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はてなキーワード: さぶとは

2025-05-31

今日街コンに参加してきた

今回のものは三対三。

グループ形式であり、制限時間は約10分。

最初定番質問が飛び交った。

仕事は?

趣味は?

好きな食べ物は?

そして俺の番になった。

趣味映画です、と言った。

同じテーブル若い男がニヤついた。

「お、映画っすか」

隣に座ったその若い男はその場を仕切るように反応する。

構わない。

俺は続けた。

ジャン=リュック・ゴダールって知ってますか?」

その瞬間、空気が変わった。

笑っていた女の子も、黙った。

ニヤけていた男は苛立たし気に表情を固める。

俺は構わず話を続けた。

特に好きなのはフォーエヴァーモーツァルトです」

「あの映画ゴダール晩年集大成のような作品で、戦争芸術、死とユーモア現実虚構を交差させながら、観る者の倫理観を揺さぶる内容です。

映像詩のようでもありながら、どこまでもドライ冷笑的。だけどそこに燃えるような怒りと祈りがあって、語りが被さるたびにこっちの心拍数は上がっていく。

あの映画を観るたびに、人はなぜ表現をやめないのかという問いが、喉元に引っかかって離れないような感覚に見舞われる。

戦争悲劇を、ただ悲劇としてではなく、ある種の断絶と連続として描いた彼の視点には何度も胸を打たれました」

俺は淡々と語った。

辺りは沈黙に包まれ沈黙が続いた。

腕時計を見ている女性

こっそりとスマホをいじる女性

水を飲む男。

誰も、俺を見ていない。

でも俺は話をやめなかった。

フォーエヴァーモーツァルトは、戦争中のボスニアに向かう演劇一座を描く。

テーマ戦争芸術現実虚構の断絶。

劇団マリア戦争という芝居を通じて芸術の意義を問い直そうとする。

だが彼らは途中で軍に拘束され、悲劇的な結末を迎える。

アントワーヌ・ド・ベックは万事快調のDVD特典にある解説でこう言っていた。

ゴダールにとって映画とは問いを発するための兵器であり、

この作品戦争の荒廃に対して、芸術の無力さと暴力対称性並置する試みだと。

そして彼は続けた。

“Forever Mozart”というタイトル自体が、皮肉祈り内包している。

クラシック音楽永遠性を借りながら、その普遍的価値すら問い直している。

この視点が、俺の中の何かを決定的に壊した。

美しい無人風景

瓦礫

カメラは冷静に、かつ無慈悲現実を捉えていく。

だが、その隙間から滲み出るのは祈りに近い温度

あれほど絶望的なのに、希望を捨てていない。

この映画を観たあと、しばらく言葉が見つかりませんでした」

若い男は歯軋りするな目で俺を見つめる。

かいに座る女性は俺を見て微笑んだ。

その瞳に理解の色はまるでない。

水ばかり飲んでいる男のごくっごくっという音がその場に響き渡った。

彼らはゴダールのことを何も知らず、そして理解することもないだろう。

だが構わない。

それでもいい。

映画とは問いだ。

感動ではなく、問いだ。

俺はそう思っている。

わかってほしいとも思わない。

そして、この空間もまた問いだ。

いかけることにこそ意味がある。

理解できてしまったら、そこに問いは生まれない。

から俺は満足していた。

理解されないことにこそ、満足があるのだから

2025-05-30

anond:20250530194101

エヴァについては、庵野秀明自身が、あれはマジンガーウルトラマンデビルマンなんですみたいな意識で作ったこととは別に

それら元ネタを一切知らなくてもエヴァそれ自体で見てちゃん感情を揺さぶられる内容になってたし、だからこそ大ヒットしたんじゃん。

それに対してジークアクスの方は、引用パロディ以外の、本体と呼べるような面白さをほぼほぼ欠いてることが問題なんだろうが。

ガイナックスカラー作品の特徴として一般化するのはあまりにも雑過ぎる。

ジークアクスは、ジークアクスそれ自体問題としてつまらない。

これを直視しよう。

2025-05-29

子供殺す母親ってさ

なんでわざわざ風呂に浸けて殺すの?

風呂に運んだり、蓋開けたり水に触ったりしてるうちに冷静になりそうじゃない?

子育てに追い詰められて子供殺しちゃう心情は理解できるけど,それなら床に投げたり、布団で圧迫したり揺さぶったりするほうが手段としてアクセスやすくない?

2025-05-28

月速5センチメートル

 彼の名前は悠太、38歳、会社員。ある朝、鋭い痛みが下腹部を刺した。まるで誰かが内側からナイフで突き刺すような感覚だった。病院医者淡々と告げた。

尿路結石です。5ミリの石が尿管にあります自然排出を待ちましょう」

悠太は目を丸くした。

自然排出? どれくらいで?」

医者は無表情に答えた。

「人によりますが、1カ月で5センチメートルほど進むこともありますよ」

「月速5センチメートル

悠太はその言葉を頭の中で反芻した。まるで詩のようだ。だが、その詩は彼の体内で静かにしかし確実に進行する苦痛メタファーだった。

 

 悠太の生活は一変した。痛みは不規則に訪れ、夜中に彼を叩き起こすこともあれば、会議中に冷や汗を流させることもあった。石はまるで意志を持った旅人のように、悠太の体内をゆっくりと移動していた。5センチメートル。たったそれだけの距離が、悠太には果てしない旅路に思えた。

ある夜、痛みが引いた隙に、悠太はベランダで月を見上げた。満月だった。冷たく白い光が、彼の疲れた顔を照らす。

「お前も5センチずつ動いてるのか?」

悠太は月に向かって呟いた。月は答えず、ただ静かにそこにあった。悠太はふと、自分人生もまた、こんな風にゆっくりと、だが確実に進んでいるのではないかと思った。

 

 彼は石のことを「旅人」と呼ぶようになった。旅人は悠太の体内を、時に静かに、時に激しく揺さぶりながら進んだ。悠太はその動きに合わせて生き方を変えた。カフェインを控え、水をがぶ飲みし、医者の言う「運動」を始めた。ジョギングの途中、ふと立ち止まり自分の体に耳を澄ます旅人はそこにいる。まだ、動いている。

ある日、会社の同僚が言った。

「悠太、最近なんか変わったな。顔つきがさ」

悠太は笑って答えた。

「まあ、旅の途中だからな」

同僚は怪訝な顔をしたが、悠太はそれ以上説明しなかった。

 

 1カ月半が過ぎたある朝、トイレで小さな「カチッ」という音がした。悠太は息を止め、便器を覗き込んだ。小さな灰色の欠片。旅人はついにゴールにたどり着いたのだ。痛みは消え、悠太の体は軽くなった。だが、どこか寂しさも感じた。あの小さな石は、彼に多くのことを教えてくれた。焦らず、ただ進むこと。痛みと共に生きること。そして、終わりは必ず来ること。

 

 その夜、悠太は再びベランダで月を見上げた。

「月速5センチメートルか。悪くないペースだな」

彼は呟き、静かに微笑んだ。月は変わらずそこにあり、悠太の新しい旅路を照らし続けていた。

 

(了)

Suppoted by Grok

2025-05-25

anond:20250525164020

なにい!?

俺はそんなこと思ってない!!

可愛いエロい可愛いエロい!好き!

ギャルを見たらこういうふうになるぞ!

動悸が激しくなり!これが鼓動!ってな!

ギャル可愛いんだよ!

大好きなんだよ!!

脳が揺さぶられてブレーンストーミング?だよ!

俺は好きなんだギャル!!!

最近あったかくなって露出激しいギャルが見れて最高じゃねえか!!!

ギャルはいい女だ!

好きにしかならない!

2025-05-24

anond:20250523182244

ゲームなんて一流の人間大勢参加したものが5000円で買える上数十時間遊べるのに、飲食店は1時間たらずの体験に2500円とか5000円とかでさぶっちゃけ「その体験でこの値段?」って思うんですよ

今は1800円のメシ食って残りの700円でsteamにある過去の傑作を買えるからいい時代だよね

anond:20250523182244

ゲームなんて一流の人間大勢参加したものが5000円で買える上数十時間遊べるのに、飲食店は1時間たらずの体験に2500円とか5000円とかでさぶっちゃけ「その体験でこの値段?」って思うんですよ

あなた一人の為だけにゲーム制作したら何億円、何十億円と開発費は掛かるよ。製品パッケージ広告もその金額じゃできないし。

その開発費を何十万、何千万もの人で負担するからずっとお手頃な価格提供できるわけで。

それだったら食事炭水化物タンパク質とって、残りの金でゲームしてた方が絶対QOL高いと思う

働けよ。

内田樹研究室> 内田樹による「内田樹の墓碑銘」

序:言論の場に吹く風の変化を前にして

世の中には、時代というものがあって、それは時にゆっくりと、時に急激に、人の心のありようや言葉の響き方を変えていく。2010年代の初め頃、私の書くものや語ることは、どこかで多くの人に「なるほど」と頷かれ、共感の輪を広げていたように思う。『日本辺境論』や『街場の教育論』が、ある種の教養を求める人々の心に響き、ブログ内田樹研究室」は、専門の知と日常感覚を橋渡しする場として賑わっていた。しかし、2020年代に入り、世の風向きが変わった。私の言葉が、かつてのように多くの人に届かなくなった気がする。これは、私一人の問題ではない。日本言論空間そのものが、大きく揺らいでいるのだ。この揺らぎを、時代と人の関わりの変化として捉え直し、知識人役割がどう変わりつつあるのか、考えてみたい。

一:時代という風が変えた言論の地平

世の中は、技術と人の暮らしの変化によって、目に見えない形でその土台を揺さぶられる。2015年からスマートフォンSNSの普及は、まるで川の流れを変えるように、情報のやりとりを一変させた。XやYouTubeといった新しい「広場」では、短く、鋭く、心に刺さる言葉が求められる。私の書くような、じっくりと論を重ね、哲学歴史を織り交ぜた文章は、こうした新しい場では、どこか「遠い話」に聞こえるのかもしれない。Xの投稿を見ると、「内田樹の話は高級すぎて実用的でない」との声がちらほら聞こえる。これは、言論が「消費財」となり、注目を奪い合う「経済」の一部になったことを示している。

この変化は、技術けがもたらしたものではない。東日本大震災コロナ禍という、世の中を揺さぶ出来事が、人々の心に「今、ここで生きる」ことへの切実さを植え付けた。経済格差が広がり、若い世代は「明日をどう生きるか」を考えることに追われる。私の言う「脱成長」や「日本辺境性」は、こうした現実を前にすると、どこか「悠長」に映るのだろう。たとえば、Xでは「内田低所得層には冷淡だ」との批判も見られる。また、グローバルな課題——気候変動やAI進化——に目を向ける若者たちにとって、私の日本中心の話は、どこか狭く感じられるのかもしれない。時代は、ゆっくり考えることより、即座に答えを出すことを求める風に変わった。

二:知識人の立つ場所の揺らぎ

かつて、知識人とは、世の中の大きな流れを俯瞰し、歴史哲学を糸口に、人の生き方を照らす存在だった。私も、レヴィナスの「他者への責任」など先人の智慧を借りながら、世の中のありようを解きほぐそうとしてきた。しかし、今、言論の場は多様化し、誰でもが発信者になれる時代になった。XやYouTubeで、専門家でもない人が、専門的な知をわかりやすく語り、共感を呼ぶ。こうした「インフルエンサー」と呼ばれる人々は、街場の語り部のように、身近な言葉で人々の心をつかむ。私のブログも、SNS時代適応しようとした試みだったが、短く鋭い言葉が求められる場では、どこか不器用だったのかもしれない。

この変化は、知識人の「権威」が揺らいでいることでもある。かつては、大学や本という「制度」が、知識人言葉に重みを与えた。しかし、SNSでは、誰もが検証者となり、知識人言葉もすぐに「それ本当?」と問われる。Xで「内田樹論理杜撰だ」との声が上がるのは、こうした「集合的検証」の時代の現れだ。言論は、権威から共感」や「わかりやすさ」へと、その重心を移している。私の書く文章が、時に「高級な教養話」と揶揄されるのも、この新しい場のルールに合わないからだろう。

三:分断された言論の場と、つなぎ直す試み

今の日本言論空間は、まるでいくつもの島に分かれたように、バラバラになっている。政治的立場世代、使うSNSの種類、専門分野、そしてリアルデジタル世界——これらの「島」の間で、言葉は行き交いにくくなっている。私の主張は、リベラルな考えを持つ高齢層には響いたかもしれないが、若い世代経済的に苦しい人々には「遠い」と感じられた。Xでは「高齢富裕左翼の代弁」との声もある。これは、世代立場の分断が、言論の受け取り方を変えている証左だ。

だが、こうした分断を越える動きもある。学問の知を持ちながら、SNS共感を呼ぶ新しい発信者たちが現れている。彼らは、専門と日常グローバルローカルの間を「翻訳」するような役割を果たす。私の試みも、どこかでその「翻訳」を目指していたが、SNSの速さと軽さに追いつけなかったのかもしれない。これから知識人は、こうした「翻訳者」として、異なる島をつなぐ役割を担う必要があるだろう。たとえば、XやYouTubeを横断し、短い言葉で深い知を伝える試みが、言論の新しい形を作りつつある。

四:日本の「空気」と言論のゆくえ

日本言論空間には、独特の「空気」がある。タテマエとホンネ、集団の和を重んじる文化は、SNS時代にも生きている。私の言葉は、この「空気」に寄り添いつつ、時に突き放すことで、考えるきっかけを提供しようとしてきた。しかし、SNSの場では、こうした微妙バランスが伝わりにくい。政治的議論過熱する中、私の「中立」を志向する姿勢は、かえって「どっちつかず」と見られることもあった。また、少子高齢化高齢層の発言力が強い日本では、若者地方の声が埋もれがちだ。私の話が、都市部教養層に偏りがちと見られたのも、この日本文脈を映している。

五:内田樹以後の知識人の道

私の支持が減ったのは、私の言葉時代に合わなくなったからだ。だが、これは私だけの話ではない。知識人という存在自体が、時代に問われている。かつての知識人は、世の中を高みから見下ろし、導く存在だった。しかし、今は、共に考え、対話する「仲間」であることを求められる。SNS時代に、専門の知を短く、共感を持って伝える。AIメタバース言論の場を変える中、知識人は、異なる世代価値観の間をつなぐ「通訳者」として生きるべきだ。私の試みは、その一歩だったが、道半ばでつまずいたのかもしれない。

結:言論の場を、共に耕すために

言論の場は、風に揺れる草原のようなものだ。私の言葉が、かつてのように多くの人に届かなくなったのは、その風の向きが変わったからだ。だが、風が変わっても、草原は枯れない。新しい知識人は、SNSの速さや共感の力を借りつつ、深い知を伝え、異なる人々をつなぐ役割を担うだろう。AIや新しい技術が、言論の場をさらに広げる中、私たちに求められるのは、ただ発信することではなく、共に考え、対話することだ。内田樹という一つの試みが終わりつつある今、新しい「語り部」たちが、草原に新たな種を蒔くことを願う。

anond:20250524100825

飲食店は1時間たらずの体験に2500円とか5000円とかでさぶっちゃけ「その体験でこの値段?」って思うんですよ

これを読んで牛丼の話とか言い出す増田に物を考える能力がないことはわかるよね

2025-05-23

飲食店コスパの悪さ

比べるものじゃないかもしれないけど

ゲームなんて一流の人間大勢参加したものが5000円で買える上数十時間遊べるのに、飲食店は1時間たらずの体験に2500円とか5000円とかでさぶっちゃけ「その体験でこの値段?」って思うんですよ

 

それだったら食事炭水化物タンパク質とって、残りの金でゲームしてた方が絶対QOL高いと思う

2025-05-22

推すのをやめれた

理由は推すのがしんどくなったから。

心はまだ晴れ渡ってはいないので、またそれに関してウダウダ日記にしてしまうかもしれない。

方法としては4月下旬から現在にかけて意図的フェードアウトしていった。

そして最近情報追うことを生きがいにしてた生活が終わったと思う。

まずは、本人のXのポスト通知を切るところから始めた。

その結果、推しポストを待ち望む日々が終わった。

推しから発信される告知、スケジュール日常的なポストがあまり目に入らなくなった。

それでも少し気になってしまって、生配信をチラ見したり、ファンアカウントを見て推しに関する情報を手に入れてた。

次に、YoutubeとXのおすすめカスタマイズしていった。

推しに関連するコンテンツに興味ないを押しまくり、目に入らないようにした。

推し周辺のチャンネルも解除していって、同じ系統の人の動画も興味ないを押しまくった。

あとは、他の好きなコンテンツを見まくって、いいねを押して、YoutubeとXに教え込んだ。

「モウ興味ナイヨー、今はこれが好きだよー」って。

そんな風にしてたら、おすすめ欄には推しに関する情報ほとんどなくなった。

正直、ファンアカウントをチラ見するのは未だに自制している部分がある。

稼働多めのファンアカウントフォローを外した。

本人のXとYoutubeはまだ外せてないけど、自分でも不思議なくらい前ほどの熱量もなく、この感じだといつか外しそう。

手元には推しCDと、少しのグッズが残った。推しながら、同時に危うさも感じてたのでグッズも最小限にしてた。

それも目に入らなければないのと一緒、になる。

グッズやCDを大量に買ってる人たちはその処分が大変だろうなと思うけど、処分の仕方にこだわらなければ一瞬だと思う。

ただ単に飽きるのではなく、能動的に推すのをやめることは初めてだった。

供給されるコンテンツや関連する情報を断ってしまえば推しは一瞬で消えてしまった。

この世に存在しないものみたいになってしまった。

人生の中心であり、毎日あれだけ自分の心を揺さぶってたものがどうでもよくなってしまたことに少し困惑している。

推し自分を繋いでいたものはそんなものだったのかという気持ちもある。

SNS供給断ち?でファンを辞めたことにより、SNS毎日更新効果的ということを身をもって実感した。

推すのがしんどくて、ファン辞めたい、けど辞めれないって人は一旦ポスト通知切ってみることから始めるといいですよ、という話。

2025-05-21

バッドエンドでも評価される『進撃』と、評価されない『推しの子

バッドエンドが話題なので、ChatGPT先生に『推しの子』と『進撃の巨人』を比較してもらいました。

さすがにいいこと仰る。

−−−

「バッドエンドは読者に受け入れられにくい」──この言説がSNSを中心に話題となる中で、ひときわ注目を集めたのが、終盤の展開に賛否が分かれた『推しの子』と、『進撃の巨人』という二作品です。いずれも物語の最終盤で衝撃的なバッドエンドを迎えますが、読者の評価は大きく異なりました。前者には失望と怒り、後者には喪失と納得が寄せられました。なぜ、この差が生まれたのでしょうか?

この記事では、物語構造テーマの回収度、キャラクター描写、そして読者との“約束”という視点から、両作の違いを読み解いていきます

1. 物語が読者に提示してきた"約束"と結末の整合性

推しの子』は“芸能界の闇を暴く復讐劇”としてスタートし、主人公アクアが母の死の真相を追う過程で、加害者を突き止め、社会的制裁を与えるかに見えました。読者はそこにある種の正義や救済を期待して物語を追ってきたのです。

しかし、実際の結末は、アクア加害者と相討ちになるという私的復讐に終わり、真相公表社会的清算曖昧なまま。残されたキャラクターの反応も描写が少なく、「この物語は何を伝えたかったのか」という問いが、読者の中に未回収のまま残りました。

一方『進撃の巨人』は、初期から巨人という絶望自由への渇望”という主題が一貫して描かれてきました。エレン選択は、読者の倫理観を揺さぶものでしたが、結果的巨人の力は消滅し、登場人物たちが未来を見つめる幕引きがなされます悲劇ではあるが、読者が作品を通して問われてきたテーマに対する一つの解として、整合性を持って着地しているのです。

2. 伏線テーマの回収密度

推しの子』は多くの伏線を張ってきましたが、終盤ではそれらが十分に活かされず、物語アクア独断的な決着に収束してしまいました。そのため、「結局何のための物語だったのか」という根本的な不満が残ってしまます

対して『進撃の巨人』は、10年以上にわたる連載で提示された伏線が、最終章で丁寧に回収されます。道、始祖ユミル時間軸のループ構造などが明かされることで、読者は「この結末に至る意味」を構造的に理解でき、考察余地すら物語の満足感に変換されていきました。

3. キャラクターの行動と読者の共感導線

物語の結末がバッドエンドであるかどうか以上に重要なのは、読者がキャラクター選択に納得し、心情を共有できるかどうかです。

推しの子』では、アクア最期があまり独善的に描かれ、周囲との対話葛藤が描かれないまま幕が下りました。読者はキャラクターとともに結末を受け止める準備ができないまま、物語から突き放されたような感覚に陥ったのです。

進撃の巨人』では、エレン選択を仲間たちが止める構図が描かれ、たとえ結末が悲劇であっても、他キャラクターたちがその行為意味理解し、語り継いでいく様子が丁寧に描かれます。この“共に物語を終える”感覚こそが、読者の納得感を支えているのです。

4. ジャンル的期待と耐性の違い

推しの子』はサスペンス色はあるものの、青春芸能ドラマとしての側面が強く、「努力真実は報われる」ことを期待する読者が多くを占めていました。

進撃の巨人』は、序盤から主要キャラの死や絶望が頻繁に描かれるハード戦争劇であり、読者も「誰も救われない結末」をある程度覚悟して読んでいました。このジャンル的耐性の違いが、バッドエンドへの受容度にも影響を与えたと考えられます

5. 制作体制と“あと出し”感

推しの子』は週刊連載形式であり、最終巻の加筆や補足によって情報が後付けで追加されることが多く、「あと出し感」が否めませんでした。

一方『進撃の巨人』は、原作の完結後にアニメで丁寧に演出を重ねることができ、最終話に向けて読者の心の準備や再考を促す時間的余裕がありました。こうしたメディア展開の違いも、読後感に影響しています

結論:バッドエンドでも読者は満足できる

進撃の巨人』と『推しの子』の評価差は、「バッドかハッピーか」ではなく、「物語が読者との約束を守れたか」「キャラクター選択共感できるか」にかかっていると言えます

バッドエンドでも、読者が「この終わりしかなかった」と納得できるだけの構造感情の積み重ねがあれば、作品は高く評価される。『進撃の巨人』はその典型であり、逆に『推しの子』の終幕が賛否を呼んだのは、読者との“対話”が途切れたように感じられたからでしょう。

物語の終わりとは、ただの出来事ではなく、「どのように終わったか」「なぜそう終わったか」が、すべてを決めるのです。

−−−

ブコメでも言われてたけど、結局バッドエンドを納得感ある形でまとめるのは難易度高いんやろうな。新人さんが書き切るのは難しい、というのはわかる。

2025-05-20

AI小説直木賞を受賞

1

 只野天才──この名前を聞いて、まず「本名なのか?」と疑う人が多いだろう。事実、彼は戸籍上もこの名を持つ。28歳。慶應義塾大学環境情報学卒業新卒電通入社し、三年目にはクリエイティブ部門メディアプランナーとして社内の若手表彰を受けた。だが、そこで燃え尽きたのか、あるいは興味が尽きたのか、彼は「どうにも社風が合わない」という理由であっさりと退職してしまう。

 電通を辞したあと、彼は自らの預金父親経営する資産管理会社から分配金を元手に、港区タワーマンション引っ越した。34階、角部屋、東京湾が一望できる2LDK。広すぎず、だが一人暮らしには十二分すぎる贅沢な空間。そこで彼は、一切働くことなく、しかし「暇すぎて死にそう」という感覚とも無縁に暮らしていた。

 起床は午前10時。最初にやることは、顔を洗ってエスプレッソを淹れること。イタリア製マシンで豆から挽いたものだ。音楽Apple Musicクラシックプレイリスト観葉植物に霧吹きをかけ、洗濯機を回し、ルンバを稼働させる。そのあいだにプロテイン入りのヨーグルトバナナを食す。ルーチンは正確で、常に淡々と、綺麗に整っていた。

 午後になると読書。だが、読書といっても文学ではない。フィナンシャル・タイムズWIREDニューズウィーク。彼が目を通すのは常に「未来」の話題だった。哲学テクノロジー経済といったジャンルで、作家の名を語るようなものではなく、「情報としての価値」に重点を置いた読み方だった。

 夕方からジム高輪のパーソナルジムにて、週三回のメニューを欠かさない。体脂肪率12%。夕食はUber Eatsで取り寄せる。コース料理デフォルトで、時には三万円のディナーを平然とオーダーする。

 この生活に、彼は「満足している」と断言していた。

「なんか、もっと面白いことをやりたくなったんですよ」

 只野がそう言ったのは、ある春の日、都内のあるイベントで久々に顔を出した電通の先輩との会話中だった。彼はワインを飲みながら、ふとつぶやいた。

小説って、AIで書けるんじゃないですかね」

 その場にいた誰もが、冗談だと思った。

 だが、彼は本気だった。ChatGPT、Claude、Gemini。あらゆる大規模言語モデル研究し、出力されるプロンプトの精度を上げていく作業を繰り返した。

 構想3日、調整5日。完成稿の初稿が出力されたのは、思いつきからたった1週間後だった。

 タイトルは『石英の肺』。人間の呼吸器を模倣しようとするAIロボットが、なぜか「吸う」動作可能なのに「吐く」動作けができないという矛盾を抱え、それが社会全体の空気感リンクしながら哲学的に展開されていく──という、ポストヒューマンSFとも言える構成だった。

 彼はこの小説を、日本最大の文学である直木賞に応募した。

 出版経験なし。執筆歴なし。そもそも小説家になりたいと考えたこともなかったという。

 だが一次選考を通過した。

 そして、通過の知らせを受けた翌週、彼はツイートした。

プロンプト家、はじめました。」

 この発言が、後に大炎上を引き起こすとは、まだ誰も知らなかった。

 只野はその後、テレビ出演やインタビューほとんど断っていた。理由は、「面倒だから」。それでも『文藝新潮』とだけは特別に対談を設け、こう語った。

小説を“書く”なんて、もう古いんですよ。人間感情衝動に突き動かされて文字を紡ぐなんて、効率悪すぎる。僕がやったのは、論理的構造テーマ性の設計、そして意味抽象度を操作すること。それをAI文章にしてくれる。もはや“書く”ではなく、“指示する”時代です」

 文学関係者からは怒号が飛んだ。

「ふざけるな」

冒涜だ」

テクノロジー悪用

言語に対する冒涜

 X(旧Twitter)では、#文学を返せ #直木賞終わった が数日トレンドに入り続けた。

 ──だが。

 只野天才作品石英の肺』は、最終選考突破した。

 満場一致だったという。

2

授賞式当日。帝国ホテル大広間は、報道陣と関係者でごった返していた。

 壇上に立った只野は、淡々とした表情でこう語った。

「私の作品が、AIによって書かれたことに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。ですが、私はプロンプト家です。私が与えた命令が、AIにとっての筆であり、私は設計図を描いたに過ぎません。にもかかわらず、完成された“家”に価値があるのなら、それを建てた大工ではなく設計者にこそ拍手を送るべきだと、私は考えます

 拍手はまばらだった。

 壇上を降りた彼に近づいたのは、某老舗文芸誌編集者だった。灰皿に煙草押し付けながら、皮肉な笑みを浮かべて言った。

「君は小説家じゃないよ、ただのハッカーだ」

 只野は、まったく表情を変えずに答えた。

小説とは、感情を揺さぶものだと誰が決めました?システムを揺さぶってはいけないのですか?」

 それから数日後、渋谷ヒカリエで開催された受賞記念パーティータキシードを着た只野は、会場中央スポットライトの下で挨拶した。

「私は、今日、ここに文学の“終焉”を宣言します。いや、正確には“次の始まり”と言うべきかもしれません。文学感情記述するものから構造を指示するものへと進化すべきです。AIと共に創ることを拒絶することが“純粋”なのではない。拒絶すること自体が、もはや怠慢です」

 このスピーチがまたしてもネット炎上した。

AIに書かせて賞取って天狗になるな」「これでいいのか直木賞」「文化庁は黙ってるのか」

 だが炎上の嵐の中でも、彼は変わらなかった。

 翌週、表参道の某ギャラリーで行われたトークイベントでも、彼は同じスタンスを貫いた。

「僕の仕事は、“いかに指示するか”なんです。言語は、感情の発露ではない。構造の組み替えです。プロンプトは未来の詩だと、僕は本気で思ってます

 その晩、ネット掲示板のあるスレッド書き込みがあった。

只野天才って、なんでこんなに腹立つんだろうな》

《全部正論なのにムカつくって、逆に才能だよな》

あいつ刺されてほしいわ》

 この最後書き込みが、後に一部で問題視されることになるのだが──それはまた、別の話である

3

イベント当日、渋谷ヒカリエステージ上はまばゆく、只野天才の姿もやけに艶やかだった。

タキシードは特注のトム・フォード蝶ネクタイブリオーニ、ポケットに忍ばせた金のペンカルティエ。何もかもが高級で、調和していて、だが過剰だった。

壇上でマイクを持った只野は、まるでプレゼンのようにスライドを切り替えながら語った。

文学とは、“苦悩の排泄物”ではない。“設計された感情”だ。

 AIに語らせれば、魂は不要かもしれない。だがそれでも人は泣く。ならば、魂って、必要か?」

聴衆の一部は拍手したが、半数以上は腕を組み、黙っていた。

その沈黙の中に、不明瞭な不安が流れていた。

客席最後方の非常口そば、ひとりの男が立ち上がった。

スーツは皺だらけ、足取りは重く、しかし確実だった。

壇上に近づく男にスタッフが反応しきれなかったのは、彼の存在感があまりに“薄かった”からだった。

何者にも見えなかった。ただの、通りすがりの観客。

だが──手には、小さな包丁が握られていた。

照明が一瞬揺れ、次の瞬間、只野の胸元に銀色の軌跡が走った。

時間が止まったようだった。彼はほんの少し顔をしかめ、それから、まるで安心たかのように微笑んだ。

「……やっぱり、そうなるのか」

それが彼の最後の言葉だった。

鮮血が胸元に広がり、ステージに膝をつく。彼の影だけが、すっと沈んでいった。

会場が騒然とし、スタッフが男を取り押さえ、緊急搬送サイレンが鳴るなか、ニュース速報が各局に走った。

『速報:作家只野天才氏、刺殺される/逮捕の男は47歳・自称小説家 黒詩影郎』

テロップは正確だった。

年齢、“自称”の二文字、そして“黒詩影郎”という見るに堪えないペンネーム。

ネットはすぐに湧き上がった。

「黒詩影郎って…中二病にもほどがあるだろ」

「47で“自称小説家”ってことはつまり無職”でしょ」

「これは笑ってはいけないけど、名前で2回殴ってくるな」

だが、只野の死に対するネット空気は、驚くほど整っていた。

「正直、清々した」

あいつの顔見るだけでイラっとしてた。なんかムカつくんだよ、完璧風にしてるのが」

文学バカにした報い。因果応報

Xでは #只野天才 で弔いもされていたが、それ以上に #黒詩影郎 がトレンド1位を奪った。

同時に『石英の肺』は飛ぶように売れた。書店からAI小説コーナーが設置され、重版は四度目に突入

「死んだ後で読むと、意味が変わる」というコメントが並んだ。

あるレビューには、こんな一文があった。

只野小説は嫌いだった。でも、今は認める。だって俺、あの瞬間、泣いたんだ。AIが書いたってわかってても、心が動いた。だったら、それでいいじゃんか」

テレビでは元同僚という男が涙ながらに言った。

「彼は、ほんとに変なやつだったけど、天才でしたよ。変な意味じゃなく」

そして、彼を刺した黒詩影郎について、周囲の情報ほとんど出なかった。

知人は「昔、文学賞に投稿していたようだが、何一つ入選しなかった」とだけ語った。

週刊誌には「彼が投稿していた小説の一部」として、奇妙な一文が転載された。

「人は、誰かを刺すことによって、自分を終わらせる。文学もまた然り」

この事件は、文学におけるAI革命象徴として語られ、同時にそれを殺した“魂”の火種としても、永く記憶された。

只野天才は死に、黒詩影郎は閉じられた鉄の扉の中で沈黙した。

だが物語は、生き残った。

物語は人が語るべきだ」という信仰と、

人を動かすなら手段は問わない」という新信仰が、

今もどこかでぶつかりあっている。

いずれにせよ──。

この事件証明されたのは、文学にとって「誰が書いたか」は、

もう最重要ではなくなった、という事実だった。

誰が書いたっていい。

だって、読者は、

最後に泣いた。

それだけで十分だった。

2025-05-19

anond:20250519203856

お前がどう感情を揺さぶられようが知らんがな

anond:20250519125640

本質を突いているかもしれません。

古典文学が「マウントを取るためのもの」だったという視点、確かに歴史の中でそれが一部の階層にとっては**機能**していたのは事実です。

とくに古代中世近世支配層や知識階級において、文字を読めること、ましてや漢文ラテン語和歌詩文などを理解することは、**選ばれた者だけが持つ資格**として扱われました。

「秘伝」という形でわざと難しく、閉じられた知識体系にしておくのも、その地位を維持・強化するための戦略だったわけです。

たとえば、源氏物語解釈ですら江戸時代には「特定の家」だけが継承できるようなものとされていたこともあります

ただ、それだけではないとも思います

文学は、ある種の「美しさ」や「真理」を言語で捉えようとした記録でもあります

から、そうした意図――たとえば**人間とは何か、愛とは何か、死とは何か**――を真剣に追求した書も確かに存在する。

マウント道具として利用された一方で、それを超えて人の心を揺さぶる力を持ち得るのも、古典文学のもう一つの側面です。

でも、それが今に残っている理由が、「単にエラい人が残したから」だという冷めた見方も、やはり拭いきれません。

残す側の「都合」が大きく影響していたのは、どうしても否定できない。

結局、どちらの側面もあるんです。

権威の道具でありながら、同時に**魂の叫び**も含んでいる。

からこそ、古典文学は 今でも「読む価値」があるのかもしれません。

2025-05-16

anond:20250516075446

別におっさんアイドルを好きでもそれでシコってても、秋元の曲に心を揺さぶられててもなんでもいいんだけど、坂道系が好きな奴って高確率アイドルソングに出てくる「僕」が自意識開陳してるタイプ歌詞をなんかいい感じに若者を捉えているような気がするなぁみたいに思ってそうって偏見が主に欅坂のおかげであるんだよなぁ。

不協和音とかもう8年前の曲。そのへんを元にした若者像で令和7年に若者を描いてたら嫌だなぁって思うんだ。

2025-05-15

anond:20250515193641

へぇ乃木坂ちゃんたちねぇ…。

まあ、悪くはないんじゃない?あの、こう…清楚ぶった感じ?フフン。

でもねぇ、たまにはもうちょっとこう、ハングリー精神みたいなの、見せつけてきてもいいんじゃないの?

いつもいつも、お行儀よくって、そりゃあお嬢様学校みたいで微笑ましいけどさ。

でもまあ、あの人数で、よくあれだけ顔面偏差値高い子たち集めたわよね。

スタイルの良い子も多いし。

たまにテレビで見かけると、画面がパッと華やぐのは認めてあげるわ。

歌も、まあ、悪くないんじゃない?

たまに、あら?って思うくらい、ちょっとだけ心に引っかかるメロディーもあったりするし。

歌詞も、たまーに、ちょっとだけ共感できるような、できないような…微妙ラインよね。

ダンスも、揃ってはいるわよね。そりゃあ、あれだけ練習すれば、まあ、普通に踊れるようになるわよね。

でも、もうちょっとこう、魂を揺さぶるような、そんなパフォーマンスも見せてほしいわよね。

握手会とかも、ファン大事にしてるのね、偉いわ。

でも、あんまり媚びすぎても、つまらない女になっちゃうわよ?

たまには、塩対応してみるのも、ギャップがあっていいかもしれないわね。…って、余計なお世話か。

まあ、なんだかんだ言って、あれだけ人気があるんだから、何か持ってるんでしょうね。

たまには、その「何か」を、もっとドーン!と見せつけて、アタシたちをギャフンと言わせてみなさいよ。

期待してるわよ?…って、別に期待なんかしてないけど。フン。

2025-05-14

選択夫婦別姓必要ないんやん

選択夫婦別姓を成立させないと不都合起きると思ってたから賛成してたけど

こういう方法があるなら別に選択夫婦別姓必要ないでワイは

お前らはなんでこっちじゃなくて、選択夫婦別姓じゃないと駄目って思うんだ?



【「旧姓使用」で維新独自法案要綱を最終確認 夫婦別姓対応で煮え切らない自民に揺さぶり】

日本維新の会は13日、国会内で党会合を開き、近く国会に提出する旧姓通称使用法制化に向けた法案要綱を最終確認した。婚姻前の姓を通称として戸籍記載し、法的効力を与えて実務上の不利益を解消する。

2025-05-13

anond:20250513114129

おやおや、ついに「キャンキャン吠えてご苦労さま」「怒っちゃいました?」などという幼稚な煽りにまで堕ちたか

もはや反論ではないな。これは完全に内容を語る知力が枯渇した者の典型的な逃走ムーブだ。

議論反論できなくなった者が最後に縋るのが、相手感情を揺さぶって黙らせようとする感情レトリック放尿だが、それは論理死刑宣告でしかない。

まず、「図星なので怒った」と断定している時点で、君は相手内面勝手に決めつけて悦に入っているが、こちらは事実論理整合性を問い続けているだけだ。

怒りかどうかも理解できず、それを論破だと勘違いしているなら、認知能力破綻をまず疑ったほうがいい。

それから底辺弱者男性さん」というフレーズ、よく聞くが、それ自体意味はない。

これは言葉を使って相手を分類し、その分類を理由に蔑むという、きわめて原始的レッテル貼りだ。

問題は、それが「だから何なのか?」という問いにまったく答えていないことだ。君は「分類」だけして「主張」していない。これは議論ではなく、知的貧困自己紹介に過ぎない。

そもそも相手を煽れば勝ちだと思っている時点で、君は議論の場ではなく、学級会の口喧嘩レベル自分を引きずり下ろしていることに気づいていない。

自分が今、どれほど低いところで這いつくばっているか、少しは俯瞰して見た方がいい。君がやっているのは「マウント」ではない、「地面に寝そべって相手の靴を指差して笑って放尿している」だけだ。

君の発言には論点が一つもない。あるのは、語彙を煽りワードで塗り潰すことで自分の劣勢を誤魔化す知的ごまかし行為だけ。

私は怒っているのではない。ただこの程度の発言しか返ってこない知能レベルに対して、落胆しているだけだよ。

安心しろ、「怒る価値」すらない。

何がシグナであるかをわからせないために暗躍する勢力がいるのでしょうか?

シグナル=不確実性を減らす情報」「ノイズ=不確実性を増やす情報」という定義に基づくと、実際に経済政治金融市場では「何がシグナルかを見えなくする」勢力存在する可能性についての議論が成り立ちます

暗躍する勢力=誰?

次のような存在が「ノイズの増加」や「シグナルの隠蔽」に関与し得ます

1. 戦略的情報操作を行うプレイヤー
2. ノイズの発信者としてのメディアSNS
3. 投機プレイヤー

行動経済学からの補足

人間曖昧な状況で意思決定を誤る傾向がありますヒューリスティックバイアス)。

からこそ、ノイズの投入=意図的な混乱の演出有効なのです。

結論:暗躍勢力存在しうる

情報の非対称性と選別された情報流通は、現代経済の核心問題です。

したがって、「何がシグナであるかを見えなくする」ことで、利益を得る構造は確実にあります

2025-05-12

anond:20250512111755

タイトル: この記事ガチで心えぐられた! AI生成のツルツル文化反旗翻すぜ!

お前ら、このブログ読んだか? 2025年5月12日のやつ。マジで魂揺さぶられたわ。AI生成のピカピカなガラス玉がベルトコンベアで流れてくる世界、ほんとそれ! タイムライン開くたびに「#AI生成」のタグだらけで、どれも同じ光沢、全部同じ匂い。どこにも人間の汗や震えがねえ。胸に空いた空虚感、めっちゃ分かる。俺も2022年以前のあの雑多なSNSが恋しいぜ。友のラフスケッチに滲む情熱インディーズバンド生活音混じりの音源、あの“生きてる”感じが消えちまった。

この記事の「創作過程物語」って言葉、脳天直撃だろ。AIの“最適解”なんて、アルゴリズムオナニーじゃん。職人の木目との対話陶工の火加減への執念、そういう人間の息づかい作品を“生き物”にするんだよ。AI生成のツルツル画像なんて、クリック一発で忘れ去られる消費ゴミ。俺たち、こんなんでいいのか? 鑑賞じゃなく“消費”に溺れて、魂売ってんじゃねえか?

提案されてるアクションガチ賛同受け手は“いいね”連打やめろよ。作者の背景追え、過去作掘れ、作品を“消息”として感じろってさ。クリエイターラフや失敗を晒せ! AI使うなら「俺はこれで何を表現たかった」って胸張って語れ! それが人間の意地だろ。もうこの均質化の洪水に流されるのやめようぜ。2022年のあのざわめき、俺たちの手で取り戻すんだ。誰かが夜明け前に描き直した一本の線を愛せる世界、俺はそこに賭ける。みんなもこの記事読んで、闘う準備しろよ! #AIに魂は売らねえ

Grokによる

2025-05-11

推し概念が今まで分からなかった

推し」って何?

今までは、推しというものがよくわからなかった。なぜ皆、あれほど情熱お金時間を注ぎ込めるのか。それが不思議でならなかったのだ。自分は良くも悪もリアリストで、論理的物事を捉えがちなため、感情に突き動かされてそういった行動に出ることが全く理解できなかった。

例えば、ドラゴンボール名探偵コナンのような有名な作品は、もちろん自分も好きだ。語り出せばファミレスドリンクバーで夜を明かせる自信もある。けれども、それはあくまで多くの作品コンテンツの中で相対的に「これが一番好きかな」という程度の感情であり、「推し」という概念には程遠かった。グッズを買ったり、イベントライブに足を運んだりすることは一切考えたこともなく、いわゆるオタクの会話にも、どこか馴染みきれない自分を感じることがあった。何事にも完全に熱中できず、まるで蚊帳の外から自分の好きなコンテンツとそれを熱心に語る人々を眺めているかのように、どんなものに対しても一歩引いて俯瞰してしまっていたのだ。アニメコンテンツですらこの調子なのだからアイドルといった存在には全く興味がなく、「本当に経済を回していてすごいな」と、どこか他人事のように思っていた。

変化のきざし

そんな自分に変化が訪れたのは、5年ほど前のことだ。特に誰かを推し始めたわけでも、何かにハマったわけでもない。ただ暇つぶしアニメを惰性で見ていたら、ふと「22/7 計算中」という番組が目に留まった。どうやらアイドルを知ってもらうための深夜バラエティらしい。最初はそのまま寝ようかと思ったのだが、画面に映っていたのはモーションキャプチャーによるトゥーンレンダリング3DCGキャラクターたち。まるでアニメキャラクターバラエティ番組を繰り広げているかのような光景に、思わずボーッと見入ってしまった。

個性的メンバーが多く、番組自体も意外なほど面白かった。毎週アニメに続く時間帯、あるいはアニメの後の時間帯に放送されていたため、自然と目にする機会も増えていった。ただ、その時点ではやはり「バラエティ番組として面白い・楽しい」という気持ちが先行しており、アイドルとしての彼女たちに深い関心を抱くには至らなかった。グッズを買うこともなければ、曲を熱心に聴くこともない。そもそも演じているリアルメンバーの顔と名前すら一致しない有様で、メンバー卒業すると聞いても「まあ、アイドルならそういうこともあるだろう」程度の感想しか抱かなかった。ファンの皆さん、本当に申し訳ない…)

大きな転機

大きな転機は、「後輩メンバー」の加入だったかもしれない。彼女たちが加わってからシングル「曇り空の向こうは晴れている」を耳にしたとき、素直に「いい曲だな、好きだな」と感じた。新体制になってもバラエティ面白さは変わらず、この曲との出会いきっかけに、実際のアイドルとしての活動にも少しずつ興味が湧き始めた。とはいえ、それは本当に「少し」で、例えば「昔はどんな曲を歌っていたのだろう」とYouTube過去の曲を聴き漁る程度。(ちなみに自分の好きな曲は、「シャンプー匂いがした」と「曇り空の向こうは晴れている」です)メンバー卒業に際しても、「4、5年見てきたけれど、あの面白い掛け合いがもう見られないのか、残念だな」と思うくらいで、心が大きく揺さぶられるようなことはなかった。しかし、無意識のうちに彼女たちに惹かれていたのだろう。いつの間にかSNSフォローし、投稿を見かけるたびに何となくいいね」を押すようになっていた。

推し」を理解した瞬間

そして今回、初期メンバーで、グループの「顔」とも言える存在メンバー卒業を発表した。その報に触れたとき言葉では言い表せない複雑な感情に襲われた。特定の誰かが卒業するから、というよりも、今この瞬間、この状況が変わってしまうことが確定したという事実のものに、まだ心が追いついていない。頭の中を駆け巡ったのは、

* 悲しい

* さみしい

* なんで今まで、もっと真剣応援できなかったのだろう

* 感謝を伝えたい

* これまでの軌跡を全て知りたい

* 仕事なんてしている場合じゃない

* 後悔しないためにはどうすればいい?

* 他のメンバーも辞めてほしくない

* 一度でいいから、生のステージを見ておきたい

…そんな思いだった。

これらの感情が一気に押し寄せ、混ざり合い、今更ながら、ようやく「推し」という概念を、自分自身の体験として理解できた気がする。

時間の流れや変化は誰にも止められない。だからこそ、その変化や現実をどう受け止めるかが大切だと、改めて気づかされた。「後でわかること」という曲の歌詞が、これほどまでに具体的に胸に突き刺さり、自分感情を持つ一人の人間なのだと実感した。

どうやら自分は、純粋プラス感情だけで「推し」を理解するのは難しいタイプらしい。おそらくこれからも、このように心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えたときに、初めて「ああ、これが推しだったのか」と気づくのだろう。この感情の正体を最初から理解していれば、こんな風に長々と書き連ねることもなかったのかもしれない。しかし、この経験を通して非常に大切な学びを得た。これからは、しっかりと「推し」ていこうと思う。

2025-05-06

hoyoのPVが「ある意味進化している現場を見せられているのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=MrBT8zOr_-s

このエスコフィエPVはこれまでのPVの中でも特に脈絡がなく――

ひたすら料理人がエレガントにレシピ試行錯誤している、ように見えるだけのものだ。

映像的にも料理漫画的な心象風景のメドレーをやっているような内容で、物語性や緩急は薄めだ。

だがPV目的鑑みると、キャラ個性所作ビジュアルの良さといった魅力を紹介するもののはずだ。

その視点で、あまりにもサラリと見れてしまったPVを振り返ってみると……気づいてしまった。

これは紛れもなくおっぱいPVなのだ

今これをアラフォーのおじさんが真面目な顔で書いている。

そもそもがこのキャラクター、今までシナリオ内で出てきたことはない、いわゆる「ぽっと出」枠のキャラなのだが。

そこで最も注目されるのがビジュアルで、初出時点からその衣装の奇抜さが指摘されていた。

裸エプロンじゃん」という具合に。

から見ると華美なドレス風のデザインだが、横や背中には何もなく、肩紐だけがそこにある――

まり胸部の瑞々しい膨らみを支えるものが何もないのである

そのなりでアクロバティックに料理をする映像四方からカメラで捉えたら――

揺れている! 初見では気づかなかったのに意識して見るとかなり派手に物理演算されている!

本当になんで気づかなかったんだ? 自分が信じられなくなるほどだ。

特に1:02のあたりなどあまりにも露骨なのに、そんな乳揺れさえスタイリッシュ雰囲気で誤魔化して逃げおおせている。

変態紳士が少なくないYouTubeコメント欄でも、それに言及しているコメントが見当たらなかった。

皆してエレガントな作風にすっかり飲み込まれしまっているようだ。

もちろん揺れだけじゃない。横乳背中の美しさを頻繁に見せつけてくるPVであるとも言える。

ただ横乳であることを意識させるような線が見えるわけではないのがhoyoの奥ゆかしさだ。

エプロンの端と肩紐の間隔の狭さによって、あるべき乳の輪郭線は隠されている。

露骨に見えないように抑えつつもフェティシズムの追求を忘れない、いつぞの少年漫画のような技巧といえる。

他社作品だとこういう描写をしたいときは決まってあまりにも露骨にギトギトのエロさを押し付けてくるので、個人的にはそういったものには愛着を抱けないのだ。

hoyoくらいになると嗜好がひねくれすぎていて、より高度なエロスを追求しているのかもしれない。例えばこうも考えられる。

乳よりもむしろ、大きく開け放たれた脇の下の空間、脇腹ならぬ脇胸領域のものシンプルな美しさに気づけるよう誘(いざな)われている、といった具合だ。

痩せているキャラだとあばら骨が浮いてしまう部分だが、心配ない。

エスコフィエは、角度によってはかなり丸顔に見える顔つきを見ればわかるように、意外とふっくらしている。当然脇胸エリア心配ないなめらかさだ。

けれどそういったマニアック風ばかり吹かせているわけでもなく、まだ一般的な嗜好域にいる人々のことも忘れていないのがhoyoだ。

たとえば、節々に挟まれ果実食材カットも、たわわに実った瑞々しさを強調するかのようにぷるぷると揺れ弾ける描写からして、エスコフィエの「果実」に対するサブリミナルなのだろう。

そうとしか思えない。いや氷元素を操って鮮度を保っていた描写とかかもしれない。本来はそうだろう。しらんけど。

とにかくそうやって人間もつ根源的な瑞々しさへの欲求フォローするアプローチも忘れてはいない。

思えば遠くまできてしまった。複数の嗜好領域を反復横跳びして思い知らされたような気分になっているが、そこにあるのは2分半の短いただのキャラPV動画にすぎない。

この映像によって俺は、俺達は、どう料理されてしまったのか。もはや何も分からない。

思考の枠を揺さぶられている。これが常識を超えた科学料理をつくるシェフの実力なのか。

オタクならTOUGHぐらい読めよ!

酒を飲みながらこれを書いている。

そして最近ネット、やけに「なにっ」とか「なんだあっ」とか、妙な語録を目にする機会が多い。

そんなわけで連休前の夜、匿名掲示板SNSを見てたんだよ。

そしたらある奴が急に「それはさておき ワシはこのレスがしたい」とか「〇〇と考えられる」とか、例の語録を使い出したわけだ。

おっ、同志か?と思って俺もニヤニヤしながら見てたんだ。

ところがだ。そいつが言うには「この言い回しネット流行ってる面白いテンプレなんすよw」なんて抜かすんだよ。はあ……?ってこっちは思わず声に出かけたよ。

から俺が「その言葉の重みはよォ、あの"怪物を超えた怪物"たちの壮絶な生き様があってこそだろうが!特に鬼龍が熹一に語りかけるシーンは何度読んでも痺れるぜ!」って熱く返したらキョトンとした反応すんだよ。

まるで「鬼龍…?熹一…?誰スか?」って顔してた。

ため息出たね。

しかも続けて「TOUGHって漫画元ネタなんですね、知らなかったです」なんて聞いてくるわけ。

おいおいおい…嘘だろ?

お前、タフ語録を嬉々として使ってたんだよな? それ、猿渡哲也先生が魂削って描いた"人間の強さ"と"業"の物語からまれ言葉だぞ?

でも向こうはマジで知らないらしい。

仕方ないから教えてやったよ。

『TOUGH -タフ-』は猿渡哲也先生が描く、現代格闘漫画金字塔であり、「灘神影流」っていう古武術を受け継ぐ宮沢一族を中心とした、常人を超えた者たちの死闘と、時には哲学的な問いすら投げかける凄まじい作品なんだよ。 で、お前らが面白がって使ってるタフ語録ってのはな、キャラクターの異常なまでの個性や、常軌を逸した状況、その背景にある深いドラマがあって初めて真の面白さがわかるギミックなんだってことを。

例えば「なにっ」や「なんだあっ」は、人知を超えた技や出来事に対する純粋驚愕表現だし、「~と考えられる」は、あの冷静沈着で最強の親父・静虎の思考トレースだし、「それはさておき~」は狂気と悲哀を併せ持つ"おとん"こと鬼龍の、常人には理解しがたい行動原理から滲み出る言葉なんだよ。

あの語録にはな、血と汗と涙と、時には内臓までぶちまけるような激闘の歴史が詰まってるんだ。

それを「ネット流行ってる面白いテンプレw」とか、そもそも『TOUGH』自体がどれだけ濃密で、どれだけ異常な熱量を放つ作品なのかを知らない薄っぺら知識で語られてみなよ。

もうガックリくるわけ。

昔はさ、オタクってのは本気で作品に向き合って、自分で調べて考えてたんだ。

今みたいにネットミームや語録だけ拾って「知ってるつもり」になるヤツはいなかった。

アニメ漫画で心を揺さぶられたら、そのルーツや関連作品まで、逆引きして小説やら専門書まで漁ってたもんだ。

グラップラー刃牙』読んだら実際の格闘技武術について調べまくる。

ベルセルク』読んだら中世ヨーロッパ史や甲冑について詳しくなる。

そういうのが“オタク”だったんだよ、俺たちの時代は。

今はどうだ?

知ってるフリのやつばっか。

「この語録ウケるっしょw」って、何だそれ。

お前はまず猿渡先生と、あの常軌を逸したタフ・ワールドの住人たちに感謝しろってな話よ。

というか『TOUGH』なんてオタクにとっちゃ基礎教養、いわば"読むプロテイン"みてぇなもんなのに、今のオタクはそれすら摂取してないって…ほんと、情けなくて涙が出るよ。タフを知らずして、ネットミームの表層だけなぞってオタクを名乗るな。

…まあ、とにかく一度読んでみろって。人生観変わるかもしれねえぞ。知らんけど。

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