はてなキーワード: 一見とは
まず、タイトルの内容について訂正がある。
「ともだち」ではなく「悪しからず思っていたが友人を名乗るにはいまいち交流が足りない他人」、「全ア」ではなく「初めての彼氏に浮かれてTPOをわきまえず痛いイチャつき方をしてしまう女オタク」である。あの子は私に何か思うところがあるわけでもないし、エッセイ漫画を描いているわけでもない。「ともだち」の痛々しさを記している増田ではなく、自身の見苦しさを書いた日記であることを事前にばらしておく。
スペックをうpという心づもりで、私とあの子とあの子の彼氏について。
まず、私と彼らは勉学真っ盛りといった様子の冬の高校3年生だ。私についての説明は以下に書くことで伝わると思ったので省略する。
あの子は美術部の同期だ。とても可愛い子だと思っていたが、彼氏ができてからは私の見る目が変わってしまい、魚のような口もエラの張った輪郭も垢抜けない制服のアレンジもどうにも受け付けない。ただ、絵が年齢に見合わないほど上手で、声が愛くるしいことだけは認めるしかなかった。
あの子の彼氏は、この先一生磨かれないであろう原石とでもいうような顔つきで、清潔感は感じないが不細工と切り捨てるにも難しい容姿だった。それよりも中身が気色悪い男で、学タブで前のめりになりながらアイド◯マスターの曲を聞き、鼻息荒く女の肋骨で大根をすりおろすゲームに勤しむ、常識の欠落したポルノ中毒(こいつの上着のポケットからは際どいBLの文庫本が出てくる)のオタク男だった。そんなオタク女とオタク男が付き合った。まぁ納得である。
もちろん私に友人らしい友人はいない。私は女版チー牛というか、ほんの少し言葉を交わした全ての人に恋lv.1みたいな感情を抱いてしまうので、あの子に彼氏ができたと気づいた時はショックだった。唯一の友達候補を嫌いな男に取られたことも、当たり前だが私になんの報告もなかったということも私の心に影を落とした。ただ、これはBSSの一言で片付くような苦悩ではなかった。
一ヶ月前、あの子と彼氏の距離感が急に縮まった。一線を超えでもしたんだろう。あの子が廊下で男と話しているだけでも頭を掻きむしって逃げたくなるというのに、同じ教室で休み時間のたびにバックハグだとか見つめ合って指を絡ませるだとかのハレンチな行為をされてはたまったものではない。あまりに恥ずかしげもなく毎日のように学校デートをするさまは、もちろんのことクラスで浮き、大っぴらに悪口を言うものはいないが誰しも彼らから目を逸らすようになった。元から誰と付き合っているわけでもないのに、1年間半保健室登校をやっていたというだけで誰しもから目を逸らされている私はいっそう苦しくなった。クラスメイトにカテゴライズさせると、私は彼らと同じ枠なのである。たまったものではない。
彼らのイチャつきが激化してしばらくした頃、くじ引き式の席替えがあった。ご想像のとおり彼らは隣同士の席を手に入れ、私はそのすぐ後ろに配置された。今日も男があの子の腹を揉んだ手からプリントを受け取っている。男があの子を膝に乗せているのを目に入れたくなくてうつ伏せで寝たふりを決め込んだところで、摂取しなくては摂取しなくてはと宣いあの子の頭皮の匂いを嗅ぐ男と、きゃあと笑うあの子の声は耳に入ってくる。ああっあっあっと絶頂するかのような声をあげて男が彼女のストールを嗅いでいる。同じひざ掛けにくるまって左右に揺れている。あの子の前歯が飛び出た口に手荒れした指で触れている。私が一体何をしたというのか。あまりにグロテスクだ。
絵に真摯に向き合いコンクールにも優勝する、誰より尊敬していて友達になりたかったあの子が、品性下劣な男に巻き込まれて鼻つまみ物にされるのが耐えられないといえば一見まともらしい。しかしそれ以上に嫌悪と嫉妬が勝り、行動に結びつかない物騒な単語が脳裏によぎることが増えた。保健室登校時代もこんな精神状態をしていた。確かに私の精神は参っていたが、前の席のバカップルが痛くて見苦しいので学校を休ませてくださいなどと言えるはずもなく、帰りのSHが終わったら真っ先にカバンを引っ掴んで早歩きで家に帰ることしかできない。
帰宅して空気の籠もった子供部屋に転がり込んだあとは、ハードな同人音声を求めて浪費を続けた。18歳になったばかりだが、私もポルノ中毒に違いなかった。
X(旧Twitter)を眺めてたら、「蛍光灯が2027年に生産終了!LED照明に移行しましょう」といったWeb記事を貼り付けて、「地獄の始まりだ」とコメントを付記しているツイートが流れてきた。
一見して何が地獄なのか意味不明だったのでツリーを掘っていくと、要するに「LEDは目に悪いというのに、今後照明は全てLEDに置き換わっていくのでもうこの世の終わりだよ」という主張のようだ。
もっと言えば、蛍光灯の製造販売の禁止は条約で定められたことなので、LED置換の流れは世界が強制していることになる。
あぁ、やっぱり陰謀論か。
と切って捨てることが出来ず、むしろこの陰謀論は初めて触れて妙に面白いと感じてしまったので少し調べることにした。
そもそもLEDが目に悪いという言説自体、増田は聞いたことが無かったのだが、どうもLEDというよりLEDの発するブルーライトが健康リスクなのだ、ということらしい。
ブルーライトは知っている。スマホが急速に普及し始めた時期に結構騒がれた事を覚えている。
じゃあブルーライトは目に悪いのか、となる。論文を参照する能は増田には無いので、ネットで軽く検索を掛けると、一応そういう研究はあるらしい。
らしいのだが、どうも根拠が薄い。あくまで動物実験で、20~30時間直接網膜に照射してダメージありました!程度の話で、じゃあ人間ではどのくらい影響があるのか、そもそもそこまで極端に目に入ってこないだろとか、いろいろ言いたくなる。
先述した通りブルーライト自体は騒がれてから久しく、人類は何十年もテレビ・パソコン・スマホ等で散々浴びてきたように思うが、ブルーライトに起因する有意な健康被害の報告は見たことが無い。
じゃあ蛍光灯はブルーライト出してないのかと思い返せば、当然出しているわけで。
これもネットで少し検索すれば蛍光灯とLED照明のブルーライトを比較したサイトがたくさん出てくるが、有意な差はないどころか蛍光灯の方が強いまである。
テレビやスマホに対する有機ELも同じような検証がされていて、これも同じような結論である。
このあたりの検証報告は結構豊富に見つかり、ブルーライト界隈では以前から騒がれてて既に否定されていることも見て取れた。
世界の陰謀に行き着く前に、その前提となるLEDは良くない論が破綻してしまった。
増田はこの陰謀論に満足している。陰謀論を通してブルーライトについて少し詳しくなったからだ。
調べる前はなんとなく目には良くないけどまぁ気にするほどではないのかなと思っていたが、実際気にするレベルではないことが分かった。
目の強度は正直個人差があるので、一概に無防備で良いだろとは言わないが、増田は生まれつき目が強いようなので気にしないことにした。
目への影響とは別に、ブルーライトは体内時計を狂わせるのでそれが良くないという研究結果があることも知った。
だから寝る前のスマホはやめましょうと言われてるのだが、増田はその生活を10年以上続けていて困っていないのでやっぱり気にしない。
これで話が終わればいいのだが、本当にこれで陰謀論が否定できたかと言えば、全然そうではないというのが陰謀論もといデマの怖いところなんだよな。
陰謀論を主張する者も、それを否定する者も、いくら根拠を並べ立てても、各々が都合良く情報の取捨選択をしてしまうのでお互いの溝は埋まらない。
100年後、実は長年のブルーライトの過剰摂取により人類のDNAが不可逆的で致命的な損傷を受けて変異してしまいました、となる世界線を主張されたら、それを完全に否定する術も人類は持ち合わせていないし、未来になって初めて分かることは今誰にも分からない。
わかってないなあ
一見世間からは正常の範囲内や有能っていう評価のある男が無能や考えたらずで女性が雑に死ぬ。その方がリアリティあっていいんだよ
男が女救う展開の方が「そんなん嘘やん」と思う女は多いはず
現実でも有名な男のすることは性加害のスキャンダルばっか。世間で高評価の男がするのは女への攻撃ばかり
強い男キャラが格好良く女救うの見てると「嘘つけや」「格好つけてんじゃねーぞ」って思う
実際に創作の男ヒーローを見て「男は女より優れてる」ってマウント取ってくる男に嫌な想いさせられた女がそのファン層なんやでな
もう創作で男が女を救うっていう嘘は求められてないんやわ
功利主義という言葉がある。どんな主義かというと、「全人類の幸福を全て足し合わせた総量が最大になるように判断/行動していこう」という主義である。その主義を支持する人は一定数いる。
それに似た考えで、私は「全人類の労働の総量が最小になるように判断/行動していこう」という主義を持っている。驚いたことに、どんなに調べてもその主義には名前がついていないのだ。誰でも思いつきそうな考えなのに、誰も命名していないのだ(私の調べ方が悪かっただけかもしれないので、名前を知っている方がいたら教えて欲しい)。これを「怠け主義」と名付ける。
怠け主義を意識することがいかに重要か、例え話を通じて説明しよう。
例えば、小さな小さな島国があるとしよう。その島国には、労働力人口が100人いる。100人は、水汲み、漁、狩猟、農耕、調理、林業、埋葬、建築、製造、修理、流通、あらゆる「それがないと生きていけない労働」をこなしていて、おかげで生活が成り立っている。労働時間は一日あたり4時間程度。貨幣制度はあってもなくてもよい。
やがて、彼らは日々に退屈し、エンタメを欲する……音楽家、噺家、大道芸人が現れた。エンタメ需要は高まり、やがてエンタメだけで食っていける人が続出する。楽器職人、イベンター、広告代理、音楽教師も現れた。手の込んだ服の生産や、手の込んだ料理をする人も現れた。←なくても死にはしない職業という意味で、エンタメに含める。人々からのエンタメ需要はどんどん高まっていったために、職業も多様化した……気づくと労働力人口100人のうち、50人がエンタメに依存する職業になっていた。人々は、なぜか疲れを覚えていた。なぜかはわからないが、自分の労働量が倍に増えた気がするのだ。彼らは一日あたり8時間働いていた。
岡目八目である。神目線から見ると「そんなの、本来100人でやってたはずの ”死なないための労働” を、今は50人がやることになってるのだから、労働力は倍くらいになるだろう」と思うかもしれない。でも、島民目線から見ると、「エンタメのために金を払う行為が、自分の労働量を増やすことに繋がっている」というのは、気づかないのではないだろうか。その2つは一見繋がっていないように見える。
現実世界も、この例え話と同じである。娯楽を消費することが自分の労働時間を増やす事に繋がっているとは誰も思っていない。
そう思っているので、皆が「趣味で消費すること」を「経済が回る」と呼称し、ポジティブなイメージを付与しようとしていることには違和感がある。
よく「人々が○○を消費しなくなると、所得が減るし、働き口が減る」と言われるが、冷静に考えて、減った所得というのは減った支出に等しいのでメリットとデメリットが釣り合っているし、働き口が減ったなら、それまで毎日8時間かけてやっていた仕事を6時間にすれば働き口が33%増えるだろう。
趣味での消費なんてしなければしないほど労働時間が減って安らかな生活に近づくに決まっているじゃないか。←これが本記事のメインの主張である。
現代、労働時間が長すぎて精神や体を壊す人間がたくさん観測される。私の友人知人にもたくさんいる。贅沢している場合ではない。皆、消費をするのを(=この世に発生する労働を増やすのを)やめてくれ。
具体的にはどのように行動していけば労働総和を減らしていけるのか、それはこの記事への反応があったら詳しく追記したいけど、とりあえず一つだけ挙げておこうと思う。
・よく、課金に多額を費やす人は正気を疑われ、狂人かのように扱われる風潮がある。
例えば旅行に毎年40万使う人と課金に毎年40万使う人を比べると、一般的には後者の方が疎ましい人に思えるのかもしれないけど、怠け主義的に考えると前者の方が疎ましい人に思える。後者の方が、その趣味を消費することによって世の中に追加で発生する労働が少ないと思われるためである。
私の趣味は古い名作をデジタルで鑑賞することだ。過去の人が作った本や映画のデジタルコピーをしまくるだけで無限に未来の人類の欲求を満たせるなら、それが一番楽じゃないか。
所謂クルド人が多く暮らしておりコミュニティがある、と言われている地域の近くで暮らしている。
ある日の夕方、友人宅に遊びに行った筈の息子が泣きながら家に駆け込んできた。しばらくは泣いてばかりで話にならなかった。
家を出る時には持って出た筈のカバンも無く、持たせていた子ども用のスマホも無かった。
服もどこかで転んだのか汚れている。
何が起きたのかと思い、息子が落ち着くのを待って話を聞いたら、友人宅の帰り、家からそこまで遠くない公園の前を通りがかった際、
いきなり二人組の男に前を塞がれ、訳の分からない言語でまくし立てられたという。
当然息子は彼らが何を言っているのか分からないので、咄嗟にごめんなさい、ごめんなさいと頭を下げて通り過ぎようとしたら
息子は男の一人に体を捕まれ、殴られたという。そしてカバンを没収され中に入れていた財布やスマホを取られた上で二人に公園のトイレに連れ込まれ、
半開きになった個室の中で、息子は一人の男にズボンを脱がそうとしつつ「変な所」を触られたという。
息子は最後まで恥ずかしそうに泣きながら「変な所」としか言わなかったが、恐らく性器の事だろう。息子はまだ小学生なのだから。
男の一人は息子のズボンを下げながら「変な所」を無遠慮にベタベタ触り、もう一人の男は笑いながらその様子をスマホで撮影していたらしい。
その時たまたま、恐らく利用客の人が入ってきたのか、うわっ!と、驚いた様な大きな声を上げたそうだ。
すると二人の男が息子を抑えているのが少しだけ緩んだので、全力で泣き叫びながら男たちを振り切る様に必死で逃げ出したという。
カバン失くしちゃってごめんなさいと謝る息子に、私はただ大丈夫だよ、頑張ったね、助かって良かったね、そんなの(カバン)どうでも良いよ、と言うしか無かった。
連絡を受け急いで仕事を切り上げて帰ってきた夫にも事情を話し、警察に通報した上で、次の日は学校を休ませて急遽両親を呼んで様子を見て貰い
夫と二人で警察に行った。しかし、結果から言うと被害届はその日は提出出来ず、現在も被害届すら受け付けて貰っていない。
警察は「息子の証言だけでは証拠が少なく、アテにならない」「現場とされる公園にも一応聞き込みには行ったが、特に怪しい人物はいなかった様だ」
「息子さんが混乱したり、何かを隠そうとしている可能性がある(つまり、嘘を吐いているということ)」「不審者情報もそれらしいものは無いのでこちらも調べようが無い」
といった態度だった。警察に行った時、最初は真剣かつ親身になって聞いてくれる態度だったのだが
犯人は「日本人では無く外国人、(息子から聞いた特徴から)恐らくクルド人だろう」と言った途端、対応が変わった様な、困った事になった、という印象を受けた。
息子は犯人の二人の男について「日本の人には見えなかった。肌は少し黒く、でも黒人の人では全然無い。ヒゲは二人とも生えていた」との事なので
前々から聞いていたクルド人関連のトラブルの話を合わせても、クルド人の可能性が高いと考えている。
こちらが素人だから警察も門前払いするのでは無いか、という夫の意見で弁護士にも何人も相談に行ったが、結果は変わらなかった。
言ってしまえば性犯罪としては未遂で、財布や携帯を取られたと言っても、(自分で)落としたかも知れない、と言われれば立件は難しいのでは、と言われた。
相談のアポを取って加害者は外国人、恐らくクルド人らしいのですが…と言った途端
「あ、利益相反になってしまいますのでお受けできかねます。申し訳ございません」と冷たく断られた事もあった。
一体何が、利益相反か。被害者を守る事がクルド人の利益に反するのか。本気で憤った。
ある弁護士は「絶対に自分から聞いたと口外しないように」と前置きされた上で(なので、弁護士が誰かなどは特定させる情報は一切出さない様にしている)
在日外国人、特に最近だとクルド人のバックには、支援団体というか活動家みたいな人間や、彼らと縁深いシンパの弁護士がおり
彼ら(クルド人及び彼らのグループ)に取って不利な事をしようとすると、出っ張ってきてあらゆる方面から騒いで抗議するという。
抗議されるだけならまだ良い。実際は抗議だけでなく、告発した人や周囲の家族、親類、関係者、そして下手したら対応した警察関係者に至るまで
犯人不明の嫌がらせ(おかしな中傷の噂が出回る、職場に匿名の通報、ネットに怪文書が書かれるなどして名誉毀損される、といったものから、もっと実力行使される事まで)が
発生するので、警察の方も、そして本来は被害者保護に動ける筈の一般弁護士も、対応には困るのだという。
もし万が一、被害届を出せたとしても、恐らく警察はまともに捜査しない、というか出来ない。
何故なら抗議する「支援者」が怖いから、及び腰になっているしさせられている。
おざなりの捜査をされて、犯人不詳のまま終わる可能性が高いのでは?とまで言われた。
当然、その事を話してくれた弁護士も、依頼を引き受けてはくれなかった。
話しぶりや態度を見る限り、仮に我々の為に動き、クルド人及び彼らの背後にいる人々の利益に反する事をしたら、圧力をかけられ仕事が無くなりかねない、という危機感を覚えている様に見えた。
店内の商品を万引きされた、見咎めて注意したら逆に脅されたり殴られそうになった、少年が同年代のクルド人グループに囲まれて金銭やゲーム機を脅し取られた、
女性や少女がクルド人らしき男に後をつけられた、いきなり抱きつかれたり体を触られた、因縁をつけられ集団で取り囲まれ、金を取られたり土下座を強要された、
集団で練り歩き、少しでも目があったら異国の言葉で怒鳴られたり威嚇された、ゴミ出しのルールなど当然守らずゴミ害が起きた、交通事故の相手がクルド人で
相手が悪いにも関わらず親族や仲間を自称する者たちに押しかけられ、非常に不利な条件で泣き寝入りさせられた、などなど。
そんなトラブルの噂が耳に入り、夫と引っ越しを真剣に検討していた所だった。
持ち家だからと引っ越しには躊躇していたが、事件を機に住み慣れた地を離れる事にした。
当然ローンの家計で100万単位で損失があったが、背に腹は変えられなかった。
事件が起きる前にもっと早く引っ越しておけばと、本当に後悔した。
息子は快活な性格だったら、あれ以来、学校以外は誰かと一緒でないと外出出来なくなってしまった。
そして私達と一緒に出かける時は、基本的に頑なに離れようとせず、ずっとそばにいる。
少しでも距離が空いてしまうと、不安そうになって大声で私達を呼び止める様になった。
出先でトイレに行く際は絶対に夫と一緒じゃないと無理で、私と二人の時は「絶対外で見守っていてね、離れないでね!」
と何度も何度も念押しされた。私も二度と同じ様な被害を繰り返したく無いから、監視に必死だった。
最後の一線までは超えない被害だったが、まだ小学生だった息子には、トラウマとなっている様だ。
カウンセリングにも通わせているが、今の所、あまり改善は見られない。
こんなにも被害者となった息子が苦しんでおり、家族である私達も同様に悩み、苦しみ、後悔しているというのに
加害者がクルド人で、被害者が日本人、しかも少年(男)というだけで、「被害者」としてすら扱われない。
マスコミ等にいっそ拡散してやろうかとも思ったが、逆にこちらが差別者のレッテルを貼られて社会的に殺される、と夫に止められた。
実際、財布やスマホも盗られているので、犯人には住所がバレている。いつ「報復」があるのか分からない。
それが例え身勝手極まりない理由でも、「報復」されて命の保証などどこにも無いと。
確かに私もそう思ったし、それに何より被害者である息子本人のプライバシーもある。
変に情報が拡散されて一生の傷にでもなったら、それこそ息子の人生は、今度こそメチャクチャになってしまうとも思った。
人生設計が狂ってでも、子の安全とケアが第一優先だから、住み慣れた家を売って土地を離れ、泣き寝入りするしか無かった。
だけど犯人は一生許さないし、外国人の権利を保護しながら一方で日本人の権利は侵略する綺麗事をほざく連中は、より一層信用出来なくなった。
彼らクルド人を支援している人達からすれば、私達が受けた被害は絶対に嘘だと主張するだろうし、差別者だと叫ぶだろう。
しかし私には、もう二度とクルド人全体を信用出来ないし、日本に住み着く恐怖集団という印象は拭えない。
現在は新たな引っ越し先で暮らしているが、もし仮にこの土地でもクルド人が増えてきたら、引っ越して逃げる他無いだろう。
これを外国人差別主義者というのであれば、私は差別主義者でも構わない。
ただ、それだけだったのに。
非モテの中でも、俺は輪をかけて拗らせた、性格の悪いタイプだと思う。
だからこれをもとにモテない男は一般的にタチが悪いなどど早合点しないで欲しい、と最初に断っておく。俺の話はあくまで俺個人に限ったことで、世の中の男性のほとんどは俺よりよっぽどまともなはずなので。
大学時代、気になる女の子がいた。初対面の当初はそこまで気になっていたわけでもなく、大学時代の最初は高校時代の失恋の整理が終わってなかったことや非モテを拗らせていたこともあり、友人として信頼関係を築いていた。
大学生活も後半に差し掛かる頃、恋愛がしたくなり、その友人にアプローチをかけ始める。男女問わず友達がいない俺にとって恋愛対象は限られており、さらに友人としての信頼関係から恋愛に移るタイプだったので、もはやその女の子以外の選択肢はなかった。
しかしなかなか靡かない。デートにはたまに行けるが、それ以上は牽制されつつ、たまに寂しいときには寄ってくるという生殺しのような関係がしばらくあって、俺と彼女は三年生を迎える。
当時学俺は学業もサークルもうまくいかず、女の子の方もまたいろいろとうまくいかずといった状況で、お互いに余裕のない時期だった。そんな時期に性懲りも無く、気の良い脈もないのにちょっかいをかけようとする俺に愛想が尽きてきたのか、女の子も俺に呆れてきたようだ。自然な展開として、彼女とはかなり深刻な喧嘩になり、以降口も聞かなくなった。
彼女の近況は人づてに聞くしかないが、どうやら俺に信頼関係を裏切られたように感じて、憎んでいるみたいだ。そして不思議なことに、その事実でたまらなく満たされた気分になるのである。
そもそも俺は性欲と承認欲求の区別が曖昧で、恋愛関係に期待する幸福が一見して性的なものではない。気になっていた女の子に嫌われたことで、彼女の中では俺は「クソ男」のスタンダードとして彼女の恋愛観や人間観に残るはずであり、それだけで承認欲求が満たされて恋愛的な満足も得られてしまったのだろう。憎しみの強さは好意よりも持続するものだと思うので、むしろこの方が彼女の中に強く残るのである。彼女はこれ以降、俺のようなタイプの男を避けるだろうと想像すると、嬉しい。
また、たとえセックスできたとして、俺は彼女にとっての何になり得ただろうか。過去の恋愛感情はいつかは冷めるもので、現在の男に上書きされる運命でしかない。なぜなら対象とする男が違うだけで、どの好意もそれ自体はすべて同じものだからだ。しかし、俺に関する記憶は、人間関係の苦い思い出として彼女の中に残るはずである。恋愛にすら至らなかった曖昧さのために、完全に同一のものとしてカテゴライズされるべき競合の記憶が存在しない。名前のつく関係性や行為では不可能な位置を彼女の記憶の中に占めることができたのだ。
自分の体験で言うと、そもそも若い時から内面はヤバい部分が確実にあった。
異性にちょっと好意を持たれただけで勘違いして距離を詰めてしまったり、
つまり若い時はそういう言動があったとして許される部分が多い。
問題はなにかというと、独身のままのおっさんは客観性を維持する機会が圧倒的に減ること。
結婚などして子供を持ったり家庭ができると自身のステージの変化が分かりやすく、かつそれが日常になっていく。
独身でも少なからずそう感じる出来事は増えていくが、家庭を持つほどの継続性はなかったりするから刷り込みが薄くてすぐ忘れる。
そうやって30代くらいから徐々に客観性を見失っていった積み重ねが、悪い意味で花を咲かすのがたぶん40~50代くらいなんじゃないだろうか。
簡単な話「他人に今どう見られてるか」すら意識できなくなっていくのだ。
なので狂っていくのではなく、本来どんな人でも持ち合わせるべき「他人に対しては隠すべき、我慢すべきもの」というのがダダ漏れになりやすいという事だと思う。
(ストーカー行為に走るとか社会的に明らかにヤバいレベルの狂い方についてはもはや別の要因では?とも思う)
一方で歳を取って独身でも変なクセがなく若い人からも慕われる人というのはいる。
自分となにが違うのか、そういう人を観察して分かるのは一見自己中に見えても案外ではないということだ。
自分の好きなように生きていると言いながら他者にとても気を配る人が多い。
そして割と重要なポイントなんだが、ファッションがその人に似合っている。
これはすごくオシャレとかってわけでもなく、ただ単にその人に合ってるなという見た目なのだ。
その人自身が自分の事をよくわかっているから、周りも安心できるのだと思う。
そして「自分の事は分かりたくない」という気持ちも少なからずあるような気がする。これもまた問題ではある・・・
十代の頃にはクセになっていた「自分を映すカメラが常に頭の斜め上にあって、そこからの映像を思い描く」を意識するようにしている。
NCSOFTから「Journey of Monarch - 君主の道ってゲームが出たでー遊んでくれやでー」ってメールが来たから
一応どんなもんか公式開いてみたんすわ
なーんも分からん、とにかく公式は一見AAAタイトルと見紛う映像美でトレーラーを流してくる
https://www.youtube.com/watch?v=drX4s3RO92A
中身は一切伝わってこないのが潔いくらいPV詐欺ゲー感を醸し出してる
https://www.youtube.com/watch?v=OkJznn04-NQ
リネージュの後継作で一応MMOらしいんだが、見下ろし型の放置RPGだな
自軍の数キャラと相手のボスで棒立ち殴り合いをする放置バトルを繰り返すだけに見える
はー、フォトリアル調ってのはゴミを一見まともなもんに見せかけるのに本当便利だな
日本人でやる人おらんやろ…いや韓国人も欧米人もまずやらんかな
もはやリネージュシリーズのファンにすら唾吐くような出来といっても過言
NCSOFT大丈夫なのか
ライバルだったNEXONはブルーアーカイブやらThe First Descendantやら時代に即したヒット作を出せているのに
PayPayにドルで預金すると2%の利息がついて、さらに同額の円預金するとそっちにも2%の利息が付く情弱向け商品が発売されている。
https://www.paypay-bank.co.jp/fcd/guide/fee.html
1ドル(150円)預けて5銭引かれて、1ドル(150円)戻してまた5銭引かれる。150万預けたら500円引かれて150万戻したときも500円引かれる。
SBI証券の買いと売りの差は2銭。150万円分のドルを買ったとして売った時に200円引かれるだけ。
一見2%の利率は高いが、SBI証券の今日のドル買いスワップは182円。年換算で4.4%。本来外貨預金で4.4%もらえるはずの利息を2%ずつドル預金と円預金にわけて0.4%はPayPay銀行が持っていく。
さらにドル預金上限なしで円預金は500万まで。ドル預金すればするほどPayPay銀行が2.4%ずつ儲かる。
下記の文章はフォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性の範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか? ーーー • 「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。 • 「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
↓
この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性の範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます。
• 「Dの行動について、認知の問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」
• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。」
• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性の範囲内と考えられる場合の擁護意見を作成してください。」
• 「Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。」
• 「投稿者の意見を引用しつつ、Dの行動が認知の問題ではなく、個性や価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」
• 「Dの行動が認知の問題とされる根拠を再評価し、別の視点を提示してください。」
• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義や認識論の観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」
• 「Dの行動を、哲学的な視点から擁護する文章を作成してください。」
• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定の偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」
このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者の評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を以下のように評価できます。
1. 個性や価値観の違いとしての解釈
Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的な基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身の価値観や認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります。
たとえば、Dがデザインや美的感覚に特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカードの本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的なコンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。
2. 価値観の相対性
トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者はトランプの本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準(フォントの統一性やデザインの整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます。
3. 共有基盤の曖昧さ
投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそも「トランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的・文化的な多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知の問題」と決めつけることは、価値観の多様性を軽視している可能性があります。
4. 投稿者の評価の偏り
投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点を理解しようとする姿勢に欠けているように見えます。
もし投稿者が、Dの行動を「トランプの本質」についての哲学的・文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話が可能だったかもしれません。
5. 擁護の可能性
Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます:
• 哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプの本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点を提供している可能性があります。
• 創造的視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザインの基準や美的価値観を提案するものとして評価できるかもしれません。
結論
フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知の問題」として否定するのではなく、個性や価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点が文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知の問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観や視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。
↓
Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。
↓
Dの行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます。
1. 認知の問題ではなく価値観の違い
Dが「フォントの違い」を理由にダイヤのKを否定した行動は、特定の認知の問題ではなく、個人の価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事を評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。
たとえば、美術やデザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事を認識しているだけであり、これは「認知の問題」とは言えません。
2. トランプの本質に対する多様な解釈
投稿者は、トランプカードの本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントやデザインが重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。
Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティや一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。
3. 認知と価値観の混同
投稿者はDの行動を「認知の問題」として捉えていますが、認知の問題と価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知の障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できます。フォントという細部に焦点を当てるのは、特定の認知スタイルや個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体が問題視されるべきではありません。
4. 哲学的視点からの擁護
Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます。物事の本質を定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります。
たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォントの統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知の問題として単純化するのは、物事の本質に対する多様な解釈を無視することになります。
5. 対話の困難さの原因は双方にある
投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点や価値観を十分に理解しようとせず、一般的な基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイントを尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります。
6. 結論
Dの行動は、価値観や視点の多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知の問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点を理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーションの障壁を取り除くことが可能となるでしょう。
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本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか? 認知の問題ではないと考えますか?
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トランプゲームの文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由にカードそのものを否定するDの行動は、一般的な基準からすると合理的な理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知の問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。
1. 合理性の欠如
トランプゲームにおけるカードの本質は、そのスート(ダイヤ、ハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントやデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由にカードを否定する行動は、このゲームの目的や文脈に即していないため、合理性に欠けています。
2. 認知の問題の可能性
この行動を「認知の問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます:
• 過剰なフォーカス(過集中)
Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要な情報(カードのスートやランク)を覆い隠してしまう場合、これは認知スタイルや情報処理の偏りに由来する可能性があります。
• 前提のズレ
Dが「フォントの違いがカードの正当性に影響する」という独自のルールや前提を持っている場合、一般的な認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。
3. 個性として理解できる範囲の限界
Dの行動を「価値観や個性」として理解しようとする姿勢も重要ですが、それは文脈に即している場合に限られます。トランプゲームというルールと目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます。
4. 対話の困難さ
Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲームの目的とは何か」という基本的な定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報の優先順位に問題がある可能性を示唆しています。
結論
トランプゲームの文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知の問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観や視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的や文脈と整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます。
それこそ一番人生のリターンが大きい。
そしてリスクも一番低い。
こども育てるなら歯列矯正代ぐらい用意しとけ。将来感謝されまくるぞ。マジで。
あとは、日本矯正歯科学会の名簿に名前が載っているかどうかだな。なんで載っていない先生のところで歯列矯正やるんだよwww
ちゃんとした人を選ぶなら最低条件だろー。最低条件だろー。自分の長年行きつけの歯医者がたまたま歯列矯正もしていて信頼ができるっていうんなら
別に良いんじゃない?学会のに名簿が無くても、中にはまともな人もいるだろうし。
歯の矯正はマウスピースとかなんやらいろいろあるけれど、結局は昔ながらの歯にワイヤーつけるのが最強。
あとは、日本矯正歯科学会の矯正歯科治療のQアンドAぐらいは見ておこうな。
さて、歯並びが悪い人は大体かみ合わせも悪い。
かみ合わせが悪いまま過ごしていると、噛みやすい箇所でばかり咀嚼するようになり、やがて顔や体が歪む。
子どもの頃はそうでもなかったのに、大人になってから顔が歪んだように感じるのは、片側咀嚼の影響も大きい。
顔の眉の高さが違うとか、エラの高さが違うとか。片側や特定の箇所だけで噛んでいるとどんどん歪む。
健康に支障が出たり、メンタルに支障が出たり、そんなん当たり前。体と心は繋がっているのだから。
そして特定の歯への悪影響も大きい。負担を一か所で受けると、歯がすり減ったり、その箇所の歯茎が下がったりする。
あとはかみ合わせが悪いってことは、咀嚼しているようで咀嚼が出来ていないことに繋がる。
そりゃそうだ、本人が20回噛んだつもりでも、それが実際はかみ合わせの良い人の3回分かもしれない。
この積み重ねが、いかに消化吸収そして排出に悪いか。胃腸への負担になることは想像がつくだろう。
日本人は胃腸が弱い?ちげーよ。そういうやつの歯並びとかみ合わせは悪くて咀嚼ができていないんだよ。
歯並びとかみ合わせは健康面で大きく影響するわけだが、そもそも
20代後半以降ぐらいになってから歯列矯正すると歯茎が下がるのである(20代前半でも点レベルで下がると言われている)。
そして、Youtube検索や画像検索すると分かるが「ブラックトライアングル」という現象が起きてくる。
歯の形が三角形の人にありがちだが、歯茎が下がることで三角形の空洞が出来るのである。
歯列矯正で一見歯が綺麗に並んでいてかみ合わせも良いのに、歯の根元がスカスカな状態になったりする。
悪質な歯列矯正歯科になると、最初の面談の時点でこのことを伝えなかったりする。きちんと写真やら提示して、こうなる可能性が高いですよ、と
説明を受けた上で自身で納得してから臨んだらまだしも、リスク面での説明がないまま歯列矯正してしまった人は大体後悔するだろう。
歯の根元がすっかすかになるからね。そりゃそうだ。漫画で出てくる老婆みたいな歯になる可能性がある。
スッカスカになった場合、歯を削ったり、歯に被せたり、歯茎を移植したりする方法もあるが、まぁ臭いものには蓋をする理論なので割愛。
ちなみに40代とかでも歯が歯茎に埋まりまくっていて、歯の形が三角ではなく四角型の人なら問題は無いと言われている。
簡単に言うと、歯茎が下がっていて歯がデカくなっていて歯の形が三角のやつが歯列矯正すると、根本がスカスカ状態になるから覚悟しろよってことだ。
ちなみに抜歯してからの歯列矯正も当然リスクがある。人中が伸びる、くちびるが薄くなる、頬がたるむ、頬がコケる。
そりゃそーだ。歯を抜いたら変化は出る。これも高校生ぐらいのうちなら変化が少なくて済むが。
まぁ、あれだ。特に30代以降の歯の形が明らかに三角型のやつは、ブラックトライアングルがガッツリできるってことだけは覚えておけ。
ブラックトライアングルで歯の根元がすかすかになってもやる価値があるかどうか。まぁ天秤にかけてもやる価値があると思ってやるなら良いんじゃねーの。
ちなみに歯列矯正の最初の相談料は大体3000-5000円ぐらいのはず。1時間ぐらいの説明で大体の先生の方針が分かる。抜歯が必要なのか否かとかもそうだけれど。
人によっては何か所か訪れてから決めたりしているようだ。向こうも、色々なところで相談するだろうなってのは分かっているから、相談だけ~てのも全然おっけー。
(もう少し新顔がいたかと思いますが忘れたので思い出したら追加していきます。オレオレFCはいつになったら降格するんだろう…)→【今回の幕内】
金曜日に美味しそうなもの食べたい増田(食べたかどうかは不明)。
プレミアムフライデーとは関係ない金曜日にも食べたくなるのが特徴。
その他の一言しかコメントしない増田たち。「めぐみんに罵倒されたい」「虚構新聞氏ね」「シコって寝るか」「今夜もカレー」「波打ち際に毛球あり」など。
もうめんどくさいので全部ここにまとめて終わりにさせてください。
こちらも2020年から現在まで「かるさりかんに」というトラバを延々と伸ばしまくっている謎増田。同一人物の仕業かどうかも不明。
ちなみに駐日フィンランド大使館のTwitterによると、意味はフィンランド語で「自宅でパンツ一丁になって酔っ払うこと」らしい。
同カテゴリー参照。架空のサッカークラブと思われるネタニュース記事を連載している増田。
5chのドメサカ板でも2019年頃から同名のコテハンが活動しているようだが、無関係なスレにもこのネタを書き込むため、顰蹙を買っている。
誕生日が7月らしく、タイトルは加齢に伴って「増田♂51歳の日常」→「増田♂52歳のナントカ」→「増田♂53歳のなにイよんならぁ」→「増田♂54歳のまあこんなもんですわ」と変遷している。
「イルミナティのガブリエル」を名乗り↑の集団ストーカー増田に嬉々としてトラバを行う増田。
最近はガブリエル本人の投稿よりもファンらしき増田による「ひいまた夢でガブリエルが出た」などのエントリが目立ち始めている。
上のコテハンを増田で自ら名乗ろうとするなど、とにかく自己顕示欲旺盛な人物。本人らしき投稿によれば様々なサイトで暴れている問題児らしいが、増田ではせいぜいここ止まり。
一見するとタイトルにタグ「アタック25」がつけられているように見えるが、最初に日付を書いてしまっているため、カテゴリーとして機能していない。
「謎増田シリーズ」と称して↑を突っ込まれた際には本人からコメントがあったらしいが、その後もこの謎スタイルを踏襲している。
詳しくはこちらを参照。妻の作ってくれたお弁当のメニューらしきトラバを、かるさりかんに増田のように延々と伸ばしている謎増田。要するにノロケ報告。
コメントで厳しい指摘のある通り、つがる病院の件は裁判を経た賠償ではなく、「産科医療保障制度原因分析委員会や県外の複数の産婦人科専門医の意見等を踏まえ」て病院が責任を認めて賠償金を支払ったものだった。
また、事態の詳細記事を寄せてくれた増田もいた。ありがたい限り。
以下の本文は自戒を込めて元記事のままにしておくので、該当部分は「コイツ日本語読めてねーわ」と思って読んでほしい。
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2024年11月だけで、産科をとりまく嬉しくないニュースが続いてしまった。
・双子の出産時に医療事故・第2子に重い脳性まひ 「つがる総合病院」が責任を認め患者と家族に損害賠償金約9100万円を支払いへ 青森県
https://reiwa-kawaraban.com/politics/20241116/
市中病院で、帝王切開という形で産科医療に関与する麻酔科医の目線から上記のニュースを考えてみる。
【前提】
まず話の根底として、妊娠から出産の過程で低確率ながら母子の死亡が起こりえる。
厚労省のデータ(https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/001118039.pdf)によれば妊産婦の死亡事例は減少傾向にありつつも、令和3年で2.5/100000出産例とされる。(死亡の原因は様々だが、こちらのスライド(https://www.jaog.or.jp/wp/wp-content/uploads/2021/12/20211208_2.pdf)によると、「産科危機的出血」「脳出血」「羊水塞栓」で半分近くを占める)
平成12年には6.3であったというから、およそ20年で半減してきている計算で、これは原因の究明や対応できる組織構築を行った医療従事者や、薬剤や機材の開発・流通を整備する関連企業の不断の努力の賜物に違いない。
日進月歩の医学的取り組みをしてなお死亡率をゼロにできないものが妊娠と出産である、という点がまず客観的な事実として存在する。
経腟分娩でなく帝王切開を選択する理由について信頼できる統計データがネット上には見つけられなかったが、職務で見てきた中では「双子」「胎盤の位置異常」「前回が帝王切開=今回の分娩がハイリスク」「合併症(妊娠高血圧など)予防のためやむをえず」といった背景が多い。
胎盤の位置異常や帝王切開歴などは妊婦検診の過程で分かることであり、予め調整して計画的に帝王切開をすることで上記の出血などによる死亡例を防ぐことができる。
予定帝王切開の日程を定めていたとしても、まったく予期せぬタイミング(予定の数週間前など)で破水したり陣痛が始まってしまうことは日常茶飯事であるし、経腟分娩で予定されていたお産が胎児の心拍低下などで緊急に帝王切開となる事態もよくある。帝王切開ではないが、経腟分娩を終えたものの出血が止まらないため緊急手術になる事例も時折ある。
短く纏めるなら「妊産婦死亡を防ぐには帝王切開がどうしても必要な場合があり、そしてそれは緊急に起こりえる」となる。
では、緊急帝王切開が決まったとして、手術はどのように進むのだろうか。
緊急という言葉から一分一秒を争う事態を想像するかもしれないが、実は事情に応じてどの程度待てるか段階分けされている。
施設によって呼び方や規定時間はある程度幅があるものの、こちらの資料(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsca/42/1/42_57/_pdf/-char/ja)に示されるものが一つの指標になるだろう。
同日中に娩出すれば問題ないものは大きなトラブルになることはまずなく(見たことがない)、1-2時間以内に子供を出したいとなると手術室は忙しくなってくる。
そして、我々麻酔科医にとって最も恐ろしいものが、超緊急帝王切開、いわゆるGradeAの宣言だ。
資料中にもあるように、GradeAでは可及的速やかに胎児を出す必要があり、以前所属していた施設では「宣言から30分以内」を目標としていた。この30分という数字をどう受け取るかは人によって様々であろうが、手術室の動きと所要時間から考えてみたい。
帝王切開を全身麻酔で行う場合、手術室看護師は必要な器械(メス、各種鉗子、血液吸引機などなど)を準備し、麻酔科は麻酔器のセットアップや薬剤・器具の準備を大急ぎで進めていく。
麻酔器のセットアップを全くゼロから行う場合は、機種にもよるが10分近く時間をとられる。どんなに短くても3-5分という印象だ。
また、使用する薬剤の種類は通常の全身麻酔とあまり変わらないものの、一部の薬剤は鍵付きの金庫で保管されているため、鍵の持ち主である看護師に持ってきてもらう必要があるのだが、看護師も器械の準備に全力を注いでいるのですぐにとはいかない。
全ての薬剤を準備するのに(鍵を無視しても)最速でも2-3分。人工呼吸のための気管挿管デバイスを準備するのにもう1-2分。麻酔器のセットアップと並行で行えるので単純に足し算ではないが、これに移動時間、各所へ電話連絡の時間、薬剤と道具をかき集める時間を加味すると、連絡を受けて10分後に独力で全ての準備を整えられるかは分の悪い勝負になりがちだ。
マンパワーがあれば多少改善するものの、夜間や休日であれば人員は最低限に留められているため、素早いヘルプも期待できない。
大抵の場合、産科医も連絡をしてきた時点で手術室へ患者と向かっているので、慌てて手術室へ飛び込んだら患者が先に入室していた、ということも珍しくない。
全ての道具の準備を整え、産科医は滅菌ガウンと手袋を装着し(これにも1-2分はかかる)、全身麻酔をかけると同時に執刀を初めて数分後に胎児を体外へ出す。
言葉だけ並べると案外間に合いそうに見えるが、必要な検査結果を最低限確認したり、患者を手術台へ移動したりと無数の手順が間に挟まることで時間はどんどん圧迫され、時間が経過するごとに胎児(と場合によっては母体)の生命は目の前で消えようとしていく。
今まさに苦しむ母体と、見えないところで死に向かっていく胎児を目の前にして、正確に、安全に、迅速に全ての手順を協同して進めていく緊張感が伝わるだろうか。
そして上記の描写は、近隣でも有数の規模の病院で、スタッフの経験値と各種対策が練り上げられた環境でのものである。比較的規模の小さい病院では経験値やマニュアルも整備されておらず、これより時間がかかってしまうだろうことは想像に難くない。
【記事の内容について】
こういった現状を踏まえた上で双子の判決についての記事を読むと>> 10分以内に新生児を取り上げる超緊急帝王切開の体制が取られておらず、重大な障がいに至ったなどとする判断を受けました <<とある。
当時のつがる総合病院の体制がどのようなもので、どこまで準備できた時点から計測された制限時間かは調べた範囲で詳細不明であったが、全くゼロから始めたとすればまず不可能な時間であるし、ある程度準備が出来た状態(麻酔器はセットアップされていたなど)からでも厳しいだろう。
実際に病院側の落ち度があった可能性も無論あるが、ベストを尽くしても達成しうるか分からない「10分以内」という数字をどこからか持ち出してきて賠償を命じられるというのは、あまりに理不尽に感じられる。
10分以内に取り上げられたら後遺症を防げたか、あるいは程度が軽く済んだ可能性はもちろんあるが、それが現実に達成不可能な数値目標だとしたら、処罰の理由として据えられてはたまったものではない。
この記事から読み取れる法律サイドのスタンスは、「もっと安全対策をとるべきであった」とできるだろう。それが現実的なものかはさておいて。
これは厚生労働省保険局での話し合いであり、その結論の着地点は広い範囲に影響することが予想される。
産科医療を保険適用にした場合の問題点はそれだけで独立した論点になってしまうため割愛するが、記事がフォーカスしている井上弁護士の発言は以下である。
>> バランスを見ますと産科は医療安全にかなり前のめっていすぎるというふうに私自身は判断しまして(中略)結果が異常である可能性があるということで水準を簡単に上げすぎるために、産科の世界のバランスが他の診療科に比べて崩れているのではないかと(中略)医療安全、悪く言えば原理主義的になりすぎないように、ということを是非ご注意いただく <<
この発言に対して亀井氏が即座に怒りを感じさせるコメントを出しているが、むべなるかなと言わざるをえない。
関係各所が不断の努力を続けていても妊産婦死亡はゼロではなく、突然で理不尽な不幸に見舞われたご家族の悲哀を想像するだに辛い気持ちになる。
にも関わらず、どれだけ真摯に取り組んでも、双子の事例にもあるように時として理不尽な法的判断を下されうるのが現状の産科医療の実態だ。
無論この井上弁護士の見解が法曹会の総意でないことは理解しているし、記事の執筆者がやはり弁護士で非難的な論調であることからも間違いない。
とはいえ一部の弁護士(そしてそれ以外の人々)に、「産科医療は医療安全コストをかけすぎではないか」という見解を持っている人が相応にいるだろうことが推測される。
双子の記事と厚労省の記事は、個別に見るとかたや「医療安全をより追及せよ」であり、かたや「医療安全にコストを割きすぎではないか」という真逆の要求をつきつけている。
どうしろというのだ、という困惑から一歩引いて、何故このように食い違う見解が同一の業界から出てしまうのかを考えてみると、「妊娠・出産に対するリスクの軽視または無理解」が両者の根底にあるのではないかと個人的に考える。(業界が同じなだけで個人の思想が違うだけだろうという結論は一旦置く)
「出産は安全に済むものだから」という補助線を引くと、「(安全に済むものだからその水準を当然満たすべく)医療安全をより追及せよ」「(安全に済むものだからそんなにコストをかけなくても良いはずで)医療安全にコストを割きすぎではないか」というように、一見相反する見解が綺麗にまとまる。
本記事の冒頭に掲げた前提の「日進月歩の医学的取り組みをしてなお死亡率をゼロにできないものが妊娠と出産である」という事実が、過小評価されているかよく理解されていないことに原因があるのではないか、と考える次第である。
これはある意味仕方のないことで、実際に超緊急帝王切開に直接関わる産科医・麻酔科医・看護師でもなければ医療職であってもそのリアリティにはピンとこないはずなので、一概に無理解を批判することはナンセンスだ。
数字として見るデータは客観的な事実として揺るがないとしても、起きてしまった不幸とそれを防ぐための緊張感は、両方を目の当たりにして初めてリアルな根拠としてデータを活かす。
改善策としては実際の現場を映像と音声で記録して周知と理解を促す手段も思いつくが、倫理的な問題とマンパワー的な問題が立ちはだかる。この点は医療サイドで働きかける余地があるだろう。
【今後の影響に対する推測】
産科医療における有名な出来事としては2006年の大野病院事件があり、そのあらましと影響についてはこれまで散々議論されているので割愛する。
最終的に産科医は無罪を勝ち取ったものの、福島県内における産科医療への影響として、事件の前後で産科医が減少したという分析がある。(https://keizemi-keio.info//wp-content/uploads/2017/01/bessyo_mitaron.pdf)
産婦人科医会の調査(https://www.jaog.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/02/48dc1841822ac2ca56d3d7ee4b107c28.pdf)では総数としての産科医は2006年から2022年にかけて19%増えているとあるが、厚労省のデータ(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/22/dl/R04_1gaikyo.pdf)から算出した同期間についての総医師数の伸び率が23%であることを合わせると、新たに産科医を志望する割合は減少していることが見て取れる。
産婦人科医会の資料中には産婦人科施設の推移も載っているが、婦人科病院が微増するものの一般病院と診療所が明らかに減っていることが分かる。
ハイリスクな妊娠と出産を高次機能病院で対応するために人員を集約することは理にかなっているものの、妊婦にとって移動はかなりの労力を伴うことから、集約によって移動距離が長くなることは身体的にも経済的にも負担が増す。
この推移に大野病院事件がどの程度影響したかは評価が難しいが、無関係でないことは明らかだ。
そういった過去の事例があった上に今回のような事例が積み重なると、施設の減少と人員の相対的な不足傾向が加速するリスクがある。
施設の減少は患者にとって負担であるし、人員の不足はスタッフの疲弊と患者のリスクを招く。
件のつがる総合病院で事態が起きたのは2017年ということだが、2024年現在も施設としては第二次救急医療機関の指定を受けており、日本産科婦人科学会専門医制度専攻医指導施設としての教育施設指定を受けている(https://www.tsgren.jp/tsugaru-general-hospital/hospital/situation.html)ことから、緊急帝王切開を含む産科医療を行っているものと推察される。
産科医療資源の集約を考えた際に集約される側ということになるが、その医療水準を支えるスタッフはHPによると産婦人科3名と麻酔科2名のみだ。
始めに述べた通り、帝王切開は通常の分娩でも突然発生しうるし、それは夜間も休日も関係が無い。
当番制でシフトを回すと考えても、麻酔科は2日に1回は夜間呼び出しに備える必要があるし、産婦人科も1人で手術はできないので同程度以上の体制をしいていると推測される。
この通りであれば当然スタッフは疲弊するし、疲れた状態での医療は危険を伴う(だからこそ働き方改革が叫ばれる)。そして、疲弊はさらなるスタッフの離脱と不足を招く。
事態が進んで最終的に誰が不利益を被るのかというと、分娩をしたい妊婦・胎児・家族に他ならない。
冒頭の記事にある判断と見解は、将来生まれてくる新生児の生命をリスクに晒すもので、人命と健康を至上とする立場からは許容できない。(そうでない立場の人からはそうでもない、という批判はありうる)
【まとめ】
本記事では2024年11月に公開された産科医療に関連する法的判断と見解について、産科医療に関与する麻酔科医の立場から考察した。
医療安全の推進と削減という矛盾するような見解が同一の業界から出てくることについて、「妊娠と出産が死亡リスクを伴う」という点の理解がされていないのではないかと仮定することで1つにまとめ、現状の問題の発生源を推察した。
GradeA帝王切開がいかに厳しい時間的制約のもとで行われるかや、妊婦と胎児に起きうる不幸について一概に法曹側の無理解を批判するものではないが、このような法的立場の判断と見解の影響が及びうる範囲を想定すると受け入れがたい。
現場をよく知る人々の意見が反映されることを祈りつつ、実際に1人の麻酔科医から見た現場がどういった物かを誰かに共有できればと思い本記事を作成した。