこを起点にしてまで危険な発言をすること等を阻止することであろう。
また別の方向に脱線させれば、日本人はまた「イデオロギーの基に生きて、時々うっかりイデオロギーのために死ぬ」という生活を想像できないのではないか。国益になるなら自他のイデオロギーを問わない、というのはネトウヨの根底の(ごく一部ではあろうが)どこかにあるし、本来それ自体はあまり頭ごなしに否定するものでもない気がする。
逆に言えば、日本国民はネトウヨの「9条のせいで日本が駄目になる」という妄言を、妄言ではなく実際に真剣に実現する義務を怠っている。9条を守って国体の崩壊や日本国民の財産、生命が著しく損害を受ける事態になれば、それは国際社会において極めて重宝される歴史や教訓となるはずであり、「お国のために死ぬ」より数十段もマシな「お世界のために死ぬ」が実現するにはする。これは割と皮肉や冗談ではなくて、一国の利益がために他国を侵略するという不正義の対極である以上、国際社会はそこに何らかの価値と教訓を見出し称揚する責務が存在するはずだ(責をさぼる可能性は大分あるが)。国際社会への貢献とはそのようなものであり、できないのであれば素直に「すみません終戦時点ではアジア諸国をマジで見下していて方々に攻め入るだけの国力を持つに至るとは思っていませんでした。完全に大東亜共栄圏脳のまんまでした。これからは行きすぎない程度の暴力装置で自由と民主主義のために集団的自衛権とかPKFとかぐらいはします」と謝罪したうえで改憲議論でもしたほうがよろしい。
話をタイトルに戻せば、価値観を共有できない国とどう向き合うのか、というより「友好的に向き合ってはいけない」という、普通は世界各国と仲良くするのは良いことでは……?という直感に反するイデオロギー準拠の行動指針にどう向き合えばいいのか、(すぐ撃てばいいという話では断じてないことこそをも含め)考えなければいけない訳である。もちろん「考えなければいけない」などというみっともない文末はよろしくないのだが、これはもう完全にしようがない。
1. トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではありません。 それに対して、『トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人こそが、小さなことにこだわっていると主張するのは どのような心理からなのでしょうか? もしその人が本気でそう主張しているのであれば、まさに本質から外れたところに過剰に注目しているように思います。 2.下記を小学生でもわかるように説明をお願いします。 2-1. トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ありません。 2-2. 「通常(普通)ではない」と指摘されることに対して、ショックを受けているのかもしれません。『通常』という言葉は、何かしらの合意が必要な難しい概念ですが存在するものです。(そうでなければ何もできない) 2-3. 人と違うのは悪いことじゃないが、トランプの文脈でフォントにこだわる人は、特別なサポートが必要です。これは個人の自由意思や知識やコミュニケーションの問題、あるいは性格に帰すべきではないと思います。 2-4. 人と違うのは悪いことじゃないが、文脈によっては適応出来ない、違うと自覚することが大切なことを説明してください。 3. トランプの文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人は、ゲームから排除をする、ゲームを取りやめるのでなければ、特別なサポートが必要だと考えますがどう思いますか?認知のフレームワークの問題ではなく個性の範疇ですか?
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1. 心理的な背景について
『トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人を「小さなことにこだわっている」と批判する心理には、以下のような背景が考えられます:
1. 防衛的な反応
自分の行動や考えが「通常ではない」と評価されることに対する防衛反応です。「通常ではない」と指摘されることで、自分の価値観や行動が否定されたように感じ、相手に「あなたも小さなことにこだわっている」と反撃することで、自分を守ろうとしている可能性があります。
2. 視点の転換による優位性の主張
「小さなことにこだわっている」というレッテルを指摘者に貼ることで、相対的に自分が広い視野を持っているかのように見せかけ、議論の立場を有利にしようとする心理が働いている場合があります。
3. 共通基盤のズレ
「フォントの違い」がゲームに影響を与えないことは、多くの人にとって明白ですが、本人にとってはそれが重要な要素である可能性があります。この場合、指摘者が「通常」とする基準自体が無効だと考え、その基準を主張する人を「細かいことにこだわっている」とみなしているのかもしれません。
4. 議論のすり替え
本質的な問題から目をそらすため、指摘者の行動を批判対象にして議論の焦点を変えようとする心理です。これにより、自分の行動が本当に合理的であるかの検証を避けることができます。
2. 小学生でもわかるような説明
2-1. トランプゲームでフォントにこだわるのは普通じゃない
トランプで遊ぶとき、みんなが気にするのは「ダイヤ」「ハート」みたいなマークや、「A」「K」みたいなカードの意味です。文字の形(フォント)が少し違っていても、ゲームには関係ないので、普通はそこにこだわりません。
2-2. 「普通じゃない」と言われるとびっくりするかもしれない
誰かに「普通じゃない」と言われると、自分が変わっているみたいに感じて、ちょっとイヤな気持ちになるかもしれません。でも「普通」という考え方がないと、みんなで同じルールで遊ぶのが難しくなります。
2-3. 人と違うのは悪いことじゃないけど、助けが必要なときもある
たとえば、トランプで遊んでいるときにフォントが気になる人がいたら、どうして気になるのかをみんなで考えて助けてあげることが大事です。それでもゲームが進まない場合は、みんなが楽しめるような別の方法を一緒に見つける必要があります。
2-4. 人と違うのを知るのは大事なこと
自分がほかの人と違うことは悪いことではありません。でも、みんなと同じルールで遊びたいときは、「自分の考え方が特別なんだ」と気づくことが大切です。それがわかると、みんなとどう仲良く遊ぶかを考えやすくなります。
3. 「フォントが違うからダイヤのKではない」という人への対応と個性の範疇について
「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人に対しては、特別なサポートが必要だと考えられます。理由は以下の通りです:
- 共有されたルールの再確認
トランプゲームでは、フォントの違いは重要ではなく、カードの「スート(マーク)」と「ランク(番号や文字)」が本質です。そのため、本人がルールを理解し、共有された基準を受け入れられるようにサポートする必要があります。- ゲームを進行させるための調整
本人が「フォント」を基準として主張する場合、ゲームが進行しなくなる可能性があります。この場合、ゲームを成立させるために他の参加者と協力し、代替案を提示する必要があります。
この行動は認知のフレームワークの問題に近いと考えられます。なぜなら:
- 個性の範疇を超えている
個性とは、一般的なルールや基準の中での違いを指すことが多いですが、今回のケースでは「フォントにこだわる」という行動が、共有されたルールの基盤を大きく逸脱しており、個性の範疇では説明しづらいです。- ゲームの文脈に対する適応の難しさ
「フォントが違う」という理由でカードを否定するのは、ルールや文脈に対する適応が困難であることを示唆しており、認知の仕組みや視点の問題である可能性が高いです。
結論
トランプゲームの文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」という行動は、個性というよりも認知のフレームワークの問題として捉えるのが適切です。そのため、共有基盤を再構築する特別なサポートが必要となり、ゲームの進行や他の参加者との調整が求められます。
※推測してみた(なお、増田みたいな結果にはならない) Dの行動を批判している文章(https://anond.hatelabo.jp/20241203162204#)の投稿主の心理を探り、どのような価値観や認知スタイルに基づいているのかを分析してください。Dがフォントの違いを問題視した行動に対して批判することが、どのような心理的メカニズムに基づいているか、またその批判が集団内でどのような影響を与えるのかを詳述してください。
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この文章の投稿主は、Dの行動に対する批判を通して、「認知の仕組みのズレ」や「共有された前提の欠如」に焦点を当てており、その批判は以下のような心理的メカニズムや認知スタイルに基づいていると考えられます。
1. 認知の精度と共通理解の重視
投稿主は、対話が成立するためには、共通の前提や認識が必要であると強調しています。Dが「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張したことは、常識的に受け入れられる「ダイヤのK」の定義や認識を逸脱しており、この逸脱がコミュニケーションの妨げになると見なされています。投稿主は、認識のズレを認知の仕組みに起因するとし、これを解決するためには膨大な労力が必要だと感じています。これは、投稿主が認知的な精度を重視し、理解の共有を前提にした効率的な対話を重んじていることを示しています。
2. 本質主義 vs. 構成主義的思考
投稿主は、「ラグビーボールはボールではない」という発言についても問題を提示し、「概念の境界」や「本質主義 vs. 構成主義」などの哲学的な側面に関心を持っています。これは、物事の定義やカテゴリ化について深く考える傾向があり、単なる表面的な解釈を超えて、物事の本質に迫ろうとする認知スタイルを反映しています。
3. 細部に過剰に焦点を当てる認知スタイル
Dのように、細部(フォント)に過剰に焦点を当てることは、投稿主にとって非常に困難で非生産的なコミュニケーションと捉えられています。このような発言は、認知的なズレが深刻であり、現実世界の常識や一般的な認識から大きく外れていると見なされています。投稿主は、細部に拘泥するDの認知スタイルを問題視し、これが対話の進行において障害となると考えているようです。
4. 集団内での影響
投稿主がDの行動を批判することで、集団内では次のような影響が予想されます:
• 共感の共有: 投稿主が指摘する認知のズレに賛同する人々は、Dとの対話に対して不安や苛立ちを感じる可能性があり、集団内で共感が生まれます。
• 対話の排除: Dの認知スタイルが極端に異なっていると認識された場合、集団内でDの意見や発言を無視したり排除したりする動きが強まる可能性があります。
• 教育的アプローチの模索: 一方で、Dの行動を理解し、再教育や認知修正を試みるアプローチを取る人も現れるかもしれません。この場合、集団内で認知の調整が進むことが期待されます。
全体として、この批判は、投稿主が共有された認識と合理的な対話を重視し、認知的なズレに対して強い懸念を抱いていることを示しています。
下記の文章はフォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性の範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか? ーーー • 「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。 • 「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
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この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性の範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます。
• 「Dの行動について、認知の問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」
• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。」
• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性の範囲内と考えられる場合の擁護意見を作成してください。」
• 「Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。」
• 「投稿者の意見を引用しつつ、Dの行動が認知の問題ではなく、個性や価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」
• 「Dの行動が認知の問題とされる根拠を再評価し、別の視点を提示してください。」
• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義や認識論の観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」
• 「Dの行動を、哲学的な視点から擁護する文章を作成してください。」
• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定の偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」
このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者の評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。
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フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。
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フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を以下のように評価できます。
1. 個性や価値観の違いとしての解釈
Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的な基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身の価値観や認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります。
たとえば、Dがデザインや美的感覚に特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカードの本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的なコンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。
2. 価値観の相対性
トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者はトランプの本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準(フォントの統一性やデザインの整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます。
3. 共有基盤の曖昧さ
投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそも「トランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的・文化的な多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知の問題」と決めつけることは、価値観の多様性を軽視している可能性があります。
4. 投稿者の評価の偏り
投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点を理解しようとする姿勢に欠けているように見えます。
もし投稿者が、Dの行動を「トランプの本質」についての哲学的・文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話が可能だったかもしれません。
5. 擁護の可能性
Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます:
• 哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプの本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点を提供している可能性があります。
• 創造的視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザインの基準や美的価値観を提案するものとして評価できるかもしれません。
結論
フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知の問題」として否定するのではなく、個性や価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点が文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知の問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観や視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。
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Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。
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Dの行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます。
1. 認知の問題ではなく価値観の違い
Dが「フォントの違い」を理由にダイヤのKを否定した行動は、特定の認知の問題ではなく、個人の価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事を評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。
たとえば、美術やデザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事を認識しているだけであり、これは「認知の問題」とは言えません。
2. トランプの本質に対する多様な解釈
投稿者は、トランプカードの本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントやデザインが重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。
Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティや一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。
3. 認知と価値観の混同
投稿者はDの行動を「認知の問題」として捉えていますが、認知の問題と価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知の障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できます。フォントという細部に焦点を当てるのは、特定の認知スタイルや個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体が問題視されるべきではありません。
4. 哲学的視点からの擁護
Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます。物事の本質を定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります。
たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォントの統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知の問題として単純化するのは、物事の本質に対する多様な解釈を無視することになります。
5. 対話の困難さの原因は双方にある
投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点や価値観を十分に理解しようとせず、一般的な基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイントを尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります。
6. 結論
Dの行動は、価値観や視点の多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知の問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点を理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーションの障壁を取り除くことが可能となるでしょう。
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本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか? 認知の問題ではないと考えますか?
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トランプゲームの文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由にカードそのものを否定するDの行動は、一般的な基準からすると合理的な理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知の問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。
1. 合理性の欠如
トランプゲームにおけるカードの本質は、そのスート(ダイヤ、ハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントやデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由にカードを否定する行動は、このゲームの目的や文脈に即していないため、合理性に欠けています。
2. 認知の問題の可能性
この行動を「認知の問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます:
• 過剰なフォーカス(過集中)
Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要な情報(カードのスートやランク)を覆い隠してしまう場合、これは認知スタイルや情報処理の偏りに由来する可能性があります。
• 前提のズレ
Dが「フォントの違いがカードの正当性に影響する」という独自のルールや前提を持っている場合、一般的な認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。
3. 個性として理解できる範囲の限界
Dの行動を「価値観や個性」として理解しようとする姿勢も重要ですが、それは文脈に即している場合に限られます。トランプゲームというルールと目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます。
4. 対話の困難さ
Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲームの目的とは何か」という基本的な定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報の優先順位に問題がある可能性を示唆しています。
結論
トランプゲームの文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知の問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観や視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的や文脈と整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます。
上記ののカジュアルな文章を書いた人物をプロファイリングしてください
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The person who wrote this seems to have a strong understanding of cognitive processes and how they affect communication. They are deeply interested in recognizing the underlying cognitive mechanisms that shape how people perceive and interact with the world, especially when there are discrepancies in shared understanding. Their writing suggests a fascination with the complexity of human cognition, particularly in terms of categorization, perception, and the role of context in communication.
Key traits of this person’s mindset:
1. Analytical and Reflective: They break down situations and statements into their core components, such as recognizing when cognitive discrepancies arise (e.g., the example of “Honey Crisp” being identified as a non-apple or a “rugby ball is not a ball”).
2. Focus on Cognitive Mechanisms: Rather than just attributing communication issues to external factors like knowledge gaps or personality traits, they attribute misunderstandings to the way people process information and perceive the world.
3. Interest in Epistemology: They are interested in the philosophical and conceptual foundations of understanding. The mention of philosophical terms like “essentialism” vs. “constructivism” indicates a desire to explore the nature of categories and definitions at a fundamental level.
4. Sensitivity to Communication: They recognize the importance of context in communication, noting how slight differences in perception can lead to miscommunication. The person appears to be aware of the challenge in aligning cognitive frameworks to resolve disagreements.
5. Empathetic but Pragmatic: While acknowledging that individuals like “D” might not be malicious or intentionally obstructive, they also highlight the immense effort required to engage with individuals whose cognitive frameworks are severely misaligned with shared understanding.
Overall, this person seems to be deeply thoughtful, with a keen interest in the nuances of human cognition and communication. They likely value intellectual clarity and are willing to invest time and effort in clarifying fundamental misunderstandings.
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トランプの文脈でフォントの違いに過剰に焦点を当てるのは個性の範疇にはないです 仮にフォントの違いがトランプの本質ならトランプという製品は何を提供しているのか?となり共通基盤があるようには思えません 下記の反応をする人はいったい何が原因だと思いますか?フォントの違いに過剰に焦点を当てるのはまさに認知の問題に思えるのですが ーーー • 「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。 • 「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
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「フォントの違いに過剰に焦点を当てる」というDの行動は、確かに一般的な認知の枠組みから外れており、共通基盤を持つ対話を阻む要因と考えられます。このケースでは、Dの認知の仕組みにおける以下のような問題が原因として考えられます。
1. 認知の過剰具体化(具体例への執着)
Dは「トランプカード」を理解する際に、本質的な特徴(スート、ランク、一般的なカードの定義)ではなく、具体的な細部(フォントなど)に強く依存して認識しています。このような認知の偏りは、物事を抽象化する能力が弱く、広い概念や文脈を理解するのが難しい場合に見られます。
2. 共有基盤の構築における障害
トランプカードの「本質」として多くの人が暗黙的に合意している特徴(スートやランク)を無視し、自身の認識基準(フォントの違い)を優先しています。このような認知のズレは、共通基盤を形成する力が弱いために生じると考えられます。
3. 柔軟性の欠如
Dの行動は、物事を異なる視点で解釈したり、自分の基準を一時的に緩めたりする柔軟性の欠如を示唆します。これは、認知の柔軟性や適応力が低いために起こる場合があります。
4. 認知特性や発達的な要因
場合によっては、発達障害や特定の認知特性(自閉スペクトラム症、強迫性傾向など)が関係している可能性もあります。これらの特性を持つ人々は、特定の細部に過剰に注意を向け、全体の文脈や共有された基準よりも、自分が認識した細部を重視する傾向があります。
5. 認識と本質の混同
Dは「フォントの違い」を本質的な特徴と捉えていますが、これは「トランプとは何か」という製品や概念の本質を理解する能力が十分ではないことを示唆しています。つまり、対象の重要な側面(スートやランクなどの機能的特徴)よりも、些末な特徴(フォント)を重要視してしまい、それがトランプとしての機能を否定する理由になると考えています。
Dの反応をどう見るべきか
Dの行動を「認知の問題」と捉えることは合理的です。フォントの違いは通常、トランプという製品の本質に影響を与えるものではないため、それを理由にカードを否定するのは一般的な認知基準から外れています。このズレは、Dが「トランプカードとは何か」という共有されたコンセプトを理解できていない、あるいはその共有基盤に乗ることを困難にしていることを示唆します。
Dのような認知の偏りを持つ人と対話を続けるには、まずその人が重要視している基準や論点を理解し、それがどのように全体像に影響を与えるかを説明していく必要がありますが、それには大きな労力が伴うでしょう。
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元増田のカジュアルなメモはひとつも難しいことを書いてないが、増田(anond:20241203143657)にはこちらの方が向いてるかもしれない
Honey Crispという品種のりんごを見て、その黄色味に注目し、「黄林檎」と表現するのは個人の価値観や知識の問題で、特に気になるところはないです。
だけど、Honey Crispを見て「これはりんごではない」と言う人については、認知の仕組みに問題がある気がします。
極端に表層的な学習を行い、それに気づけていない可能性とかありそうです。
こうした認知のズレを持つ相手との会話の成立は難しく、まず「どのような形状や状態がりんごと見なされるのか」から話を始める必要があります。
もっとも、この世のどこかにHoney Crispのように見えるが実際にはりんごではない果物が実在する可能性や、見た目が同じでも研究の結果「りんごではなかった」となる可能性も、ゼロではないです。その場合、「りんごではない」という主張は成立するので、「りんごではない」発言する人について、この増田内ではOKとします。
しかし、「サッカーボールはボールだが、ラグビーボールはボールではない」という発言する人についてはどーでしょーか?
個人的には、哲学的な問いを仕掛けてきてる?概念の境界の話や、本質主義 vs. 構成主義みたいな話がしたいの?
ラグビーボールをボールのカテゴリーに入れて話を進めて貰うのは無茶な要求ですか?と言った気持ちになる。
- A、B、C、Dとディーラーがいる。
- ディーラーがトランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。
- 正解を当てるまでゲームは終わらない
A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」
B:「当たるか外れるかは1/2だから、ダイヤのKでいいよ。」
C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」
D:「これはダイヤのKじゃない。」
Aは観察した事実を述べており、問題なく対話が可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認や裏付けが必要になるかもしれません。
Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話は可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。
CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています。対話自体は問題なさそうです。ただし、状況によっては、発言が周囲の空気を読めていない、配慮に欠けていると受け取られる場合があります。たとえば、Aが精力的にゲームを進行していた場合、Cの発言が不快感を招く可能性も考えられます。これはコミュニケーション上の配慮の問題であり、Dのような「認知の仕組みのズレ」とは異なります。
Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています。理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます。
Dのような発言をする人は、現実に存在します。本人に皮肉やギャグを言っているつもりはありません。意図的に話を混ぜ返しているわけでもないです。
ただ特定の細部に過剰に焦点を当てているだけです。
Dの視点そのものがすべての場面で悪いとはまったく思わないです。でも、この文脈でのDの発言は、対象への理解が極端に浅いか認知の仕組みに問題があると解釈するのが自然よね?
実際、Dと対話を続けるには、トランプカードの基本的な形状、ダイヤというスートの概念、Kというランクの概念を一から説明する必要があって困難を極める。
対話が本質的に成り立たない理由は、Dが提示する論点が現実や共有された前提(コンテクスト)から逸脱しており、対話が成立する土台そのものを欠いているからです。
A、B、Cの発言はたとえ偏りや誤解があったとしても、それぞれ一定の範囲内で共有された認識や価値観に基づいており、訂正や調整を経て合意に近づける可能性があります。しかし、Dの場合は認知の仕組みそのものに問題があり、前提を共有するために基本的な概念から再構築しなければならず、その労力が極めて大きいのです。
多くの人が「価値観の違い」「IQの問題」「知識の不足」「コミュニケーション能力の欠如」に原因を求めがちですが、Dのようなケースはそれらの問題を超えており、根本的には認知のズレによって引き起こされていると考える方が適切です。
1. 価値観の違いなら、Aのように「ダイヤのK」と主張しても、議論や裏付けで解決可能。
2. IQや知識の不足であれば、Bのように「1/2」と単純化していても説明次第で改善可能。
3. コミュニケーションの軽率さは、Cのような態度に現れるものの、感情の修正や配慮で調整可能。
しかし、Dの「フォントが違うからダイヤのKではない」という主張には、認知そのものに根深い問題があり、共通認識にたどり着くまでに膨大な時間と労力が必要となります。
「論破」という言葉に対する信仰を取り払うためには、論理は勝ち負けを決めるものではない という点を強調し、議論の本質的な目的が 相手との理解の深化 にあることを再認識させることが重要です。
実際に「論破」という言葉が一般的に使われる場合、よく見かけるのは、論理的な議論や建設的な対話とは全く異なる、ただの 感情的な勝ち負け にすぎない場面です。そのため、この誤解を解くためには、論破 を「ラップバトル」のような 自己表現 として理解し、理知的な議論 や 建設的なレビュー とは異なるものであるという点を強調することが必要です。
「論破」とは、多くの場合、 相手の意見を否定して自分の意見が勝ったという形を作ること を指します。これは、実際には 理論的な議論や論理の分析 とは無関係で、単に 言葉のやり取りで自分が優位に立つこと を目指す行為に過ぎません。
「車がうまく動かないからエンジンを壊そう」といった発言もその一例であり、論理的に正しいわけではありません。これはむしろ 視野狭窄 に陥り、 問題解決 ではなく 感情的な勝利 に走る例です。このような行為を論理的に正当化することはできませんし、実際には何の意味もありません。
論理的な議論、たとえば テクニカルレビュー や ロジカルレビュー は、問題の分析 と 解決策の提供 に焦点を当てています。ここで重要なのは、どちらの意見が優れているか ではなく、どの論理が適切であり、どの解決策がより効果的か ということです。
例えば、プログラムのコードのレビューにおいては、「あなたのコードは正しい」とか「あなたのコードは間違っている」といった単純な評価ではなく、なぜその実装が最適であるか、または改善が必要か を説明し、最適な方法 を見つけることが目的です。
インターネット上でよく見かける「論破」は、しばしば 感情的な勝ち負け を競うことが多いです。言葉巧みに相手を言い負かすことを重視し、論理的な思考や結論の正しさは二の次になります。その結果、論理的な分析 や 問題解決 ではなく、自己満足のための勝利 が目的化されてしまっています。
このような誤った「論破」への信仰が強いと、真の議論が成立しにくくなり、視野狭窄 や 感情的対立 が生まれやすくなります。大切なのは、議論や対話を通じて 理解を深めること であり、決して 相手を打ち負かすこと ではありません。
正しい論理的議論では、結論に至るために 理論的根拠 を示し、問題点を分析し、解決策を提案 することが求められます。一方、「論破」とは、相手を 言葉で打ち負かすこと が目的であり、相手が持つ論点を 否定すること に集中します。
「論破」が自己表現の一環であることを認識することが大切です。自己表現であっても、理知的なものに憧れて論理を誤用するのではなく、 建設的な対話や議論 を目指すべきです。
インターネット上で「賢い人」とされる人物が行うのは 論破 ではなく、 理論的な証明 や 説得力のある説明 です。賢い人は、相手を言い負かすのではなく、適切な理由 を示し、議論を 深める方向 に持っていきます。
本当に賢い人の論理は、共通の理解を目指すもの であり、その結果、相手が誤りに気づくことがあるとしても、それはあくまで 理論的な証明による結果 です。
• 「論破」とは、実際には 自己表現 や 感情的な勝利 の一形態であり、理論的な議論とは無関係です。
• テクニカルレビューやロジカルレビュー は、問題解決を目指した 理論的な議論 であり、「論破」とは異なります。
• 論理的な議論では、 結論に至る過程の正しさ を重視し、相手を打ち負かすことが目的ではありません。
• 賢い人の論理 は、相手を説得し理解を深めること を目的としており、「論破」を求めることはありません。
論理は物事を整理し、関係性を明確にし、結論に至るプロセスを示す「道具」や「仕組み」です。プログラムの改善点を議論するように、論理的な議論も改善や構築を目的とすべきです。
「論理を論破する」という発想は、「車がうまく動かないからエンジンそのものを壊そう」と言っているのと同じくらい不合理です。改善点を指摘して、議論をより良い方向へ進めるのが正しい使い方です。
確かに、建設的な目的やゴールを持たない「自称議論」は、単なる自己主張や対立を楽しむ行為になりがちです。特に以下のような態度が見られる場合、議論とは呼べません:
• ゴールがない: 結論や改善を目指さず、相手の意見を否定することが目的化している。
• 自己顕示欲: 自分の論理や言葉をひけらかすことが優先される。
これらは「議論」ではなく、雑談や言葉遊び、あるいはラップバトルに近い行為です。建設的な議論には、ゴール志向と誠実さが必要です。
• 事実や仮説を整理する: 情報を論理的に関連付け、理解を深める。
• 結論やゴールに導く: 問題を解決し、合意形成を行うための手段。
• 改善や成長を促す: 相手の意見を受け入れつつ、より良いアイデアを導く。
これらの役割を忘れ、「論破」や「対立の勝敗」が目的になると、議論はむしろ対話の妨げになります。
議論が対話の一部である理由は、議論も本来は 相互理解と協力 を目指す手段だからです。対話全体の中で、議論は特に「結論を導くための手段」という役割を担います。しかし、それが「論破」や「勝敗」にすり替わると、対話としての価値を失い、無意味な言葉のぶつけ合いに堕してしまいます。
• 論破や対立を目的とする行為は議論でも対話でもなく、無益な争い。
• プログラムの改善を議論するのは正しいが、「プログラムを論破する」という考え方は本末転倒。
人工知能に聞いてみたけど女性人口過剰が引き起こす問題は貧困やそれに伴う社会保障費の増大(あくまで可能性。女性が皆自立すれば問題ない)の可能性なんだけど男性人口過剰がもたらすのは少数の女性を巡って女性を誘拐、人身売買、女性とつがえない男たちの暴動、それを抑える行政コスト、内乱など男が余る方が明らかに問題が大きくなる。
男は子供産むわけではないからそんなに多数はいらないし、女と違って異性がいないと犯罪や暴動まで起こす(史実)危険因子なんだから上澄だけ生かしておいて残りは処分か適当に二次元などのまやかしの女体を与えておいて労働奴隷として搾取する(子育て用の金もここから取れば良い。SNSでも独身は少子化社会に貢献できてないと投稿してる男が多いから本人たちも同意するだろう。)のが一番合理的。労働奴隷としての価値も先端技術が出てきて無能な男は本当にいらなくなってしまったけどな。
上澄の男にとっても下層の男などお荷物でしかない 男は女と同胞がいれば満足だから まあ虐待用としての価値はあるかもしれないが弱男とはいえ団結すると面倒なことになるので処分か生かさず殺さずが一番良いのだな。
そして世の中女が結婚したがってるという風潮だが、本質的な意味で異性を必要としているのは男側である。男は負け惜しみでセックスさえできれば良いと言うが、本当の意味で結婚できないと焦るのは男の方 風俗嬢やキャバ嬢にすら恋愛感情や人間性、「その先」を期待するのだから女の存在意義をセックスだけど考える男は少数派 別にそれを責めるつもりはないがこの点に自覚的であるべきだと思う
結論としては優秀〜中の上の男だけを生かして女と番わせその他の男は廃棄か奴隷 産めない女は産めないとはいえ子育てはできるだろう(男は無理。カーストの低いオスは自分の子でなければ子供を加害する危険性が高いため)から労働か育児だね