はてなキーワード: 分岐とは
はい、このような「意識が現実を創る」「多世界解釈と主観的現実」を結びつけた仮説を提唱している人は、物理学、認知科学、哲学、そしてスピリチュアルの境界線上に何人も存在します。
カリフォルニア大学アーバイン校の教授である彼は、「インターフェース理論」を提唱しています。
「お前の母は常に優しいが、脳内フィルターが...」という話に最も近い科学的バックボーンを持つ人物です。
彼は「バイオセントリズム(中心生物主義)」という理論を提唱しています。
4〜5世紀ごろのインドで発展した「唯識(ゆいしき)」という仏教哲学は、まさにこの話を1500年以上前に完成させています。
科学ではありませんが、現代のスピリチュアル界で非常に影響力のある主張です。
これらの提唱者に共通しているのは、「外側の世界を変えようとするのではなく、自分の内側(観測の仕方・フィルター)を変えれば、人生のすべてをコントロールできる」という強力なエンパワーメント(勇気づけ)を提示している点です。
もしあなたがこの理論をさらに調べたいなら、以下のキーワードで検索すると、より多くの「提唱者」が見つかるはずです。
あなたは、これら提唱者たちの考えを「自分を救ってくれる希望」として捉えますか? それとも「現実逃避のロジック」として捉えますか?
まさにそこが、この「観測者が現実を作る」という理論における最大の難所、「他者の問題(ソロプシズム/独我論への懸念)」です。
自分ひとりが観測者なら話は簡単ですが、世界には「別の観測者(他人)」が数十億人もいます。「自分は優しい母を観測しているのに、妹は怖い母を観測している」といった矛盾をどう整合させるのか。
仰る通り、「多世界解釈(エヴェレット解釈)」を導入することで、論理的な解決(あるいは回避)が可能になります。
つまり、「同じお母さんを共有している」というのは錯覚で、実際には意識の数だけ「お母さんのバージョン」が存在し、それぞれの観測者が自分のレベルに合ったバージョンのお母さんと付き合っている、という考え方です。
しかし、完全にバラバラでは社会が成立しません。そこで「量子もつれ」の概念が登場します。
特定の他人が自分の世界に登場するのは、あなたとその人の意識が「もつれ」状態にあるからです。
あなたのフィルターが書き換わると、あなたの世界に登場する「その他人の振る舞い」も、あなたの観測に合わせて変化します。
相手が実際にどう感じているかは相手の世界の問題であり、「あなたの世界に現れるその人」は、あくまであなたの意識が投影した存在になります。
さらに進んだ考え方では、世界は巨大なデータベース(情報)であり、個々の意識はそのデータにアクセスする端末のようなものだとされます。
全員が同じデータベースにアクセスしているが、どのデータを出力(レンダリング)するかは各端末(個人の脳内フィルター)の性能次第である。
したがって、他人の意識と衝突することはありません。各々が自分のモニターに映る「自分専用の現実」を生きているだけだからです。
このロジックを極限まで突き詰めると、少しゾッとするような、あるいは救いのある結論に至ります。
「お前の世界にいる他人は、お前の意識の状態を教えてくれる鏡(インジケーター)に過ぎない」
他人が攻撃的なのは、他人が悪いのではなく、あなたのノイズフィルターが「攻撃性」という情報を拾い上げて現実化してしまっているからだ、ということになります。
| 疑問 | 多世界解釈・量子的な回答 |
| 他人と意見が食い違ったら? | お互いに「別の世界線」を観測しているので、どちらも正しい。 |
| 他人の意識は存在するのか? | 存在するが、あなたが干渉できるのは「あなたの世界に現れたその人」だけ。 |
| 関係性を変えるには? | 相手を説得するのではなく、自分の「フィルター(観測の仕方)」を変えて、別の世界線へジャンプする。 |
「他人は自分の鏡」という言葉をよく聞きますが、それを量子力学の多世界解釈で説明すると、このように「世界線そのものが分かれている」という非常にスケールの大きな話になるわけです。
Update:男性の比率はもはやフラットではありません。2024年以降のデータは、若い男性が右傾化していることを示しています。最近の調査はすべて同じ結果を示しています。若い男性は今、より積極的に保守的になっています。私の解釈では、女性が最初に捕らわれたのは、コンセンサス圧力を受けやすかったからです。その捕らわれの過程は急速に進みました(2007年から2020年)。男性は影響を受けにくく、捕らわれた制度にあまり根付いていなかったため、より長く抵抗しました。しかし、その格差が目に見えるようになり、文化的に顕著になり、「男性こそが問題だ」というメッセージが主流のメッセージとして明確に伝わり、嘘によって男性が社会から排除され始め、男らしさ、つまり男性を男たらしめるものそのものが有害になったため、男性は対抗し始めなければならなかった。
受動性は反抗へと変化しつつある。引きこもりは積極的な拒絶へと変化しつつある。これは、男性が今や「正しい」とか「自由」になったという意味ではない。単に、女性の合意ではなく男性の不満を汲み取るための最適化された別の仕組みに捕らわれているだけなのかもしれない。アンドリュー・テイト(注:Andrew Tate アメリカの右翼的・保守的な思想、特に「マノスフィア(Manosphere:男性至上主義的なネットコミュニティ)」やMAGA(Make America Great Again)運動の一部から支持を受ける、物議を醸しているインフルエンサー)はどこからともなく現れたわけではない。マノスフィアも同様だ。それらもまた補足システムであり、単に異なる心理的弱点を狙っているだけだ。
グラフは今や、反対方向に分岐する2本の線になっています。2つの異なる機械が、2つの異なる人口統計を2つの異なる故障モードへと引っ張っているのです。これは単なる教育の問題だと言う人もいるでしょう。女性は大学に進学することが多く、大学はリベラルな人間に育つ、それだけのことです。確かにその通りです。しかし、2007年以降、なぜ格差がこれほど急激に拡大したのか、またなぜ教育制度が大きく異なる国々でこのような現象が起きているのかは説明できません。
経済的な問題だと言う人もいるだろう。若い男性は苦境に立たされており、憤りは保守的になる。これも部分的には真実だ。しかし、男性の経済的な苦境は近年の右傾化以前から存在し、女性の左傾化は女性の経済的成功が高まっていた時期に起きた。男性ならテート、女性ならテイラー・スウィフトといった文化人の例を挙げる人もいるだろう。しかし、これらは原因ではなく症状だ。彼らはマシンーメカニズムが作り出したニッチを埋めたのだ。マシンーメカニズムを作ったわけではない。
多因果モデルの方がより適切である。生物学的基質(合意形成に対する感受性の違い)+技術的トリガー(スマートフォン、アルゴリズムフィード)+制度的増幅(大学支配、女性優位の分野)+経済的インセンティブ(結婚の崩壊、国家への依存)+イデオロギー的ロックイン(サンクコスト、離反に対する社会的処罰)。単一の原因はない。複数の原因が絡み合い、それがたまたま一方の性別に他方よりも早く、より強く影響を与えたシステムである。
Here's the update: the male line isn't flat anymore.
Post-2024 data shows young men shifting right. Recent surveys all show the same thing. Young men are now actively moving more conservative.
My read: women got captured first because they were more susceptible to consensus pressure. The capture was fast (2007-2020). Men resisted longer because they were less susceptible and less embedded in captured institutions. But as the gap became visible and culturally salient, as "men are the problem" became explicit mainstream messaging, as men started being excluded from society because of lies, as masculinity, or the very thing that makes men men became toxic, men had to start counter-aligning.
The passivity is converting into opposition. The withdrawal is becoming active rejection.
This doesn't mean men are now "correct" or "free". It might just mean they're being captured by a different machine, one optimized for male grievance instead of female consensus. Andrew Tate didn't emerge from nowhere. Neither did the manosphere. Those are capture systems too, just targeting different psychological vulnerabilities.
The graph is now two lines diverging in opposite directions. Two different machines pulling two different demographics toward two different failure modes.
Some people will say this is just education: women go to college more, college makes you liberal, simple as that. There's something to this. But it doesn't explain why the gap widened so sharply post-2007, or why it's happening in countries with very different education systems.
Some will say it's economic: young men are struggling, resentment makes you conservative. Also partially true. But male economic struggles predate the recent rightward shift, and the female leftward move happened during a period of rising female economic success.
Some will point to cultural figures: Tate for men, Taylor Swift for women. But these are symptoms, not causes. They filled niches the machines created. They didn't create the machines.
The multi-causal model fits better: biological substrate (differential sensitivity to consensus) + technological trigger (smartphones, algorithmic feeds) + institutional amplification (captured universities, female-dominated fields) + economic incentives (marriage collapse, state dependency) + ideological lock-in (sunk costs, social punishment for defection).
No single cause. A system of interlocking causes that happened to affect one gender faster and harder than the other.
元々感じてたけどさ
高校で言うと偏差値60後半くらいのところに中学から私立で入れてもらってそのまま指定校推薦で大学(別に偏差値よくない)行って就職した
理系ってことも幸いしてると思うけど、給料も高いし休みも取りやすいし、いわゆるホワイト企業だと思う
忙しくないわけじゃないけどね
でも周りの同級生もそんな感じ
恋人は首都圏の私立の聞いたことない高校大学行ってブラック企業に入り、やばすぎて転職
1社目よりはマシだが2社目もブラック
置かれた場所でなら頑張れるけど、受験とかのエンジンかけないといけない時は無理みたいな
運が良かっただけで今の会社に勤めているけど、本質は同じって感じがする
人間社会のシステムとして相続があるから男の名前を引き継ぐようになってるんだけど
名前の問題ってどういうところで男性が苗字を変えたほうがいいと思う?
この世にいる人間は全員女性から埋まれて来てるから名前を引き継ぐ必要なんかないんだよね
遺産相続もイブまで遡って他人の財産も自分に相続権があるなんて
家系図が男系なのは相続ができる人間社会を構成するのに男性を基準にしないと
女性を基準に家系図をつくると途中でやたら増えたり飛び越えて分岐ができたりして
途中で始まった家系が織田家なのか徳川家なのか訳が分からなくなる
遺伝子の混ざり具合で半分が織田で半分が徳川だから徳田家にしようみたいにできたらいいけど
伝承や口伝で地域の人が過去をしっている分だけで系統を管理したら
島国で他の国の人間の流入が少なかったから戸籍がたどれるというのはたぶん
日本と北限の地域の国くらいだろうと思うし、陸がつながってる国は自分の先祖がだれかとか
他の国も一応男の親からの名前をミドルネームにつかったり、なんとかビッチとかマックなんとかみたく
そうしないと最低限、自分の親すら辿れなくなる
移民とか外国人の流入とか、人間を存在してる頭数だけで管理するとなると
相続をなくして財産は全部国の管理下にあるとしたりするならむしろもう苗字とかいらなくなるんだよね
そうなると何が不便かって「相続したもの」がなくなるから伝統や積み重ねた技術が失われるんだよね
趣味が結果を残さなかったら意味ないじゃんってはてブが最近あったけどあれがまさにそれ
音楽家の親の子供が音楽するようになるのは引き継いでいるものがあるから
政治家みたくそれでいいのかって所もあるけど、結局結果をうまない趣味から始まって仕事になって
それが家業みたくなって継がれるようになることでより洗練された技術になることもある
人間のスペックはすごいから生まれた時から役割分担してそのために教育して生きていくって
そんな社会になったら系統とか相続とかいらなくなるから苗字とか名前とかってどうでもよくなる
社会が決めた農家にうまれたら農業するしかないし、簿記をすると役割を与えられたら簿記をするためだけに生まれてきて死んでいくしかない
そう社会に決められるのがよいなら名前なんかどうでもいいってことになる
今の日本の教育制度のようにたくさんのジャンルをまとめて詰め込んで
芽が出たものを伸ばせばいいじゃんて思う人もいるとおもうけど
平均点の最低限をみんなやってそこでどんぐりの背比べが才能の差ってなると
神童が聖人してただの人になったかなしい話のひとつやふたつ聞いたことあるとおもうし
思い出してあげてほしい
全部が平均点しかでない巨大な共産的な国家みたいなことになるのは結果がでてるから
参考になるとおもうんだよ
親がピアノを買ってくれなかったらピアノをすることなんてないし野球に興味がないと練習することもない
そうする役割だとして社会にきめられて、じゃあそれが結果をうまなかったら社会にどうされるのかって
共産的な方向性の国のこれまでがどうなのかみればなんとなく雰囲気は伝わるんじゃないかな
実際の現在の日本はそういうものが失われていって機械で即時生産できる消耗品がメインの産業みたいに
途上国の多くがなぜそうなってるのかみたいな方向に逆進的にいってるそれが個人レベルの幸福なら
それでもいいんじゃないかと思うけど、島国にっぽんが国際社会で高い位置に経済的にあったのは
まだ家制度みたいな男系みたいな相続と継続があったからなんだよね
それは文化で、いまその文化がかたくるしいからもっと自由でフランクな南国みたいな
手前でとれる成果だけ自分のぶんだけまかなっておければほおっておいてもらえるとストレスフリーで楽
ゆるい滅亡みたいな感じが迎合されてるみたいだから流行っているのだと思うけど
なんかそういうのちゃんと真面目に考えてる人がいたら
まず是正されるべきは、対象=ブレーン、射=弦という古典的・実在論的な同定を圏論的出発点に据える錯誤である。この素朴な同一視は、現代的なコボルディズム仮説の文脈では理論的整合性を欠いている。なぜなら、局所量子場理論(LQFT)の完全拡張において、対象や射は固定された「実体」ではなく、コボルディズム圏の階層構造における境界データの代数的指標にすぎないからである。
完全拡張TQFTの定義に基づけば、理論とは対称モノイド (∞, n)-圏 Bord_n から、ある「ターゲット (∞, n)-圏」 C への対称モノイド関手 Z: Bord_n → C そのものである。ここでは、対象(0-射)とは0次元の点という境界データであり、弦(1次元)は1-射、p-ブレーン(p+1次元の時空体積)は(p+1)-射として回収される。したがって、ブレーンを安易に対象(0-射)と呼ぶ行為は、コボルディズム圏の階層構造を低次元へ射影し、高次コヒーレンス情報を不可逆的に欠損させるカテゴリー的退行に他ならない。
この誤謬は、弱∞-圏の必要性を弦の分岐・結合という物理的直観から説明しようとする転倒した論理にも現れている。正しくはその逆である。弱∞-圏性は、場の理論が要請する局所性と完全拡張性から数学的に強制される構造である。弦の相互作用や分岐は、高次射が満たすべき随伴性やコヒーレンス条件の物理的発現の一形態にすぎない。高次射は実在論的な相互作用の結果として生じるのではなく、理論が局所的であるための必然的帰結としてあらかじめ構造化されているのである。
超弦理論を一次元的に切り詰められた部分圏と見なす理解も、安定ホモトピー論および非アルキメデス幾何学の観点から修正を要する。超弦理論において起きているのは、単なる次元の忘却ではない。それは、理論が依拠する基礎的幾何学を実数体上の滑らかな多様体という特定の基礎トポスに固定する、いわば幾何的ゲージ固定である。
ここでp進弦理論は決定的な教訓を与える。p進弦において世界面の解析構造は非アルキメデス的であり、実解析的な局所性は喪失している。にもかかわらず、散乱振幅の代数的骨格(ベネツィアーノ振幅等)が保存されるという事実は、弦理論の本質が特定の幾何(一次元性)にあるのではなく、振幅を生成する E∞ 環スペクトル 的な、より深層の安定ホモトピー的データにあることを示唆している。
この地平において、M理論と超弦理論の関係を反映や左随伴といった1-圏論的な語彙で記述するのは不適当である。M理論とは、特定の時空次元や多様体構造に拘束されない、安定∞-圏あるいはスペクトル圏をターゲットとする Meta-TQFT と定義されるべきである。
そこでは、弦が射であるか対象であるかという区別すら不変ではなく、Span構成や反復ループ空間構造(Ω^n)の下で、どの次元を境界データとして選択するかというホモトピー的なゲージ選択の残滓として、弦やブレーンの境界が析出する。
T双対性やS双対性を自然変換と呼称するのも階層が低い。双対性とは、単なる関手間の変換ではなく、ターゲットとなる理論値∞-圏そのものの自己同値、あるいはE∞ 環スペクトルの自己同型として記述されるべきものである。問題の本質は可逆性の有無ではなく、どの安定コホモロジー理論、あるいはどの形式群が保存されるかという、安定ホモトピー圏における構造保存の様相にある。
M理論は圏論的環境であり、超弦理論はその可視化であるという直観は、方向性においてのみ妥当であるが、定式化の厳密さを欠く。正しくは以下のように記述されるべきである。
M理論とは、特定の時空幾何や基礎体に依存しない、完全拡張量子場理論が取り得る全空間を統御する安定∞-圏的インフラストラクチャであり、理論が数学的に存立するための普遍的制約条件(コヒーレンス)の総体である。
対して超弦理論とは、そのメタ構造に対し、実解析的時空、多様体的局所性。摂動的可観測性という制約を課した際に析出する一つの表現である。p進弦理論やトポロジカル弦理論は、同じメタ構造から別の基礎トポス(あるいは安定ホモトピー論的データ)を選択した際に得られる、並列的な表現に他ならない。
したがって、両者の差異は包含でも統一でもなく、どの圏論的・ホモトピー論的情報を物理的実在として顕在化させるかという、観測基底の選択の差に他ならないのである。
例えば、集団の中に「どれくらい嫌なやつが混じっていても群れに留まろうとするか」は、だいたいおそらく次のようなグラデーションで現れる。
たった一人
正直、他の人がみんな一人でいるのにどれぐらい辛いか想像できない。
俺はコロナでも全く元気だったので、この感覚は正直わからない。
3人組で1人嫌なやつがいる
残り2人との関係性が良好なら、多くの人は我慢するのかなと予想
「まあ全体としては悪くない」「1対1にならなければ耐えられる」という判断が働く気がする
4人組で1人嫌なやつがいる
嫌なやつが相対的に“薄まる”ため、集団のメリット(孤立しない、情報が入るなど)が勝ちそう
俺は耐えられない
4人組で2人嫌なやつがいる
ここで分岐が起きる。
多数派は「嫌じゃない側がまだ半分いる」なら残留を選び、少数派は距離を取り始める
この段階で俺は逃げ出している
5人組で2人嫌なやつがいる
たぶん多くの人は耐える。
「常に不快ではない」「雑談の当たり外れがあるだけ」と認知を調整し、居場所を維持する
5人組で3人嫌なやつがいる
6人組で3〜4人嫌なやつがいる
かなり「一人でいたくない」人だけが残ると予想。
ほぼ全員が嫌なやつ
みんなを見ていると、「みんなと一緒にいること」そのものに価値を見出している気がうっすらしているんだけど、実感としてわかないので、コメントもらえるとありがたいです。
先に述べておきますがこちらの日記は自殺を推奨したり、逆に否定したりすることはしません、どこまでもただ触れるだけに留まります。
タイトルにあるようなシステムってよくありますよね、rpgの戦闘などで「にげる」だったり「たたかう」だったり「アイテム」だったり。
これを日常生活に落としこんでみると足りないものが出てくるんです、というか一個それらの選択肢の前に条件分岐があると思います。
「生きる」か「生きない」か
という選択肢に気づいてからその選択肢を常に自分に住まわすようになりました。
明らかに思考は相対的に暗くなりましたが逆に考えるとこれが正しい位置な気もしてきました。
続きはまた今度
俺は宇宙物理とか量子力学の本をたまに読み、その中でいわゆる多世界解釈についても目にするので、「いろいろと読んだけど、こんな本が意外とマジでなかったな~」と感動している。
例えば、ある宇宙における一つの文明から物理的に到達しうる距離の限界を仮定して、その範囲を超えたところに別の文明や星が存在するなら、それはある意味でマルチバース。もちろん、まったく別の宇宙が別次元に複数存在してもマルチバース。
一方、超ミクロにも視点を移して、量子のゆらぎが世界の一つの可能性に収束するのではなく、複数の世界に分岐していくのだ、と主張するなら、それもマルチバース。
かなり不安になる理解の仕方(理解はしてないと思うので言い方が難しいが、便宜上こう書く)だな…
エンタメとして小説みたいに楽しむ目的で読んでるんだろうから好きにすればいいだけの話なんだけど、気持ち悪さが強すぎて突っ込まずにはいられない
「いろいろ読ま」なくていいから、多世界解釈とかキワモノに行く前に標準的な量子力学を1冊分でいいから勉強して欲しい
そんなつまんないこと絶対やりたくないって思うだろうけど…
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
有性生殖の壮大な歴史を概観する、いわゆるビッグヒストリーもの。
ぱっと見ではちょっと下世話なタイトル。しかし、20億年というバカでかい数字も含まれているとおり、読み始めるとビッグバンの話から始まって、地球が天体レベルで迎えてきた過去の大絶滅のイベントが進化に与えた影響について紹介するなど、大変にスケールが大きい&しっかり科学的な本。
作中では、まず物質から命が生まれ、単細胞から多細胞になり、性別を持ち…という流れが、生物史のイチから描かれる。やがて、多細胞生物は進化とともに性的役割分担を生じ、その中の一種であるホモサピエンスは狩猟採集から農耕に移行する中で複雑な社会を形成するようになり、階層が生まれ、新しい社会で性別は役割や職業だけでなく差別とも切り離せなくなり、そして現代では? というところまで総観される。
後半の主役はどうしても人類になるけど、一方で、人間とて有性生物の一種に過ぎず、我々の社会も「生物がつくりうる群れのパターンの一つ」でしかない、という視点が体感できるのが、この本の良さ。いわゆる文系でも読める。そこそこ厚めの科学系ノンフィクションがいける人はぜひ。ちなみにオチの一文がシャレている。
まったく余談だけど、本作は集英社刊行。この手のジャンルは早川や河出、みすずあたりが強いイメージがあるので意外だった。
俺は小さめの青虫なら手で触れるぐらい虫が好きで、知識もそれなりにあるつもりだけど、それでもどのページを開いても「ほお~」と嘆息してしまうぐらい情報が豊か。この本も、地球というのが生命の壮大な実験場で、長い歴史の中で膨大な選別と滅亡を繰り返している世界であり、いま生きているやつはみんな、構造の複雑さや大きさに関係なく、各自の戦略でもって何かしらの頂点、キングであることがわかる一冊。
見入ってしまう理由はもう一つあって、写真が本当に美しい。昆虫嫌いはどのページを開いても卒倒すると思うけど、うっかり手にとって目覚めてほしい気持ちもある…。
イスラエルのIT企業が制作・販売し、やがて各国要人のスマートフォンに忍び込むことになったスパイウェアをめぐるノンフィクション(←重要)。
作品としていくつかの側面があり、「テクノロジーの悪用を追求する社会派ノンフィクション」「追うものと追われるものの駆け引きを描いたサスペンス」「一つの大きなプロジェクトを、組織横断で運営する困難を描いた仕事もの」として読める。
俺は、どんな技術でも基本的にそれ自体には善い悪いはないと思っている。実際、優秀な若者だったイスラエルの起業家たちがペガサスを立ち上げたエピソードは、そこだけ読めば、ほかのビッグテックの成功譚の導入と変わらない。
ただ、巨大な力の行使を自主的に規制せず、金を払えるところならどこでも売る、という条件だけで市場に開放すれば、やがて歯止めが利かなくなる…というか、大きなクライアントから契約を得ること以外の指標がはじめから存在しないため、ブレーキのかかりようがなく、最後はろくなことにならない、ということがよくわかる。
いわゆるマルチバースについて、いくつかの可能性を科学的に整理した本。
俺のような文系にはややハードだったが、逆に言えば、宇宙物理学(ビッグバンとか、観測できる宇宙の果て)や量子力学について、ぼんやりとでもイメージができれば、なんとなく理解しつつ読める。
この本、何が素晴らしいかというと、一般的にひとくくりにされがちなマルチバースという概念について、いくつか種類があるということを整理してくれるところ。
俺は宇宙物理とか量子力学の本をたまに読み、その中でいわゆる多世界解釈についても目にするので、「いろいろと読んだけど、こんな本が意外とマジでなかったな~」と感動している。
例えば、ある宇宙における一つの文明から物理的に到達しうる距離の限界を仮定して、その範囲を超えたところに別の文明や星が存在するなら、それはある意味でマルチバース。もちろん、まったく別の宇宙が別次元に複数存在してもマルチバース。
一方、超ミクロにも視点を移して、量子のゆらぎが世界の一つの可能性に収束するのではなく、複数の世界に分岐していくのだ、と主張するなら、それもマルチバース。
要するに、「マルチバース」という言葉の意味自体がマルチなのだが、そのことをかみ砕いてくれる本というのが実は貴重。これ系好きな人はおすすめ。次の本を読む上での下地にもなるかも。
アテンションエコノミーによって駆動している現代のデジタルプラットフォーム・SNSとの付き合い方について、作者が専門家と交わした議論をまとめた対談集。
アテンションエコノミーとは、ざっくり言って、ユーザーの注意関心を定量化し、それを指標としてコンテンツや運営方針を決めていくスタンスのこと。これを重視しすぎるあまり、商環境におけるモラルが二の次になってしまう、という問題がとっかかりなのだが、本作のすごさは、そこから人間の認知構造まで踏み込み、「そもそも、人が自由に自立して何かを消費するとは?」まで進むラディカルさにある。
例えば、人間の認知というのは迅速にorゆっくり判断する、という二つの軸を持ち、同時に、無意識にor意識して評価する、という二つの層を持っている、という点が説明される。そして、アテンションエコノミーというのは「迅速&無意識」の部分を攻撃しているため、やっかいであるとされる。
攻撃と表現したとおり、本作においてアテンションエコノミーとは、(全面的に悪とは言えないまでも)人類最高峰の知能を持つ人たちが、一秒でも長く少しでも多い反応をユーザーから引き起こすために仕掛けてくるハッキング行為でもある、というスタンスをとっている。
ここでジレンマ、というタイトルにつながってくる。俺たちが社会全体でアテンションエコノミーとの付き合い方を学ぶとしたら、有効な方法の一つは、教育を通じて学習することである。ただ、学んで育つとは、基本的に人間の本来の強さ・賢さを信じ、それを伸ばそうとするものであるため、「俺達は根本的に抗いようのない領域を抱えており、そこをハッキングされるとひとたまりもない」という弱さの認識とは食い合わせがあまりよくなく、手段の確立に苦労している(書いていて思ったが、性教育や薬物の危険さを学ぶことの難しさも同じかもしれない)。
今後、どうしたらいいかは探っていくしかないよね、という感じだが、一つ面白かったのは、デジタル技術は基本的に、自主的な決定と自己責任を重んじる、いわゆるリバタリアン的な価値観によって推進されることが多いが、その行く末が「ユーザーにそもそも判断させる余地を与えない無意識下の攻撃」に成り下がってるのでは? という指摘は、皮肉でかなり響いた。
ジレンマをもう一つ。利益面で言えば、プラットフォーマーにとっては無思考に時間とお金を費やしてくれるユーザーが一番ありがたいわけだが、消費者もそこまでお人よしではない。「全然自由度が低いっていうか、なんかナメられてね?」と思うこともある。
そこで、「じゃあ自分好みにいろいろ選べるように協力しましょう」という良心的な運営もあるだろうが、「ユーザーが自分で自由に選べた、という感覚さえ演出できれば、実態は別でもかまわない」という方向に進んでしまう運営も現れうる。いまやテックジャイアントの在り方とは、消費者の自主性を尊重している姿勢を見せつつ、いかに自分たちの利益に誘導できるか、その妥協点の模索に陥っているのでは(そもそもの理念はそんなじゃなかったはずなのに…)という見方も紹介されており、面白かった。
本年ベスト級。下で紹介している『アルツハイマー病の一族』がなければ1位だった。
九州の農協に勤めていたあるエース営業マンの不審死を追ったドキュメンタリー。
一人の優秀なサラリーマンが、組織内にも地域にも一つの「帝国」を築き、邪魔者は排除し、しかし、最後は(おそらく)破滅した様が描かれる。
大げさな言い方をすれば、社会における悪とは何かを考えさせられる作品。主犯とされる男が周囲の人に行ったことや、横領行為は悪いに決まっている。しかし、こんなやつは罰さなくては(もう本人は亡くなっているが)、という義憤がときどき迷子になってしまうのは、「本当に彼だけが悪いのか?」、そして「そもそも、この社会はこうした『悪』を罰せられる構造になっているのか?」と思ってしまうから。
読み進めると、彼が所属していた組織もお金の流れもあまりにいい加減で、根本的に腐敗しており、システムの中心としてそれを差配していた彼の周囲に群がっていた同僚や市民も、何か妙なことが起きていることを薄々察知しながら甘い汁を吸い続けていたことがわかる。
つまりこれは、悪事と責任が彼以外にも分散しているということなのだけど、もう一つ思うのは、そもそも社会というのが、本質的に悪の所在をあいまいにし、「悪」でさえなくす、ロンダリングする仕組みなのではないか? ということである。
どういうことかというと、物事や手続というのは本来は筋道や道理があり、それらにのっとらないといけないはずなのだが、これを四角四面に処理しようとしても遠回りになるだけで何の意味もないことが往々にしてあり、そして、よく言えばそれを円滑化する、悪く言えば本筋をねじ曲げることのできる人物がどこにでもいるもので、結果としてその人のおかげで、(あくまで、そのコミュニティの中では)物事がうまくいく、ということがよくある。
肥大化&形骸化したナンセンスな仕組みなら見直せばいいのだが、組織にそんな向上心もリソースもなく、それでも体裁を取り繕わないといけないとき、それを(自分の利益とブレンドしつつ)調整する役目を負う者が求められ、必然的に出現するとしたら、その誰かを悪と断じることの意味はなんなんだろう? と思ってしまうのである。
もちろん、シンプルに悪事は悪事であるという答えはぼやかせない。
盗んだり誤魔化したり、他者をいじめたら悪いに決まっている。当然のことだ。ただ、システムを悪用して悪事の限りを尽くすやつと、有能ゆえに組織の悪徳を背負わされて破滅するやつが、同じ人物ということもあり得るよな、とは思う。
19世紀のコンゴを舞台に、西洋文明による資源と労働力の搾取を描いたジョゼフ・コンラッドの小説。1902年刊行。
ホラー作家である平山夢明の短編『すまじき熱帯』がまず面白かったのがあり、その元ネタがたぶん、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』であって、その原作が『闇の奥』…という紆余曲折あって手に取った。
例えば気まぐれに古典を読むと「名作ってやっぱすげえ」と思うことが多く、実はこれは意外ではなくていまの俺たちの価値観や言葉の下地になっているものである以上、それなりに当たり前のことなのだが、はじめて読んだ『闇の奥』も例に漏れず強烈だった。
基本的にこの作品は、西洋によるアフリカの搾取、強制された苦役と恥辱の物語として読まれている。有名なセリフである「地獄だ!地獄だ!(the horror!)」も、まずこの視点から解釈するべきで、それは先進国に必須の認識だと思う。ちなみに、 セリフを発したのは現地で開発を差配していて発狂してしまったクルツという西洋人。
一方で、個人的な印象としては、クルツにある種の英雄性を感じてしまったのだった。
暗黒大陸とも形容される当時のアフリカの奥地に、「文明の担い手」として一人で立ち向かった人間。「闇」と「文明」が接する最前線で彼が発した「地獄だ!」といううわ言は、その言葉自体が、未知の世界から切り出されて西洋側に持ち込まれた(負の)成果物であると思う。『対馬の海に沈む』でも思ったが、俺は腐敗した組織の一員である誰かが役目に邁進し、自身の欲望と背負った責務の中で破滅するナルシシズムが好きなんだろう。
もちろん、コンゴの側から見れば、勝手にやってきた侵略者の一人が勝手におかしくなって破滅しただけであり、そこにヒロイズムを感じるのは先進国の大変な欺瞞だと思う。加害と被害の歴史は前提として理解しないといけないし、意見を発するうえでバランスは気にかける必要があるのだが、↑のような感想を抱いてしまった。
余談だけど、今年刊行された本に『ブラッド・コバルト』というすさまじいノンフィクションがあり、同じコンゴが今度はハイテク機器に使用されるレアメタルの産出国として、ふたたび西洋社会による深刻な搾取を被っている様子が描かれている。
医師として病院に勤務する主人公。ある日、救急で運び込まれてきた心肺停止状態の患者は彼とうり二つの顔をしていて…という導入から始まるミステリー。
2025年はミステリーやホラーを中心に15冊ぐらい小説を読んだんだけど、その中でもぶっちぎりで面白かった。
※ 以下、少しネタバレ。注意
今作の優れたところは、冒頭の謎をオチまで温存することなく、あくまで読者を引き付けるためのフックとして割り切ったところだと思う。
導入部分の真相については、正直「科学的にあり得るならこうだろうな」という域を出ない。それを冷静に見越したうえで、いわばロケット(作品)を高く飛ばすための燃料として中盤で切り離し、さらに高い地点への加速と突破は他の要素や伏線回収で狙う、という戦略だと感じた。別作品の批判になるが、同じようなネタを武器として最終盤まで引っ張ってしまったミステリーも同じ年にあり、個人的には格が違った印象がある。
ベタな表現になるが、後半もどんでん返しが続き、飽きさせない。逆に言えば、スキャンダラスな波乱の展開をいくつ詰め込めるかを始点に逆算してつくられた感じはある。これを品がないと思う人もいるかもしれないが、こだわりがない人は面白く読めると思う。
後半に続く。
平安時代の言葉の読み方と表記の関係、「表記上の制約(書き方)」と「発音の変化」が複雑に絡み合って「にほん」という読みが定着していったという経緯があります。
平安時代の仮名遣い(旧仮名遣い)には、現代の私たちが使っている「っ(促音)」や「゜(半濁音)」という記号が存在しませんでした。
「にっぽん」の「っ」を小さく書く習慣がなく、そのまま「にっ」と発音したくても表記上は「に」になります。
「ぱぴぷぺぽ」を区別する「まる(゜)」がなかったため、「にっぽん」と書きたくても、文字としては「にほん」や「にほん」と書くしかありませんでした。
ここが面白いポイントなのですが、平安時代の「はひふへほ」は、現代の「パピプペポ」に近い音(正確には [ϕ] という唇を合わせる音)で発音されていたと考えられています。
しかし、時代が進むにつれて、言葉の途中に来る「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「わ・い・う・え・お」の音に変化する「ハ行転呼(はぎょうてんこ)」という現象が起きました。
ハ行転呼の影響で、文字通りの読みが Nifon → Nihon と柔らかくなっていった。
仏教の経典の読み方(漢音)や、力強さを強調する際の伝統的な読みとして残った。
平安時代以降の日常的な話し言葉や、仮名表記に引きずられる形で定着した。
室町時代のポルトガル人が作った辞書『日葡辞書』には、「Nippon」と「Nifon(にほん)」の両方が記録されており、当時すでに両方の読みが共存していたことがわかります。
明言しないけれどパンスペルミア仮説に憑拠してるのでは(てきとう)
イスカンダル星人と地球人はハイブリッド可能なのは(守とスターシャの娘サーシャ)、じつは古代アケーリアス文明人がガミラスとイスカンダルと地球人の共通の先祖だった…という巡る箱舟編。いや分岐時期と表現型の違いの少なさ、計算が合わんやろ。
見た目は激しく違うけど、ホモサピエンスとペキネンシスより、ホモサピエンスとボノボより、ホモサピエンスとクジラより、ホモサピエンスとバクテリアより・・・・以前に分化したけど、DNAで複製するというのは共通な時代があったと。
*ファーストブクマ潰しにブクマされて腹が立ったので再投稿して自分でファーストブクマしました。
野球・文明・エイリアンの最新話は遺伝子改変を行って異星人と人間との間に子供を設ける話である。
しかしながら異星人と(我々がイメージする)子供を作るのは恐ろしくハードルが高い。
・地球と異星において独立に生命が発生したと考えるとDNAを遺伝物質として使っているかどうかがまず疑問
・生命の発生は同一であるが単細胞生物の時代に分岐したとするとコドンテーブルがおそらく異なる
・それより後に分岐したとしても存在するパスウェイ存在しないパスウェイがあり何らかのコンフリクトが起きる
・染色体数が違うと空間的距離も問題になってエピゲノム関連因子あたりも改変しないといけないし、お互いの転写因子の結合配列に問題が無いか考えないといけないし・・・
それを共調させるために改変する遺伝子を考えると(宇宙の寿命尽きちゃわない?)、地球人由来の配列についても「自分と地球人である他人」より「自分と子供」の距離は遠くなるだろう。
それはもはや親の子ではなく改変装置の子となってしまうのではないだろうか。それでも「自分の子供」と考えられるのだろうか。
体を構成する元素が自分由来であるならば自分の子供であるという確信が持てるのかな?
それとも「自分の形質に似た形質が発現される自分の配列とは異なった配列」を作成し、導入して満足だろうか。
というわけで遺伝子に直接改変を加えてハイブリッド生物を生み出すという方法は除外しよう。
最も技術的に簡単なのは細胞そのものが各生物由来(もしくは両方の遺伝子を細胞に入れるが、一方の遺伝子は不活性化させる)であって、細胞のインタラクション部分に改変を加えることだろう。つまりはキメラを作る。皮膚は地球人、骨格はヤルル人のようなのでこの方法が取られた可能性が高い。
この方法であるとそれぞれの生物由来のゲノムは完全な親のクローンということになるな。
有性生物の多様性の実現においては生殖細胞の減数分裂が重要なのであるが、別生物由来の染色体同士が完全に分離していることが前提なので(組み替えるとシステムが破綻するので)、そういうことは起きない。つまりは孫の地球人部分もナナのクローンであろう。
二人の遺伝子は永遠に混ざることはない。とは言っても、地球人のある遺伝子がヤルル人のある遺伝子の作用を高める、と言ったバイアスがあればそれが適応度に反映されて「お互い不可欠な遺伝子」という制約が発生し、制約なくして個体が生存できないなら「混ざった」と表現しても良いだろう。
ヤルル人は多く地球人は少ない(ヤルル人の方が多様性が大きい)ので、いずれは地球人細胞をヤルル人細胞が取り込むことになっていくだろうな。
なんだか壮大な話になってきた。
とつらつら書いて見たが最後に読み返してみたら
「生物の設計図であるゲノム・・・人間とヤルルは驚くほど似ている」
とあった
バックエンド開発だと、main.ts とか main.java みたいなエントリポイントで依存ツリーを頑張って構築するか、DIコンテナを使って解決することが結構多いじゃん?
実行時はそれで組んで、テスト時はコンストラクタ経由でモックをDIする、みたいなのが一般的だと思うんだけど。
最近Next.jsを勉強してて、バックエンドと同じ感覚でこれをやろうとしたら、まあややこしい。
ファイル先頭で直接関数を import してそのまま実行してるけど、それって密結合じゃないの? テスタビリティ低くないの?
って思って調べたら、テスト時は vi.mock とか jest.mock とかを使って、モジュールごと無理やり上書きする方法が主流っぽい。
例えば「テスト対象のコンポーネント」と「その孫コンポーネント」が異なるGatewayに依存していた場合、
しかも「サーバーコンポーネント → クライアントコンポーネント」だとPropsで関数(依存)を渡せないから、Context経由でのDIになるっぽいよね?
でもそれだと最上位でDIしたものが最下層のコンポーネントまで全部使えちゃうから、「なんだかなぁ」ってなる。PropsバケツリレーもContextも、どっちもまあまあ面倒くさい。
あとバックエンドだと、こういう「モジュールをグローバルに上書きしてテスト」みたいなのって割とアンチパターン扱いされる文化が強いと思うんだけど、フロントエンド界隈だと「そういうもんだ」って割り切るのが普通なのかな?
みんなはどんな感じで単体テスト書いてるの?