はてなキーワード: 家庭内とは
イルファン・アクタン, 長沢栄治, 稲葉奈々子, 村上薫, 岡真理「調査報告 KARIHŌMEN 日本で《クルド》として生きるということ」、
プロジェクト・ワタン事務局、2024年6月、2024年9月3日閲覧。
http://www.projectwatan.jp/wp-content/uploads/2024/06/20220717_FN-2.pdf
日本では、川口メフメトがこの地で家屋解体業を営んでいたため、後から来た人たちはそのままこの部門で働くことになりました。 しかし、クルド人が家屋解体業に従事する理由はそれだけではありません。一つは、家屋の解体作業では日本語を話す必要がないことです。また、仮放免の者たちがほとんどですので、他の業種に就けないことも理由の一つです。入国管理局による厳しいルールの一つとして、仮放免の者は就労が禁止されています。そのため、ほとんどの者たちが違法に働くことを余儀なくされています。また、近年では、日本人との結婚によって日本での在留資格を得たクルド人が、仮放免の親族を内々に雇用して、家屋解体業社を設立するケースも出てきています。
在日クルド人の労働条件についても触れておきましょう。労働安全の面では、世界的に大きな発展を遂げていますが、在日クルド人はいまだ中世のような条件のもとで働いています。ご存知のように、仮放免身分の者は就労を禁じられています。この禁止は、人々を餓死させることに等しいものです。この禁止令のせいで、クルド人は不法就労を強いられています。就労が解禁されれば、家屋解体工事に携わる者たちの労24 働安全を確保するための研修や検査が行われ、安全に作業を行うことができるようになります。仮放免の者は公的な医療サービスを受けることができません。そのため、仕事中に事故に遭った場合、治療をするにも莫大な費用がかかります。資本主義的な医療制度は、日本政府がクルド人に課している「仮放免」という奴隷制度をさらに深刻化させています。同じく仮放免身分のクルド人は、居住している都道府県の外への移動、つまり移動の自由が禁じられています。また、家屋解体以外の職に従事することもできません。
女性たち同士はほとんど家で会っていて、日常生活が家に「閉じこめられている」と言えます。男性たちは朝早く家を出て、家の解体作業をしますが、女性たちは家で育児や家事をして、社交も家でします。週末には夫や子どもたちと公園に行き、一緒に過ごします。したがって一部の例外を除いて、日本社会と在日クルド人の間には社会的な相互浸透がありません。 1960年代から70年代にかけて、欧米のフェミニストは家庭内暴力に対して女性が街頭に出ることを呼びかけましたが、アフリカン・アメリカンのフェミニスト作家のベル・フックスは、街頭に出ることは黒人女性にとって解決にならないと主張しました。黒人女性にとって街頭は人種差別にさらされる場所であり、路上での暴力や差別は、時に家庭内の暴力よりもはるかに激しいものでした。日本にいるクルド人女性にも同じことが言えると思います。
クルドの部族構造では、個人や家族の間の問題は、部族を治める家族や族長が介入して、問題がエスカレートする前に解決することができるのですが、在日クルド人同士の問題に介入して、反目し合っている人たちを和解させるには、超家族的、超部族的な構造がないために時間を要しがちです。家族間や個人間の緊張、恨み、喧嘩が数カ月、時には数年続くこともあります。 その一方で在日クルド人は、日本国家や日本社会の排他的な態度ゆえに、クルド人同士で問題があったとしてもその関係を解消することができません。「外部に対抗して団結する」というモチベーションが非常に高いのです。そのため、クルド人同士の紛争は、まさにこの理由で自然解決することもあります。お互いに問題を抱えたり、仲違いしたりした家族や個人が、共通の親族の結婚式や弔い事、週末のピクニックなどに集まり、そこで和解することもあります。
俺、氷河期世代でさ、周りも含めて色々きつい時代だったわけよ。就職氷河期とかほんと地獄だった。面接行っても全部落ちてさ、どこにも拾われなくて、家帰って親に怒られる毎日。あの頃は本気で「なんで俺たちだけこんな目に遭うんだ?」って思ってたよ。だけど、今こうやって振り返るとさ、結局は自己責任なんだよな。努力が足りなかったとか、要領が悪かったとか、いろいろ理由はあるけど、全部自分の選択の結果だなって。正直、あの頃の苦しみが甘えだったんじゃないかって思うことすらあるんだよね。
で、今の俺は年収700万しかない貧困弱者男性。嫁には「甲斐性なし」って毎日言われるし、子どもを叱る時は「いい子にしないとパパみたいな負け犬になるよ」とか言い出すしさ。最悪なのは、子どもが真剣な顔して「パパみたいにはなりたくない」って言うんだよ。あの時は本気で笑えなかった。たしかに、他の世代の人たちみたいに大企業でバリバリやってるわけじゃないし、起業して成功とかもしてない。そんな俺に家庭内での居場所なんてないよなって思うわけよ。
しかもさ、俺ら氷河期世代ってマジで能力が低いんだよ。後輩たちはすごいよな。「肉体強化」とか「念力」とか、さらには「アンチマター」だの「ブラックホール」だの、ぶっ飛んだ能力を普通に持っててさ。広範囲攻撃で一気に片付けるとか、こっちはそんなの夢のまた夢。俺なんてギリギリ対人戦闘ができるかどうかってレベルでさ、マジで戦う前から勝負がついてる感ある。あいつら、戦う相手選ぶ余裕まであるんだぜ。こっちはそんなの考える暇すらないのにな。
だからさ、俺はその差を埋めようとして思考加速剤とかめちゃくちゃ使ってるんだよ。最初は「これなら追いつける!」って思ったけどさ、副作用で体はボロボロだし、疲れは全然取れないしで、マジでしんどい。休日もひたすら寝てるだけ。起きても何もやる気起きなくて、結局心身ともに消耗してるだけなんだよな。こんな俺、どうやって前に進めばいいんだろうって考えるけど、最後に行き着くのはやっぱり「これ全部自分のせい」なんだよな。自分が選んだ道、自分が積み重ねた結果が今の俺を作ってる。それが氷河期世代の現実だと思う。
でも、たまに思うんだよね。「本当にそうだったのか?」ってさ。俺ら、もっと救われる道があったんじゃないかって。いや、遅いけどさ。
よく自由や規制の問題が出るけれども、それを一番推し進めようとした、そして現実に推し進められた例が、香川県の「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」だと思う。
「インターネットやコンピュータゲームの過剰な利用は、子どもの学力や体力の低下のみならずひきこもりや睡眠障害、視力障害などの身体的な問題まで引き起こす」
「脳の働きが弱い子どもが依存状態になると、大人の薬物依存と同様に抜け出すことが困難になる」
などと記し、子どもたちを「ネット・ゲーム依存症」から守るために条例を制定するとうたった。
条例に罰則はないものの、そこでは①子どもにスマートフォン等を利用させる際、家庭内でルール作りを行う、②コンピュータゲームの使用は1日60分(休日は90分)を上限とし、スマホの使用は夜9時までなどとする、③保護者はこのルールを守らせるよう努めなければならない、などが含まれている。
まぁ、バチくそにゲームやスマホの自由を侵害する内容で、これが制定されたのはショッキングなことだ。
これを推進したのは2019年春に発足した県議会の議員連盟だった。香川県の最大メディア・四国新聞は同じ年の1月からキャンペーン『ほっとけない「ゲーム依存」』を開始しており、その報道に触発されての議連発足だったともいえる。
ところが、条例案をつくる議会の検討委員会は一部が非公開。しかも、議事録も作成されていなかった。
この議員連盟は自民党県政会や公明党議員会などで構成されている。
今回の選挙の後の自分の周りの反応がいつもと異なっており、純粋に疑問を抱いたため考えをまとめる意味合いと、複数の意見を聞ければいいと思い文章にまとめている。関連の記事を読んで、自分も考えてみるかとなった。
これに尽きる。いつも意見合う友人だったから今回は真逆でびっくりした。
仲良くしたいから直接は聞けないけど、何でかは気になるからここに書いてる。理由は詳細版に書いてるが割愛。
空気感に煽られたとしても、今まで選挙に興味すらなかった層が10%以上選挙に足を運んだということだけでもかなりの快挙なんじゃないかと。そしてそういう層が今後も選挙に行ってくれるなら、国民のお気持ち1つで当選する人を選べるんじゃないか?
そもそも実際の政策に満足した層だっているはずなのに、ポピュリズムで括られてしまうのってどうなんだろうな。
ようするに、政治に関心はあるが詳しくない一般人であるということだけ理解して欲しい。そんな訳で意見などあれば、わかりやすく教えてくれると助かる。
最初にニュースを見た時のことはあまり覚えていないが、パワハラで人が亡くなってしまったということで、痛ましいなと思った。
その後、報道が多かったからか名前を見かける度に今どうなっているんだろうと経緯をネットニュースなどで調べたりしていた。そして調べる度に進捗がさしてないなと思っていたところ、辞められたので驚いたし、調査結果出たのかなと思ったら、出ていなかったので更に驚いた。
正直、公務員周りの仕組みや政治についての知識が乏しすぎるので、それが適正なのかどうか自分には判断ができなかった。
会社員の端くれとして、結果がわからないのに解雇されるようなものだと思うと何でだよと思っても許されるんじゃなかろうか。
そして知事選やるのかあと思っていたら、斎藤氏は辞めてもう一度選挙に出るるらしいし、稲村氏という票集めに強い人が担ぎ出されていたりした。まあ稲村氏が当選するんだろうなと、結局疑惑はうやむやにされてわからずじまいだろうなと考えていて、しばらく特に追うこともなくなった。
自分は毎回選挙に行ってるが、段々と生活が苦しくなる実感だけが肌に積もっていくのを感じながら、もうどうにもならないんだろうなと、世間の大多数の人同様、諦めに似た気持ちだった。
若年層でもっと投票率を上げるしかないとは思っていたが、もう難しいんだろうなと自分の昔を振り返ったりもしていた。
もっと教育に組込んで欲しいが、政治を動かしている政治家達は投票率が上がったら都合が悪いだろうから、絶対にやらないだろうなと。そして家庭内で行うには両親に依存しすぎだし、全体で見ると格差が酷く歪になるだろう。自分もそうだが、様々な理由で親から教育されないものが取りこぼされるし、そういった人々こそ選挙には行くべきだと思っている。
いつも選挙の時、票を投じたい人や政党など1つとしてなく、まさしく断腸の思いで投票するも、多数派には入れないのでいつもささやかな意思表示のみに留まっていた。
その選び方も、個人的最低を除外した後から選ぶのだが、その判断基準が選挙の度に酷くなっているなと自分でも思っている。年寄りよりは若い方がまだマシだろうお前もまだ数十年生きるんだらかな、といった具合なのでお察しだろう。
ここ数年は特にしんどくて、これ海外だったらもっと暴動起きてるんじゃないのか?と思いながら、でも自分自身も暴動を起こそうとは思えないので、他責がすぎるわけだが、思考の中でぐらい許してくれよと言い訳しながら、それでも何かある度に溜息と共に考えていた。
そうして選挙戦が始まり、投票日も近いしそろそろ情報収集するかと思ったところ、予想外に斎藤氏が善戦していて何があったんだ?というところから始まった。
知事選とは思えないぐらい、色んな情報が飛び交っていて、正直自分のレベルでは真偽が付けられなくて本当に困った。
公約などそのあたりを見るのはともかく、SNSを覗いたら先日の衆議院選よりもかなり過激な内容が飛び交っていたように感じた。事の発端を考えればそりゃそうかと思いつつも驚いた記憶がある。
もし過去に政治家や企業よりも国民のための政策を乱打してくれた実績があるなら自分の票をその人にいれるだろう。
全員そんな実績もなく、選挙の時だけ発動するお綺麗で薄っぺらい公約を掲げているだけなら、経験がなくても具体的でパワフルな公約を出してくれる人に入れる。
政策については短くキャッチーにまとめた方がわかりやすいというのはわかる。でも今はインターネットがあるんだから、アクセスしたい気持ちのある人に、わかりやすく伝える努力ぐらいはして欲しいし、実績ももっと掲載して欲しいよな、何回も当選されて、貢献したという自負があるなら華々しく載せて欲しいもんだ。
でも今回は政策や過去の実績についての言及というよりも、ヘイトスピーチにしても雑すぎないか?というようなものをたくさん見た気がする。気分が良くなかった。
だからといって発端の斎藤氏の件についても真偽が何1つわからなかった気がする。随分と盛り返しているので何か新しい事実か決定的なことでも出たのかなと思ったけど、おそらく出ていない。何かあったとしても情報の海に溺れてしまった自分にはわからなかった。
斎藤氏については事実は知り得ないが、最初の印象が最悪すぎた中、行ってきた政策の着手率が凄く高く、そこは好印象だったので無実でテコ入れしてくれたらいいなと市民として軽く考えていたぐらいだった。
無実ではなかったとしても、市民に良い政策、良い政治として還元してくれるなら正直構わないと個人的には思っている。
政治家に潔癖性を求めるには政治に対して疲弊しすぎているのだ、共に働く役所の方には申し訳ないが。今回の騒動は大きかったため、さすがに抑止力や監視力などがかなり働くと思うので、結局再当選した斎藤知事には本当に本当に気をつけてほしい。
あちこちで見聞きする裏金問題のことを考えれば、ここだけ切り取って好感を持っても許されるのでは?とすら思ってしまう。
そんなことでと思うなら、政治家の皆様はわかりやすく報酬をカットしたらいいんじゃないだろうか。その分、裏金が捗るというなら、どうしようもないが、いい加減その辺りは厳罰と返金を必須にするなどして欲しい。そこについても色々問題が、と言われても一般国民は難しいことはわからないのでは?というよりそれは国民が考える問題ではないでしょうよと思ってしまう。
他人の物を奪うなって当たり前すぎて子供でもわかることなのになと。
SNSで繋がっている友人知人は思考が似ている奴等が多く、選挙の度に見かけるツイートも共感するものが多かった。
ところが、今回はそうではなかったのだ。
斎藤氏が当選し、自分としては総合的には良かったなと思ったが、何人かの友人はそうではなかった(考えが違って当たり前なのは理解した上で、いつもより強めの乖離があるため気になったのだ)
特に①については若年層が今後投票に行く後押しになれるんじゃないかと思ってかなり嬉しかった。
②は①を起こすために必須なのでやっぱり嬉しい。
しかし先に述べていた友人の幾人かは、結果について激しい落胆だけを述べていたり、中身もなく煽られたポピュリズムのクソ結果じゃないかと、アメリカ大統領選と絡めてそんなことを言ったりしていた。
彼は自分よりも結果を重視するタイプだと思っていたので、驚いて、多分少しショックで、今こんな長々と書いてるんだろう。
勝手に落胆しているので悪いのはこちら側であるし、本人と揉めたい訳ではないので、不特定多数への問いかけという手法を取っているだけということは理解して欲しい。
新旧メディアの対決のように言われていて、最終的に形の掴みにくい「既得権益者達」と「ハメられた斎藤氏」という、権力に切り込もうとして虐げられた者という日本人の好きそうな構図に合致してしまったなとは思うが、先にも述べた通り斎藤氏自身の報酬のカットや学校関連の予算増額など、目に見えた恩恵を受けた県民だっているのだ。
面と向かってディベートできず匿名で文章を書いている自分は狡いとわかっているが、じゃあ今回はポピュリズムを嘆いている人達はどうしたら良かったと思うんだろう、今後どう政治を見ていけばいいのか教えてくれよと、そういうメッセージを投じたかった。
感情論も入った文章になっている自覚はあるが、自分と違う意見を非難したり馬鹿にしたいわけじゃなくて、自分の意見すらままならず、自分の思いもよらない考えの過程に思考が至らないだけなので、教えて欲しい。あと、あんまり怖いことや難しいこと言われると泣いてしまうので、なるべく優しく頼みたい。
その点、政治家はプロだ。そんな政治家の行ったことを、生きて暮らしている中で自分が感じた気持ちを投じて是非とするのが選挙だ。
期待されて当確した政治家がパッとしなかったら、次回はAを落としてBにする。それでいいと思うんだが、そんなに悪いことなんだろうか。ここ数年はどんなに否と叫ぶ人々がいてもその変更すらままならなかったと思うんだが。
そういう意味では空気感に煽られたとしても、今まで選挙に興味すらなかった層が10%以上選挙に足を運んだということだけでもかなりの快挙なんじゃないか。そしてそういう層が今後も選挙に行ってくれるなら、国民のお気持ち1つで当選する人を選べるんじゃないか?と期待したくなる。
前回の選挙で石丸氏に投票した若者がSNSで批判されまくってた時の気持ちに似てるのかなと思わなくはない。考えた末に鼻で笑われるとかたまったもんじゃない。わからなくても詳しくなくても知りたい気持ちはあるのだ。
その愚痴、わかるけど、ちょっと冷静になれよ。歴史を振り返ると、そういう不平等は昔からあったんだよ。例えば、19世紀のヨーロッパやアメリカでの女性の服装を見てみろ。男性はポケットがあって、荷物も簡単に持てるのに、女性はポケットのないドレスやスカートを着ていた。この時代、女性の社会的役割は家庭内に限定されて、外で仕事をすること自体が少なかったんだ。だから、ポケットが必要だと思う人が少なかったってわけ。
でも、それは結局、社会的に「女性の外出は限られている」「女性にはポケットは不要」とされていたからだろ? そういう社会構造が続いてきた結果が、今の小さな不便になってるんだ。マリー・アントワネットなんかは、まさにその象徴だろ。彼女が女性の役割を高めるために、女性用の豪華な衣装を作り、逆に「機能性」を無視したわけだ。でもそれが結果的に社会全体での女性の「自由」の制限に繋がった。今もその名残があるんだよ。
ポケットがないという小さな不平等、確かに日々の積み重ねで心が削られる。でも、無視されるのはお前だけじゃない。男性だって色んな形で社会から無視されたり、抑圧されたりしてきた。例えば、ヴェルサイユ宮殿の改革で服装に関して男性が無駄な贅沢を避けるようになったように。どちらも不平等だけど、歴史の中ではその不平等をどう解消するかが重要なんだ。
そして、「ポケットくらいなくても平気じゃね?」って言う奴には、歴史的にみても無関心な人間ほど、自分が得していることに気づかずに「大丈夫だろ」って言うんだよ。これはシェイクスピアの『ハムレット』にも出てくる、知らずに無知を通す愚かさの象徴だな。
今はその不平等に対して声を上げることが大事だ。でも、何も一回で変わらないから。アリストテレスの言う通り、「目標を持って粘り強く努力すること」が必要なんだ。少しずつだが、確実に進んでいることを忘れないでおけ。
最後に、孔子の言葉を思い出せ。「学びを深め、思慮を尽くし、時が来るまで待つべし」だ。焦るな。ポケットも、その他の不平等も、必ず変わっていくから。
私は国民民主党のふわっとした支持者だった。
神奈川県在住の20代で大卒、有名でも無名でもない企業の正社員だ。
玉木雄一郎の不倫騒動を受けて初めてはてなダイアリーに投稿しようと決めた。
むしろ政治家に自分の生活を良くしてもらえるかもしれないと、軽々に期待をした自分に深くがっかりした。
振り返れば国民民主党が気になりだしたのは3年ほど前だ。
自民党の政治に辟易した私は、それから既成政党の中では最も政策が優れていると思った国民民主党を応援し始めた。
例えばガソリン減税。
貴重な税収という意見もが、あり得ない二重課税は制度としてはあまりに下策だ。
また金融政策についても感覚が正しいと、少なくとも私には思えた。
追加利上げを強く主張する河野太郎や野党議員もいたが、国民民主党の姿勢は慎重だった。
私も同意見だ。
円安による悪影響は大きくなっていたとはいえ、今年の企業の想定為替レートは1ドル=145円程度にしているところが多かったように思う。
新NISAは良い制度だと思うが、「また政府にだまされた!」という人も出てくるかもしれない。
最近の103万の壁突破もいろいろ言われているが、現役世代の手取りを増やすことは何も間違ってはいない。
そもそも年金はマクロ経済スライドによって現役世代の所得が向上しない限り、インフレ下では受給額が減らされる。
現役世代の経済力を上げないと困るのは高齢者というのは本当だ。
公明党くんは、高齢者ばかりの住民税非課税世帯に金配って満足している場合ではない。
猛省してほしい。
そして、今回の衆議院選挙。
額面から30%弱もいろいろと天引きをされて悲しい思いをしている自分の生活も、ちょっとは良くなるかもしれないと胸が躍ったのは事実だ。
立憲民主党にも左派の活動家と不倫をしていた議員がいるし、思っている以上に社会人は不倫をしているのかもしれない。(気になる)
ただ、問題は不倫が許せるか否かにかかわらず、この騒動で国民民主党の評判はがた落ちしたことだ。
この報道を耳にして勝ち誇った立憲民主党や共産党の支持者のアカウントたち。
垂涎のイベント発生とばかりに、鬼畜の形相でツイートしていることだろう。
ともあれ、今の国民民主党には玉木の代わりになる政治家はいない。
衆議院議員は新人ばかりだし、当選回数を重ねている議員も得意な政策分野には強くとも、マルチで政策を語れるさえ政治家はいなはずだ。
そのため、私はおそらく国民民主党はここで終わったと思う。
少なくとも日本政治における政党型シンクタンク的な立場でかろうじて生き残ることはあっても、政権にかかわるゲームチェンジャーになることはないと思う。
玉木雄一郎は今、どう思っているのだろうか。
冒頭に述べた通り、私はこの件で玉木を責めてはいない。
もちろん過去の玉木の発言の通り、不倫はセキュリティクリアランス的に非常に問題だとは思うが、議員に過度にモラル的であれ。とは全く思わない。
(玉木のダブスタは良くない。おつ)
四方八方から「死ね」「人殺し」と言われても、耐えざるを得ないのは政治家ぐらいだろう。
同級生は外銀やコンサルで自由にそこそこ稼いでいるだろうに、秘書を雇い事務所を運営したら大して旨味もない給料で、
罵詈雑言に耐えて、クソみたいな仕事を代わりにやっていただいてる身だ。
自分が生まれ変わってもなりたくない職業ランキングでは、政治家は確実に上位に入る。
そんな仕事をわざわざやってくれて、感謝の念こそあれ、怒りなず湧くはずもない。
そう思っていたのに、こんな仕事を議員に押し付けておいて、日本という国家を適当に運転してもらうだけではなく、
今よりも自分の生活をよくしてほしいと、今回ちょっとでも思ってしまった。
本当はわかっていた。
今の日本は現役世代は血反吐をはいて仕事しても、1000万円でも富裕層と考えられて金を吸い上げられると。
中間層すら政府にとってはATMでしかなく、日本の治安維持と政治家の不手際を補うための金を捻出する人柱なのだと。
ちょっと前まではわかっていたのに、国民民主党なら違うと思った。
変えてくれると思った。
国民民主党の特徴の1つは、最近では稀な「他人に支持していると言いやすい」政党だったという点にあると思う。
自民党支持は恥ずかしいし、立民は活動家と一緒に「みんなきれいだね!」と内輪で盛り上がっているし、
公明党は宗教だし、共産党はパワハラ疑惑がささやかれている。れいわは「金よこせ!」と代表が歌いながら踊る。
保守党は……ね笑
そうした奇特な政党ばかりの中で、政策も議員も比較的まともだったと思えた。
「国民民主党ちょっといいよね」とかなり言いやすかったと実感のある人も多かったのではないだろうか。
今、国民民主党の支持者がほかの政党の支持者になんて言われているか知っているか。
「玉木は言動が軽かったから。ほら言った通り、お前ら騙されてんじゃんwww」
こう罵られている。
だよね、騙されたのかも。
■僕が地下に潜ろう■
なんかのネット番組で言われたそうで、政策はちゃんとしていて一部の人からは知られているけど、
そんな政党が今回の選挙で一気に表に出た。そして直後に評判は急落した。
他人にも支持を表明しやすかったのに、支持者は今、盛大に罵られている。
支持者にとってこんなにも屈辱があるだろうか。
国民民主党は地上に出た。
しかし、代わりに私はどこかの政治党を支持しているなんてことは、今後一切人に言わないと決めた。
こうした屈辱は二度とごめんだ。
国民民主党が政治にインパクトを残せるような政党になった時、私はまた支持できるだろうか。
今の状況だと、そもそもそうなりそうもないが。
しかし、万が一そうなった時には、政党・政治家に期待をしてはいけないと決意した私でも、
政策を見てまた馬鹿みたいに胸を踊らせてしまうような政党に変わっていてほしいと思う。
さようなら玉木。
一瞬でも夢を見せてくれてありがとう。
★おまけ
玉木さん、あなたの不倫が暴露されたのを財務省の陰謀だと思っている支持者がいるようです。
私は違うと思います。
それに万が一そうだったとしても、あなたが不倫をしたことは財務省の陰謀ではないはずですよね。
支持者にも変な人たちが増えて本当に大変ですね。
★おまけ2
ここまで読んでくれた人いるのかな。お目汚しの拙稿を大変失礼しました。
ブコメを書いた人が持つ偏りの背景には、いくつかの要因や経験が影響している可能性があります。以下のようなバックグラウンドが考えられます。
ブコメのような視点を持つ人は、過去に結婚制度や伝統的な社会規範に対して強い反発を感じた経験があるかもしれません。例えば、次のような状況が考えられます。
結婚において、パートナーシップにおける自由が制限されたと感じた経験や、結婚生活が束縛的だと感じたことがある場合、その反動として結婚制度そのものを否定的に捉える傾向が強くなることがあります。特に、自己決定権や自由を重要視する人は、過去の結婚や恋愛の中でそれらが抑制されたと感じることがあるため、その経験が強くブコメに現れる可能性があります。
もし育った家庭や社会環境が非常に伝統的、保守的であり、家族や結婚に対する「所有物」的な価値観を強調していた場合、これに対する反発から、結婚そのものに対する批判的な態度が形成されることがあります。この場合、「結婚=自由を制限する」といった見方が自分の価値観として根強くなりやすいです。
ブコメのような自由主義的な視点は、特に近代的な社会において育った場合や、自由と平等を重視する思想に影響を受けていることが考えられます。次のような文化的・社会的な背景が影響しているかもしれません。
西洋的な個人主義の価値観が強く根付いた環境で育った場合、「個人の自由」や「自己実現」を最優先に考える傾向が強くなります。このような環境では、結婚という制度を「自由を制限するもの」として否定的に捉える考えが浸透しやすく、またそれが自然な価値観として受け入れられることがあります。
リベラルで自由主義的な教育や思想を受けて育った場合、結婚に対する伝統的な価値観を否定する傾向が強くなることがあります。例えば、結婚を「所有」のような抑圧的な関係として捉え、その背後にある社会的・文化的な規範を批判する立場を取ることが多くなります。この場合、「自由」や「個人の権利」を重視するあまり、結婚の持つ他の側面(信頼、相互尊重、責任感)を軽視してしまうことがあります。
ブコメに見られる「好きでいれば素晴らしい」という考え方は、理想主義的な価値観が強いことを示唆しています。この理想主義は、現実的な制約や複雑さを無視して「理想的な自由」を追求しようとする傾向を強化することがあります。理想主義的なバックグラウンドには次のようなものが考えられます。
自由で対等な関係が理想とされ、パートナーシップや結婚においても「制限なし」「束縛なし」の理想を追求する傾向があります。過去の経験や読書、映画などで「理想的な恋愛」や「理想的な自由」を見たことがあり、現実の結婚や恋愛がその理想にそぐわないと感じる場合、結婚を否定的に捉えるようになることがあります。
完全な自由や平等を重視するあまり、それを実現するためには結婚制度や伝統的な価値観が障害となると見なすことがあります。この場合、結婚の複雑さや、関係の中で自然に生じる役割分担や責任が「自由の制約」として過剰に否定的に解釈されがちです。
ブコメのような視点を持つ人は、特定の社会的背景やグループに対する反発心を持っていることがあります。例えば、家族や社会からの期待や圧力に対して反発を感じ、自分自身のアイデンティティを守るために「自由」や「個人主義」を強く主張することがあります。
特に、保守的な社会や家庭に育ち、結婚や家族に対する伝統的な価値観を強く押し付けられた場合、その反動で自由主義的な立場に傾くことがあります。結婚や家庭に関する社会的規範に対して強い反発心を抱くことが、そのような偏見を強める原因となる場合があります。
伝統的な結婚観が社会において「常識」とされている場面では、その枠に収まることに対して反発を感じ、自由な選択肢を支持する立場を取ることがあります。このような人は、結婚制度を単なる社会的規範として批判し、その枠組みからの解放を理想とすることが多いです。
ブコメを書いた人がこのような偏った見解を持つ背景には、個人的な経験、文化的背景、理想主義的な価値観、社会的な反発などが影響している可能性があります。特に、自由や個人の権利を重視し、結婚制度や伝統的な価値観に対して反発を感じることが、ブコメの主張を強化している要因であると言えます。また、理想的な自由を追求するあまり、結婚に伴う複雑な側面や責任感を軽視しがちになることも、その思考に偏りを生んでいる要因と考えられます。
有名人の不倫報道に対して「家庭内で解決すればいい話」「プライベートと仕事は別。仕事をきっちりやれば良い」という意見がわんさか出てくるが、見当違いも甚だしい。
世の中には2種類の人間がいる。(ア)「不倫をする人間」と(イ)「不倫をしない人間」だ。
(ア)の人間は、自分が傘を持っていない時に雨が降ってきたら100%平気で人の傘を盗む。誰にもバレなければ会社の金を横領する。え?なんで決めつけるのかって?
わかるだろ。
だって普通の真っ当な人間は不倫なんかしない。家族が悲しむし、傷つくし、不倫の相手も不幸になるんだから。古来から言われていることなんだから、それがわからないはずがない。だから、わかっててやっているのである。「バレなきゃいい(バレても知らん)。」「俺(私)がやりたいからやるんだ。」
よく世間では気の迷いで、、、とか言われるがちゃんちゃらおかしい。あなたは魔が刺してで会社の金を盗むんですか?飲酒運転でひき逃げしますか?
だから、我々は不倫そのものよりは、不倫をするような倫理観の欠如した人間を、社会悪として糾弾すべきなのである。
いや、間違えた。不倫自体も糾弾されるべきである。不倫は犯罪じゃないし?という間抜けがいる。それは事実だが待って欲しい。
少し前までは、親が子供を殴ることは「躾」であり「犯罪」ではなかった。でも「犯罪」になったから悪になったのではなく、「悪」だから犯罪になったのである。
不倫も同じだ。今でこそ犯罪ではないが、それは単に現時点でそうでないだけである。不倫は配偶者や家族に対する立派な虐待である。
今アラサーなんだけど、兄弟の反抗期にされたことっていつ許せる?
私の兄は反抗期が激しくて、家庭内で暴君のように自分のことだけを優先して過ごしていた。母や私は何度か暴力を振るわれ、特に嫌われていた私は「同じテーブルで食事をしたくない」と不機嫌になるため1人だけ違うテーブルで食事をさせられたりしていた。(親も何も言わなかったのは少し傷ついてる)
そんな兄も年齢とともに落ち着き、社会人になった頃に私への罪悪感からか急に電話してきたり誕生日に物を買い与えたりしてきた。だが私はあの頃の兄の様子が忘れられず、今でも兄のことが嫌いで、怖くてたまらない。複数人いる場であってもできるだけ会話をしたくないし、1対1なんて絶対に嫌だ。母は「そんな昔のことをなぜ水に流せないの」「根に持つ方がおかしい」「兄妹の仲が悪いなんて悲しい」と言うけれど、どうしても兄と仲良くすることができない。数年前に結婚した兄の子供は兄の顔にそっくりで、子供本人に罪は無いのに苦手で避けてしまっている。
これから歳を重ねれば親の介護などで兄と話さなければ行けないことは増えると思う。それまでに兄を許して慣れることはできるのだろうか?反抗期の不仲を乗り越えた人がいれば教えて欲しい。
この投稿が創作である可能性が高い理由は、いくつかの点に基づいています:
物語性と感情の強調:投稿内容は、過去のエピソードから家族や友人との衝突、親からの批判、そして自身の人生への後悔に至るまで、非常にドラマチックに展開しています。実際の日記や愚痴でここまで詳細かつ論理的に話をまとめることは一般的ではなく、物語のように整理されていることが創作らしさを感じさせます。
読者を意識した内容:投稿の後半では「愚痴日記に反応があった」と読者のコメントについて言及しており、読者が共感したり反発したりすることを意識した表現が見られます。これは、自分の内面的な悩みを述べるにしては、読者を強く意識しすぎている印象を受けます。
専門用語と曖昧な理解:子供の内定先について「ネット?」「なんたらサイド?」「PO(ピーオー)?」など、具体的な理解が不足しているふりをしながらも、わざわざ専門用語に触れています。これは、自分が無知であることを過度に強調しすぎているように見え、自然な家庭内の会話や愚痴とはやや異なります。
構成が物語的:投稿の構成が「過去の衝突」「他者からの批判」「自己分析」「後悔」といった物語の起承転結に沿っているため、フィクションとして書かれたような印象があります。
以上の理由から、この投稿は創作の可能性が高いと考えられます。
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以下に、実際にあった話のように読み手に伝わるよう、少し現実的な表現や視点に修正しました:
先日、子供の就職先についてちょっと意見したところ、思いのほか言い合いになってしまいました。私もつい感情的になってしまって、子供に「偉そうに語るな」って言われたときは、さすがに腹が立ちました。
その後、夫にもこのことを愚痴ったんですが、夫は「子供に言ったことが少し理解しづらい部分もあったのかもね」と言っていて、なんだか微妙な気持ちになりました。最初は私の味方をしてくれていたんですが、どうも途中から「あまり深く知らない話で意見しないほうがいい」と遠回しに言われた気がして、夫とも少し言い合いになりました。
正直、親しい友人に話しても「あまり気にしなくてもいいと思うよ」と慰められる程度で、結局なんだかモヤモヤだけが残ってしまいました。特に母からは、「あなたも社会を少し知ったほうがいいよ」とか言われてしまって…やっぱり専業主婦だからでしょうか、ちょっと社会から離れていることが気になりました。
考えてみれば、私は一貫校で進学し、就職も親の紹介で決まっていたので、就活の大変さとか今の仕事事情とか、よくわかっていないかもしれません。仕事も結婚までの数年で辞めてしまったので、子供から見れば「ただのオバサン」に見えるのも無理ないかなと、少し反省しました。
この意見には、いくつか気になるところがある。まず、性別に対する見方だ。「女性がいなくても技術がそれを代わりにすることができる」というような主張があるけれど、それは現実的ではないし、どこか冷たく感じられる。確かに、科学は驚くほどのスピードで進んでいる。クローン技術や人工子宮の研究も進んでいることは間違いない。でも、性別の役割を完全に置き換えられるというのは、技術や倫理の面から見ても、まだずっと遠い未来の話だと思う。そういう発想自体が、性別に対する固定観念や偏見をそのまま残しているようにも思える。
それから、経済に関する考え方も少し偏っている。「女性が経済を回すために重要だ」というような視点だが、経済は性別によって動いているわけではない。もちろん、生理用品や高級ブランドなど、女性の消費が大きなウェイトを占めている分野もある。でも、それだけで経済全体を語ろうとするのは、何かを見落としているような気がするんだ。経済というのはもっと複雑で、さまざまな需要と供給から成り立っているものだから。
さらに、一夫多妻制についても、一筋縄ではいかない話だ。「一夫多妻制は女性の自由な選択肢の一つだ」という主張も、よく考えてみれば矛盾をはらんでいる。一夫多妻制は、長い歴史の中で男女の不平等の象徴ともなってきたし、現代ではジェンダー平等の観点からも批判されることが多い。多くの国で受け入れられていない理由のひとつは、女性の権利や家庭内の平等が十分に保たれないリスクがあるからだ。女性の利益を尊重すると言いながら、実は根底に偏見が残っているというのは、論理的にもすっきりしない。
全体を通して、この意見には現代のジェンダー平等や協力の価値観と相反する部分が多く含まれている。今の社会は多様性を尊重しようという流れの中にあるけれど、この主張はどこかその大切な価値観に背いている。だから、現実的にも、そうした社会の流れには馴染まないだろう。
要するに、この意見にはジェンダーについての誤解や偏見が含まれている。社会的にも倫理的にも納得できるものとは言いがたいし、実際の社会構造や多様性を無視しているため、提案としての現実味も乏しいと言わざるを得ない。
○選シリーズも下火になってきたところで投下するよ。
元ネタ1:
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
元ネタ2:
https://anond.hatelabo.jp/20241026213447
最初はファミコンだけで10選を作ろうとしたけど、方針を変えた。なぜならファミコンの初期にはアーケードからの移植作が多く、それらはどちらかというとアーケード作品として評価すべきだからだ。
ついでに他のハードも含め、80年代以前のコンピュータゲームすべての中から選出することにした。なおシリーズ物は一作のみとする。ゲーム史のカンブリア紀におけるレジェンド級の作品を見て行こう。
(追記)
コメントでの指摘を受け、ポートピアのジャンルをグラフィックアドベンチャーに修正。
アメリカのアタリ社が開発し、世界で初めて商業的に大ヒットをしたゲーム。コンピュータゲームが一大産業として成立する道を開拓し、これをきっかけとしてアメリカでアタリの時代が花開くことになる。
日本では翌年にタイトーとセガがポンのコピー品を作り、これが日本初のゲームとなった。
アタリのヒット作第二弾。いわゆるブロック崩し。これのリメイク版にあたるのがアルカノイドで、現代に至るまで古典的なゲームの一つとして知られている。
日本ではタイトーとナムコが正規のライセンスを持って生産していたが、それ以外にも日本の多数のメーカーがこれを模倣したようなゲームを作り、のちに日本のゲーム産業が花開くきっかけとなった。
いまでは有名なメーカーが、正規のライセンスもなしにコピー品を作っていたという、大らかな時代でもあった。後にタイトーが、これをもとにスペースインベーダーを作ることになる。
初の日本のメーカーによるオリジナルの大ヒット作であり、日本で初めて社会現象を巻き起こしたゲーム。それまでゲームに縁のなかった日本のお茶の間にまで、コンピュータゲームを知らしめた作品。
日本のアーケード史上最大のヒット作といわれ、喫茶店やスナックのテーブルがこのゲームのテーブル型筐体に置き換えられるほどだったという。
数が減るごとに動きが速くなる敵、敵がこちらを攻撃してくる緊張感、たまに出現して撃ち落とすとボーナスの入るUFOなどアドレナリンの分泌を促す仕掛けが満載で、ゲームの面白さの本質が詰まっている。
単独のゲームソフトではないが、シリーズまとめてランクインとする。
初の大ヒットした携帯ゲーム機で、特に低年齢層を中心に爆発的にヒットした。当時のゲームセンターは不良の溜まり場で子供には出入りしにくく、据え置きの家庭用ゲーム機もあったが値段が高く、
そんな中で比較的安く買えてどこでも手軽に遊べるゲーム&ウオッチは子供向けのゲーム機としてうってつけであった。
横井軍平の代表作の一つであり、シャープと提携して電卓の技術で作られた玩具。この横井軍平とシャープのタッグは、のちにゲームボーイを生み出すことになる。
ナムコの躍進のきっかけとなった作品にして、日本のアーケードの大ヒット作第二弾。
敵の種類ごとに異なる思考アルゴリズム、敵との強弱関係を逆転させるパワーエサ、緊張を緩めるコーヒーブレイクなどゲームを飽きさせない工夫が随所に施され、その工夫の数々は多くのクリエイターに影響を与えた。
日本のみならずアメリカでも大ヒットを飛ばし、日本のゲームが世界で通用することを知らしめた。80年代のゲームの中心地がアメリカから日本に移っていく、その象徴となる作品。
ウルティマと共に、すべてのコンピュータRPGの始祖と言っていい作品。もともと机上で行われていたTRPGであるD&Dをコンピュータ上に移植するというアプローチで生まれた、他のゲームとはだいぶ出自の異なる作品。
ゲームシステムの多くはD&Dに由来しているが、移動画面と戦闘画面の切り替えによって進めるゲーム進行、コマンドを選ぶことで進める戦闘システムなどコンピュータRPGの基本的なシステムが完成されており、
ウルティマと共に、後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。堀井雄二も坂口博信もこのゲームをやり込んだという。
スペースインベーダー、ギャラガと続くシューティングゲームの系譜を完成させた作品。これ以降に出たすべての縦シューは、このゲームの子孫である。
また初めて隠れキャラを採用した作品として知られ、ゲームにおける「隠し要素」の祖ともいえる。
グレーのグラデーションで描かれた光沢のある敵のデザイン、航空写真のような森、海、道の風景は、真っ黒な背景に簡素なグラフィックのゲームが多かった時代に圧倒的なクオリティを誇っていた。
何度でも繰り返し遊びたくなる仕掛け、背景の物語の神秘性と相まって、多くの人を熱狂させた。
説明不要、宮本茂の生み出したゲーム黎明期の最高傑作の一つである。
その画期性はググればいくらでも出てくるのだが、改めて分析しても同時代の中で突出した存在である。
どこまでも広がる世界の解放感、至るところに隠されたアイテムやボーナスステージ、操作に習熟するごとに感じられる上達の喜び、初心者が楽しみながら悔しがりながら上達できるレベルデザイン、
どこを取ってもオーパーツのようなゲームであり、いまだにゲームの古典的教科書の一つである。
アーケードからの移植作が多かった時代に、この作品は「ファミコンでしか遊べない大ヒット作」であり、これ以降ゲームの主戦場はアーケードから家庭内に移ることになる。(ゲームセンターに風営法が適用されたことも影響している。)
ウィザードリィやウルティマを元に、日本人にはとっつきにくかったRPGを日本人向けに大幅にアレンジして生まれた作品。
これ以前にも日本のメーカーからRPGはいくらか出されていたが、ドラクエの爆発的ヒットを元に、日本独自のRPG=JRPGの市場が開拓されることになる。
とっつきにくい要素を排除するために、元のTRPGにあったリアリティを大きく削ぎ落したりしているため、当時のTRPG界隈などからは批判も受けたようであるが、そうでもしなければこのゲームが国民的作品になることはなかっただろう。
反面、そのあまりにも日本向けに特化しすぎたアレンジが仇となり、海外展開にはあまり成功していない。
ドラクエが生み出した(時におかしな)JRPGの「定番」「お約束」は数知れない。その影響はゲームだけに留まらず、西洋ファンタジーを題材とした漫画やラノベ等にもおよび、今日に至るまでその影響を与え続けている。
宮本茂の最高傑作第二弾。スーパーマリオとはまた違った方向性で世界の広さを表現した、知恵と工夫と探索のゲーム。
このシリーズは極めて神がかったバランスの上に成り立っており、簡単に模倣できる作品ではないため、直接のフォロワーとなる作品はあまり現れてはいない。
しかしゼルダシリーズの魂とでも呼ぶべき、閃きと発見の楽しさは形を変えて多くのゲームに受け継がれている。それはダンジョンの中のちょっとしたパズルや謎解きだったり、アイテムの入手によって切り拓く道だったりするだろう。
近年のインディーズ市場において、ゼルダシリーズから影響を受けたようなゲームが多数見られることからもその影響力の大きさが伺える。
◆◆◆
以上、10選終わり。
以降は選外となった作品。
世界初のコンピュータゲームと呼ばれるものの一つ。オシロスコープとアナログ機器で作られたゲームであり、正確にはコンピュータゲームと言えるのかも分からない。
研究所の見学者に大評判だったが、その後忘れ去られ、後のゲームには影響を与えていないという。時代を先取りしすぎた作品。
学生サークルが開発し、商業的に成功した作品。いわば同人ゲームの草分けのようなものである点に着目したい。アマチュアが作ったゲームで初めてヒットした作品といっていいのではないか。
ローグライクと呼ばれるジャンルの始祖となった作品。D&Dから影響を受けて作られた探索ゲームであり、実はウィザードリィ、ウルティマよりも古く、最古のコンピュータRPGの一つに数えてもいいかもしれない。
コンピュータRPGの始祖の一つで、ウィザードリィと共に後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。2D見下ろし型のフィールドマップは、このゲームが元祖である。
正直10選に入れたかったが、宮本茂多すぎやろと思って外すことにした。
宮本茂の初のヒット作にして、後に世界的大スターとなるマリオのデビュー作。コンパクトな画面に詰め込まれたジャンプアクションで、後のスーパーマリオにつながるようなアイディアが、すでに多数詰め込まれている。
グラフィックアドベンチャーの傑作で、堀井雄二の原点。原作はPC版だが、どちらかというとファミコン版の方に着目したい。
コマンドを選んで進めるというファミコン版のスタイルはドラクエの原点ともいえ、このゲームの開発で得た知見はドラクエの開発に大いに影響したことだろう。
最も知られているのはゲームボーイ版だが、最初に作ったのは旧ソ連の科学者である。
ゲームボーイ版の方は「ゲームボーイ史上、もっとも重要なゲーム10選」に選出されているのでこちらはあえて原作をチョイス。純粋なパズルでこれだけ人を没頭させるものは他にないだろう。
光栄の歴史シミュレーションゲーム。この2年前に「信長の野望」が発売されており、歴史シミュレーションゲームとして最初にヒットしたのはそちらであるが、俺は三國志の方を評価したい。
これは歴史のifを楽しむゲームであり、人材登用のシステムによって史実では敵だった人物を部下にするなどして、夢のドリームチームを組むという楽しみ方ができる。
歴史を題材としたゲームでありながら歴史を大胆に改変してもいいという発想が大きな魅力につながり、こうした発想は現在の歴史物のゲームにも影響を与えている。
世界初の体感型ゲームにして、セガの体感ゲームシリーズ第一弾。バイク型の筐体にまたがり、身体を傾けて操作するバイクレースゲーム。
ゲームの主戦場がアーケードからファミコンに移る中で、そのアーケードでしか実現不可能な臨場感が注目された。こうした大規模なギミックは、後にアーケードが復権する鍵の一つとなる。
ドラクエ以前の日本のRPGで大きくヒットした作品。日本のPCゲームで最も売れた作品とされ、ファミコンともアーケードとも異なるPCゲーム市場を先導した。
コナミを代表するシリーズの一つとなった作品。任天堂のメトロイドと合わせ、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンルを形成しフォロワーが多数現れている影響力を評価したい。
セガの体感ゲームシリーズの一つで、リアル系ドライブゲームの元祖。車を運転すること自体の楽しさに焦点を当てたゲームで、ドライブの楽しさが存分に盛り込まれている。
スクウェアの本領が発揮されるのは90年代だと思うのでここに入れるかも迷ったが、初代が売れなければスクウェアが潰れていた、という点で重要な作品。