
はてなキーワード: 歴史学とは
例えば、1998年から2003年までを体感したいなら、当時の新聞やらCMなどを時系列順にぶつければいいだろうか。
1日が5分に圧縮されるとすると1ヶ月が2.5時間になり、1年は30時間になる。5年は150時間で、これは1カ月の労働を「当時を体験」の時間に置き換えれば消費できる。生活に組み込むというのが肝要だろう。
当時の細かい時系列を知るのはかなり重要だ。例えば2001年9月12日の出来事は同年9月11日に影響を与えない。しかし、その逆は大いに影響を与える。「何が何を起こしたのか」のを積み重ねると「歴史」になる。
さらには、一見小さな出来事も大事に繋がっていたり、抽象的な「勢い」「空気」「メディアの煽り」といった個別に名前のつけがたい出来事が何かを起こすということもある(しばしば、世論が動かしたと評される)。
これは博物館の個展として実装されることもある。当時は紙切れでしかないものが積み重なって時を経て、歴史学的タイムマシーンになる。浪漫だ。
実家では犬の餌やりと新聞雑誌縛り係だった。上手いもんで、ものの45秒あれば1ヶ月分の新聞が資源ゴミになっていたものだった。そんな古紙回収すら惜しまれる。
それはそうと、発展形 発展型 発展系ってどれがどれなんだ
大東亜戦争で日帝がアジアに対して、特に中国・韓国・シンガポール・インドネシア・フィリピンでやったことについては複雑で、かつ二面的に見なければならないと思います。
確かに日本はオランダを追い出してインドネシアを統治下に置き、ポツダム宣言後にはスカルノによる独立を導いたという「解放」の一面がありました。スカルノが象徴するように日本に対して感謝の念を示し、インドネシアは親日的な姿勢を取り、ビジネスのパートナーとして長年良好な関係を築くことができました。これは確かに事実としての正の側面です。
しかし同時に、日本統治下ではインドネシア人をロームシャとして過酷な強制労働に従事させ、その多くが命を落としました。現地では日本統治時代を「飢餓と暴力の時代」とまで伝え残しており、この負の一面も決して忘れてはなりません。
フィリピンでも同様です。バターン死の行進やマニラ市街戦での民間人虐殺は戦争犯罪の象徴であり、その記憶はつい最近までお札に印刷されていました。これは反日的というよりも「独立に至った歴史を忘れない」ためのものでした。フィリピンはもともと独立を目指していたため、日帝の「解放」が大きな影響を与えたとは言い難い面もあります。
日本はイギリスを撃退し、シンガポールを「昭南島」と名付け統治しました。しかし統治の始まりには民間人華僑の虐殺(粛清)が行われ、さらに強制労働と飢餓で住民を苦しめました。現在でもシンガポールの老華僑の間では「苦難の時代」の記憶は完全に消えておらず、市内には当時の加害を記録し伝える石碑や博物館が今でも残されています。
一方で日本人はしばしば、本土空襲・沖縄戦・原爆2発、あるいは兵士の6割が餓死や病死で帰ってこなかった事実を強調し、平和国家を自称してきました。しかしそれだけを前面に出すと「加害への反省が足りないのではないか」と中韓などから指摘されます。
戦争の加害側であった歴史を忘れ、否認する姿勢さえ見せる者もいます。これはドイツでは考えられないことです。日本がサンフランシスコ講和条約を結び、反省を示して国際社会に再び受け入れられ、さらに多くのアジアの国々に許されて仲良くしてもらえたことは、決して忘れてはいけないと思います。
特に中国は1980年代まで「悪いのは日帝であって日本人ではない」と教え、中国残留孤児を育て上げて日本に送り返すまで面倒を見ました。1972年の日中共同声明では賠償請求すら放棄し、日本を受け入れてくれていたのです。
近年、中国が歴史問題で強くアピールする背景には、日本国内で一部政治家や都知事が加害の歴史を否認し始めたり、教科書の記述が「侵略ではなかった」と書き換えられるようになったことがあります。中国にとってこれは大きな衝撃であり、その反動として南京事件や731部隊の問題を国際社会で強調するようになりました。
結局のところ、何が大事かといえば経済であり外交です。侵略の歴史を否認すれば、特に中国や韓国をはじめとするアジア諸国から信頼を失い、貿易や協力関係にも支障が出ます。日本はもはやあぐらをかいていられる国ではなく、斜陽国として国益を守るために何を優先すべきかを考えなくてはなりません。その意味で、石破茂氏のスピーチは国益を重視した姿勢として評価に値すると私は考えます。
大東亜共栄圏構想は「西欧列強からアジアを解放する」と掲げていました。しかし実際には資源獲得と軍事拠点化を目的とし、欧米支配に代わって日本が「統治」しただけであり、現地住民に甚大な犠牲をもたらしたのも事実です。
国際法・歴史学的には「侵略」と評価されるのが正確であり、WW2における日帝の行為をそれ以外で評価するのは国際的には正統派とは言えません。
ただし独立運動の観点からは「欧米植民地支配からの解放の契機」と評価されている面もあり、この両面を見なければなりません。
アジアの戦争犠牲者は2000万人以上と見積もられており、これは忘れてはならない歴史的事実です。日本人からすれば「侵略」と「解放」の二面的に見ることができる、という認識が最も現実的だと思います。
二度と戦争に関わらないこと。殺し合いや餓死や特攻、核兵器の使用には断固として否定の立場を取ること。これが何より大切だと思います。ですから、今回の参院選で改憲勢力が三分の二を超えたことを、個人的にはとても危惧しています。
ちなみに…もっと深堀りするならば。
各国の独立運動家が日本を利用したのには明確な理由がありました。
インドネシアのスカルノやハッタは、オランダから独立するために日本の軍政を「利用」し、敗戦後に即座に独立を宣言できる体制を整えました。
インドのチャンドラ・ボースも、日本軍を頼りに「インド国民軍」を組織し、反英独立運動を推進しました。
日本に帰らなかった敗残兵達がインドネシアやインドの独立に協力したというか利用されたというのもまた歴史的な事実です。
また、戦後すぐにアジア各国の対日感情が今ほど悪化しなかった理由もあります。
第一に、戦後日本が米国主導で急速に経済復興を遂げ、ODAや投資を通じてアジアに「恩恵」を与えたこと。
第二に、欧米列強の植民地主義(アフリカなど)がなおも続いていたため、「日本の侵略だけが特別に悪」という視点になりにくかったこと。
第三に、多くの独立運動家は「日本を利用して欧米から独立した」という現実を直視しており、一概に反日感情に流れなかったこと。
これらの事情が重なり、アジアの多くの国々は戦後日本を受け入れ、経済的パートナーとして信頼関係を築いてきました。
侵略の事実を直視することは、日本にとって不名誉ではなく、むしろ国際社会からの信頼を守るために不可欠なことです。解放の契機という側面も併せて語り継ぎつつ、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うこと。それが日本の国益であり、未来への最大の投資だと信じます。
注意 リンクをたくさん貼っているが、スパム対策をしています。ご了承ください。
これは以前から何度か書いている與那覇潤について、もうその観点・見方が陰謀論とまではいかなくとも、かなり接近しつつある段階に突入していることを「実証」する試みである。
この検討によってもはや與那覇の現状がいかにヤバいことになっているかが分かるだろう。
正直、少し調べてみただけだが(そもそも今の與那覇にそこまで時間を費やす価値はない)、ここまでとんでもないことになっているとは予想だにしなかった。まさに與那覇は「ホンモノ化」しているといえるだろう。
なお、「ホンモノ」とは與那覇による自称である。主流派の専門家を「ニセモノ」と断じて自分こそが社会を正確に批評できる「ホンモノ」であると対比させている。そもそも、50手前のいい年した大人がこんなイタい表現使うこと自体どうなのかと思うが、まあ本人が気に入っているようなので與那覇は「ホンモノ化」していると批判しても一向にかまわないだろう。ここでは與那覇のいう「ホンモノ」の思考や言説が一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。
突然だが歴史学には「史料批判」という言葉があるらしい。AIに要約させてみた。
「史料批判」とは…史料批判とは、歴史研究において、史料の信頼性を評価し、歴史的事実を解明するための批判的な手法のことです。史料の真偽、作者、作成年代、内容の信憑性などを検討し、史料が示す情報がどの程度信頼できるかを判断します。
まあ要するにソース(史料)にはしっかりとその正否を問える力を付けようということである。與那覇は研究者たちとの争いの中で自分が批判する研究者たちを「史料批判できない」と言って批判している。
ttps://note.com/yonahajun/n/n9e5c69865c86
ここではこの争いの是非については立ち入らない。気になるなら各自で調べてもらえればと思う。
さて、與那覇はコロナに対するマスク・ワクチンへの批判を痛烈に熱心に行ってきた。最近はとうとう「店員はマスクを外せ」と言い出している。
これは結局マスクを強要することを批判していたことの裏返しに過ぎない典型的な逆張りのしょうもない話である。しかも理由が「外国人がせっかく来ているのに」とか自分が気に食わない、とかいうどうでもいい理由である。いや、流石にそんなことは言わないだろうと思った人はこの記事を見てほしい。
ttps://note.com/yonahajun/n/n28ac220c53ff
この記事の問題点は「マスク信仰」が江戸時代以来の日本の図式だ!みたいな杜撰極まりないぎろんをしているところ。そしてそれを「ホンモノ」たる成果として誇っていること。下記の『潮』に掲載した一文なんてすさまじいことこの上ない。嘘だろと思うだろうけれど、「ホンモノ」は本気で言ってるらしい。アンケートでも取ったというのだろうか。
「この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装も台無しで、インバウンドで訪れた外国人はがっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない」
問題はここからである。與那覇はここまで自信満々にコロナについて発言するのだから、当然それなりの根拠があるはずである。そんな與那覇のコロナ観が分かるのが、2023年のnewsweekに掲載されたこちらの記事である。
驚くべきは與那覇が「マスクは無用、コロナは大したことない」と主張するソースである。
ttps://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php
森田洋之と宮川絢子である。森田は非常に有名な反ワクチン論者で、人によっては「陰謀論者」と評するような人物である。
https://note.com/inbouron666/n/na670d641ce30
宮川はコロナで苦汁をなめたことで有名なスウェーデン在住で、その姿勢はかなり批判されてきた。
ttps://note.com/nyanpy7x/n/nae5e69ef7519#45a31942-36fe-478b-99f0-7f23e330a050
宮川が絶賛するスウェーデンコロナ対策は2020年時点で国王から「失敗」の「太鼓判」が押されている。
ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20201218/k10012770601000.html
ttps://toyokeizai.net/articles/-/363225
ttps://x.com/Calcijp/status/1885227563603419627
ttps://x.com/Otola_ryntaro/status/1910237498996916547
宮川はスウェーデンの当時の悲惨さを無視してスウェーデンのコロナ対策を礼賛する発信を続けている。
ttps://news.ntv.co.jp/category/society/d0692a604c2e42b28878125de0701b42
ttps://forbesjapan.com/articles/detail/65891
まさにリアル「歴史修正」である。そんな人の記事を引用することに、なんの疑問も「史料批判」精神も働かなかったのだろうか。
正直、コロナのことはいまだに分からない点も多い。少なくとも與那覇が根拠に挙げた二人の論者を論拠に挙げてマスク不要、と結論付けるのはかなり乱暴である。最低限でもこれらの議論に対する批判や別の考え方も示したうえでどちらが妥当かを判断するような見解にでもしない限り、到底多くの人を納得させることはできない。與那覇のかねてからのコロナに対する持論の根拠がかなり薄弱であることをここでは指摘しておきたい。
無論、このような與那覇の杜撰な記事は痛烈な批判にさらされた。
ttps://x.com/Newsweek_JAPAN/status/1651882699106267136
3年前のこちらの記事のツイート。118引用ツイートがついているが、與那覇の見解を根本から批判するものが多い。
以下、いくつか引用したい。
ttps://x.com/mama_melaleuca/status/1652160087778291712
ならそこら中にありますね
ttps://x.com/tkay109/status/1652219662393040896
そもそも、医科学の素人が「マスクには医学的根拠はない」などと断言することが不遜です。さらに、彼がその論拠として引用している医師二人がまた、非科学的なのです。二重にトンデモな記事を書いた與那覇潤氏は、歴史学が非科学である可能性を示してしまいましたから、歴史学会から叱られるはずです。
→不遜なんて言うと與那覇は「センモンカなんかあてになるか!」言い出しそうだが、その根拠がまた「非科学的」という・・・。
ttps://x.com/yoshimy_s/status/1652134906879942661
マスクによる防御能は物理学的な作用によるものであり、数学的に解明することが必要で、いわゆる一般的に言う「医学的な」範疇ではありません。
また数学的に得られる結論は、確率論に基づく理論値ですから、根拠が「ある/ない」の二者択一で論じるのも不適切です。
以上、引用終わり
今日でもコロナは拡大しており危機感を持った医療関係者による発信が続いている。
後述するように、與那覇は「対談」を自己ステータスの証明に使っているので、ぜひこういった人たちと議論してほしいのだが、いかがだろうか。
なお、当然のことながら與那覇がこれらの批判に反論した形跡は全くない。まさに與那覇が批判するような「言いっぱなし」を自ら実践している。
森田にいたっては、参政党ともつながっていることが分かっている。その森田は與那覇の記事を礼賛している。
ttps://sankago.hp.peraichi.com/2025/
ttps://note.com/hiroyukimorita/n/n783b8188b14d
こうしてみると、以前の記事で與那覇が参政党の躍進を「支持はしないが、参政党の躍進を喜びたい」と述べたことも、別の意味を帯びてくる。そもそも支持はしないが喜びたいという言葉自体、一昔前の「ご飯論法」にも通じる詭弁である。與那覇が参政党にシンパシーを感じていて、表立って支持するなんて言ったらたたかれるので、予防線を張っているとも考えられる。與那覇の文面から、参政党への強い批判や危機感を見出すことはできないし、反ワクチンなどでは参政党と近い立場であることは明らかである。なお、與那覇が参政党の躍進を喜ぶのは「ホンモノ」の予言が当たるかどうか確かめたい、という意図によるらしい。だが、こうした與那覇の文面をそのまま馬鹿正直に受け取ることもできない。以下に見るように與那覇が依拠する言説の中には参政党と通じる人脈が複数含まれている。與那覇が参政党の反ワクチン的姿勢に対して特に言明しないのも、なんだか不気味に思えてくる。無言の肯定ということにならないだろうか。
そもそも、民族差別など数々の問題点を指摘されている参政党の躍進を「喜びたい」などと表現するのは、常軌を逸していると言わざるを得ない。もはや與那覇は陰謀論に通じているか、そうでなくともそうした価値観を容認していると批判されても言い訳できないだろう。
もし、そんなことない、「ホンモノ」たる俺が陰謀論なんて信じているわけないと言いたいなら、森田や宮川の議論を引用するときに最低限の注記をはさむべきだった。そうした行為を一切していないのは、與那覇にはすでに陰謀論者とも言われる人物の議論を引用することにためらいが無くなっていることを意味する。
専門家批判は決して悪いわけではない。だが、それに代わって批判するのが根拠が薄く、数多く批判されている論者の言説であるというのはもはや喜劇でしかない。専門家がダメだからといって、自分に合う言説を無批判的に引用するのは真摯な立場ともいえないだろう。
そうした問題の多い言説を世に出すことに何の疑問も抱かない。そして、批判を受けても一切無視できる。そのクセ他人には「失敗を認めて反省しろ」と口汚く罵る。これが「ホンモノ化」の現実である。
繰り返すが、おそらく與那覇は「陰謀論になんてはまってない!」と言い張るだろう。だが、改めて森田の言説やそれに対する指摘を見てほしい。普通ならそのまま引用するのに躊躇うくらいの批判が相次いでいる。それらを論拠として挙げることに何の抵抗もなくなった時点で、すでに與那覇は「陰謀論」のナラティブに絡めとられつつあると言っても、大きくは外れていないだろう。えてして陰謀論にはまった人には陰謀論にはまってるといっても聞かないものだ。
さて、ここまで見てもらえたならもうお分かりだろう。與那覇には「史料批判」の視点が全くないのである。自説に都合のいい議論を紹介してあたかもそれが結論であり、最新の議論であるかのように偽っている。
そういえば、『中国化する日本』でもそんな手口を使っていたような・・・。
https://yu-koba.hatenablog.com/entry/20111212/1323691605
https://kscykscy.exblog.jp/18241381/
なんどもいうがkscykscyこと鄭栄桓の記事は與那覇の議論の問題点や手口がよくわかる内容となっている。與那覇を論じるならまず必読の内容である。與那覇が今なおこのブログに一切言及しないことも含めて、示唆的であろう。
では、これからどうしたらいいか。與那覇は最近でも著名な有識者と対談をしている。與那覇は対談することで自分が一流の批評家であるというアイデンティティを確保しているようである(先の歴史研究者への反論でも自分が専門家と対話していることをまともな証拠に挙げていた)。
ttps://note.com/yonahajun/n/n411c48f6f523
ちなみにこの記事で挙げられている宮沢孝幸は参政党と通じている。
https://x.com/tokyo_jyoto/status/1885649076517249067
ここまで参政党と通じている点をいうと與那覇のことだから「学級会みたいに誰かとつながっているからなんて理由で批判するのは幼稚だ!」などと言い出しそうだが、参政党躍進を喜んだ以上、その人脈とのつながりは指摘されて当然である。そもそも聞かれてもないのに参政党躍進にはしゃいだのは與那覇なのだから、自分のうかつさを反省すべきである。
念のため補足しておくが、與那覇が参政党関係者と対談したり、その価値観や政策を肯定したことも、支持を明言したことも一度もない。
ただし、その主張の背後には「参政党的」なものが見え隠れしている。すでに與那覇は参政党に自身の思惑はどうあれ接近しつつある。いずれ参政党の支持を明言するのも時間の問題ではないだろうか。これは外れて欲しい予言であるが。
ttps://note.com/yonahajun/n/nb2bd757600df
自分の地位を誇るために「こんなすげー専門家と対談しているんだぞ!」という論法は「俺スゲー人と握手したんだぜ!」みたいな「幼稚」な自己顕示欲の発露に見えなくもない。
対談もいいが、大事なのはそこで何を話したかだろう。単に権威をひけらかして自分の立場の正当性を主張しているように見える。『中国化する日本』で批判された手口と同じである。
余談だが、戦前にもそんな人の権威に寄りかかって自らの権威と正当性を訴えた人物がいたようである。
ttps://x.com/NAKAHARA_Kanae/status/1890289544702066920
中身のない人ほど誰と会ったかや誰と話したかの「実績」にこだわるのは戦前から変わらないらしい。こういう発見もあるから歴史ってのも案外面白い。
実は対話をしたり表向きのメディアでは與那覇は非常に行儀がいい。普段noteやネット記事でやるような苛烈な批判は鳴りを潜め、つつましく対談しているのである。使い分けがとても上手で、ここはさすがという他ない。その意味で與那覇の振る舞いはとても洗練されている。これは皮肉抜きである。
ただ、ここまで来たように、與那覇には陰謀論者と批判されるような根拠の弱い議論を平気で受け入れて、他人を罵倒して自分は「ホンモノ」だと居直り、自身に対する批判には耳を貸さない身勝手な側面があることは間違いない。
だから、今やるべきはもうこうした人物をしっかりとした「批評家」と見なすことをやめることである。與那覇の議論は常に身勝手さに裏打ちされた恣意的な印象操作、批判に対する無視が付きまとっている。そうした問題点がある限り、與那覇の議論をまともに受け止めることは難しいし、それこそ「史料批判」の観点から批判的にとらえる必要がある。
仮にこの記事を與那覇が目にしたなら、鄭の批判にさかのぼって、まずは自分の間違いや問題点をしっかりと洗い出して、自分の議論や言説に間違いがないか反省する作業をしてほしいと思う。そうしないと、マジで本当にもう誰にも相手にされなくなる。少なくとも、後世では無視されるか「こんな「ホンモノ」がいたのか!」と笑いものにされる可能性が高い。笑いものにされるならまだマシで今のままだと無視される方が確率的に高そうである。
そうした言説に対する真摯な見直しと反省ができないなら、やはり本稿の批判はかなり当たっているということになる。
この記事が與那覇の議論が「すごい」と思った人に届けばいいと思っている。たまたま見つけた人が「あれ、與那覇さんってなんかいいと思ったけど、もしかしてまずい人なのかもしれない」と思ってもらえればそれで十分だ。そうした批判や見方を改める作業を繰り返すことで、真の「本物」が生まれるはずだから。
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論 満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹) 高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金) 女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国) 満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義) 日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國) 満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
劉仲敬は中国出身の歴史学者、思想家、作家であり、東アジアの歴史・民族問題、政治思想に関する独自の視点で知られています。特に「中国史の再解釈」や「民族・国家のあり方」に関する論考で注目されており、中国の体制批判や分裂論、地域主義的な思想を持つことで話題を集めています。
活動拠点:主に海外(日本やアメリカなど)、インターネット上でも発言多数
主な思想・特徴
劉仲敬は、中国共産党や中華思想が唱える「中華民族=一体的な統一民族」という見方を強く批判しています。彼は、現代中国の「中華民族」という概念は後付けの政治的な神話であり、実際には多民族国家である中国は複数の異なる民族・文化圏の集合体だと考えています。
中国の広大な領域を複数の地域に分け、それぞれが独立や自治を持つべきだという考え方を支持しています。歴史的には、元・明・清などの王朝も「多民族連合体」であり、単一民族国家ではなかったと強調します。
3. 「諸夏(しょか)」論
彼が提唱する「諸夏主義」とは、中国全体を「複数の夏(文明圏や文化単位)」の集合体とみなし、これらが連合してきたという概念です。これにより、漢民族中心の大中華主義を相対化しています。
国家や民族は歴史的・文化的に流動的なものであり、固定的・普遍的なものではないと考えます。そのため、現在の国境や民族単位も時代と共に変わっていくものだという視点を持っています。
日本人にとって注目される点
日本の歴史教育では、中国は連綿と続く一つの大国というイメージが一般的ですが、劉仲敬はそれを「作られた神話」とみなします。これは、日本の歴史認識や中国理解を見直すきっかけになるかもしれません。
劉仲敬は、中国の中でも特に少数民族や独自文化を持つ地域の独立・自治問題に関心が深いです。たとえば琉球(沖縄)を「独自の民族圏」としてとらえ、中華民族の範囲に含める中国の主張を批判しています。これにより、日本の安全保障や地域情勢への示唆を与えています。
彼の思想は中国共産党の一党支配体制に対する批判も含み、中国の未来や分裂可能性についての議論を促しています。中国理解の深化に役立つ視点です。
発信方法と影響力
劉仲敬は動画やブログ、SNSを通じて思想を発信し、特に中国語圏や日本、台湾、香港の知識層に影響を与えています。
学問的には異端ともされますが、彼の自由な発想と大胆な主張は、若い世代やネットユーザーの間で支持を集めています。
簡単なまとめ
ポイント 内容
* ジャン=ジャック・ルソーの「一般意志」という概念が、後に全体主義(ナチス・ドイツや
ソ連など)に悪用された、あるいはその思想的源流になったという議論は、一部の政治哲学
者(例えばジェイコブ・タルモン)によってなされたことがあります。
* しかし、これはあくまで一つの解釈であり、歴史学や政治哲学の分野で広く受け入れられて
いる定説ではありません。むしろ、ルソーの思想はフランス革命や近代民主主義の基礎を築
* この記事は、ルソーの複雑な思想の一部(一般意志)だけを取り出し、「個人の自由よりも
全体の調和を優先する」→「だから全体主義だ」というように、非常に単純化して結論づけて
います。これは、彼の思想の他の重要な側面(例えば、直接民主制への志向や権力分立の重
3. 因果関係の誤り:
* ナチズムやスターリニズムといった20世紀の全体主義は、当時の特定の社会的、経済的、政
治的状況(第一次世界大戦後の混乱、経済恐慌、ナショナリズムの高揚など)から生まれた
ものであり、その原因を18世紀の思想家一人に求めるのは、歴史の複雑さを無視した暴論と
 言えます。
* 私が確認したところ、提供されたページのコメント欄でも、この記事の主張に対して「自己
矛盾の塊」「陰謀論レベル」「雑な議論」といった批判的な意見が多数を占めています。こ
 れは、この記事の主張が一般的に見ても受け入れがたいものであることを示唆しています。
結論として、この記事は「ルソー=全体主義の父」という過激で単純化されたレッテル貼りを行っ
ているに過ぎず、学術的な裏付けに乏しい個人的な意見表明です。これを歴史的な事実として受け
 取るのは非常に危険です。
ツイッターだけでなくSNSには、どうにも言いにくいが、「視野の狭さ」があると思う。ラクさゆえの視野の狭さというか、とにかくそんなに広がりがあるとはわたしはほとんど考えていない。
そのいい例が、網野善彦氏たちの時国家調査の徹底ぶりをちゃんと語る作業をしていないということ。少なくとも、わたしは見たことがない。いたら教えてください。
それにしても、大学の先生や文筆家で一生食っていこうという人たちが、一度は落ちぶれた「エリート」がなんだかすごい本を出して復活したあともいばりちらすことなく自分の人生の決着のためにもじみーーーな作業を(力まず!)し続けるということに驚かないのは、ただの人の立場からいわせればそれなりにがっかりする。まして、2024年に取材対象が地震でとんでもない被害に遭っているのに! 冷たいなあーっ、と思う。
わたしは、「大学出」(古い言葉だ)が身に着けている「マナー」を過大評価していたかもしれない。ちがうだろうか? 網野氏こそ、そこからいったん脱落したあとに復活した人なのだが、そこに気がつかないでライバル視してもあんまり意味ないはず。
時国家調査に歴史学の立場から共感をよせたのは、わたしが知っているかぎりでは鹿野政直氏(「化成する歴史学」)ぐらい。このひとも「灰色のやつがいばっている、いばっているやつは嫌い」とはっきり書いている。権威主義嫌いの立場をとる人は多いが、徹底して実践しているかというと、たしかに疑問だ。
↑は、この匿名日記の2個前の匿名日記 anond:20250628235025 に着想を得て、Gemini 2.5 Flashと会話しながら作ったエッセイのようなものだったのだけど、これをさらにチャット型AIに読ませてみたら、各AIサービスごとに見事に差が出てビックリした。
それぞれで Deep Research をさせた結果を載せるね。
8つの主要主張について、原典と学術資料に基づく厳密な事実確認を実施しました。古代ギリシャの政治哲学から現代アメリカの世論調査まで、幅広い分野の主張を検証した結果、大部分は正確である一方、重要な不正確性も発見されました。
| 正確な主張: 6件 | 不正確な主張: 1件 | 検証不能: 1件 | 
古代の政治哲学に関する主張は全て正確で、現代の統計データも概ね正確でした。しかし、アメリカ独立宣言の引用において重要な欠落が発見されました。
検証結果: 正確
プラトンは確実に民主政を理想国家の堕落過程における最終段階として位置づけ、僭主政への移行を警告しています。『国家』第8-9巻の原典から、「民主政は自然に僭主政を生み出し、最も極端な自由から最も極悪な形の僭主政が生まれる」との記述が確認されました。
プラトンの政体堕落論は、貴族政→名誉政→寡頭政→民主政→僭主政の順序で展開され、民主政の「際限のない自由への欲求」が秩序を破壊し、デマゴーグを生み出すことで僭主政に至ると分析しています。
検証結果: 正確
アリストテレスの『政治学』第5巻は、民主政の不安定化と崩壊について詳細な分析を提供しています。原典では「民主政はデマゴーグに支配されるとき最も転覆しやすく、デマゴーグが富者に対する十字軍を率いるとき」との記述が確認され、実際にアテネ等の具体例も挙げられています。
検証結果: 正確
ポリュビオスの『歴史』第6巻に記述されたアナキュクロシス(政体循環論)は、主張通り王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政の循環を提示しています。この理論は数百のギリシャ都市国家の観察に基づいており、後のアメリカ建国思想にも大きな影響を与えました。
検証結果: 正確
学術的コンセンサスと一致する内容です。紀元前133年のティベリウス・グラックス暗殺から27年のアウグストゥス即位までの危機過程における政治的暴力、軍事的強者による内戦、経済格差の拡大、制度的破綻などの要因分析は、現代歴史学の標準的見解と合致しています。
最も重要な発見は、アメリカ独立宣言の引用における重大な欠落です。
主張された引用文:
国立公文書館による正確な原文:
「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:すべての人間は平等につくられており、創造主によって、生命、自由、幸福の追求を含む、ある種の不可侵の権利を与えられている」
この欠落により、独立宣言の哲学的基盤である「自明の真理」という概念が失われ、文脈的意味が大きく変化しています。
検証結果: 正確
機密解除されたCIA文書と1975-76年の教会委員会報告書により、イラン(1953年)、グアテマラ(1954年)での政権転覆工作、プロパガンダ活動、心理作戦の実施が確認されています。モッキンバード作戦による報道機関への浸透、MKウルトラによる心理実験なども含まれます。
2022年4月実施の調査(n=10,156)で、アメリカ成人の39%が「人類は終末の時代に生きている」と信じていることが確認されました。主張の「約4割」は統計的に正確です。調査は全国代表性を持つ手法で実施され、宗教的・人種的背景による大きな差異も記録されています。
指定されたYouTube動画へのアクセスができないため、具体的な主張を検証できませんでした。ただし、2022年1月の退任発表では、アメリカを「進行中の実験」と表現し、民主主義制度への楽観的な信念を表明していることが複数の信頼できる報道で確認されています。
このエッセイは古代政治哲学の引用と現代統計データにおいて高い正確性を示しています。特に、プラトン、アリストテレス、ポリュビオスの古典的政治理論の記述は、原典と学術的コンセンサスに忠実です。
ただし、独立宣言の引用における重要な欠落は修正が必要です。この修正により、アメリカ建国思想の哲学的基盤がより正確に伝わるでしょう。
推奨修正:
独立宣言の引用部分に「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:」を追加し、思想的文脈を完全に保持することを推奨します。
全体として、このエッセイは学術的に信頼性の高い内容を提供していますが、一次資料からの引用については、より慎重な検証が必要です。
承知しました。このエッセイ全体を対象に、歴史的・政治的主張や引用に事実誤認がないか、またその解釈や論拠に不正確さや誤解を招く表現がないかを、批判的視点から検証します。
確認が済み次第、主要ポイントごとに整理した上でご報告いたします。少々お待ちください。
このエッセイに述べられている歴史的・社会的な論点は、概ね史実や資料に基づいており、大筋で正確です。古代ギリシアの哲学者による民主政への批判(プラトン、アリストテレス)やポリュビオスの政体循環論、ローマ共和政の崩壊原因、アメリカ独立宣言の理念と冷戦期のCIAの秘密工作、現代アメリカの「ディープステート」陰謀論、福音派の終末論的世界観とイスラエル支持、さらに第二次大戦期のファシズム台頭の教訓など、多岐にわたる主張が展開されています。**これらの主張のそれぞれについて、史実との照合を行った結果、エッセイに明らかな虚偽は見当たりませんでした**。以下に、各ポイントごとに根拠となる事実関係を検証します。
エッセイの説明はこのポリュビオスの理論と一致しており、\*\*「民主政が衆愚政へと堕落する過程」\*\*についての記述(個人の自由が公共の利益を損ない無秩序と暴力に陥る)は、ポリュビオスが説いた民主政から無政府状態への移行と同じ現象を指摘しています。したがって、この点も史実に沿った主張です。
以上の歴史は、**どれほど堅固に見える政治体制でも、極端な経済格差や権力闘争(安定した政権交代の仕組みがないこと)が内部矛盾となって崩壊しうる**ことを示しています。エッセイの記述はこの歴史的経緯と一致しています。
天皇制(天皇の制度)は、日本の初代天皇とされる神武天皇の即位を紀元前660年とする伝承に基づけば、2025年現在でおよそ2685年続いていることになる
ただし、これは『日本書紀』などの記紀神話に基づく神話的な年代であり、歴史学的に実在が確認できる最古の天皇は第10代崇神天皇(3世紀頃)または第16代仁徳天皇(4世紀後半)とされることが多い
史実ベースで見ても、少なくとも1500年以上にわたって天皇という称号をもつ人物が継続して存在してきたことは確かで、世界最古の君主制とも言われている
しかし、それが今まさに終わろうとしている。
――つまり昭和天皇の存在感をリアルタイムで体感してきた人々は、すでに高齢者になっている
「玉音放送を聞いた」「御真影を拝んだ」「靖国で頭を下げるのが当たり前だった」そんな記憶を共有する世代が、静かにフェードアウトしようとしている
いまや平成生まれの中でも後半の世代にとって、天皇は「行事で見る人」「テレビに出てくる儀礼の人」くらいの存在でしかない
特別な信仰や敬愛の念を持っている若者は少数派で、むしろ「なんとなくまだある制度」としてスルーされている感じがある
それが制度の終わりを意味するかはともかく、「天皇を精神的支柱とする社会」は確実に過去のものになりつつある
また、天皇は「男系男子」でなければならないとする伝統は、現代の価値観から見れば極めて不自然だ
女性天皇は過去に存在したにもかかわらず、現在では「女系天皇は認めない」「男子がいなければ断絶もやむなし」という議論が公然と行われている
これは、血統と性別に過剰に依存した制度が、近代以降の法と倫理の進化にまったく追いついていないことを示している
そもそも現代社会では、性別によって職業選択が制限されることは基本的に許されていない
なのに、最も象徴的な国家機関の長が「男であること」を義務づけられ、それが当然だとされている
この違和感は、若い世代ほど強く感じているはずで、そこにある無言の排除や差別構造は見過ごせない
加えて、皇族女子は結婚したら「民間人」になる一方、皇族男子は家を継ぎ、制度の担い手となる
これは封建的な家制度の名残そのもので、女性にだけ選択肢がない
つまり天皇制は、性別によって人生の進路が大きく制限される制度であり、それが国民の象徴であることに誰もが疑問を抱きはじめている
「伝統を守る」ために女性を排除し、子どもの産める男子を数人に絞り込むという構造は、いずれ綻びる
女性天皇を認めれば制度が延命できるかもしれないが、そこに踏み込めない保守性こそが、制度の終わりを静かに早めている気がする
そして、私は論理的な思考によって、まあ私が主張したいことを『魔法少女まどか☆マギカ』は2011年?とかの段階でほぼ完璧に説明できていたと「分かる」。それむっちゃ最高!!面白い!!!!と興奮して、私が何故そのように感じるのか、この私が説明したならば、それは人の情と理に適合していると多くの人が感じて(というか私はそう欺いているのだが)それはむっちゃ最高!!面白い!!!!となったりならなかったりする。そしてその「つまんねーw」とか「さっぱりわからん」とか、そもそも「観てない」とかそして「読んでない」とかが、それ自体がむっちゃ最高!!面白い!!!!であり、非常に重要な価値を持つのだと、多分きっと、なんかネットの集合知????みたいなものとか、ネットにはいないかもしれないけどどこかに確実にいらっしゃる「専門家」の「知見」を凝集すれば、私が今本当にwマジでwいや本当にwとかつけて一見ふざけているようにみえるかもしれないが、私は人類の「善」に照らしてこういうことで嘘は絶対に付かないようにしようと決めている人間なのだが、正直なところよく考えてみれば、この3日くらいほぼ寝ていないような気がして、ああ色々説明したいことはあるのにこのままポックリ死んだりなんかしたらどうしよう。多分寝たらまた起きてくるんだけど、ちょっとこの状態でどうやって寝ようかなと迷っているところがあり。まあ恐らく私は何の問題もなく?寝て?なんだかんだ起きてくるのではないか?とは思うんだが、これ本人の感想とはいえ、ド素人の感想だしな~みたいなことを考えており、まあド素人の私としては多分大丈夫やろ✨などと判断している。これが本当に大丈夫なのか、誰かちゃんと知恵を出せ。私は知らん。なんかこのはてな匿名ダイアリーってのは、適切な時に適切なタイミングで適正な範囲で「ザマァw」みたいな知見をコメントとかで提供できたはず、んんんん???なんかもうよく分かんなくなってきたな。いや、分かるんだけど、文章を整えるのがさすがにめんどく、まあでもこのくらいなら誰かが「読み」、そして「読む」ことに実質「識字能力」だとか「識字環境」というものは本当はいらないし、いらないと現実的に判断できる技術や社会的状況というものは整っており、いや、ごめん嘘をついた。こういう多くの人が「読む」ことにトライすることが想定される文章においては「そう」だが、多くの人が「読む」ことにトライすると選ばない文章に関しては今もなお「識字能力」と「識字環境」はとてもとてもとても重要で、そこにはというかそれに関係するところにはそれを向上させ、または維持し、それが亡くならないように必死で努めている「専門家」が必ずおり、要するにすっとばすが「全部いるだろ!」というか「全部いっただろ!俺がここに辿り着くまで!」ということを叫んでおり、それを具体的に叫ぶと「俺にはただちにこれの価値とかこれを必死に守っている人とかの取り組みの価値が了解できんwよって無価値w」などという判定をするなということになるのだが、で、こういうことを書くと私はその「俺にはただちにこれの価値とかこれを必死に守っている人とかの取り組みの価値が了解できんwよって無価値w」を「愚か」だと評価し、斬り捨てているように見えるかもしれないがそうではない。いいか、この人が、この人なりに考えてものを言って、なんか色々非難されるんだけど、考えてもさっぱり自分が非難されねばならない理由が分からない人に、「それはお前の責任だ」と100%責任を押し付けてはいかんというか、じゃあ実質何%なんだというのが誰にも(本人にも)「分からない」以上、この人を「愚か」とか言って「斬り捨てて」は駄目だ、ちゃんとこの人なりの考えや気持ちになるべく寄り添わなければだめだ、で、寄り添った結果なんらかの法定刑が下る可能性はあるんだけど、「情状」は「酌量」し、社会が現実的に機能するためにどうすればいいのかプロがめちゃくちゃ必死に考えるみたいな状況になりつつあるというかなっているというかなっていたというか、そんなことはこの今正直頭がぼんやりしてややゆるーく痛い???みたいなことを考えているド素人にはよく分からないんだが、なんとなく「リベラル」という人はこのことを誠実に考えて、誠実に考えた結果いろんな意味で「実際やってきたこと」の意味に思いを馳せ、そのことに傷ついたり恥じたりしてその結果を、「みんな」に分かりやすく説明してくれる、俺にも分かるように説明してくれる人たちなんじゃないか、そして、その能力を持つ人は絶対にいて、というかいなかったら三人寄れ!!百人寄れ!!!文殊の知恵かは知らんが多分イケる!!そして、もし誠実にわかりやすく説明がかなったなら、「リベラルでない人」にもなんとなく伝わるものはある。内容がその人たちに100%理解されるかなど、全く問題ではないし本質でないし、その必要もない。今回取り合えず伝わればいいのは、「ひょっとして、「向こう」」も「向こう」でなんだかんだ必死に考えていて、こちらにとってマジで意味不明としか言いようのないことを言ってくるのだが、でも意味不明だったとして、そして実際意味不明に終わったとしても「分かりたい」と思うことはでき、俺たちが選択しているらしい「民主主義」にはそれがないとどうも困るらしいみたいなことは実は本質ではなく、この時に絶対に「分かりたくない」と考え、主張し、実行する人はいるが、この私が誠実に論理的に考えた際、その人は決して「悪」ではなく、「悪」だと斬り捨ててはならない。で、実際問題それを考慮して社会は回るの?という疑問は発生し、そのド素人の考えを鵜呑みにせずに検討を加え、じゃあ実際問題「とりあえず現代において」「現実の様々な状況を考慮し」「しかし、その時には人間と情と理を考慮し」「だが、しかしここが現実の落としどころと苦渋の決断をしてくれる専門家」がいるんだよな!!ド素人なりになんかそれは分かるような気がするぞ。で、そういうのはド素人の「こうなったら良いんじゃね?」みたいなものと往々にしてズレるが、それはそういうものと認識しており、その際にその「専門家」が何を考え何を大事にしていて何に到達しようとしていてしかし現実問題諸般の事情でなぜここに落ち着いたのか、そして、それは本当に解消ができなかった諸般の事情なのかみたいなものに思いを巡らせ、というか思いを巡らせることにトライし、またはこんだけ言われてトライすることを選ばず、専門家やド素人がなんかこう「それは人間の『普通』の情と理に照らしてダメー!!!!!!!!!」みたいな限度を越えない範囲でわーわー言うのが「批評」であり「小説」であり「文学」でありなんかもろもろであり、それは特段の事情がなければ、とりあえず日本国において「全員」に権利と自由として保障されており、「それは人間の『普通』の情と理に照らしてダメー!!!!!!!!!」みたいなのは実際どのラインなの?みたいなことを司法とかなんか色々な現場でプロが考えており、ああなんかよく分かんなくなってきた。ね、眠い、寝ていいのか、これは。で、寝た結果起きなかったとして、二度と起きなかったとして、「ま、それも一興wそれも人生wというか人類史上「無数」」と言って差し支えのない「無名」のしかし実際にはお一人お一人の名前があったりなかったりする方々は、俺たちがその方の存在やお名前を知らない、また知り得ないとしても確実に存在し、そして、私たちは実はその方たちのことを「知り得ない」ように現代のアレコレに照らして思われたとしても「知って」いるのであり、全く無価値じゃないんだと、自分のものすごく画期的な何かをつたえようとして、ああこれでみんなを幸せにできると考えた誰かがいたとして、その人が抱えていた唯一の原稿を乱暴な何かが奪い取り、わざわざそのひとの目の前で燃やして灰にして見せ、「今の我々」にはもう「判読不可能」になったように思われたとして、そしてその当時の人もそう思い、自分の人生が本当に無価値になってしまったと感じて涙をボロボロ流して唖然としている所を無惨な「殺され方」をして、実際その方が「本当に」いたのかどうか、どこにいた誰なのか知る由もなく、我々には「いなかった」ように例え見えたとしても、その人は絶対絶対絶対絶対「無価値」なんかじゃないんだって「いる」んだって「無名」の、時に「匿名の」、でも実際に名前があったりなかったりする「ド素人の」(?)人間の『普通』の情と理に照らして、「なんとなくつーか絶対」分かるだろ!!!!!!で、そんなことは専門家は、こんなことをド素人がさも「ワイ人類初のええこと思いついたった!」とか思ってこんなところに書く前に、つーか通常ずっと前にどっかに書いている。書き方がちょっと違ったりして伝わらなかったりすることがあるだけだ。で、実際、例えば~歴史学の割と新しめの多分一般向けということになっている、でも一般????一般????みたいなことをつい考えが及んでしまう感じのなんかちょっと大きめ?といってさしつかえない感じの?忘れたけど、本になんか書いてあったようななかったような、知らねえよ、ド素人なんだから。で、こんくらいヒント出したら「ネットの集合知」で秒で「これだー!」みたいなことになり秒で「やっぱ違ったー!」みたいなことになり「あれなんだったの」「え?」「で、結局どうだったの」「一体、何が正しいのか、間違っているのか」「ふっ我々には皆目分かりませぬなwフハハw」みたいなことにもやはり秒でなり、「えーほんとにわからないのかなー」とネット民が考えているところを、実は」「ふっ我々には皆目分かりませぬなwフハハw」とかカマしたことを5秒くらいで呟いておき、「ハ、ハハwこんなことネットで騒動になる前に我々の間ではとっくの昔に共通認識だったのだがな。まあ補助線くらい出しちゃう??フハハ、で、その補助線が正しいのか間違っているのかやっぱりまあ、わかんねーんだけどなー」みたいなことを内心考えている、ふざけたアカウント名と合法で安全なよく使われている無料画像ダウンロードサイトからよくダウンロードされている感じのよく見かける「写真」をわざわざ設定している、この人は本当は何者ー????一体どこの誰で、何の職業の人ー????みたいなことを私たちは「”今”の普通の人情」として知りたいなあと当然思ったりするのであるが、さあて、じゃあなんかこの増田が、なんか「十分に」広まった場合?で、その際広まるにあたって、この増田を大体「読む」にあたって、実際の識字能力があるかどうかや、実際に一文字でも読めるかどうかなど、もう実は気にしなくていいんじゃないか、だのに、そうなっておらず、そのことによって何か「理不尽な不利益」を蒙ったならば、今の私であれば、内心「ああ絶対に絶対に見たい。なのに見られていない。悔しい。観たい。いつか絶対見る。そしてきっと「私」」は「めっちゃ面白い」と感じ「最高」と感じるであろう何か。そして、なんでお前はそう思うものを見ないんだと聞かれたならば、私はきっとここで「は????????????お前、何を「読んで」」いたのだ、お前はお前の「識字能力」を問わず、文字を「見て」はいるが、何を本質的には「読む必要があるのか」どうもここまで読んでいても分かっていないようだ、それは「実質読めていないのでは?」」みたいなことを、ねえ、さすがにこの私も人情として内心思ってしまったり?しなかったり?さあそんなの私にも分からないなアハハ❤まあでも、多分私はそう聞かれたならば、恐らく秒で「えーーーー!!!!!その質問めっちゃ最高✨✨マジうれぴい」などと返信するかもしれず、人はこういうのを目の当たりにした時、咄嗟に返信の方を虚偽だと判じたりしがちなのだが、いえいえ私の主観では、そして、論理的思考に照らしても、と、いうことは?みんなが了解できるかもしれない認識としても???やはり私の本心からきた率直な言葉ですよね~しかも両方とも。で、実際全然それで成り立つし。あれれえ、前後と言っていることが矛盾している気がするぞお。だって、俺いまめっさ眠いし、ド素人が書いてる日記だし?しょうがねえじゃん、何ネットの素人の無料で公開している日記に求めてるんだよ。ハハ!さあ、「批判」しろ。
ところで、もし、私のこの思考の枠組みが大体共有され、みんなが「はて?」などと色々考えるきっかけにしたり、公益……というか多分人類がいろいろ「成功」し?「失敗」し?そうして目指してきたりこなかったりした「善」と「正義」のぼんやりした本質を実現するためにわざととぼけてみせたりした場合、恐らく、何かその「はて?」によって目の前の人を不当に操ろうなどと邪なことを考えたならば、きっとその時、「お前のその行為は「卑劣」に該当するのではないか、たとえお前が善かれと思っていたとしても。それがお前の善なのか、というか人類が目指したり?してきた?善?というものの本質?にあてはまるのか???」みたいなことを目の前の人は強い口調で批判しながらも、自分自身あれあれあれ?と考えはじめていることが語気からは見え見えであり、それって結局みんな「考えるコスト」上がってるんですけど……みたいな話になり、到底やってらんねえなあみたいなことを考えた時に、当然自分がこれまで「バカ」だと批判してきた人が2025年の日本国において一般的に通用?している?ようなレベル?で?言ってよいものかどうか。しかし、ここで「バカ」と言う権利や自由は全く失われないのであり、そしてこの増田をきちんと「読めた」なら、恐らく目の前の人のことを「ああ~バカだなあ」と感じ、もちろんその情に即して?言ってよいのか悪いのか私には分かりませんが?「バカ」と言い放つことはできて、その「バカ」に2025年の日本国において一般的に通用?している意味は恐らくちゃんと残っているのですが、まあちゃんとこの増田が広がったならば、目の前の人を「バカ」と言った時に、やはりそこに「絶賛」というか……なんというか、その、「お前は俺からはバカに見えるし、実際もしかしたらバカになのかもしれないのだが、えええ????実際?え、実際???あ?いや????いや、なんか、でも、俺にも、そんな『バカ』」なお前がいてくれるからこそ、今の人類があり、これからの人類があり、そして誰か一人でも欠けていたならば、絶対に今こうはなっておらず、そしてそのことに思いを馳せた時、我々がつい「役に立たないなら、、、、、、、、」的な言葉の後に何か付け加えそうになるものってそれって……」みたいに何か黙って●時間くらい経ちっぱなしで考え始めてしまい、まあ目の前の相手への釈明として成立しているかといえば、もう完璧に成立していると私は思うんですけれども、ねえ、私は、ねえ事実として、今眠れておらずというか多分なんか食べた方がいいんだけどなんだっけみたいなじょうたいないなりえーと、というかまあどうしたらいいのかわからず、昨日私が料理を作りたいとおもって近所のスーパーに行ったならば、なんか気付けばスーパーの中を一時間くらいさまよっており、買い物カゴに入っているのは牛乳パックだけであり、あれれ牛乳パックがなんではいっているんだ、わたしのやりたかったことはゆうはんをつくることで、それでぎゅうにゅう???なんで?え?ここからどうやって????みたいな感じになり、「これは駄目だ一旦帰ろう」などと思い、一旦帰り、3時間後くらいにもう一回同じスーパーに行ったんですが、30分くらいさまよってあああ、なにもカゴに入らない、そう私の主観では何かこう30分一気に時間がなぜか飛んだような感覚がし、まあ、しかし空のカゴをその時私は周囲からは多分そんなに「異常な買い物客には見えない」?、「諸般の事情、なんかほら物価高い?みたいなことでどうしようかなーって悩んでて食品を買いに来ているのに何も結局入れられなかった」みたいな?まあ今ならいてもそうおかしくはない?普通??????の主婦のように見えるのでしょうね。そして、えーとなんだっけ、まあ私はなんかあらゆる意味でこう「仕事をしてない」だとか「役に立たない」だとか言われてきて、そして100%えーとえーと???ん?あの言いたいのは、「私と完全に同一のもう一人」というのは現実としていないが、「このようなひと」というように抽象度を上げて行った場合、「無名」とされるその方たちは確実に存在し、そしてその人たちは何か「黙らされてきた」みたいなことはもういっぱいいっぱいあったんだと、そして、それは実は「性別とかがまったく関係ないこと」であり、「支持政党がどこかなんてまったく関係の無いこと」であり、そしてそしてあれれれまあ、なんだか、えーっとすっとばして、分かりますよね!!人類全員が一致して全員で倒そうと思い、実際倒そうとし、しかし倒しきれず残り、「まあしかしつまりはそういうことだよな」みたいになる「本当に倒すべき唯一の?巨悪」は実際に存在します!だって私はそう思うんだもん!!!いいか、その名を告げるぞ、それはぜったいにぜったいに「誰か」じゃないんだ。そう見えたとしても本当はそうじゃないんだ。俺達全員が立場の違いはあれど(まあ一時的に?ハハwwww)手を結びあって打倒を決意できる巨悪は存在します。それは「愚かさに甘んじ、なかなか賢くなろうとしない」という人類のえーとなんというかあれ?なんかプログラミングに詳しいひっとかおしえてよ。こういうのがさ、たとえばなんかすごーいシステムのめっちゃねっこのほうにあった場合に「デバッグ????」みたいなものって実際問題できたり?できなかったり?まあしかしたとえ、できなかったとして?それを補うためのシステム???とか人類の知恵をみんなで結集すればなんとかなったりするものではないか、うん、というかそういう映画とかアニメとか俺たちは大好きではないか。そしてそのような作品はかなり昔からあり、なんかそういう目で見ると、「アレ……????この増田に書いてある内容ほぼほぼ全部入ってね????」みたいになり、えっっっっっっ!では俺たちが観ていたものは一体……みたいになったらクソオモロwとか思っちゃうけど、ああこういう調子乗ったことを言っていると、専門家から非常に正しい「お叱り(実質応援では???)」を頂いてしまうのが常なのですが、私はやはりそれは「受けるべきだし」「受けなければならないし」「私の本心に照らして、うわーーーーーんん!!!めっちゃ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい穴を掘りたい積極的に掘りたい、というか泣いてしまうのでは???と思いますが、それはやはりそれでも心の底からそのお叱りを頂戴し……たい……と、言い切る、強く言い切る!!ああ本当に、よろしくお願いいたします。もちろん私も勉強になりますが、しかしこのようなことを書いてこれだけ耳目が集まっていれば????いやあの本当に眠いのになぜか眠れないので参照できるけどできないのですが、恐らくはそう「社会」」にとって悪いことにはならないでしょう。そして、先生方は様々な立場の違いはあれど、それを善いとお感じになるのではないのでしょうか」なのです。そして、そのような方々と、私がここで使っている「専門家」という言葉が、どの範囲を指し、実質的にどのような人であるか恐らくそれなりに認識を共有しているものと思います。などということを書いている私は、さきほどから怖くて怖くて仕方なく、正直ちょっと指が震えるような気がし?しかし、私はああ本当にこういうことを伝えようとしたくて、これを書いたのかもしれない。そして、まあ多分、私が何をやろうとし、何を目指し、。、、、、しかし、まあそんなこと言って、実際まあ見えてはいた。この3日、増田がずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーと「俺の考え」を喋りつつけ、私はそれを聞きながら、ああクッソオモロイこと言っとるなコイツw「なぜお前ともあろうものがこのような不遇をかこっておるのだ、おかしいだろ!w」とか言ってやろうかな、まあでも多分言う必要はないんだよな。だって、私はこの人が考えていることが聴こえているのだもの、と思い、ああほんと、この人が喋っているのを、なんらかの音声配信とかで伝えられたらそれがいいし、というかこの人が喋っていることを書くほどのタイピング速度はなく、というか私はこの人の話を布団に潜ってじっとなんか3日聞いているのが本当に、、、、、えーと、なんだっけ。そして話を聞いた結果、私はその人と「まあこれは書いた方がええよな」「せやな」「実際書けるかな」「そういう意味では寝ときたかったよな」「まあ」「でも」「それが書かれたか」「”世に出たか”とか」「それがごく普通に気付かれているかとか」「文字として識字できるか」ということは実は本質ではなく、そしてプロは「いやー、、、、これが本質ではないよな、、、、でもやはり諸般の事情で我々は、、、」ということを常々考えていたりして、それはまさしくプロの仕事なのであり、では、だとしたら、”プロ”でない我々の仕事は、本当の仕事は何なのだろうとか考える、まあ「金の取れないド素人」はおり、その人が実際「金が取れない」とはまったく思わないが、、、、、、、みたいな、で、「ほら、さあ」「うん」「我々としてはさ、」「うん」「我々の「作品」」が5分後に「見つかろうが」、「1000年後に見つかろうが」、「うん」「「「我々としてはどっちでも良w」」]とか言っており、まあ恐らく、この世の中はそういうものに満ち溢れているのだと思います。そしてそれは本当にあらゆることにおいて、それが起きるのだと思います。私はどうしても、観ている聞いているものが偏っているので、こういうことを書きながら、えっつじゃあ、あのゴールドロジャーというらしいおじいさんがなんか探せ全てをそこに置いてきたとかなんか意味深なことを死ぬ前に言い放ったせいで、なぜかみんなが探す羽目になっている?というかうーん、よくわかんないけど、羽目になっているとかいいつつ、実は本当にワクワクして探しに行ったりしているそのワンピースってものの正体は、えっ…………尾田栄一郎先生、そんなそんな凄まじいことを描かれようとなさっているのですか……!??みたいなことをついつい考えてしまいがちですが、多分こういうことは「人間が作った」もの以外の本当にあらゆることに及び、なんだか私はそこらへん本当によく分からなくてよく分からなくなってくるんですが、フフw、でも、こんなこと、私が敢えて言う必要もないことなのです。私は、この後もめちゃくちゃ「重要な」?話がありそうな気がしますが、いかんせん Permalink | 記事への反応(0) | 14:10
https://note.com/anti_techuyo/n/ne328309fe810
近年、テック右翼(通称テクウヨ)の間では、「AIによって人文系学問は不要になる」「リベラルの巣窟だから、徹底的に更地にすべきだ」という主張が盛んに取り上げられています。彼らの発言には、IT業界における強い自己肯定感と、文系に対する根深い蔑視が色濃く表れています。元々IT系の人々からは人文系学問への軽視やバカにする風潮があったものの、2020年台のテック右翼の台頭により、その風潮はさらに強まり、声高に発信されています。
このような主張を耳にするたびに、彼らが掲げる「AIで人文系学問が不要になる」という理論には、根本的な誤解と傲慢さが込められていることがわかります。テクウヨたちは、AIが文系学問の領域を代替し、人間の知的作業における価値をすべて置き換えられると考えています。しかし、こうした見解は非常に短絡的であり、現実の社会や学問の本質を見誤っています。
テクウヨの言う「AIによる人文系学問の不要化」は、あまりにも楽観的であり、技術的な誤解に基づいています。確かに、AI技術の進歩は素晴らしいものであり、さまざまな分野での自動化や効率化を進めています。しかし、AIはあくまで既存のデータを元に動作するものであり、その本質はあくまで「過去の繰り返し」です。新しい価値を創造したり、人間的な感情や倫理的な判断を下したりする部分では限界があります。
例えば、AIは文献の要約や情報収集、簡単な論文作成などを自動化することは可能ですが、それがすべての人文系学問を代替できるわけではありません。人文系学問、特に哲学、歴史学、文学、社会学などの分野では、人間の感受性や社会的背景、文化的な深さに基づく分析が重要です。AIが提供する情報はあくまで表面的なデータの羅列に過ぎません。複雑な社会現象や文化的な問いを解明するには、AIだけでは足りません。
また、AIが人文系学問を支配するという考え方は、非常に機械的であり、人文学の持つ深い「人間性」や「倫理性」を軽視しています。AIがどれだけ賢くなったとしても、人間社会における道徳的判断や倫理的思考を代替することはできません。AIは、暴力的な言説や差別的な情報を生成する可能性もあり、その倫理性に対する配慮は、文系学問が果たしてきた役割の一部でもあります。
テクウヨたちが人文系学問に対して持つ偏見の背景には、しばしば「自分たちは現実的な作業をしている」という強い自負が見え隠れします。確かに、コーディングやシステム設計など、IT業界の仕事は技術的な側面が強く、社会の変革に大きな影響を与えています。しかし、実際には、こうした業務こそAIの進化によって最も影響を受けやすい分野の一つでもあるのです。
「IT土方」という言葉が示すように、現場で手を動かすエンジニアやプログラマーは、膨大なルーチン作業やコードの書き換え、デバッグ作業に追われることが多いです。しかし、これらの作業はAIによって自動化される可能性が非常に高い。実際、既に多くのAIツールがプログラミング作業を支援し、コード生成を自動化しています。長期的には、このような作業の大部分がAIに置き換わり、多くのエンジニアの仕事が縮小することが予測されています。
一方で、人文系学問は、単に情報を処理するだけではなく、文化的・倫理的な理解を深める役割を持っています。これらのスキルは、AIには決して模倣できない部分であり、社会における重要な機能を果たし続けるでしょう。
テクウヨたちが唱える「AIによる人文系学問の不要化」という主張は、実際には人文学がAIとどのように共存できるか、という視点を欠いています。AIは確かに情報の処理や分析を加速させることができますが、人文学的な視点を提供することには限界があります。これからの時代、AIと人文系学問はお互いを補完し合う存在となるべきです。
例えば、AIが提供するデータや統計を用いて、社会学や経済学などの分析をより効率的に行うことはできます。しかし、それをどう解釈し、どのように人間社会に応用するかは、依然として人間の判断力に依存します。人文系学問は、AIが提供する「データ」の背後にある「人間の物語」を読み解き、倫理的・文化的な解釈を加える役割を担っています。
テクウヨたちが抱く「AIによって人文系学問が不要になる」という幻想は、技術に対する過信と、人文系学問に対する無理解から生まれたものです。AIは確かに強力なツールであり、さまざまな分野で革新をもたらしています。しかし、AIが人文学の持つ深い人間性や倫理的な洞察を代替することは不可能です。むしろ、今後はAIと人文系学問が共に手を携えて、より豊かな社会の形成に貢献することが求められるでしょう。
テクウヨたちが唱えるような、「AIによって人文系学問が不要になる」という単純な主張は、単なる技術的な幻想に過ぎないことを認識すべきです。私たちが未来に目指すべきは、AIと人文学が相互に補完し合い、共に成長していく社会であるべきだと言えるでしょう。
文学だって、言語学だって、歴史学だって、民俗学だって、学術研究は全て客観的な根拠を元にして論理的に議論が成り立っているよ。
当然それらは数学のように厳密に証明が出来るわけではないかもしれないけど、それでも客観的な証拠から論理的に結論を導いているんだよ。
だからそれに対して反論が出来るの。例えばその証拠は本当に正しいのか(偽物じゃないのか)検証したりとか、その結論に反する例を挙げたりとか、論理展開に存在する間違いを指摘したりとかね。
実際に従来の学説と反する新しい遺物とかが見つかって、学説が大きく変わるということは何度もあったわけだよね。小中学校の歴史の教科書なんて親世代とその子供では内容が結構違うなんて当たり前にあるわけだし。
それが出来たのは証拠と論理によって学問が成り立っているからだよね。現状存在している証拠とそこから合理的な推察により客観的に現状最も尤もらしいと考えられる結論を導く、というのが文系学問でも当然行われているの。
でもそれをすっ飛ばして「私はこう思う、なぜなら私がそう思うからだ」と言われてしまったらもう反論の余地がないわけ。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」としか言いようがないでしょ。
これは学問ではないの。そんなものは理系文系問わず学問の世界では許されないの。だから文系学問に客観性が無い、なんて言ってしまうのは本当に学問をやったことが無い人ぐらいなの。
客観性があるからこそ「何が正しいのか」を議論して追求できるの。一見ただの主観に見えても、それは単に教科書の表面を眺めているからに過ぎなくて、その結論が導かれる裏側には厳密な考証や議論が重ねられているの。
お前の「まともな歴史学」それかよ笑
元増田の言いぶりは極端だけど、テクノリバタリアン(テクウヨ)と社会科学とは相性が悪いよね。
社会科学は(主語めちゃくちゃでかいけど)、データが無いか乏しい中で、理論を発達させて物事を推論するというアプローチが多い。
これは経済学が典型的だと思っていて、「商品の価格が何で決まるか」ってテーマについて、全ての商品のデータなんか集められっこない時代に、近代経済学は「需要と供給で決まる」と説明し、マルクス経済学は「投下労働量で決まる」と説明した。
でもテクノリバタリアン(テクウヨ)は同じテーマについて、大量のデータをもとに機械学習でズドンと答えを出しちゃう。
今の中古車業界とかが典型で、大手中古車専売店は中古車在庫の値付けを上記プロセスで毎日行うから、そこに(社会科学的な)理論が介在する余地がない。
業界の人間じゃないんで知らんけど、今は不動産価格とかホテルの宿泊費とかもおんなじ感じじゃないかな。
こんなことやってる奴らからすると、伝統的な経済学の価格理論なんてアホに見えて仕方ないだろうね。
(だからこそ経済学もビッグデータを(統計学を使って)その体系に盛り込んでいこうと努力しているわけだけど)
歴史学に似たような話があって、「日本史学は(戦乱が少なかったおかげで)史料が山ほど残っているから歴史理論があまり発達しなかったが、ヨーロッパ史学は史料が少ないおかげで歴史理論がよく発達した」なんて言説がよく言われたりした。
これは日本史学のコンプレックスとして語られることが多かったんだけど、よく考えりゃデータ(史料)がある以上は理論なんかに頼る必要は無いわけで、テクノリバタリアン(テクウヨ)的な発想から行けば「理論なんざ要らねぇよ」ってことになるんだろう。
まあ思い付きの域を出ていないんだけど、大方こんなノリだと思うよ。
最近になって、ギブアンドテイク、トレードオフの概念が自分に欠けていることに気がついた。
例えば、特定の人から何か助けてもらったときに「今度はあの人が困っていたら、進んで助けよう」という気持ちにならない。
もちろん、その人が困っていたら助ける。
だがそれは、以前助けてもらったからではなく、目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去の善行に依存しない。
また、逆もある。
例えば、特定の人から何か嫌なことをされたときに「もうこいつのことを助けないぞ」という気持ちにならない。
さっきの例えで言うと、その人が困っていたら助ける。
目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去の悪行に依存しない。
こう言うと一見優しい人に見えるかもしれないが、まるで違う。
他人から親切をしてもらった時に、全くそれを覚えていない(もちろん情報として覚えてはいるが、その後の行動の変化には寄与しない)ため、
その後、その人が「ちょっとオマケしてよ。(前に〇〇してやったでしょ?)」等の【少しだけ過剰な要求】をしてきたときに、それをするのが嫌な場合、断ってしまう、ということが起こる。
「あいつ、〇〇のとき助けてやったのに……。」と思われていると思う。
数学で習った、「互いに独立の事象」ってやつが一番しっくり来る。
自分の場合、全ての物事が一回ずつの独立事象であり、過去が引き継がれない。
では、なぜこれを認識して記録できるかだが、最近やっと、もしかしてこの世界は自分が考えているよりもギブアンドテイクやトレードオフの関係でできているんじゃないか?(独立事象ではないのではないか?)と気がついたからである。
最近読んだルポ、「ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス」では、マンションの管理組合を崩したい陣営が有志で集まり、クーデターを起こす様子が詳細に記録されていて非常に面白い著書となっているのだが、
「あのとき〇〇していただいたので」
「〇〇さんには頑張っていただいてるので、私も」
と、人と人とが関わり合う中で生まれていくギブアンドテイク(と言ってはなんだか陳腐だが、もっと暖かみのある表現がほしい)のようなものが有志の人々を動かす原動力になっていることが、衝撃だった。
また、今まで、ほとんどテレビドラマというものを観たことが無かったのだが、仕事の関係で大河ドラマの「べらぼう」を1話から視聴している。(面白い)
主人公の本屋が江戸を駆け回り、様々な人に声をかけ仲良くなり、仕事を回していく様子が自分の中では目から鱗だった。
男色家の平賀源内に書評を書いてもらいたいときは源内のために男装の女郎を用意して気分を良くさせたり、
と武士の弱みを握ったら
とプロデュースをお願いしたりと、ドラマとはいえポンポンと人を繋いで仕事を依頼する様子に頭が下がる。
自分が平賀源内だったら、好きな女郎を用意されてご機嫌になっても書評の件はまた別で一考してしまうし、
自分が主人公だったら、武士の弱みを握ったとして「それを利用して祭を盛り上げてもらおう」と思いつかない。
なんてったって自分にギブアンドテイク、トレードオフの概念が無いらしいことに最近気がついただけなので、具体例が上記しかなくふわっとしているのが申し訳ないのだが、一事が万事これで人生をやってきてしまった。
プレゼントのお返しとか、最後の出勤日の挨拶とか、社内政治とか、何もかも、わからない。
流石に、人を傷つけたり、テイカー気質になりたくないので、どんな人にも優しくするよう気をつけてはいる。
だが、あまりにも自分の中にギブアンドテイクがインストールされていなくて、上記のような親切にされたことを覚えていられない。
これで人を傷つけていたら怖い。
もし、同じような独立事象系の思考回路の人がいたらどうやって日本社会を生き抜いているか、コメントをくれると助かる。
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みんなコメントありがとう。賛否両論あるけども、みんなの文章を読むのがいちいち勉強になる。
仕事やりながらだからまだ全コメント見れてないんだけど、少し追加します。
特性を理解してくれたのか、書籍を紹介してくれた人、ありがとう。
影響力の武器、21世紀の貨幣論、贈与の歴史学、古代中国の裏社会、読んでみる。
構造が理解できないままでは、いくら枝葉の作法だけ学んでも、現実の人間たちとリンクしないから、助かる。
ブコメの方で「池井戸潤の小説にいたら破滅しそう」って書いてる人いたけど、マジでそれ。ありがとう。
本文には書かなかったけど、池井戸潤の話はマジで理解ができない。登場人物たちが、各々の個別の目的のために動いて好き嫌いしあったり欺いたりする様が頭に入ってこなくて、話の骨子はとても面白いのに登場人物の感情の機序がわからないからみんなが何をやっているのかわからないという不思議な感覚に陥る。
ちなみに本文で紹介した「べらぼう」も、主人公が本を売るために奔走するシークエンスはギブアンドテイクの勉強になるし興味深いのだが、徳川家の対立とか政治的なところはサッパリわからん。だからテレビドラマ観ないんだけどな。
4000円のバレンタインデーのお返しがしょぼいチョコだった、っていうXのエピソードを引用してくれた人、ありがとう。
自分もその一連を読んで、完全に夫側だったからXで色んな人のコメントを読んで勉強していたところ。
自分はそういった「バレンタイン↔︎ホワイトデー」とか「出産祝い↔︎内祝い」「誕生日↔︎誕生日のお返し」のような、言語で記述できるお返しに関しては理解はできる。
逆に記述されてないと覚えられないから、「バレンタインのお返しは同額程度のもの、内祝いは出産祝いの半額程度のもの」と法律で決めてほしいまである。
まあ、“そういうんじゃない”からこそのお返しなんだろうけれども。
この増田、私の夫みたい、という奥さんの意見も多いね。マジでごめんって思ってるよ。
そんなギブアンドテイクの概念が無い人間を、何故好きになって結婚まで至ったのか、可能であれば追記して教えてくれると嬉しい。
あと、自分らみたいな人間は言えば動きはするから、「バレンタインのお返しは〇〇がいいな」と言ってくれると、本当に嬉しい。
ギブするのが嫌な人間でない限り、リクエストされるの嬉しいと思う。
「貴方が考えた贈り物が良いのに!」と思ってるかもしれないけど、それは本当にごめん。愛情のプロトコルが違うと理解してほしい。
「そうやって言語化できるってことは本当はわかってるんだろう」という意見もあったけど、本当にわからないからこそ苦労してきて、最近、勉強を始めてやっと言語化ができるようになったんだ。
でも指摘してくれてありがとう。
みんなにはあまりにも当たり前の原理かもしれないけど、自分からしたら今まで裸眼視力が0.01なのに眼鏡をかけずに生きてきて、眼鏡をかけたら「世界ってこんなだったのかよ!」と衝撃を受けたから、それを表したくて、言語化している。しかしあくまで自作の変な眼鏡ありきの視力しかないので、キモい文章になってたらごめん。
この性格で得しているのは、どんな押し売りや営業トークにも靡かないことくらいか。
色んな営業本に書いてある「先に少しサービスをしてあげると、返報性の原理でお客さんは貴方に何かを返さないといけない、と後ろめたくなり、契約が結びやすくなります。」
の原理が全く働かないので、試食させてもらったり試飲させてもらったり粗品を貰ったりしても、それとこれ(本題の商品を買うかどうか)は全く関係がない事象なので、「ありがとうございました!買わないです!」と言うことができる。
……いや、胸を張って言うことじゃないけど。
若い頃は「なんでこんなに優しくしてくれるんだ?!この会社って儲かってるんだなー!」と思ってた。馬鹿だ。
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まさかこんなにコメントをいただけるとは思っておらず、正直びっくりしています。
書き込んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。すべて読ませていただきました。めちゃくちゃ勉強になる!
本文が長くなってしまうのは申し訳ないが、それでも性分ってやつで、追記します。
いろんな人に言われてる、「“情けは人のためならず”の話じゃない?」とか「“義理の話”じゃない?」
いやほんと、それ。ありがとう。
無理に自分の中にない概念を言語化しようとしたけど、日本語には義理って言葉があったね。ワハハ。義理、わからん。ワハハ。
あと、これも複数の人に突っ込まれてた「それトレードオフって言わないのでは」
ほんまそれ。
しかもこれに関しては、なぜこの言葉を使ったのか自分でも思い出せない。
多分だけど、それこそ池井戸潤の小説が理解できないって話を書こうとしてて、池井戸潤ってトレードオフ的な概念がよく出てくるのに、自分はそれを読んでもピンとこなかった……みたいな話をしたかったんだと思う。たぶんね。
「これをするかわりにこれをやってくれ、と頼まれたら増田はきっと断らないでしょ?」
自分が言いたかったのは、そういった交渉の仕組みが分からない、と言う話じゃないです。 「(これをする代わりに)これをやってくれ」と前半が省略されている場合、普通は相手が過去に何かしてくれた→自分が何か返す、という流れに自然と至るものなのかもしれないけど、自分はそもそもその「その人に積み上がった恩ポイント」を覚えていないので詰んでいる、という話です。
つまり、ギブアンドテイクが分からないというより、「恩や害が特定個人に蓄積されない」が正しい。
タイトルがミスってました。申し訳ない。
「概念がわからない、ではなく行動規範に組み込まれてない、だろ」って意見、ほんとそれ。
自分でも「わからない」って言葉を雑に使いすぎてたなと反省してる。 概念として理解はしてるし、言葉も知ってる。
ただ、それが自分の無意識な行動を決めるロジックの中に入ってないだけ。それだけの話だったのに、そこをごっちゃにして書いたせいで、全体的にズレた伝わり方してる気がして、コメントくれた人に申し訳ない。
「〇〇さん△△さんではなく「ヒト一般」として見てる」
って書いてくれた人、まじでそれ。ありがとう。
多分この人には伝わる気がするから、もうちょい踏み込んで言うと、自分の中にはこの社会をシステムと見なすような全体構造があって、その中に「people」とか「everyone」みたいな、複数を指してるけど一語で済むような「ヒト一般」っていうモジュールが組み込まれてる。
で、その「ヒト一般」が社会の中で苦しんだり困ったりするのはシステムにとってマイナスなので、メンテナンスが必要。(これが俗に言う人助けってやつや)
だから「people」の一部を助ける、「people」の一部に助けられる、ってのは、「モジュールとしての人間群」を正常稼働させるための処理であって、そこに特定個人への重みづけは基本的に存在しないという感覚。
自分自身も「people」モジュールの一部なんで、普通に忙しかったり余裕がなかったりする時は助けられないです。 そこはもう、仕様的に無理なときは無理、みたいな割り切りです。
多分、返報性の原理が自然に働く人って、「people」という大雑把なモジュールなんかではなく、きちんと一人一人に対して、 「〇〇してもらった」「〇〇してくれなかった」みたいな専用の関数を紐付けてるんだと思う。 で、それが非明示的に記録されてて、後から無意識の行動に影響してくる。
その感覚って、自分にはちょっとピンとこないけど、たしかにそういう視点もあったら便利だなって思う。
「例えば誰かが自らの命を犠牲にして増田の命を救ったとしても全く恩を感じないということ?」
それは、すごくいい人だな〜、と思う。
でもそれって、“増田だから”助けてくれたというより、“その人は誰でも助けるんだろうな、素晴らしい人だ!”という認識。
でも、助けられたのが増田じゃない、全然知らない人でも同じように感じると思う。
助けた(行動を起こした)その人が立派なのであって、助けられた対象は別に自分でも、他の誰でも、関係ないと思う。
上記のようにトロッコ問題みたいな極端な例えを出してくれてる人も沢山いるけど、それが自然に出てくるって時点で、みんな「義理」の発想がちゃんとあるんだなと思う。
自分からすると、「朝トーストを食べたんだから、じゃあ野党支持者なんでしょ?」みたいな極論に聞こえてしまう。
いや、野党支持かどうかって、朝トースト食べたかどうかじゃ決めないでしょ、っていう。
あと、「ヒーロー」とか「いいやつ」とか「炭治郎」って言ってくれてる人、かなり誤解してる。
「嫌いな人でも困ってたら助ける」って、嫌いな奴がピンチの時に万難を廃して駆けつけて「俺が助けに来たぜ!」とかっこよく立ち回ることじゃないです。
嫌いな奴が仕事でミスしてて、「自分が直した方が全体として良くなる」って判断したら、巻き取ることもあるし、
そいつが体調崩してゲロってたら、「迷惑かけられても嫌だし」って理由で水を買って横に置いておく。
その人のためにやってるわけじゃない。自分のためでもない。その「場」における「ヒト一般」が上手く回るためにやっているという感覚。
もしそのあと重要な予定があったら助けない(助けられない)と思うし。
助けたかどうかの結果、ってのは、自分の中ではあまり重要じゃない。
それで優しいかどうか、人として優れているかどうかを判定するのはピンと来ない。
ただ、コメントでも多くあったけど、大半の人は「助けたかどうかの結果」をめちゃくちゃ気にしててだからこそトロッコ問題みたいな例え話で“結果”を知りたがるんだろうなと思う。
「恋愛してるのか、したいのかはわからないけど「なんでそう言う人と一緒にいるの?」って聞くのが愚問なくらい、増田も恋愛市場で素敵な人間なんじゃないかと思います。」
正直、自分はバツイチでして、恋愛とかそういう話題を正面から語るのは流石にちょっと気恥ずかしくて、あえて割愛してましたが、そうやって思ってくれる人がいるんだなってこと、教えてもらえて嬉しかったです。ありがとう。
あと、これは旦那さんからの伝言だけど、バレンタインのお返しとかプレゼントのお返し関連は、ブランド名・型番・色番まで書いてくれるとめちゃくちゃ助かるってことは覚えておいてください!笑
長くなってすみません。
でも、コメント読んで、自分の変なクセとか思考パターンが整理できた気がして、書いてよかったなと思ってます。
最後に、「返報性の原理を越えて、困っている者を助けるって、アガペーだよな......アスペじゃなくて。」とコメントしてくれた人、週明けにめちゃくちゃ笑わせてもらった、マジでありがとう!!
「黒歴史」という言葉の起源については、いくつかの説があり、一概にガンダムの造語だと断言することはできません。しかし、ガンダムシリーズ、特に『∀ガンダム』がこの言葉の普及に大きく貢献したことは事実です。
『∀ガンダム』では、「黒歴史」とは、過去に繰り返された戦争や文明の遺産を指す言葉として登場します。
作中では、高度な文明が崩壊し、その歴史が封印されたものが「黒歴史」と呼ばれています。
この作品における「黒歴史」は、単に恥ずかしい過去という意味ではなく、人類の負の遺産、繰り返される過ちといった深い意味合いを持っています。
インターネットスラングとしての「黒歴史」は、主に「過去の恥ずかしい言動や経験」を指す言葉として使われています。
この意味での「黒歴史」は、『∀ガンダム』の影響を受けつつも、より日常的な場面で使われるようになり、意味合いも変化しました。
インターネットやSNSの普及により、自分の過去の言動が記録として残りやすくなったことも、「黒歴史」という言葉が広まった要因の一つと考えられます。
「黒歴史」という言葉が『∀ガンダム』以前から存在したかどうかについては、明確な証拠はありません。
一部では、歴史学における「暗黒時代」や、心理学における「抑圧された記憶」などが語源ではないかという説もあります。
いずれにせよ、『∀ガンダム』が「黒歴史」という言葉を一般に広めたことは間違いありません。
「黒歴史」という言葉は、『∀ガンダム』が起源というわけではありません。
しかし、『∀ガンダム』がこの言葉を広め、一般的な言葉として定着させたことは事実です。
現在では、インターネットスラングとして広く使われており、その意味合いも変化しています。
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年齢: 28-35歳
職業: 戦略コンサルタント、投資銀行家、起業家などエリートビジネスパーソン
興味関心: 世界史、地政学、テクノロジー、ビジネス戦略、未来社会
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職業: 歴史哲学者、科学思想史家、数理生物学者、計算論的精神医学研究所所属
専門知識: 歴史学(世界史、文明史)、地理学、生物学(進化生物学、疫学)、数学(数理モデル、複雑系)、哲学(科学哲学、歴史哲学)、社会科学(政治学、経済学、社会学)、計算論的精神医学(知能モデル)
補足: ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の議論を基盤としつつ、最新の研究成果と批判的視点を取り入れ、より厳密で多角的、かつ未来志向の文明論を展開する。数理哲学的な厳密さと歴史学的な実証性を重視し人間の知能を問い直す。
"
書籍タイトル="文明の興亡:地理、病原菌、技術、そして社会構造の進化"
ターゲット層="知的好奇心旺盛なビジネスエリート、グローバル企業のリクルーター"
本の目次="
* なぜ今、文明の興亡を再び問うのか?
* 「銃・病原菌・鉄」は何を間違えていたのか?
"
序章と終章以外の各章の最低文字数="2000"
"
# 出力フォーマット:
第{章番号}章:{章タイトル}
{章番号}.{セクション番号1} {セクションタイトル1}
{このセクションが章の中で果たす役割、読者に提供する情報を具体的に示す。}
{章番号}.{セクション番号1}.{小見出し番号1} {小見出しタイトル1}
{小見出しの内容}
{章番号}.{セクション番号1}.{小見出し番号2} {小見出しタイトル2}
{小見出しの内容}
{章番号}.{セクション番号2} {セクションタイトル2}
# 補足: