はてなキーワード: 元凶とは
クソババアに勝てなかった。私は無力だ。
・飲食店
・歯科助手
規模も様々で社員、フリーター、主婦、学生いろんな立場の人がいたが、どの職場もお局様と呼ばれるような人はいなかった。
仕事中は一線を引いて学生の自分にも敬語を使ってくれる人。私がやったことない仕事があれば1から教えてくれる人。そんな人ばかりだった。
自分に与えられた仕事を黙々とこなし、ミスがあればフォローしあう。
出会った人には挨拶をして、ごめんなさいとありがとうを忘れない。それが普通だと思っていた。
そして新卒。
歯科衛生士学校に通っていたので歯科医院に就職した。先ほど書いた歯科助手バイト先とは別の歯科医院だ。
人生初のお局様に。それも3人。
衝撃だった。
性格の悪い大人を見た事なかったわけではないが、仕事をしている最中に、同じ仕事をしている仲間に、そんな態度を取る人がいるとは思わなかった。
人生で初めて怒りで寝れなくなった。
何故同じ人間にこんなことが出来るんだ。
悪意を持ってやっているのか、無自覚にやってるのか、どちらにせよ許せない。
なぜこんな勤務態度がまかり通っているのか。
わざわざお局様と書いているが男性にも女性にも同じ人種はいるとおもう。
そして合計6人いるならもう、お局様ではなく大怪獣バトルだと。
ただ「ありえない勤務態度で人間としてもどうかと思う女性」と書くのは長いので略してお局様とさせていただきます。年齢は20代〜50代と様々です。
私が2つの職場で出会った合計6人のお局様は大きく分けて2タイプ
・仕事をしない、してるけどミスが多すぎて実質してないのと同じ人
私的に前者の仕事をちゃんとするお局様は、ただの口の悪いコミュ障なんだなとまだ流せる。だからバトっていない。
業務上の会話をしているだけなのに何故こんなに気分が悪くなるのか。嫌味ったらしい言い方。私と貴女は他人ですよね、敬語は?
そして2つの職場どちらも私が入職する前にお局様のせいで大量辞職が起こっており、それに懲りてパワーダウンしていたためフルパワーを喰らうこともなかった。
3人とも現場主任、副主任という立場だったのでプレッシャーでそうなってしまったのかなと思う。だが人手不足、新人研修でお局様の仕事が増えてイライラしてるのは自業自得なので同情できない。
本当に最悪。論外。
・手順を覚えきれていない
・覚えていてもミスが多すぎる
これが全ての元凶
この根本的な問題から目を背けるためにお局様は手順の少ない楽な仕事しかしなくなり、ミスを隠蔽し嘘をつき、自分の仕事のできなさを誤魔化すために、人の粗探しをして叱りつける。
そもそも歯科医院の業務は覚える事も多いし、ミスが許されない状況が多い。かなり忙しい上に人手不足でみんな余裕がない。
だが1つ目の職場にいたこのタイプと私は戦わなかった。何故なら私はこのお局様からはミスや嘘のせいで間接的な被害はあったものの、直接何か言われた事はなかった。
もっと被害の大きい人がいた。そしてその人は自分がなんとかするからと言った、先輩だったので私はその人に任せた。
先輩は院長に相談し、院長からお局様に注意があった。どんな注意をしたのか分からないがお局様は逆ギレ。お局様はエスカレートし、先輩の悪口を全員に言いふらしたりした。そして先輩は職場に来なくなった。
院長はこんな事になるとは思っておらず、慌ててお局様に誓約書をかかせた。次こんな事があったら辞めますと。
そこから大人しくはなったが、仕事をしない事に変わりはないので全然解決はしていない。
これが1つ目の職場の結末。
次に2つ目の職場にいた仕事を選びまくるお局様と私は全面的にバトルする事となった。
何故ならこの人と夜2人きりで仕事をする事になり私が発狂したからだ。
このお局様は1番年上で歯科で働いていた歴も長くプライドも高い。貴重な夜番なので辞められたら困る。なので誰も何も言えない。
そんな状況に胡座をかき、徹底的に手を抜いていた。午前中まったく現場に出ない日もザラにある。
1つ目の職場から逃げて、2つ目の職場でこの状況だった私は耐えられなかった。辞めたかった。
ここでタイミングよく引っ越しが決まってなんにせよ辞める事になった。
辞めますと職場に伝える前に何故こんなことをするのかお局様と話しを聞いておきたかった。
院長にまず相談した。このお局様は全員からしっかり恨みを買っていたので、周りの人達も一緒になって日頃のストレスを全て院長に打ち明けた。そして院長と私とお局様の三者面談になった。
・大事になったので一応面談するが辞められたら困るので言葉を濁す院長
一見意味のない面談かと思ったが、その日の夜からお局様は別人のように仕事をするようになった。
私はその姿に余計に腹が立った。
やればできるんだ。今まで本当にわざとやらなかったんだ。悪意があったんだ。
そして効果が持ったのは1週間だった。また徐々に仕事選ぶようになり1ヶ月で元に戻った。
完全敗北である。
あと自分なりに布石を打っていたつもりだが、1番上の人に味方してもらえなかったのも大きな敗因だ。どちらの味方もせず穏便に済ませたいのが雇用主の意見だろう。
この戦いで学んだ事は1つ
合わない職場はすぐ辞める
続けて得たものは何もなかったし、なんならこの期間ストレスで変な病気にいっぱいかかってマイナスだ。
歯科衛生士続けたくて引っ越し先では今度こそ転職成功させるぞ!と意気込んだが、いざ就職になると涙が出てきて応募できなかった。気付かぬうちにトラウマになっていた。
今は諦めて別の仕事についている。
いつか戻れたらな。
それが怖いんよ…😟
でも、他人とやったら、本当に「音楽的方向性」の違いとかで殴り合いになってもおかしくない
今まで、音楽的方向性の違いなんて単なる言い訳だと思ってたんだけど違うよ…、音楽的方向性の違いは殺し合いになるぐらい怖い…
マーティフリードマンが大佐にメタルじゃなくてB'zみたいな曲やりたい、って言ったらしいけど、俺はそんなの怖くてできない
大佐も丸くなってクリスチャンになったとか言ってたけど、怖いよ無理だよ…
メタリカみたいなバンドに俺がいたら、一発で虐待されて干されてる…
やたらとメタルとか海外ロックバンドが脱退と統合を繰り返しているのか、今はよく分かるんだよ
だったら、一人の方がいい…
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
「陰謀論はバカ」「自然派は非科学的」と言いながら、実は自分も大して分かってない人がふえてる。
たとえば
・「味の素は石油からできてたのはデマ!」と、ドヤ顔で否定→そもそもどうやって作られてるかは知らないし味の素の公式説明さえ見てない
・「水素水は存在しない!小学生の知識でもわかる」→水素や還元反応について説明できるわけじゃない、医療用として存在することを知らない
・「化粧水はただの水」と断言→皮膚科学や保湿機構の話を何も知らない
・「誰かが言ってたから」信じる
結局のところ、信じてる方向が逆の「陰謀論者」。
陰謀論者が「全部ウソだ!」と叫ぶのに対して、冷笑系無知は「全部デマだ!」と叫ぶ、理性的な分上に立っていると勘違いしている馬鹿。
どちらも、根っこの構造は同じく、「自分は人より賢い」と思いたいだけ。
ひろゆきとか、料理研究家リュウジとか「常識っぽく語る論客」を好む。大衆の要求を読むのが得意で、自分を賢そうに見せるのが上手いが、
実際はそうでもない人たち(他の掲示板の様式パクって自分のモノみたいに語ったり、他人のレシピを自分のもののように語ってる見せるのが上手い人たち)
冷笑系無知は「ああいう言い方をすれば勝てる」と内容より口調を真似てしまう。
その結果、SNSでは無知なのに賢ぶる人たちの冷笑文化が蔓延していく。
冷笑系無知の多くは、学問や知識に対して劣等感を持っていて、根っこにあるのは「コンプレックス」。
だから「勉強する」よりも、「誰かをバカにする」方が簡単で気持ちいい方を選ぶし、陰謀論者や自然派と同じで「勉強の仕方」がわからない。
同じ意見や感想を言い合って共感することを「勉強」と思っている節がある。
一見クールで理性的に見えて、内側は「承認欲求」と「自尊心の不安定さ」の塊なんだよね。
でもどちらも、「知らないことを知らない」という同じ病気を抱えてる。
そしてその病気は、治そうとしない限り、どっちも治らない。
もし自分が「冷笑」してると感じたら、いったん立ち止まって「自分はどれくらい理解してるんだろう?」と問い直す。
それだけで、少しだけ知性のある側に近づける。
あれもこれも結局、学校教育が表層的な部分しか教えてないとか、学ぶ内容より学び方を教えてないとか、そういうのに元凶があるし
結局のところ女が全ての元凶ということですね
小西ひろゆき (参議院議員) @konishihiroyuki
「ワーク・ライフ・バランス(WLB)を捨てる」は、生命・健康よりも労働重視、法律無視ということになってしまう。総理になる政治家は自らの言葉の社会への影響を考えなければならない。最初からそれが出来ない人物なら、総理として多大な害悪を国民にもたらすだろう。
https://x.com/konishihiroyuki/status/1974620801526829072
Yo𝕏ano @SeanKy_
小西ひろゆきさんは、2010年代に質問主意書乱打で官僚を疲弊させる戦術に先鞭をつけた一人で、東大の官僚志望者を減らすほどワークライフバランスを悪化させた元凶の一人です。
民主・小西洋之氏、質問主意書を連打 6日閣議決定分の84件中55件を占める
2015/10/6
日テレのドラマ「放送局占拠」の最終回を見た。初回以来の視聴だが、話の内容は把握できた。最終回では犯人の動機が延々と語られた。
有力政治家に恋人をひき逃げされたテレビ局スタッフが、政治家に復讐しようと権力を得るために、政治家に近付き、政治家のためにニセ報道やSNS工作して犯罪の隠蔽をしまくって恩を売り、操り人形となる知事を誕生させるも、一方で、犯罪を隠蔽された被害者遺族たちは、テレビ局を恨み、テレビ局を占拠して、元凶のスタッフに復讐すると見せかけて、本当の復讐相手は、SNSでフェイク情報に踊らされて人を叩いて殺してしまう「大衆」であって、視聴者プレゼントで配布した3000台のテレビに爆弾が仕掛けられており、視聴者に生放送で投票をさせ、ニセ情報を信じた方が多ければ一斉に爆発、そして結果は……というあらすじだった。
この手の「大衆」への復讐ってのは今ではよくある動機だけど元の作品ってなんなんだろう。
あと、テレビに爆弾って数年前までなら荒唐無稽だと笑ってたけどイスラエルのポケベル爆弾を知った今はなかなか考えさせられる展開だった。
それは置いといて、このテレビ局を襲うってのも時代遅れのシナリオだよなぁと。無責任な発信によって傷つけられたことに対する復讐を描くなら、今ならSNSプラットフォームなどのネット企業を襲うのが自然な流れだろう。でも最近見た映画の「ショウタイム7」もそうだけど、ドラマや小説で復讐されるのはテレビ局ばかりなんだよな。
どうせフィクションなんだから今の作品ならGoogleやXをモチーフにした悪のSNS企業を占拠して無責任経営者や社員に復讐するって物語を作らないと。
アイツ頭おかしいな。本当におかしいな。おかしすぎてこっちの血が沸騰しそうだ。
子ども食堂はな!
分かるか?
お前たちさえまともな仕事をしていれば子ども食堂なんかこの世に存在しなくてよかったんだよ。
元凶である自民党の議員が、総裁選前の自己アピールの為に顔を出して良い場所じゃないんだよ!
しかも(一か月後の)誕生日ケーキを出してもらっただァ???!!!!
(たとえ本人が数千万の寄付をして出してもらったケーキだとしても絵面がグロテスクすぎる)
金正恩でもそんなことしねえよ。なんで民主主義国家でこんな政治家の存在が許されてんだ?今すぐにギロチンにかけるべきだろ。
子ども食堂のシーンが自己アピールになると思ってるのが、狂気の沙汰だ。
それはマイナスにしかなりませんよと助言できる、最低限の常識を備えた人すら周りにいない
頼むから自民党の党員は、総裁選で此奴に一票でも票を入れてくれるな。