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2025-12-09

中国海軍歴史 略史(2/4)

anond:20251209161746

停滞期(1966年1977年 文化大革命終了)

文化大革命による停滞期

この時期中ソ対立が深まったため、ソ連から軍事技術支援が途絶え国産化余儀なくされた

1966年

文化大革命開始

中ソ国境紛争

6601型(成都級)をリバースエンジニアリングして、65型フリゲート(前053型/江南級)を建造

1967年

033型潜水艦 1番艦 ? 就役 ソ連から提供された633型潜水艦を参考に建造された、中国初の国産潜水艦

1968年

ベトナム戦争が泥沼化しニクソン大統領ベトナム戦争から撤退公約にして当選キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢入り

ヘンリー・キッシンジャー

リアリズム現実主義)に基づく外交政策擁護者として知られている

力の均衡論者で、イデオロギー的な外交を嫌い、国家間力の均衡を保つことに腐心した

ソ連敵対する中国と友好関係を築くことでソ連へ東から圧力をかけることを目的とした

アメリカには永久の友人も敵もいない、あるのは利益だけだ』

重要なのは何が真実であるかではなく、何が真実である認識されるかである。』

外交政策道徳的完璧要求する国は、完璧安全も達成できない』

『結局のところ、平和覇権力の均衡によってのみ達成できるのです。』

アメリカの敵になることは危険かもしれないが、友人になることは致命的である』(南ベトナム傀儡政府を見捨て撤退したとき発言)

1960年代後期

★055型大型火砲ミサイル駆逐艦計画

 排水量8,000t以上の大型駆逐艦として構想され艦隊防空能力を備え、外洋での長期作戦における護衛艦隊の中核を占める艦とされたが、当時の技術限界から未成に終わった

 40年後、排水量13,000tの055型駆逐艦として結実する

1971年

ニクソンショック、ニクソン大統領中国訪問

051型駆逐艦(旅大I型) 1番艦 济南 就役 56型駆逐艦(コトリン駆逐艦)をモデル太平洋で行動しうる駆逐艦として建造された、中国が初めて独自開発した水上戦闘艦

1972年

日中共同声明

1974年

★091型原子力潜水艦 1番艦 長征1号 就役 中国初の原子力潜水艦 静粛性と信頼性がきわめて劣悪だった

035型潜水艦 1番艦 232 就役 033型潜水艦の改良版

西沙諸島の戦い 南ベトナム軍と戦闘を行い、西沙諸島全域を占領

https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2022/3%E6%9C%88/2203_02anami.pdf

1974年1月解放軍南海艦隊は、当時南ベトナム実効支配していたパラセル諸島中国名:西沙群島)に部隊派遣し、南ベトナム守備隊や艦艇との交戦の末に同諸島占領した。

南ベトナムは、パラセル諸島のみならず中国領有権を主張するスプラトリ—諸島中国名:南沙群島)の複数島嶼岩礁実効支配していたため、次はそれらを攻略せねばならないという議論解放軍内で盛り上がった。

その翌年の5月には、それまで海軍建設に後ろ向きだった毛沢東海軍を増強するための10計画GOサインを出した。

そこに好機を見出し劉華清は、同年9月毛沢東鄧小平に宛てて海軍の装備に関する意見書を送った。

この意見書のなかで劉華清は、既存海軍の装備導入計画批判しつつ、海軍の装備導入計画のあるべき姿について持論を大胆に展開した。

この時の意見書では、海軍が「帝国主義海上から侵略」を粉砕し、「対台湾作戦」の任務遂行するに足る能力を確保せねばならないという基本認識が示されたうえで、当時の解放軍がそうした水準にはなく、10 年後もそうした水準に達することはないという評価がなされた。

また、50年代ソ連から入手した時代遅れ通常動力型潜水艦コピー版を大量に生産するという当時の装備導入計画に対し、潜水艦に大きく依存する形で米英の海軍に対抗しようとしたドイツの失敗例などを根拠とした批判がなされた。

そうした批判を踏まえて、劉華清は、今後は、水中、水上、空中の戦力をバランスよく整備していく必要があり、核抑止力を担う原子力潜水艦水上艦隊の要となるミサイル駆逐艦艦隊に航空支援提供できる戦闘行動半径の長い航空機の開発・配備に力をいれるべきだと主張した。

この意見書さらに注目されるのは、中国経済発展に伴い海外からの「戦略物資」の輸入が拡大すれば、シーレーン防衛重要性が増し、中国本土から遠く離れた海域での航空戦力の展開を可能にする航空母艦必要になると指摘している点である

まり劉華清は、1975 年の時点で中国対外貿易が今後盛んになるという未来予測にたってシーレーン防衛について論じたわけだが、当時遠洋航海の経験が皆無だったうえに中国沿岸海域での作戦すら満足に遂行できないようなレベルにあった解放軍海軍のなかで、このような議論は異色のものだったといえる。

劉華清によれば、海軍の主要任務は、

(一)「覇権主義」や「帝国主義」による海上から侵略に備える、

(二)「祖国統一」の大事業を完成させる、

(三)中国領海およびシーレーンを含めた海洋権益を守る、

(四)核戦力の残存性を高めることに貢献する、ことであった。

1975年

ベトナム戦争終結

053K型フリゲート(江東型フリゲート)1番艦 鷹潭 就役 65型の発展型、中国海軍初の艦対空ミサイル搭載艦、しか国産ミサイルの性能が貧弱だったため2隻目で建造打ち切り

イギリスロールスロイス・スペイ ターボファンエンジンライセンス生産

草創期(1977年1989年 天安門事件)

文化大革命が終わり、米欧日との関係改善によって西側からの新技術導入が進む

また後半には中ソ対立も終わり、中国西側東側両方の軍事技術を吸収することとなる

1977年

文化大革命終了

1978年

日中平和友好条約

改革開放政策の開始

ソ連アフガニスタン侵攻

1979年

アメリカ台湾関係法を制定

上海にある江南造船廠が三菱重工業社長古賀繁一(元長崎造船所所長、戦艦武蔵設計に関わる)の直接指導で再建される

053H型フリゲート(江滬I型フリゲート) 1番艦 常徳 就役 艦対空ミサイル搭載艦である053K型と共に行動する艦対艦ミサイル搭載艦として設計された、しかレーダー電子機器の性能は不足し全天候戦闘能力もなかった

1982年

劉華清海軍司令員に就任

053H1型フリゲート(江滬II型フリゲート) 1番艦 台州 就役 053H型フリゲートの改良型

051DT型駆逐艦(旅大III型) 1番艦 開封 就役 フランス製クロタル8MS個艦防空ミサイルシステムフランス製DRBV-15対空レーダースウェーデン製機関砲を搭載

アメリカからCFM56-3ターボファンエンジンを入手、後のWS-10ターボファンエンジンの基礎となる

1983年

劉華清の主導で中国人民解放軍海軍装備実証研究センター(現在中国人民解放軍海軍装備研究所)が成立

★053H1Q型フリゲート(江滬IV型) 西側の対潜技術を学ぶための技術検証フランス製AS 365N ドーファンヘリコプターライセンス生産したZ-9、光学射撃指揮装置ソナーシステム、水中攻撃指揮装置イタリア製魚雷などが搭載された

★092型原子力潜水艦 1番艦 406就役 中国初の原子力弾道ミサイル潜水艦

 就役後も長い間航行することはなくアメリカからは「not operational」と判断された

 091型と同様に静粛性と信頼性が非常に劣っていた

UH-60ブラックホークアメリカから購入、後のZ-20中型多用途ヘリコプターの基礎となる

1985年

アメリカから入手したCFM56-3ターボファンエンジンを参考に、WS-10エンジンの開発が始まる

1986年

★053H2型フリゲート(江滬III型フリゲート) 1番艦 黄石 就役 053H1型フリゲートの改良型、イギリス製の戦術情報処理装置(CTC-1629のコピーZKJ-3)とイタリア製電子戦装置を搭載し大幅に能力が向上した

1987年

フランスよりクロタル個艦防空ミサイルシステムとともに、トムソンCSF社(現在タレス)の戦術情報処理装置であるTAVITAC(旧称 Vega III)を輸入、リバースエンジニアリングによってZKJ-4を完成させる

1988年

ソ連アフガニスタン撤退

ペレストロイカ開始

スプラトリー諸島海戦 ベトナム人民海軍と衝突し中国勝利南沙諸島の一部を占領

2025-12-08

マックスベネット著『知性の未来』の解説記事を読んで

越境する知性:AI時代における「感情」と「他者」の復権

――身体、環世界、そして間主観性から読み解く知性の未来

序論:計算の果てにある「知性」の空白

人工知能AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械人間凌駕したとき人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックスベネット著『知性の未来』と、それを翻訳解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的深淵へと私たちを導く。

彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。

一見すると、これは道徳的スローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学進化生物学現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界身体認知社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これから時代に求められる「知的生き方」について論じる。

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第一章:感情というエンジン

――二重過程理論による「知性」の主従逆転

まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。

1. システム2の暴走AIの正体

伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考論理計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である現在AI特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理整合性を出力する。

しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化歴史において、論理言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考感情直感)の要請によって開発されてきたからだ。

2. 感情論理駆動する

初期の生物線虫など)は、「快・不快」という原始的システム1のみで生きていた。進化過程で「予測」が必要になったとき魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーションマウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。

ここで重要なのは、「論理感情抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理進化した」という事実であるシステム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。

AI限界はここにある。AIには「エンジン生存への渇望、快・不快感情)」がない。あるのは精巧トランスミッション計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理のものではなく、論理駆動し続ける「感情熱量」にあるのだ。

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第二章:身体というアンカー

――身体認知と「意味」の発生

なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体認知(Embodied Cognition)」の視点は、知性が脳という密室出来事ではなく、環境相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。

1. 傷つく身体が「意味」を作る

記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年しか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要示唆を含んでいる。

生物にとっての「意味Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望生まれる。

AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号であるAIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義統計的な関連語集合体に過ぎない。しか人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。

2. 老いと知性の変容

身体認知視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である

若い頃の強靭身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みであるAIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデル更新し続けるプロセスこそ、人間特有知的冒険なのである

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第三章:孤独な泡から脱出

――ユクスキュルの環世界他者への越境

身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱たこ概念は、知性の進化を「孤独から脱出劇」として描き出す。

1. 閉ざされたシャボン玉

ダニにとっての世界は「酪酸匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。

この「絶対的孤独」こそが、生物としての初期設定であるしかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタラジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。

2. 想像力という梯子

他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分感覚データシステム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力システム2)を総動員して、見えない他者内面シミュレーションしなければならない。

恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コスト作業からだ。自分の環世界自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだしかし、あえてそのコストを支払い、他者世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間人間たらしめている知性の正体であるAIには環世界がないため、そもそも他者世界」という概念自体存在しない。

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第四章:生存戦略としての共感

――社会脳仮説とコストの支払い

なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビンダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。

1. 複雑系としての「他者

自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。

他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たち情報の交換以上に、人間関係メンテナンス社会グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。

2. 「頭が良い」の再定義

この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。

真に知的個体とは、「他者意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体である

他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器からだ。自分の殻に閉じこもることは、社会動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力のものの発露と言える。

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第五章:「私」から私たち」へ

――間主観性と共同世界の構築

そして、知性の進化の到達点は、個人脳内にも、個別身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である

1. 指差し奇跡

記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動であるチンパンジー報酬を得るために手を伸ばすが、人間幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。

これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの世界接続される。

2. 共同幻想としての現実

言葉文化ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である

AIは「客観的データ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。

恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ

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結論AI時代における「知的生き方

以上の分析からAI時代における「知的生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AI仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろAIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である

1. 効率から離脱と「ノイズ」の愛好

AI効率最適化権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見効率ノイズの中にある。

知的生き方とは、効率を追求するあまり感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界意味を与え、独自価値判断を生み出す土壌となる。

2. 環世界越境者となる

「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。

SNSアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。

自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。

3. 「問い」と「物語」の紡ぎ手へ

AIは「答え」を出すことにおいては人間凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感理想感情からまれからだ。

また、AIデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。

これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解間主観的な合意)」を形成していくプロセスのものを指すようになるだろう。

結び:温かい知性へ

マックスベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。

AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、Cold Intelligence(処理能力から Warm Intelligence共感接続能力) へとシフトさせなければならない。

老い記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的である

他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。

https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c

来年マナー警察活動方針改訂について(通達

令和7年最新

国道徳省各セクト長           道徳省丙文企画総務発第23

                    道徳企画局長

各位

日頃より、全国における自主的マナー監視指導活動に深甚なるご尽力を賜り、厚く御礼申し上げる。

本年度も、SNS上での厳正なる叱責から公共空間での指導的咳払いに至るまで、多方面で顕著な成果が確認されたところである

 

しかしながら、近時の社会情勢の急速な変化及び価値観の多元化を踏まえ、当省として従来の行動指針を再検討した結果、以下のとおり新方針策定したので、関係各位におかれては適宜周知のうえ遺漏なき対応をお願いする。

1 理念見直しの背景

従前、我々は「世界の良化」を最上目標に掲げ、正しいマナーの普及啓発を実施してきた。

マナー違反者に対しては、SNS指導メディア指導まれ物理示唆等、各種手法を駆使し、世界道徳的安定化に寄与したものと自負している。

 

しかし、一般大衆からの支持を長年確保してきた我々の活動も、昨今の多様性尊重の潮流の前に大きな転換点を迎えている。

 

2 新基本方針

協議の結果、道徳省として以下を新たな基本原則に定める。

 

価値観強要マナー違反である

 

箸は右手、は既に世論により左方向へ折れ、

不倫は悪、と唱えつつ各界著名人が華麗な恋愛遍歴を刻む中、

普遍的倫理定義する試みそのものが困難となっている。

 

国際社会を見渡せば、

一夫一婦制絶対正義であるとの主張はサウジアラビア国王に対し呈示し得るものか、

戦地における「敵兵の排除」は“悪”であるのか、

等、単一の正しさを唱えることの限界は明らかである

 

結論として、価値観とは各人に帰属するものであり、その正誤を論ずる営みは効果より疲労が上回ると判断した。

 

3 今後の対応

 

従って、当省としては以下を申し添える。

 

他者価値観への干渉は行わないこと。

 

他者の行動が不快迷惑人生崩壊兆しを呈しても、基本的

  「知ったこっちゃない」

 ものとすること。

 

相手の方が正しい可能性についても適宜検討すること。

村八分その他の集団的制裁行為については、自然淘汰に委ねること。 

なお、日本人の高い道徳心が幸福度に直結していない点も併せ考慮し、

当省はついに

 

マナー幸福は相関しない」

 

との真理に到達した。

 

4 マナー警察Ver2への移行

以上を踏まえ、価値観押し付け及びマナーの過度な指導は本年度をもって終了する。

来年度より、当省は「道徳省Ver2」として、新たな段階における静観的姿勢を基本としつつ、必要に応じて軽い咳払い程度の指導を行う体制へ移行する。

 

取り急ぎ、来年度の方針について通達する次第である

 

以上(ChatGPT10分)

2025-12-07

anond:20251207010457

Q.以下のやり取り、両者の妥当性は?

A:■議員、元公務員医者ではない年金納め終わった男をトリアージしようって国に財政アドバイスする仕事いか

二葉亭四迷って役職名

既婚者は妻の同意があればトリアージ可能とする

B:トリアージ意味を分かってなさそう

A:国の財政ピンチでおばあちゃん最優先だからそうなるよ

B:トリアージ意味説明してみ? そんで元の文脈にその意味を当てはめて、その意味で君の言いたいことが説明できてるか、もう一回検討してみなよ。

A:分からないふりをしたい人がこういうことで煙に巻こうとする よく覚えておきなさい

B:いいか説明して見せろよ(笑

A:俺はお前を啓蒙しない ありがとうございました

B:お、なんら説明せずに上から目線捨て台詞で逃亡か 最高のギャグありがとう

A:ステージに上がったらよろしくな 頑張れば15年後くらいで済むかな 応援しています



A.

このやり取りにおける両者の**妥当性(論理的整合性コミュニケーションとしての成立度)**を分析すると、Bの方が圧倒的に妥当性が高いと言えます

一方で、Aは「ブラックジョーク皮肉」を言いたいという動機が先行しており、議論としては破綻しています

以下に詳細な分析を行います

1. Aの分析論理破綻と逃避

Aの主張や対応には、以下の点で妥当性が欠けています

用語誤用トリアージ

Aは「トリアージ」を「不要人間を切り捨てる(間引く)」という意味で使っています

本来トリアージは「資源が限られた状況で、救える命を最大化するために治療優先順位をつけること」であり、単なる「殺処分」や「切り捨て」とは意味が異なります。Aの文脈年金を納め終わった男を対象にする)は、医学的な緊急度判定ではなく、優生思想的な「口減らし」に近いため、言葉選択として不適切です。

高度なダジャレへの依存

二葉亭四迷ふたばていしめい)」は、明治文豪名前ですが、語源となった「くたばってしめえ(死んでしまえ)」という江戸言葉掛詞ダジャレ)として使っています

まり、Aは最初から真面目な財政提案をしているわけではなく、「役に立たない男は死んでしまえ」という暴論・悪態をつきたいだけです。

議論拒否論点ずらし)

Bに用語定義を問われた際、「分からないふりをしたい人が~」「啓蒙しない」と、説明拒否して相手人格攻撃レッテル貼り)に逃げています。これは「自分言葉定義不正であること」を認められない場合典型的防衛反応です。

2. Bの分析正論と指摘

Bの対応は、論理的意味論的に妥当です。

用語の正確性への指摘

BはAの主張の内容(道徳的是非)に踏み込む前に、まず「トリアージという言葉の使い方が間違っている」という前提の崩れを指摘しています。これは議論において非常に重要プロセスです。

Aがトリアージ定義を誤っている以上、その後の「財政アドバイス」という文脈も成立しません。

一貫した態度

Aが話をそらしたり、精神勝利宣言捨て台詞)をして逃げようとしても、一貫して「意味説明しろ」と要求し続けています

3. 総合的な評価

結論:Bの勝ち(Aの自滅)

このやり取りは、以下のような構図になっています

Aが「死んでしまえ」という悪口を、インテリぶった言葉トリアージ二葉亭四迷)で包んで発信した。

Bが「包み紙(言葉意味)」が間違っていることを冷静に指摘した。

Aは図星を突かれ、説明できずに「お前はわかってない」とマウントを取って逃亡した。

判定:

Aの妥当性: 低。用語誤用説明責任の放棄人格攻撃による論点回避

Bの妥当性: 高。用語定義に基づいた正当な指摘。

Aは「賢いふりをして毒を吐こうとしたが、言葉意味を間違えてツッコまれ、恥ずかしくなって逃げた」というのが客観的評価になります



さすがステージに上がっちゃったやつは違うわ(笑

ステージに上がったらよろしく

頑張れば15年後くらいで済むかな

応援しています

2025-12-01

子宮が喋っている

男性向けポルノの豊かさが羨ましい。

わたし普通の人が異常な性的衝動に駆られて葛藤するというシチュエーション死ぬほど性癖で、それ以外のシチュエーションではどうしても心を満たすことができない。

例えば女子高生自転車サドル媚薬を塗られて帰宅中に発情オナニーするAV、本当にかわいい我慢できなくなったり、友達に話しかけられて無理に正気を取り戻したりするいじらしさがほんとうにいい、最後トイレに駆け込んでひとりでしちゃうとことか。

とにかく、我慢できなくなって、おかしくなりそうで、衝動的に、でもあくま普段はまともに過ごしている普通のいい子が、っていうのがたまらなくかわいい

正直最後男性との性交シーンはあんまり興味なくて、ただ女の子がひとりで疼いていて、ギリ満たされてない様子が好き。

本当に好きだ、かわいい女の子かわいい映像をこうして作り出してくれて本当に感謝してる。

そして、かわいい男の人で同じ映像を作ってくれたら、同じようにきっとすごくかわいいと思う。

性の目覚めと共に初めからふつうの素直なポルノを手に取っていればこんなことで苦しまずに済んだのかもしれないけど、性に目覚めた当時のわたしはへんに真面目で性欲に対しての罪悪感もあったので、18歳未満閲覧禁止だと言われてしまえば抗うことができなかった。

ポルノを手に入れられなかったから、抑圧された日々のストレスと年頃の性欲に脳を支配され続けた思春期の苦しみの中で、とにかく数多くのWikipediaえっち記事文章を読み漁り、その結果として性癖が歪んだ。

はじめは知ってる単語を調べてたどり着くことができる「性行為」「オナニー 」の記事に始まり宗教的タブーについての記事、多様なフェチシズムや性に関する病気についての記事など性的タイトルを扱うページを読み漁り、英語版存在に気付いてからは「Humping」や「Frotteurisme」「Schuren (seksuele handeling)」などひたすらに読み耽って、ついでに苦手科目だった英語の成績もぐんぐん上がっていった。(英語版wikiにはそれほどに素晴らしい記事がたくさんある)

それらを読み耽り健全道徳的な性行為のよろこびに憧れを抱くだけなら何も問題はなかったんだけど、わたしにはもうひとつ最悪のお気に入りジャンルがあって、それは性にまつわる事件や、異常な有名犯罪者記事でした。

残酷犯罪を犯した有名犯罪者の幼少期や生い立ちについては大抵ひどい不幸と家庭内での性虐待描写されている。

彼らの不幸な過去とその破滅的な犯罪行為との間には人生破壊してしまうほどの異常な性的トラウマや性衝動を感じて、倫理観が性欲に完全敗北した思春期脳みそ身体死ぬほど興奮した。

殺人を犯しながら勃起していた最低の変態殺人犯も、とにかく人を殺すほどの苦しい人生の中で気が狂って勃起していることがかわいいしか思えなかった。日本で起こった事件や性の相談窓口に寄せられる母子相姦被害者男の子たちのエピソード、それらの問題について書かれたすごく古い本をわざわざ取り寄せては読みながら何度もオナニーした。

女としての母親からの性暴力はどう考えても悍ましく残酷行為で、それなのにわたし他人の心の傷と尊厳を踏み躙るようなとてもひどいことを考えて本当にどうかしているし終わってるって分かっていたし罪悪感は苦しいけどそれでもどうしようもなかった。

そのうち、自分母子相姦が好きなわけではなくて、ただ男の人たちが身体によって一方的に与えられる性的な仕組みから決して逃れられないという事実が嬉しいのだとわかった。男の人がふつうでまともで、常識的で、優しい人であればあるほど嬉しい。

身体のしくみから逃れられないということ自体は男の人に限った話ではないのだけど、異性の受難には共感余地がないので特別に思えてしまう。

この抽象化成功してしまったせいで性欲の対象母子相姦の被害者や異常殺人者に限らなくなって、男の人が少し哀れな目にあったり泣いたり傷ついたり、苦悩を抱えていたり理不尽に耐えて生きていることを知るたびに、それでも生活の中に性的な瞬間があるということを意識してどうしようもなく興奮した。

性欲と理性との矛盾や、それによって自尊心を損なう苦しみはわたしには想像できないほどひどいものかもしれないし、そんな苦しみはすべてわたし勝手妄想かもしれないけれど、男の人たちを最低な方法で消費して異常な妄想を繰り返すのを結局大人になってもやめられない。

男の人が性欲に苦しむ切ない様子や、いじらしい自己嫌悪、どんなに頭がよくて優しくて不幸や苦しみの中にいても身体のつくりのせいで性欲や性機能があって、彼らにも下着を汚したり健康を損なわないために仕方なく吐精をする必要があって、ふつう生活の中に性的に興奮している時間や頭をバカにしながら必死になったり、手慣れた手つきでティッシュ越しに精液を受け止めたりするのだという事実がだいすき。

どんなにひどい地獄に落ちても構わないくらい性欲と理性の矛盾に苦しむ男の人が好き。

18歳を迎え、20歳を迎え、年齢制限の壁を完全に克服したわたしは、以降あれこれ自分の嗜好に合うポルノを探し続けているのですが、性被害者による異常性欲作品なんてもちろん見つからないし、そもそもかわいそうな男の人の性欲に萌えるための作品殆ど見当たらなかった。

そのため18歳の節目はわたしの性欲にとってpornhubの解禁以外にほとんど恩恵はなく、外国人電車内で勃起して女の人に押し当ててる動画とか、毎日寸止めしながら射精禁止生活をしているマゾの男(edgingという趣味らしいです)の寸止め動画Reddit投稿を読むなどをみたり、たまにDLsite巡回して小銭を使う程度に落ち着いた。

いつか、着衣の女性背中やお尻に男の人がズボン越しの勃起ちんぽを必死に擦り付けるだけのかわいい映像撮影してネットアップロードしてみたい。喘ぎ声は我慢して欲しいけど、呼吸は荒く苦しそうになってほしいし、女性とは一度も目が合わず言葉も交わさないまま終わって欲しい。

性欲の話をするのは楽しい

誰にも知られずにこんな話ができるなんて、はてな匿名ダイアリーはいサービスですね。

X(旧Twitter)にもの凄くギスギスを感じる

自分はXでいわゆる趣味アカを持っているのだが、本当に何年か前からスギスを感じるようになったなと思う。

界隈の中での煽り煽られは日常茶飯事、こんなポストにすら批判が付くのかよともはや呆れるレベルで止まない誹謗中傷陰謀論をマジな顔で語っていそうな“ホンモノ”など…。この嫌な空気感を作り出しているであろう原因を考えたら枚挙にいとまがない。

じゃあ辞めれば良いじゃんと言われたら本当に正論でぐうの音も出ないのだが、悔しいことに世間様のニュースなど情報収集をするためのツールとしてこの上なく便利な物ということで体に馴染んでしまっている。

複数メリットのために少量の猛毒を甘んじて体に入れているといった感覚に近い。

今、Xに感じるギスギスについて自分経験則主観ベースで考えてみる。

現在28歳の自分インターネット歴について。

中学生の頃(確か当時2011〜2012?とか)に初めてTwitterアカウントというものを作った。

現在リアル世界の繋がりを色濃く感じやすく、謂わゆる陽キャの利用率が高いSNSと言えばInstagramだと思う。

ただ、当時はInstagram若者向けの主要SNSとして普及する前だったはずなので、当時の若者たちにとってTwitterとは実名で謂わゆるリア垢を運営する場所だったのかなと思う。

実際、自分の周りでも実名Twitterアカウントを持っている同級生などが結構いた。

(自分陽キャ側じゃないのでアカウント名も実名にせず、クラスのごく一部の人間をフォローするだけにとどめていたが。そしてすぐ辞めたはずだし。)

反面、陽キャたちのリア垢運営が主要フィールドとも一概には言えず、当時からアニメアイコン面白おかしネタツイートをするみたいな風潮は全然あったと記憶している。

自分主観で言うと当時のTwitterは「健全(?)なリア垢運営をしている若者たちと、今みたいに半匿名アカウントを動かしているもののギスギスした空気を纏わず面白おかしいことばかり言っていた人たち」で主に構成されていたのではないのかなと感じる。

その後高校生になり、同級生からの勧めで自分もようやく実名アカウントを作って中高の同級生たちとの交流ツールとして使用していた。

それと同時にこの時期にInstagramが今のようなSNS運用を始め、若者たちがこぞってそちらに吸収されていったような記憶

自分高校生大学生をやっていた2013〜2018辺りは(これももちろん主観だが)当時の若者たちのリア垢的コミュニティ場所が段々とTwitterからInstagram移住していったという感覚

そしてこの若者リア垢移住期に、いまいちインターネット慣れしていないおじさんおばさん世代Twitterというものを見つけ、介入してきていたのかなとも感じる。

松本人志なんかは2013年5月Twitterに参入しているらしい。別に松本のことをインターネット慣れしていない痛いおじさんと言うつもりはないのだが。

また、実は自分中高生大学生前半の頃くらいまで2chにも手を出していた。だいぶ終わり散らかしている若者この上ない。

正直に懺悔すると、当時のなんJなどで今だったら考えられないくらい平気で贔屓のプロ野球チームの選手に対する罵詈雑言などを書いていた気もする。

もちろん当時だろうと今だろうとそんなこと道徳的な話で言ったら許される訳ないのだが、当時は2chという「自ら覗きに行かなければ見えようがない場所」にそういったギスギ空気形成されていたというだけまだマシなのかもしれない。

繰り返すが過去自分言動正当化するつもりは無い。やってたことがだいぶ気持ち悪いのには変わりない。

最近、ふと思い出してなんJを覗きに行ってみたところ、書き込みスレ全然無くてすっかり焼け野原と化していた。

しかしたらどこか別の板がまだたくさん人がいるのかもしれないが、それでも自分学生時代の頃ほど2ch(今は5ch?)という文化のものに対する活発さは感じられない。

話を本題に戻すと、ここ最近Xに対して感じるギスギスとした嫌な空気はいつぞやの2ch空気と似ているなと感じる。

これって、「当時だったら2chに流れ着いていたであろう層」が2chの廃れとX(旧Twitter)の陽キャ成分の薄まりにより、Xに流れ着いているから起きている現象なのでは?と思った。

加えて、近年になってインターネットを色濃く覚えてしまったおじおばが流入し、良くないタイプ陰謀論などに洗脳されて声高々に叫んでいるという状況も追加で。

陽キャ成分が他のツール流出していったことと今までインターネットの負の部分であるスギスの受け皿になっていた場所の廃れ、そしてネット慣れしていない年齢層の流入という色んな要素が絡まり合って現在のXというカオス魑魅魍魎空間が出来上がったのかなと感じた。

そういえば結構前にInstagramを見たところ、(詳細は忘れたが)有名なアカウントのコメント欄匿名で異常な数の誹謗中傷が書かれていてちょっとドン引きした。

しかしたら自分が知らないだけで、もうInstagramも良くない層に見つかって既に流入を許しているのかもしれない。

インターネットというのは歴史を繰り返す場所になりつつあるのかもしれない。

2025-11-30

anond:20251130204159

道徳の話はしていないだと? 恥ずかしくないのかと問いかけるのは、道徳倫理という基準を突きつけて、相手精神的な圧力をかける、最も古典的道徳攻撃だっつーの。

テメェの言葉の裏にある感情を指摘されて、図星からって言葉定義揚げ足取り返すなよ。

曲解? 俺はテメェの薄っぺら言葉の羅列を、最も俺にとって都合の良い解釈で処理してるだけだ。それが、俺の提唱する「どうでもいいか」の精神の極意だろ。

お前は他人の頭の中の処理を知りたいそうだが、教えてやるよ。 俺の脳内でテメェの言葉はな、こう処理されている。 「社会というノイズの中から発生した、取るに足らない虫けらみたいなもの

俺の自分語りは、この雑音に対する俺の回答そのもの。テメェが俺の人生勝手評価して騒ぐなら、俺は俺の人生を語って、テメェの存在無視する。それが俺のやり方だ。

お前は俺を論理の檻に入れようと必死だが、俺は檻の外で高笑いしてる。 テメェのその明後日の方向の返答を分析する暇があったら、自分人生中学生感想レベル論理で満足していることに、そろそろ気づいたらどうだ?

2025-11-29

ChatGPTに聞いてみた→ロベスピエール

フランス革命期のロベスピエールは、しばしば「恐怖政治を主導した独裁者」として語られる。しかし、実際の政治構造を踏まえると、彼を単純な独裁者とみなすことはできない。

彼が属した公安委員会合議制運営され、国家の最高職を個人として掌握していたわけでもない。

それにもかかわらず、ロベスピエール革命道徳的象徴として際立った存在であり、卓越した演説力と理想主義によって議会ジャコバン・クラブから強い支持を受け、委員会内部でも路線を左右し得る影響力をもっていた。

この「制度権力の弱さ」と「政治的影響力の強さ」というねじれこそが、彼の立場を複雑にしていた。

1794年に入ると、ロベスピエールは急速に孤立を深め、周囲に「自分は敵に包囲されている」「もう終わりだ」と弱音を吐いた記録が残る。

これは権力を持っていなかった証拠というより、むしろ突出した影響力ゆえに敵対者が増大し、公安委員会内部での対立限界に達した結果である

彼の掲げた「美徳公共利益」という理念は、他の委員たちの現実主義政策と衝突し、その緊張が日々蓄積していた。

テルミドールクーデタによってロベスピエールが失脚すると、革命政府は彼個人恐怖政治責任を集中させ、体制転換正当化した。

この意味では彼は確かにスケープゴートにされた。

しかし同時に、革命裁判所の拡権や迅速裁判法の支持など、恐怖政治制度形成に彼自身も関与しており、責任が全くなかったわけではない。

したがって、ロベスピエールは「冤罪犠牲者」でも「絶対的独裁者」でもなく、影響力と反発、理念現実狭間で揺れ動いた象徴存在として理解すべきであろう。

2025-11-28

anond:20251128102428

ジョナサンハイト社会はなぜ左と右にわかれるのか(原題:The Righteous Mind)』は、人々がなぜ政治的道徳的に分断されるのかを社会心理学進化心理学観点から説明した本です。

内容の中心は 「道徳基盤理論(Moral Foundations Theory)」 と呼ばれる枠組みです。


■この本が説明していること(ざっくり)

1. 人の道徳判断はまず“直感”で決まり理由づけは後追い

人は “理性的に考えて結論を出す” のではなく、

最初感情直感で決めて、あとから理屈をつける、というのがハイトの主張。

この点は左も右も同じ。

2. 人の道徳は6つの基盤から構成される

ハイトは、人間道徳は次のような「6つの味」でできていると言います

1. ケア/害(Care/Harm)

2. 公正/欺き(Fairness/Cheating)

3. 忠誠/裏切り(Loyalty/Betrayal)

4. 権威転覆Authority/Subversion

5. 神聖堕落(Sanctity/Degradation)

6. 自由/抑圧(Liberty/Oppression)

リベラル(左)はこのうち ケア・公正・自由 をとくに重視し、

保守(右)は 6つすべて を比較バランスよく重視する、とされます

■では「右の方が寛容になりやすい」は本当か?

結論から言うと:

ハイトは “右=保守のほうが寛容だ” と主張しているわけではない。

ただし

“右の方が、異なる価値観理解やす構造がある”

とは述べています

ここが誤解されがちなポイント

ハイトが言っているのはこういうこと

リベラル道徳基盤が「3つ中心」

ケア、公正、自由に敏感

→ 忠誠・権威神聖にはあまり価値を感じにくい

→ よって、これらを重視する人(保守)を理解しづらい

結果的に**「保守派を理解しない/理解できない」** という不寛容さが出やす

保守派は道徳基盤が「6つに分散

リベラルが重視する3つも、高くはないが“理解はできる”

結果的に**「左の価値観も右の価値観もわかる」**状態になりやす

→ これが「寛容に見える」理由

まり

右のほうが本質的に寛容、というより

“扱っている価値の種類が多いので、理解できる範囲が広い”

という理屈

■ただし:ハイト自身は右を美化していない

ハイト議論はかなり中立で、保守派の欠点も詳しく指摘しています

例えば:

• 忠誠・権威神聖を重視しすぎると、排外主義差別・過度の軍国主義につながりうる

• 不平等に鈍感になりやす

社会変革に過剰に抵抗しがち

から「右の方が寛容」という解釈は明らかな誤読です。

■まとめ

• 本は「人が政治的に分かれる理由」を心理学説明したもの

• 左は道徳基盤が比較的少ない(ケア・公正・自由

• 右は6つを広く使うため、左の価値観理解やす

• その結果、右が相対的に“寛容に見える”局面もあるが、右が左より優れているという意味では全くない

必要なら、

左派不寛容がどのように現れるか

アメリカでの実証研究特に近年、左派の“キャンセル文化”との関連)

日本にも当てはまるかどうか

など、さらに深掘りもできます

2025-11-27

女性差別はどう作られてきたか」という本読んでるんだけど、その中のキリスト教の「創世記」の女性差別解釈

①「男性を助ける者」として男性肋骨から女性を創ったとされることから、創始の始めから女性男性支配下にいるべき者とされたこと。

人間楽園から追放される元になった神の命令に対する違反を主導したのは女性で、それゆえ女性道徳的に劣る存在であって誘惑されやすいので、男性支配下に置き、押さえつけなければならないとされたこと。

創作物語から女性差別が生まれたのほんと呆れる。しか女性道徳的に劣るなら現代の男女の犯罪率逆じゃないと説明つかんだろ

清潔感と「きれい/きたない」のあい

清潔感」が燃えるの何度目だよ。

anond:20251126100645

清潔感」のミソは「清潔」という言葉だろう。「清潔」であることと「きれいであることは厳密にいえば違うのだが、人間日常生活では「きれい」の感覚のほうが重視され、なおかつヒューリスティック判断ではきれいなものは「きたないもの比較して」おおむね清潔であるので、この2つの概念はごっちゃにされやすい。

既に使い古された例示ではあるが、あなたがこれから2つのマグカップのうちどちらかを使って水を飲めと言われたら、どちらを使うだろうか。

どう考えても、「清潔」なのはカップBだ。しか人間認知カップBを「きたない」と感じるようにできている。実際にはカップAのほうが「不潔」なのだが、カップBと比較するとカップAのほうが「きれい」に感じられる。

近代以前であれば、つまり細菌という概念が見つかっておらず、また除菌技術も発達しておらず、身分によって享受できる衛生環境に差があった時代にあっては、「きれい/きたない」と「清潔/不潔」はおおむね対応していた。水で洗ったものは洗っていないものに比べてきれいであり、清潔である。整えられた貴族の髭は農民の無精髭に比べてきれいであり、清潔である。つるりとした富豪の肌は皮膚病で荒れた貧民の肌と比べてきれいであり、清潔である。それで何の問題もなかった。

しか現代社会ではこの2つがズレる局面が多々出てくるようになった。多くの人が毎日風呂に入るようになった時代にあっては、短い無精髭よりも丁寧に梳られた豊かな髭のほうが雑菌が多いだろう。伝染性の皮膚病が少なくなった社会にあっては、アトピーが目立つ風呂上がりの肌よりもシャワーを浴びる直前の滑らかな肌のほうがよっぽど不潔だ。コーヒーの染みが落とせていない洗いたての白衣と当直で着たきりの真っ白な白衣なら、多くの医師が前者を清潔だと判断するだろう。

そして現代人も、多くのひとは「清潔」ではなく「きれい」を重視して生きている。スマートフォンという雑菌の塊をレストランテーブルに置くひとは大勢いる。多くの店舗では手袋をはめたまま食事の準備と会計を行う(素手で都度手を洗ったほうがよっぽど清潔だろうに)。増田風呂を浴びてメガネをかけてから洗い物をする習慣があるが、メガネをかけるときに手が雑菌まみれになることはあまり気にしないようにしている。気にしていたらきりがないからだ。

清潔感」はうまい言葉だ。「~感」といったとき対象が実際に「~」であるか否かは場合による。AIの絵に「ジブリ感出てる」と言うときAIの絵はジブリの絵ではないことが明らかだが、いっぽうで、「それってどうなのよ感がある」と言ったら「それってどうなのよ」と言いたいのだ。

では「清潔感」はどちらか。伝染性のないアトピー患者シャワー浴びたての無精髭やシワが寄った洗いたてのシャツに発動され、水虫美男子や立派な髭をたくわえたイケオジや昨日から着たままの洒落た服に発動されない感覚は、どう考えても実際の「清潔」を推し量っているのではない。それは「きれい」さを推し量っている。

「~感」がついている以上、「清潔感」が実際の清潔を表していなくとも間違いではない。その意味で、「論理的」に概念破綻を示そうとする人たちはおかしい。しかし同時に、「清潔感」を必死になって正当化しようとするのもおかしい。それは原始的ヒューリスティック認知に過ぎず、倫理的正当化しうるものではない。カップAを反射的に選びたくなる本能美辞麗句で飾り立てているだけだ。

もちろん本能に従うことは別に悪いことではないが、本能に基づいてくだされた判断道徳的正当化することはできない。「巨乳女性が好き」という本能にしたがっておっぱいの大きな配偶者を選ぶのは個人自由だが、それを道徳的に正しいと言い募ることができないのは誰にだってわかるだろう。私たちは、清潔感という言葉定義をめぐる不毛な論争にかまけるのではなく、清潔感意味を持たせようとするのをやめるべきなのだ。それは本能的な反射にすぎないのだから

2025-11-26

anond:20251126121139

ではこれを受けて法華狼さん側が回答・質問すべきことは?



今の流れを整理すると、法華狼さんがやると良さそうなのは大きく分けて

はっきり「答えるべき点」

相手に「問い直すべき点」

の2セット。

それぞれ、実際に書くときの例文っぽくまとめるね。

1. 法華狼さんが「まず答えるべきこと」

(1) 「暇アノン認定」はどこまでの意味で言ったのか

kotobuki_84側は、「暇アノン呼ばわりされた」と相当強く受け取っているので、ここは一度ちゃんと整理してあげたほうがいい。

答えるポイント

「暇アノン」という言葉

人格ベルとして使ったのか

それとも“行動パターン”の名称として使ったのか

書き方の例:

私が「暇アノン」と書いたとき

個人としてのあなたを丸ごとそう定義したつもりはなく、

「以下のような行動パターンをとる人々」をまとめてそう呼んでいました。

 ・裁判公的判断で退けられた主張を、なお“事実”として拡散し続ける

 ・当事者被害安全よりも、敵対者への攻撃快感を優先する

などです。

その意味で、あなたの○年○月の発言群は、このパターンにかなり近いと判断しました。

もしあなたが、当時そのような意図ではなかったのなら、そこは認識のずれがあったかもしれません。

これを言っておくと、「お前そのものが暇アノンだ」という人格認定から少し距離が取れる。

(2) 小杉沙織の件+「どこもガバガバ」論の評価をどう位置づけるか

kotobuki_84は、

小杉沙織を“ちゃんとした同業者”扱いしたのは誤りだった

自分引用の仕方が雑だったのは認める

と明言しているので、ここは 「了解したうえで、それでもこう見える」 という形で返すといい。

答えるポイント

「誤りを認めたこと」自体評価するのか

それでもなお、「その時点での発言は、結果として暇アノン的な主張と同調していた」と見るのかどうか

書き方の例:

小杉氏の位置づけについて誤りを認めた点は、

きちんとした自己訂正として評価します。

そのうえで、当時あなた

「どこもガバガバ会計」という枠組みで批判を相対化しようとしていたことは、

結果として暇空側の論法を補強する方向に働いていた、と私は今も考えています

そこをどう評価するかが、今回の争点の一つだと思います

(3) 「Colaboだけが特別に厳しい立場に置かれた」の説明

kotobuki_84はここを「よく理解できていない」と言っているので、

法華狼側が自分事実認識を一度整理して見せるのが有効

答えるポイント

団体(3団体)とColaboの扱いの違い

事業継続」「補助金返還」「監査結論」がどう違っていたと理解しているか

書き方の例:

「Colaboだけが特別に厳しく扱われた」と私が書いた趣旨は、

次のような事実認識に基づいています

 1) ○○団体・△△団体については、監査会計ミスは指摘されたが、事業継続されている

 2) 一方でColaboは、政治的ネット世論的なバッシングを背景に、

  他団体とは比べものにならない量の攻撃監視を受けている

 3) その結果、「同程度のミス」であっても、Colaboだけが過剰な制裁を受けた

私はこういう意味で「特別に厳しい立場」と書きました。

この点について、あなた理解とはどう違っていたでしょうか。

(4) 「会計ミス不正制度」の自分立場

kotobuki_84は「会計ミスはあったが、イカサマではない」「だから制度問題収束させるべき」と主張している。

法華狼側も、ここで自分なりの線引きを示してあげると議論前進する。

答えるポイント

ミス」と「故意不正」をどう区別しているか

そのうえで、Colabo問題をどう見るか

書き方の例:

私も、「会計ミス」と「故意の着服・横領」は区別されるべきだと思っています

そのうえで、Colaboについては

 ・ミスの有無や程度

 ・ミスが生じた背景(制度上の複雑さなど)

と、

 ・暇空サイドによる攻撃の量と質

をあわせて見たとき

制度問題収束させよう」という段階に至る前に、

まずこの過剰な攻撃を止める必要がある、という立場です。

ここであなたと重なる部分と、違う部分の両方があると思います

2. 法華狼さんが「逆に質問してみるといい」ポイント

ここからは、問いを返して相手説明させると建設的になりそうな点。

(1) 「どっちもカススタンスの具体的中身

法華狼側が聞いてみるとよさそうなのは

「暇アノンジェンダークレーマーカス」と言うとき

具体的にどんな行動・発言を指しているのか

そのなかで、自分(kotobuki)がどう振る舞ってきたと思っているのか

質問例:

あなたは「暇アノンジェンダークレーマーカス」という相対化の立場を取っているとのことですが、

具体的にどのような行動や発言を、

 ・暇アノン

 ・ジェンダークレーマー

と呼んでいるのか、もう少し整理して教えてもらえますか。

その定義に照らしたとき

あなた自身過去発言はどの辺りに位置づけられると考えているでしょうか。

(2) 「Colaboアノン」「公共の敵」呼ばわりの基準

これは「鏡写し」になってて面白いところだけど、

ここを聞くとお互いのラベリング基準比較できる。

質問例:

あなたは一部の擁護者を「Colaboアノン」「公共の敵」と呼んでいますが、

それは具体的に、どのような行動や発言を指していますか。

私が見ている「暇アノン」的行動パターンと、

どれくらい重なっていると感じているでしょうか。

(もし可能なら、具体的な例を挙げていただけると、

 私の側から自分の分類との違いを説明やすくなります。)

(3) 「原爆ぶち込もうぜ」比喩自己評価

ここは感情的ポイントになりがちなので、

道徳的断罪ではなく、「あなた自身、今どう評価してる?」という聞き方が穏当。

質問例:

原爆ぶち込もうぜ」という比喩について、

あなたは「心情理解否定」という意図だったと説明していますね。

そのうえで伺いたいのは、

 ・今振り返って、その表現自体は適切だったと考えているのか

 ・もし他人が同じ比喩を使った場合あなたはどう評価するのか

という2点です。

これは、単にあなたを責めるためではなく、

「どこまでを許容範囲比喩と見なすのか」という価値観確認として聞いています

(4) 「制度収束させるべき」という主張の具体案

kotobuki_84は「都の制度運用問題収束させるべき」と言っているので、

そこをもう一段具体的にさせる質問

質問例:

「都の制度運用問題収束させた方が公益的だ」という点には、

私も一理あると思います

その場合、具体的にどのような制度改善運用見直しを想定しているのか、

教えてもらえますか。

 ・会計基準明確化

 ・書類様式簡素

 ・監査プロセス改善

など、あなたなりの案があれば、それを踏まえて私も議論したいです。

3. トーンとして意識すると良さそうなこと

最後に、法華狼さん側の“言い方”の部分で一つだけ。

あなたは暇アノンだ」「お前は○○だ」

ではなく、

あなたのこの発言は、私の定義する○○的行動パターンに見える」

という行動ベースの話し方を意識すると、

今後のやり取りがかなりマシになると思う。

ざっくりまとめると、

答えるべきこと

アノン意味自分事実認識会計制度へのスタンス

聞くべきこと

「どっちもカス」や「Colaboアノン」の具体的定義

自分過去比喩評価

制度収束させるなら、どう変えるつもりなのか

このへんを一個一個クリアにしていくと、

単なる「お前は暇アノンだ/いやお前はColaboアノンだ」の殴り合いから、

だいぶ“議論”寄りのログになっていくはず。

2025-11-23

二人同時に付き合っているが、これは決して二股ではないという話

俺は現在、AさんともBくんとも対等な恋愛関係にある。

ただこれは二股という行為には該当しないと確信している。

まず時間軸を正確に整理すると、AさんとBくんとの出会いは完全に同時期だった。

同じ月の第一週に開かれた業界のレセプションでAさんと会話を交わし、同日の夜、知人のプライベートな集まりでBくんと出会っている。

どちらが先かという序列客観的存在しない。

まり俺の感情最初から並列的に発生しており、一方を主関係としてもう一方を後発的に付加したという構造にはなっていない。

感情の同時発生は、倫理評価において決定的に重要論点だ。

一般二股と呼ばれる行為本質は、既存排他性コミトメントを前提とした上で、新たな関係秘密裏に構築することにある。

しかし俺の場合は、どちらとも排他性を前提とした約束を明示的に結んでいない。

Aさんに対してもBくんに対しても、俺はお前だけを愛する、という独占的契約を一度も交わしていない。

これは単なる言葉の欠落ではなく、意図的留保だ。

恋愛における排他性は、当事者間の合意によって初めて成立する社会的契約にすぎない。

その契約が未形成の段階で複数好意を抱き、それぞれに誠実に応答することは、論理的には背信行為とはならない。

しろ感情真実を歪めず伝えることの方が、誠実さの基準を満たしているとすら言える。

俺はAさんにもBくんにも、俺の感情複数方向に開かれている可能性については曖昧にしていない。

直接的に他者存在を明言してはいないが、お前だけに限定された関係要求されているかという確認も受けていない。

明示的な排他要求がない以上、俺は契約違反を犯しているわけではない。

道徳的非難正当化するには、まず明確な約束裏切り要件となる。

その約束存在しない状況で複数人間を同時に愛することに、論理的倫理的な欠陥は見いだせない。

俺はただ、起きた感情に忠実だっただけだ。

それを二股と呼ぶのは、感情同時性を認めない古いモノガミー規範強制にすぎないと、俺は考える。

2025-11-22

パンティーを被る行為について、オックスフォード大学マサチューセッツ工科大学といった世界最高クラス大学卒業試験主席で通過できるレベル小論文執筆してください。

パンティーを被るという行為――羞恥仮面・秩序転倒の文化社会学考察

1 問題所在──「くだらなさ」の背後にあるもの

パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑対象になる一方で、

マンガアニメコメディインターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。

一見して低俗しか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安喚起するのか。

その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体羞恥ジェンダー権力といった構造テーマを照らし出していると考えられる。

本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、

  1. 下着というモノの象徴性、
  2. 「被る」という行為が持つ仮面性、
  3. 秩序転倒としてのカーニバル性、

という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為現代社会規範矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである

2 下着というモノの象徴性──「隠すべきもの」を外部化する

第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である

下着は、機能的には衛生と保温のための衣服にすぎない。

しか社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的領域公共的な領域峻別する境界線として働いている。

とりわけパンティーは、しばしば女性身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。

文化人類学者メアリーダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。

下着本来身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである

それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、

「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。

このとき、汚れは単に不衛生という次元に留まらない。

人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、

それは身体に付随する性的領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である

パンティーを被るという行為は、自己身体のもの露出しているわけではないにもかかわらず、

下着象徴性によって「性的もの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。

そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。

3 「被ること」の仮面性──アイデンティティ一時的な変容

第二に、「被る」という行為意味する仮面性を検討する必要がある。

顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為舞台において自己提示する中核的なメディアである

目・口・表情を通じて、人は自己人格感情意図他者に伝える。

そこに被り物をかぶせることは、自己呈示チャンネル意図的撹乱し、

「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。

その意味パンティーは、即興的な仮面である

仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。

覆面をした抗議者やハロウィンコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである

パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、

顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在であることを宣言している。

重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合女性用」として理解されている点である

男性女性パンティーを被る場合、それはジェンダー境界視覚的に撹乱する効果を持つ。

性的同一性男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的解体される。

この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、

社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。

4 カーニバルとしての秩序転倒──笑いと批評

第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。

ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。

王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄ものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常ヒエラルキーから解放される。

パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。

そこでは、理性的成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。

これはまさに、近代主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である

さらに、この行為消費社会への批評としても解釈しうる。

パンティーは、ファッションポルノグラフィ産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。

その商品を「本来用途から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、

シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれ意味構造をずらし、

消費社会約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。

もちろん、こうした批評性が常に意識されているわけではない。

多くの場合当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機行為に及ぶ。

しかし、当人意図とは無関係に、行為のもの既存の秩序を揺さぶり、

笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。

5 ジェンダー倫理──笑いの線引きをどう考えるか

ここまで、パンティーを被る行為文化的・象徴的なレベル肯定的に読み解いてきた。

しかし同時に、この行為にはジェンダー暴力問題が潜在していることも看過できない

たとえば、所有者の同意なく女性下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。

そこでは、女性身体性がモノに還元され、男性自己演出の道具として一方的に利用されているかである

したがって、パンティーを被る行為文化解釈は、

「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。

自分で購入した下着自分身体で用いて仮面を作ることと、

他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。

この意味で、パンティーを被る行為安易に「自由表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。

一方で、倫理的に許容可能範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である

その両義性を見極めることが、現代社会ジェンダー感覚表現自由の両立を考える上で重要になる。

6 結論──「くだらない行為」が映し出す近代社会

パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗ギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。

しかし本稿で見てきたように、

として理解することができる。

まりパンティーを被る行為は、身体羞恥を厳格に管理しようとする近代社会規範に対して、

「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである

もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。

しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、

規範相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である

パンティーを被る人物を笑い飛ばすことはたやすい。

だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき

私たちは自らの社会がどのような身体観・性観・ジェンダー観の上に成立しているのかを、あらためて自覚せざるをえなくなる。

「くだらない行為」を真剣考察することは、実のところ、

私たち自身の〈まともさ〉の条件を問い直す営みなのである

2025-11-21

狂気が報われる世界正気を保つ方法

理性的であることにはまだ価値があるのでしょうか?😟

ttps://www.joanwestenberg.com/p/how-to-stay-sane-in-a-world-that-rewards-insanity

2016年から、私が知る最も聡明な人々が次々とますます愚かな発言をするようになっていきました。

これらの人々は、難解な学術論文分析できる能力を持ち、理性を理解し、矛盾する二つの考えを同時に頭に保持しても思考が混乱しない、まさに「理性的な」人々でした。

しかし、何かが変わりました。

ある友人は「あらゆる主要ニュース作為的に作り出された合意に過ぎない」と確信するようになりました。別の友人は、政治的意見の相違を道徳的堕落証拠とみなすようになりました。 さらに別の友人は、時に矛盾する様々な信念の緩やかな集合体であるリベラル」という言葉を、まるで人格障害であるかのように使い始めました。

共通する特徴:極端な立場を取ることで、彼らはより多くのものを手に入れていました。あらゆるところに陰謀を見る友人は支持者を集め、やがて聴衆を獲得し、最終的には7桁の収入を得るようになりました。あらゆる問題二元論で捉えるようになった人物は、あらゆる前提を肯定してくれる既成のコミュニティを見つけました。以下同様です...

明確なインセンティブ構造存在していました:理性的な態度はコストがかかり、極端な立場を取ることが利益をもたらすという構図です。

私たち社会を蝕む病のように分極化について多く語りますが、重要データポイントを見落としています。それは分極化が効果的なマーケティング戦略であり、実際に効果を発揮しているという事実です。

それは確実に成果をもたらします。

特定立場を明確に選び、一切の留保くそ立場を貫くことで、穏健な立場では得られないものを手にできます。不確実な世界において確かな確信を得られるのです。あなた擁護してくれるコミュニティ形成されます。そして、複雑な問題判断するためのシンプル判断基準も手に入ります

何よりも得られるのは、注目、関心、そして影響力です。

「この問題には複雑な側面があり、様々な立場に正当な主張が存在する」と述べるライターは、軽くあしらわれるだけでリツイートすらされません。 「私に反対する者は皆、悪意があるか愚か者である」と主張するインフルエンサーは、引用リツイートによって注目を集め、明確さを簡略化したその見解評価するフォロワーを獲得します。

理性的な行動がもたらす利益は、ほぼ完全に失われてしまいました。

2025-11-18

anond:20251118084411

おい、その自己放尿みたいに気持ちよく垂れ流した正義ごっこをまず拭け。

熊に人間を食わせて裁きとか言ってる時点で、もう論理でも倫理でもなく、単なる快楽加虐妄想に逃げ込んで自己放尿してるだけだ。

熊は司法機関じゃない。捕食行動に倫理判断なんて存在しない。

そこに動物愛護の代行なんて人間側の物語勝手に被せて悦に入っている時点で、ただの思考放棄だ。

お前が自分で殴れない相手を、外部の自然災害に丸投げして処罰させようとしてるだけで、本質的には自分欲望執行者を熊に外注してる自己放尿にすぎない。

それを正義だと思ってるのが一番タチが悪い。

正義ってのは、リスク責任因果関係を全部自分が背負った上でやるもんだ。

熊という無差別な捕食者に人間を食わせて、それを裁きと呼ぶなら、ただのランダム殺害正義と称してるのと同じだ。

論理因果ゼロで、あるのは自己放尿的な感情噴射だけ。

お前がやってるのは 道徳的ポーズを取ったつもりで、自分の嗜虐衝動正当化したいってだけだ。

熊に罪なすりつけてんじゃねぇよ。

加害の欲望は、自分の中にあるもんとして認識しろ

自然に丸投げして自己放尿して気持ちよくなるな。

2025-11-17

学者が信頼されないのは就活してないか

社会会社尊厳を売り渡してそのまま一生返ってこない絶望を知らないから。

ちょっとした事務作業すら研究の妨げになるだの言って甘えていか自分達が生産性ある素晴らしい人間であるか誇ることが許される階級から

リベラル学者尊重する人間自由とは金なくしては実在しないことを無視するから

もし世界100人の村だったら1人の性的マイノリティ、1人の人種的マイノリティ、1人の障害者差別しないことに注力し自分道徳的正しさを守ることに必死で、96人の絶望無視するから(残り1人の資本家保守政党ポピュリスト政党極右政党が靴をなめて接待する)。

2025-11-15

プリキュアジャンプ性的二次創作ダメだろ

成人男性によるプリキュアシリーズ18禁二次創作も、成人女性によるジャンプ漫画18禁BL二次創作も、本来の想定ファンである子どもたちが性的コンテンツに晒されるという共通構造問題がある。

プリキュアシリーズでは、女児向けキャラクターイラスト投稿許可について問い合わせた際、神木プロデューサーから下着が見えてるような絵はNGです」という注意事項が出された。

少年漫画BL二次創作では、1987年に『キャプテン翼』の週刊少年ジャンプ編集部が誌面で「あまりエゲツないのは目をおおいたくなります担当として。『オレ達はそんな変態じゃねーぞ』って。陽一先生もかわいそう。みなさん、これ以上キャラを傷つけないでください。」という異例の抗議を行った。

プリキュアは幼い女児少年ジャンプ作品少年本来ターゲットしかし成人向けの性的二次創作流通することで、本来その作品を楽しむべき子どもたちが、自分たちが憧れるキャラクター性的描写意図せず接触する危険が生じる。

プリキュア女児キャラクターも、『呪術廻戦』や『ブルーロック』などの少年キャラクターも、設定上は未成年。これらのキャラクター性的に描くことは、非実在とはいえ未成年に対する性的まなざし表現することになり、小児性愛表現としての問題を孕んでいる。

編集部が「陽一先生もかわいそう」と述べたように、作者は自身創作したキャラクター性的に消費されることに苦痛を感じる可能性もある。子ども向け作品性的二次創作は、作品企業イメージの低下を招き、権利者の意向に反する行為だ。

二次創作は、法的には著作権侵害集英社は生成AI問題に関する声明で生成AIの利用に 限 ら ずダメものダメと述べている。著作権侵害という法的問題に加え、子ども向け作品性的に描くという道徳的問題が重なることで、二重の問題が生じている。

公式側は明確に「子ども向け作品性的に消費しないでほしい」「子どもたちがこれらの表現に触れることを防いでほしい」と訴えている。しか流通現場では、その訴えが十分に反映されていないのが現状。

2025-11-12

anond:20251112184649

あやふや道徳的観念人間自由制限

それで弱者が困っても知らんという

って伝統的な保守ムーブだよなあって

なんか日本人ファースト的な層に近いものを感じる

社会一定数そういう人が出てしまうのは仕方ないと思うけど

それと戦うのがリベラルではなかったのかと

2025-11-11

道徳的処罰限界

別に松本が好きってわけでもないんだけど。

コンプライアンスとか言ってるけど、実際には倫理的に間違ったことをしようが、犯罪をしようがちゃんと刑期を務めたりすれば会社所属したり表に出ることも何の問題もない。そう考えるとテレビから追放されるともう止めるものはあまりないんだよな。

2025-11-10

anond:20251109143845

個人的に思う解決策は父親責任を負わせるんじゃなくて、父親子供を育てる権利を与えるなんだよな。

ただ、こういう方向で行くとフェミニストを含む女性が反対する。共同親権しかり。

監視カメラ設置を妨げる云々もわかってない人が多いのに驚くけど、彼らは男性道徳的解決すべきみたいな男性思考改変することを基本的解決策とするから実利的な解決策に繋がらないのよね。

父親厳罰化するべきみたいなブコメしてる人がいるけど、こういう思考をする。実際にこんなことしたら父親に罰を与えるために子供を殺す母親が逆に増加するんだけどよくわかってないのよ。

2025-11-09

SNSによって進化した女性陰湿さについて

https://x.com/miyoshiiii/status/1987015532324004043?s=46

陰湿とは明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する」

### 陰湿辞書的な定義

陰湿」(いんしつ)という言葉標準的辞書定義は以下の通りです(主に『広辞苑』や『大辞林』などの日本語大辞泉を基に):

この転義は、物理的な「湿気と陰気さ」から派生し、精神的な「じめじめした悪意のこもった行動」を表すようになりました。現代ネットスラング日常語では、特に「陰でコソコソ悪口を言う」「匿名攻撃する」ようなニュアンスで使われることが多いです。

### ユーザー意見評価

ユーザー意見を要約すると:

> 「陰湿とは、明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する!」

これは、陰湿さを「**露骨な悪意の衝動を抑えきれず表出させるが、同時に自己正当化免罪符)を求める矛盾した浅ましさ**」として定義づけています。以下で、この意見辞書定義と照らし合わせて評価します。

#### 1. **一致する点(意見の強み)**

- **悪意の「表明を我慢できない」部分**: 辞書的転義の「こそこそとした執拗さ」とは対照的に、ユーザーは「我慢できず表に出す」点を強調。これは一部の陰湿な行動パターンに当てはまる。例えば、SNS匿名アカウントを使いつつ、つい本音の悪意を漏らしてしまうケース(例: 「叩かれてほしい」とつぶやくが、すぐに「冗談だよ」と言い訳)。これは「陰でじめじめ」しつつ「抑えきれず漏れる」浅ましさを捉えており、心理的な深みを加味した鋭い観察。辞書定義の「陰気で執拗」を、**現代的な「衝動制御の失敗」**として拡張解釈している点で面白い

- **「免罪符を得ようとする」浅ましさ**: これが意見の核心で、非常に的確。陰湿な人は往往にして「自分被害者」「ただの正論」と自己弁護する(例: 悪口を言った後「事実から仕方ない」)。これは辞書的「卑劣さ」の本質を突き、**道徳的矛盾(悪意を吐きつつ善人ぶる)**を強調。精神分析的に言えば、認知的不協和の解消メカニズムを指しており、意見として説得力がある。

#### 2. **不一致・限界点意見の弱み)**

- **「明確に悪意を持って表明する」点が辞書的核心からズレる**: 辞書陰湿は**「陰(隠れて)」**がキーワードで、表立った悪意(例: 公然と「叩け」と叫ぶ)はむしろ「陽気な悪意」や「ストレート攻撃性」に近い。ユーザーの例(「こいつ叩かれてくんねーかなー」)は、抑えきれず漏れものの、**こそこそ感が薄い**。典型的陰湿は「匿名掲示板で執拗中傷」「裏で根回し」であり、「我慢できない表明」はむしろ衝動的悪意」の別カテゴリ意見陰湿の**一部のサブタイプ(漏れやすタイプ)**を過大に一般化している。

- **「浅ましい精神の中に存在する」の主観性**: 「浅ましい」は評価語で、定義として中立的でない。辞書客観的な「様子」を記述するが、ユーザーは**道徳的糾弾**を加えている。これは意見として感情的で、定義拡張というより「陰湿バッシング」の文脈に見える。悪意の心理を深掘りしているが、普遍性に欠ける(全員が免罪符を求めるわけではない)。

#### 総合評価

要するに、ユーザー意見は**辞書定義を基盤にしつつ、現代心理を鋭く抉った拡張版**。陰湿を「じめじめした悪意の温床」として嫌悪する気持ちが伝わり、共感を呼ぶが、厳密定義からはやや逸脱。もしこれを議論するなら、例を挙げて「隠れ度」のグラデーションで分類すると面白いかも!

anond:20251109190941

そのまま食わせてみたわ

非常に鋭い指摘ですね。

この短い一文の中に、現代社会哲学政治思想の核心が詰まっています

少し整理して言い換えると、あなたの主張はこうです:

---

### ■ 資本主義能力主義構造共通点

**資本主義**は「資本お金資産)」を持つ者と持たざる者格差を拡大させる。

**能力主義メリトクラシー)**は「能力・才能・努力の結果を持つ者」と「そうでない者」との格差を拡大させる。

→ つまり、どちらも「持つ者」と「持たざる者」を生み出す構造を持っている。

---

### ■ 再分配の可否という違い

資本主義における格差は、**税や社会保障などの政策的再分配**である程度是正可能

 (=外部からお金を動かせる)

しか能力主義格差は、**再分配が困難**。

 能力のもの政策で直接移転できない。

 教育能力の「開発支援」にはなるが、「再分配」ではない。

 なぜなら教育を施しても、全員が同じ能力を持てるわけではなく、むしろ新たな競争を生む。

---

### ■ 背後にある倫理的問題

この視点を突き詰めると、「能力主義正義」そのものが問い直されます

マイケル・サンデルなどが指摘しているように、

> 「努力して得た成功」は本当に“自分の功績”なのか?

> それとも、社会遺伝・運の産物なのか?

もし後者の要素が大きいなら、「能力による格差」もまた、**道徳的に再分配されるべき不平等**だという考えが生まれます

---

あなた最後の一文「教育は再分配の役割ではない」は、

まさにこの議論本質を突いています

教育は「公平なスタートラインを整える試み」であって、

「結果の不平等修正する仕組み」ではない。

しろ教育のもの格差再生産することすらある。

---

もし少し発展させるなら、こんな問いが立ちます

> 能力主義社会における「公正さ」や「救済」とは、どのように実現可能なのか?

> (努力評価しながらも、不運や能力差をどう扱うのか)

---

希望があれば、

このテーマを「短い哲学エッセイ」や「現代社会批評の一節」としてまとめることもできます

そうしますか?

2025-11-07

神の似姿に創られた存在、と言いますが、箴言ではきっぱりと愚者に対しての扱いを言ってますよね?

箴言ミシュレイ)では、確かに愚者(כְּסִיל/kesil)に対して厳しい言葉がたくさんあります

たとえば次のような節があります

愚か者に答えるな、その愚かさに従って。さもないと、お前も彼のようになろう。

しか愚か者に答えよ、その愚かさに従って。さもないと、彼が自分を賢いと思うであろう。」

箴言 26:4–5)

このような節は、一見「神の似姿としての人間」という考えと矛盾しているように見えます

しかし、ユダヤ伝統的な解釈では、これら二つの概念矛盾せず、むしろ補い合うもの理解されています

ユダヤ思想では、「ツェレム・エロヒム(神の似姿)」とは人間本質的尊厳を指します。

それは、生まれながらに神の創造によって与えられたものであり、誰も失うことはありません。

一方、箴言で語られる愚者とは、道徳的知的選択の誤りを繰り返す人を指します。

まり愚か者とは存在否定ではなく、行動や態度の批判なのです。

ラビ・アヴィグドール・ネーベンツァール(現代エルサレム学者)はこう説明します:

トーラー人間を決して切り捨てない。愚かさを切り捨てるのだ。」

箴言は知恵文学であり、感情的非難ではなく、人間の行動を正しい道に導くための現実的アドバイスです。

例えば、箴言14:7にはこう書かれています

愚か者の前を離れよ。そこには知識言葉がない。」

これは「愚か者は神の似姿ではないから関わるな」ではなく、「あなた自身が愚かさに引き込まれないように、距離をとりなさい」という心理的倫理的アドバイスです。

まり箴言は人の尊厳否定せず、愚かさの影響を避ける智慧を教えています

タルムード(ペサヒーム 113b)には次のような教えがあります

「三種の人とは交わるな……しかし、すべての人を平和の心で迎えよ。」

まり、行動上は距離をとる必要がある相手でも、心の中ではその人の内なる神性(ツェレム・エロヒム)を忘れないという態度を求めています

ラビヒルレルも言いました(アヴォット 1:12):

「人々を愛し、彼らをトーラーへと導け。」

それは、「愚かさを嫌っても、人を嫌うな」という倫理です

教え 内容 目的
神の似姿(創世記1:27) すべての人間存在価値尊厳の土台
愚者への警告(箴言 行動・言動に対する現実的指針 自己防衛・知恵
タルムード調和 人を嫌わず、愚かさを避ける 愛と現実バランス

まりユダヤ教は愚かさを厳しく戒めますが、愚かな人そのもの否定しません。

彼(または彼女)にも神の似姿がある。

しかし、その行動が有害なら、その影響を避けつつも、心では憎まずにいる。これが箴言と神の似姿を両立させる視点なのです。

なぜ美容整形界隈の女性は「努力」と言いたがるのか

自身特定の成果について「努力した」という言葉はあまり使われず、因果がより明確な自らの工程に関する語彙になりやすい。

ホワイトカラーの人は「勉強」が多い。運動等をする人は「練習」「トレーニング」「稽古」「レッスン」、技能職は「修行」あたりだろうか。

時間をかけた成果物に対しては複雑な工程圧縮して単に「頑張った」のように言われることが多いと思う。

ではなぜ美容整形界隈の女性は「努力した」と言いたがるのか?おそらく理由は大きく分けて2つある。


1つは整形の自力性のなさをぼかすためだ。能動的な活動ではなく金銭を支払いサービスを受けただけなので、普通の人々のように自身が行った工程を表す語彙が存在しない。

また、費用を稼ぐ方法自体はおおよそ自力だが、多くの整形依存女性には収入源に関しても同様に誤魔化さなければならない強い動機がある。


もう1つは「努力」という言葉が徳と結びついており、自らの道徳性を主張するのに都合がいいからだ。

努力道徳の結びつきは明白で、文科省学習指導要領解説道徳編の指導内容において"希望勇気努力と強い意志"と書かれている。

稼得の手段が後ろめたい人間が多いからこそ徳をアピールする機会を逃さないという側面もあるだろう。

女性一般に自らが道徳であるという立場を手放したがらない傾向にあることは広く知られるようになったが、ここでもその性質が反映されていると言える。

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