はてなキーワード: 萌えとは
横だけど個人的な意見として(他意はない)一般的には萌えは性欲と無関係ではなく、男はペニスが支配していると言われるように、性欲が価値観を極めて強力にヘアピンカーブさせることはあると思う
[B! 広告] 「苺ましまろ」広告を『醜悪』『一掃しなければ』と立憲民主党・藤原のりまさ議員が批判(やなぎや東三楼総支部長も賛同)~それへの議論
数年前まではポスターまわりで炎上する事件がたびたびあったのに。
最近ではめっきり聞かなくなったよなー。
ひょっとして、よい方向に決着がついたのか?
・笑い男たそ〜〜〜
も、萌え〜〜〜
物語のメイン事件についてモブ時点でワチャワチャ話してる内にそのそのモブの内のひとりは…?なやつすこすぎ
・メカへのロマンと共に「インターネット」について取り扱っていてよかった
・大塚明夫の声帯で半人前扱いキャラ…!?と思ったが段々萌えてきた
・えっ原作だとバトーさん、素子さんのこと特に好き気味な感情抱いてないんか??!
・映画とか9課メンバー招集編とか2期とかも流し見したけど、オムニバスじゃなくて繋がってるかつ設定が難しくてちょっと難しかった
vtuber女というのは男性向け萌えに造詣があってそれをやりたいと思うのか?
嫌いなのに、本当はバリバリの乙女ゲー好きとかなのに、美少女のガワ被る気になんてなれるもんなんですかね?
⇒バリバリ女性向けコンテンツ大好きな女が男性向けコンテンツが嫌いなのに男が好きそうな美少女のガワ被って男に媚びれるモンなん?
とかいう事でしょ?
⇒「女性向けコンテンツが好きで男性向けコンテンツが苦手な女性Vが、わざわざ男性向けのガワでVtuberって出来るもんなの?」って意図だとしたら
vtuber女というのは男性向け萌えに造詣があってそれをやりたいと思うのか?
嫌いなのに、本当はバリバリの乙女ゲー好きとかなのに、美少女のガワ被る気になんてなれるもんなんですかね?
dorawiiより
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・カプ厨大勝利!
でも自分は「くっつくかくっつかないか分からない2人の関係」に萌えてたので「別に好きではないカプの同人誌を見させられ続けた」という気持ち
「大人になってからのトラウマを作ってやろうか!!!」とかキレまくるアシカとかフッ軽(片方歩行器)のヤギとか
来そうで来ないシャイニングパロとか
・潜入捜査名目で推しカプのこのシチュが見たい!を連発は同人誌なんよ
・なにもかも言語化しすぎィ!
・バディ(カプ)
・なんかやっぱりエレメントみたいに「物語のパーツを組み合わせて作った」ツギハギ感あるんだよな で、作成スタッフ陣の中でニクジュディカプ推し派が勝利して映画の中で幅利かせてる感じ
https://youtu.be/Nxp7HruM77c?si=nsf1mjslLlSegZCm
たとえば「萌え」も「伏線」も定義が曖昧なまま推論が組み立てられていく。
定義が曖昧というか、一面を切り取って辞書みたいに「萌え=〇〇」「推し=〇〇」みたいな。
こういう言葉って、使われる時代や文脈(『萌え』なんて何年使われてるんだ)も、使う人のリテラシーもバラバラだと思うんだが……。同じ言葉を使っていてもよくよく聞いたらニュアンスが違うなんてこともあるんじゃないのか?(そのこと自体は否定するつもりはない。むしろ健全だと思う。あくまで推論の出発点として地盤が緩いということ)。
なんでもかんでも「定義」が要るとは思わないが
「『萌え』は可愛いって思う感情だけなんですけど」「推しの場合は『見返り』があって」と言い切ってどんどん話が進むので、納得がいかない。
ドラマを『考察』して(この先の展開や作者の意図=『正解』を当てようとして)視聴している人が増えていて……という話も、ひとことに「増えている」とは?そういう人たちが目につくようになった、ならわかるけど。それでひとくちに「若者」「令和」とくくるのって、思い切りが良すぎないか?
中学生〜高校生の思春期のおよそ2年間ほど、既婚者の男性動画投稿者にリアコしてた時期がある。
当時は異性との共演を見るのもしんどくて、当然配偶者の話なんかは聞きたくなくて(幸いなことに動画の中であまり配偶者の話をしないタイプではあった。だからこそ好きになれてしまったのかもしれないけども)、最初はただ面白くて動画を見てたはずなのにいつのまにか辛さの方が増してしまった。
いわゆるアイドル売りをしているようなタイプでもなかった。とはいえコメント欄などでは女性ファンが目に見えて多く、「かわいい」みたいなコメントはなんとなく許容されていたのだけども、そんな中でもリアコ的なコメントをするのは当然非常識みたいな風潮があったし、見えないところならOKという感じでもなかった。少なくとも私はSNSなどでそのような発信をしてる人を一度も見かけたことがなかった。なので私も、コメント欄でもSNSでもそのような発信をしたことは一度もない。現実でも誰かに話したことがなかった。頭がおかしい自覚があるから。
何がきっかけで離れたのかはあまり覚えてないけど、元々二次元オタクだったし、別の二次元の推しが出来たんだった気がする。その推しにもリアコしていた。なんかずっと、現実とそうでないものの区別がついていない。
数年経って、久しぶりにまたその人の動画を見るようになった。もともとは面白さで好きになったから、久しぶりに見てもやっぱり楽しく見れる。たまにちょっとした言動から胸がギュンとして「ああ好きだなあ」って思う瞬間があるけど、それにしても以前より穏やかな気持ちで見れている。気がする。
配偶者について積極的に触れるタイプではないのだけれど、動画の中でその存在が匂わされるとしんどくなってブラウザバックしてしまう。せっかく本人はあまり触れないスタイルなのに、コメント欄で憶測で盛り上がってたりするとすごく気分が悪い。そういう人たちのコメントは明らかにメロついてて、動画投稿者を異性として意識しているのが滲んでいるのに、それと「奥さん大事にしてる感が萌える」みたいな感情がどうして両立できているのかが分からない。私はただただ、奥さんの話をされるのが、存在を感じてしまうのが嫌。
配偶者についてあまり触れないタイプだと思ってたのだけど、メンバー限定配信ではよく奥さんの話をしてるらしい。(好きとか言っておいてメンバーにもなっていないのは何っていうのは本当にそう。一番ハマってた時期がお金のない学生のころだったから許してほしい)お互い思い合っていて、理想の夫婦らしい。
以前、どこかの掲示板みたいな仄暗い場所で、「子供もいないし離婚しそう」と書かれていたのを、ずっと胸の中に、拠り所として置いていた自分に気づいた。どうやらそんなことは起こらないらしい。すごくショックを受けている。そして、自分の醜悪さが恐ろしい。
なんで、会ったことも話したこともない人を好きになれるんだろう。二次元のキャラクターなんて、そもそもこの世に存在すらしていない。普通に考えてあまりにも恋愛のプロセスから外れている。推しのような絶対に手の届かない人を本気で好きになれてしまう人と、そうでない人の違いってなんなんだろう。
男女問わず、推しと付き合いたいとか結婚したいとか、SNSで気軽に発信してる人は普通にいるけど、なんなんだろう。私は自分の頭のおかしさがチラついてしまって、堂々と付き合いたいとか言えない。もしかしたら、付き合いたいとかそういうのは萌え語りにおけるファッション的なもので、本当に恋愛感情として好きって訳じゃないんだろうか。
アイドルみたいに、ファンがリアコすることも想定していて、そういう売り方してくれてたら、楽にそれに乗っかれたのかもしれない。握手会とかチェキとか会えるイベントもないし、スパチャをしたら名前を呼んでくれるみたいなのもない。疑似恋愛すらできない。
ALTがお気持ち表明のワンクッションみたいに使われてるケースが多いけど、目が不自由な方にとっては、ワンクッションどころか何の心の準備もないところにショッキングなお気持ちが直撃してしまいうるというのは問題だと個人的には思ってる。ブラクラみたいなもんだよ
萌えイラストと詩という例を挙げているけど、そもそも目が不自由な方は萌えイラストだということすらわからないんだから、絵についての説明がなければその詩が何についての詩かもわからないわけで。説明と詩をALTに併記すればいいじゃんという意見なら賛同できる気もするけど、それでも健常者なら絵だけ見て詩はスルーという選択が取れるけど目が不自由な人は絵の情報と一緒に強制的に詩も摂取させられることになるから、詩が嫌いな人にとっては辛いのでは
ALTは健常者が当たり前に得ている情報や選択の自由を目の不自由な方にも保障しようというマイナスをゼロにしようとするものであって、ディスインセンティブないんだから間違った使い方でもいいじゃんという意見はあまりに健常者中心の考え方である上にレイヤーがずれている
自分も正しい使い方はしつつも、「実際に間違った使い方をしてしまった時のディスインセンティブ」がイマイチイメージできないってのは正直ある
(とりあえず自分の場合、目が不自由な方や、通信不具合で画像読み込めない方が、代わりに見る文章と解釈してるので、その上で話を進めます。)
例えば防災情報の写真で、ALTに関係ない情報が書いてたらダメってのは理解できるのよ。
ただなあ、例えば白紙の画像1枚あって「ALTに今のお気持ちを書きました」ってのがあったとして、間違った使い方ではあるが、何かしらのディスインセンティブがあるかって言われるとウーンって感じではある気がする。
萌えイラストとかの場合は、ALTにイメージした詩を添えるよりも、「可愛い女の子がピースをしています」と事実を添えたほうが想像はしやすいかなあ。でも詩の方がかえって良いって人もいるかもだしなあ。
うーん、結局「防災情報とかの本当に必要な時に、間違った使い方をしてしまうかもしれないから、普段から正しい使い方をしましょう」って話しか自分は理由を説明できなくて、「間違った使い方をしたら具体的にどういう被害が生じるの?」って話に答えられないのよなあ。
当時中華ソシャゲのべ10年ぐらいやってた俺ですらここまで邪気がガンガンしてる単語は見たことがなくてニタニタしてしまった。
萌え萌えパンチラスマホゲームですら使わないような超絶TUEEEEEEでKAKKKEEEEEEEEフレーズに俺は本当にワクワクだった。
その後出てきた連中が「女ぁ!女は弱いから戦うなぁ!!!」とか抜かす『裏設定を知らない初見視聴者の脳内張五飛』みたいなレベルのオッサンが次々登場して更に爆笑。
しかもソイツらがマッチョイズムに染まった果てに筋トレしまくって本当にマッチョしてるというのもワロてしまう。
んでその後の展開で師父(シーフー)みたいな面して出てきたのがよりにもよってアイツかよwwwwwwwww
なんすか?ロード・エルメロイII世とかその辺も好きなんですかこの作者は?
そしてこの超絶カッケーーーーー執剣者(ソードホルダー)(爆)の顛末のしょーもなさも笑う。
なんつうか「作者なりに頑張ってこういうありがちな展開を皮肉ろうとしました!!!」って感じなのは伝わるんだけど、皮肉りにしたってちょっとクオリティが低すぎて「こりゃ人間描けないアスペ工学オタクって言われるわ・・・」状態なのもゲキワロス。
何から何までシリアスに笑えて「ちょwww先生wwwどこまでネタでどっからガチっすかwwwwお涙展開のびみょーさは流石にネタっすよねwwwwあっでもガチっぽいwwwwww」なんすよ。
お前らはどこが一番好き?
振り返ってくとなんだかんだこのあたりが一番ミソが詰まってるとは思うんだけどね。
だって結局はどこまで言っても暗黒森林理論(これもすげー邪気眼だなよく考えるとwwww)やん?
ヤンヤンつけボーやんやん?
魔法騎士(マジックナイト)レイアースはアニメ版から入って、海ちゃんが好きだっだよね。
見た目はクールな美少女だけど感情表現豊かで友達想いの海、見た目はショタで美少年だけど長い時を生きる賢者のクレフ
はっきりくっついた訳ではなかったけれどお似合いだと思ってて…
でも後で原作を知って、原作にはクレフとの恋愛要素はなく、アスコットという目隠れガチショタからの片想いがあり、そっちとくっつきそうな可能性を示して終わっていると知る。
で、さらに後年、CLAMP作品はその殆どがジョジョの花京院と承太郎を元ネタにしていると知る。
レイアースにおいては光(ウェーブの赤い髪、相手役のランティスは承太郎と同じ声優)、風(ウェーブの髪、緑色の目、機体が緑)、エメロード姫(ウェーブの髪、緑色の目、名前がエメラルド、CCさくらの雪兎と同じ声優、相手役のザカートは承太郎と同じ声優)、イーグル(ランティスとコンビを組んでいてエメロード姫と同じ声優、機体が緑)が花京院で、それぞれの相手役が承太郎と思われる。
海ちゃんはどうなんだと心配したが、レイピア使い、三枚目といった要素を取り出していくと
とか言っても海ちゃんもやはり花京院である可能性は否定出来ないが
アニメのクレフとの関係を否定してアスコットという別キャラをくっつけようとした事実からは、
どうもCLAMPの自己投影対象である花京院モチーフのキャラ以外の女キャラにはハイスペ男キャラをくっつけてなるものかという意思を感じるんだよな…
それにCCさくらでクレフと声優が同じエリオルはプレセアと声優が同じの観月とくっついていて
そうするとクレフも承太郎で、承太郎要素のあるキャラは花京院以外とくっつけたくなかったと考えると説明が付くから
最近はとにかく原作者至上主義で、メディア化による原作改変は絶対悪のように言われる風潮だけど
しかしCLAMP作品の場合そもそもの「原作」からして、ジョジョと別作品とを組み合わせたツギハギパクリの二次創作みたいなものだしなー
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。 言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー): AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー): AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
Next Step: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。 西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(Steady State)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENT IS WAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。 単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性: はい、極めて困難です。 理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在: しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。 監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
Next Step: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義: 人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 → 人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義: 人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 → 人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。