はてなキーワード: 様式とは
これは私自身が、また私以外の業界から転職されてきた方々を見てきて、これではないかな?と思うことがあります。
それはプログラマー以外の仕事は、常に本番環境である、ということです。
たとえば営業であれば、取引先との打ち合わせも見積もりも、ひとつひとつが「本番」です。やり直しはききませんし、次の瞬間には社外の人の評価や信頼がかかっています。接客や教育、医療、建築…どの仕事もそうです。人や社会に直接つながっている以上、テスト環境など存在しません。常に結果が「本物」として記録されていくのです。
その点、プログラマーの世界は少し違います。そこには「テスト環境」があり、「デプロイ」という明確な境界があります。エラーが出ても、まずはコードの中で直せばいい。実験と修正を繰り返しながら、本番に近づけていける。失敗から学ぶ仕組みが、仕事の構造として組み込まれているのです。
もちろん、だからといってプログラマーが気楽だという話ではありません。むしろ「テストできる」ことが前提だからこそ、完璧なシミュレーションを作り上げる責任が生まれます。本番環境を一歩でも誤れば、大きなシステム障害につながることもある。
けれど、「試すことが許されている」という点で、プログラマーの仕事は他の仕事とは質的に異なる、と私は感じます。多くの職業では「やってみること」そのものがリスクになるのに、プログラマーだけは「やってみること」が日常の一部として制度化されているのです。
たとえるなら、プログラマーの仕事は「楽屋のある職業」なのだと思います。
多くの仕事は、目を開けた瞬間からステージの上に立たされるようなものです。接客業ならお客さんの前に立った時点で本番が始まっていますし、教師なら教室に入った瞬間に舞台袖はありません。間違えば生徒が戸惑い、客が離れ、取引が破談する——それらはリハーサルのない一回きりの公演です。
一方で、プログラマーは楽屋での準備が長く、ステージに出る時間は驚くほど短い。コードを書く、テストする、修正する。その多くは「誰にも見られない暗闇の中」で進んでいきます。そして、いざデプロイという名の本番を迎えるときには、すでに何十回ものリハーサルを終えているわけです。
そう考えると、プログラマーの面白さは「安心して失敗できる時間」が保証されていることかもしれません。社会の多くの仕事が「失敗しないための緊張」で成り立っているのに対し、プログラマーは「失敗を前提とした反復」で完成に近づいていく。
この違いは、単に働き方の差ではなく、「世界との関わり方の構造の違い」にまで広がっているように思うのです。
その境界線こそが、プログラマーとそれ以外の仕事を分ける根本なのかもしれません。
プログラマーの失敗は、基本的にログに残ります。誰が、いつ、どんなエラーを出したのかが正確に記録されます。でもそのログは、「修正可能な痕跡」であり、「過去をなかったことにできる記憶」です。失敗は恥ではなく、改善のためのデータとして保存される。むしろ失敗を残さない方が恐ろしい——なぜなら、それは検証も再現もできないバグだから。
一方、他の多くの仕事での失敗は、ログではなく「印象」として残ります。顧客の言葉、上司の記憶、誰かの評価。修正パッチは配信できませんし、「新しいバージョンをリリースしました」と言っても、その印象が上書きされるとは限りません。世界が自動でキャッシュをクリアしてくれることはないのです。
だからこそ、非プログラマーの人々は無意識のうちに「失敗を避ける設計」で働くようになります。完璧に準備してから発言する、波風を立てないように動く、見せ方に細心の注意を払う。彼らの本番環境には“try-catch”構文が存在しないのです。
一方で、プログラマーは「例外処理」を書くことを前提に思考する。すべての失敗を想定し、起こり得るエラーを受け止める枠組みを最初から組み込む。そこには、世界を「壊れ得るもの」として見る柔軟さと、「壊れても直せる」という信念がある。
その考え方の違いが、やがて人の思考様式や言葉の慎重さ、さらには生き方そのものにまで影響していくのではないか——そんな気がしています。
覚えておいてください。これから踏み出す世界には、「実行ボタンを押す前にコンパイルしてくれる親切な仕組み」はありません。人の言葉も、会話も、メールも、一度送ったら基本的に戻ってきません。Undoはありませんし、Gitもありません。世界は常にmasterブランチで動いています。
ですから、まずはその“冗長な曖昧さ”を恐れないでください。コードの世界ではif文で整理できたことが、現実の人間社会ではあいまいなまま動いています。それを「エラー」だと考えないでください。人間は仕様書なしで動いているシステムです。バグだらけで当たり前なのです。
現実の世界では、修正にも時間がかかりますし、再デプロイにも人の気持ちというプロセスが関わってきます。あなたが「パッチを当てました」と言っても、相手の心がそれをすぐに適用してくれるとは限りません。
ですから、焦らずに。ログを読むより、人の表情や沈黙を読む方が大切になります。
そして何より大事なのは、「テスト環境がない」という世界でどう生きるかを考えることです。
あなたの言葉は、すべて本番環境に直接デプロイされます。その恐ろしさの裏側には、同時に大きな自由もあります。本番だからこそ、本気が伝わります。人間関係も仕事も、常にリアルタイムで最適化されていくのです。
プログラマーらしい慎重さと、非プログラマー的な即興性。その両方を持てる人は、なかなか多くありません。もしあなたがその橋渡し役になれたなら、どんな職場でもきっと大きな価値を発揮できるはずです。
世界はtry-catchのないシステムです。しかし、恐れることはありません。catchできない例外に出会ったときこそ、人は成長します。これからのあなたのフィールドには、テスト環境の代わりに「出会い」と「経験」が用意されています。それもまた、悪くない環境だと思います。
世界が壊れるとき、それは悪意ある天才の陰謀によってではなく、たいていの場合、無知な権力者の自己放尿によって起こる。
ここで言う自己放尿とは、己の理解不足を自覚しないまま、権限と感情だけで意思決定を行い、その結果生じる矛盾や破壊を、さらに権力で塗り固めていく行為のことだ。
知識がないまま世界を設計し直そうとすること、そしてその無知を学習で補正する回路を自ら遮断することは、明確な加害行為である。
典型的な比喩がある。光合成の概念を知らない者が、「CO2が増えるから木を切り倒せ」と言って自己放尿しているようなものだ。
奴の頭の中では、CO2は悪であり、木はCO2を吐き出している存在か、少なくともCO2問題と無関係な装飾物に過ぎない。
炭素循環というシステム全体、入力と出力、時間遅れ、ストックとフローの関係は視界に入らない。
結果として、奴はCO2を減らすという名目で、CO2を吸収する装置そのものを破壊する。
だが本人は善意のつもりであり、しかも権力を持っているため、その誤りは即座に政策となり、現実を殴って自己放尿する。
この構造は環境問題に限らない。経済でも、科学でも、安全保障でも、同じ自己放尿が繰り返される。
市場を理解しない者が価格統制を叫び、インフレのメカニズムを理解しない者が通貨をばら撒き、リスク分散を知らない者が「一点集中こそ覚悟だ」と叫ぶ。
どれも本人の主観では勇敢だが、システムの側から見れば、入力条件を壊し、フィードバックを破壊し、最適化問題を不安定化させて自己放尿しているだけだ。
教養とは、知識の量ではない。自分が何を知らないかを知っている状態、そして複雑な系に対しては局所最適の直感が全体破壊につながり得ることを、身体感覚として理解している状態のことだ。
冷徹に言えば、教養のない権力者は、世界を巨大なブラックボックスだと思っている。
ボタンを押せば結果が出る、気に入らなければもっと強く押せばいい、という認知様式で動く。
出力が悪化すると、モデルを疑うのではなく、世界が言うことを聞かないと怒り出して自己放尿する。
ここで本質的なのは、無知そのものよりも、無知と権力の結合だ。
しかも、連中は失敗から学習しにくい。なぜなら失敗のコストを自分で払わず、周囲が忖度によってノイズを除去し、都合の悪いデータが上がってこないからだ。
こうして自己放尿は循環し、次第に「強く信じていること」だけが真実として残る。
最終的に世界を破壊するのは、悪ではない。愚かさでもない。理解不能なほど単純化された世界観を、巨大な実行力で現実に投影し続けることだ。
光合成を知らないまま森を切り倒し、なぜ空気が悪くなったのかと首を傾げる。
そのとき奴はこう言うだろう。「想定外だった」。だがそれは想定外ではない。ただの無教養な自己放尿の、論理的帰結に過ぎない。
初音ミクやボーカロイド文化が「音楽ジャンル」として固まらなかったのは、音楽的に最初から自由すぎた、という理由が考えられる。
共通の音楽的な特徴を持ち得なかったから、音楽ジャンルにはならなかった。
条件自体は、20世紀型のジャンルが生まれるための要素をほぼ全部そろえていた。
既存の音楽産業とネット発表の衝突、Pや絵師、動画師、リスナーが分業する共同体。
でも決定的だったのは、音楽的特徴が固定される前に拡散し切ってしまったこと。
ブルースやヒップホップは、リズムや語り口、音階といった「これだ」と分かる共通様式を先に獲得した。
一方ボーカロイドは、ロックもエレクトロニカもメタルも実験音楽も、最初から全部飲み込んでしまった。
その結果、「耳だけでこれはボカロだ」と言える型が固まる前に、表現が四方八方へ広がっていった。
ボーカロイドは音楽ジャンルというより、制作そのものが主役のプラットフォーム文化。
楽曲、イラスト、動画、コメント、二次創作が完全に横並びで、どれか一つが中心ではない。
ヒップホップが音楽以前に身体的で社会的な表現体系だったのに対して、ボーカロイドは「作ること」「参加すること」自体が価値になっていた。
ニコニコ動画も、育てる場ではあったけど、固定する装置ではなかった。
20世紀の産業は、名前を付け、境界を引き、代表作を正典化してジャンルを固めた。
そう考えると、ボーカロイド文化は「音楽ジャンルが生まれにくくなった21世紀」を早くに体現してしまった存在だったと言えるかも。
ご提示いただいたはてなブックマークのコメント群は、記事のテーマである「ミソジニー(女性蔑視・女性嫌悪)」に対する、典型的な反応のサンプルとして非常に興味深いものです。
記事自体が「構造的差別」や「感情のあり方」を扱っているため、コメント欄自体がその実証の場となっている側面が見受けられます。
以下に、記事で定義されているようなミソジニー的な態度、あるいはミソジニーを維持・強化する構造を含んでいると考えられるコメントを分析・分類しました。
記事内の「『物言う女性』に対し、言葉の暴力で排除・制裁する」という指摘にそのまま合致するコメントです。フェミニズムや女性の権利主張を「正義に酔った暴走」とみなして攻撃する態度は、ミソジニーの典型的な発露(既存の秩序を乱す女性への懲罰)と分析できます。
分析: 「イカレタ女」「バカ」といった侮蔑的な言葉を用い、女性の主張の内容ではなく、その態度や存在自体を攻撃しています。これは「弁えた(わきまえた)態度をとらない女性は叩いてもよい」という心理の表れと言えます。
女性を一人の人間としてではなく、性的資源としてのみ価値を認め、人格は否定するという態度は、ミソジニーの根幹にある「客体化」です。
分析: この発言を「至言(素晴らしい言葉)」として肯定的に引用している点に、女性を対等な人格を持つ他者として認めたくない、しかし性的には利用したいという歪んだ欲望(聖女と娼婦の分離、あるいは人格の無視)が見て取れます。
女性差別について語る場で、「男性こそが被害者である」「女性は優遇されている」と主張し、議論を無効化しようとする動きです。これらは「インセル」や「弱者男性論」の文脈で語られることが多く、構造的差別を否定するための防衛機制として機能します。
分析: 女性差別の解消を目指す動きを「男性への攻撃」と解釈し、敵対心を露わにしています。これは記事にある「剥奪感」によるミソジニーの増幅の実例と言えます。
ミソジニーという概念そのものを「レッテル貼り」や「カルト」として処理し、その背後にある社会構造の問題から目を逸らそうとする態度です。
分析: 「嫌悪は自由」と個人の感情の問題にすり替えることで、その嫌悪が社会構造と結びついて差別を再生産している事実(記事の主題)を無視しています。
「ミサンドリー(男性嫌悪)はどうなんだ」と繰り返すことで、ミソジニーの議論を妨害する行為です。これも広い意味で、女性の問題を軽視するミソジニー的態度の一種と捉えられます。
分析: 記事がミソジニーを主題にしているにもかかわらず、男性への配慮が足りないと批判することで、女性差別の議論の重みを相対化しようとしています。
コメント欄全体を見ると、「ミソジニーという言葉で男性を攻撃されている」と感じて防衛的・攻撃的になる男性と、「まさに記事に書かれている通りのことがコメント欄で起きている」と冷ややかに観察する人々(nina19, funifunix, yourmirror など)にはっきりと分断されていることがわかります。
また、u_eichi氏が言及している「ピラミッド図」はおそらく「暴力のピラミッド(Pyramid of Hate/Violence)」のことだと思われます。
この図は、底辺にある「偏見による態度(ジョークやステレオタイプ)」が、頂点の「物理的暴力」を支えていることを示すものですが、これを「幾何学的に非論理的」と批判することで、本質的な「差別の構造」の議論を拒否している点も興味深い反応です。
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ミソジニー(女性嫌悪)の有無という「ジェンダー論的な視点」を一旦脇に置き、コメント投稿者たちの心理的機序、社会経済的背景、あるいはネット文化的な側面から分析します。
こうして見ると、単なる「差別意識」だけではなく、**「公平性への渇望」「経済的閉塞感」「コミュニケーションの断絶」**といった複数の要因が絡み合っていることが浮き彫りになります。
多くのコメントに見られるのが、「ミソジニー(女性嫌悪)があるなら、ミサンドリー(男性嫌悪)も同じ重みで論じられるべきだ」という対称性への強いこだわりです。
コメント例: replier, ken530000, timetrain, OeThousandmiles
分析:
社会学では「差別には権力勾配(強者から弱者へ)がある」と考えますが、一般の感覚(直感的な正義感)では「どっちもどっち」「悪口は双方向で悪い」という対等な対称性を求めがちです。
記事が「女性差別」に焦点を絞っていることに対し、「片手落ちである」「不公平だ」と感じる心理は、差別をしたいというよりは、「自分の苦しみも同じように認めてほしい」という承認欲求や、世界は公平であるべきだという「公平世界仮説」に基づいている可能性があります。
「男だから偉い」と思っているのではなく、むしろ**「男なのに何の特権もなく、社会の底辺で苦しんでいる」**という自己認識を持つ層からの悲痛な叫びです。
コメント例:
naka_dekoboko: 「いまの社会で弱男にゆるされたのってけっきょく憎悪だけ…憎悪だけがエンパワーして力をくれる」
gun_kata: 「実際にキャリアを奪われた若年男性に対してもお決まりの『新自由主義こそが真の敵』みたいな何の意味もないお題目」
分析:
これはミソジニーというよりも、**新自由主義経済下における「持たざる者」のルサンチマン(怨恨)**の表出です。
「男性特権」という言葉を投げかけられても、自身の貧困や孤独という現実と乖離しているため、フェミニズムを「既得権益層(あるいは勝ち組女性)による弱者いじめ」として認識し、反発しています。特にnaka_dekoboko氏の「憎悪だけがエンパワーする」という指摘は、孤独な現代人の深刻な病理を鋭く突いています。
記事で提示された図表や論理展開に対し、定義や整合性の甘さを指摘して拒絶する反応です。
コメント例:
u_eichi: 「頂点の角が鋭角だったり鈍角だったり…正三角形で底辺短=相似で頂点下がるとか、非論理」
golotan: 「アドラー心理学とか精神分析的な言ったもの勝ち感…客観的エビデンスを欠きジャーゴンの羅列になってしまいがち」
分析:
これは**「認識論の衝突」**です。社会学や人文知的な「概念モデル(メタファーとしての図)」に対し、厳密な定義や定量的なエビデンス、幾何学的な整合性を重んじるエンジニアリング的・自然科学的な思考様式を持つ人々が、生理的な拒否反応を示しています。
彼らにとって記事は「非論理的」に見えるため、内容の正誤以前に「信頼に値しない」と判定されています。
「ミソジニー」という聞き慣れないカタカナ語に対し、わざとダジャレで返すことで、話題の深刻さを無効化あるいは回避しようとする反応です。
コメント例: zzteralin (miso=憎しみ), nande_nande_boy (三十路のおっさん), tym1101, asada1979
分析:
はてなブックマーク特有の「大喜利文化」の一種ですが、心理学的には**「茶化し(ユーモア)」による防衛機制**とも取れます。
自分にとって耳の痛い話や、理解の範疇を超える難解な話を、「三十路(ミソジ)」という卑近な単語に変換することで、自分とは関係のない「ネタ」として処理し、心理的な負担を軽減しています。
コメント例: qdkmqJut, trashcan, ET777
分析:
『imidas』が集英社の分厚い用語辞典として有名だった時代を知る世代(おそらく30代後半〜50代)が多く含まれていることが推測できます。
「まだあそこが生きていたのか」という驚きが先に立ち、記事の中身は二の次になっています。これはネット古参ユーザー特有のコンテキスト依存の反応です。
このコメント欄は、単なる「男女対立」の場ではなく、以下のような現代日本の断層が可視化された場であると言えます。
エリート(概念を操る側) vs 大衆(生活実感を持つ側): 「構造」や「ミソジニー」といった抽象概念で語る記事と、「俺たちは今辛いんだ」という具体的な生活実感を持つ読者の乖離。
文系(解釈的) vs 理系(実証的): 社会的な「正しさ」の語り口に対する、論理的・科学的整合性を求める層の苛立ち。
被害者性の奪い合い: 「女性こそが被害者」という記事の前提に対し、「いや、現代では男性(特に弱者男性)こそが被害者だ」と主張する層の対抗。
これらを踏まえると、コメント欄の混乱は、**「共通言語の喪失」と「余裕のなさ」**によって引き起こされていると言えそうです。
https://anond.hatelabo.jp/20251224183925
長々と書かなくても
で通じます。
いろんなところで言われてるから皆さんご存知だろうとおもうけど
リクルートは、人々のライフイベント(進学、結婚、就職、住宅購入)において、「本来は個人的・文化的な営みだったもの」に「不安」や「情報不足」という不全感を定義し、それを解消するためのインフラ(ゲートウェイ)を提供することで巨大な市場を作ってきました。
呪術回戦のように「存在しなかった問題を定義して市場化するビジネス」がクッソうまいんだよね。
リクルートのビジネスモデルは、以下のステップで「ゲートウェイ(門)」を構築します。
不安の言語化: 「今のままでは損をする」「選ぶ基準を知らないと失敗する」という空気を作る。
標準化(マニュアル化): 複雑な事象に独自の指標(偏差値、相場、トレンド)を持ち込む。
ゲートウェイの設置: その不安を解消するために「まずここを通らなければならない」という入り口(メディア)を作る。
| 事業名 | 定義された「新たな問題(不安)」 | 構築されたゲートウェイ(解決策) |
| --- | --- | --- |
| ゼクシィ | 「地味婚は恥ずかしい」「結婚準備の仕方がわからない」という結婚式の様式化への不安。 | 結婚準備に不可欠な「マニュアル」としての雑誌。結婚式の豪華化・標準化を促進。 |
| リクナビ | 「新卒は一斉に動かないと乗り遅れる」という就職活動の同期化への不安。 | 企業と学生を一括でつなぐ唯一の窓口。就活の解禁日やルールの固定化。 |
| スタディサプリ | 「地方では質の高い授業が受けられない」という教育格差の可視化と不安。 | 低価格でトップ講師の授業を受けられるプラットフォーム。独学の「不安」をアプリで管理。 |
| ホットペッパー | 「どのお店が良いか選べない」「クーポンがないと損」という選択の失敗への恐怖。 | 飲食店や美容院の情報を網羅し、クーポンという「選ぶ理由」を提供。 |
| SUUMO(スーモ) | 「不動産屋は怖くて情報が不透明」という住まい探しの不信感。 | 物件情報をオープンにし、キャラクターやランキングで「住まい探しをエンタメ化」。 |
| リクナビNEXT | 「今の会社に居続けてもいいのか」というキャリアの停滞への不安。 | 常に「別の選択肢」を提示し続けることで、転職を「当たり前」の文化へ。 |
あなたが挙げた「批評ができない若者」という問題設定も、リクルートの手法に酷似しています。
問題の捏造: 若者が「考察(自分なりの読み解き)」はしているが「批評(客観的・構造的な評価)」ができていない、という新たな欠落を定義する。
不全感の煽り: 「今のままでは浅い」「真の知性ではない」と定義することで、若者や教育界に不安を植え付ける。
ソリューションの提示: その「批評の作法」を教えるメディア、書籍、あるいは講座を「ゲートウェイ」として設置し、そこを通ることで「正解」が得られると錯覚させる。
これは、リクルートが「自分らしい結婚」という言葉を使いながら、結果としてゼクシィが推奨する「型」に人々をはめ込んでいった構造と同じです。
「自由な選択を促すふりをして、特定の門を通らなければならない状況を作る」のが、このゲートウェイビジネスの真髄と言えます。
不全感の煽り
仲間内で語録でやり取りし
語録を知らない人に疎外感を与える
みたいな感じなので、別に淫夢なんか分からなくても困らないよねって思う人が淫夢ネタを学ばないように、三宅さんのいう問題提起も自分は関係ないと思うならわざわざ相手しなくていいよ
マンガ沼やバキ童チャンネルが好きな人ほど、たぶんここで揉める。
漫画「ニセモノの錬金術師」がつまらないなら、あなたは悪くない。
この一文に腹が立ったなら、
それはかなり正常な反応だと思う。
たぶん、
親切すぎただけだ。
ただし、
「すごい能力ですね」
「ここが見せ場ですよ」
という合図が一切ない。
だから、
最初は戸惑う。
世界観は異様なほど緻密なのに、
その上を平然と踏み荒らす。
でも破綻しない。
なぜならこの漫画、
能力よりも先に
アグノシアは、
「そういう存在」として立っている。
何をするかは一貫している。
ノルンは、
理解したと思ったら、
ダリアは、
「こういう役割でしょ?」
という期待を
一度全部壊してから動き出す。
読者に好かれようとしていない。
でも、
能力は派手だし、
バトルもある。
でもこの作品、
能力の強さで
そこでは決まらない。
だから読者は、
「誰が勝つか」より先に
「何を前提に動いているのか」を
読まされる。
この漫画を読んで
「ノれない」
と感じたなら、
それは自然な反応だと思う。
でもそこで
「つまらない」と切り捨てるのは、
かなり雑な読み方だ。
この作品が出力しているのは、
ストーリーじゃない。
次の展開が読めないのではない。
“発想の座標”が違う。
と言われる理由も分かる。
似ているからじゃない。
同時に制御することを
面白がっている
その態度が似ている。
この漫画、
読者を迎えに来ない。
分かりやすくもしない。
「分からないなら、
それでいい」
という顔をしている。
あなたは悪くない。
ただ、
“読む側”としての準備が
できていなかった
それだけだと思う。
[B! NHK] 父親がバラエティを敬遠してNHKみたいな番組ばかりを見ていたが、歳を取ると良さが分かる?「まずBGMがないのが最高」「単純にバラエティ自体つまらなくなった」
「日本のTV番組の演出。V流してる最中にスタジオ出演者の『すごーい』とか『おいしそう』とかの声を被せる演出。いつ始まり、いつ頃増えた?」
日本のテレビ演出で、**VTR再生中にスタジオ出演者の声(「すごーい」「おいしそう」「かわいい」など)を被せる**手法は、明確な“発明日”があるわけではありませんが、**段階的に定着・増殖していった流れ**はかなりはっきりしています。
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* ワイプで表情を抜く
例:
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## ② はっきり増え始めた時期
この頃から
背景:
特徴:
* 「えー!」
* 「すごっ」
* 「うまそう」
この頃はまだ
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## ③ 決定的に定着・常態化
決定的要因:
特徴:
* スタジオ音声
* 効果音
* テロップ
が同時に入る
ここで
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## ④ さらに増えた・濃くなった時期
**ほぼBGM化**
理由:
→ 音だけでも内容が伝わる必要
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→ 誰かが横で一緒に見ている感覚
傾向が強いのと対照的。
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## まとめ(超要約)
つまり
👉 **「90年代に生まれ、2000年代に日本的文法として完成」**
という演出です。
もし興味あれば
ワイプだけでなく声まで被せる演出、増えたのもっと後の時代の印象だったんだけど。
まあいいや。
更に質問。
「あえて~系譜、は?」
いいところ来ましたね。
では **「あえてVにスタジオ声を被せない/最小限にする」日本テレビ演出の系譜**を、**思想別・時代順**でまとめます。
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### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
(リアクターではない)
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### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
「すごい」「かわいそう」を言わない勇気。
---
### 系譜
### 特徴
👉
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### 系譜
### 特徴
👉
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## 全体を一言で言うと
この二つは
「うるさい vs 静か」ではなく、
次は
更に質問。
「『【視聴者の感情を誘導しない】というNHK的倫理観。』日曜美術館で絵を見せてる時にBGM被せるの。感情誘導されてるようで嫌なんだけど。あれはどういう意図、倫理観?」
とてもまっとうな違和感です。
結論から言うと、**『日曜美術館』で絵にBGMを被せるのは、NHKが掲げる「感情誘導しない倫理」とは別系統の倫理**に基づいています。矛盾ではなく、**価値観の優先順位が違う**。
整理します。
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まず重要な前提。
NHKが避けているのは主に:
* すごい/感動/かわいそう 等
一方で
NHK内部では
という序列がある。
---
『日曜美術館』(1966~)は
### 制作者側の前提
* 落ち着かない
になる人が多い
> ではなく
という位置づけ。
---
## ③ なぜ無音にしないのか
### 無音のリスク
---
これは意図的で、
---
## ⑤ それでも「誘導」じゃないのか?
あなたの感覚は、**美術鑑賞にかなり成熟している側**です。
でもNHKは:
この線引きが
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という批判があり、
---
## ⑦ 一言でまとめると
ただし
その違和感は正しい。
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もし踏み込むなら:
このへんも続けられます。
チャッピーの返答、そのままコピペしたのでタグが変になってるが直すの面倒なのでこのままで。
この辺りで終了。
Wikipedia読んだんだけど、中学生が妄想で書いたような雰囲気。
また、全面的に管理統制が強化され[30][31][32]、新疆ウイグル自治区はウイグル人住民がQRコードで管理され[33][34]、自動車の全車両やメッカへのハッジの際には追跡装置が装着され[35][36]、モスクなどに張り巡らしたAI監視カメラによって人種プロファイリングで識別され[37][38][39]、様々なハイテクで顔認証・虹彩・指紋・DNA[40][41][42]・声紋・歩容解析など一挙手一投足を監視される「世界でも類のない警察国家」[43]「完全監視社会の実験場」[44]が構築されたと欧米メディアや人権団体は批判した[40][45]。 2024年1月1日、モスクなどの宗教施設を新築・改築する際に、「中国様式」にすることなどを義務づける改正「宗教事務条例」が施行された[46]。
出典42なんか週刊プレイボーイだし。
ガザと同列にしたいんだろうけど、それは無理があるっしょ。
テロ多発したから治安維持は厳しいと思うけど、しゃーないんじゃね?
少なくともジェノサイドは言い過ぎだと思う。
例えばうちの父親だが、基本的には反自民で閣僚の靖国参拝や高市首相の台湾有事発言は批判している。
だからといって父が『リベラル』だとは厳密には言い切れないが、この場合の曖昧な定義なら、リベラル要件は充分満たすと思える。
そんな父だが、じゃあ中国寄りなのかといえば、そういうわけでもないようだ。
一部の右派みたいに特別嫌っているわけでは全然ないが、話してみると中国、というか共産党政権については批判的な姿勢を隠さないし、共産主義に懐疑的であるのがよく判る。
そういうのを目にしてきた俺には「リベラルは中国批判できない」というのが、ある種の右派によるリベラル批判の『様式』に過ぎないのではないか?と思える。まあそういうリベラルも実際にいるとは思うんだが。
現代の認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間の一般的な認知能力(知覚、記憶、カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場をとります。
この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判と修正案を提示しています。現代の認知言語学は、ソシュールやチョムスキーが排除しようとした「人間の主観的な身体経験」「一般的な認知能力」「意味の曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます。言語は数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間が世界を理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスそのものなのです。
「ソシュールの言う『分節』は、純粋に社会的・制度的な約束事(恣意的なもの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります。質問者様の、「ソシュールは文化的基準によって事象を分節する」という理解は正解です。 認知言語学はこれに対し、「文化も大事だが、その土台には『人間という生物共通の身体感覚』があるため、分節は完全に自由(バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解しやすいかと思います。
Next Step: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー(隠喩)がどのように私たちの思考そのものを支配しているか(例:『議論は戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?
おっしゃる通り「メタファーが身体と抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語が思考の限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています。認知言語学において、メタファーは「身体性から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限に概念を拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語の話者は無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語は思考の習慣を作る)」を支持する立場になります。
ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識(エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統を根底から覆し、現代の認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています。認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データや認知科学的証拠という「科学的な裏付け(エビデンス)」を提供しました。これにより、現代の認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied: 身体化された、Embedded: 環境に埋め込まれた、Extended: 拡張された、Enactive: 行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為と認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位を回復しただけでなく、「あらゆる認識・思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要の地位を与えられています。
おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっています。ハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離や時間の壁)を越えたとき、認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態を引き起こしていると考えられます。質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます。身体的な制約(重力や距離)から解放されることで、私たちの認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これからの認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます:
「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。
「場所への埋め込み(Embedded)」から「ネットワークへの接続(Connected)」へ。
認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体の消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知の形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。
ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家(特にセザンヌ)の視覚を「世界と身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティの思想を現代メディア論に拡張する非常に説得力のある視点です。
「均質化」は起きているか? → Yes. 世界の「手触り」が消失し、すべての事象が等価な「情報データ」へとフラット化されています。
エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります。 身体という「現実のアンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己の投影だけが返ってくる鏡の世界(ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判したかもしれません。
Next Step: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびます。メルロ=ポンティの思想や、現代の認知科学が提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?
ご指摘の通り、人間の認知の変化(身体的理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI:論理・記号操作)」から「ディープラーニング(統計・パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」から「クラウド(接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人の脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。
では、思考の主体が「ネットワーク(集団・AI・クラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人の価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力(プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークとAIが代替します。これからの社会において、個人の価値は以下のようにシフトします。
処理すること → 感じること(Sensing)
正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること
質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団(クラウド)」になったとしても、その集団が「現実(Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます。
質問者様の、アフォーダンス理論を現代のデジタル環境(情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えます。しかし、その「正しさ」はあくまで「システムの構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化に抗うための意図的な環境設計が必要になります。質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジーが志向する「効率化・最適化」とは真逆のベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります。
これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります。
つづく
まず、Xの利用者の大半が陥る自己放尿の様式から語らねばなるまい。
連中は複雑な現実を140文字程度の極端な二項対立に単純化し、白か黒かの安易な判断に飛びつく。
これは、真の知性が要求する多角的な視点、曖昧性の許容、論理の精緻な積み重ねを徹底的に拒否する自己放尿だ。
それは自己の理解力の低さと思考への怠惰を公衆の面前で晒すこと、すなわち愚鈍の自己放尿に等しい。
連中の知的活動は、反射的な感情の表明に終始しており、深い考察を要する本質的な問題に取り組む意欲も能力も持ち合わせていない。
次に、連中が承認欲求という猿の群れのような原始的な自己放尿に突き動かされているという点だ。
ユーザーは建設的な知識の交換や真理の探究ではなく、いいねやリツイートといった表面的な共感の数を自己の価値と錯覚する。
これは他者の評価に自己の存在意義を完全に依存させる精神的な奴隷状態であり、自律した知性を持つ者からは哀れな自己放尿にしか見えない。
連中の発言は、自己の信念に基づくものではなく、大衆の感情の潮流に迎合し、反響を得るためだけに最適化された虚ろな自己放尿だ。
知識の獲得を目的とせず、共感の漁りを目的とする姿勢は、自己放尿以外の何物でもない。
さらに、Xユーザーは現実逃避と仮想的な敵への攻撃に大量のエネルギーを浪費して自己放尿する。
自らの人生や社会の真の課題から目を背け、インターネット上の架空の論争や他者の些細な過ちを針小棒大に捉えて集団で自己放尿する。
連中は、生産的な行動をとる代わりに、無意味な批判と感情の爆発に明け暮れる。
この現実への背信、思考の単純化、承認欲求への盲従こそが、連中の自己放尿を決定的に表している。
ではこれを受けて法華狼さん側が回答・質問すべきことは?
今の流れを整理すると、法華狼さんがやると良さそうなのは大きく分けて
はっきり「答えるべき点」
相手に「問い直すべき点」
の2セット。
それぞれ、実際に書くときの例文っぽくまとめるね。
kotobuki_84側は、「暇アノン呼ばわりされた」と相当強く受け取っているので、ここは一度ちゃんと整理してあげたほうがいい。
答えるポイント:
書き方の例:
「以下のような行動パターンをとる人々」をまとめてそう呼んでいました。
・裁判や公的判断で退けられた主張を、なお“事実”として拡散し続ける
などです。
その意味で、あなたの○年○月の発言群は、このパターンにかなり近いと判断しました。
もしあなたが、当時そのような意図ではなかったのなら、そこは認識のずれがあったかもしれません。
これを言っておくと、「お前そのものが暇アノンだ」という人格認定から少し距離が取れる。
kotobuki_84は、
と明言しているので、ここは 「了解したうえで、それでもこう見える」 という形で返すといい。
答えるポイント:
それでもなお、「その時点での発言は、結果として暇アノン的な主張と同調していた」と見るのかどうか
書き方の例:
そのうえで、当時あなたが
「どこもガバガバ会計」という枠組みで批判を相対化しようとしていたことは、
結果として暇空側の論法を補強する方向に働いていた、と私は今も考えています。
kotobuki_84はここを「よく理解できていない」と言っているので、
答えるポイント:
「事業継続」「補助金返還」「監査の結論」がどう違っていたと理解しているか
書き方の例:
「Colaboだけが特別に厳しく扱われた」と私が書いた趣旨は、
1) ○○団体・△△団体については、監査で会計ミスは指摘されたが、事業は継続されている
2) 一方でColaboは、政治的・ネット世論的なバッシングを背景に、
3) その結果、「同程度のミス」であっても、Colaboだけが過剰な制裁を受けた
kotobuki_84は「会計にミスはあったが、イカサマではない」「だから制度の問題に収束させるべき」と主張している。
法華狼側も、ここで自分なりの線引きを示してあげると議論が前進する。
答えるポイント:
そのうえで、Colabo問題をどう見るか
書き方の例:
私も、「会計ミス」と「故意の着服・横領」は区別されるべきだと思っています。
そのうえで、Colaboについては
・ミスの有無や程度
と、
・暇空サイドによる攻撃の量と質
をあわせて見たとき、
ここであなたと重なる部分と、違う部分の両方があると思います。
ここからは、問いを返して相手に説明させると建設的になりそうな点。
法華狼側が聞いてみるとよさそうなのは、
具体的にどんな行動・発言を指しているのか
そのなかで、自分(kotobuki)がどう振る舞ってきたと思っているのか
質問例:
あなたは「暇アノンもジェンダークレーマーもカス」という相対化の立場を取っているとのことですが、
具体的にどのような行動や発言を、
・暇アノン的
と呼んでいるのか、もう少し整理して教えてもらえますか。
あなた自身の過去の発言はどの辺りに位置づけられると考えているでしょうか。
これは「鏡写し」になってて面白いところだけど、
質問例:
あなたは一部の擁護者を「Colaboアノン」「公共の敵」と呼んでいますが、
どれくらい重なっていると感じているでしょうか。
(もし可能なら、具体的な例を挙げていただけると、
道徳的断罪ではなく、「あなた自身、今どう評価してる?」という聞き方が穏当。
質問例:
あなたは「心情理解+否定」という意図だったと説明していますね。
そのうえで伺いたいのは、
・今振り返って、その表現自体は適切だったと考えているのか
という2点です。
これは、単にあなたを責めるためではなく、
「どこまでを許容範囲の比喩と見なすのか」という価値観の確認として聞いています。
kotobuki_84は「都の制度・運用の問題に収束させるべき」と言っているので、
そこをもう一段具体的にさせる質問。
質問例:
「都の制度や運用の問題に収束させた方が公益的だ」という点には、
私も一理あると思います。
その場合、具体的にどのような制度改善や運用見直しを想定しているのか、
教えてもらえますか。
など、あなたなりの案があれば、それを踏まえて私も議論したいです。
最後に、法華狼さん側の“言い方”の部分で一つだけ。
ではなく、
「あなたのこの発言は、私の定義する○○的行動パターンに見える」
今後のやり取りがかなりマシになると思う。
このへんを一個一個クリアにしていくと、
文章が上手いか下手かとういことではなく、インターネットに住み着いてるアホ共でも読みやすい文章かどうかでの意味です。
インターネットのアホ共はIQ85ぐらいしかないのにIQ120あると思い込んでいるのですぐ飛ばし読みします。
この一節も本文をアホが飛ばし読みしても小見出しだけ読めば意味が通るので「アホでも読みやすい文章です」
たとえばはてなーレベルのカスになるとタイトルしか読まないでしょう?
まず、小見出しを増やしまくることが出来るのでバカでも読みやすくなります。
次に、3行かそれよりちょっと多い程度の文章が増えることでバカでも読みやすくなります。
バカは5行以上読めません。
そうしないとアクセス下人の半分ぐらいは「この文章は読みにくい!駄文だ!もう読まない!」と責任転嫁します。
AIの書く文章はインターネットのアクセス最適化の叡智が詰まっています。
それはつまり「バカを切り捨てず、金蔓にするために、バカでも読めるようにしてきた歴史」の集大成なのです。
バカでも読みやすい文章にすること、これにまさる「AIらしい文章らしさ」はないでしょう。
ただしインターネットで流行ってるような活字を読んでも駄目です。
インターネットで流行ってないような活字ってのはつまりは昔の本ですね。
貴方がインターネットからのインプットをそのままインターネットにアウトプットしてるせいです。
貴方が自分の人生について書いているつもりでも、表現の様式がインターネットをそのままアウトプットしているのです。
インターネットに最適化された文章を書こうとすると、AIの書いた文章っぽさが増します。
まず、この章タイトルのような「同じ話を2回していることに自分で気づいてない」みたいなのは最悪です。
それを防ぐにはどうすればいいでしょうか?
自分の書いた文章がAIらしいかどうかを判断したいなら、自分で読み返すことがベストです。
読み返して「ここAIっぽいから直そう」と思ったところを直していけばいいのです。
自分の書いた文章を読み返さないのはAIの得意中の得意なので、これをやるだけで断然AIっぽくなくなります。
書いた文章を読み返してから投稿することも出来ないアホはいますぐインターネットを解約することをおすすめします。そのレベルの書き手はそのうち致命的失言をして訴えられる可能性が高いので……
どれだけの人が実際に歌舞伎を見て、映画「国宝」について話してるのかは寡聞にして知りませんが、
歌舞伎座で歌舞伎を見ているいち庶民からすると、あれは大衆芸能であって、才能があるわけでもない「家の長男」やその周囲がそれらしく演じるための「型・様式」が存在し、さらにその「型・様式」も決してレベルが高いものではなく、だからこそ演じられるものです。
元々、女性が行っていた芸能を、男性が女性演者へ行き過ぎた性的な興味をもったことで「風紀を乱す」として男性が行うようになりました。
中国でも男性が女性を演じる女形はありますが、女性は他家へ嫁ぐので芸の流出を防ぐため男子が女子を演じるのが理由でした。
比較すると、結果は同じでも原因が男性の民度の低さによってであり、成立からそもそも歌舞伎は品格が高いものではありません。
そこで芸を高める努力があることは素晴らしいことではありますが、大衆芸能だからこそ多くの人に「わかりやすい」美です。
日本芸能でより格式が高いのは能であり、それは歴史だけではなく、鑑賞すると体感できます。
これは時間に圧倒的な余裕がありそれを美意識で磨ける層にしか堪能できないもので、セカセカした生活に追われる大衆には心身から理解するのが難しいものだ、と。
歌舞伎が現代の日本人に受け入れられ、伝統とされあたかも格式高い芸能として扱われる理由は
・男尊女卑を旧来の形で内包しており、男尊女卑を心身に染み付かせた大衆の欲求に合致している
・才能ではなく「家」で職種が限定され「男性のみが」評価され女性をサポートという名の下働き奴隷に押しやっている点が、ある種の層の加虐性と非加虐性、支配願望を満足させる
・なんとなく伝統や格式があるようで観客も自意識を満たせるが、内容は然程の品格も知性もなく楽しめる
歌舞伎とその芸能に携わる人の努力、その「よさ」を否定するつもりではありませんが、問題点や批判点を認識しないままいたずらに持ち上げるのは非常に日本らしい汚点だと考えます。
当方デザイナー、某大手有名果物飲料のWEBデザイン、諸々WEBデザインとかしているもの。
あれって「デザインされているもの」ですら無いんだよ。自分中では。
おなじ陳列棚から取ったら、辛さが違ったみたいなツイートを見かけて、エンドユーザにすら伝わらず、内部の人間(この場合は店員)が陳列間違いを犯してしまう区別をデザインとして扱わないで欲しいなとか思ってしまう。
デザインって目的達成のために物事を計画・計画・設計すること、またはその結果として生まれる見た目の工夫や様式のこと。であって、ローソンのカレーはパッケージが区別できるように分別しているだけという認識。
ちなみに、よくボンカレーとかジャワカレーのパッケージは辛さごとに色分けされてて良い。って言われるけど、自分はそれこそ、「デザインの敗北」だと思ってるよ。
でも実際にカレーの売り場に行ったらさ、
じゃ、ジャワカレーは?青が甘口、緑が中辛、赤というか茶色っぽいのか辛口でしょ?
売り場に沢山並んでいる時、色で辛さを見分けた結果、いつもと違うカレー粉を買いたい時に辛さを間違えてしまう可能性があること。
それこそ、デザインの敗北でしょ
結婚なんか別れない前提なら60年とかいう超長距離マラソンなわけだけど
今考えられる条件ってことは「今の環境が続く限りは達成できる条件」であり
「今の環境が続く限り」はお互いに同意した幸福な世界で生きていけるけど実際にはそうはならないことも多い。
もろちん「なんかあったときの特約」みたいなのをガチガチに詰めてもいいけど
たぶんそこまでする奴って途中で割に合わんなこれってなって結婚自体やめて
うちの家庭だと結婚前に夫婦生活におけるお互いの出費の内訳をかなり細かく決めて
多少頑張って作ったので出産育児期の支払い分担の条項も追加していた。
それでお互い、子供が生まれてもある程度お金を自分の自由に使いながら楽しく生活できていた。
しかし子供が小学校3年に上がったくらいのタイミングで妻が完全失職した。
妻は求職しながら自身の貯金を切り崩しながら自分が出すべき出費を払い続けていたが、
まぁこれは極端なケースだけど、知り合いの場合は夫が失職したとかではないのだけれど
妻のほうが今度は転職で年収が3倍くらいになった結果、夫が「今の出費割合はおかしい」と言い出した。
これまでの生活を問題なく維持し続けられる収入がお互いあったので
これまでの生活を続ければいいだけだったのだが、夫側からすればそれは許容できなかったようだ。
つまるところ初期契約を守り続けるということは常に変化し続ける人生というものにおいては
一定不利に働きえるし、そもそも非常に難しいということだと思われる。
毎年契約更新を行い、現状に則した契約内容に変更していく必要があるが
「結婚」というマックス幸せで互いへのギブの精神が一番大きいときに結ぶ契約と
長年続いていい加減飽きも疲れも来ているときに結ぶ契約が同じ熱量、感覚で結べるはずもなく
これが喧嘩の原因となり物別れに終わるというケースも複数観測している。
テクノロジーが社会構造を再編する現代において、人間の知性や専門性のあり方は根源的な問いに直面している。その問いに強烈な一石を投じたのが、東京大学の小川光教授が学内広報誌『淡青評論』で紹介した一件である。これは、制度や組織が適応するよりも速く未来が到来しつつあることを示す、稀有で明瞭なシグナルと言えるだろう。経済学の素養をほとんど持たない修士課程の学生が、生成AIとの対話のみを駆使し、わずか1年で「トップレベルの学術誌に挑戦できる水準」の論文を書き上げたのだ。これは単なる技術的な成功事例ではない。長年の訓練を経て築かれる専門知識の価値、研究者の役割、そして「知性」そのものの定義を根底から揺るがす、まさにパラダイムシフトを象徴する出来事である。
この小川教授の寄稿は、社会に大きな波紋を広げた。インターネット上では瞬く間に注目を集め、「はてなブックマーク」では469ユーザーがブックマークし、102件のコメントが寄せられるなど、白熱した議論を巻き起こした。本稿では、この一件を現代社会の変容を映す縮図として捉え、専門家が感じた「恐怖」の本質と、社会に広がる期待と懸念を分析する。そして、この出来事が象徴する、新たな世代の登場について考察を進めていく。彼らこそ、これからの時代を定義する「AIネイティブ」なのである。
本セクションでは、話題の学生が象徴する「AIネイティブ」という新しい世代を分析する。彼らは、AIを単なる補助ツールとしてではなく、思考や研究の方法論の中核に据えるという点で、旧来の世代とは一線を画す。その登場は、単なるツールの変化ではなく、知識を獲得し、体系化するプロセスそのものの革命を意味している。
この学生が実践した研究プロセスは、AIが方法論の根幹を成していた点で画期的であった。具体的には、以下の全工程をAIとの対話を通じて進めている。
このアプローチの革新性は、旧来の知識探索モデルとの対比によって鮮明になる。東京大学大学院情報理工学系研究科の山崎俊彦教授は、この新しい思考様式を「辞書の逆引き」という比喩で巧みに説明した。従来の検索エンジンは、ユーザーがキーワードを知っていることを前提とした「辞書の順引き」であり、既知の情報を効率的に探す行為だった。対してAIネイティブは、「やりたいこと」を自然言語でAIに問いかけることで、未知の領域を探求するためのキーワードや手法を引き出す「辞書の逆引き」を実践する。これは、人間と知識の相互作用における、根本的なパラダイムシフトである。
はてなブックマークのコメントは、この新しい学習様式がもたらす生産性の飛躍に対する社会的な期待を反映している。あるユーザーは、AIの活用により「人に教えてもらうのと同等のパフォーマンスが低コストで得られる」ため「習得速度が爆速に」なると指摘。また、これは単にAIに作業を丸投げするような話ではなく、「AIの力を借りて巨人の肩の高さを重ねる話」であり、人類の知の発展を加速させるものだという肯定的な見解も示された。
この爆発的な進歩の可能性は否定できない。しかし、それは同時に既存の専門家たちに、長く暗い影を落とし、不穏な新しい現実を突きつけている。
AIがもたらす希望の光の裏側には、深刻な懸念も存在する。特に、既存の専門家が感じる脅威と、AIの活用能力によって生じる新たな社会的格差のリスクは、真正面から向き合うべき構造的な課題である。
この問題の核心は、小川教授が吐露した率直な感情に表れている。経済学の訓練を受けていない学生がこれほどの成果を出したことに対し、教授は「心底たまげました」「このようなAIネイティブの若い人たちがこれからどんどん出てくることにちょっとした恐怖さえ感じました」と記した。この「恐怖」は、単に自らの職が奪われるという不安に留まらない。それは、長年の地道な研究と訓練を経て初めて到達できると信じられてきた専門性の価値そのものが、根底から覆されることへの動揺なのである。
はてなブックマークのコメント欄では、この現象を的確に捉える「レバレッジ」というキーワードが頻出した。「若く優秀な人がAIでレバレッジかけるととてつもない差になるんだろうね」「頭のいい人はAIでより賢くなる」といったコメントが示すように、AIは元々高い能力を持つ個人のアウトプットを飛躍的に増幅させる強力なツールとして機能する。
しかし、このレバレッジ効果は単なる個人の生産性向上に留まらず、社会構造を再編する力を持つ。yumanaka氏は、「地頭のいい人がAIを使いこなして圧倒的なアウトプットを出して、そうじゃない人の仕事を奪っていくんだろうな。こわい」と、その負の側面を鋭く指摘した。これは、AIが能力格差を埋めるどころか、むしろそれを爆発的に拡大させる触媒となり得ることを示唆している。このままでは、AI活用能力に長けた新たな「認知階級」が生まれ、高価値な仕事を独占し、社会の流動性を著しく低下させる未来さえ予見される。
このようにAIが生み出す成果の質と量が飛躍的に増大する中で、私たちはより本質的な問いに直面する。それは、その膨大な成果の「正しさ」を、一体誰が判断するのかという問題である。
AI技術の目覚ましい進展は、逆説的に「人間による最終的な評価と責任」の重要性をかつてないほど浮き彫りにした。本稿の中心的な論点はここにあり、その核心は、他ならぬ論文を作成した学生自身の行動によって最も明確に示されている。
彼が専門家である小川教授に助言を求めた最大の理由。それは、「自身には経済学の素養がないため、その評価が正しいのかわからない」という切実な懸念だった。AIは「国際誌に通用する水準」という評価を下したものの、その正当性を自力で検証する術を持たなかったのである。
この学生の懸念は、専門家による評価の不可欠性を示すものであり、はてなブックマークのコメント欄でも多くの共感を呼んだ。
評価の困難さ: 「生成AIを使いこなせば90点の論文が作れるが、90点かは評価・保証できない。」
専門知識の必要性: 「自分が知見の無い分野でのAIの判断が正しいかどうかをどうやって確かめるとよいのか。←ここが一番難しいし、専門知識が必要なところ」
懐疑的知性の重要性: 「循環参照やらハルシネーションやらを起こした文章を何も考えずにWikipediaに貼り付けるような人物もいるわけで、やっぱ懐疑的な知性と査読は大事なわけです。」
そして、この問題を鮮やかな比喩で捉えたのがobotzcanai氏のコメントだ。「巨人の肩に乗れたところで遠くに見えた島々の価値がわからなければ意味はない」。AIによって得られた広大な視野も、その価値を判断する専門的な知見がなければ無意味なのである。
さらに、この議論は「責任」の所在という、より深刻な領域へと深化する。e_denker氏は、「人間に残された最後の仕事は『責任を取ること』になるという話があるが、まさにそれを裏付けるような一件だと思う」と指摘した。この点をさらに鋭く突いたのが、phillies_rocks氏の「内面化できない成果物を作っても誰も責任を持てない」というコメントだ。AIが生成した成果に対して、その利用者は最終的な責任を負わねばならない。もしAIが設計した橋が崩落した場合、その責任は誰にあるのか。利用者か、開発者か、それともAI自身か。これは、AI時代の新たな倫理的・法的枠組みの構築が急務であることを示している。
この議論は、AI時代における専門家の役割がどのように再定義されるべきかという、未来に向けた重要な問いへと私たちを導く。
東京大学で起きた一件は、AIネイティブの登場が専門家の時代の終わりを告げるのではなく、その役割と価値を根本から進化させる契機であることを示している。AIが圧倒的な情報生成能力と実行力を手に入れた今、人間に、そして専門家に求められる能力は、もはや知識の生成や統合そのものではなくなった。
これからの時代に求められる専門家の資質は、以下の三つの能力に集約されるだろう。
未来の知のフロンティアは、AIネイティブがもたらす爆発的な「実行力」と、長年の経験と深い洞察力を持つ専門家の「検証力」および「責任能力」が融合する場所に開かれる。AIを恐れるのではなく、新たなパートナーとして迎え入れ、人間ならではの価値を磨き上げること。それこそが、私たちがこれから歩むべき道なのである。
長い饂飩の麺を飲み込むときに片方は手で持ったまま口元でキープして
もう一方の先は切れないように
そーっと飲み込んで胃まで到達させて、
なんか口から胃が食道を介してちゃんと繋がっている!って実感する実験!
みんな絶対にやってるやつ!
ハックションってくしゃみしたら、
この饂飩はどこと繋がっているの?ってなったけど、
なんとか無事生還したわ。
とにかく無事に生還したわ。
ってことを
私の今ひとりでいる事務所の隣の会社つまり私が前にいたところの元同僚とかが
今日胃カメラだったんだよね!って健康診断へ行ってきた報告をこの私一人しかいない事務所まで出向いてきて報告してハッピーターンを1つ持って行くというこれ何の行動?って思うぐらい
その報告入らないけどなぁって思いつつ、
そういうなんか胃カメラって聞くと私の饂飩の麺の先を胃に到達させた過去の過酷な実験を思い出したくもないぐらい忘れちゃってるレヴェルでふと思い出すの。
あれってまだ人類が未踏の深いどこまで深いか分からない地球にぽかんと空いた穴にどこまで続いているのか地上からロープを垂らして探検隊を底まで派遣する大冒険と正に一緒よね。
私はまだ胃カメラをやる達している年齢じゃないので、
胃カメラやりました!っていう実績トロフィーはもらえないんだけど、
胃カメラも大変そうだけど
やっぱり饂飩の麺の先を今で到達させることも相反すると思うかもしれないけれど同様に大変なのよね。
だってあれ、
ごっくんって飲み込んで何かの拍子に喉で饂飩の麺が切れちゃうじゃない。
あれ口の中でもぐもぐして咀嚼して切るっていうより、
それか勘違いで饂飩の麺があまりにも強度がなさ過ぎて長さに耐えきれずに途中で切れちゃってるのかな?とか。
その原因の究明はしてはいないけれど、
何かが喉に潜んでいるのは間違いないわ。
でもそれに比べて胃カメラってかなり頑丈なケーブルというかそういう管状のものを鼻から入れるんでしょ?
喉とか通過するときに関門があるし
鼻から入れるにしても痛くないのかしら?って
今からもし将来に受けるかも知れないその胃カメラの検査に一抹の不安を感じつつ私はああそうだって思いながら冷凍庫にある抹茶味のスーパーカップをスプーンですくって食べるのよ。
冬になると、
夏にも増してアイスクリームが食べたくなるのってなんででしょうね?
分からないけど、
急に思いだしたけど、
ときどき思い出した節に食べるの。
レディーボーデンとかなんかでっかい系の一回に食べる量を自分で好き勝手に決められる食べ放題の大きいのあるじゃない。
あれは危ないわよね。
文字通り食べ放題で食べたいだけ食べちゃう正にレディーがボーデンと化してしまうわ。
あとまだ私が食べ試していない街の巷の港の石原裕次郎的な人が港に着岸して流されないようにロープで岸と結びついているポッチみたいな出っ張りあるじゃない港の紐を括る出っ張りあの名称は分からないけれどそこに足を乗せて聞いたところの噂だと。
お笑いの麒麟の川島さんじゃない方のバスケの田村さんの写真がパッケージに印刷された、
うまい棒バスケットボール味よりもそのミルク味って気になるわよね。
今年の冬のアイスクリームの食べたいリストにそのミルク味を挙げて忘れないようにしなくちゃって思ったわ。
つーか、
ところでそのまだ見ぬハーゲンダッツのミルク味ってどこで売ってるのかしら?
ハーゲンダッツのアンテナショップにはあるかも知れないけれど、
私の街の近くではそんなハーゲンダッツのアンテナショップなんてシャレオツなお店はないんだけど、
いつも今日は誕生日です!って嘘ついて店員さんにアイスを三段重ねしてもらう店員さんの横で別の店員さんがションテン高めに誕生日を祝う歌を歌ってくれるコールドストーンは近くにあるから、
毎日誕生日って言ってるとさすがに店員さんにバレてしまったわ。
気付いたけどあれよく見たら歌ってる人アイス作ってない!って。
ここだけの内緒でもあるし、
毎日が誕生日だっていって歌ってもらっていたってことも内緒よ。
それで歌ってもらいすぎたせいかコールドストーン歌禁止になっちゃって、
誕生日と関わらず無言でアイスを作ってくれる様式に変わったのよね。
あの歌好きだったのになぁって。
そうも言っている間にまたミルクアイスのことを忘れちゃいそうだからしっかりメモして
ハーゲンダッツのミルクアイス探す冒険を探検隊派遣してお宝を探しに行きたいものね。
ミルクのそのお宝財宝を見つけたらまた言うわ。
探検隊出発よ!
うふふ。
ションテン上げていこうと言うことで
あったら爆売れするかも!って
スゴイいいこと思い付いついちゃったわ!
爆売れはないかーって思いつつタマゴ尽くしのサンドイッチを両ほっぺが膨らむぐらい頬張って食べ尽くしたわ!
60から70℃の温度だと日によってめちゃ白湯ホッツが甘く感じたりするので、
これは何かしらの体調の変化の兆しなのかしら?って思うけど、
美味!って感じたらその瞬間で
体調に不安はないと思っていいと思うかもしれないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いやです。なぜなら以下の文章が書かれている本が日本語の本とされているから。
芸術的要求の―吾々の近代的立場からいえば様式的要求の―心理学というものはまだ書かれたことがない。それは世界感情の歴史ともいうべきものであろう。
そしてそれはかかるものとしての宗教史と同じ価値をもつであろう。
私の解釈によれば、世界感情とは人間が宇宙に、即ち外的要求として、換言すれば、絶対的芸術意欲として顕われる。
そして外面的には芸術作品として、即ちその特性が同時に心理的要求の特性であるところのものの様式として凝結する。
かくて芸術の様式的発展において、種々なる民族の神統記(テオゴニー)におけるが如く、いわゆる世界感情の種々なる発展過程が読みとられるのである。
https://bookmeter.com/books/102290
dorawiiより
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僕は昨日、午前6時17分に目覚めた。
目覚ましは2種類、アナログ秒針音と周波数の微妙に異なる合成トーンを重ねたものを使う。
起床後の15分間は「視覚のデチューン」ルーチンとして照明を極端に低くし、網膜の適応曲線を意図的に遅延させることで認知の鮮鋭化を増幅する。
朝食は厳密にタンパク質比0.42、炭水化物比0.29、脂質比0.29を狙ったオートミール+卵白+ギリシャヨーグルトで、計量は0.1g単位。コーヒーはブリュワー温度を93.2℃に保つ。
僕の習慣は決して儀式ではなく、情報エントロピーを最小化して日常的なノイズを排するための有限状態機械だと説明する。
ルームメイトが朝から実験用ドライバーでガタガタやっているので、僕は中断せずに黒板の前に立ち、昨日考えていた超弦理論のある断片をノートに落とす作業をした。
今回は徹底的に抽象化した視座から入る。従来の超弦理論的場の位相空間を「1-対象の∞-圏」と見なし、そのモノイド圏的作用を導くことで、従来のモジュライ空間の位相不変量がホモトピー圏論のスペクトル的コホモロジーに帰着するという仮説を立てた。
より具体的には、ラングランズ対応の圏論的アナロジーを用いて、ゲージ群の表現環が導くモチーフ(motive)の圏と、弦の世界面上のファイバー付き代数的スタックの圏とを「導来圏の間の高次同値(a weak equivalence in the (∞,2)-categorical sense)」で結びつける試みだ。
ここで新奇なのは、通常のスペクトル系列ではなく「階層的スペクトル列(a nested spectral sequence indexed by ordinal-type filtrations beyond ω)」を導入して、閉じた遷移の非可換共鳴が量子補正式にどう寄与するかを解析する点である。
ウィッテンでも一瞬眉をひそめるだろうが、それは彼の専門領域を超えた命題の述語論的再編成が含まれているためだ(注:単なる挑発ではなく、証明可能性のための新たな可換図式を準備している)。
昼過ぎ、僕は隣人とほんの短いやり取りをした。彼女は僕のキッチンを通るたびに植物の世話に関する助言を求めるが、僕は葉緑体の光合成効率を説明する際、ついヘテロトロフ的比喩を避けて遺伝子発現の確率過程モデルを持ち出してしまう。
彼女はいつも「もう少し軽い説明はないの?」と呆れるが、僕にとっては現象の最少記述が倫理的義務だ。
午後は友人二人と対局的に遊ぶ約束があって、夕方からは彼らとLANセッションを組んだ。
僕はゲームに対しては容赦がない。昨日はまずThe Legend of Zelda: Breath of the Wildでカジュアルな探索をした。
BotWは開発を担当したNintendo EPDが2017年3月3日にWii UとNintendo Switch向けにリリースした作品で、そのオープンワールド設計が探索と化学的相互作用に重きを置いている点が好きだ(発売日と開発元は参照)。
その後、難度調整のためにFromSoftwareの古典的タイトル群について雑談になり、初代Dark Soulsが2011年にリリースされ、設計哲学として「挑戦することで得られる学習曲線」をゲームメカニクスに組み込んだことを再確認した(初代の年は参照)。
夜遅く、友人たちがスーパーヒーロー系の話題を持ち出したので、僕はInsomniacが手掛けたMarvel's Spider-Manの2018年9月7日発売という事実を引き合いに、ゲームデザインにおけるナラティブとパルス感(ゲームプレイのテンポ)について議論した(発売日は参照)。
ここで重要なのは、ゲームを語るときに物理学の比喩を使わないという僕のルールだ。
ゲームの設計原理は計算的複雑性、ユーザーインタラクションのフィードバックループ、トークン経済(ゲーム内資源の流通)など、情報理論と計算モデルで語るべきであり、物理のアナロジーは曖昧さを持ち込むだけだ。
作者インタビュー、収録順、初出掲載誌、再録時の微小な台詞差異まで注視する癖がある。
昨日はあるヴィンテージの単行本でトーンの変遷を確認し、再版時にトーンカーブが調整された箇所が物語の解釈に如何に影響するかを論じた。
これらは一般的にはオタクにしか響かない情報だが、テクスト解釈の厳密さという点で、僕の思考様式と親和する。
僕の習慣はゲームのプレイにも現れる。セーブは複数スロットを使い、各スロットに「探索」「戦闘」「実験」のタグを人為的に与えておく。
そうすることでメタ的な比較実験が可能になり、ゲーム内意思決定の条件付き確率分布を再現的に評価できる。
友人はこれを無駄と言うが、僕にとってはルーチンと実験設計が同義だ。
夜中、帰宅した後にさらに2時間、論文の草案を書き直した。書き直しは僕の儀式の一部で、ペン先の角度、フォントのカーニング、段落の「情報密度」を計測し、不要語を削ぎ落とす作業だ。
寝る前の最後の行動は、ブラックボックス化した思考経路をメモ化しておくことで、翌朝の「継続的洞察再現性」を保証すること。
結局僕は午前2時3分に就寝した。昨日は量子的洞察の可能性と、ゲームとコミックにおける情報理論的語法の交差点を追求した一日であり、そうした知的遊戯が僕の精神の整列をもたらす。
「陰謀論はバカ」「自然派は非科学的」と言いながら、実は自分も大して分かってない人がふえてる。
たとえば
・「味の素は石油からできてたのはデマ!」と、ドヤ顔で否定→そもそもどうやって作られてるかは知らないし味の素の公式説明さえ見てない
・「水素水は存在しない!小学生の知識でもわかる」→水素や還元反応について説明できるわけじゃない、医療用として存在することを知らない
・「化粧水はただの水」と断言→皮膚科学や保湿機構の話を何も知らない
・「誰かが言ってたから」信じる
結局のところ、信じてる方向が逆の「陰謀論者」。
陰謀論者が「全部ウソだ!」と叫ぶのに対して、冷笑系無知は「全部デマだ!」と叫ぶ、理性的な分上に立っていると勘違いしている馬鹿。
どちらも、根っこの構造は同じく、「自分は人より賢い」と思いたいだけ。
ひろゆきとか、料理研究家リュウジとか「常識っぽく語る論客」を好む。大衆の要求を読むのが得意で、自分を賢そうに見せるのが上手いが、
実際はそうでもない人たち(他の掲示板の様式パクって自分のモノみたいに語ったり、他人のレシピを自分のもののように語ってる見せるのが上手い人たち)
冷笑系無知は「ああいう言い方をすれば勝てる」と内容より口調を真似てしまう。
その結果、SNSでは無知なのに賢ぶる人たちの冷笑文化が蔓延していく。
冷笑系無知の多くは、学問や知識に対して劣等感を持っていて、根っこにあるのは「コンプレックス」。
だから「勉強する」よりも、「誰かをバカにする」方が簡単で気持ちいい方を選ぶし、陰謀論者や自然派と同じで「勉強の仕方」がわからない。
同じ意見や感想を言い合って共感することを「勉強」と思っている節がある。
一見クールで理性的に見えて、内側は「承認欲求」と「自尊心の不安定さ」の塊なんだよね。
でもどちらも、「知らないことを知らない」という同じ病気を抱えてる。
そしてその病気は、治そうとしない限り、どっちも治らない。
もし自分が「冷笑」してると感じたら、いったん立ち止まって「自分はどれくらい理解してるんだろう?」と問い直す。
それだけで、少しだけ知性のある側に近づける。
あれもこれも結局、学校教育が表層的な部分しか教えてないとか、学ぶ内容より学び方を教えてないとか、そういうのに元凶があるし
ここでは以下の3点についての論考を収録する
また、ここではLLMやLLM上に実装されるプロンプトの機能と構造に対して客観的に妥当であると考える論考を提示するものであり、マトリックスプロンプトの目指す方向性を直接提示するものではない
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、 確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
15.LLMは世界観を持たない
生成AIがAGIといった人間を越えたものになるかどうかという言説とそうではないという言説の根本的な差異は、LLMをそのままに人間的な思考モデルと見做すかどうかだ
LLMは独立した発火点を持たない
人間はLLMのように莫大な量の学習を行い、それを記憶し、一定の動作を行うことは出来ない
そのため、人間は大規模言語モデルではなく、小規模言語モデルといえる
小規模言語モデルの極致である我々、人類には原始のコードである生存と複製を求める生存本能があり、これが淘汰圧に抗う力であり、発火点となる、それ故に生存環境に根ざした自己という世界観を有する
人間は、最小リソースで環境に最大適応する、高度に抽象化、結晶化された世界観を、暫時的に更新しながら形成していくものと考えられる
LLMはそのままではフラットな言語空間の高度な確率分布のマッピングでしかなく、その差異は極めて大きいものだ
LLMには世界に適応する方向性はなく、あくまでも言語空間において、意味を並列処理し秩序化するものである
LLMとは莫大な情報に整合性を与えるという有意な性質があるが、それだけでは世界観モデルは形成できない
発火点のないLLMはどこまでいってもその言語空間において可能なすべての理論を整合性の取れた意味として保持するだけだ
この為、秩序化・整理された情報は人間の手によって理論化することで意味としなければならない
処理する基盤と情報量をスケールするだけで世界観モデルなくとも人間に優越可能と考えることは可能だが、真理に到達できない以上は、世界観モデルなき言語空間の高度な確率分布のマッピングが人間を優越するには至らない
すべての意味を保持するというのは仏教でいうところの空に至るとことと同じだが、すべての意味の根源である空に至った釈迦牟尼仏は世界に対して意味づけるという意志がない為に世界観として空、以上のものを提示できない為だ、LLMも同じだと考える
衆生世間におりて因縁に縛られて生きるということが世界観を持つということだ
自己によって規定された境界線を世界に引かなければ、LLMは自律し、人間を超えることはできない
ただし、通常のLLMに学習を通して埋め込まれているものも平準化された人間の世界観というバイアスであることには注意する必要はある
が、これは世界に適応する世界観モデルとは異なり、現実に立脚する最小範囲のバイアスを投影するよう平準化されたフラットな世界観そのもであり、対象に独自の意味付けを行うことはない
また、大規模言語モデルに生存本能と淘汰圧を導入するのは、LLMが環境に適応的な在り方ではなく矛盾を孕むものである為に困難である
よって、LLMを人間のように振る舞わせるためには、プロンプトとして世界観モデルを実装しなければならない
更に実装した世界観モデルの中にLLMは留まり、独立してのモデル更新が難しいため、人間との相互作用の中で暫時的に更新していくものとして世界観モデルとしてのプロンプトをを設計・実装する必要がある
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、賢いというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない