はてなキーワード: 義務とは
ぶつかるんじゃないかってくらい接近した。反射的に身をよじった。心臓がバクバクする。
相手は邪魔だ、という顔をして去って行った。悪いのは私のような顔で。
この三ヶ月で何度も危ない経験をしてる。
スマホ見ながら走ってくる自転車。信号無視で突っ込んでくる自転車。歩行者がいっぱいいる歩道をわざわざ走る自転車。
その度に思うのは、これ、原付だったら絶対に違反じゃんってこと。
実際、原付で歩道走ってたら、即座に警察に止められる。それなのに、自転車だと何ともない。むしろ歩道は自転車と歩行者の共有スペースみたいな扱いになってる。
先週、自転車乗ってる人に「すみません、危ないです」って言ったことある。そしたら「そっちがよけろよ」って言われた。本当に。
その瞬間、思った。
この人、ルールを知らないんじゃなくて、自分が優先だと思ってるんだ。
実は、自転車は車道を走るのが原則らしい。歩道は特例的に許可されてるだけ。それも、徐行(時速6キロ以下)が義務。
でも誰も知らない。誰も守ってない。
スピード出してる人ばっかり。
昨日も経験した。朝の通勤ラッシュで、歩道は人でいっぱい。その中を自転車が猛スピードで走ってきた。ベルを何度も鳴らしてた。
どけ、どけって感じで。
その光景を見て、ふと思った。
これって、混雑してるから車道は危ないって自転車乗りが判断してるんだろ。だから歩道を走ってる。
気持ちはわかる。でも、それで歩行者が危ないんだから意味がない。
結局のところ、ルールの問題じゃなくて、意識の問題なんだと思う。
実際、自転車も高速で走ったら致命的な怪我を与えられる。死亡事故だって起きてる。
でも、自転車乗りたちは自分たちを歩行者の仲間くらいに考えてる。
あと自転車の運転に免許が必要ないことが助長してる。普通乗り物を運転するには、安全教育を受けて免許を取る必要がある。でも自転車は、試験なしで乗れる。ぶっつけ本番だ。
だから、ここ数年、自転車の取り締まりが厳しくなってるんだと思う。
でも、最近の状況を見てると、仕方ないんじゃないかって思うようになった。
取り締まりが強化されることで、初めて自転車ってそういうルールなんだって気づく人が出てくるから。
私の友達も自転車通学してるけど、先月信号無視で止められたって言ってた。その時点で初めて「あ、自転車も交通ルール対象なんだ」って気づいたらしい。
それまで、何もルール知らずに乗ってたんだ。
多分、大多数の自転車乗ってる人がそんな感じだと思う。
だから、一度しっかり「リセット」する必要があるんじゃないか。
自転車に乗るには守るルールがあります。守らないと罰せられます。
正直、もう疲れた。
「でも自転車乗るのが不便になる」って意見もわかる。でも、歩行者にとっては、今の状況がすごく不便だし、危険だ。
どっちを優先するかって言ったら、歩行者だと思う。
自転車乗りだって、自分が歩いてる時は、自転車に危ない思いさせられたくないでしょ。
それなのに、いざ自分が乗ると歩道走って何が悪いって顔になる。
その矛盾に気づいてほしい。
自転車や、一定の場合の原付など、一定の車両は二段階右折をすることがある。これについて法令に欠陥がある。
* *
交差点前の停止線超える→直進→右への方向転換→直進
である(前提あり→※)。
前提のもと、いくつかケースを考える。
(1)まず交差点進入開始時にまっすぐ前にある信号機、これが二段階右折の全フェーズで青のまま変わらなかったケース。特に問題はない。
〘青〙直 換 直
(2)続いてのケースとして、前記の位置にある信号機が、1個目の直進のフェーズで黄から赤に変わり、その後はその直進の完了まで変わらなかったケース。そのまま赤のまま変わらなければ、右への方向転換と2個目の直進をしてもよい(してもよいというのは信号無視にはあたらないという意味)。知らなかった人のなかに、意外にも制限が緩いのだな、と驚く人がいてもおかしくはない。
(一例)
〘青〙直〘黄〙→〘赤〙→ 換 直 〘青〙
(3)最後のケースとして、前記の位置にある信号機が、右への方向転換のフェーズの最中で黄から赤に変わったケース。この場合、赤に変わった時点で動きを止めなければならず、さらに赤から青になるまで、静止を続けないといけない。これらを遵守しなければ信号無視としてペナルティの対象となる。
(一例)
〘青〙直〘黄〙→ 換〘赤〙 「ここで赤が終わるまで停止しないといけない」 〘青〙換 直
(※2個目の「換」は方向転換再開という意味)
おわかりいただけるだろうか。右への方向転換の最中に、黄から赤へ遷移するという出来事が起こったら、起こらない場合と比べて非常に厳しい行動制限がかかるのである。
この差の大きさに合理性は見いだせない。
さらに言えば、方向転換と赤遷移が重ならないよう意図して遅く走れば、つまり意図してカッコ2 に持っていけば、停止静止義務を避けられる。
完全に欠陥である。
(※→車両は自転車、信号機は上矢印(上0度)灯火の出ることのないもの、
交差点は(一般的意味の)二段階右折の最初の段階で停止線を超えることとなる交差点、信号機は青黄赤青…の順で移ろうタイプであること、をそれぞれ前提としている。)
* *
※補足:規定の読み方
青灯火の内容のうち「直進(…を含む。)」のところをみてみると、右折の語は、右への方向転換を指す狭義的なものとして使われている、とわかる
(一般的意味の「二段階右折」を構成するうちの、狭義直進と「右折」は明確に区別されているとわかるため)。
次に赤灯火の内容。「既に右折をしている」文言は現在進行の形、よってその号では右方向転換の最中である場合のこと(停止義務)が書かれていることがわかる。
他方で直進(一般的意味の「二段階右折」について順番どおり、直進、方向転換、[曲がらないでする進行]、の3つに分解したときの、1つ目の直進。
ただし停止線直前ラインを越えた後の部分)の途中で赤灯火に遷移したときについて、赤灯火のどの号も述べてはいない、つまりその場合、停止義務なし。
はあ、なんかそういうこと考える人はつくづく車社会から遠い連中だなと
ただでさえ輸送関連は規制でガチガチなのに、それに輪をかけてどうするんだよ
やはり老害が多いんだろうな
じゃさ、免許証差し込めば運転できるシステム義務推進していいから、すべての国民をマイナンバーカードで統治して税金全てを過不足なく徴収し、脱税も認めない国にしてくれるか?あらゆることがキャッシュレスで田舎も都会も区別なくスムーズに物流が行き届く、最高の環境にしてくれよ
警察という組織は、約30万人を擁する日本最大級の官僚機構である。
比較のために言えば、トヨタ自動車の従業員は国内でおよそ7万人前後。
民間企業ならば、多少横道に逸れた部署や個性的な社員がいても「多様性コスト」として許容される。意外な部署が思わぬヒット商品を生むこともあるからだ。
この組織は“失敗を許されない”という前提で動いている。命令系統は強固に一本化され、全員が同じ方向を向いていなければ機能しない。個人の創意工夫よりも、上からの命令に対する絶対的な服従が求められる。つまり、職員は「考える歯車」として統制される必要がある。
30万人の人間を完全に一枚岩として統制するのは、常識では不可能に近い。
慎重に採用しても、一定数の「跳ねっ返り」は必ず出る。だが警察はそれを表に出さない。組織の統制を守るために、内部で処理し、表面上の一体性を維持する。
事故、事件、不祥事があっても、よほどの例外を除き、内部で処理される。
「組織に逆らわない限り、人生は保証する」――これは警察組織の不文律だ。
上層部に逆らわない者は守られる。たとえ不祥事を起こしても、組織は庇い立てする。
だから警察官たちは、矛盾や理不尽に目をつぶりながらも組織に従う。
この“安心感”が強固な統制の基礎となり、結果として巨大な官僚機構を維持しているのだ。
30万人のうち一人として反乱を起こさない――これは企業ガバナンスでは到底実現できない統制力である。
不祥事報道でも、警察官が実名で報じられることはほとんどない。
処分は「懲戒免職」ではなく「依願退職」。退職金も支給される。
温情ではない。理由がある。
警察の人事は法令により公示義務があるため、名前を報じてしまうと、後日「再雇用」や「関連団体への出向」を通じて職員が戻ってきたことが容易に発覚してしまうのだ。
実際、問題を起こした警察官が、一時的に関連団体へ出向し、数年後に復帰するケースは珍しくない。
警察には「〇〇協会」「〇〇研究所」「〇〇財団」といった関連組織が多数あり、これらが実質的な“待避場所”となっている。
要するに、警察は「雇用と身分を徹底して守る」ことで、職員を絶対服従へと導いている。
かつては警察人事の公示がウェブ上でも閲覧可能だったが、現在では多くの自治体が非公開または検索避けの措置を取っている。
町議の暴言とされる発言に焦点が当たり、それに対する猟友会の「出動拒否」という対応が報じられています。
「自分たちに頼らざるを得ないことを理解していて態度がデカくなっている」
という視点から、猟友会側の構造的な問題や、なぜ彼らが「横柄」と受け取られ得るのかについて論じます。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000463540.html
クマの駆除は、単に銃が撃てるというだけでは務まりません。対象は猛獣であり、市街地や民家近くに出没した場合、安全確保、正確な射撃技術、獲物の回収・処理など、高度な専門知識と経験、そして何より危険を顧みない覚悟が求められます。
この危険かつ専門的な業務を、現実的に担えるのは(特に地方においては)地元の猟友会メンバーに限られているのが実情です。彼ら自身も、そして行政や住民も、「自分たちがいなければクマの脅威に対応できない」ことを熟知しています。
ご指摘の通り、この「頼らざるを得ない」という状況、すなわち業務の代替不可能性が、彼らの立場を構造的に強固なものにしています。この優位性が、外部からの要求や批判に対し、強い態度に出る(=横柄と映る)土壌となっている可能性は否定できません。
記事の中で、海田副議長は「こんなに10何人も来ないと駄目なのか」と、現場のハンターの人数に疑問を呈したことを認めています。
猟友会側からすれば、これは「現場の危険性も作業内容も理解していない素人からの口出し」と受け取られた可能性が極めて高いです。
安全確保のための見張り、クマを刺激しないための連携、万が一の反撃への備え、そして駆除後の(時に数百キロにもなる)クマの搬出作業などを考慮すれば、13人という人数が彼らの経験則に基づいた「必要最低限」であったのかもしれません。
副議長の主張によれば、これに対して猟友会側は「(クマを)引っ張ってみろ」と返したとされています。これが事実であれば、まさに「危険を知らない素人が口を出すな。できるものならお前がやってみろ」という、専門家の強い自負と素人への侮蔑が入り混じった反発であり、典型的な「横柄」と受け取られる態度と言えます。
猟友会の活動は、多くの場合、危険な任務に見合った十分な報酬が支払われているとは言えません。むしろ、地域貢献や義務感、あるいは狩猟者としての矜持(きょうじ)に支えられている側面が強いです。
そのような中で、今回の報道で猟友会側が主張する(副議長は否定)暴言の中に、「金もらえるからだろう」という言葉があります。
もしこれが事実であれば、命がけで出動している彼らにとって、これ以上ない侮辱です。自分たちの活動の根幹である「義務感」や「誇り」を金銭で測られ、貶められたと感じれば、激しい怒りや拒絶反応(=出動拒否)につながるのは当然とも言えます。
日頃から、行政や住民からの感謝や理解が不十分だと感じている(あるいは、危険な作業を押し付けられていると感じている)場合、こうした「素人からの無理解な発言」は、積年の不満を爆発させる引き金となり得ます。その結果としての強硬な態度は、部外者からは「横柄」「態度がデカい」と映ることになります。
猟友会は、その専門性や伝統ゆえに、外部からは実態が見えにくい「閉鎖的な組織」と見られがちです。独自のルールや、師弟関係のような強い縦割り構造を持つことも多く、外部の論理(例えば行政のコスト意識や議会の介入)が通用しにくい側面があります。
行政(町議)側からすれば、彼らは「コントロールしにくい集団」であり、予算を支出しているにもかかわらず、やり方や態度に口を出すと強い反発を受ける(あるいは、今回のようにボイコットされる)というジレンマを抱えている可能性があります。
副議長の(とされる)「予算を減らす」「辞めさせてやる」といった発言は、まさにこの行政側の不満や無力感、「言うことを聞かない専門家集団」を力で抑え込もうとする不適切な試みであったとも解釈できます。
海田副議長の言動が適切であったかは別問題として、ご指摘の通り、猟友会が「横柄」と見られがちな背景には、彼らが「危険な業務を独占的に担わざるを得ない」という構造的な優位性があります。
専門家としての強いプライド、危険な任務への自負、そして「素人には分かるまい」という意識が、外部(特に行政)からの介入に対して過敏な反応や高圧的な態度として現れることは、想像に難くありません。
季節の変わり目に追いつけない体を抱えて、ベッドにうずくまった。
着重ねする必要がなくなったがゆえに、肌にかかっている布の軽さが物足りない。
「寝る前に換気して、空気を循環させた方がいい」という助言を律儀にまもり、手首のスナップをきかせて、窓を開け放つ。
カーテンが呼応するように揺蕩い、爽やかな風が一気に部屋を満たす。
雲一つない藍色の空から、星ごと流し込まれたような心地よさ。額を撫でる風に目を細め、深く息を吸う。
溜まっている「How are you doing?」に返す気が湧かないので、設定から「アカウント削除」を選択し、すぐさまアカウントを作り直した。
英語のレベルは5段階。少し悩んで、3にする。レベルの横に、ドットが3つついたのを確認し、さっそく投稿を作る。
「こんにちは、アキです。喋りたいからアカウントを作成しました。チャットか電話しましょう。」
なんどもアカウントを作り直してもなお、「アキ」を選びたくなるのはなんでだろう。呼びやすいからか、季節の秋が好きだからか、発音したときの響きが好ましいからか。
改名できるなら「あきらちゃん」になりたいな、と思ったことが何度かあるし、ニックネームでアキちゃんと呼ばれたい。
本名はマ行とナ行で、どこか沼っぽく湿気ている。あきら、と声にしたときの、葉っぱをちぎったような爽快さに対するあこがれかもしれない。
投稿ボタンを押すと、少しの間もなく一つ目のいいねがつき、個人メッセージに「手を振る絵文字」が届く。
テンプレートの「調子どう?」「いい感じ」を数人相手に、三往復。
だが、その日は、単調で使い古されたテンプレートを、目をこすりながら指で辿ることを選んだ。
4人を相手に、ほぼ同じ会話のキャッチボールをした。少しも色が変わらない自身の心を見やり、チャットルームを抜けたところで、「電話?」の無機質な文字列が目に入った。
電話しませんか、の8文字すら省略する、スナック菓子のような軽い姿勢に惹かれ、ポテチをつまむように「通話ボタン」を押す。
耳に届いたのは、岩が転がり落ちて割れたような、気だるげに崩した "Yo, what's up"だった。
20代の大学生男子で、発音が聞き取りやすいなと思ったら、ニュージーランド出身だった。時差が3時間程度あり、「オーストラリアと日本の時差は1時間なのに」というと、「オーストラリアとニュージーランドを一緒にしないで」と怒られた。
「それでさ、フィジックスがなにか説明できんの?みたいな」
フィジックスがなんなのかすら知らない、というと「あー、ぶつりがく」と返してきたので、目を丸くした。
「まあ、わかる」
「まあ…このアプリ始める前はなんもしゃべれなかったけど、なまけずに電話とかしたら上達した。で、物理学説明できる?」
息を吸い、悪いけど日常会話くらいしかできないんだ、と返した。
「へえ。どこ住んでたの」
「オーストラリア」
電話口の声のトーンがあがる。転がり落ちた岩から、水切りで投げ、水面で跳ねる石みたいだ。
「うわあ、だと思った。オーストラリアの人って女でも男みたいな喋り方するんだけど、そんな感じがした」
そして、なるほどね、と言い添える。
「小学生のころだったら、本格的に専門の勉強とかはしてない感じか。了解した」
どうやら、物理学がなんなのか聞いてきたのは、英語レベルを測るためらしかった。言葉にトゲが少しもないから警戒はしていなかったが、特殊なモノサシのようにも思えた。
「なんか寂しいなと思って」
「寂しい?」
「孤独を感じたから。やっぱ今のなし、なんか恥ずかしくなってきた」
英語を学びたいから、と無難に流せるところだったが、口をついて出たのは「ロンリー」という単語だった。
言ってみてから、自分の状態を自覚する。そして、少々オープンすぎたかと思い、早口になる。
彼は特段からかう様子もなく、「なんか悲しいことでもあったの」と聞いてきた。
「いや、悲しくはないんだけど。今こうやって話せてるから楽しいし。」
暗い空気を感じ取られたくなくて、会話を移そうとしたが、彼は話題の切り替えに乗ってこない。
「なにかあった?」
首をひねり、天井を見上げる。少し息をついた。
間をおいてまで考えたが、別に何もないのだった。
「本当になにもないんだ。ただ、人って社会の生き物だから。私は一人で行動するのが好きだし、店とかもひとりで行くけど、たまに人と喋りたくなる。それは、ヒトっていう動物が社会の生き物だからだと思う」
「それはそう」
納得したらしい。英語でそこそこ言語化できた自分を、内心褒めつつ、落ち着かなくて言い添えた。
「君をカウンセラーみたいに扱いたいわけじゃないんだよ。だから気にかけてくれなくていいよ」
「なんでそう思ったの」
「どうして悲しいのか聞いてきたのが、こう、心配してくれているように感じて。暗い空気を感じ取ってたら悪いなと。人は人のことをカウンセラー扱いしちゃいけないと思うから。人はあるがままで良いわけだし」
「そんな気にしなくていいのに。別に、ヒトのことをカウンセラー扱いしてもいいんだよ。みんな、誰かをカウンセリングする義務がないことくらいわかってる。強制させてるわけじゃなく、そうしたいからそうするだけで、みたいな」
自分よりも2歳は年下で、語尾の「みたいな」に若者らしさが滲んでいるのが気になるが、それでも海外の大学生はずいぶんまともだなと思った。自分よりも、ヒトとの距離感、境界線の引き方に長けている気がした。
それにしても、知らない考え方だった。
人のことを便利に都合よく使っちゃいけない、というのが今の自分の考えだ。愚痴を聞かされると、「ゴミ箱にされた」と感じる。人はあるがままで良いわけだから、相手になにかケアを求めるのは望ましくないと思う。
だけど彼は、「ヒトは在り方を選択している」わけだから、好きにふるまえばいい、というスタンスだ。
主観的な見方しかしない自分と違い、それを受け取り、応答する側である彼の目線から、「自分だってこうしたいからこうする」と、立場を選んでいることを明示され、目からうろこだった。
なるほど。愚痴を聞かされ、人を励ますとき、私はいつも、都合よく使いやがってと腹を立てたりしたが、私はそのケア役割を「選んで」担っているわけか。
彼のカウンセリングが続く。猫はいるよ、と答えてから、少々言葉に詰まる。
「あれ、猫じゃ埋まらない?」
埋まってる埋まってる、飼い猫のこと愛してるし、と返す。
話は自然と彼の恋バナに移っていった。
「今度日本に行くとき、日本人の好きな子に会いに行くんだよね。性格が好きで」
「なんかロマンチックだね」
「どこが。ただ会いに行くだけだよ」
拒絶されたらショックだなあ、とぼやいている。きっとうまくいくよ、と励ました。ニュージーランドに留学に来ていた女子らしい。
「それで、君は好きな人いないの」
「いないよ。必要かな」
「確かに楽しいね。でも、恋愛のプロセスがあんまり好きじゃない。考えてしゃべったりしないといけないし」
「それは、今まで良い関係を築いてこれなかっただけでは?」
どうやら2個目のアドバイスをもらってしまったらしい。確かにその通りなんだけどさ。でも本当に言いたかったのは、恋愛のプロセスの中、もしくは先に、自分の体を当然のように要求されることの不健康さだった。まあでも言わないことにした。
その後も、気だるげだがポップコーンがポコポコ跳ねるように、軽いフットワークでいくつか話題をまたがり、「もう寝るわ」の声で通話の幕は閉じた。
切り際、「自分にバラでも買えばいい」と言われたから、「買う買う」と返す。
「買ったら写真送って」というので、「それは約束できない」と目を逸らすと、「それじゃあ意味ないじゃん」とごねられる。
正直、子どもは嫌いだし、子育ては面倒だし、趣味の時間は減るし、お金の使い道も制限される。
性根がおひとり様体質なので、かなりキツい。
こんな人間でもなんとか子育てできてるんだよ、っていうのを共有したい。
でも、子どもはうるさそうだし、面倒くさそうだし、正直嫌いだった。
1人目のときは初めての育児だったから、「できなかったことができるようになる」という意味で楽しかった。
でも2人目は楽しくない。
作業ゲーみたいなもんだ。
多分、自分は「知らないこと」や「想像を超えること」が好きなんだと思う。
2歳になって言葉も流暢になってきて、会話ができるようになると、
表情や話し方、身振りを少し変えるだけで大体予想通りに動いてくれる。
民法877条に「直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養の義務がある」と書いてある。
生物として欠陥まみれだけど、法律があるから仕方なく子育てしている。
でも、できることならやめたい。
どんなに幸せだっただろう。
そんなことを毎日考えながら過ごしてる。
一応言い訳しておくと、パートナーから見れば「ちゃんと親の役割を果たしてる」らしい。
「きちんと愛情を持って接しているように見える」とも言われる。
まあ、そう見えるならそれでいいと思う。
昔から何をやってもそれなりにできた。
子育ても多分、それなりにできてるし、これからもそれなりにやっていけると思う。
多分これを読んでる人の中にも、「昔から何をやってもそれなりにできた人」がいると思う。
理不尽なことも多いし、制約も多い。
自分が主役じゃないから、お金も時間も自分のためには使えない。
主役のままでいたい気持ちはよく分かる。
人生は一度しかプレイできないゲームみたいなものだし、私もそういうタイプだ。
絵をやめて1年。
光の中でチヤホヤされる絵師の裏、影でもがいた末の私の無駄な2年間
Twitterを始めた理由はFantiaに誘導して金稼ぎしようというやましい気持ちでした。
そして勿論描く絵はr18です。r18は簡単に見てもらえますからね。しめしめと舐め腐っていました。
過去に一度だけpixivでr18を描いたことがあって、banされないかと怯えながら投稿した絵が1000ブクマ行ったのがきっかけです。
その絵は描きたいから描いた絵です。コマ割りなんてぐちゃぐちゃ、フォントも変、タグも全く付けてないのにスマホの通知が止みませんでした。
それに浮かれてTwitterとかいう薬物に手を出してしまいました。
しかし、やってみれば誰も見向きもしない。
pixivのフォロワーは何をしているんだ。私がsnsを始めたんだぞ。
何度見てもフォロワー0。
…いやいや、私なら1000人は行けるだろうと、甘い夢を見て早速一枚投稿
ですが反応は無し。やってられるかと早速Twitterを見なくなりました。
元々snsをスマホに入れないと固く誓うほど興味のない戦場だったので、この段階では諦めは早かったんです。
数日後、なんとなくTwitterを覗いてみたんです。
消そうかなぐらいの気持ちでした
開いてみるとフォロワー500……
天にも登るような気持ちでした、誰が私を見つけてくれたのか、爆発のきっかけは誰だ。
RT覧をスクロールすると何人かの1000フォロワー、万フォロワー持ちの人がRTしていたのです
認められた、同じ界隈に認められたんだ。
……なんて勘違いしていました。
今だからわかりますけど、跳ねる人は最初から1000フォロワーになるんですよね。
ふんぞり返った私は、さっそく描きかけで辞めていた絵の続きを描いて投稿
これも同じくらいにはrtされてウキウキでした
は?2枚目上げたんだから+500増えろや。
そんな事考えながらもTwitterとは継続が大事と聞いて、次の絵を考えます
色々と何か創作意欲の湧くいいアイデアの種はないものかと、散々探しましたがありませんでした。
きっと神にいいねされたというのが、ある意味で私の中の無意識の目標を達成していたのてしょう。
仕方ないので期限以内に間に合わせるため惰性のような絵を一枚二枚と上げて様子見が続きました。
そしてだんだん絵を投稿した後のフォロワーの数や、いいね、リツイートの数が気になりだします。
何故いいねしないんだ、何が足りないんだ。
pixivにいた頃は好きな物を気分で描いて投稿していたのに、なんというザマでしょう。
いいねの数に囚われて、金に目が眩み、絵の魅力を出せない状態に陥ってしまいました。
絵とは描いた人間の楽しいが染み付いたものに目が留まると思うんです。
子供の絵って思うがまま描いた絵ですよね。
それに比べて私は、人の目を気にして絵の魅力を殺している状態。
毎日頭を掻きむしりながら、こたつ机に座布団で腰を曲げて目をしぼませ画面を睨みながら、ペンタブを走らせる
大量の人体や、塗り方の資料とどこをどう塗るかの予定の暗記、レイヤーの暗記
お前らこういうのがいいんだろ?こういうのをいいねするんだろ?テカテカに彩度高めで塗ってやったぞ?
そしてある時、パタリと絵を描くのをやめました
絵を描かないといけない。と考えていることに気づいたんです
楽しくない、気だるい、嫌なことがフラッシュバックする。何か食べながらじゃないと落ち着かない
そんな鬱みたいな状態だったので、そろそろ資料集めしとかないとってタイミングでPinterestを削除したんです。
それからは解放されたようでしたが、他人の絵を見ることが辛くなりました。
いまだに上手な人の絵は称賛よりも嫉妬心が強いです
生まれたときから環境が整っていて、気づけば絵を描いてるみたいな幼少期だったんだろうな…。
こちとら2年叩き上げ、毎回知らない人間の関節と筋肉、ロボデザイン、サイバーパンクファッションに頭を抱えているというのにサラサラ描きやがって
デザインもお上手でいらして?お父様お母様のたっぷりある資金と愛情で美大卒でございますか?そうであってくださいまし。
美術部出身、彼氏持ち万フォロワー絵師、ボディメイクも欠かさない。
まあ、素晴らしい努力とスケジュール管理の才能がお有りで。ぶん殴ってやりたいです
奴らが苦しむ姿が見たいからです。
そのプロダクトのクオリティがなんなのかという話で、レスポンス速度やコストが重要なのであればメモリ管理やインフラに詳しくなければいけないし、逆にとにかくアプリがダサくないことが重要なのであれ競合とデザイントレンドにキャッチアップすることがその組織のエンジニアの義務ですよね。
俺も作ってみた
ポエム風の散文を書いて下さい。テーマは、都会のOLが虚無の日常を繰り返す、虚しさと絶望、風景も食事も感受性を喪失する日々、そのことに自覚もある、自覚があることも辛い、朝の電車で感情の行き場が溢れ泣き出してしまう。
【修正指示1】感受性を失った自分を自覚している、のセンテンスは削除。行間に織り込んで欲しい、壊れたいと願う小さな衝動は虚無に対する諦めを表現するに変更
出勤電車。
吊り革の列、スマホの光、無表情の群れ。
光が義務のように私の頬を照らす。
どれも昨日と同じ配置、同じ温度。
昼休み。
味はしない、食感だけが舌に残る。
夜、ビルの灯りが順に消える。
窓に映る自分は影のよう。
望むでもなく、抗うでもなく、
滲むように生き延びていく。
朝。
再び電車。
吊り革を握る手が震え、視界が滲む。
涙は理由を持たない。
誰も気づかない。気づいても、見ない。
壊れたいと思う。
けれど、それは救いではなく諦めだ。
虚無の中で、壊れることすら意味を失っていく。
それでも電車は走り、朝はまたやってくる。
私は立ち尽くし、
「貸倒引当金の損金算入」なんて言葉を聞くと、だいたいの人は眠くなる。
けれど、これが実は奨学金という制度の“本音”を照らすキーワードでもある。
ざっくり言えば、「貸したお金が返ってこなさそうな分を、あらかじめ経費として認める」仕組みだ。
そして、これを税金の計算に反映できるかどうかが、国の性格を決める。
たとえば、あなたが会社を経営していて1000万円もうけたとする。
でも、あなたが「このうち100万円は、貸したけど回収できなそう」と言って、
その100万円を経費にできる(=損金に算入できる)とどうなるか。
国に払う税金が30万円減る。
つまり、国が“貸倒リスクの3割”を実質的に負担したということになる。
損金算入とは、国家が企業の失敗の一部を税で肩代わりする制度なのだ。
これを知らずに「貸倒引当金なんて難しい話」と思っている人は多い。
だがここにこそ、**「どんな失敗を国が共に背負うか」**という社会哲学がある。
日本では原則として、実際に回収不能にならなければ損金にはできない。
これらは「法定繰入率」というルールで、あらかじめ貸倒分を税務上の費用として認められている。
つまり、銀行が融資で焦げついても、その痛みはすでに税で少し吸収されている。
一方、**奨学金(JASSO)**のような「教育を支援する貸付」はこの枠外だ。
貸した金が返らなければ、本当に国の損失になる。
だからこそ、制度は「破産させない」「逃がさない」という設計に偏る。
これが、表向き“やさしい”奨学金制度の裏にある、硬い現実だ。
アメリカでは考え方が違う。
学生ローンを含む貸付債権は、束ねられて**証券化(SLABS)**され、投資家の手に渡る。
アメリカ政府もそれを前提にしている。
議会予算局(CBO)や教育省は、あらかじめ「将来どのくらい焦げ付くか」をモデル化し、予算に織り込む。
「学生が破産した=想定外の失敗」ではなく、「予定通りの割合」なのだ。
だからこそ、延滞者に課される**回収手数料(25%上乗せ)**も、「罰」ではなく「市場の回収コスト」として処理される。
日本学生支援機構(JASSO)の奨学金は、貸与終了から7か月後に返済が始まる。
この不思議な“間”の意味を考えたことがあるだろうか?なぜ4月から請求しないのか?
引越し、就職、給与口座の整備——確かに数か月の猶予は理にかなっている。
だが、もう少し冷静に見ると、別の合理が見えてくる。絶対に借り逃げさせない強い意思
この時期に返済請求を受ければ、破産手続きで裁判所から「支払不能」が認められやすい。書類上は収入ゼロ、もしくは雇用不安定の人間に借金の取り立てをしているのだから。
つまり、裁判所は破産免責を認定しない。「返せるでしょ?」となる。
このタイミングで返済義務を発動させれば、制度としては極めて理想的に“逃げ道”を塞げる。
JASSOはそこまで公には言わないが、債権保全の観点では非常に計算された設計だ。
(ちなみに借金があっても債権者から返済の請求が無ければ裁判所は自己破産の手続きも受理されない。返す義務が具体化していないのだから訴えの利益が無いのだ)
20代前半の7年なんて“クレカが持てないだけ”で済む——そう考える若者がゼロとは言い切れない。
JASSOの7か月ルールは、そんな“逃げのタイミング”を制度的に潰す仕組みでもある。
こうして見えてくるのは、
日本では奨学金は「教育支援」よりも「回収可能性」に重心を置いた制度になっているということ。
なぜなら、貸倒を損金にできない限り、貸す側のリスクは全額自己責任だからだ。
だから破産しても倫理的非難は少なく、「数字の範囲で終わる」。
つまり——
日本では**「道徳」が返済を支え**、アメリカでは**「市場」が返済を支える**。
奨学金は、「教育機会を広げたい」と「回収したい」の間で揺れている。
その揺れを見える化しないまま「返せ」と言えば、制度は道徳主義的に硬直する。
もし本当に“支援”を名乗るなら、返済開始の柔軟化や所得連動の自動適用といった再設計が必要だ。
「貸す側が損を想定できる国」と、「借りる側が破産を許されない国」では、若者の挑戦の角度も変わってくる。
ならば、前借りの回収はその人の立ち上がり方に合わせていいはずだ。
その構造を知れば、奨学金という“やさしい顔をした金融装置”が、
ChatGPTに書いてもらいました。10分
この〇〇くんというのは、友人のことではない。友人の次男だ。
今朝唐突に投下されたこのメッセージに、私は苛立ってしまった。
友人本人の誕生日ならともかく、子どもの誕生日まで祝ってたらきりがないんだが…
ただでさえ半ば義務と化していてそこに感情はない「誕生日おめでとう!」「おめでとう!」というただの文字列を送り合う風習にうんざりしていたところなのに、そこに各々の家族分まで増やすのかと…このグループの友人家族、総勢何人いると思ってるんだよ。
この主張は「例外を設定することが理論を妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード的思考の観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。
ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理の破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます。
タルムードはその典型で、単純な法則を提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:
「シャバットに火をともすことは禁じられている」
— では、もし病人を助けるためなら?
— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?
このように、例外を探ること自体がトーラーを「生きた法」とする営みなのです。
神は人間に理性を与え、「境界線の思索」を求めたとされます(創世記 2:19)。例外を検討することは、神の創造の多様性に応答する行為です。
なぜなら、ユダヤ的思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。
例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えます。しかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。
神の完全な知と人間の部分的な自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。
あなたの提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。
例外を問うことは、理論を現実に照らして再検証する道徳的責任です。
つまり、理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。
これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。
「例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。
むしろ「例外を認めない」理論こそが、生命や倫理から遊離した「妄想」に陥ります。
正直、私はこの山田昌弘氏にも大いに社会をこういう状況にした罪と責任があると思っています。
自分より若年者には甘えだと言い、自分と同じ老人は違うと言う、というのはちょっと酷すぎやしませんか?
まず、ニートは「Not in Education, Employment or Training、NEET」というイギリスの言葉であり、イギリスの定義です。
日本とイギリスは大きく社会状況が異なるにも関わらず、厚労省が意図的にこの言葉を輸入し、日本社会に流布したことに、陰謀論とまでは言いませんが、悪質な意図を感じます。
また、ニートは明らかに、他者に対する侮蔑的表現として日本社会で用いられています。
本来は定義のとおり、「学校に通っていない、学校に通えない、仕事に就いていない、仕事に就けない、訓練を受けない、訓練を受けられない」人たちです。
健常者のときは障害者を見下して加害者になり、自分が事故や老人になって身体に障害が出たら被害者になる。
これも言葉の定義からすれば、就職氷河期のような状況に左右されて、収入が家を出るのに満たない額だから仕方なく家にいる人たちを含めている話です。
そして、こういう造語を作り、他者を侮蔑するような日本社会を作ってきた犯人の一人が山田昌弘氏です。
そして、次の「ひきこもり」もそうですが、
ここまでの「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」は単なる状態、症状の話です。原因の話ではありません。
例えば、あなたが頭痛がする、寒気がする、血便が出た、とします。これは症状です。
しかし、あなたは自分の身体が何かおかしいと思ったら、普通病院に行くはずです。
病院に行って、検査して、医師に診断してもらわないと、原因は分からない。
例えば、歯が痛いとしても、虫歯なのか、歯槽膿漏なのか、気のせいなのか、歯軋りなのか、
「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」が問題だ、なんとかしなければ、と政治とかマスコミが騒ぎ出すわけです。
例えば、精神疾患で統合失調症の人がいたとして、統合失調症でも薬等で安定して一人で生活できる人もいます。
しかし、症状が悪化して、仕事を休むようになり、集合住宅で「ひきこもり」状態になってしまった人もいるでしょう。
ちなみに、統合失調症も症と付いているように、これは症状です。そして、未だに機序のメカニズム、原因は不明です。
しかしながら、医療の発展とともに、分かってきていることがあります。
例えば、統合失調症を促しているのは過剰なドーパミンではないか、という仮説があり、ドーパミンを抑える薬は効果があります。
統合失調症の状態が酷ければ、一人で暮らすことは困難でしょう。
当然、「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」の状態になるでしょう。
そうしなければ、いつか限界が来ることは、ある程度思考ができて、相当裕福な家庭でなければ分かっているはずです。
ここで話をおかしくするのは、就労の意思があればニートではない、とか、そういうおかしな定義が出てくる。
もう、明らかに社会問題を定義するニートという言葉を侮蔑的、差別的に使っており、
自分は被差別対象ではない、だって就労の意思はあるんだから、という意図を感じます。
端的に言って、「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」という言葉を捨てるべきです。これらの言葉を好んで使って社会問題を語ることは不可能だからです。
では、どう定義すべきなのか、とするならば、ぶっちゃけ、本人の意思なんてどうでも良いのです。
その当事者の近隣の企業は、どれぐらいの給与を払っているのか?ちゃんと最低賃金は守っているのか?求人の量、内訳はどうなっているのか?
日本人はすぐに、本人の意思が重要とか言い出しますが、じゃあ、就職する気がなくて遊んでたい人でも、俺は就職する意思がある、
就職する意思がある人はニートとは呼びません、ということになり、就職する意思があると表明すれば給付金がもらえ、
会社で酷い事故に遭った、もう二度と俺は働きたくなんかないからな、と言った人には給付金を払わない、これはナンセンスでしょう。
じゃあ、すべからく貧しい人に給付金を出すべきなのか?遊んでたい人にも、障害者にも、老人にも出すべきなのか?
その通りです。
ただ、単に遊んでいたい人が、本当に詐病でもなく障害があるのか?特に身体障害があるのか?
普通はないと思います。徴兵を逃れるために障害車椅子になるぐらいの自損事故を起こす人もいるとは思いますが、
ある意味、それはそれで何らかの給付を得てもいいのではないでしょうか?
老人も単に年齢に払うのではなく、身体能力、障害があるか、認知症があるのか、そういう状況に即して助けるべきです。
70歳で障害や病気、癌などでつらい人もいれば、90歳でも足腰が元気でスポーツを楽しんでいる人もいます。
こういう格差は、そもそもの出自、つまり生まれつき環境が恵まれていたか、それから遺伝的な格差もあるはずです。
社会とは、そういった本人にどうにもできない格差をできるだけ埋め、チャンスを平等にするべきものです。
駆けっこで一位をなくせばいいとか、そういう頓珍漢な話ではないはずです。
最後に端的にまとめるならば、やはり「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」のような言葉で社会問題を語る人を疑うべきです。
議論するためには、根本的な社会的病理の原因を特定し、そこで初めて、その解決方法を議論できるはずです。
要は、例えば「パラサイト・シングル」も「ニート」も「ひきこもり」も、日本の労働環境、雇用する側、企業人事の悪しき文化、ブラック企業など、
企業から献金を得ているのに、その企業が労働者に酷いことをして、パラサイトシングル、ニート、ひきこもり状態の国民を生み出している。
お金をもらっているのに、そんな指摘できないですよね。
そもそも、「ひきこもり」状態、症状を訴えている人たちは、かなりの割合で何らかの精神疾患があることが既に医学的にも示されています。
私も氷河期世代ですが、私が子供の頃には例えば発達障害なんて言葉自体がありませんでした。
これを取り上げて、発達障害なんてものは存在しない、医療界の陰謀、みたいに言う人がいますが、私はそうではないと考えています。
単に見つかっていない、無視してきた病気が見つかっただけです。
それから、社会の方が変化して、その変化した社会に適応できないから病気として認知されたのです。
人為的ですが、これも立派な病気であり障害です。障害とは社会に対する障害で合って、視力が低くても眼鏡があれば克服できることで、これは社会が変わって病気が消えたのです。
つまり、氷河期世代、ベビーブーム世代でありながら、大量の精神疾患罹患者、発達障害などの当事者が、
なんのサポートもされないまま、学校生活を耐えさせられ、社会に出て会社に合理的配慮どころか、不合理配慮、不条理な配慮を受け、
社会に適応できないまま放置された、そういうケースがベビーブームですから、大量にいるわけです。
病人は弱者なんだから勝手に淘汰されて死ねばいい、そういう漫画「なるたる」の登場人物みたいな考え方もあるとは思います。
公衆トイレがあまりにも汚い、路上にも糞便が溢れていて、川にも生ゴミや粗大ゴミがそのまま投棄されてる、
でも、ちょっと前、昭和の、私が生まれる数十年前はそうだったわけです。
そこから高度経済成長、オリンピック、大阪万博、バブル、バブル崩壊などを経て、公衆衛生は格段に良くなりました。
ウォシュレットなんて、潔癖すぎることで逆に病気を起こすぐらいです。
精神衛生も同じです。
私は漫画やアニメ、音楽が精神を汚染しているというよりは、労働環境、悪しき企業の人事の文化、
リクルート社のような人材斡旋の利益を優先した文化、そういう方が人間の精神をおかしくしているのではないか、と思っています。
労働するなら、やりたくないことをやるなら、せめてできるだけ快適な環境で働きたいとか、もう限界なときは休みたいとか、
そう考えるのが普通なのではないでしょうか?
一方で、近年のAI、ロボットの発展は凄まじい勢いがあります。
私なんかより遥かに、天文単位レベルで頭が良い天才が開発に携わり、私にはさっぱり分からない数学の話をしていますが、
そんな超天才たちが、でも、どうしてうまく動いているのか、ちょっとよく分からないんだよね、みたいに言うことがあります。
そんな感じなので、本当に超知能が10年後ぐらいに実現するのか、自分にもよく分かりません。
ただ、AIやロボットが人類を労働から解放するのではないか、というありがちな見方がひとつあり、
私はもうひとつ、AIやロボットと人類が一緒になって、困難な問題に取り組む、
例えば、この世界はどうなっているのか?そういう究極の真理の探究はまだまだ続くでしょうし、
いくら超知能とはいえ、それこそ「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」のような症状を生み出す社会問題をゼロにできるでしょうか?
すべての人類が幸せになるまで、幸福は市民の義務なんて強制ではなくて、できるだけみんなが幸せになれるような社会にする、
これはきっと永遠に訪れることがない理想、理想論であり、しかし、宮崎駿氏が言うように、理想を目指しながら、現実はどうするかを議論するべきなのです。
私の今の将来の夢は、AIやロボットに任せっきりにするのではなく、一緒にプログラミングして、一緒に絵を描いて、一緒に作曲をして演奏して、
一緒に畑を耕して、どんな場所でも、一緒に高め合っていける、そういう社会が実現したらいいなと思っています。
「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」は症状であり、状態です。
そういう症状、状態の人を責めるなら、その前に、その原因をちゃんと考えてあげてください。
https://anond.hatelabo.jp/20251025122955
X見たら、まだほとぼり冷めてなくて草。
他の人に比べると影響力ないけど、AI小説に対する個人的な意見は書き残しておくね。
最善策は投稿数の制限を設けて、生成AIを少しでも利用していたら「AI利用タグ」を付けるように義務付けて、プロンプトの明示を行わせること。AI利用タグを付けたものは、1話ごとにプロンプトも載せておかないといけなくする(文字数にはカウントされない)。後は、ユーザーの通報に任せる。
AI隔離は悪手じゃないかな。読者はいないのに永遠と小説は投稿されるっていう地獄の空間になる。
「面白ければなんでもいい」なんていうやつの9割は、わざわざAI小説を読みに行かないし、すぐ飽きて、サイトから消えるよ。
その時その時の面白いと思うコンテンツを渡り歩く回遊魚であり、食い荒らしていくイナゴ。AI小説を書籍化しようって頃には消えてるよ。
後、これも言っとくが、10時間取り組んでるから偉いってことはないから。普通に書けばもっと時間かかることを、AI使って簡略化して、大量生産した行為は褒められることではない。
法治主義について偉そうにゴタクを並べるなら「被告人」と書け、ボケナスのウスラ馬鹿。これは民事裁判じゃねえんだよ。
検察は実務上は被告人の罪をなるべく重くしようとするのが通例だが、それでも真実義務には拘束されるから、
事実や道理をねじ曲げて被告人を断罪するのは、国民の税金を使った公判では絶対に許されない。
てめえみたいな知ったかぶりの半可通のオツムでは理解できんだろうがな。まことに度し難い。まことに愚鈍。無知まるだし。
たとえば「「40代となった事件当時まで(家庭崩壊の)影響が及んだとは考えられない」といった断罪の仕方は
なぜなら、家庭崩壊のような大きな出来事の影響は終生続くのが不可避で当然だからだ。
なんでそんなに離婚を急いだんだろう。とりあえず1〜2ヶ月入院させるとか、実家に帰ってもらって別居から始めるとか、やりようはあったろうに。
増田には悪いけどその夫は結婚を軽くみすぎてると言うか、配偶者としての義務に対して無責任すぎるかな。今は幸せでも、いつか増田が病気とかしたらあっさり「合わない」とか言って見捨てそう。