はてなキーワード: 表現自体とは
報道されている情報によれば、「みんなで大家さん」の分配金遅延や行政処分などを受けて、投資家が出資元である事業者に対して、元本などの返還を求める訴訟を提起する動きが起こっています(債務不履行や損害賠償請求など)。
TBSは、投資商品を運用・販売していた事業者ではなく、あくまで広告を放送した媒体です。
広告を放送したテレビ局や新聞社などの媒体側は、原則として広告内容の真偽について責任を負いません。
媒体側が広告の内容について虚偽や誇大であることを知りながら、または容易に知りえたにもかかわらず放送を続けた場合など、非常に限定的な状況においては、責任を問われる可能性が理論上は考えられます。しかし、これは法的に立証することが非常に困難なケースが多いです。
もし、CMの放送に対してTBSの責任を追及したいとお考えであれば、まずは弁護士などの法律専門家に相談されることを強くお勧めします。
https://anond.hatelabo.jp/20251022080501
これは本当に一字一句その通りで、日の丸も星条旗もユニオンジャックも、イスラエル国旗もパレスチナ旗もその他の国旗も、全部平等に焼き捨てられる自由があるはずだ。
俺は表現の自由戦士として、愛知トリエンナーレもその後に在特会がやったトリカエナハーレも、
全て、本当に全て表現することそのものを禁止するなと言い続けてきた。
これは俺の持論だが、差別っていうのは表現や言論から生まれるのではなく。
表現や言論に「特別枠」を設けたときにそこから差別が生まれるのだと思う。
外国人犯罪への批判に口封じするから外国人が差別され、女は話が長いと言った爺をキャンセルするから女性が差別され、コーラン燃やしデモをした人を私刑で殺すから欧州でムスリムが差別されるんだと思う。
全て、思うがまま表現させるべきだ。
気の済むまで言い尽くさせる方が、無理やり抑え込むより差別は減る。
――かけた時間に対する効果を示すタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉がよく聞かれるようになりました。そのひとつの現象として倍速視聴があります。
僕ね、実はやりますよ。ニュースはそれで見ているんです。ずいぶん長くやっているんですけれど、夜7時のニュースを30分そのまま見るのは、かったるくてね。全部録画して1.3倍とかで倍速視聴しています。リアルタイムで見ると、時間がもったいない。けちなのかもしれないけれど。
名古屋の生まれで、中日ドラゴンズのファンです。野球の試合って今、長いんですよ。年間約140試合、全部録画して、その日のうちに見る。ここは大事というところはそのまま見て、それ以外は倍速でという風に分けるんです。
低成長で余裕なき社会、生き抜くためのタイパ Z世代あおる大人たち
筋金入りの倍速視聴派だという鈴木さんは、ジブリ映画について「倍速しにくい作品」と言います。その理由は――。「トトロ」「ハウル」「千と千尋」など、名作の舞台裏を交えて語ります。
どう時間を盗むか
――なぜ、そうやって見るようになったのでしょう。
18歳のときに読んだ本が面白くてね。「時間」について書かれていた。時間というのは2種類あり、「社会的な時間」というのが24時間。それとは別に「自分の時間」がある。人がストレスを感じるのはどういうときか。「社会的時間が、個人の時間を搾取するとき」と書いてあった。これは面白かった。
――現代にも通じるような話ですね。
そう。だから、搾取されちゃ駄目だと思ってがんばってきた。自分の時間をとにかく大事にしよう。それは思っていました。
割と強いかもしれない。社会的時間がどんどん流れていても、自分のもう一つの時間があるでしょう。大事なのはこっちに決まっている。だからといって、それを大事にすると1人よがりになる。その闘いですね。
――朝日新聞の連載「タイパ社会 豊かな時間はどこに」の取材をするなかで、「自分の時間」という言葉は、いろんなところから聞こえてきました。
映画ってまさに「時間と空間」ですよ。どう時間を盗むか。だから時間をどう使うのかに対して関心が強い。
――倍速で映画を見る人がいることは、ジブリの映画制作で意識されているのでしょうか。
それは関係ないですね。映画のつくり方って二つしかない。一つはストーリー主義。もう一つは、表現でみせる。
つまり、倍速で見る人たちはストーリーを知りたい。映画って、本当はどっちをみているんですかね。ストーリーか、表現か。
シンプルなストーリーにして、表現を豊かにしてもらう。これがベテラン監督への要求ですよ。ところが、若い人にはなかなかできない。若い人にはストーリーを複雑にして、そこで面白さを保証し、つくってもらうというこの方法しかない。
だから、宮崎駿は「表現」の人ですよ。僕ね、宮さんに怒られたことがあるんです。「となりのトトロ」はいい例で、「単純なシンプルな話」と言ったら、宮さんが怒っちゃってね。「俺がどれだけ苦労して考えたと思ってるんだ」と。
時間を操る宮さん
――「ジブリの最大の魅力は表現」だと本で書かれていました。表現自体も変わっていないのでしょうか。
変わっていないです。だからジブリの作品は、そういう意味でいえば、倍速をしにくい作品。だってそこを速くしちゃったら、おもしろさが半減するんだもん。スピードが出ないように、いろいろやりますよね。だから、お話の複雑さだけでみせるものだったら、僕は速く見ても全然かまわないと思う。
宮崎駿の作品はすぐ横道にそれる。でもそこで結構面白いことをやっている。そこが目に焼きついて、この話は何だったのか忘れちゃうわけでしょう。でもそこに大きな特徴がある。
だから、お客さんの時間を奪っているんですよ。でも観客は「奪われた心地よさ」があるわけです。多分そういうことじゃないかな。
たとえば、「千と千尋の神隠し」。千尋が不思議の町へ潜入して、お父さんお母さんが豚になっちゃう。その後、千尋という名前を奪われて、働かなきゃいけなくなるっていうところまで、40分くらいかかるんです。その40分間の時間の流れと、それ以降の時間の流れが違うんです。
要するに名前を奪われるまでは、あるテンポで丁寧にやっている。ところが、名前を奪われた後、突然、速くなるんです。僕の知る限り、1本の映画の中で、時間を操る人はなかなかいない。
「ハウルの動く城」についてのエピソードもあります。宮さんは大体、ワンカットが平均すると5秒。でも、実際にフィルムになったときは、絵コンテには5秒と書いているやつが8秒とか9秒になる。
映像の試写で、ワンカットの中の時間が違うと気がついた。いまの調子でつくったら、2時間と思っていた映画が4時間になっちゃう。
悩んだんですけどねぇ。「宮さん、いつものよりカットの秒数長いですよ」と僕が指摘した。そうしたら「どういうこと?」って。宮崎駿という人はすごい人で、全く気がついていない。天才なんですよ、やっぱり。
その後、宮さんがどう言ったか。いまだに忘れられない。開き直って「主人公がばばぁだからね、時間がかかるんだよ」って。
――すごい切り返しです。
そう、切り返しがすごいんですよ。
で、さぁどうするかでしょう。そうしたら宮崎がね、ここでぱっと切り替える。それまでワンカット8秒、9秒だったものを、4秒台にするんですよ。それで、次から次へと、できてくるものが短くなってくる。最初、丁寧に長かったやつが、途中でぽんぽんぽんぽんとテンポが良くなる。
ぼくはあきれたんです。だってこんな監督いないもん。普通の映画監督って、1本の映画の中での時間の流れをすごい大切にするわけです。それを無視ですよ。
「こいつ覚えてる?」
――宮崎さんの初期の作品から、つくり方としては変わっていることはないんでしょうか。
だんだん自由になってきたよね。良く言えば自由です。でも、本当にいい加減だなって。なんでこの人はこうなんだろうか、考えざるをえなかった。だから僕は、時間とか空間に興味を持たざるを得なくなるわけです。
――プロデューサーという立場は結局、どこかで折り合いをつけて、つじつまをあわせなきゃいけない。
だから言わなきゃいけない。「宮さん、これワンカットが倍になってますけど」と。
「そんなことないよ。おれはそんなことするわけがない」と言っても、僕が「じゃあ絵コンテを見せろ」と言うんです。
――かけひきですね。
本当にそうですよ。そこが面白いですけどね。
これまた「千と千尋の神隠し」。千尋が名前を奪われた後、「この後どうするかを考えた」と宮さんが言ってきた。
千尋はまず名前を奪った湯婆婆(ゆばーば)をやっつける。ところが、湯婆婆には、もう1人のお姉さんの銭婆(ぜにーば)がいて、こいつが湯婆婆よりも強靱(きょうじん)な敵だった。千尋とハクは力を合わせて銭婆をやっつける。「どうかな?」って。
ちょっと大変だなと思いました。普通の映画だと、敵をやっつけたら終わり。たいがい1時間半から2時間かかる。それをお姉さんがいたってことで、もう1回話を立ち上げて、やらなきゃいけないでしょう。
「映画は3時間になりますね」と宮さんに言ったら「やだよ俺。どうしよう」と言うんです。
でも、ここがすごいんですよ、あの人。「ちょっと待って」と言い出して、5分後に「こいつ覚えてる?」と、カオナシの絵を描いて見せてきた。その時まで、カオナシはちょっと出てくるくらいの大したことないキャラクターで、僕は覚えていなかった。
でも宮さんは「こいつにしようよ」と言って、あの話をつくり上げた。カオナシが千尋に喜んでもらいたい一心で金を出したり、金に群がってきた者たちや食べ物を食べてふくれあがったり……。その後、千尋と一緒に銭婆のところに行って、カオナシは銭婆のところにとどまることになる。この物語を5分で。これも、時間の問題から生まれたものなんです。
だから時間の問題は、もう日々の仕事の中で、ものすごい大きなテーマです。僕は「自分の時間が大事」と言いながら、一方で、社会的時間の流れというのをすごい気にしている。(映画を見た)みんながどう思うかというのは、そちらにあるわけだから考えざるを得ない。作品がどれだけの長さになるか、監督がわからないなら、僕が考えなきゃしょうがないでしょう。
最新作、構想から7年
――鈴木さんは学生時代から、「少ない労力で大きな成果を出す」というマインドをお持ちのようです。一方、ジブリ作品の制作は、とても「少ない労力」とは思えません。時間や手間暇をかけて予算がオーバーしたり、制作期間が延びたりしたこともありました。
だって効率がいいものは売れないもん。効率が悪いものがお客さんは好きなんです。「風の谷のナウシカ」の時からそうです。
――ナウシカの漫画連載にあたって、鈴木さんが宮崎監督から3種類の絵を見せられ、どれにするか選ぶお話がありました。一つ目はすかすかな絵で、これなら1日20枚書ける。二つ目はそれよりもう少し複雑で、1日4~5枚。三つ目は緻密(ちみつ)なタイプで1日に1枚描けるかどうかというもの。鈴木さんは緻密なものを選ばれたと。
だって、すごい絵だったんですよ。実際、それが漫画になっているんですけど、時間とお金をかけたものは、結局やっぱり、いろんなものを生み出してくれる。ちょこちょこやったものは生み出してくれないんです。
――最新作「君たちはどう生きるか」の制作も長い時間がかかっていますよね。
2016年の7月かな。宮崎がこんなものをつくりたいと書いた。そこからです。
――タイパ重視の世界では、短い時間でいかに大きな成果を出すかが問われます。
それを感じないようにしないといけないですね。その「短い時」が10年という時もある。だって今作ってる映画もね、そういうことでいえば、考え始めてから本当に7~8年かかったけど、短いと思いますよ、僕は。
そういうことでいえば、ものすごいコストパフォーマンスいい作品ですよね。見たらびっくりしますよ。こんなものをつくったのかって。ぼくがびっくりしていますから。本当はもっと時間をかけたかった。人間ってね、待たされたほうが幸せなんですよ。
無駄は嫌いです。いたずらに時間を使うのは好きじゃないから。それは有効に使いたい。
――鈴木さんの言う「無駄」は、かける時間の長さじゃないんですね。
関係ないですね。新聞記者には「時間を無駄に使いなさい」と言いたい。そのほうがいい新聞ができるに決まっている。
記者は勉強する時間がなければ、いい記事ができないじゃない。そのためには、あっちみたりこっちみたり。そういうことでしょう。
――ぐさぐさ刺さります。最新作は7月に公開ですが、時間に追われている感覚はありませんか。
自分でそうならないように努力しています。それはもうずっとやっていました。
――最新作の内容について、東宝の会見では「ファンタジー作品」という発言もあったようですね。
内容ってね、ぼく今回ね、あんまり言うつもりないんです。みなさんが楽しもうと思っていることを奪うわけじゃないですか。それは奪っちゃいけないです。
ポスター1枚だけでいいんじゃないか、と言ったんです。宮崎はすごい喜んでくれた。彼が描いた絵です。本当は全体があるんですけど……。あ、これ以上言うとまずいですね。
――最近出版した本の最後に「『君たちはどう生きるか』のさらに次の映画の企画もたてている」と書いてありました。
宮崎はつくりたいでしょうね。今回の最新作で世に問うて、いろんな評価があると思いますが、それを聞きながら、次になにをやるか、本人は考えるんでしょう。僕は「これでやめてくれ」とは、もう言いません。言ったって言うことをきかないんだもん。
https://digital.asahi.com/articles/ASQDY438JQDSUTIL00C.html
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追加で~なお「えっ」「えっ」てなる
https://b.hatena.ne.jp/entry/4776848299113869633/comment/uehaj
改変にあたるもの尊重に当たるものがおそらく数千、数万あるだろう。
で、お前らその一個の話に、熱中して頭に血を上らせてる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4776848299113869633/comment/run_rabbit_run
◎ぼざろ自体を観もしない人々が集まってギーギー言ってるだけ。
近年稀に見る傑作なのだから、取り上げるなら作品の面白さにも踏み込んで欲しいよね
https://b.hatena.ne.jp/entry/4776848299113869633/comment/atsushieno
「まだ消防やってるの?」みたいな頭おかしいことを書く人間がいるのか
尊…重…? ギー…ギー…? 放…火…? 誰…が…?
などではあるまいね…看過?う~ん
通しちゃっとるんだなあこれが
私達は良いけどお前達は駄目…てこと?
生涯の蓄積がそれだとしたらう~んこの
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20250930/1759244374
「批判する自由」「言わぬが花知らぬが仏だった」「呼ばわり無問題のェビデンス」どこいったんすかね
つ…か…五老星涌くとかマ…?せめて…尻尾…てことに…?
逆らう者は社会的に処す処す
それにつけても法華狼の作文の価値って?
出したり引っ込めたりではあるまいね
なおアツギ宇崎ちゃん戸定梨香温泉娘に撮影会への仕打ちに対して
通しちゃっとるんだなあこれが
やっぱりやはり出したり引っ込めたりの性根百までかもしれないて
https://b.hatena.ne.jp/entry/4776848299113869633/comment/Gl17
氏の独断だと (批判者の独断で) 決めつける以外もう責め所がないから。
批判する自由そんなものは…では法華狼界隈大暴落じゃあないか…
通しちゃっとるんだなあこれが、然り
めいた語りを誰も…
それにつけても「Gl17ぞら自身」えっ?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
すなわち、AI開発・学習・利用において著作権侵害の成否はどのように判断されるのか?
—
著作権法30条の4
「著作物は、次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には、その必要と認められる限度において、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合はこの限りでない。
—
まず、AIは人ではないので「思想又は感情」はない。従って、「思想又は感情を自ら」または「他人に」享受目的で著作物を利用することはない。
では、享受目的とはなんだろうか?「次に掲げる場合その他の」とあるとおり、同条一号から三号に例示されている非享受目的に該当しないものが享受目的である。すなわち、被疑侵害者は一号から三号のどれかに該当し、なおかつ「必要と認められる限度」だという事実を立証すれば、抗弁が成立する。
さらに、30条の4の適用をうけるには、対象著作物の利用が「情報解析」である事実が要件であり、被疑侵害者はこれを立証しなければならない。
ところが、AIを利用してコンテンツを生成する行為自体には、享受目的がふくまれる。また、表現自体のAIへの保存や出力が目的とする場合には享受目的に該当する。
平たく言うと、30条の4が適用されない享受目的とはなにか?上記条文に例示される非享受目的で情報解析に供するためと立証できない目的は、そのような享受目的である。
消費する人の数だけ嗜好も指向もあって主体はする側にあるのに何でその被害性を対象のキャラ造形や描写で定義するのかどう理屈が通ってるのかわからない
それって性的興奮の責任を被害側に見出す蔑視的な視点での痴漢自衛論みたいなのと変わらないし本来は消費する側の主観的で自己完結的でしかないはずの行為に搾取としての能動的加害性を指摘するのは消費される対象への支配的強制力を併せて認めるものだしそれって言わば性的消費のエンパワーメントだし被害性を論うための相対的根拠として効果狙って用いられてるの普通に意味わかんないなって思う
男性の裸体表現が女性に向けた消費物であったとしてもある種のナルシシズムで受け取られるように本来公平には性的魅力は本人の自己愛の発露、生物的造形美としての意味性があって然るべきなのに消費被害の論において女性のそれは問答無用で男性のための性的消費物として扱われてるの本質的な女性差別蔑視的価値観の喧伝刷り込みでしかないからやめて欲しいなとも思う
所謂ノイズもそうやって消費する人達の好き"そうな"描写表現自体を加害性パッケージで定義したものであくまで被害を叫ぶ側のバイアスかかった漠然とした基準でしかないし
胸の揺れや女性的曲線美、クネクネしてるとかそれ自体は結局女性性を示す一表現もしくは性的魅力を伴うもの以上でも以下でもないのにそうやって「ノイズ」の定義に恣意的な個人のハードルでブチ込んで加害性をタグ付マーキングして流れ作業的にジャッジしてるのが最近の「フェミニズム」の傾向で、踝出してたら性的って時代から今変化してるみたいに性的忌避性はそのまま性的定義に繋がってて性的定義からの解放は対象の忌避性を意識させないまで日常化する事でしか得られないのに今やってる事と言えば真逆で女性の社会における性的受容性の観念的制限増と実を伴わない嫌悪感の生産なの地獄だなと思う
是非は別としても媒体によるターゲット層の違いなんかでゾーニングとしての表現変更はマーケティングとして真っ当だけど性的消費でノイズだから、は主観と客観区別つかなくなってるんだろうなって
消費物として用意された女性の描写が加害性を伴うって論についてもそれは元来のフェミニズムにおける性の消費問題であくまで男性への消費性に対して相対差による役割上のバイアス形成を前提にした「女性の性」を消費するから害なのでなく「女性」を性を消費するための存在として属性付ける観念傾向を害としたもので前時代の欧米の抗議性は相対バランス是正としてのアファーマティブアクションによるものだし欧米の場合は更にそこに宗教ラインの女性の性的魅力欲求を男性のためのものとした原理的観念がベースにあって女性性や女性の性=男性を性的に満たす役割って価値観そこからの脱却としてフェミニズム文脈での女性視点のセクシャルな表現解釈の自由獲得含めた性的解放に向かうわけで海外ではって言葉もよく聞くけど特にアメリカはコミックコードで元々開放的な表現を規制した結果女性の作家と読者が減って育たず男性に大きく偏った上での性的表現/男性に向けたマクロにおける相対的視点での性的表現性是正で女性作家の性的表現、女性向けの性的供給が男性向けに対して映像メディア含め欧米で進歩的に扱われて許容されるのもLGBTQ作品然りその偏りがまだまだ前提にあるからで、二次元表現における男女平等公平性、女性の性的能動性や創作における受容度からして進歩的な日本の状況でフェミニズム男女同権を謳って女性の性的な表現自体を厭うのはゾーニング論にしかなり得ず性的忌避的価値基準はそのまま双方へ働くわけでだからBLはどうだショタはどうだ女性向けのピンナップはって話になってしまう
保守的主張として性的に絶対的基準をって話ならまだしもそのゾーニングを個人的な快不快でフレキシブルに運用できると思ってるのは単純に考えなしで自分で首絞めてゲロ吐き散らかしてるみたいで迷惑だからやめてほしいと思う
この増田も私dorawiiが書いた。
誤字は完全に偶発的なミスで、それ以外で読みづらいのはたぶんハッタショの影響だと思う。
「彼は泣きながら家を出た彼女を追いかけた。」という趣旨の内容を口頭で表現するときみんなどうしてるかということだ。
それぞれ「家を出た彼女を彼は泣きながら追いかけた」「泣きながら家を出た彼女を彼は追いかけた。」と書き分けられるべきことらしいのだが、
口頭でそうやって表現自体を意味に応じて器用に変えているとは思えない。
多分イントネーションのパターンをこの2パターンで使い分けてるんだよな(あるいは一文で言わず二文以上で表現する人も多いかもしれない)?
音声言語としては必ずしも要求されない表現の使い分けを文章において一律に求めるのは酷だと思うんだよね。
話し言葉としてはわかりにくいの域に入ってない言い回しを使う人も、同じことを書き起こしたらわかりにくいの域に入ってしまうってだけの話なんだから。
BLが云々というより、これだけBLが叩かれているのにも関わらず、あまりTL(レディコミ、女性向け男女ロマンスもの)や少女漫画に言及されいないことを疑問に思う。
BLが幅を利かせているだけで、性表現自体はTLも少女漫画も過激なものが多い。
本来ゾーニング=エロを未成年に見せない、間違えて手に取らないようにするという目的であれば、児童向けのイメージがある少女漫画の方がよっぽど危険である。
ただそれらはBLというでかいジャンルに隠れているので見えていないし、目立つもののゾーニングさえ出来れば良いのだろう。
世の中とは常にそういうものだ。
この考えは、かつて男性向けアダルトジャンルが規制され、その後ろに隠れて目立たなかったBLが言及されなかったのと同じだろうと思う。
なぜ女性向けジャンルがここまで規制しろという声が上がらなかったのかといえば、そもそもエロは男性向けであるという間違った決めつけがあり、女性向けに対する条例や批判が追いついてなかったこと、今よりもっとニッチなジャンルで目立たなかったことが原因と考える。
女は女の性欲をもっと認めるべきだが、女が性欲をオープンにしても何一つ良いことはないという言い分にも納得できるので難しい問題なのだろう。
とはいえ、男性向けアダルトジャンルも少なくとも電子書籍ではBLやTLと同じくらい過激なタイトル・内容の本がいくらでも全年齢で販売されているので、今回BL規制派のいう「BLは規制がないのに男性向けは規制されている」というのは、あくまで紙書籍の話だろうか。
Q.
ある政治家が対立する政治家について 「(内面も)醜く奇妙な生き物」 と評価したことが議論を呼んでいます。 発言した政治家は 「外見のことを言ったのではない。行動が醜く奇妙だと評価しており、政治家への批判として妥当な表現だ」 と補足したのですが、この主張についてどう思いますか?
A.
この政治家の発言とそれに伴う主張について、いくつかの観点から考察します。 発言そのものの問題点 まず、「醜く奇妙な生き物」という表現自体が、たとえ内面を指していると弁明したとしても、多くの問題を含んでいます。 非人間化(Dehumanization)のリスク: 相手を「生き物」と表現することは、相手から人間性を剥奪し、議論の対象ではなく破壊や排斥の対象と見なす非人間化のレトリックに繋がりかねません。これは、健全な民主主義の基盤である、相手を対等な議論のパートナーとして尊重する姿勢とは相容れないものです。歴史上、このような言葉が深刻な対立や暴力を助長した例は少なくありません。 言葉の多義性と意図: 「醜い」という言葉は、外見と内面の両方を指しうる多義的な言葉です。発言者が「内面のことだ」と限定しても、聞き手が外見への侮辱と受け取る可能性を排除できません。特に「(内面も)」という補足は、「外見が醜いのは当然として、内面もそうだ」という含意だと解釈される余地を大きく残しています。本当に内面だけを批判したいのであれば、誤解を招くこのような表現を避けるべきでした。 「政治家への批判として妥当」という主張について 次に、発言者が「政治家への批判として妥当な表現だ」と主張している点について考察します。 批判の自由と品位: 民主主義社会において、政治家の行動、政策、資質に対する厳しい批判は、国民の知る権利に応えるものであり、広く認められるべきです。しかし、その批判が単なる人格攻撃や罵詈雑言に終始する場合、それは建設的な議論とは言えません。公人である政治家には、その影響力の大きさに鑑み、一定の品位と節度が求められます。 議論の質の低下: このような感情的で侮蔑的な表現は、政策や理念といった本来議論されるべき本質から人々の目をそらし、不毛な人格攻撃の応酬に終始させる危険性があります。これは、政治不信を助長し、社会全体の議論の質を低下させることに繋がります。 結論として 発言者が「内面の行動を評価したものだ」と主張したとしても、「醜く奇妙な生き物」という表現は、以下の理由から政治家への批判として妥当とは言いがたいと考えられます。 相手の人間性を否定する表現であり、健全な議論の前提を破壊する危険性があること。 外見への侮辱と受け取られる可能性が極めて高く、意図がどうであれ、結果として人格攻撃になっていること。 建設的な政策論争を阻害し、社会に不必要な分断や対立を煽る可能性があること。 政治家への批判は、その行動や政策に対して、具体的かつ論理的に行うべきです。今回の表現は、たとえ発言者にそのつもりがなかったとしても、表現の選択として著しく不適切であり、批判の妥当性を大きく損なうものと言えるでしょう。
ああ、表現の自由がまた一つ失われた、と。
電子コミックの性的広告を配信停止、全年齢向けサイト…大手11社の「電子書店連合」 : 読売新聞
この話だ。
だけど、それは受け手側で対応すべきであって、嫌なら子供に見せなければいいだけの話。
スクロールして目を背ける習慣を教えればいいのだ。
性的な表現自体を規制して、自由なクリエイティブの可能性を消し去るのは、慎重にならなければいけない。
言葉が強くて申し訳ないが、このようないわゆる「殺される前に自殺しろ」的な論理に、ため息をついてしまった。
フェミニズムによる、コンビニの成人向け雑誌のゾーニング、駅構内への性的広告の批判、そうしたジェンダークレームにネットは一丸となって対抗して来たはず。
テクウヨがさ、「ゾーニングは表現規制だー!」とか叫んでてマジで笑ったわ。
ちゃんと法的にもそうなってるんだよね。
たとえば憲法21条(表現の自由)ってめっちゃ強い権利なんだけどさ、
同時に、他人の権利や公共の福祉とのバランスも取るって前提があるわけ。
「未成年保護のためのゾーニングは、必要最小限なら憲法違反じゃないよ」ってなってんの。
つまり、「ダメって言う」んじゃなくて「場所や時間を区切る」だけなら、
ちゃんと表現の自由を尊重しつつ、他の権利も守ってるってわけ。
これを「表現規制だー!」って騒ぐのは、
あとさ、ゾーニングって別に「表現そのものを否定する」わけじゃないじゃん。
「ここでは見せないでね」ってだけの話なんだよね。
たとえば18禁コーナー作ったり、
テクウヨってマジで、自由って言葉を魔法か何かだと思ってんのかな。
柴田英里
@erishibata
すごい。身長体重の中央値から違うという事実や統計とかをまるっと無視だ。
2C1Pacific
@2C1Pacific
岡田桂教授「体力とは、男性が有利になるものだけを測ってきた、文化的に偏った概念」
立命館大学産業社会学部スポーツ社会専攻、すごい。ツイッターのネタでなく、こういう講義が実在するとは。
* マジキチ
オリンピックなど、世界的な大会でこれまで物議を醸(かも)してきたことの一つに、トランスジェンダーなど性別をめぐる問題があります。パリ五輪でも、男性ホルモンとも呼ばれるテストステロン値が高い女子ボクシングの選手が出場し、物議を醸しました。立命館大学産業社会学部の授業「スポーツとジェンダー」は、こうしたスポーツにおけるジェンダーの課題など、近現代のスポーツのありようと社会とのつながりについて、「性」に関わる視点から検討しています。
産業社会学部は2007年にカリキュラム改革を行って現代社会学科の1学科制となり、現代社会専攻、メディア社会専攻、スポーツ社会専攻、子ども社会専攻、人間福祉専攻の5つの専攻を設置しました。「スポーツとジェンダー」の授業を開講した経緯について、スポーツ社会専攻の岡田桂教授はこう話します。
「他大学のように体育学部やスポーツ科学部などに設置されているスポーツ専攻と違って、立命館大学の場合は、産業社会学部の中にスポーツ社会専攻があります。社会におけるスポーツを学ぶので、ジェンダーの視点というのは欠かせません」
授業を担当する教員は年度によって異なり、全15回の授業内容は教員によって違いますが、主軸となるのはこれまでスポーツにおいてジェンダーがどのように問題となってきたのか、歴史や事例について学ぶことです。
「必ず学ぶのは、近代スポーツが生まれた経緯です。なぜなら、スポーツという文化はもともと男性だけが行う前提でつくられたものということを知る必要があるからです」
岡田教授によると、近代スポーツの発祥は19世紀で、エリート教育を行うイギリスのパブリックスクール(男子校)で、課外活動の一つとして取り入れられるようになり、発展していきました。
「スポーツは男性のほうが有利と、一般的には認識されています。しかし、そもそも男性の体の資質に合ったものが選択され、男性が有利になるように制度化されてきたものが近代スポーツなのです」
「男性の体の資質に合ったものが選択され、男性が有利になるように制度化されてきたものが近代スポーツ」完全にウソですね。だから男性の方が体力があるというのは嘘ということにはならない。計測やルールは公平性や正確性を持っており、男性が有利になるという目的は意識的無意識的にかかわらず存在しない。ジーン・キング時代みたいな古い例しか出せないのは、その後ルールやトレーニング法が整備されて対抗できなくなったとい事実を無視するためで、似非科学です。
確かに、体力は女性より男性のほうがあると、当たり前のように認識されています。実際に小学校や中学校で行われる体力テストのスコアは、男子のほうが女子を上回りますが、岡田教授はその理由を次のように説明します。
「学校で行われる体力テストは、文部科学省が定めている体力の基準8項目(握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、20mシャトルラン、50m走、立ち幅跳び、ボール投げ)をテストします。このうち7項目は筋力によって左右されるので、男性が有利になります。一方、柔軟性をみる長座体前屈は、女性のスコアのほうが上回ります。つまり、男性が有利となるような項目が、体力を測る物差しになっているのです。そもそも体力とは何かを考えると、実は科学的なものではなく、男性が有利になるものだけを測ってきた、文化的に偏った概念だということがわかります」
まずこの表現自体が被害妄想でWokeですね。アメリカでは一笑に付される。文化じゃなくて科学の問題。だから文系は科学が理解できない野蛮人しかいない。
「スポーツというと、アスレチックな競技だけを指す傾向がありますが、イギリスではスポーツは気晴らし全般を指すので、チェスやビリヤード、トランプなども含まれます。スポーツにおいて完全な男女平等は難しいことですが、できる部分は平等にしつつ、スポーツに関する新たな価値観を広げることは、男性も女性も生きやすくなることにつながると思います」
それならマラソンもスポーツなので、楽しむという意味ではスポーツです。
スポーツ社会専攻には保健体育の教職課程があり、スポーツでの成功体験を積んだ学生が多くいます。「そうした学生だからこそ、スポーツとジェンダーを学ぶ意義が大きい」と岡田教授は話します。
「特に男子学生は自分が有利になるような条件の中で成果を得てきたということを、最低限知ってほしいですし、教員になるのであれば必ず知っておかなければならないことです。女子学生は、スポーツをしてきた中で自分が不利な立場になった経験があるなど、問題意識を持つ学生が多いように感じます。知識を得ることで、こうした問題意識を言語化できるようになってほしいと思います」
中学校の保健体育の授業では、男女別の授業があり、自分の性に違和感がある生徒にとっては着替えの問題などが出てきます。
「保健体育の現場では性に関わる問題に対応しなければならない場面が出てきやすいのですが、中学校の教員も十分に対応できていないというのが現状です」
一方で、中学校の保健体育でダンスが必修化されるなど、性差が出にくい種目を増やす動きも出ています。岡田教授はこう話します。
「学生たちの意識にも変化が見られます。男子学生は自分たちが特権的に持っているものを否定されたように感じるのか、以前は私の授業に対して拒否反応を示すことがありました。この10年くらいで学生の意識は急激に変わり、男子学生も受け入れなければならないと感じているようです」
Claudeちゃん曰く
この文章にはいくつかの論理的問題点と修辞的手法が見られます。以下に主な問題点を整理します。
●「リベラル?」という表現自体が不明確です。何を指して「リベラル」と呼んでいるのか、明確な定義がありません。
● リベラルとされる人々を一枚岩的に描写し、多様な考えや立場の違いを無視しています。
●「リベラル?のせい」という因果関係を単純化しすぎており、複雑な政治現象を一要因に帰しています。
【証拠の欠如】
●「リベラル?」の行動について具体性を欠いた抽象的な批判に終始しています。
●トランプ当選と「リベラル?」の態度との因果関係を示す証拠が提示されていません。
【二項対立の強調】
●「リベラル?」対「トランプ支持者」という単純な二項対立の図式を作り出しています。
●「どっちかと言うと君たちのせい」という二者択一的発想に基づいています。
●「『正しい価値観』なんて存在しない」と述べながら、文章全体を通して筆者自身の価値観が「正しい」という前提で論を展開しています。
● リベラルを「自分の考えに合わないものは断罪する」と批判しながら、同様の手法で「リベラル?」を一方的に断罪しています。
●「自分が正義の側だというポルノに浸っていたい」など、相手を侮蔑するレトリックを使用しています。
●「悪魔の顔はしといてね?」など皮肉を込めた表現を使っています。
【過度の単純化】
●複雑な政治現象や選挙結果を単一の要因(「リベラル?のせい」)に帰しています。
●政治的言説の問題を態度や振る舞いだけの問題に矮小化しています。
この文章は、批判の対象としている「リベラル?」に対して、まさに批判している行動(一方的な断罪、単純化、自分の考えを絶対視する態度)と同様の手法を用いている点で自己矛盾に陥っています。建設的な議論のためには、より具体的な事例の提示、明確な定義、そして多様な視点を尊重する姿勢が必要でしょう。
■トランプが大統領になっちゃったのってリベラル?のせいだと思うんだけど
リベラル?の言うことは正しくても行動は正しくない感じがするのよね。
更に多様性を押し出しながら自分の考えに合わないものは断罪し社会的に孤立させるように動く。
理屈で相手を屈服させてる風だけど単なる数と圧力による黙らせだし、暴力はやってないかと言うと結局やるしね。
私達は正義を伝えてるのだから言い方でとやかく言うな!トーンポリシング!
私が正義の鉄槌を下す対象選定について文句言ってくんな!ワットアバウトイズム!
みたいな相手を詭弁と断定するいくつかのカードを作っておいて、反論を侮蔑の態度で封じる。
どうせコイツラに任せても「イエスウィーキャン!あ、お前はウィーに入ってねーから」とされることが目に見えてるわけで、ならトランプとかいうクソレスバ野郎だが間違いなくそっちにはいかないだろうなって奴に、周りにバレて晒し者にならないようにこっそり投票するしかないと。
今もトランプに入れた奴らがバカだとリベラル?は人のせいにし続けてるけど、いや、どっちかと言うと君たちのせいじゃないの?って思う。
世界を良くしたいという原動力であの行動したのなら深く反省しないといけないし、自分が正義の側だというポルノに浸っていたいのなら世界を犠牲にしてそのままでいたら良いけど悪魔の顔はしといてね?って感じ。