はてなキーワード: 基本的とは
Laravelを使ってる奴けっこう多いと思うんだけど、みんなEloquentに満足してるの?
自分は正直、あれが賢いと思ったことが一度もない。触るたびにゴミ箱に捨てたくなる。
たとえば、belongsToとかhasOneみたいなリレーション。普通なら、JOINで一発で取りたいじゃん?
でもEloquentは基本的に別クエリでselectしやがる。
「with使えばいいじゃん」とか言ってるやつ、頭の中までEloquentに最適化されてんじゃねえのか。
いや、確かにwithでまとめて取れるけど、それでもJOINじゃなくて複数クエリ投げてるだけだからな?
リレーション多いDB設計になってくると、Eloquentの無能っぷりがどんどん見えてくる。
速攻でN+1問題にブチ当たって、「え?みんなこれで仕事してるの?」って本気で思うわ。
あと、Laravelのマイグレーションもゴミ。DB周り本当にゴミ。
自分もLaravelに初めて触れたとき(もう十年以上前か)「これが現代のPHPか」と思って浮かれてたけど、業務でLaravelを自ら選定したのは一度だけだわ。
引き継ぎ保守でLaravelを触るとめっちゃ気分が下がる。マジで滅びてくれんかな。
世のLaravel信者たち、「Eloquent最高!」とか言ってるけど、あんたたちもEloquentと同じレベルでバカになってないか?
Laravelを使ってる奴けっこう多いと思うんだけど、みんなEloquentに満足してるの?
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でもEloquentは基本的に別クエリでselectしやがる。
「with使えばいいじゃん」とか言ってるやつ、頭の中までEloquentに最適化されてんじゃねえのか。
いや、確かにwithでまとめて取れるけど、それでもJOINじゃなくて複数クエリ投げてるだけだからな?
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あと、Laravelのマイグレーションもゴミ。DB周り本当にゴミ。
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世のLaravel信者たち、「Eloquent最高!」とか言ってるけど、あんたたちもEloquentと同じレベルでバカになってないか?
「俗物」を指すスノッブ(snob)からなる言葉で、一般には「俗物根性」と訳される。
意味合いとして現代でいう“意識高い系”に近く、主に「知識や教養をひけらかす見栄っ張り」といった「知的に振舞っているようで、その実は俗物じみた性質」といった文脈で用いられる。
基本的にはネガティブな言葉として用いられるが、一応は「洒落れている」といった含意もあるらしい(意識高い“系”ではなくて、本当に意識の高い場合もあるって感じだろうか)。
日に日に自己肯定感が下がって自意識過剰が上がってるの辛いね…
優しいの種類が違うだけで女性も優しいんだとは思うんだけどね
自分のときは同じ研究室にドクター候補生までいたんだけど、増田のところはどうだろう
基本的に面倒見がいい印象だけど。。
異性として目を向けてもらったパターンはモテる女友達に聞くのがいいんじゃないかな?
個人的には交通事故的なものもあるから、予防線張っても完全に自分も相手も無傷は厳しいかなあとは思う
まずは味方を一人作れるといいなあ
報告書の「厳格責任ルール」提案は、法と経済学の粗雑な理解に基づく還元主義の極致として、法学教育における反面教師的価値においてのみ存在意義を認めうる代物である。「負の外部性の内部化」という経済学的概念の機械的適用は、法制度の本質的複雑性に対する理解の完全な欠如を示している。
法制度は経済効率性という単一の価値で設計されるものではない。正義、公正、人間の尊厳、社会的連帯、文化的継承といった多元的価値の複雑な調整こそが法の本質的機能である。この基本的理解の欠如は、法学的思考の根本的不理解を意味している。
経済学的モデルの法制度への機械的適用は、人間社会の複雑性を過度に単純化する危険な還元主義である。数学的モデルが現実の人間行動を完全に予測できると信じる素朴な科学主義は、社会科学の基本的限界に対する無理解を露呈している。
「unknown unknown」リスクについての免責提案は、その概念の曖昧性において特に問題的である。何が「適切なリスク探索活動」なのか、誰がその「適切性」を判断するのかについて、客観的基準は一切提示されていない。これは恣意的判断の制度化であり、法的予測可能性の根本的破壊である。
報告書末尾のデータガバナンス論は、技術に対する素朴な楽観主義と、プライバシー権への感受性の致命的欠如を同時に露呈している。「公的主体による必要なデータへのアクセス」の推進は、個人の自由と人権に対する理解の絶望的欠如を示している。
技術的可能性と社会的望ましさを混同する技術決定論的思考は、人文社会科学的教養の完全な欠如を意味している。技術的に可能なことが社会的に実現されるべきであるという単純な等式は、技術哲学の初歩的理解すら欠いている証拠である。
歴史的に見れば、情報収集技術の発達は常に権力の集中と濫用の危険性を高めてきた。この基本的歴史的教訓に対する理解の欠如は、歴史的思考能力の根本的欠如を示している。
デジタル技術による個人行動の記録と予測の能力向上が、自由な社会にとっていかなる脅威となりうるかについての考察の完全な欠如は、政治哲学的思考の決定的不在を証明している。
この報告書は、現代日本における知的能力の壊滅的崩壊と、学術的誠実性の完全な死滅を記録した歴史的文書として、後世の知的考古学者によって詳細に分析されるべき貴重な標本である。法学的無知、歴史的無理解、論理的破綻、概念的混乱、言語的堕落が完璧に結合して、反知性主義の純粋結晶を形成している。
この文書の真の恐ろしさは、それが官僚機構という公的権威によって正式に承認され、堂々と公表されているという事実にある。かつて学術的議論の最低限の条件とされていた概念の明晰性、論理的一貫性、実証的根拠の提示、批判的検討といった基本的要件が、公然と無視されている異常事態である。
このような知的・学術的破産の蔓延は、自由で開かれた社会の基盤そのものを脅かしている。真理の追求、理性的議論、批判的思考といった近代文明の根本的価値が、流行語と印象操作によって駆逐されつつある現状は、文明的危機の明確な兆候である。
真の学術的議論と知的誠実性の復権のためには、このような疑似学術的文書の欺瞞性を徹底的に暴露し、その知的価値の皆無性を明確に示すことが不可欠である。安易な「革新」や「アップデート」の美名に隠された思考停止と概念破壊を見抜き、真の知的伝統を守り抜くことこそが、現在我々に課せられた知的使命である。
経済産業省が2025年5月に公表した54頁にわたるこの報告書は、戦後日本の行政史において、これほどまでに学術的欺瞞と知的堕落を赤裸々に晒した文書の存在を他に見出すことは絶対的に不可能である。「アジャイル・ガバナンス」なる意味不明かつ内容空疎な造語を濫用して人類の法的遺産を冒瀆するこの文書は、現代日本の官僚機構における知的能力の壊滅的崩壊を記録した、まさに知的考古学の貴重な標本として永久保存されるべき価値を持っている。
この報告書は表面的には学術的装いを凝らしているが、その本質は法学への絶望的無知、歴史的思考の完全な欠如、そして論理的一貫性の破綻に貫かれた反知性主義の純粋結晶である。人類が二千年にわたって血と涙で築き上げた「法の支配」という至高の知的遺産を、流行語の羅列と概念操作によって破壊しようとする企ては、知的野蛮主義の極致として後世の研究者によって詳細に分析されるであろう。
報告書冒頭で展開される「法の支配」論は、法学的思考の完全な崩壊を示す実例として、将来の反面教師的価値においてのみ意義を見出しうる代物である。作成者たちが提示する「理に基づく法による一貫した統治」という空虚な定式は、この概念の歴史的重厚さと哲学的深度に対する理解の絶望的欠如を露骨に証明している。
法の支配とは、専制的権力の恣意的行使から市民の生命と自由を守る人類最高の政治的発明である。1215年のマグナ・カルタに始まり、絶対王政への抵抗、市民革命の理念、立憲主義の発展、そして20世紀全体主義との血塗られた闘争を経て到達した、人類知性の最高峰である。この荘厳な歴史的蓄積に対する理解の完全な欠如は、単なる無知を超えて知的能力の根本的欠陥を意味している。
報告書の作成者たちは、この比類なき知的遺産を「伝統的ガバナンスモデル」として軽蔑的に扱い、「サイバー・フィジカルシステム」なる技術的流行語を振りかざして根本的破壊を正当化しようとしている。これは、モーツァルトのレクイエムを「古臭い音楽」として廃棄し、着信音に置き換えることを提案するのと同程度の文化的蛮行である。
なぜ従来の法制度では技術革新に対応できないのかという根本的問いに対して、報告書は「複雑で動態的」という意味不明な呪文を唱えるのみで、いかなる論理的説明も提供していない。これは論証の放棄であり、学術的議論の最低限の条件すら満たしていない証拠である。
報告書の中核的欺瞞である「法の支配から<法>の支配へ」という主張は、概念操作による詐術の完璧な実例として、詐欺学や欺瞞術の教材的価値においてのみ存在意義を認めうる代物である。山括弧で装飾された「法」に「アルゴリズムや各種コード」を含めるという設定は、法概念に対する破壊的攻撃の決定版である。
民主的正統性を有する法規範と、企業の営利的目的で作成されたプログラムコードを同一視する発想は、法学的思考の完全な死滅を意味している。これは、ダンテの『神曲』と取扱説明書を同じ「文学作品」として分類するのと同程度の知的混乱である。法と非法の基本的区別すら理解できない知的水準では、法制度論議への参加資格は最初から存在しない。
この概念破壊は決して偶然の産物ではない。既存の民主的法制度を無効化し、非民主的な私的統治を正当化するための計画的な言語テロリズムである。オーウェルの『1984年』で描かれた「ニュースピーク」の現実版として、全体主義的言語統制の教科書的事例を提供している。
このような言語破壊によって構築された疑似理論の上に築かれる制度設計など、根本的に無意味である。基礎概念の定義すら不可能な知的水準では、学術的検討の対象として認識される資格が皆無である。
報告書が革新的理論として提示する「応答責任」概念は、その見せかけの新奇性の背後に隠された論理的破綻の完璧な標本である。従来の予見可能性と注意義務に基づく責任体系を破壊し、事後的な「説明」による免責を可能にしようとするこの提案は、法的責任概念の完全な空洞化を意図している。
「アジャイル・ガバナンスの誠実な実施」による責任軽減という発想の恐るべき恣意性は、その判断基準の完全な欠如にある。何が「誠実な実施」に該当するのか、誰がいかなる基準で判断するのかについて、報告書は一切の明確な回答を提供していない。これは法的予測可能性の完全な破壊であり、法治主義の根本的否定である。
この提案に内在する「賢い失敗の許容」という思想は、失敗による被害の社会的転嫁メカニズムの露骨な表現である。しかし、誰の失敗が「賢い」と判定され、誰の判断が「愚か」と断罪されるのかについての客観的基準は一切示されていない。これは恣意的な価値判断の制度化であり、法の客観性への挑戦である。
さらに「応答責任を果たさない主体への厳格な制裁」という記述は、この制度の真の恐ろしさを露呈している。従順な者には寛大に、反抗的な者には苛酷にという、差別的処罰の制度化に他ならない。これは法の下の平等という近代法の根本原則への正面攻撃である。
この報告書が展開する「マルチステークホルダー」論は、民主主義に対する知的テロリズムの宣言書として、反民主主義思想史における重要な位置を占めるであろう。選挙による民主的正統性を完全に無視し、自称「専門家」による寡頭制的支配を正当化しようとするこの企ては、民主主義の根本的否定である。
これらの「ステークホルダー」なる存在に、いかなる民主的正統性が存在するというのか。国民の信託を受けたわけでもなく、国民に対する責任も負わない私的主体が、公共政策決定に関与する根拠は何か。この最も基本的な問いに対して、報告書は完全な沈黙を貫いている。これは論証の放棄であり、学術的誠実性の完全な欠如である。
「熟議」や「対話」といった装飾的言辞の欺瞞性も見過ごすことはできない。発言力と影響力において絶対的格差が存在する状況での「対話」など、強者による弱者の操作にすぎない。しかも、この「対話」の参加者選定が完全に恣意的であることを考えれば、これは民主的審議の偽装にすぎない。
「適切な範囲のステークホルダーの暫定的画定」という記述の傲慢さは、言語の限界を超えている。誰が「適切性」を判定し、誰が「暫定性」の期間を決定するのか。このような恣意的排除と包摂のメカニズムは、あらゆる全体主義体制における権力技術の核心である。
報告書を汚染している「アップデート」という語の病的濫用(22回の出現)は、この文書の知的貧困と操作的意図の決定的証拠である。法制度をソフトウェアの更新と同一視するこの冒瀆的比喩は、制度の歴史性と社会性に対する理解の絶対的欠如を示している。
「新奇性=進歩性」という原始的等式は、人類の知的発展に対する根本的誤解を露呈している。真の知的進歩とは、既存の知的蓄積を深く理解した上での慎重な発展であり、表面的な目新しさとは正反対の概念である。この基本的区別すら理解できない知的水準では、文明論的議論への参加は不可能である。
この種の軽薄な革新主義は、歴史上のあらゆる破壊的思想運動の共通特徴である。伝統的制度や慣習を「古臭い」として一方的に否定し、「新しさ」それ自体を絶対的価値として崇拝する態度は、知的幼稚性の典型的症状である。
「アップデート」連発による印象操作は、内容の空虚さを隠蔽する詐術的技法である。真の学術的議論では、概念の新奇性ではなく論理的一貫性と実証的根拠が問題となる。この基本的学術的作法を無視した修辞的操作は、知的誠実性の完全な放棄を意味している。
この報告書の背後にある動機の醜悪さは、それが専門的権威の不当な僭称に基づいていることにある。法制度の根幹に関わる高度に専門的な問題について、該当分野の専門的訓練を受けていない者が権威的に論じる態度は、学術的詐欺の典型例である。
法学、憲法学、法哲学といった高度に専門化された学問分野における数世紀の知的蓄積を無視し、素人的理解に基づいて根本的変革を提案する傲慢さは、知的謙虚性の完全な欠如を示している。真の専門家であれば、自らの知識の限界を認識し、他分野の専門性を尊重するはずである。
この種の専門性僭称は、現代社会における知的権威の危機を象徴している。真の専門知識と見せかけの専門性を区別する能力の衰退は、社会全体の知的水準の低下を意味している。
法務省や内閣法制局といった法制専門機関との調整の完全な欠如は、この越権行為の意図的性格を明確に示している。真摯な政策提案であれば、関連分野の専門機関との緊密な協議が不可欠である。その手続きを意図的に回避した事実は、この提案の非学術的性格を決定的に証明している。
報告書に蔓延するカタカナ語の異常な濫用は、概念的思考能力の壊滅的崩壊を示す臨床的症例として、言語病理学の研究対象となるべき価値を持っている。「アジャイル」「ガバナンス」「ステークホルダー」「マルチレイヤー」等の外来語を無意味に羅列することで、内容の空虚さを糊塗しようとする手法は、思考の怠惰と欺瞞の完璧な融合である。
日本語による適切な概念規定の不可能性は、そもそもその概念を理解していないことの決定的証明である。真に意味のある概念であれば、必ず明確で正確な日本語表現が可能である。外来語への逃避は、概念的明晰性の放棄と知的怠慢の隠蔽手段にすぎない。
この言語的堕落は、現代日本における思考力の全般的衰退を反映している。概念の正確な理解なくして学術的議論は不可能であり、言語の精確性なくして概念の理解は達成されない。この基本的原則を無視した議論は、最初から学術的価値を持たない。
カタカナ語濫用による思考の曖昧化は、批判的検討の回避を目的とした意図的操作である。明確に定義された概念であれば論理的批判が可能であるが、曖昧な外来語の羅列は批判の対象を無効化する効果を持つ。これは学術的議論の意図的破壊行為である。
報告書が権威的に論じる訴追延期合意(DPA)論は、比較法学的研究の素人性を露骨に示す恥ずべき実例である。アメリカ法制度の表面的模倣への幼稚な憧憬と、制度移植の複雑性に対する絶望的無理解が完璧に融合した、比較法学の反面教師的標本である。
アメリカでDPAが一定の機能を果たしているのは、広範で厳格な刑事法体系、強力な執行機関、独立した司法制度、発達した法曹制度といった包括的制度環境の産物である。この複雑な制度的生態系を完全に無視して、表面的制度のみを移植しようとする発想は、比較法学の初歩的原則に対する無知を露呈している。
制度の機能は、それが埋め込まれた法文化と社会的文脈の全体性において初めて理解可能になる。制度の断片的切り取りと機械的移植は、必然的に機能不全と予期せぬ副作用をもたらす。この基本的理解の欠如は、比較法学的素養の完全な欠如を意味している。
しかも報告書の提案は、DPAの制約的側面を意図的に無視し、都合の良い部分のみを抽出している。これは学術的考察ではなく、予断に基づく恣意的制度設計である。真の比較法研究であれば、制度の全体的機能と副作用の両面を公正に検討するはずである。
表現の自由は、民主主義社会の根幹をなす基本的な権利であり、誰もが自分の意見や思想を自由に表現できることは守られるべきです。しかし、その自由が安全や秩序を脅かす可能性があるとき、警察は社会の平和を維持するために慎重かつ公正に対応しなければなりません。正義とは、力による抑圧ではなく、自由と安全のバランスを尊重することにあります。したがって、警察の役割は、表現の自由を不当に制限するのではなく、むしろそれを守るために行動するべきなのです。
経済産業省が2025年5月に公表した「アジャイル・ガバナンスの社会実装に向けた『規制・制裁・責任の一体的改革』」報告書は、一見すると技術革新への対応という現代的課題を扱った政策文書のように見える。しかし、その内容を仔細に検討すると、人類が数世紀にわたって築き上げてきた「法の支配」という根本原理に対する驚くべき無理解と、それを「アップデート」という名の下に軽々に改変しようとする知的傲慢が露呈している。
より深刻なのは、このような重大な制度変更の提案が、法制度の専門機関である法務省や内閣法制局との十分な調整を経ることなく、一省庁の独断で公表されている点である。学術界からの本格的な批判が見当たらないのも、おそらくはこの提案が批判に値するほどの理論的基盤を持たないと判断されているからであろう。
報告書は冒頭から「法の支配」を論じているが、その理解は驚くほど浅薄である。法の支配とは、単なる技術的な統治手法ではない。それは、専制政治に対する市民の長い闘争の中で獲得された人類の貴重な遺産であり、マグナ・カルタ以来800年余りにわたって発展してきた立憲主義の核心である。
ところが報告書は、この重厚な歴史的蓄積を「伝統的なガバナンスモデル」として軽く扱い、「サイバー・フィジカルシステム」への対応という理由だけで根本的変更を提案している。「法の支配から<法>の支配へ」という造語を用いて、ハードローに加えて「アルゴリズムや各種コード」をも法的統制の対象に含めようとしているが、これは法概念の無責任な拡散に他ならない。
なぜ従来の「法の支配」では技術革新に対応できないのか、その根本的な理由について説得力のある説明は提供されていない。技術が複雑になったからといって、なぜ民主的に制定された法律による統治を放棄し、「マルチステークホルダー」による曖昧な合意に委ねなければならないのか。この基本的な問いに対する答えが欠如している。
報告書の最も問題のある特徴の一つは、「アップデート」という言葉の多用である。文書全体を通じて20回以上この語が使われているが、これは明らかに印象操作の手法である。ソフトウェアの更新になぞらえることで、法制度の根本的変更をあたかも当然の改善であるかのように見せかけようとしている。
「アジャイル」「ガバナンス」「マルチステークホルダー」「マルチレイヤー」といったカタカナ語の濫用も同様である。これらの概念がなぜ必要なのか、従来の民主的統治プロセスとどう違うのかについて、実質的な説明はなされていない。むしろ、横文字の新しさで煙に巻き、「進歩的」な印象を与えることで批判を封じようとする意図が透けて見える。
特に「応答責任」概念の導入は危険である。従来の法的責任の基盤である予見可能性と注意義務を軽視し、事後的な「説明」によって責任を軽減しようとする発想は、法的安定性を根本から揺るがす。これは企業活動の便宜を図るための制度変更にすぎず、市民の権利保障への配慮は二の次にされている。
最も深刻な問題は、この提案が民主的正統性をいかに確保するかについて真摯に向き合っていない点である。「マルチステークホルダー」による意思決定を推進しているが、これらのステークホルダーは誰がどのような基準で選定するのか。選挙によって選ばれた議員や、その委任を受けた公務員ではない私的主体が、なぜ公共政策の決定に関与できるのか。
報告書は「熟議」や「対話」といった美しい言葉を並べているが、経済力や情報力に格差のある状況での「対話」が、真に対等な議論になりうるとは思えない。むしろ、発言力の強い大企業が自らに有利なルール作りを主導する危険性の方が高い。
また、このような「アジャイル」な制度変更は、法的予測可能性を著しく損なう。市民や企業は、ルールが頻繁に変更される環境で安定した活動を行うことができるだろうか。法の安定性こそが自由な経済活動の基盤であることを、報告書の作成者たちは理解していない。
省庁間調整の欠如が示すもの
この報告書のもう一つの異様な点は、法制度の根幹に関わる提案でありながら、法務省や内閣法制局といった法制の専門機関との調整の痕跡が見られないことである。通常、このような重大な制度変更の提案には、少なくとも関係省庁との事前協議や、専門家による検討が行われるはずである。
その形跡がないということは、他省庁がこの提案を真剣に取り合っていないか、そもそも実現可能性がないと判断していることを示唆している。法務省は法制度の番人として、内閣法制局は憲法との整合性の監視者として、このような提案には本来強い関心を示すはずである。彼らの沈黙は雄弁である。
学術界からの本格的な批判が見当たらないのも、おそらく同様の理由による。憲法学者や行政法学者、法哲学者といった専門家たちが、この提案を学術的検討に値するものと考えていないのだろう。京都大学等で開催されているシンポジウムも、内容の批判的検証というより、概念の紹介レベルに留まっているように見える。
この報告書は、経済産業省特有の発想の限界を如実に示している。産業政策の観点から規制緩和を追求することは同省の重要な役割だが、それが法制度の根本原理への挑戦にまで発展するのは明らかに越権行為である。
「イノベーション」「第四次産業革命」「Society 5.0」といった一連の政策スローガンと同様、「アジャイル・ガバナンス」も結局は産業界の要望を正当化するための美辞麗句に過ぎない。企業活動の便宜を図るために法制度を変更しようという発想は、法治国家の基本的な価値序列を転倒させている。
また、このような壮大なビジョンを掲げながら実体が伴わないという、いわゆる「経産省文学」の典型例でもある。過去の「Connected Industries」や「第四次産業革命」が結局どの程度の成果を上げたのか。華々しい報告書が作成される一方で、実際の制度変更や政策効果は限定的であったのではないか。
知的誠実さの欠如
最も問題なのは、この報告書が知的誠実さを欠いていることである。「法の支配」という人類の叡智に真摯に向き合うことなく、表面的な理解に基づいて軽々に「改革」を提案している。反対意見や懸念に対して正面から応答することなく、「守旧的」というレッテルを貼って議論を封じようとする姿勢は、学術的議論の基本的作法に反している。
真の知性とは、既存制度がなぜ存在し、どのような価値を体現しているかを深く理解した上で、慎重に改善を図ることである。「新しければ良い」「変化は進歩」という単純な思考は、むしろ知的退歩の徴候と言わざるを得ない。
歴史を振り返れば、「進歩的」を自称する急進的変革がいかに多くの災禍をもたらしてきたかは明らかである。フランス革命の恐怖政治、ロシア革命の粛清、ナチズムの人種政策、いずれも「古い体制の改革」という名目で始まった。無論、この報告書をそれらと同列に論じるつもりはないが、既存制度への敬意を欠いた「改革」の危険性について警鐘を鳴らすことは必要である。
おわりに—真の改革とは何か
技術革新が社会に与える影響について真摯に検討し、必要に応じて制度的対応を図ることは重要である。しかし、それは既存の法制度の枠組みの中で、民主的プロセスを通じて慎重に行われるべきものである。
「法の支配」は完璧な制度ではないが、人類が長い試行錯誤の末に到達した貴重な達成である。それを軽々に「アップデート」しようとする前に、なぜこの原理が大切にされてきたのか、どのような価値を守ろうとしているのかを深く理解する必要がある。
真の改革とは、既存制度の価値を十分に理解した上で、その価値を損なうことなく新たな課題に対応することである。表面的な新しさや、印象的なスローガンで武装した提案ではなく、地道で着実な制度改善こそが求められている。この報告書は、その対極にあるものと言わざるを得ない。
政策立案者には、人類の叡智への謙虚さと、民主的価値への深い理解を求めたい。そして学術界には、このような浅薄な提案に対してより積極的に批判の声を上げることを期待したい。知的誠実さを欠いた政策論議の蔓延を許してはならない。
周囲の自分より優れた人間に「追いつけ追い越せ」と競い合う精神がある
女は基本的に「下を見る」
「あの人がこの程度のレベルの仕事で許されてるんなら、私ももっとレベルの低い仕事していいんだな」
という精神で働く
「みんながこのぐらいのペースで仕事してるなら私も(もっとできるけど)その程度のペースに抑えよう」
と考える
それお前が見下してるからそう見えてるだけで、実像と乖離があるように思うわ。当たり前やけど職場の精神安定剤的役割になれる人間ってのは基本的に精神が安定してる。
野心が無いから競争心とか劣等感を持ってなくて、劣等感が無いから他人にどう思われるとか全く気にしてない。よく言えば自由。悪く言えば適当。
裏表が無いし大したこと考えてないから、接する時の精神コストがめちゃくちゃ低いんだよね。だいたいどんな話でも笑って聞いてくれるし。
野心が無いから根本的にやる気が無い。自分を優秀に見せようとする気もない。やるべきことはやってくれるけどそれ以上をやろうとはしないから。
んでこういうタイプは全体にうっすら好かれる代わりに特定の連中と死ぬほど相性が悪い。
どういう連中かっていうと「自分の実力を証明するのが生き甲斐です」みたいな顔した野心バリバリの奴とか、他人軸で生きてて自分を抑圧しまくってるやつ。
この手の連中からすると根本的にやる気が無いところとか、他人からどう思われるかにとことん無関心なところがマジで癪に障る。
食べ物買うときに化学調味料入ってるかどうかいちいち調べてる人は今やほとんどいないと思うけど、化学調味料使用していることをあんまり前面に押し出されてたら引いちゃうと思うし、後味があんまり化学調味料だとちょっとガッカリすることもあると思う。化学調味料を使用していないことを前面に押し出してブランディングしていることもある。
安いチェーン店だったら料理に化学調味料が入ってるって言われても「ああ、そうなんだ」くらいのもんだと思うけど、ちゃんとしたお高級な料亭とかレストランとかであればあるほど化学調味料使ってるって分かったら残念な気持ちになる人が多いんじゃないかな。
熱心なアンチがいて、その中で間違った認識が蔓延してるのも共通している。
(主に某グルメ漫画のせいで)かつては化学調味料への拒否反応はもっとあったと思うけど、今は「基本的にはどうでもいいよ」って人が増えていそう。生成AIも奇異の目で見てる人がまだ多いんじゃないかと思うけど、だんだん「普通」になりそうな気がする。
麻雀全然わからんから『東3つで役?他のは?』って読みながら思ったわ
つまり基本的には33332で揃えないとだめで、その上でなにか一つ役ができてはじめてあがれる。
どう頑張っても痛みがあるからだと思う。ただ単に「気持ちよくない」だけですむなら渋々応じる女の人は多いんじゃないだろうか。
特に尿意を我慢した状態でセックスするとかなり気持ちいい。一般的な女の人よりもかなり性欲が強いと思う。
ただそんな増田でも多少は痛みを感じる。特に入口。ここはどれだけ念入りにほぐしても痛い。特にフィニッシュ時に長いストロークで高速ピストンをする男の人が多いだろう。あれが結構痛い。
増田はそこに至るまで十分気持ちよくしてもらった(女が気持ちいいと感じる動きでは男は気持ちよさを感じない)からここは自分が我慢するターンだと思ってる。だから痛みがあっても耐えられる。
子宮が降りてきてる時期にちんこが長い人とセックスすると子宮がガツンガツン突かれて痛い。しかも数日痛みが残る。(尿意を我慢してセックスするとふくらんだ膀胱がちんこの行き先を変えるのか痛くないからオススメ)
とはいえ短い人とのセックスはもっと痛い。短いので頻繁に入口付近を擦られめちゃくちゃ痛い。太さは正直いらない。
長い人は痛いと言ったけど、Gスポットはかなり気持ちいいから細くて長い人とのセックスが個人的には一番好きだ。(とはいえちんこの長さや太さは本人の努力では変えられないものだから仕方ないよね)
そしてセックスに誘うなら排卵日付近がいいと思う。個人差があるけど、この時期は基本的に性欲が高まるものだから生理前や生理直後に誘うよりは打率が上がるんじゃないかと思う。分かんないけど。
ということで
セックスの話でした。
タイトルがヘタすぎました。すみません。垢BANについては書いてないです(それは自分も知りたい)
改めてタイトルつけるなら 【2段階認証を安全に運用する方法(Google版)】 とかかなぁ
ちょっと勘違いしている人がちらほらいる(トラバ参照)ので追記しておきます
↑ということです
パスキーは『不正ログインのリスク』への対策の意味が大きいです
一部の人が感じている『パスキーを有効化すると詰みそう』というのは、少なくともGoogleには当てはまらないと思ってます(認証方法が*追加*されるだけだから)
2段階認証の認証方法を適切に管理するのが難しいなら、(『不正ログインのリスク』とのトレードオフを認識した上で)『2段階認証をOffにする』べきであり、パスキーとは直接的には関係ないです
2段階認証の設定を最新化できていないとか、電話番号だけにしているとかだと、パスキーを使っていなくても詰みます
自分が書き始めたきっかけがパスキーの話題だったので、わかりにくくて申し訳ない
できるだけ楽に以下のリスクからGoogleアカウントを守る方法を考えてみたよ
最低限、以下があればいい
アカウント名 | 忘れないようにしましょう |
パスワード | セキュアに生成し絶対に使い回さない。安全な場所に保管しておく(PW管理ツールを使う) |
2段階認証 | 有効化しておく |
バックアップコード | 2段階認証を設定すると生成できる。安全な場所に保管しておく |
パスキー | 普段使うデバイスで使えるようにしておく(複数登録できる) |
Googleのアカウント管理がやっかいなのは、Gmailやパスキーを使うのに必要となること
Googleにログインできなくなると、Googleに保存していたGmailもパスキーも使えなくなってしまう
なので、Googleだけは多少手間をかけてでも、リカバリ手段を確立しておく必要がある
その他の一般的なサービスは、登録したメアドさえ生きてればまぁなんとかなるでしょ(それはそれでどうかと思うけど)
ネット空間では、転売ヤーへの批判が渦巻いているが、このたび、無事転売に成功したので、「ストレスなく転売する方法」をここに記載しておく。
なお、当方、転売業者ではなく、間違えて複数台購入してしまった(家族内で2台必要だったので、家族総出であちこちの抽選に応募して、俺が無事2台購入したが、海外旅行中で連絡が取りづらい娘も1台購入してしまった)ので、余った1台を転売することにして、無事転売に成功した次第である。
さて、個人的には今回の転売前には、転売にはネガティブな感情をもっていたが、「せっかく売るなら高額で売りたいよね」ということで、無事売り抜けることに成功。転売ヤーに成り下がりました。めでたい!
現状、ネット上でSwitch2を転売できるサイトは基本的にメルカリとラクマだ(ヤフオクはSwitch2の販売を禁止している)。なのでメルカリかラクマで売るしかないのだが、メルカリやラクマで売るのはなかなか大変な状況だ。メルカリやラクマのSwitch2の出品状況を見ていただたきたいが、カオス状態である。Switch2を出品すると、転売を批判する連中がイナゴのように殺到して、コメント欄がゴミで埋め尽くされる。単純に商品購入を目的としないクソコメ(罵倒を浴びせる、料理のレシピを書く、アスキーアートを描く等々)。怪しげな根拠からの出品行為の批判(「レシートの出品は規約違反なので通報しました」とか)。購入者に向けての脅し(「保証を受けられない」とか「任天堂アカウントがBANされる」とか)等が繰り広げられている。
ということで、メルカリやラクマで転売すると、こうした嫌がらせや脅迫の数々を受けることになるのでなかなか大変だ。なので、ここでストレスなく転売する方法を記載しておく。転売される方は参考にされたし。
上で書いたように、Switch2を出品すると、大量のクソコメが湧いてくる。これを避けるにはまずは【先制ブロック】だ。他のSwitch2の出品ページに行くと、クソコメを付けてるアカウントを見つけられると思うので、片っ端から先制ブロックしよう(余裕があるなら運営に通報しよう)。人間の知性における最底辺に見ることになると思うのでなるべく心を無にしてブロックすることを推奨したい。俺の観察した感じでは、クソコメを付けてるアクティブユーザーは200人くらいなので、大量に先制ブロックすると、出品した際に、クソコメが付くのを事前にかなり予防することができるはずだ。
先制ブロックをして出品しても、脅迫めいたクソコメは確実に書き込まれる。一番多いのが「レシートや納品書の出品はメルカリの規約違反です(なので購入しても保証を受けられないぞ)」というものだ。メルカリでの「レシート等の出品禁止」はあくまでも、【レシートだけの出品禁止】であって、【レシートや納品書を商品に添付すること】は禁止されていない。なので、商品説明欄に「レシートの商品への添付はメルカリの規約で認められています」と記載した上で、最初のコメントでの脅しに対して、一度だけ「規約で認められている」と返事した上で、残りの類似のコメントは全て出品者機能で削除しよう(書き込んできたアカウントをブロックするのも忘れずに)。
他には「転売購入では保証が受けられなくなる」や、「転売購入が発覚すると任天堂アカウントがBANされる」といった根拠不明の脅迫コメントも書き込まれるだろう。
まず「転売購入の発覚」についてだが、「任天堂に転売を見つけ出すことはできない」ことを明記しよう。具体的には、以下のように書くと良いだろう。「家電量販店で購入した商品をそのまま第三者に譲渡して、レシートもそのまま譲渡すれば、譲渡者を転売購入者だと任天堂が判断するのは不可能である」。これも、最初のコメントだけを残し、返事を書いて、あとは削除とブロックである。
「任天堂アカウントがBANされる」というのは、海外サイトで話題になった「Switch1を中古で購入したら、前所有者の違法行為によって、アカウントがBANされた」事件のことだ。この事件でこうした顛末となったのは、前所有者が機体を違法改造していたことに対して任天堂が取った処置のようである。Switch2の転売とは何の関係もない。そもそも海外の匿名掲示場に書かれたどこまで本当かわからない情報である。これも最初のコメントだけ残して、海外サイトでの怪しげな情報に基づいていることを指摘して、コメント削除とブロックである。以下のXでの投稿と、コミュニティノートも参考にされたし。
https://x.com/toratora_0922/status/1933993139293065695
クソコメ潰しと同時にやらないといけないのは、購入希望者の不安を軽減してあげることだ。
転売でもSwitch2を欲しがっている人は当然おり、そうした人は基本的に普通の人だ。そして「普通」であるがゆえに、高額商品の購入に不安を持っているので、不安を解消してあげよう。クソコメ達は、こうした購入者の不安につけ込み、転売購入にはリスクがあることをコメントで書き込んで、購入を躊躇させようとしている品性下劣な存在である。上でも書いた「アカウントがBANされる」とか「保証を受けられない」等々だ。他にも、「箱だけ出品で中身がないかもしれないよ。出品詐欺に遭うかもしれないよ」といったコメントも書かれることもある。こうしたクソコメには毅然と対応する一方で、購入者希望者の不安に対しては誠実に対応しよう。そうすれば、購入者希望者も安心して購入してくれるはずだ。
余談だが、転売ヤーを叩くのは百歩譲ってまだ理解できるが、しょこたんのような転売購入者まで叩くネット世論は完全に常軌を逸している。もし購入者叩きに加担していたなら、戦時中のファシズム「欲しがりません勝つまでは」に陥ってしまった人のように、草の根全体主義に参加してしまっていないか自戒してみよう。自分の醜さ、愚かさに気づくはずだ。
俺は今回、自分で転売する前には、転売行為に薄っすらとした嫌悪感を持っていたが、転売当事者になったことで、転売は基本的に肯定されるべき派に転向することになった。転売を批判して騒いでる奴らがあまりに醜悪だからだ。そして、転売批判者の醜悪な行動の数々は、今の日本を駄目にしている要素が凝縮されてるとも思った。以下に列挙してみよう。
①については言うまでもないだろう。日本人の最も醜悪な性質である【ムラ意識】の発露だ。こうした出る杭を打つような行動は、日本における独創性やイノベーションを阻害している。米価の高騰で大騒ぎして、仲買業者や農協を陰謀論じみた根拠から集団で叩いている行為にもこれを見ることができだろう。
②「転売が発覚するとアカウントがBANされる」みたいな海外ルーツの怪しげな情報をそのまま信じてしまう(あまつさえ、都合よく伝言ゲームで改変された情報をそのまま信じてしまう)。情報をきちんと精査できず、SNS発の陰謀論を簡単に信じてしまっているわけだ。石丸伸二や斎藤元彦や参政党に投票したり、統一教会陰謀論やクルド人デマにハマったりする行為に他ならない。愚民化してる日本人の象徴だよ。
③これが一番噴飯ものだ。「任天堂は子供に楽しんでもらうために流通・プラットフォームを整備しようとしてるのに、その転売ヤーはそれを上流で邪魔してる」みたいなのね。一企業がプラットフォームを独占しようとしてる行為が、そんな善意の動機だけに基づいてるわけないだろ。任天堂がファミコンやスーパーファミコンで胴元としてアコギなことをやってた過去を忘れたのかな? ハード発売直後の、一時的な超過需要の問題に過ぎないのに、転じての、転売ヤー批判と道徳的な訓話をごちゃ混ぜにして、一企業のプラットフォーム独占やら、セカンダリーマーケットへの規制を正統化する詐術に簡単にお前ら騙されてるわけ。ゲハ脳はまさに「肉屋を支持する豚」であることをこれ以上ないまでに証明している。下の山本一郎の論考『山本一郎:お前らとSwitch2の転売ヤーを巡る業界の話』とか典型だよ。お前ら、山本一郎(肉屋の広告マン=総会屋2.0)にあっさり騙される豚になってるわけよ。
https://www.4gamer.net/games/999/G999903/20250613040/
経済学的に言うなら、消費者なのに、超過利潤(レント)を企業に与える行為を支持しちゃってる。マルクス経済学的に言うなら、労働者なのに資本に対する資本余剰を増やす行為に加担しちゃってるわけ。こうした行為が、市場主義経済全体の効率性を阻害させて日本経済全体の生産性を低下させてることは火を見るより明らかだ。
④これに関しても言うまでもないだろう。お上によるトップダウンの規制を盲目的に肯定しちゃってるわけ。特定の市場取引に国が表層的な道徳心から介入すればどんなバックファイアが生じるかとか検討できないわけ? お上が気に食わないことを法規制すれば、それで一挙解決って、立法による正統性やら、行使が行われた時の経済的効果とか何も考えられないわけ? 水戸黄門とか暴れん坊将軍を好む日本人の奴隷的心性がここにも如実に現れてる。「国がお金をばらまけば全問題が解決します」みたいなれいわ新選組を支持者みたいな思想で、日本人の独立心・主体性の無さの象徴でもあり、まさに日本を駄目にしてるわけ。
任天堂●ね。転売批判者●ね。お前らが日本経済・政治を低迷させてる元凶だよ。お国から5万円バラマキしてもらって、それで購入したSwitch2を抱えて●んでくれや。
生活保護を受給するには、基本的に持ち家やマイカーはダメ(家に資産価値がない、家をすぐに売り払うことができない、緊急性がある、田舎で車がないと生活することが不可能……など例外あり)、基本的には親族への扶養紹介もある(これも例外あり)、資産(持ち金や価値のある物品)が一定以上あってはならない、大学生は受給不可(受給したいなら退学しなければならない)とか、まあいろいろ条件があるからさ。
毎回健康診断で痩せすぎで引っかかる
ついに若干苦言を呈されてまったからなんとかしたいやで
疲れると食欲無くすタイプやから面倒になると夕飯を抜いたりポテチ1袋で済ませるのがよくないのかなとは思っとる
あと朝も割と時間なくて抜きがちや
一応これは今年度いっぱいまでで、来年からは片道3キロくらいになる
車の中でチョコパイとか菓子パンとか食べたりはするけどそもそも家に忘れてあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜腹減った…と思いながらそのまま昼まで抜くことが多い
時間があればお茶漬けとか、もっと余裕あれば納豆ご飯と味噌汁とか食べるで
夜:大体丼物(米半合に適当なおかず乗っけたの)+味噌汁+サラダor豚汁+米1合+サラダ、やる気がなければそうめんとか
野菜は好きやからこの時期やと夜食にボウルいっぱいにサラダ(きゅうり、レタス、トマト、フライドオニオン、ドレッシング)作って爆食いはする
運動が足りんから腹が空かんのかと思ってフィットボクシングやってみたりもしたけど、疲れて夕飯を抜くようになったから意味なかったで