はてなキーワード: 些細なとは
ロクでもない内容を喋らせていることに憤りを感じないわけではないが、そんなことが些細なことに思えるほど感動した。
特にベジータの声は、かつて誰にも真似ができていないと感じていた。どのモノマネにも違和感があったが、あの音声は、かなりよく聞いてもほぼ本家と遜色のないレベルの声だった。
悟空は、ベジータに比べれば随分モノマネ界隈のクオリティはマシだったが、それでも、あのクラスで似せるモノマネはあまりなかった。悟空に関してはちょっと変な部分もあったので、安定感を含めればモノマネとトントンかもしれないが、似てる度の最大値は確実にai音声がダメだった。
多分許されないことなのだろうと思うが、万が一のことがあったら、彼らの後継はaiにやってほしいと願ってしまった。声変わるのほんと無理だった。声変わった違和感大きすぎてせっかくの新作アニメつらくなって観れなかったの今でも許せない(ダイマ)
昨日電車に乗ってたら向かいの女子高生がカバンの取っ手の根本金具にストラッブ型のノートのようなものをつけていた。
しかし同じ金具に同じぐらいの大きさのぬいぐるみもつけているものだから、自然な状態だとノートにぬいぐるみが重なっていて、ノートの表紙が全然見えない。
なんかキャラが描かれているようで気になったが視力も悪く、もし全体が見えていたら漠然としか見えてなくてもパターン認識が発揮され判断できるものだが、ぬいぐるみの影からはみ出た些細な情報では到底何が描かれているのか特定できない。
えーとこういうグッズって人に見せるためにつけてるんだよね?見えなくなるまでつけてるのは完全に無駄だよね?馬鹿なの?
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些細な仕事なんだけど、その仕事の成果を横取りされた感じがあってイライラしてる
営業先リストがバラバラだから項目合わせて一本化と一覧化して死活管理するとか、契約書の進行状況を一覧化するとかそういう細かい仕事
元々会議のたびに「あれどうなってたっけ?」のやりとりが面倒だったから個人的に始めたことだった
一覧作った方が良くないですか?って提案したこともあったけど、みんな半笑いで「そんなの無駄だよ」「絶対ゴミになる」ってまともに取り合ってもらえず
でも私欲しいから業務の合間を縫って作って自分専用の資料を作ってこっそり使ったんだけど、そのうち存在がバレて周りがその資料に頼るようになった
そこまではいいんだけど「こう言う資料を作るのは仕事をする上で当たり前だけど?」みたいな感じで他部署にマウント取るようになったのだけ本当にムカつく
毎回、増田さんが作ってくれた〜って言って欲しいわけじゃない
提案した私をバカにしたくせに、私/僕がDXの一環としてとして推進しました!顔するのがムカつく
部署として取り組みました、だろ
もう絶対共有なんてしない
何をしても神の子がやってるのだから罪にならないのでは、と言うことを何となくひらめいた。
神様本人は普通に人類滅ぼそうとしたりするくらいに殺して殺して殺しまくるんだけど、誰一人神が人殺しであると言う罪に訴えた人はいない。
これはつまり神は人を殺しても罪にならない、というよりはそういう権利を持っていると言う事なんだろう。
人は神にたいしてどんな些細なことでも罪を犯したら殺されうるが、神は人にたいして何をしても人々は受け入れるしかない。
この権力の格差を認めて受け入れることが恐らく信仰なのだろう。
そしてそれだけ権力に差があるのに神は人類を滅ぼさないと約束をして今も守っているから愛があるのだととらえるのだろう。
で、そんな神様がこの世に現れたのがイエス・キリストなのだから、彼にはあらゆる権限がある。彼がやる以上殺しても良いし何しても良い。のだけどとんでもない猟期殺人者にならないでいてくれたから彼は素晴らしいのだろう。
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
元増田だけど、リスク管理は確かにねえ……。にしても、何かしらの悪行をしたら些細なことでも異様に殴られるはSNSの宿命として諦めるにしても、不器用さを笑い者にしたり叩くのが正当化されてるのがほんとにグロくてな……。
昔、うちの父(国家公務員)がテレビ報道をみて「大衆は愚民だなんて言いたくないけど、言いたくなる気持ちは正直ある」と渋い顔して言ってたのを思い出したわ。
私は子供だと思う。
もう社会人なのに自分のことしか考えられないし自分が損をするのは許せない。親は今の私の年齢の時には私を生んでいたというのに。
今は同棲しているのだけど、家事を私だけやっているという状況がイライラして仕方ない。普段は私はなにもしていなくて、お弁当も夜ご飯も作ってもらって食器まで洗ってもらっている、相手の帰りが遅くて私が作る時は別にいい、一緒に帰ってきたのに私だけが動いているとどうしようもなくイライラする 相手が家事しているときに私はやらないのにね
相手に不満があるわけでもないし、嫌いでもないんだけど、どうしてもイライラする時がある
先日一つ下のいとこが子供を産んだ (私は一人っ子なのでそのいとこが一番身近)
信じられない
心からすごいと思う
絶対妊娠したくなくて18からピルを飲み、出産経験ないのに今はミレーナを入れている私はどうすればいい
元々自然に排卵もしないし生理も定期的に来ないから、ミレーナいれてからは無月経で快適最高生活であと5年は享受したい 排卵してないから妊娠を希望するなら計画的にと言われている まあミレーナの期限的にあと3年で考え時なんだけど、入れ替えるか抜去するか時期も変わってくるからライフステージのことも考えなければならないのに、後3年程度で自分が子供を育てられる気がしない 自分が子供だから でも妊娠出産適齢期なんだよな~とも悩む
プラスで子供にお金をかけたくない、というよりかは、まだまだ自分のために生活したい、お金を使いたいという気持ちが大きい 顔面の気になるところをメンテナンスしたり、舞台やミュージカルもたくさん見に行きたいし、ほかの人や物や自分の将来(こどもとか)にお金をかけるくらいなら自分自身にお金も時間もかけて、もっともっと今の人生を生きやすくなりたい 些細なことで落ち込んだり外的要因で気持ちの浮き沈みが無くなるくらい
実際1か月の給料は生活してたら消えるし、ボーナスもこないだ引っ越ししたら全部なくなって今は口座には12000しか入ってない
でもこう思ってしまうのは悪いことだと考えてしまって、生きづらい 見えない なきなき
皆どうやって生きてるの?
横断歩道で止まってくれた車に会釈するのおかしい!ってコメントは見たことある。
法律で決まってんだからお礼なんてするな、っていうんだけど、会釈したほうがお互い気持ちいいだろって。
歩行者が車に頭下げちゃいけない法律はないから私は頭下げるし娘にも下げなさいって言ってる。同じようにタクシーやバスの運転手さんにはお礼の言葉を言ってる。タクシーはこんにちはも付ける。些細なことでも挨拶とお礼が言い合える世界がいいなって思ってる。
日本語の読めない人。
「喪中はがきはここに入れてください」と玄関先に置いているのに届くたびに懇切丁寧に持ってくる人。
「㈱〇〇内 ✕✕様」と書いてある郵便物を勝手に開けて謝らない人。
「メールの宛名が違った」と言う理由だけで自分の仕事をしない人。
「ゴミは押し込まないでください」と書いてあるのにゴミを押し込む人。
作業内容は詳細に書いてくださいと言うにもかかわらず「鍛冶工」や「接客」としか書いてこない人。
担当者に口頭で間違いを伝えずに「これは間違っている」とファイルされている書類に付箋を貼るだけの人。
言ってくれればすぐに修正できるような漢字間違い、一文字抜けなどでも付箋を貼っておくだけ。
住所変更、期限管理等データベースに関わるような書類でも担当者に渡さずにファイルをしておくだけ。
5W1Hがない人。
これには本当に苦慮している。
こちらはあの件かな?など思って出るのだが、全く違う人だったりする。
せめて誰からと言ってくれれば新しい件か今までの件かわかるのに。
どこに何をどうやって送るのか言わない人。
○○さんに書類Aを送って、だけ言われてもどうやって送るのか全くわからない。
言ってくれればすぐにできるのにわざわざ「何で送ればいいですか?」と聞かなければならない。
いつも送っているように送ってとか言ってくる難易度の高い人もいる。
こちらとしたら「誰に、何を、何で」は確実に必要で、場合によっては「何のために」もきちんと聞いてから送りたいのである。
この間も○○さんに〇〇番の車検証送って、の一言で「何で送るんですか?」と聞いたら「いいから送って」
「何で送るのか、いつまでに必要なのかを聞きたいので、書類を送って欲しいと言われたら電話変わって貰ってもいいですか?」と聞いたら「書類送れだけで電話変われって言うなんて変な人だ」の一言だ。
私は担当者が違う場合にはどんな些細なことでも担当者に変わるよう心がけているし、自分もそうしてほしいと思っている。
なぜならば「郵送した請求書を破棄してほしい」の一つであったとしても「その請求書は何日付けのものなのか?」
「いつ送ったものなのか」や「再送はしていただけたのか」など担当者には確認することが多いだろうから。
また雑用・雑務に関することは担当者に伝えることさえしない人も多い。
期限切れのものを捨てたことやゴミ袋を使い切ったこと、A4用紙が最後の1つ、
トイレットペーパーが後2つなど、雑用にあたることは一切伝えない、また注文をするなどしないで放置する人。
先日、「昨日は未開封のゴミ袋1つ(10袋)があったはずなのに今日は1枚もない…」ということがあった。
誰かが草取りをしたらしいので、おそらくゴミ袋を持っていったのだろうがそれにしても伝える必要はあるだろう。
それとも毎日毎日倉庫を開けて全部確認しろとでも言うのだろうか。
私も決して日本語が得意な訳では無いが、
内容がわかるときは中途半端にならずに「〇〇さんから××の件で電話です」とかきちんと言うようにしているし、
PDFで、郵送で、など大切なことはきちんと言うように心がけている。
雑用、雑務に関しても使ったとか、どこかに持っていったとか、きちんと伝えてさえくれれば誰も文句は言わない。
私が思うことはただ一つ、日本人は読解力が下がっているだけではない。
https://anond.hatelabo.jp/20250604003003 を読んで昔を思い出したので。
25歳の頃上司が、あたりのキツイ上司で、ミスがあると「なんで出来ないの?」と、よく詰められた。そのたびに、自分は泣きそうになる感情を抑えられなかった。当時の自分は指摘箇所を改善するよりも「詰められる歳、泣きそうになる自分を治したい」という欲求に強く駆られていた。彼に叱責を受けても、平然としている同僚女性もいる中で、自分は彼に叱責を受けると辛くなり泣きそうになってしまう。この弱弱しい性格を何とかしたい。なお、職場は非正規のコールセンターである。
このお豆腐メンタルをどうにかしたい。俺は強くなるんだ。そうだ、ナンパをして街で女性に無視をされ、暴言を吐かれることに慣れれば、転じて日常で上司にキツイ言葉を言われる事にも慣れるかもしれない。ナンパをはじめたきっかけはそこからだった。
この頃からナンパの存在自体は知っており、ナンパを始めた2010年頃は、まだナンパブログ全盛期。様々なナンパ師が即った子の画像をブログにUPしていた。わたしはそれを見てオナニーのネタにしていた。リベンジポルノという言葉が世に出回るはるか前。ちなみによく見ていたブログはネタマンマニアだ。サクさん素敵。
「俺は凄腕スト師(ナンパ師の意)になる!」と意気込んで、街に出ては、「声かけるの怖い・・・」と怖気づいて、地蔵のまま帰る日が続いた。5回目だったか、初めて声をかけた女性は、ニューハーフで、工事にいくらかかったかを話した記憶がある。これは忘れられない。
それからも仕事終わりに出撃するものの、1日1声出来るかどうか。場合によっては声掛けできない日も続いた。たまに1日5声掛け出来れば上出来。翌日にはまた1声掛けに戻ってしまう。漫画喫茶のパソコンよろしく、電源を切ればまた初期設定に戻る。決して積みあがらないスキル。他のナンパ師たちは違ったのだろうけれど、わたしにとって声掛けスキルは着実に積みあがっていくものではなく、1日1日単位でリセットされてしまう。そんなものだった。だが続けていればいつか凄腕スト師たちのように、かわいい女の子を即れるんだ。そう思っていた。
ナンパを初めて半年程経ったころだと思う。「終電後ナンパ」を実行した。地方都市であるため、25時も過ぎれば人はどこかへ消えてしまっていた。人口200万もいるのに。そんな中、終電が終わる24~25時が勝負だと肌でわかっていた。
途中「家に帰りたくない」という大人しめの女の子を捕まえることに成功した。路上でトーク、そのまま漫画喫茶(暗い雰囲気にソファー席があり、セックスでもしてくれと言わんばかりの内装)へ連れ込みいちゃつく。そしてラブホへ移動して即。記念すべき初即。その時深夜テレビで流れていた映画は、榮倉奈々の「渋谷区円山町」。忘れもしない。
女性とセックスをしても、翌日になればリセットされる全能感。ナンパの腕が上達するわけでもなかったし、そもそもゴールである「上司への詰め耐性」が向上した訳でもない。この段階で「ナンパ」が、当初の目的を達成することにおいて、全く見当違いな手段だったのだと気づくべきだった。ただ、今だからこそ、その過ちに気づけたわけであって、当時は本気だったわけである。人間は全く持って愚かだ。
「単純に上司に指摘された部分を改善すればよかったのでは?」 今考えればその通りなのだが、当時は、指摘されたことを改善する事、イコール対処療法に過ぎず根本的な改善策になっていないと考えた。対処療法では意味が無い。根本から自分を変えなければいけない! そのために自分はとても有効な方法を見つけた! それがナンパなんだ! 「他の人には決してできないことを俺はやっている!」。 そんなマインドである。こうして、徐々にナンパの沼にハマっていった。
当初の予定では「ナンパを通じて、30歳までにメンタルの弱さ(語彙力)を改善させし、女性とのコミュニケーション能力も改善。そして、セックスをすることでオスとしての力も身に付け、当時背負っていた300万の借金も、ナンパで身に付けた能力により営業のバイトであれよあれよという間に返済」という考えであった。なんとバカなんだろう。
31歳くらいの時、一年発起して界隈ではとても有名なナンパ講習を仲間と2人で受けた。3時間で2万円。最初の半分は座学。「何が何でも即に持ち込め」「心技体」と言われたことは覚えている。後半は実践。私は頭髪が薄かったので、帽子やウィッグの存在を教えてもらった。大きいアーケード街で声掛けをするように指示されたが、どうにもこうにも恐怖(知り合いに見つかったらどうしよう)が勝って声を掛けられなかった。後々話を聞いたら、ナンパ仲間数人が、彼の講習を受けたらしい。そのうち一人は立派な「道場生」になっていた。
講習の効果はあったように思う。ウィッグをかぶって活動するようになった直後、年上のめちゃくちゃ美人なバツイチ女性から「こんなカッコいい人と、セックスしない理由は無いでしょ?」と言われて、ホテルに連れ込めたことがあった。自分には何が起きているのかさっぱりわからなかったが。
だが、セックスは出来たものの、メンタル的な部分が改善するわけでは無く、また声掛けが出来ない状態が続く。わたしが女性に声をかけられないことは、もはや外見云々ではなく心の病だったのだなと今になっては思う。
当時の自分は醜形恐怖症近かったと思う。自宅まで歩いて徒歩20分程度の距離の場所をタクシーで帰宅することもあった。その理由は「ウィッグをかぶっている姿を他人に見られたくない。
年齢不相応なウィッグは他人にとっては気持ち悪い意外の何物でもない」と思っていたからである。
ナンパ仲間からは「ウィッグかっこいい」と何度も言われていたし、「俳優の長谷川博己に似ている」と言われたこともあったが、自分としては、自らの外見の些細な部分が気になって気になって仕方がなかったため、どれだけセックスを重ねても自信がつくことはなかった。
仕事中もナンパのことばかりを考え、自宅に帰り入念な準備をするも、自宅を出た瞬間に街の人がみんな自分をあざ笑っているかのように感じる。
そして必死の思いで街に出るも、また街をうろつくだけで結果的に声はかけられずに、深夜に自宅に帰る。この行為を通じて、自分の中に残ったものは、心の傷だけだったのだと思う。
また、活動の後半(6年目以降)は、ほぼ依存症のような状態になっており、何かの目的を達成するためにナンパをするというよりは、ざわつく気持ちを落ち着かせるためにナンパ行為を行っているにすぎなかった。これは麻薬やアル中患者と同じ論理である。とても不健全な10年を過ごしたと今になれば思う。だからこそ、今生きていることはとても奇跡に等しい。いつ人生が転落してもおかしくは無かった。
いろいろな仲間がいた。自営業や営業マンが多かったように思うが、公務員などのお堅い職種もいた。ただ、みんなしっかり自分の仕事をこなしながらナンパ活動をしており、わたしのような非正規の人間はごく少数だったと思う。
みんながみんな自己承認欲求のためにナンパをしていたわけでは無いということだ。ナンパ師には「快楽追及型」と「自己成長型」がいるが、私のような「自己成長型」も少なくない。当時の仲間にはそのパターンが少なからずいた。ただ、結果を出していたのは、言うまでもなく快楽追及型だった。陽キャか陰キャかの違いである。
ナンパは主にこの二種類に分かれる。ソロストが出来るやつは最も強い。ひとりで最初から最後まで出来てしまう。
自分もソロに憧れたし、ソロから始まった。いじめの経験もあるため「つるむやつは弱い。だからこそ一人で強くなることを望んだともいえる。ただ、自分はソロ向きではなかった。それでもソロにこだわったのは前述の理由があるが、言い方を変えるのであれば、自分の弱さを認められなかったともいえる。
ナンパ師には出撃するたびに、ナンパ仲間数人で行動し、何をするにも仲間同士で動く奴らもいた。わたしは彼らを軽蔑すらしていたが、今考えてみると、彼らの方が女性経験も積んでいたし、男同士の絆も固かったし、そのうち一人は全国規模で友達が出来ていた。わたしも早いうちに彼らの側に行った方がよかったのかもしれないな。社会性というやつだよ。社会性。わかるかな。
借金300万の支払いについに耐えられなくなり、自己破産。ナンパとは関係ないイベントのように見えるが、重要である。わたしがナンパを始めたきっかけこそ「上司の激詰めに耐えるため」だが、途中からナンパに様々な成長を求めるようになっていた。そして結果的に能力向上させ金を稼いで、借金も返済! 人生はうまく行かなかったということである。もっと早く気づけよばーか。
この時期は、もはやゾンビのごとく街をさまよう、ただのおっさんと化していた。
勇気を振り絞って若い女性声をかければ 「え? おっさんでしょ?」と言われ、ホテルに連れ込むも「初めからセックスするつもりなんて無かったよばーか」と10代の女性に軽くあしらわれる。
クラブに行くも、入場料を払ってフロアを見渡して、女性と軽く会話をして満足をして帰る。そんな自分には「女性を持ち帰るぞ!」という気持ちはすでになく、ただ惰性で街に出ているに近かった。惰性というよりは、麻薬中毒患者が自らの中毒症状を抑えるために麻薬を打つ行為に似ていたかもしれない。
自分は、意味も無く「自分の成長のために」、お金と時間を投下していた。今考えると本当にバカだった。それでも自宅に帰ると、「やっぱ俺ってかっこいいじゃん、イケメンじゃん。 やっぱできるよ俺、出来るよ! やれるよ! すげえよ 次はやろうぜ。何のためにこの活動をやっていたんだよ。なあ」と
謎に鼓舞させていた。でも、ウィッグ姿で街を歩くと、自分なんてキモくて不細工で、みんな自分のことをキモイと思っていると感じる。そして自宅に帰ると不思議とそんな風には思わないのである。この事例から見ても、わたしの外見恐怖症はメンタル的な部分に由来していることがよくわかる(実際に診断を受けたことが無いのでよくわからないが)
路上やクラブですら勝ち目がないと思った自分は、マッチングアプリに手を出した。
当時だとTinderが優勢で、わたしも御多分に漏れずTinderを使ったが自分の容姿ではどんなに頑張ってもひとつのいいねもつかなかった。
そこで、当時の職場の同僚(自他ともに認める超イケメン)の画像を使うことにした。どういう訳か彼のTwitter裏アカの存在を知っていた自分は、そこから彼の画像を拝借し自分のTinderプロフィールに上げた。当時は罪の意識もへったくれも無かった。とりあえず一つでいいからセックスを、一回でいいからセックスを・・・という感じだった
正直あのまま行ったら、本当に人生終わっていたなと思う)。
そこで当然ながら何人かとマッチングをしたが、現地で1人には逃げられ、もう一人には現地で断られた。味を占めた自分はその画像を使い続けた所、3人目だっただろうか。マッチングした女性と待ち合わせのバーに行ったとき。待っても待っても酒が出てこないことに不信感を抱く。
何かがおかしいと思った時、ふと隣を見ると、本人登場。本人の隣には夜の友達がいた。そのまま店内に待機していた数人仲間たちに、根掘り葉掘り聞かれ、最後は公開謝罪をした。
同僚と鉢合わせたとき、正直心臓が止まるかと思ったが、彼は酔っぱらっていたらしく、わたしの存在に気付かなかったらしい。またわたしは当時ウィッグをかぶっていたため、その後職場で鉢合わせても私に対してその件について言及して来ることは無かった。かなりひやひやしたが。
このような形で、わたしのナンパ人生末期はもうただ街をさまようゾンビと化していたと思う。今考えれば、この貴重な時間を使って出来た事はいろいろあっただろう。時間はもとには戻らないが、それを嘆いていても何も始まらない。
きっかけは、精神疾患だった。それまでのストレスがかさんで仕事中にメンタルを病んだ。
その時一人セフレがいたのだが、彼女とセックスをしてもセックス後にまたすぐうつ状態になる始末。こんな状況じゃとてもじゃないが、ナンパ活動は続けられないなと思った。また、当時はコロナ禍になったばかりで、街から人が気持ちいいくらいに消えていた。その2つがきっかけとなり、自然と街からは足が遠のいていった。
終焉なんてかっこいいことを言っているが、例えるなら麻薬中毒患者が警察に捕まったのと同じものである。中毒患者がよく「警察に捕まってよかったと思いました。助かったと思った」と発言したりするが、同じものである。わたしも、このイベントが無ければ、おそらく40手前になるまでナンパに下らない夢を見ていたのだろう
今思えば、あのタイミングでナンパから足を洗えて良かったと思う。あのままずるずる続けていたのだとするなら、いまも自分はゾンビのごとく街をさまよっていたのだと思う。
こうして10年にもおよぶ、壮大なかつとても消化不良なナンパ人生は幕を閉じた。
どうしたら自信を手に入れられるのか。ナンパ活動中一日10回は考えたことだ。そしてその答えは永遠に出なかったが、ナンパ活動を終えたとたんに自信がつくようになった。答えは友達をつくること。社会とのつながりを持つこと。俺に必要だったのは、街に出て女性に罵倒されることではなく、リアルな人間とつながり、リアルな人間から承認、認めてもらう事。ただそれだけだったのである。ただそれだけで、よかったんだ。
いくつかの理由があると思うが、大きな理由が「それは違うよ」とストップをかけてくれる友人がいなかったことが大きいのではないかと思う。当時は友人などおらず、またわたしのことを真の意味で気にかけてくれる人間など家族以外には一人もいなかったと思う。
30後半のいち非正規労働者が、一抹の夢を追いかけて、ナンパ行為にいそしむ。そんな人間がどうなろうと、人生の破滅に進んでいこうとお前らにはどうでもいいことだろう。そういうことである。今考えれば、自分に必要だったのは、ナンパ行為では無く、人間関係、社会的つながりだったのである。今ならそれがよくわかる。
これも今ならわかることだが、わたしが持っていた過度の外見恐怖症は、整形沼の人が陥る症状にとても近かった。どれだけ外見を改善したつもりになっても、他人は自分の事をバカにしていると感じていた。だからこそ、自分の容姿は変わっていなくても、街に出れば自分は周囲より劣っているキモい存在だと感じるし、自宅に帰れば「え、俺イケメン・・」と錯覚を起こしたのである。
その後わたしは、リアルの交流をするようになっていく。人との繋がりを知っていく中で、徐々に社会性を得ていく。38歳のことだったと思う。遅咲きすぎる遅咲きだった。また、読書を行う環境があったため、読書を継続的に行うことで、ナンパに汚染された頭を少しずつ開放することができ、そして今に至る。今は42歳。ナンパを止めてからもう間もなく5年が経つ。
10年間お疲れ様。こんな意味も無い無駄な時間に、人生の貴重な10年をぶつけたお前は本当にバカだったよ。この10年があれば、転職も出来ただろう、もっと違う勉強もできただろう。免許も取れただろうし、語学や資格の勉強、婚活だってできたと思う。でもお前はそれを全部捨ててまで、意味不明に街を歩き続けたんだ。
その結果がこれさ。 でもいいじゃねえかそれがお前の人生だったんだ。自分はワンピースのアラバスタ編で最後出てくる「後に歴史に刻まれる戦いと、決して語られることの無い戦いが終結した」 という言葉がとっても好きだ。自分にとっては仕事人生もナンパ人生も歴史に刻まれ決して忘れることのできない人生だが、世間的にナンパ活動というものはアンダーグラウンドなもの。その時の思い出を知っている者はもはや、自分一人くらいなものである。
実際には、黙ってただただ我慢していたわけではない。私は元来気が強く口が悪い。
コレがよくない、些細なことでも距離を置き、嫌だという意思表示と次やったら別れるといい、実際に再度起きれば離婚でよい、我慢する必要も説得したりわかって貰おうとする必要もない
生来の性格か、ある程度を超えて人と親しくなると、対人恐怖が発動してまともに喋れなくなってしまう。些細なことで自分が嫌われていると思い込む→接し方が分からなくなる→相手からも話しかけられなくなり、疎遠に…学生のうちは、これでもまあ友達ができないってだけで済んだけど、社会人になってからはマジで困った。嫌われててもフェードアウトできないし。
そこで、この「嫌われてるかも」と反対の思い込みをすればいいのでは?という発想で克服法を編み出した。
まず、対象が自分に優しくしてくれたとか、なんか楽しくお喋りできたとか、そういう出来事を使って「この人、私のこと好きなのでは!?」と思い込む。妄想力をフルに働かせて、脳内で付き合うところまで持っていく。
付き合えたら、嫌われてるかも?と思った出来事も、好意ゆえの照れとかに魔変換する。以上を2、3日くらいかけてやると、かなり恐怖が落ち着いてくる。
この間に自分も対象のことを好きになってしまうんだけど、だいたい1週間もすると「いや、こいつただのおじさんだったわ」とかなんとか冷静になる瞬間が来る。そうすると、いい感じに興味が薄れて普通に話せるようになるので、これで完了。
ワイが結婚相手に求める条件は、とにかく身の回りのこと全部やってくれることだった
それじゃないと一緒にいてしんどいでしょ
それを経験で思い知らされてたから、ワイはとにかく何でもやってくれる嫁を探して結婚したんよ
その代わり嫁のやることに一切口出ししないで?
嫁に全部任してるし
金稼いでくるんだしいい末っ子やろ
どや
この「鏡の中のアクトレス事件」と呼ばれるドライブレコーダーの動画は、インターネット上で夫婦喧嘩の内容やその後の展開について多くの議論を呼んでいます。
車内で流れてきた中原めいこさんの楽曲「鏡の中のアクトレス」が、アニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」の主題歌であるかどうかを巡って夫婦が口論となり、最終的に妻が感情的に叫び出す(通称「ギャオる」)という内容です。
発端: 車内で「鏡の中のアクトレス」が流れ始める。夫が「きまぐれオレンジロードの曲じゃん」と言うと、妻は「違う」と否定する。
妻は最初に「きまぐれオレンジロード 主題歌」で検索し、その後「鏡の中のアクトレス」で再検索したとみられる。
妻が「鏡の中のアクトレスであった」と検索結果を読み上げ始めるが、夫は何の主題歌なのかという核心部分を早く知りたい。
妻は検索結果の「作詞:中原めいこ、作曲:中原めいこ」「オープニング曲:鏡の中のアクトレス」といった情報を順に読み上げるが、夫は「何のアニメの?」という情報が出てこないことにいら立ちを募らせる。
夫の追及と妻の感情の爆発:
夫は「肝心なところを言わない」「お前なんか戦うやつとか言ってたじゃん(別の曲と勘違いしていたことを指摘)」などと妻を詰める。
妻は「なんでそんなひどい言い方するん」「私最初にさあ鏡の中のアクトレスきまぐれオレンジロードであったねって言うところから始まって…」と反論するが、夫は「きまぐれオレンジロードであったなんか一言も言ってない」とさらに否定する。
このすれ違いと夫の詰問口調に、妻は「もう私降ろして!もう帰る!もうやだ!なんでそういう言い方ばっかりする!?」と泣き叫び、感情的に爆発する。
娘の仲裁: 後部座席にいた娘が「いい加減にしてよ!そんなんどうでもいいよ!」と仲裁に入るが、夫婦の口論は続く。
夫の言葉遣い・態度: 高圧的、マウントを取りたがっている、妻の言い分を聞かない、ロジハラではないか、といった批判がある。
妻の言葉足らず・感情的な対応: 検索結果の伝え方が要領を得ない、勘違いを認めず誤魔化そうとしている、最終的にヒステリックになっている、といった指摘がある。
コミュニケーションの齟齬: 些細なことから大きな喧嘩に発展する夫婦間のコミュニケーションの問題として捉える意見もある。
どちらも悪い・どっちもどっち: 双方に問題があるという見方も多い。
この動画は、夫婦間のコミュニケーションの難しさや、感情的な対立がどのようにエスカレートしていくかを示す事例として、多くの人々の関心を集め、様々な考察や解説動画も作られています。
事実確認のすれ違い:
妻は「鏡の中のアクトレス」が「きまぐれオレンジロード」の主題歌であるという事実を検索で確認したものの、その核心情報を夫に明確に伝えられなかった。
夫は「何の主題歌なのか」という結論を早く知りたかったが、妻が周辺情報(作詞作曲など)から話し始めたため、いら立ちを募らせた。
過去の誤りの指摘:
夫は、妻が以前「戦うやつ(別の曲と混同)」と言っていたことを持ち出し、妻の誤りを執拗に指摘した。
高圧的なコミュニケーション:
夫の言葉遣いが詰問調・高圧的であり、妻を追い詰める形になった。
感情的な反応:
妻は夫の追及に対し、論理的な反論ではなく感情的に泣き叫ぶという反応をしてしまった。
「言った」「言わない」の不毛な水掛け論:
妻は「最初に(きまぐれオレンジロードで)合ってたと言った」と主張するが、夫は「一言も言ってない」と反論し、平行線となった。これは、事実(言った言葉)を記憶するタイプと、解釈(伝わったはず)を記憶するタイプの違いから生じやすい。
プライドの衝突:
双方が自分の正しさを主張し、間違いを認めたくないというプライドのぶつかり合いが見られる。
娘が仲裁に入ろうとするも、夫婦ともにヒートアップしており、聞き入れられなかった。
妻は「きまぐれオレンジロード 主題歌」と発言したが…
妻はスマホで「鏡の中のアクトレス」を検索し、その検索結果の中に「きまぐれオレンジロード 主題歌」と書かれていたため、それを声に出して読み上げています。
夫は「鏡の中のアクトレスが何のアニメの主題歌なのか」という結論を明確に口にしてほしかったが、妻は検索結果の単語や断片的な情報(作詞・作曲者名、オープニング曲名など)を順に読み上げていきました。
「合ってた」とは明言していない
動画音声のやり取りを見る限り、妻は「きまぐれオレンジロードで合ってた」「あなたが正しかった」といった結論的なフレーズをはっきり口にしていません。
妻は「言った」と主張している
その後の口論で妻は「最初にきまぐれオレンジロードで合ってたって言った」と主張していますが、夫は「一言も言ってない」と反論しています。
娘は「言った」と認識している
娘も「言った」と母親の側に立っていますが、実際の発言としては明言がなかったため、「解釈」の違いが生じています。
妻は「きまぐれオレンジロードで合ってた」などの結論的な言葉を直接は言っていません。
妻は検索結果の単語を読み上げており、それを「言った」と認識していますが、夫は「はっきり言っていない」と受け取っています。
このすれ違いは、「言葉として明言したか(事実)」と「伝わったはず(解釈)」の記憶・認識の違いから生じています。
したがって、「言った」「言わない」の水掛け論は、実際には“はっきりした結論の言葉は出ていない”が、妻や娘は「伝わったはず」「言ったつもり」と認識している、というのが動画からわかる事実です。
妻は「きまぐれオレンジロードで合ってた」と明言はしていませんが、検索結果の断片を読み上げ、「言ったつもり」「伝わったはず」と認識していました。
夫は「肝心なこと(何の主題歌か)をはっきり言っていない」と不満を持ち、繰り返し問い詰めました。
妻は自分の間違いをはっきり認めず、話をはぐらかすような態度を見せたとも受け取れます。
妻が「自分の間違いを認めず、うやむやにしようとした」「ごまかそうとした」という見方はネット上でも多く見られます。
ただし、妻は「最初に言った」と本気で思い込んでいる可能性もあり、意図的にごまかしたかどうかは断定できません。
妻の無意識な意図的な隠蔽や責任逃れがあった可能性も考えられますが、今回のケースは「言ったつもり」「伝わったはず」という認知のズレが大きいと考えられます。
夫が感情的・高圧的になったことが、喧嘩の直接的な引き金であるのは間違いありません。
しかし、そもそもの発端は「妻が間違いを認めず、はっきり伝えなかったこと」にある、とする意見が多いのも事実です。
一方で、「夫の言い方が悪い」「詰め寄りすぎた」「マウントを取りたかっただけ」という指摘も多く、どちらか一方だけに原因を求めるのは難しい、という声も目立ちます。
妻が「はっきり認めず、うやむやにした」ことが喧嘩の起因・原因の一つであることは否定できません。
ただし、意図的なごまかしであったかどうかの判断が難しく、女性特有の正当化認知によるすれ違いが大きな要因です。
夫の高圧的な態度も喧嘩を激化させた現象的な要因であり、「どちらか一方が全面的に悪い」とは言い切れません。
多くのネット上の意見も「どちらも悪い」「どっちもどっち」としており、夫婦双方のコミュニケーションの問題が複合的に絡み合ったケースといえます。
女性は結論だけでなく、そこに至る過程や気持ちを共有したい傾向があることを理解する。妻が情報を整理して話そうとしている可能性を考慮し、少し待つ余裕を持つ。
過去の間違いを蒸し返したり、一方的に問い詰めたりするのではなく、事実確認に留める。目的は「正しい情報を共有すること」であり、「相手を言い負かすこと」ではないと意識する。
妻が感情的になったとしても、まずはその気持ちに寄り添う姿勢を見せる。「なぜそんなに怒っているのか」「何がつらいのか」を理解しようと努めることが大切。
言葉の細部にとらわれすぎない:
「言った」「言わない」の論争は不毛。相手が伝えようとしている「意図」や「解釈」を汲み取る努力をする。もし言葉足らずでも、大筋で理解できれば良しとする柔軟性も必要。
運転中のイライラなどを、会話相手にぶつけないように自覚する。冷静さを保ち、穏やかな口調を心がける。
「ありがとう」「ごめん」を適切に使う:
検索してくれたことへの感謝や、強い言い方になったことへの謝罪など、関係を円滑にする言葉を意識的に使う。
男性は結論や目的を先に知りたい傾向があることを理解する。今回の場合、「検索したら『きまぐれオレンジロード』の主題歌だったよ」とまず結論を伝え、詳細はその後に補足する。
感情的にならず、事実を簡潔かつ正確に伝える努力をする。検索結果を伝える際は、相手が何を知りたいのか(この場合はアニメのタイトル)を意識する。
間違いは素直に認める:
もし最初に勘違いしていたのであれば、「ごめん、きまぐれオレンジロードで合ってたね」と非を認めることで、不要な対立を避けられる。
夫の言い方にカチンときても、すぐに感情で返さず、深呼吸するなどして落ち着くことを試みる。冷静に「そういう言い方は悲しい」と伝える方が効果的な場合もある。
具体的な言葉で伝える:
「察してほしい」ではなく、何をしてほしいのか、何が嫌なのかを具体的に言葉で伝える。
夫が運転中であるなど、相手の状況を理解し、情報を伝えるタイミングや方法を工夫する。
この事件は、男女間のコミュニケーションの難しさだけでなく、個人の性格やその時の状況も絡み合って発生したと言えます。お互いの思考やコミュニケーションスタイルの違いを理解し、尊重し合うことが、より良い関係を築く上で重要です。
以上、で終わりたいところだが、以下蛇足。
「君の名は。」という映画では、分裂した彗星が、何の事前注意喚起もなく某所に落ち、町が一つ消えてなくなるという大惨事展開が描かれるが、あんなことが現代日本に起こり得るだろうか。答えは「否」だ。
当たり前だが、地球に飛来する可能性がある隕石類は事前に観測され、衝突の危険性があれば事前に注意喚起される。あの世界ではそうした観測機能が何らかの事態により壊滅しているのであれば話は別だが、どうもそういうことはなさそうだ。
舞台が現代日本である以上、これはガバ設定と言わざるを得ないが、このことをもって「『君の名は。』はガバ設定www」という主張が広く説得力を持つかというと、これも答えは「否」である。
なぜかというと、同作は入れ替わりと、それに伴う時系列のズレ、キャラ同士の関係性のドラマに求心力があり、上記ガバはストーリー上、重箱の隅的な些細なことと捉えられるからだ。
当時、妻に振られて離婚することになった。そして離婚後に不倫されたことがわかり絶望していた。
離婚後、「代替品」を探す行動を取り始めた。スペックが妻より良ければなんでも誰でも何人でもよく、キープをたくさん作る活動をしていた。
他の人々と違うのは、俺はキープを作って自己肯定感を取り戻したかっただけで、ヤろうともしていないし恋人を作ろうともしていないし結婚相手を探してもいなかった。
いや、実を言うとヤりたかったのだが、精神的なショックで全く勃たなくなっていたし、なにかヤることが汚いもののように感じられていた。
向こうから「どうしてもヤりたい」と言われて仕方なくヤるという立場になりたかった。ちんことかまんことか、そういうものと距離を取りたかった。
ヤりたいのに自分から全く行かない(行けない)という矛盾を抱えていた。
たくさんのキープとは、ひたすら相手の話を聞くとか、相手との時間を長くとるとか、そういうことをしていた。
自分の話は一切しない。こちらの話を振られてもすぐに相手の話にフォーカスを当てた。「俺はあなたのことに興味があるからあなたの話をもっと聞かせて」と。
おもしろいように話される。小学校のころはこうでね、中学校のころはこうで、高校のころはこうで〜〜〜という話。ひたすらイメージして記憶する。
「それでそれで?あ、じゃあもしかしてそのときはこういうふうに思ってたの?」『そう!そうなの!それでね!!!』というように、永久に聞き手に徹した。
相手の趣味に合わせたりした。知らないことがあったら「これってどういうやつ?」などと聞き、相手はおじさんのようにペラペラペラペラ永久に話しており、苦痛だった。
一方で俺は相手には全く興味がない。1mmも興味がない。それでいて相手の話は会話終了後にメモする。そしてメモした内容を全力で記憶しておいて、ピンポイントで話す。
凄まじく些細な内容でも覚えているので、相手は大喜びすることが多かった。誕生日やら記念日やら、何もかもカレンダーに入れてリマインドさせた。
しかしそういうことをしていると疲れてくる。疲れてくると俺は次のキープ探しの方にリソースを割いた。そうするとなぜか恨まれた。
彼女でもなんでもないのに、異常な重圧をかけてくる。電話しろ、LINEしろ、DM送れ、なんで返事こない、なんで会えないというような。
それをメンテナンスしながらキープ探しを続けた。数、数、数、とにかく数を求めた。相手の人格など興味がなかった。数とスペックだけ。
俺が性欲を一切向けず永久に聞き手に回っていたことから、女性たちは「この人はほんとうの私を見てくれている」「人生でただ1人の理解者」と思っていたことが多かった。
だんだん女性側から性欲を向けられることが増えた。しかし離婚で最強にヘタレているので、それでも俺は全然相手に性欲を向けない。
相手は性アピールという必殺技まで出して俺のことを強烈に好いているが、俺から見ると攻撃のようにしか見えないことが多くなった。「なんで俺はこんなにコストを割いたのにこの女は攻撃してくる?」というような状況。
そして、相手が性アピールしてくると逆に逃げていた。「この女はヤリマンだ!ヤリマンは無理だ!!!」みたいな。
それで俺がブロックをすると意味不明なストーキングをされることが多くなった。なぜか「"俺" が相手をめちゃくちゃ好き」だと確信している女性が多かった。
俺は「妻の上位互換」を探していたのだが、ほとんどの女性は「彼氏」を探しており、需給が全然マッチしなかった。
妻の上位互換が見つかるだけではダメで、妻の上位互換が1人見つかると「次はこの人の上位互換を探そう!」と考えを変えて、それをずっと繰り返した。
なので一生誰ともヤれない。俺のちんこは高いんだ!タダではヤらせない!ぐらいに思っていた。ヤれることがわかったら「やったー!レベルアップ!」みたいに考えて、次のレベルのキープを探し求めた。
逆にヤると俺がメンヘラになり、ヤり捨てされることが何度かあった。「なんで!?ヤったのに酷い!!!!」みたいな。女子か?
そういうのを200人ぐらいにやっていた。毎日毎日違う人を探してはせっせとキープづくりに勤しむという活動。不毛。
だいたい1年半ぐらいやっていたが、自分のスペック限界ぐらいのところで「決戦」のようなものがあり、最終的に落ち着いた。自分の身も心もボロボロになったが、相手をズタボロにしたことも多かった。
そんな話でした。