はてなキーワード: BGMとは
友人に誘われて、3回目くらいのモーニング娘。25のライブに行ってきた。
念のため背景を少し。
自分は30歳前後の男で、音楽ライブは通算100回くらい経験。
本ツアーは2回目の参加。
良かったところ
•何度見ても、連続であれだけ歌って踊れるのは驚異的。単純にすごい。
•卒業コンサートという文化そのものを体験できたのは大きかった。
•トロッコはなかったが、横アリを練り歩いてくれたおかげで、過去一メンバーを近くで見れた。
•最後の「BGMを流さず会場を歩く」演出は、妙にグッときた。静けさの力。
気になったところ
•グッズのデザインが購買意欲を刺激してこない。もう少し「今の感覚」に寄せられないのだろうか。ダサく感じる。
「I surrender 愛されど愛だけ」はクオリティが高い。あれで全部で見たくなる。
•MCが極端に少ないので、名前と顔が一致するタイミングが最後。
•卒コンなのに、残るメンバーからの言葉は全員ではなく数名のみ。後輩も大事だが、長くやってきたメンバーの言葉も聞きたかった。
アンコール1回目のコールで名前が混ざってしまうのは当人が気の毒に感じてしまった。
•年齢層が高めで、トイレや会場周辺で大声で盛り上がるおじさんに遭遇する率も高い。雰囲気に少し圧倒される。
久々にiTunes Storeを使った。「今これだけ拡散の時代なのにもったいない」と思ってしまう。
•既存楽曲の曲数が圧倒的なので、知らない曲が来るとそのまま曲名が分からず終わる。
•最近流行りの「撮影タイム」的なものが1曲あってもいいのでは、と思う。
全体としての印象
ただ、演出と設計次第でもっと光るのではという惜しさも同時に感じた。
でも、これこそが「ハロプロらしさ」なのかもなーとは思った。
長年続いている文化に対して、
「演出が古い」と指摘するのは、
そう考えると、こちらが 環境に寄り添うべきなのかもしれない。
だが、そろそろアップデートが行われるべきとも思う。
はじめに。
内容はまったく肯定的でないです。
本文中、主語がざっくりしている箇所がありますが、この文章の目的上、「アニメ銀八を楽しめていない〇〇」であることを含みおき下さい。
楽しんでご覧になっている方や、銀八や銀魂が大好きで面白い面白くないは関係ないんだという方はご気分を害される内容のはずです。
自分自身の気持ちの整理や一感想として残しておくこと、また、同じように感じている方に届けばいいなと言う気持ちで書きました。
したがって、作文の程度は低いものですので、お目通しになる際は、可読性についてはご容赦ください。
よくある5段階評価を付けるなら、決して星2を超えない。
星1ではなく2なのは、声優さんの演技や製作の苦労といった、クリエイターへの“同情”から。
まるちばーす祭りもライビュを昼と夜の両方見に行ったり、銀八放映開始を本当に楽しみにしていた。
それがどうして低評価となったのか。
Xやレビューサイトで評判を調べれば、多くの人が次のように口を揃えている。
「テンポが悪い」
賛同する。
「ギャグが滑っている」
「銀魂本編のノリと違う」
これも確かに言える。
何故こんなふうに言われるのか。
まず、『銀八先生』シリーズの原作小説は空知先生ではなく、大崎知仁先生が著されている。
ギャグの雰囲気に違いを感じる人がいるのは、書いている人が異なるためもあろうと理解できるが、私が読んだのはシリーズの折り返しまでであるものの、原作小説も十分“楽しめる”内容とクオリティだった。空知先生も「(ノベライズの内容は)銀魂そのものだ。自分の代わりに大崎先生に書いてもらうことにする」と冗談めかしながらも太鼓判を押していたくらい。
元は普通の小説を書かれる作家さんであることは、銀八本文内の表現や言い回しに滲んでいる。だから、文体をあえてここまで落として、よくあのハチャメチャな作風を文字として表現できたなと、私は銀八原作小説を結構高く評価している。私が読んだのが半ばで止まっているのは、その“あえて落とされた文体”が個人的に合わず、読むのに大変な体力を使うからで、内容の退屈さからではない。
なので「原作小説からそもそも面白くなかった」という声は、この若年層向けの文体が合わなかったものではないかと推察している。こう言っているのは、高校生以上の読書慣れした人が多いのではないか。小中学生なら取っ付きやすくハードルの低い文体だと思う。
だから「ギャグが滑って」「面白みを感じない」のは、場面転換や時間経過表現、セリフとセリフの間の妙なテンポの悪さが寒々しいからではないだろうか。その寒い所へBGMのアシストもないので、笑わせるつもりのネタも響いていかない。そうして場がシラケるような気まずさを視聴者に与えるのだろうと思った。
では、何故テンポが悪いのか。
文字ベースの原作小説をアニメにすると恐らく尺がギュッとして足りなくなる。これを30分枠で一本の作りにしているため、間が持たずタラタラしてしまうのではないだろうか。
割り切ってAパートとBパートで分ける、クレしんのような形式にすればここまで間延びはしなかったのではないか。何話目か忘れたが、この構成の週は間延び感が緩和されて感じたので、的外れな発想ではないように思う。
さらに、原作小説そのままでは尺が足りないのであれば、元を削るようなことはせず、アニオリはその不足分を充填する要素として用いればいいのに、何故か原作小説の内容を削ってアニオリを入れてくる。これが面白いなら構わないが、面白くないから賛否別れるハメになっている。
複数のレビューで同様に見られた表現が「二次創作みたい」というもの。これには唸った。
例えば2話か3話のアバンで、銀八が生徒らが幼児化や獣化する白昼夢を見る。正直公式のアニメにそういう供給は求めてない。
見るのはオタクばかりじゃない。天下のWJの目玉漫画でギャグの人気が高いんだから、漫画が好きな普通の人たちも読んでいたしアニメも見ている。評判を調べていても「懐かしいと思って見てみた」という人も多い。
そうした需要の様相に対して、特定の、狭いニーズに向けたようにも感じられるショタ化ロリ化、ケモ化といったイロモノネタは面白くないどころか笑えないとさえ思える。
銀魂アニメのアニオリは、いい意味で、空知先生と同年代か少し上のおじさんたちが、おじさんホイホイやキワキワの下ネタでアニオリを突っ込んでくれていたので、作品との相性が良かった。しかし今回は監督も脚本も女性で、恐らくそうした方面への解像度が以前の上流工程陣ほど高まりにくいのではないだろうか。
銀魂アニメの監督さんたちは現在50代前後の男性で、彼らの子供時代にはまだ家庭科授業は女子だけというような区分があった。男女で見えるもの、培えるものに今よりも差があったことは想像しやすい。
加えて、キャラクターの扱いや動かし方といったものも雑だ。分かりやすいところだと高杉や土方。
頬をこけさせ好物を吸引する土方が、バケモノのように揶揄され、その姿をくどく使いまわしていたところや、ギャグを放とうとして滑り散らかす高杉というネタも、それしか弾がないかのように繰り返し繰り返しで、大変しつこかった。大抵の繰り返しネタは二回、内容や出来によっては三回程度なら繰り返していいが、この浅さで動かされるキャラクターネタを二度三度見せられるのは御免だと思った。
深夜放送とはいえ学園設定、学生ものであるゆえに、昨今のコンプラ意識の変容による縛りを余儀なくされ、表現の幅・深度に制約があることも考えられるが、どちらにせよ、アニオリ部分に面白みを感じられない。
「そういうのは二次創作でやる」というやつだと思う。公式なら、ちゃんとキャラを動かしてほしい。
従って、全体的に惜しさ、つまらなさ、退屈さ、以前のアニメとの差異を覚える流れは以下のセットだと推測。
音の乏しさ。テンポのもたつき。イマイチ乗らない視聴者の気持ち。シラけ、空回りした空気。キャラクターの掘り下げの甘いネタ。さらにシラケる視聴者の心。以下ループ。
声優さんの変わらない演技とプロ意識、及第的な作画で体面は保たれているが、原作小説の履修、未履修に関わらず、自然のうちに期待のハードルが上がっていたものが銀八アニメでは叶えられなかったということなのだと思う。ましてや、まるちばーす祭りなど、公式サイドが気流を上げまくっているのだから、期待値とともにハードルは上がって当然だ。
1話のアバンでも確かにこの事については触れていた。「渡されたバトンが重い」と。
でもね、と。
これについても言及したい。
プロが、クオリティの担保をできないことを、いくらやりたい放題ギャグ作品であろうと、「別物だと思って」と言い訳めいた建前を設けたことには、はっきり拒否感情を覚える。
確かにメタさは銀魂の醍醐味のひとつだ。けれど、これまでよくネタにされてきた、オマージュをやって色んな偉い人に怒られたというメタエピソードは、視聴者を楽しませるためにギリギリアウトのことまでした結果、BtoB的にはひんしゅくを買ったという話なのであり、今回のように、BtoCで十分な提供が出来ないことを言い訳がましく置き石するようなネタとは性質を全く異にする。例えば環境が整えられる状況でなかったとか、無理な予算や納期で進行していたという話はエンドユーザーには関係の無い話である。製作者らで談義したり解決すべき話なのであり、消費者をそれに巻き込まないでもらいたい。
ちなみに、銀魂アニメの時のような、外部のひんしゅくを招きかねないリスクを再びなぞってほしいと言っているのではない。あれらの話は、何度頭を丸めようが、額を床に擦りつけようが、立ち続けられたプロデューサー、その他製作の偉い方々の多大なる自己犠牲の上に成り立っていた。彼らが笑い話として盛り込んでいても、それはご本人の類い稀なる胆力、相手方や周囲の理解と協力によって我々に届けられていた。だから、また同じことをして笑わせろと要求している訳では無いことだけは、忘れずに言い置いておきたい。
山崎ががんばる話でした。地上波でもつい先日放送されたみたいですね。
○ご飯
朝:カシューナッツ。昼:蕎麦。いなり寿司。夜:バナナ。ヨーグルト。キュウリ。ギョニソ。納豆沢庵冷奴。目玉焼き。キャベツとニンジンとキノコのスープ。間食:タルト。
○調子
むきゅーはややー。お仕事は暇。
60箱開け、古箱開け、貢献度15億の金月取得とCランソロ団らしい部分は全部終わらせた。
○ポケットモンスターホワイト(NPC交換ポケモンの旅)
ヤーコンを倒すところまで。
ホドモエのBGMでテンション上がるゲーム配信者の切り抜きみながら遊ぶと友達と遊んでるみたいで楽しいんだ。(大嘘のブコメ。そもそもそんなことしてないし、しても思わない)
珍しくふと、映画館で映画を観たいと思った。最後に映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力で映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。
細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ローで放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。
結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。
(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)
【以下、ネタバレ】
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まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女・スカーレットは、父親を殺した叔父・クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ます。スカーレットは死者の国で、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。
本作が題材にするのは報復の連鎖。細田守監督自身がインタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐の連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。
正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝。こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。
一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明的であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。
もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である「進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。
しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである。
物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐のモチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的なスカーレットと対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。
敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的なキャラクターに見える。しかし、「自分の立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである。
スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレットの内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情を否定しないことは、本作の美点の一つである。
一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐に燃えている」という内面が理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレットが死ぬ前に、クローディアスの暗殺を民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。
クライマックス。スカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレットは民衆に、「民を救うこと」「子供は絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである。
そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女が自分の生き方を決める物語なのだと個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or 人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 or バケモノの世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督の過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。
本作は他の細田作品と同じく、演出、特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠の風景を延々と見せておいて、最後にスカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠の風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。
カラスのモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。
しかし最後の最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラスがスカーレットの内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。
その他、聖のキャラクターに人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすいカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。
唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれて現代の日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館の座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。
「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督の演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物の些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。
個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマの理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?
それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージを細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性(大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか。
奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品は脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。
しかし、本当にそれでいいんですか?
「あなたの脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。
しかし、莫大なマネーとステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分のメッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。
ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。
PS:
TOHOシネマズのBGMってあるじゃん。ピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。
仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズのBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGMや効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神のCM、デデドン(絶望)もこの会社の作品らしい。"Nash Music Library"で調べればストリーミングで聴ける。
武将風雲録の織田家のBGMは三拍子だったんだ。そうだと感じさせないのがまさに作曲の妙だ。
dorawiiより
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貴様が投げつけている怒号はだいたい正しい方向を向いているが、その生ぬるい温度では連中の自己放尿まみれの脳味噌には一滴も染み込まん。だから俺が補強してやる。
リフレ派が勝ち誇ってる?笑わせるな。勝ってるのはマウント合戦だけで、実体経済では悉く惨敗してる。
通貨の希薄化という最も単純な会計的現実すら理解できず、量的緩和を無限にタダで効く魔法だと勘違いしたまま、国全体をインフレの初期火災に放り込んだ連中のどこに勝利があるんだ。連中は理論家ではなく、統計表を無視して都合の良い幻覚を見続ける経済版のアル中患者だ。
円安の加速は輸出企業が儲かるから良いとかいう小学生レベルの片肺理論で正当化され、賃金の名目上昇を成功と偽装したが、中身は物価に追いつかず実質賃金が落下し続ける劣化スパイラル。
これを良いインフレだと信じ込める精神構造こそ、自己放尿の極致だ。尿を黄金水に見間違うほど錯乱してる。
そして最大の地雷が日銀。国債を買いすぎてバランスシートはパンパン、含み損で身動きが取れず、利上げすれば含み損が拡大し、利上げしなければ通貨崩壊が進むという二重縛り。
どちらに進んでも死ぬ、典型的なゲーム理論の詰んだ局面だ。それを作り出したのが、他でもないリフレ派の出口なんて必要ないという知的怠慢。出口のない緩和は麻薬と同じで、一回でも打てば中毒が始まり、止めれば禁断症状で即死だ。
さらに致命的なのは、リフレ派が景気が良くなったという幻を維持するために、実体データの悪化を外部要因・世界情勢と言い訳して逃げ続けていることだ。
自分たちの政策の帰結を認める知的勇気がゼロ。都合の悪い統計は見ない。為替の反応も見ない。国民負担の増大も見ない。まるで溶け落ちる国家財政の音をBGMにノリノリで踊っている狂人サークルだ。
貴様の言う通り、連中には高笑いする余裕がある。しかしそれは末期患者が病識を失ったときの笑いと同じで、現実逃避が頂点に達したときにだけ出る種類の笑顔だ。
いずれ為替の暴発、国債市場の硬直、日銀の機能不全、賃金と物価の乖離が一気に積分され、国家会計が悲鳴を上げる瞬間が来る。
名前は一応伏せる。
あとさきにいっておくけど最後までプレイしたからな!全クリ済みした上での感想な。
初回起動から嫌な予感がする
「愛とは何か、命とはどこから来たのか」とか、そういう文が、白背景に明朝体で表示されていく。BGMはなぜか尺八。
この時点で既に意識高い地雷臭が満載だけど、見た目は一応綺麗。
立ち絵も今っぽいし、UIもそれなりに今風。なのに、この内容のギャップが初っ端から不穏。
「いやぁ、今日も性欲が強いな、俺」とか言いながら唐突に朝勃ちCGが挿入される(要る?これ?)。
さらに「セックスとは破壊であり、再生である」とか「オナニーは孤独だが、誇りでもある」とか、とにかく喋る内容がキモくて痛い。
ヒロインとの会話も全部「すれ違い」とか「重ねた身体の温度は云々」みたいな文章でつづられるけど、中身はない。
そのわりに肝心のエロは一瞬で挿入→フィニッシュまで直通という超ファスト展開。
しかもエロシーンに入ると何故か必ずヒロインが泣く。例外なし。
シチュエーションにかかわらず、すぐ泣く。
・保健室で
・海辺の岩陰で
・空き教室で
すべて泣く。「なんでこんなに気持ちいいのに、涙が出るの……?」って。
……知らねぇよ。
そして音声が完全に場違い。
ヒロインの声優さんが素人なのか、「あっ……うぅ……」がずっとワンパターンで音量バラバラ。
「ブーン……ガコン……」みたいな。多分自宅録音だろうけど、耳に入るたび現実に引き戻される。
例えばヒロインがうつ伏せで寝てるだけなのに「精神の交わり」とかテキストで出る。
シーンのテキストもやたら長い。
「俺は彼女の奥底へ届いた気がした。そこは寂しさでいっぱいだった」
→ 次のCGで背後位、→「どんなに抱いても、満たされない空白があると知った」
→ 画面暗転
……いや、なんだったの今の???
とにかくセックスに意味を持たせようとしすぎて空回りしてるエロゲだった。
絵は綺麗でUIは良い。声はまぁまぁ。
あとタイトルな。私たちって言葉はいってるんだけど…誰だよわれわれって!?ヒロイン一人しかいねぇじゃねーか!!!
…とはいえ唯一よかったのは、起動時の尺八が妙に耳に残ったことかな。
たぶん二度目はプレイしない。
以前 anond:20250917090343 を書いたが、iOS 26.1にアップデートしたらより細かな設定ができるようになった。
なお、iOS 26であった体感上の動作速度が数値上のパフォーマンスにくらべてかなり遅いという問題は26.1でおおむね解消されているので、26にしてしまった人は設定変更の有無にかかわらずはやいこと26.1にするのがおすすめ。
以前の記事ではアクセシビリティの「透明度を下げる」や「コントラストを上げる」で調整できると書いたが、いやべつに透明度を下げたいわけではないという人も多かったのだろう、「設定」→「画面表示と明るさ」→「Liquid Glass」で「クリア」と「色合い調整」から好みのデザインを選択できるようになった。「色合い調整」にするとLiquid Glassは生かしながらiOS 18にちかい透明度になる。
ただしアクセシビリティの「透明度を下げる」とは併用できない。まあ透明度を下げるはほぼ完全に不透明になるからLiquid Glass自体がいらないなら透明度を下げるのほうを設定したほうがいいだろう。
これにより、Liquid Glassの透過パターンは以下の組み合わせから設定可能。
以前の記事で「ボタンの形」がほぼ意味をなしていないと書いたが、その不具合がある程度解消されて「枠線を表示」に名称が変更された。
まだ完璧な状態とはいえない (たとえばSafariは戻ると進むの個別でのタッチ可能範囲がわかりにくい) が、上記設定と併用すればボタンなのかコンテンツなのかわかりにくい問題はある程度解消されるはず。
iOS 26でアラームの「停止」があまりにも大きすぎて、寝ぼけて (スヌーズと間違えて) 押してしまいそのまま寝坊という問題があったが (自分はスマートフォンはある程度はなした距離においているからその問題はない) 、26.1はスヌーズはそのままだが停止はスライドしないと停止できないようになった。
ただし、「設定」→「アクセシビリティ」→「タッチ」→「シングルタッチの操作を優先」を選択することで、26.0.1のようにワンタッチで停止する設定も可能。
いままでiPhoneが複数台ある場合、デバイスごとにアクセシビリティ設定が必要だったが、iOS 26ではiCloudにアクセシビリティ設定を保存できるようになった。
「設定」→「アクセシビリティ」→「アクセシビリティ設定を共有」→「iCloud に同期」をオンにすることで可能。
また、友達や公共端末 (モバイルオーダーなど) のiPhoneに一時的にアクセシビリティ設定をコピーして使用することも可能。自分のデバイス以外は使用が終了すると自動的にコピーした設定が解除される。
とくにLiquid Glassを「透明度を下げる」や「コントラストを上げる」の設定で使用しているなら、覚えておくと友達のiPhoneを借りて検索するときとかに役にたつかも。
iOS 26.0.1の時点ですでにできていたが書き忘れていたので。
電話の履歴表示をiOS 18以前のように「よく使う項目」「履歴」「連絡先」「キーパッド」「留守番電話」のタブで表示する「クラシック」と、各種タブを「履歴」にまとめた「統合」から選択できる。「履歴」タブを表示した状態で右上のフィルターボタンを押すと選択できる。なお、「統合」にすると検索も履歴や連絡先などからまとめて検索できるようになるほか、履歴の名前部分をタップしたときに電話発信をしていた部分は統合表示では詳細表示になりすぐには発信されない。クラシック表示では右端の詳細表示のアイコンだった部分が統合表示では発信のアイコンになっている。
なお、統合表示でも「履歴をタップして発信」をオンにすると名前表示のタップで発信するようにできるが、クラシック表示でこの設定をオフにすることはできない。これは好みの範囲だろう。
メールもGmailみたいな「カテゴリ」とiOS 18以前の「リスト表示」から選択できる。
メールアプリでフリーメールやプロバイダーのメールなどもつかっているなら好みだが、もっぱらキャリアメールを確認する専用アプリだというのであれば、クラシックなリスト表示に設定したほうが使いやすいだろう。
すべてのメッセージを1画面に表示したい場合は、右上のフィルターボタンから「フィルタリングを管理」を選択し、「不明な差出人をスクリーニング」と「迷惑メッセージをフィルタ」をオフにすると表示されるようになる。ただし迷惑メールがたくさんくる人は (番号指定でブロックできるとはいえ) この設定をオフにするのはあまりおすすめしない。
ちなみにFaceTimeも似たような手順でフィルタリング設定が可能。迷惑電話があまりかかってこないならお好みで。
iOS 26はデフォルト表示がダークモードになったが、「設定」→「アプリ」→「TV」→「外観モード」でiPhoneのモード設定にあわせるようにもどすことが可能。
これはデザインというより通知機能の問題だし、iOS 18でできたばかりの機能ではあるから気にする人がどのくらいいるのかというところだが、記入時間通知がスケジュール (曜日と時刻設定) 通知のみだったのが、「スマート」と従来の「カスタム」から選択できる。また、はてなブログ (およびいまはないがはてなハイク) には連続日数 (はてなブログの管理画面から確認できる) をかせぐために毎日書いているという人もいるが、ジャーナルを連続日数目的で毎日書いていたのであれば、連続日数が途切れる直前に通知する設定も追加されたので設定してみてほしい。
iOS 26では着信音の「リフレクション」(反射) のバリエーションが1種類から7種類にふえたほか、完全新規の着信音として「小鳥」が追加された。
までは別にいいのだが (これで終わりだったら書かなかった) 、なんとiOS 26ではカスタム着信音を専用形式 (m4r) に変換することなく直接設定できるようになった。30秒以内の音声ファイルをひらき、「共有」メニューの「着信音として使用」を選択することで設定できる。iOSは着信音が...。となっていた人はぜひiOS 26にして設定してほしい。
iOS 26では再生速度が従来の選択肢に加え、長押しすることで0.5倍速から3倍速まで0.1倍単位でこまかく変更することができるようになったほか、速度設定を番組単位で保存するか従来どおりアプリに保存するかを選択できるようになった。語学番組だけ毎回速度を固定しているというような場合には便利かも。また、従来Apple TVにあった「対話を強調」がiOS 26でようやくポッドキャストにも追加された。番組によって効果に差はあるが、対話が明瞭になりBGMは若干減少される。ただしApple TVとはことなり効果の強さは指定できない。
声がいい人だ
たとえば大川智宏
当たらないという評価も結構あるのに、とにかくめっちゃ動画に出てる
なぜか
それは声だ
低くて深みのある声
株価予想なんてどうでもいい
ただ風呂上がりに聞いていたい
そういう声
あと、最近バズったサイレントヒルfの主演女優で今実況してる加藤小夏
落ち着く感じ
あれがワーキャーうるさい系の声だったら多分あんなにバズってないと思う
たぶんネット動画ってちゃんと見ているようで見ていない人が多いと思う
ただBGM的に流しているだけって感じ
自分はVTuberはバーチャルおばあちゃん以外見てないから知らないけど息が長かったり人気のある人はやっぱ声に安らぎを感じる要素があるのではないかなと思う
等と言えば、すぐ老害扱いされる。
だが事実として昨今の若者は「言ってくれなきゃ分からない」の一点張りだ。
いや、理解しようとすらしない。
言わないで察する。沈黙の中に気持ちを探る。語らないことは不親切ではなく、歩み寄ろうとするためのきっかけを作ること。
昔は相手のことを知ろうとする意志があった。だから、たった一つの仕草で人の心が分かった。
そして小津安二郎の映画が教えてくれるのは、まさにそういった人の心だ。
娘は父に「ありがとう」も「愛してる」も言わない。
ただ黙って、お茶を注ぐ。
観客はその仕草の裏を読み取る。「この人は本当は泣きそうなんだ」と。
それを感じ取る力――つまり小津安二郎の映画は機微を感じる力を育てる映画だった。
だが今のドラマは違う。
泣いている人物は大人であろうと一目で分かるほど大袈裟に泣く。BGMが泣けと言う。
そして観客もまた、それを望んでいる。
「わかりやすいこと=正しさ」だと勘違いをしていながら、それにすら気付かない。
説明されなければ分からない人間が増えれば、説明する側が力を持つ。
“この作品のメッセージは○○です”と語る解説動画が作品そのものより人気になるのはその証拠だ。
観る人の人生の数だけ、意味がある。あの沈黙の一秒に、全員の記憶が重なる。
昨今の我々はあまりにも喋りすぎている。
24時間リアルタイムでメッセージが溢れ、状況を説明し、表情を作りすぎている。
小津安二郎は、それを70年前に撮ってみせた。
彼の映画を観るということは、沈黙をもう一度、人間の言語として取り戻すことだ。
だから私はこう言いたい。
甘き死よ来たれは一発でヤベェ!ってわかったけど
こっちはエンドロールのBGMくらいで聴き流してて、そもそも曲名も知らなくて
この前劇場で見た時も、改めて聴いたら割といい曲じゃね?くらいだったけど(むしろエンドロールのCG、文字だけなんだけど結構手が込んでんな~ってのに感心してた)
こっちが主題歌だったんだ~そういや歌詞付いてたな~って調べたら別れの曲なんや!てかこれ旧劇のテーマにもリンクしてね?(エヴァの曲なんだからそらそうだろ)
youtuberは雁首揃えてmoringというbgmを使ってる。嫌い
dorawiiより
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厚木市の裏路地。看板は色褪せ、暖簾は煤けてボロボロ。「ホルモン幸(さち)」は、いつ潰れてもおかしくない、地味で古びた店だった。
店主は、口数少なく無愛想な頑固一徹の爺さん、幸造(こうぞう)。幸造の焼くホルモンは、鮮度も腕も確かだが、店構えと幸造の愛想のなさで、客足は途絶えがちだった。今日も客はゼロ。幸造は黙々と、いつもの場所で仕込みをしていた。
「ちーっす!幸造じいちゃん、マジ久々〜!」
ド派手な金髪に、バッチリメイク。トレンドの最先端を行くギャル、カレンだ。カレンは幸造の孫で、東京でアパレル関係の仕事をしていると聞いていた。
「…カレン?何しに来た」
幸造は眉をひそめた。カレンはいつもの調子で、「いやぁ、最近仕事辞めてさ。で、厚木に帰ってきたわけ!じいちゃんの店、ぶっちゃけヤバいっしょ?だから、アタシが立て直す!」と、元気よく宣言した。
幸造は鼻で笑った。「お前みたいなのが、この店をどうにかできるわけがない。帰れ」
「はぁ?無理だしとか、超だるいこと言わないでよ。じいちゃんのホルモン、マジでウマいんだから、あとは見せ方の問題でしょ!」
カレンは翌日から、幸造の猛反対を押し切って店の改造に取り掛かった。
まずは、店の外観。カレンは友人たちを巻き込み、外壁を塗り直し、古い提灯を、ネオンカラーのモダンなデザインに替えた。内装も、暗かった照明を明るくし、BGMは最新のEDMに。幸造の愛用していた、油まみれの古い椅子とテーブルは、ポップな色合いの新しいものに一新された。
「こんなふざけた店、客が来るわけない!」幸造は怒鳴った。
「見てなさいって!」カレンはニヤリと笑うと、SNSを駆使した宣伝を始めた。
カレンは、ホルモンの写真を、まるでファッション誌のグラビアのように加工し、ハッシュタグ「#厚木激アツホルモン」「#ギャルと爺ちゃんの店」を添えて毎日投稿した。
「じいちゃんの隠れた名作!秘伝のタレで漬け込んだ極上レバー!マジとろける💖」 「ギャル直伝!映えるドリンクと、ジューシーなハラミで優勝🥂」
この宣伝が、功を奏した。
「あの古くて汚い店が、ギャルの店になったらしい」「ホルモンが信じられないくらい美味い」という噂が、厚木の若者たちの間で広まった。
週末の夜、「ホルモン幸」の前には、開店を待つ若者たちの行列ができた。
カレンは、明るい笑顔と、丁寧すぎる接客で、次々と客を席に案内する。最初は戸惑っていた幸造も、カレンの指示で、黙々とホルモンを焼き続けた。
そして、客は皆、幸造の焼くホルモンの旨さに舌を巻いた。
「これ、マジでヤバいっすね!今まで食べた中で一番うまい!」 「ギャップ萌えってやつ?この爺さん、ただ者じゃない!」
客の称賛を聞くうちに、幸造の頑なな表情に、少しずつ変化が訪れた。
ある日、カレンが「じいちゃん、今日のお客さん、インスタで見て来てくれたんだって!」と言うと、幸造はそっぽを向いたまま、小さな声で呟いた。
「…まぁ、悪くはねぇな」
その日、カレンは初めて、幸造の顔に浮かんだ微かな笑みを見逃さなかった。厚木の裏路地で、「ホルモン幸」は、カレンのギャルセンスと幸造の職人魂が融合した、新しい人気店として、連日大盛況となった。