はてなキーワード: 必然性とは
アニメ・マンガ・イラスト・基本無料ゲーム・二次創作は、非常に敷居が低い娯楽なので、
いろいろなバックグラウンドの人が集まり、正直、地獄めいている
同様に、保護猫活動は非常に敷居が低いので、非常に地獄めいている(日本限定)
今日、日本で保護猫活動をしている人に対してまともな人だと印象を持つ人は少ないだろう
上記のくせ下記を要求する。ペット不可の賃貸で飼おうとしている人に渡すのでなければ、どう考えても、貴方のところ/団体にいるよりマシなのでは?
なお、上記は保護ビジネスでもマシな方であり、古典的な譲渡ビジネスは更に酷い
保護・飼育ハードルが低く、里親希望者が多い、子犬、小型犬、純血種(コーギーなど小ぶりな中型まで)、純血種ミックスを中心に保護してるところだと、
途端に雲行きが怪しくなる
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
まさかこんなタイトルのエントリを未読者が読むわけがないと思うが念のため補足すると、このエントリは最終回の内容を含んでいる。未読者はUターン推奨。
さらにいえば、最終回の内容に満足している読者に読まれることも想定していない。あなたはあなたの読み取った【推しの子】を大事にしてほしい。
そのような方々の持つ不満はきっと決まっていて、「何故こんなにも救いがないのか」ということだと思う。
決して読者を苦しめるためだけにこのような結末を描いている訳ではなく、この結末の先にあるものを読者に提示したかったのだと筆者は考えている。
抱えている不平不満に対し、一つの解釈を提供することによって、納得の一助となることができれば幸いである。
こちらについては全読者が納得できると思うが、この作品は「嘘」をメインテーマとしている。芸能界という身近であるが遠い世界を舞台として、その裏側に密めく嘘を真実に芸能界の当事者として向き合うというのが大まかなストーリーだ。
言われてみれば、芸能界というのは嘘に溢れた世界だ。我々がスクリーンや舞台を通して観ている芸能人たちが、その舞台裏ではどのような人間で、どのようなことをを考えているか、我々は全く知らないし、知る権利もない。
しかしながら、スクリーンに映されたキラキラした世界が真実であるのか嘘であるのか、気になってしまうのも人間の性であると思う。そういった層へのリーチとして、元ドルオタがアイドルの子供として転生し、そして本人も芸能界を目指すというストーリーは最適だ。一般人の人格を持ったまま、生まれながらの芸能界の人格を得る訳だから、芸能界と一般のギャップを体感する語り手としてはこれ以上ない設定だと思う。
そして、転生したルビー、アクアもまたそれぞれのスタンスで世間に対し嘘を吐くこととなる。そうして吐いた嘘、すなわちフィクションの裏側を、他でもない本人の視点から嘘も真実もなく全てを体感するという構成。
ゆえにこのストーリーでは、作中の芸能界で起こっていることと、読者が体感したことが一致することを許容するが、作中での世間の芸能界像とは乖離していなければならない。この辺りを把握していないと、なぜ大団円のハッピーエンドでなかったかを理解することができない。
トンチのようなことを言うが、嘘を吐かなければいけなかったから必要に迫られて嘘を吐いているのである。
このように列挙してみると、「嘘を吐く必要性」が明確に整理されたストーリーラインが展開されていると気が付く。
しかし逆に考えてみたらどうだろうか。嘘を吐く必要がない素晴らしい世界だったら?己はこれ以上なく満たされていて、世間様に嘘をつく必要なんてございません。私は生まれついての公正明大です。そのようなキャラが、嘘を吐くことに説得力を持たせることができるか?
さて、【推しの子】のメインテーマを表現するためには、嘘を吐く必然性のある舞台を用意しなければならないというところまで整理できた。そして次に考えるべきは、何を嘘で隠すか、である。
嘘と言っても、方向性が二つに分かれていると筆者は思う。すなわち、
おおよそハッピーとバッドで分ける軸だと解釈してもらって構わない。
もっと他の方向性で区別することもできると思うが、ここでは【推しの子】がなぜハッピーエンドでないかを説明したいので、このようにしている。
さて、後者は想像しやすいが、前者は補足が必要かもしれない。具体的に言えば、クラスの人気者とお付き合いできたという場面を考えて欲しい。あなたは身に余る幸福を自慢したくなるかもしれないが、周りを慮り、付き合っていないと嘘を吐くことにした、といった状況である。想像できただろうか?
そして問題は、この二つの嘘のうち、どちらを【推しの子】で取り扱うべきか、である。そして考えて欲しいのであるが、芸能界を舞台とした漫画を描くとき、どちらの嘘の方がしっくりくるか?
逆に前者を描いていた場合は、
それはそれで見たい気がするが……
というのはともかくとして、ぶっちゃけて言うと、そういう類の漫画は世間に溢れているのである。有馬かなとアクアが注目を集めているのも、推しのアイドルの子供として転生した後に、その推しが殺されるというセンセーショナルで周りとの差別化のされたストーリーで注目を集めたという基盤があったことを忘れてはならない。
改めて考えれば、ハッピーエンドなんてものは、悲劇を隠す嘘の極致に他ならない。人間は例外なく死という悲劇を迎えるし、筆者も画面の前の読者も、人生の最後には消滅の恐怖に怯えながら消滅することになる。あるいは、恐怖を抱かせることすらさせない暴力的な最後を迎えるかもしれない。
例えば、作中の恋愛リアリティショーはアクアとあかねのキスシーンで物語を閉じた。あれこそが恋愛リアリティーショーにおけるハッピーエンドだ。あそこで番組を区切ることで、番組の視聴者に未来に希望を抱かせつつ、大団円で物語を終えることが出来ていた。その後のSNSでの交際報告はエピローグといったところか。
まぁ、アクあかは破局というよりも、アクアの己の手を汚してでも周りを傷付けたくないという優しさと、あかねのアクアだけに手を汚してほしくない死んで欲しくないという意見の相違のために距離を置いたというだけで、全然破局という感じではないんだが……だってそれってつまり相思相愛じゃん……まだ改めて2人の心が通い合う可能性はまだまだあったんだが……
ではなくて。とにもかくにも、
【推しの子】において、作中の登場人物はスタンスはともかくとして、物語の最初から最後まで世間に嘘を吐き続けたが、読者に対して嘘を吐くことは一度もなかった。徹底して、厳しい現実を示し続けた。
作者はやろうと思えば、アクアとカミキヒカルのインタビューのシーンで話を区切ることもできた。実際、あの場面は【推しの子】を「ハッピーエンド」にするか、それとも実際に描かれた「アクアの死という悲劇に遭っても立ち上がる、生きていくことを選ぶ」結末で話を区切るかどうかの分水嶺であったと思う。
ハッピーエンドにする方法は簡単。カミキヒカルはあの場で罪を告白し自首、そのニュースを皮切りに映画はヒット、物語のラストは使命を果たしたアクアが有馬かなの卒業ライブ終了後に告白してハッピーエンド……それが、おそらく1番丸く収まる、読者への優しい嘘だった。いつか訪れる誰かの死を直隠しにする、最も優しい嘘。
そうして、物語はどうしようもない悲劇に向けて突き進んでいく。そして、最後には遺された登場人物たちが、消えない悲しみを嘘で隠しながらも、同じく悲劇という暗黒を生きる人達を照らす希望の光となる……これは、ゴローでもなくアクアでもない「星野アクア」にとって、嘘でもなんでもない、真の救いになったはずだ。そう願いたいし、作者はそういった、悲劇を乗り越えていくエネルギーのようなものを見せたかったのだと思っている。
そしてそれは、表面上のハッピーエンドでは成し得ない。本物の悲劇を乗り越える、嘘偽りのない登場人物たちの心情を描く必要がある。さらに言えば、フィクションのノンフィクションとして「悲しみを乗り越えられない」姿勢を見せつつも、作中のフィクションとして「悲しみを乗り終え世間に希望を与えるアイドル像」を成立させる話の組み立てのためには、今回のような形を避けられなかったのだと思う。
そういった理由を総合して、最終的にこの結末を描くと決心したのではないか。
そして、そのエネルギーを読者に持ち帰って欲しかったのだと思う。現実はフィクション以上に嘘に塗れていて、正気とは思えない凶行もあったりする、明日にも希望のない、夢も持てない真っ暗な世の中だ。その中において煌々と輝き暗闇を照らす「推し」の存在。その光に嘘が含まれてないとは言えないけれども、その光に向かって世界が少しずつ好転していく。
筆者はそう受け取っている[^3]。その一心でこのエントリを書いた。まだこの話を悲劇としか受け取ってない人がいたら、その悲劇の後を懸命に生きるキャラクターたちをもう一度見てほしい。実際筆者は、最終話を見て、そのあと1話から読み直して、最終話のモノローグがそういうことを伝えたかったのではないかと考えるようになった。アクアが死んでショックを受けただけで終わったら、それは勿体無いことだと思う。そんなファンからの一意見を伝えたかった[^4]。
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[1]: 読者の方は当然ご存知だと思うが、作中で「コンテンツとファンは相互監視状態にある」というセリフがある。当然、このセリフを記載した作者がファンを監視していないはずがないと、多くの読者は感じるはずである。その中であえて、その行動を選んだのだから尋常ではない。
[2]: 読者の方は当然ご存知だと思うが、作中では炎上について「その日のメンタル次第では本当に死んでやろうかと思う日もある」というセリフがある。キャラと作者の思想は区分されるべきであるが、そのような思想が作者の脳内の構成要素の一つとして存在していると、多くの読者は感じるはずである。その中であえて、その行動を選んだのだから尋常ではない。
[3]: このエントリを書いてる途中に、赤坂アカ本人のインタビューが出回ってることに気が付き確認したところ、「ディスコミュニケーションを描きたい」といった旨のコメントがあった。じ、じゃあこのエントリの内容は……?となり怖くなったので、とりあえずアルコールを入れた。えっじゃあこのエントリも嘘ってこと?そうなのかな……そうかも……
[4]: そんな気持ちで旧Twitter自称Xを見に行って、検索欄がインプレ稼ぎなんだか炎上目当てなんだからわからないツイートで埋め尽くされていた。インターネットというものはどんどん地獄に堕ちていくな。もう純粋に収益とか考えずに己の意見を発信できるのなんて、もう増田しかないんじゃないか…… 増田、𝑩𝑰𝑮 𝑳𝑶𝑽𝑬 ……住民の質以外の欠点がないな……
これは理屈としてめちゃくちゃ弱いんだよなあ
入れ替わり競争があった方がいいのは事実だけどそれは長期目標の部類で別に今である必然性はない
そのパロディに構成上の必然性があればいいんだが、ほとんど唐突なんだよな。
「そのパロディをやってる時点で面白い」ってメンタリティなんかね。
同人とかネットのお絵描きコーナーでやってる分には身内ウケで済むけどさ、商業誌でやられるとすごく冷める。
そういえば、ジャンプでそこそこ長くやってた漫画が人気投票やったんだけどさ。
その結果発表でボーボボ人気投票パロをやったときはビビったなあ。
そのページみたとき「うわ、おもんな」って思わず口に出してしまった。
例のボーボボ人気投票ネタの面白さを少しでも分かってたら、ガチの人気投票でそのパロディはやらないんだわ。
つまり「そのパロディをやってる時点で面白い」ってメンタリティで描いてるのが丸わかりなわけ。
その薄っぺらいメンタリティが垣間見えること含めて冷めんのよね。
まあ、パロディっていうよりコラボっていったほうがいいかもしれんが、あれはどっちかっていうと「ミーハー感」が先行して冷める。
インターネットが生まれるよりずっとずっと前から、言論は体制批判の手段だったでしょう。
独裁的・全体主義的なお国では体制に批判的な言論は徹底的に統制されるし、日本もかつてはそうだった。
戦前戦中の言論統制、言論弾圧への反省から、今の憲法にはわざわざ「言論の自由」が謳われてる。これは、「たとえ反体制的な言論であっても日本はもうそういうの邪魔しません」という国と国民との約束なんです。
「論壇」は、基本的には体制に批判的な言論界を指す言葉だし、言論誌と言えば基本的には体制に批判的な記事が載る雑誌です。
実力行使による革命が許されていない以上、体制批判のための最大の武器は言論なわけ。
いっぽう右派=体制派にとっては、今現在自分は体制側なんだから別に何を語る必要もない。体制が崩れ落ちようとしているような局面でもない限り、必死で体制を肯定するような言論をする必然性がないでしょ。言論によって為そうとする目標がない。つまり動機がない。
もちろん保守言論というものも存在はするけど、彼らは別に何と闘っているわけでもなくただ内輪褒めに終始するばかりで、言論によって何かを為そうとしているようには見えないよね。
インターネットも「まず知識階級に普及した」「自分のオピニオンを自由に発表できる場所」だったわけで、昔からリベラルなムードが濃い。特にはてなはそうだったと思うけど、ポテトチップの味が濃いか薄いかくらいの違いでしかなく、ポテトチップは基本的にみんな塩味なのだ。
ここで言われている「ポリコレ」=必然性がないのに無理矢理ぶち込んでその結果作品をつまらなくしているもの
を指しているって事くらい分かるでしょうに…
ていうかポリコレの定義を再現なく広げていったら何でもポリコレになっちゃうんだから
ヒットしたものに寄生して後から「これもポリコレだ」って言うのやめたら?
@annaPHd9pjcafe
ズートピアやリメンバーミーにポリコレ要素がないだと!?!?!?!?!?!?
わらび餅@てすと
@coolpoko78
·
18時間
返信先: @hakoiriboxさん
つーかリメンバーミーはともかくズートピアはキャラクターを動物の姿にしている時点で社会問題と真摯に向き合う事から逃げてるって批判されてもしょうがないでしょ。
ズートピアって普通に見たらどう考えても肉食動物と草食動物は人種や民族のメタファーなんだけど
日本では何故か性別のメタファーだと捉えて(作中には肉食動物の女性も出てくるにも関わらず)、女の警戒心を軽視していると言って批判しているフェミニストの人達が大勢いたし
つまりそんな迂遠なやり方では本来の意味でのポリコレとして不適格。
ズートピアだけじゃなくてライオンキングやマイ・エレメントだってそうだよ
舞台設定やテーマからして有色人種をそのまま描いた方が自然なのにそれだと観客に受けないから非人間にしているんだろうって批判は海外では普通にある