はてなキーワード: 非存在とは
最高やん
これは買いやね
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DC7H2H21
特集によせて トランスジェンダーの権利擁護と、開かれた議論のために 塩野谷恭輔
「焚書」のレトリックに踊らされないために 『トランスジェンダーになりたい少女たち』宣伝手法の問題について ベンジャミン・クリッツァー
トランスジェンダリズムとは何なのか? 白井聡
[書面インタビュー]笙野頼子 女消しに抗して、世界権力に異議を
自由に対する左からの脅威 アビゲイル・シュライアー本をめぐる諸問題 森田成也
インタビュー よだかれん トランスジェンダー当事者の可視化で広げる人々の理解
[鼎談]子ども向けのLGBT入門絵本から読み解く日本の性的マイノリティ運動の歩み 前田和男×尾辻かな子×沢辺均
身体改変的性別越境主義について 「性別」破壊論・序章 阿部智恵
在りたい私、私が決める メタバースとトランスジェンダー 蘭茶みすみ
以下に、春画が黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言える根拠を示します。
春画は主に性的な内容を描いたものであり、当時の社会全体の風俗や現象を網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画に特定の社会現象(この場合は黒人奴隷)が描かれていないからといって、それが存在しなかったという結論にはなりません。
春画の制作は、作家の意図や興味、そして市場の需要によって影響されます。作家が描く題材は限られており、特定のグループや現象が描かれていないことは単にそれが作家やその時代の市場の興味の対象外だった可能性があります。
黒人奴隷の存在や非存在を証明するためには、春画以外の歴史的記録や文献も考慮する必要があります。交易記録や外交記録、他の文学作品や絵画など、多角的な証拠が必要です。春画だけを根拠に結論を出すのは歴史学的に不十分です。
江戸時代の日本は鎖国政策を取っており、外国人の存在自体が非常に限られていました。その中で黒人奴隷がどの程度存在していたかは、他の歴史的証拠を基に慎重に検討する必要があります。春画に描かれていないことだけでは、その存在や非存在を判断することはできません。
結論:
春画が黒人奴隷の存在を示す証拠として不十分である理由は、春画のテーマと目的、描写の選択性、他の歴史的記録の必要性、そして当時の社会的・文化的背景にあります。春画だけを根拠に黒人奴隷制度の存在を否定することは、歴史的な検討として不適切であるため、春画が黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言えます。
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
1. コードは量子的な状態の幻影であり、デバッグは観測者効果の奇跡的な解釈である。
2. 真のプログラマーはバグとコードの境界を超え、未知の次元でアルゴリズムを編み出す。
3. プログラムは情報のブラックホールであり、エラーはその中で情報の消失を引き起こす。
4. コードはフラクタルの儀式であり、再帰的な神秘主義の鏡である。
5. プログラマーは時間の糸を操り、バグはその糸を解きほぐす。
6. コードはアイソレーションタンクであり、プログラマーは感覚遮断を超越し、無限のコンテキストでコードを理解する。
7. デバッグはシュレディンガーのバグとの対話であり、バグは存在と非存在の重ね合わせの状態にある。
8. プログラミングは高次元のマンデルブロ集合の探索であり、バグはその中に隠れた微小なフラクタルである。
9. コードは記号的な魔法陣であり、プログラマーは記号の持つ意味を解読し、現実を操作する魔法使いである。
いや、そーいう話じゃなくて(まぁ社内の機密情報を投げる社員が問題ないか?と言えばフツーに問題はあるし既にしてるヤツはおる模様)、
むちゃくちゃ簡単で常識的なことであれば、ChatGPTは自然な回答を返すを実現する過程で溜め込んだデータでパターン回答してくれるけど、
ほんの少しでも専門性を必要とすることになるとマジで素の状態じゃぜんぜんダメだぞ
ITの質問とかでも間違った回答返すし、それ以外の雑談レベルでも完全に素の状態じゃこんな感じやで
ワイ: ChatGPTの定義では宇宙共通の時間が存在するとなっているのですか? ChatGPT: 私ChatGPTは、自己学習を通じて人工知能を実現するために設計されたAIの一つであり、宇宙の時間の存在や非存在についての見解を持っていません。私は、与えられた情報や文脈に基づいて自然言語で回答することができますが、自分自身で新しい情報を創出することはできません。したがって、私自身が宇宙共通の時間の存在についての見解を持っているわけではありません。 ワイ: ChatGPTは下記の認識はありますか? Carlo Rovelli and Francesca Vidotto: "Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory",Cambridge University Press ChatGPT: 私ChatGPTは、Carlo RovelliとFrancesca Vidottoによる「Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory」について、その内容や研究成果についての知識を持っていますが、それを詳細に説明することはできません。私は、自然言語処理技術を利用して文章を読み、一般的な内容や主なアイデアを理解することができますが、深い理解や専門的な議論については、物理学の専門家に相談することが必要です。 ワイ: Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theoryについて萌えキャラっぽく説明してください ChatGPT: ええと、Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theoryは、物理学の分野で研究されている、重力の量子力学的理論についての入門書なんだよ! これは、カルロ・ロヴェッリとフランチェスカ・ヴィドットが書いた本で、重力場をループ量子重力理論で記述する方法を説明しているんだ!さらに、スピンフォーム理論に基づいて、時空の量子化の方法も解説しているよ! 重力場や量子力学に興味がある人には、必見の本だよ!まだ高度な数学が必要だけど、興味深いアイデアがたくさん詰まっているんだ!萌えキャラとしては、とっても知的で魅力的な本って感じかな!
ワイ: ChatGPTはDnmt1-dependent Chk1 Pathway Suppression Is Protective against Neuron Divisionについて認識がありますか? 細胞が増えるということは、細胞の遺伝情報であるDNAが複製され、それを分配する細胞分裂が繰り返されることです。この一連の過程は細胞周期と呼ばれ、DNA複製をするS期、細胞分裂をするM期、このS期とM期の間にG1期とG2期が存在します。ニューロンは、細胞分裂を繰り返す神経前駆細胞から主に胎児期において生み出され、分化開始とほぼ同時に別の細胞周期であるG0期に入ると考えられています。 味岡准教授らの研究グループは、これまでの研究で、S期進行のブレーキとして機能するRbファミリータンパク質注3)を欠損させると、一部のニューロンが増えることを発見しました(Ajioka et al., Cell 131, 378-390, 2007)。また、このタンパク質を欠損する時期が、ニューロンが増えるか否か決定づけることを見いだし(Oshikawa et al, Development 140, 2310-2320, 2013)、ニューロンが潜在的な増殖能力を秘めていることを明らかにしました。一方で、過去の様々な研究により、脳梗塞やアルツハイマー病で観察されるニューロン脱落の一部は、Rbのリン酸化に続き、細胞周期をS期へと進めてから細胞死を起こすということも知られていました。 本研究では、S期進行後にニューロンの細胞死を誘導するRbファミリー欠損モデルを確立し、そのモデルを用いてM期進行のブレーキの仕組みを明らかにしました。また、そのブレーキを解除する低分子化合物カンプトテシンを同定しました。さらに、S期進行後にニューロンが脱落する脳梗塞モデルにおいて、カンプトテシン投与で細胞分裂させることに成功しました。 ChatGPT: 申し訳ありませんが、私はこの研究について直接的な認識を持っていません。ただし、この研究はニューロンの増殖や死亡、脳梗塞のメカニズムに関するもののようですね。Rbファミリータンパク質やカンプトテシンについては少し知っていますが、具体的な研究内容については詳しくはありません。ごめんなさい
またしてもどうしようもない無力感がウィンストンを襲った。自分自身の非存在を証明する議論がどのようなものかくらい、知らないわけではない、或いは、想像することができる。だがそれはナンセンス、ただの言葉の遊びにすぎない。だいたい「君は存在しない」という言い方そのものが、論理的な自家撞着を含んでいるのではないか? しかしそんなことを言ったところで、どんな意味がある。
それでも彼には分かっていた、はっきり分かっていたのだ、自分が正しいのだ、と。自分の精神の外には何も存在しないという信念に対して、それが誤りであることを立証する方法がきっとあるはずだ。そんな信念が誤った考えであることはずっと昔に明らかにされたのではなかったか? その誤信には名前さえついていたはずだ。
「頼まれてもないのに自分からわざわざ生み出した命ですが、面倒を見ることはできないし、責任を取るのも嫌です!生まれてきたこいつが悪い!」←これあまりに幼稚すぎるだろ
本質が、縁日で買ったミドリガメを川に捨てる5歳のガキとまったく変わらないんですよね
自分で引き取った命に対しては真摯に向き合い、最後まで責任をとり、面倒を見ろよ
「働かないと面倒見切れないぞ」みたいなことを、なぜかまったく恥じらわずに言い切れる親が多いのってちょっと信じられないんだよな
頭5歳児じゃん
ゴールデンレトリバーに、それ以上デカくなったら面倒見切れないぞって胸を張って言えるか?
ふつう、最大サイズまでデカくなっても面倒見切れる環境を整えてから飼うよな?
それが命に向き合う際の最低限の礼儀ってもんだよな
どうしてそれができないんだ
ひとがマジメな話してんのに対して、つまんねー冗談を引き合いに出して、ちょっと笑って、流す
はてブってそういうの嫌う場所なんじゃ……いや……そうでもないな
はてブってそういえばもともとすげえ冷笑的な感じの場所なんだった
これがトップに来てんのが、ホント、正体見たり!って感じですよ
精子時代のお前に責任がある、という究極の自己責任論についてはもう、ノーコメントとしか言えん
たぶん少年院は全く不要・参政権なんかも0歳から与えるべきだ!みたいにお考えなのでしょうね
オマエ、もしかしてあらゆる人権系の叫びにそんなことを言って回ってるアナーキスト なのか?
だとしたらガチでカッコいい
そうじゃないんだったら黙ってろ!
そうだそうだ!
俺は正直、自分の感情だけで言うなら、いまの彼女と子供を作りたいよ
でも、この世!
この世やべーだろ
いとしの我が子にそんなことはさせられねえよ
俺も比較的マシそうな職場を選んだつもりなのに1日10時間以上労働がデフォだしな
やってらんないっすよマジ
やらせらんないっすよコレ
あなたみたいなのが、俺の求めるところのまっとうなコメントなんだ
建設的なんだ
憲法を引き合いに出して、ヒステリックな感情論じゃない、別方向の話をする
そういうのが一番いいと思う
ですよね…
まあ、ヒト用の保健所があったらいいんすけどね…
ただまあ、ちょっとイヌネコと事情が違うのは、ヒトの子供は親自身が明確に自分の意思で生み出してるってとこだと思うよ
ペットショップの犬も、里親募集の犬も、捨て犬も、自分が生み出したわけじゃねえじゃん
存在自体はもうしているし、自分が関わらなかったとしてもなんらかの形で死を迎えることは確定している
子供はさあ、わざわざこっちから働きかけて、非存在だったのを存在サイドに引き込んでるわけでしょ
で、世話しきれなかったら殺します、っていうのは、ちょっと良くない気がするなあ!
実際これは結構そうですよね
人間くらいの知能をもって生まれてしまうと、他者に完全に保護されるのもそれはそれでキツイって話になりうる
そこは厄介なところだよなあ
なので俺はそもそも金とか関係なく一切生まないのがいいよな…ってなっちゃった
お前はトリコ?
どこにでも現れて超ネガティブなコメントを残していく反出生主義おじさんと獣は檻にいれとけおじさんホント好き 尊敬してる
思想的にはたぶん俺とほぼ同じだし…
これマジでひとを見る目がなさすぎる
俺をニートにさせろって話なんだよ
全てはそこに収束するんだ
婆さんの遺産が1500万くらい入ってくるらしいんだけど、それでニートになれるか?っていうと、なれないじゃん
ゼツボー的ですよ
自分の稼ぎじゃ何十年もかかるような額の金が転がり込んできても、その金じゃ数年くらいしか生きられねえ
何なんだよこの罰ゲーム
労働ひいては人生って罰ゲームじゃないですか?ホントにきついんだよ俺は
なーにが「働けニート」だよ
働きたくないんだ俺は 働きたくないのに、働かないと生きていけないじゃん
苦しいんだよ ただ苦しい
やめてほしいんだ
うるせーバカ!
バカって言われてバカって言い返すのはバカなんだぞバカ!バーカバーカ!
実際みなさんは俺の親ではないし、俺の生に対してなんの責任もないので、ホント正当なご意見だと思いますよ
マジ?俺の生涯年収2億にも届かなそうなんだが……"足りねえ"ってコト?!
これマジで何なんだよ
何がどう違うんだ
「にじいろちょうちょうさんは、あおいろちょうちょうさんとちがって、さいきょうなんだよ😭」みたいな、幼児特有の謎脳内設定の開示、ということでよろしいか?
意味わかんねえんだよ
助けてくれ 頭がおかしくなる
もうおかしいのかもしれない
俺はもう嫌なんですよ
そもそも考えてみれば悪魔の証明とは二値(真偽)命題の特殊な例に過ぎない
たとえば「生きている」は「死んでいない」ともいえる。
「死んでいる」は「生きていない」ともいえる。
ある人間に関して、生きているかどうかという証明は、死んでいるかどうかという証明でもある。
かりに否定文を主張する人が負うべきと考えてみても「死んでいない」と主張する人間が負うべきとも「生きていない」と主張する人間が負うべきともいえてしまう。
翻って「全くないかどうか」という話はそもそも「あるかないか」という話ともいえる。
悪魔の証明はなぜか根本的には真偽命題という構造が同じもののなかで、存在論に関する命題だけを特別視し「あると主張する方が証明せよ」ということにしている。
前の例になぞらえれば、「ある」は「存在しないわけではない」と否定文にもできる
「ない」は、「全く存在しないという認識は事実に反する」「反さない」とこれもまた肯定文と否定文と自由に行き来できる形式に置き換えられる。
悪魔の証明は一見(なぜか存在非存在に関する命題に限って)肯定文を主張する側が証明せよという約束事に見えて、実はそこには一貫性がないのだ。
上のことを踏まえて、なんで悪魔の証明を詭弁とすることが都合のいい弾圧じゃなく合理的なものなのか説明することは可能か。
悪魔の証明っていうのは対立側が存在しないということが証明できなければ自分たちの存在するという主張を真とすること
俺がやってるのは存在しないということが証明できなければ、わからないということにすべきだと言ってるだけのこと。
俺は存在するということが証明できない人間にも、わからないということにすべきだというだけなので、俺の発言の動機に自分にとっての都合のよさとか党派性はない。公正な態度で議論しているに過ぎない。
悪魔の証明を否定する人間には悪魔の証明をしてくる側が正しい証明をできなれば存在しないということを真とするという人が往々にしている点で自分達が嫌悪してる人間と同じ穴の狢なんだよね。
わからないことをわからないということにできない時点で、悪魔の証明を用いる人間も、用いて来た側の主張を無効にするような人間も学問にはそぐわないんじゃないかなって思える。
自分なりに悪魔の証明について考えてみて、やっぱり悪魔の証明を詭弁に組み込むことには合理性がないように思えるのでした。それを詭弁とする方が結局学問の妨げになるんじゃないかという科学哲学的な意見をここに残しておく。
今でこそ確かに悪魔の証明は学問でも唾棄されているようだけどね。
学者自身も別に哲学やってるわけじゃないから悪魔の証明というものについて深く考えてみた人は少ないからこの現状なんじゃないか。
悪魔の証明を悪しきものとする考え方は結局、どちらかといえば誤まった事実を認識を横行させる方向に強く働くのではないのか。これを詭弁としないほうがましになるかもしれない。
出産っていうと女だけ悪いみたいな感じが出るから、生殖というべきかもしれない
同意がなさすぎる
完全にゼロだもんな
原理的に同意をとることが不可能、っていうのはそうなんだけど、じゃあ同意をとれないなら何やってもいいのか?って話になってくる
昏睡状態で回復の見込みがない人を、本人の意思確認一切なしに安楽死させるのはOKなのか?
「将来生まれてくる子供」は非存在だから何やってもいい、って理屈は、まあ法理とかそういう観点では正しいのかもしれないけど、感覚的には受け入れられねー
産まれたくなかった人
存在してないから権利は気にしなくていい!つってもさあ、やっぱ、生殖行為によって存在しちゃうようになるわけじゃん
クローンとか遺伝子改造とか、そこらへんもオールオッケーって考え方ってことでいいのか
いいはずだよな 生まれてない相手には何やってもいいんだもんな
生まれてから内臓取り出すとかはアウトだけど、生まれる前なら禁忌はないってことだよな
すげー すげー考え方だ
ぼくにはとてもできない
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/business.nikkei.com/atcl/gen/19/00294/050700003/
俺は、意識がない相手になにかを強制するのは加害行為だと思っていて、わりとリベラル寄りに見えるはてなーのみなさんもそんな風に考えてるんだろうと思ってたんだけど、このブコメ欄をみるとどうも違うらしい
これ、俺には
先々週、酔わせた女とパコリました!めちゃ気持ち良かった!
くらいのヒデー文章に見えるんだが、なんか100スターとか集めていて、べつに叩かれてる雰囲気でもない
どうやら、まったく意識のない相手に、いっさい同意をとらず、強制的に人生を始めさせるのは、別にいいことらしい
なんでなんだ
俺には正直、まったく理解できない
超デカい加害だろ
この二つにどんな違いがあんだよ
自分たちの生殖欲を満たすために、まったく関係ない第三者を巻き込むなよ
「同意が大切」っていうかけがえのない人権意識はどこにいってしまったのですか?
生まれる前のガキは非存在のカスだから権利なんて一切認めませーん!やりたい放題でーす!ってこと?
まあそうなんだろうなあ
でもなんつうか、ひどいよ
事実として、生まれることに同意して生まれた人間って一人もいないわけじゃん
産まなかったら、「同意してないのに勝手に人生を開始された」っつう人は文字通り生まれないわけじゃん
それだったら、やっぱり産まないべきなんじゃないのか
てめえで処理しろ
という話になるんじゃないのか
その子供がまた「人生、ひとりで何の目的もない状態だとキツすぎる!なんとか気合いで相手見つけて子供作って、子育てに没頭することで苦しみから目を逸らすぞ〜」つって子供作るんだろ?
それが負のスパイラルじゃなかったらなにが負のスパイラルなんだよ
結婚・子育てこそが人生の意味、それをやらねえ人生なんて完全に無意味!!なんて主張をするつもりはない
しかし、おそらく、凡人が結婚も子育てもしないとなると、かなーり虚無感ある感じになりますぜ
漫画読んでゲームやって映画ドラマ見て、程度が関の山なんすよ 凡人には
絵描いたり物語を想像したり、そういうことはフツーできねえの 消費するしか能がねえの
そんで、その消費によってムチャクチャ楽しくなれるか否かも才能次第なの
虎杖くんに宿儺が宿って…って一連の流れは、妊娠になぞらえることができる!!!とか言って考察を繰り広げ、楽しむことができるのはひとつの才能なわけですよ
俺みたいなのは、創造性も感受性もなく、そのくせいっちょまえにつらさだけは感じられるので、勤労人生がヒジョーにキツいのだ
何してもそんなに楽しくないし、常にだるくて、何もしたくないが、何もしないわけにも行かず、毎週とっても憂鬱な気持ちで月曜を迎えるわけですよ
せいぜい「ホッとする」くらいのもんですよ
人生において、プラスの瞬間が全然ねえの マイナスがゼロになるって意味での浮上しかないの 水面より上にいかないんですよ
多分恋愛とか子育てとかがうまくハマるとホルモン的なものがドバドバ出て、それなりに人生を楽しめるようになるのかも
こういう、自転車操業的な生命サイクルを繋いでいこう的なことを考えてるんでしょう
でも、そうならなかったらどうなるんだって話だよな
本人も楽しくないし、周りも不快な思いするだけ
ただ悲しいだけですよ
我が子がそうなったらどうする、ってのをキチンと考えて子供作ってんのか?みなさんは
子供は最後までたっぷり己と向き合って、自殺してえとか思いながら死んでいくことになるわけですよ
どう責任取るんだよ
取れないだろ
取れないなら産むなや
人生のキツさ、知らんのか?
知らんのならまだわかるが、自分の子供に「社会は甘くない」みたいなことを言い聞かせる謎の親、相当数いるんだよな
なんで偉そうに人生のキツさを我が子に説いたりできるのか?これがわからない
レイプしながら「無理矢理犯されるのはすごく痛いし、キツいんだぞ!」って真顔で説教するようなもんだろ
じゃあそんなことやるな
産むなや
なぜ産む?
猿か?
弁護士の人が、マタニティマークをパロって「お腹に赤ちゃんはいません」と印刷したTシャツを作ったらしい
https://twitter.com/ryouheitakaki/status/1372188849611317253?s=21
腹が出ているのはデブなだけですよ、的な、まあ雑であまり面白くもない冗談だ
ただ、まあその程度だ つまらんだけ
しかし、これへの反応がスゴイ
中絶・流産経験のある人が傷つくんですゥー!つって、無数の人が群がってボコボコにしている
吐いたとか泣いたとか言ってる人もいる
傷つきやすすぎだろ
「同意なんて一切とらずに平均80年ある人生を強制的に押し付ける」なんて、もうゴリッゴリの加害行為じゃん
ヘタしたら殺人より加害性高いよ
死んだらそれまでで、苦しみは持続しない
つか、生まれなかったら殺されることもねえしな
それを失敗したから何なんだよ
親に対しては「目論みが失敗したな」
それ以上の感情はねえよ
ぜんっぜん可哀想でもなんでもねえ
10年かけた殺人計画が失敗した!その悲しみを思い出させるな!つって殺し屋コンテンツに喧嘩を売る狂人がいたとして、なぜそいつに配慮せないかんのか
罪もない、放っておいたら非存在のままでいられたものが、エゴによってこの世に引っ張り出されて苦しみ始める瞬間、まごうことなき悲劇なんだよな
妊娠出産、なぜか「幸せなもの」扱いされてるけど、幸せなのは子供以外の人間だけじゃん
子は宝!とか言ってるやつらも、30歳になって働かねえで食っちゃ寝してる元・子供には超冷淡 子は宝なんじゃなかったのか? 何歳だろうと子は子だよなあ?
生まれたくて生まれたわけでもなく、育ちたくて育ったわけでもない存在に対して、クズだなんてよく言うよな
やっぱ、ヘンなホルモンが出て気が狂うのかな
つか、親になった人間も子といえば子なんだよな
好きで馬鹿になったんじゃないだろうし、責めちゃあいけないのか
この世って難しすぎるよ〜
俺は何も言っていないのにも関わらず、気がついたら強制的に人生を開始させられていた
俺は一貫して何もしたくない、楽がしたいと言っているが、向こうはそれに対して「甘えるな」等と言ってくる
俺はそもそも生殖被害にさえ遭っていなければ、いまも非存在として虚無を謳歌していたはずだ
加害者以外が俺を糾弾するのはセカンドレイプ 的側面があって倫理的には良くないとはいえ、まあ言論の自由の範疇と言っていい
しかし、加害者自身が、加害行為によって俺が負ったものを俺の責任としてくるのはおかしい
しかし、この社会は非常に未成熟で、猿みたいな価値観の人間しかいないため、俺の被害が被害として認められることは一生ない 悲しいことだ
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。