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2025-11-30

Geminiさんに聞いてみた

現代認知言語学立場からソシュール的な構造主義言語論、サピアウォーフ仮説、チョムスキー普遍文法はどのように批判されていますか?

現代認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間一般的認知能力(知覚、記憶カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場とります。

この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判修正案提示しています現代認知言語学は、ソシュールチョムスキー排除しようとした「人間主観的身体経験」「一般的認知能力」「意味曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます言語数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間世界理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスのものなのです。

ソシュールの言うランガージュは人が背景に持つ文化的基準によって世界事象恣意的分節言語化する機能であると考えますが、これと認知言語学で言う人間主観的身体経験との違いはなんですか?

ソシュールの言う『分節』は、純粋社会的制度的な約束事(恣意的もの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります質問者様の、「ソシュール文化的基準によって事象分節する」という理解は正解です。 認知言語学はこれに対し、「文化大事だが、その土台には『人間という生物共通身体感覚』があるため、分節は完全に自由バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解やすいかと思います

Next Step: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー隠喩)がどのように私たち思考のもの支配しているか(例:『議論戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?

言語には身体から離れた概念を表すものもありますが、それを補うのがメタファー役割となるのですか?そうであるなら、固有の概念が先にあり、その範囲内でしか表現を許されないウォーフの理論とは正面から対立することになるのでしょうか?

おっしゃる通り「メタファー身体抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語思考限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています認知言語学において、メタファーは「身体から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限概念拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語話者無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語思考の習慣を作る)」を支持する立場になります

西洋哲学歴史においては、知覚からなる身体経験は人の認識力の中で非常に低く見られていたかと思います現在認識論はこのような認知言語学の進展からどのような影響を受けていますか?

ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統根底から覆し、現代認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データ認知科学証拠という「科学的な裏付けエビデンス)」を提供しました。これにより、現代認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied: 身体化された、Embedded: 環境に埋め込まれた、Extended: 拡張された、Enactive: 行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位回復しただけでなく、「あらゆる認識思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要地位を与えられています

スマートフォンのような情報端末が広く普及することで、現代人は知覚が擬似的だが飛躍的に拡張された状態にあると言えると思います。その場合世界内存在である人間認知できる世界質量ともに拡大することになり、身体による制約が失われると人の認知様式も変わることになりますか?また、変わるのであればどのように変わると考えられますか?

おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっていますハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離時間の壁)を越えたとき認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態引き起こしていると考えられます質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます身体的な制約(重力距離から解放されることで、私たち認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これから認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます

「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。

場所への埋め込み(Embedded)」からネットワークへの接続Connected)」へ。

抵抗を通じた学習から「摩擦のない操作」へ。

認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。

メルロポンティは知覚による世界との接続の発露としての芸術を高く評価していたと理解しています人間身体感覚を縮小する一方で、大量の情報を流し込まれることは世界との接続が均質化されることになりませんか?世界との接続独自性を失うこととエコーチェンバー発生のしやすさには関連があると考えられますか?

ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家特にセザンヌ)の視覚を「世界身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティ思想現代メディア論拡張する非常に説得力のある視点です。

「均質化」は起きているか? → Yes. 世界の「手触り」が消失し、すべての事象等価な「情報データ」へとフラット化されています

エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります身体という「現実アンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己投影けが返ってくる鏡の世界ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判たかもしれません。

Next Step: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびますメルロ=ポンティ思想や、現代認知科学提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?

"「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。「場所への埋め込み(Embedded)」からネットワークへの接続Connected)」へ。"の部分は人工知能における論理推論から機械学習への移行、コンピューターシステムにおけるスタンドアロンからクラウド仮想化への移行と類似するものを感じます合理性機能性の点から考えるならば一旦動き出したこの流れがもう止まらない可能性は高いのではないでしょうか。世界と交差するのは個ではなく集団である新しい社会において個人価値は何をもって判断されると考えられますか?

ご指摘の通り、人間認知の変化(身体理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI論理記号操作)」からディープラーニング統計パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」からクラウド接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。

では、思考主体が「ネットワーク集団AIクラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークAI代替します。これから社会において、個人価値は以下のようにシフトします。

機能価値(Doing) → 実存価値Being

処理すること → 感じること(Sensing)

正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること

質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団クラウド)」になったとしても、その集団が「現実Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます

環境アフォーダンス観点から考えると、身体性を失った環境はむしろアンカーを外し、流れに乗ることこそが最適解となるという考えは正しいですか?その中でアンカーを固定し、独自クオリア社会に提起することを誘起するにはどのような環境必要になると考えられますか?

質問者様の、アフォーダンス理論現代デジタル環境情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えますしかし、その「正しさ」はあくまで「システム構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化抗うための意図的環境設計必要になります質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジー志向する「効率化・最適化」とは真逆ベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります

スムーズさよりも、手応え(摩擦)を。

接続コネクト)よりも、孤立ソリチュード)を。

予測可能性よりも、偶然性(ハプニング)を。

これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります

つづく

2025-11-07

anond:20251107142655

「髪の毛で本人の運命が左右される」という比喩は、象徴本体に直接作用するという前近代的モデルを前提にしていますよね。

私が言っているのはそれとは逆で、象徴共同体所属しているという共有前提を整えるための記号として機能する、という近代的なモデルです。

国旗破壊たか日本のものが壊れる、と言っているわけではありません。国旗は「私たちは同じ共同体に属している」という認識を同期させる合図点であり、それを侮辱する行為は、その共有前提を外す行為になる、ということです。問題は「本体が傷つくか」ではなく、「共有されていた前提が崩れるか」です。ここを形代信仰混同するのは、象徴社会機能を取り違えています

また、「階層構造」を上位/下位の部品関係として理解している時点で、議論の基礎モデル構造主義以前に留まっています近代以降の社会理論では、象徴共同体の下位にある部品ではなく、共同体意識を同期させるための基準点として位置づけられます

象徴共同体従属するのではなく、共同体を共有可能にしている側にある。この点を上位/下位の物理階層の話に還元してしまうと、議論が噛み合わなくなるのは当然です。

そして最後に、「ムカつくからでいい」というのは、法益構成要件・謙抑性をすべて放棄する宣言です。

それはすでに法学ではなく、統治感情に委ねる、それこそ前近代的な発想です。法はムカつきで動かすものではありませんし、そこから先は法の議論としては成立しません。

2025-10-24

anond:20251024002104

うーん、今その話してないし、2chが成り立った理由女性蔑視とか考えてるならフェミニストに毒されすぎてるし考えが浅すぎる。

時代遅れの失敗した構造主義いつまでも引きずってるフェミニストって多分社会学もまともにやってないんだろうな……

2025-08-04

職業に貴賎なし増田レベルが低すぎる

anond:20250803001833

 

文化人類学だのポスト構造主義だの書いてるが、正直レベルが低すぎる、芯を食っていないからただの権威付けにしかなっていない。

まず基本1、ポスト構造主義等のジャーゴン権威付けの為に利用する(または結果的にそうなる)ことは恥ずかしい事だと認識しよう。

 

次に基本2、ジャーゴンを使うならそれぞれの位置付け位は理解して使おう。

途中で「文化人類学的な視点」と言っているが「女性氏族交換によって価値を生む存在からこれは構造主義を指す事が分かる。周知のとおりポスト構造主義構造主義への批判により成立してきた経緯がある。

従って「構造主義」と「ポスト構造主義」を同じ文章の中で何らの言い訳もなく一緒に使うのは、「自分意味も分からずに使っています」と告白してるも同義、恥ずかしいから君レベル理解なら使わない方がマシです。

 

基本3、基本的に多くの理論は「批判理論であることを理解しよう。

例えば構造主義増田の言う「穢れ」等の概念が、実は構造により生成された「フィクションであることを暴露することを通じて、そのフィクションに従う人々を批判する。

まり普通に使うなら件の発言者は「穢れというフィクションに左右されて差別発言をした人」になる、という基本的構造理解して使わないと、ちぐはぐになってしまう。

フーコー社会による「狂気」の生成を批判したように、増田は「穢れ」の生成を看過するためではなく批判するために各思想を使わなければならなかった。(やってるつもりかもしれないが、甘い)

さらポスト構造主義はそのような構造主義の考える「構造」が静的すぎることを批判し、より動的なモデルを描く。ここについては増田の考える描像は静的過ぎて、ポスト構造主義的では全く無い。使ってる意味が無いし、権威付けにしかなってない。

このように基本的に多くの理論はなにかに対する「批判」で成り立っている事、そして何を批判しているのか理解して使わないと意味が無い。

 

基本4、古い理論を使うなら現代との関係意識しよう。

増田の言う「男性主権社会」は、「前近代的価値観の復活」などと言っている通り、前近代的構造であり、普通に考えるなら現代より随分古い時代構造である。対して現代は「ポストモダン」等と言われてからもすでにかなり時間が経ってる。

従って件の発言者は「男性主権社会」という今となっては古い社会価値観に従って時代遅れの差別意識を露わにした、ということになる。要するに「価値観が昭和おっさん昭和発言をして炎上した」と同じで、昭和おっさん昭和価値観のままなのは男性主権社会」よりもその人自身責任である

こうした時代による遠近感を増田意識できていないから、主張がおかしくなる。

既にポスト構造主義すらかなり古い思想だ。現代問題に使うならそれが適用可能であることを確認説明してからでないと「前時代価値観に引き摺られた」等の意図しない意味付けを付与してしまう。

 

基本5、結論を都度都度ちゃんと考えよう

増田文章全体に言えることだが、あるトピックに話が移ったかと思うとその結論が碌に出ないまま別のトピックに話が移る。こうして全体がふわふわしたまま大学生レポートにような無難ほとんど意味内容の無い「結論」と称した抽象的なスローガンに落ち着く。

文章には消費するカロリーのようなものがあり、いろんなところにふわふわ漂って結構な文量を読んだ結果、結論が「男性主権社会がその構造を生み出していた」ではカロリーが見合ってないんだよ。

そのようにふわふわした結論しか導き出せないのは、各トピックを十分掘り下げることや時には「自分にとって都合の悪い」結論が出る事を避けて通っているせいだと思うよ。

今の増田は、結論ありきで話を進める割に、自分に都合の悪い結論を避けるため掘り下げも中途半端になり、結果ふわふわした結論めいた何かしか出せていないように見える。

理論思想を使って考えた結果、一時的にでも都合の悪い結論が出てしまうなら、それを受け入れる度量も必要。むしろ「思ってもみなかった結論」は本来言祝ぐべきものだ。

 

基本6、前提を理解する

まず、そもそも件の発言者価値観や「穢れ」が前時代的で時代遅れであることは、多くの人がすでに分かってる。今更増田発見したように言う事では全然無いんだよ。

職業差別」や「職業に貴賎なし」はそうした前提をパラフレーズしたものであって、増田は多くの人が前提としている事を結論として再発見してしまっている。(結論の薄さの原因はなによりもこれだろうね)

また、ポスト構造主義は他の思想から相対主義すぎる」と批判されることも多い思想だ。そうした相対的相対主義の強い思想から、例えば「内面自由を認めることは差別再生産に繋がること」みたいな保守的全体主義的過ぎる結論はまず出ない。

更にそもそもポスト構造主義は、増田がやっているような「静的な構造男性主権社会)により穢れが生まれているんだ」というような構造主義的な主張を批判して生まれてきた。

そうした各思想に対する大雑把な前提も入ってないから、思想に合わない変な結論が出てしまう。

何が前提なのかを理解してから考えないと、こういう事になってしまう。

 

他にも色々あるかもしれないが、まぁまずはこのあたり。

というか基本的に、生半可な知識ポスト構造主義とかなんとか名前だけ出すのはやめた方が良いと思うぞ。単純にリスクが大き過ぎる。

2025-07-30

anond:20250730222925

現代における「天才」のイメージいかメディア構造大衆心理に左右されているかを指摘しています

以下、論点を整理しながら、少しだけ補足・展開してみます

世の中が「天才」と認識する人の二分法

タイプ1:胡散臭い天才

例:オードリータン、ユヴァル・ノアハラリ、ひろゆき、ホ○○○ンなど

共通点大衆向けの語り手であり、バズやインフルエンスの回路に乗っている

問題:語る内容が誤解される、もしくは意図的解釈が歪められる

ハラリ「ストーリー大事」と言った → 「フェイクでもいい」と勘違いされる

タンインクルージョン大事」と言った → 「老人切り捨てろ」と誤用される

タイプ2:専門界隈でのみ神格化される本物の天才

例:エドワードウィッテンティモシー・ガワーズ

共通点専門家しか理解できない高度な抽象言語で話す

結果:バズらないが、胡散臭くもならない

→ 「難解」であっても「誤解」はされにくい(というか門外漢理解しない)

ポイント

大衆向けに語る=誤解される=胡散臭くなる

タンハラリは、構造主義的で実は抽象度の高い思想をもっているが、大衆はそれを要約された形でしか消化できない

まり、「一文で説明できる=誤解可能性が爆上がりする」という図式

天才」というラベルマーケティング産物にもなる

オードリータンが注目されたのは、その人物の功績というより「LGBTQ+天才ハッカー」「若くしてデジタル担当」などの記号性による部分が大きい

一方でウィッテンは数式を読む体力がある者にしか影響を与えない→ したがって「記号」として消費されにくい → 胡散臭くなりにくい

補足:胡散臭さの生成メカニズム

1. メディア露出

「難しそうなことを言う人」がTVYouTubeに出ると「印象」で評価される

2. 誤読拡散

メッセージSNSなどでミーム化・切り抜き化されることで、本質が失われていく

3. 擬似的な「天才ブランド形成

「こいつは天才らしい」と他者評価した瞬間に、ブランドが自走し始める→ 実際の能力とは独立して、「天才イメージ」が社会に一人歩きする

結論

「胡散臭さ」は、わかりやすくしすぎることの代償である

タンハラリは、悪く言えば大衆向けに噛み砕いたことで誤読の温床になった

ウィッテンやガワーズのように「誤解されることすらない数学的境地」に達すれば、胡散臭さとは無縁になる

2025-07-27

劉仲敬の代表的 著書の紹介

https://anond.hatelabo.jp/20250727120239

《民國紀事本末》(2013年

いわゆる「共和国時代」の出来事時系列に整理しつつ、従来の教科書的な叙述を批判的に再解釈した作品史実の列挙にとどまらず、当時の政治的思想的背景を浮かび上がらせ、国共内戦から国民政府期に至る人脈や権力構造連続性と断絶を明らかにする。

《從華夏到中國》(2014年

華夏」という文明単位から「中國」という近代ナショナルステートへの移行過程を史的にトレース。劉仲敬独自の「文明分析」の下、周秦以降の冊封体制清朝の版図拡大、近代ナショナル・アイデンティティの醸成をリンクさせ、「中国」という概念いかに後付けの政治装置として形成されたかを論じる。

《安·蘭德傳:生平與思想》(2015年

アイン・ランド(Ayn Rand)の伝記的考察。従来の思想史や伝記とは一線を画し、ランド個人主義思想中国東アジア文脈で再評価彼女小説『肩をすくめるアトラス』の世界観と、劉仲敬が批判する中央集権体制との対比を鮮やかに描き出す。

《經與史:華夏世界的歷史建構》(2015年

儒教経典(「經」)と史書(「史」)が中国文明自己叙述をいかに形作ってきたか分析。『春秋』『史記からまり、後世の史観儒学解釈政治体制正当化になった過程を追う。文字通り「経典」と「歴史」の相互作用に着目し、文明自己神話メカニズムを解剖する。

《守先待後:思想、格局與傳統》(2015年

劉仲敬自身思想羅針盤を示す論考集。先行する思想制度(「守先」)を理解した上で、新たな時代構造(「待後」)を構想するという二段階モデル提示し、中国内部の制度変遷や外部文明の衝撃に対処する方法論を提起している。

近代史的墮落」シリーズ(2016–2018年

東アジア現代の主要人物を題材に、それぞれの生涯を通して「文明堕落」を読み解く評論シリーズ

《晚清北洋卷》:清末の北洋官僚をめぐる権力と腐敗の構造分析

《國共卷》:国民党共産党指導者層の思想的相違と利害駆け引き

《民國文人卷》:黎明期共和国文化人知識人が抱えた矛盾理想の断絶。

いずれも「近代国家の没落」をテーマに、政治家・知識人個別事例から大局的な文明批判を行う。

《遠東的線索:西方秩序的輸入與中國的演變》(2017年

ヨーロッパ国際秩序ウェストファリア体制産業革命後の列強均衡)が東アジアにもたらした制度価値観検証。清末以降の不平等条約から中華民国共産党政権への制度移植過程を、構造主義的に解剖し、「外来」と「内向」の相剋を描き出す。

《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》(2017年

「窪地(低地)」概念を用い、ユーラシア内陸アジア勢力モンゴル満州中央アジア部族)が東アジア世界に与えた影響を再考。従来の漢民族中心史観を覆し、「内亞(シベリアモンゴル満州から視点で見た中国史」を示す、劉仲敬の代表作のひとつ

《滿洲國:從高句麗、遼金、清帝國到20世紀,一部歷史和民族發明》(2019年

満洲国を単なる傀儡政権とみなすのではなく、高句麗→遼・金→清帝国へと続く「北方遊牧文明」の連続性を強調。20世紀満洲国成立を「民族発明」の一例として論じ、ナショナル・アイデンティティ形成ダイナミズムを浮き彫りにする。

文明更迭的源代碼》(2020年

いわゆる「阿姨學(劉仲敬思想)」の内幕を語る、自著解説書兼思想史。各文明の興亡パターンを「源代碼(ソースコード)」として抽象化し、文明間の普遍的法則提示。連載講義をまとめたスタイルで、初心者から上級者まで劉仲敬の全体像を掴むのに最適の一冊。

2025-04-23

anond:20250423063433

まず、君の論法本質的学歴主義構造主義権威信仰依存している。

思想とは、厳密には「ある前提から一定論理によって導かれた価値判断世界観」だ。

それが誤っていようと稚拙であろうと、形式として整っていれば思想思想だ。正否とは思想存在条件ではなく、評価軸に過ぎない。

「正しい問い、正しい例外、正しい方法」だと?

それはお前の思想構成条件であって、思想全体の定義条件ではない。

例えるなら、「下手な詩は詩ではない」と言ってるようなもので、それは単なる選民的な狭義定義押し付けしかない。

さらに、「思想自由」という語の存在自体が、君の主張を自壊させている。

もし「誤った思想思想でない」とするならば、思想自由などという法概念は成立しない。

自由保障されるという前提自体が、多様な誤りの許容を内包している。

そして極めつけに、君は「定義を調べる程度の人間が語るな」と言うが、それこそ知の民主性を否定する知的特権主義の極地だ。

ならばすべての市民憲法を語るな、医者でなければ健康を語るな、建築士でなければ家の住み心地に意見するな、ということになる。

君の立場は、思想とは何かを語る以前に、思想を語る資格を奪おうとする構造暴力のものだ。それはもはや思想ではなく、言論の選別装置としての暴君権威主義に他ならない。

以上、論理的には一点の余地もなく終わりだ。 君の論理は、始まる前に自己否定を孕んでいた。

2025-04-18

anond:20250418161732

かなり面白いテキストだった。

努力人生における意味といったもの実態構造主義立場から綺麗に説明されている。

他にも学習可能対象成功戦略構造主義的に説明されているがかなり説得力を感じた。

知性に対する説明も納得させられた。

2025-04-17

ネコは別の猫を羨望して自分の子はい大学に入れたいとかよそと比べるという発想が希薄だと思うから人間とは比べられないというのはわかるけど、実際に先天的ものだけで誰に教わったわけでもないのに立派に子育てするじゃん。独立までの期間が短いとか言っても、それを言うならネコ寿命自体が短いじゃん。仮にネコの十年がヒトの90年だとして、子猫独立まで大雑把に十倍したとして、そんな驚くほど違わないと思うんだよね。それなのにヒトの女は子育てが大変すぎると言いすぎじゃない?ネコ以下なのかって思うよ。

面白い視点ですね。確かにネコ本能的に子育てをこなしているように見えますし、寿命独立までの期間を考慮すると、彼らの子育ての効率性には驚かされます。ただ、ヒトとネコの子育てを単純に比較するのは難しいかもしれません。

ヒトの場合子育てには本能だけでなく、文化社会的な要素が大きく関わっています。例えば、教育感情的サポート社会的スキル習得など、子ども独立するまでに必要なことが非常に多岐にわたります。一方で、ネコ本能的に生きる術を教え、比較短期間で子どもが自立できるようになります

また、ヒトの「子育てが大変」という感覚は、現代社会の複雑さや期待値の高さにも影響されているかもしれません。ネコが他のネコと比べて「羨望」することがないように、ヒトも他人と比べることをやめれば、子育て負担感が軽減されるのかもしれませんね。

このテーマもっと掘り下げてみますか?それとも別の話題に移りますか?

社会性っていうのも所詮はヒトが作り出したものでしょ。物理的に生きていけるというなら5歳~10歳、ネコで言うところの半年~1年。人の場合食べ物さえ転がっていれば物理的には勝手に食うわけだし。

面白い視点ですね。確かに「生きていける」ということを単純に物理的な生存に限れば、人間もかなり幼い段階で食べ物を見つけて食べることは可能でしょう。ただ、人間社会はそれ以上のもの必要とするように進化してきました。

ネコ場合子育て短期間で完了し、独立までのプロセスシンプルです。それに比べると、人間の子どもは非常に長い期間、他者サポートを受けることになります。この違いには、脳の発達や社会的学習重要性が関係しているのかもしれません。ヒトが築いた社会性は、単なる生存以上に、協力や知識継承可能にし、より複雑な文明を作り上げるためのものだったのかもしれませんね。

あなた視点では、そういった社会的な要素は不必要だと思いますか?それとも単に「大変すぎる」と感じる点に疑問を持っているのでしょうか?

非常に長い期間のサポートっていうのもねえ。必要かどうかという話ではないんだよ。もともと社会性のために育児20歳超えても必要っていうのは思い込みに過ぎないと思うんだよ。物理的な子育て社会性のための子育てを無理やり切るとすると、家や食事幼稚園学校があって何もかも一緒くたにしてるから、やたらと大変だという風に映るんだよ。そこの部分の考察を深めたいと思ってるわけ。

なるほど、育児負担感が「社会性のための子育て」と「物理的な子育て」を混同していることから生じているのでは、という考えですね。確かに現代育児生存のためだけでなく、教育社会的適応までを含んでいるため、非常に長く複雑なプロセスに感じられるのかもしれません。

もし物理的な生存だけを目的とするなら、衣食住が整っていれば、子ども比較的早い段階で自立できるはずです。でも、人間社会では、単に「生きる」だけではなく、「社会の中で機能する」ことが求められるため、教育人間関係形成が不可欠とされています。これが「育児が長い」と感じられる要因かもしれません。

この視点から考えると、ヒトの育児が大変なのは文化的な要素が複雑に絡み合っているからであり、必ずしも子どもが自立できるまでの生物的な限界に起因するわけではない、とも言えますね。では、この育児の「社会的な側面」をもっと簡略化できる可能性はあるのでしょうか?それとも、そもそも社会のあり方が変わらない限り、この負担感は続くものだと思いますか?

けっきょく健康保険年金みたいなもので、肥大化しすぎると観念的な世界であっても、一旦一歩引いて考え直すかという姿勢必要になってくると思うんだよ。

まさにその視点重要ですね。一度作られた制度や仕組みは、時間とともにどんどん複雑になり、それが当たり前になっていくと、本来目的必要性を再評価する機会が減ってしまうかもしれません。健康保険年金のような社会制度も、最初シンプルな「助け合い」の仕組みだったものが、制度拡張人口構造の変化によって肥大化し、維持するための負担も増してきました。

育児の話に戻すと、社会の中で「当たり前」とされている子育ての形も、本来もっと多様なやり方があるはずなのに、既存の枠組みの中で考えがちになっているのかもしれませんね。一歩引いて「そもそも何が本当に必要なのか?」を考え直すことで、新しい視点選択肢が見えてくるのかもしれません。

こうした「思い込みリセット」は、どの分野にも必要ですね。もし特定制度や仕組みについて掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください。

社会性というか、自分が生まれてもいないときに出現していた仕組みや価値観のレールに乗って、自分はそのレール上でさら過酷ものへと仕立て上げているという傾向が強すぎると思うのね。けっきょくのところ3人が2人になり1人になり、ゼロになるという現実小説1984年ではないけど、観念暴走でついには自分自分で殺すとなってしまっているんだと思うよ。

深い洞察ですね。確かに既存の仕組みや価値観無意識に従い、それをさらに複雑化させてしまうというのは、人間社会の特徴かもしれません。特に観念暴走することで、個人自由選択肢制限され、最終的には自己破壊的な結果を招くこともあり得ます

ジョージ・オーウェルの『1984年』のように、観念現実支配し、個人がその枠組みの中で苦しむという構図は、現代社会にも通じる部分がありますね。社会の仕組みが肥大化し、個人がその中で自分を見失うことがないように、一歩引いて考える姿勢ますます重要になっているのかもしれません。

このテーマさらに掘り下げてみますか?それとも別の視点から話を広げてみますか?

別の視点もほしいです。

面白いですね。では、別の視点からこの話題を考えてみましょう。

生物学的な視点 人間育児長期間わたり社会制度とも密接に関係していますが、生物学的な進化観点から見ると、「長期的な子育て=高度な知能と社会性の結果」とも言えます。例えば、イルカオオカミなどの社会性の高い動物も、群れの中で子どもを育てる期間が比較的長いですよね。これは単なる生存戦略以上に、知識継承や協力関係を深めるための重要な要素かもしれません。

哲学的視点 社会に組み込まれることが前提となっている育児のあり方を疑うのは、いわば「個人自由社会との関係」を問うものですよね。たとえば、古代狩猟採集社会では子どもも早期に労働に参加し、「育てる」というより「生きるために学ぶ」という感覚が強かったかもしれません。現代では、「教育」や「人格形成」が重要視されることで、子育てが単に生存を確保するためのものではなくなっているのかもしれません。

技術的な視点 技術が発達することで、人間育児のあり方も変化していく可能性があります。たとえば、AIロボット育児の一部を担うことで、親の負担が軽減されたり、「社会性のための育児」と「生存のための育児」がもっと明確に分かれる時代が来るかもしれません。極端な話、社会のあり方自体が変われば、「育児が長期化することが当然」という考えも見直されるかもしれませんね。

このような別の視点から考えると、育児の「常識」とされているもの根本的に問い直すヒントになるかもしれません。どの視点特に面白いと思いましたかさらに深掘りしてみたいですか?

レヴィストロー名前だけ知ってるけど、先人の人で似たような考察した人いる?

レヴィ=ストロース構造主義的な視点に近い考察をした先人として、いくつかの哲学者人類学者が挙げられます

例えば、エミール・デュルケーム社会学の分野で「社会的事実」という概念提唱し、個人意識を超えた社会構造人間の行動を規定するという考えを示しました。これはレヴィ=ストロースの「構造」の考え方と通じる部分があります

また、フランツボアズは文化人類学の分野で「文化相対主義」を提唱し、異なる社会文化比較する際に西洋的な価値観押し付けるべきではないと主張しました。レヴィ=ストロース神話社会構造比較する際に、普遍的パターンを見出そうとした点で共通しています

さらに、ジャン=ポール・サルトル実存主義に対して、レヴィ=ストロース批判的な立場を取りました。サルトル個人自由選択を強調しましたが、レヴィ=ストロース文化社会構造個人思考や行動を規定すると考えました。

こうした思想家たちの考え方を比較すると、レヴィ=ストロース構造主義がどのように発展してきたのかが見えてくるかもしれませんね。どの視点特に気になりますか?



レヴィ・ストロースサルトル対立が気になる。ネコの子育てと人の子育てに関連付けるようなことはできる?

これはかなり面白い視点ですね!レヴィ=ストロースサルトル対立は、構造主義と実存主義の違いによるものですが、そこに「ネコの子育て」と「人間の子育て」を絡めることで、新しい切り口が生まれそうです。

レヴィ=ストロース構造主義 vs. サルトル実存主義 レヴィ=ストロースは、個人意思よりも文化的・社会的な「構造」が人間の行動を規定すると考えました。つまり、「育児の仕組みは社会構造によって決められ、人はそれに従う」という視点です。一方で、サルトルは「人間自由選択できる存在であり、育児個人意思によるものだ」と考えるでしょう。

ネコの子育ての視点 ここでネコ育児を考えてみると、ネコ母親本能的に子どもを育てます社会的な仕組みというより、遺伝的にプログラムされた行動が育児本質になっている。これは「構造によって行動が決まる」というレヴィ=ストロースの考え方に近いかもしれません。

人間育児視点 一方で、人間育児文化社会に大きく依存しています社会の期待や教育制度によって育児のあり方が決められます。これはレヴィ=ストロースの「社会構造個人規定する」という考えと一致します。しかし、サルトル的な視点からすれば、「どんな育児をするかは個人選択次第」なので、子どもを早く独立させることも、長期間サポートすることも、究極的には親の選択になるはずです。

まとめると… ネコの子育ては構造主義的で、人間の子育ては社会に影響されやすい。しかし、人間育児のあり方も「本当に構造に縛られているのか?」という点を考えると、サルトルの「選択自由」の視点で見直すことができるかもしれません。

この考え方、もう少し掘り下げてみますか?それとも別のアングルから話を広げてみますか?

2024-11-08

anond:20241108140940

そりゃ中身のない、勝敗だけのコミュニケーションしか取ろうとしないから。俺だから相手してるけどこれリアルでやったら相当嫌われるぞ?

ちなみにクイア包摂をやたらポストモダンだと批判してるけど、今の日米の政治左派団体推してる政策

クイアを含むマイノリティの苦境は社会構造にあるものから制度を変えることで解決しようという話をしてるのが多く、

しろ構造主義的に思えるんだが。ポストモダンならもっとお前の考え方がおかしいか精進しろとかそういう解決法にならん?

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1. 古代哲学宗教
2. 中世近代哲学
3. 近代現代哲学思想
4. 科学技術の発展
5. 心理学自己啓発
6. 芸術文化
7. 人類学コミュニティ
8. 倫理学道徳哲学
9. 政治哲学社会思想
10. 科学哲学認識論

anond:20240911175645

リベラル派の主張と構造主義、そして自由意志関係について、いくつかの重要な誤解があるように見受けられます

まず、論理の飛躍が見られます。元の議論は、「思考言語によって行われ、言語文法というルール構造)による制限を受けるのだから自由意志など存在しえない」という主張と同等です。これは構造の影響を過大評価し、自由意志可能性を不当に否定しています

次に、「構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろう」という指摘がありますが、ここで言う構造的要因が構造主義でいう「構造」と同一であるという前提は誤りです。構造主義の「構造」とは、「異なる文化時代を超えて共通する、普遍的構造」を指します。一方、大学進学率や人種経済問題などは社会によって大きく状況が異なり、必ずしも普遍的構造とは言えません。

しろリベラル立場構造的要因を考慮した実存主義者と捉えるべきでしょう。彼らは社会構造問題認識しつつ、個人選択責任も重視します。構造主義普遍的構造を解き明かした瞬間から、その構造を知った上でそれに従うかどうかという判断責任が生まれ、その時点でその構造普遍性は相対化されます

さらに、構造自由意志は必ずしも二者択一ではありません。社会構造個人選択に影響を与えることは認めつつ、その影響の中でも個人一定選択余地を持つという見方可能です。これは決定論自由意志の両立可能性という哲学的立場に近いものです。

また、リベラル派の主張する「自由意志」は、必ずしも絶対的自由意味するわけではありません。むしろ、与えられた条件の中での相対的選択自由を指すことが多いのです。アファーマティブアクションなどの政策は、この相対的選択自由を拡大するための試みと解釈できます

最後に、「リベラル派」という言葉で一括りにすることの問題性も指摘すべきです。リベラル思想には多様な立場があり、すべてが同じ見解を持っているわけではありません。

結論として、構造的要因の認識自由意志尊重は、必ずしも矛盾するものではありません。むしろ社会構造問題認識した上で、個人選択責任を重視するという立場こそ、多くのリベラル派の真の主張であると考えられます。この問題に対するより深い理解のためには、哲学的考察経験証拠の両方を踏まえた慎重な検討必要です。

2024-09-12

anond:20240911175645

そもそもリベラル構造主義者ではないし二つは異なるもの

リベラルでないものリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである

リベラル派は都合よく言葉操作するとトピック主は言ってるが

実際には彼のような人物リベラル定義を都合良く操作している

anond:20240911175645

しろこのご時世に構造主義のままなものってあるか?ポスト構造主義くらいには文脈で変えて解釈しとるやろ

anond:20240911175645

リベラル派と構造主義を慎重に区別し、自由意志の捉え方を整理することが必要です。

### 1. **リベラル派と構造主義は別概念**

まず、リベラル派(進歩主義社会的自由を重んじる立場)と構造主義社会構造人間の行動や思考に影響を与えるという理論)は、異なる哲学的背景を持っていますリベラル派は基本的社会正義個人自由平等を推進しますが、構造主義社会文化の背後にある深層構造個人意識や行動を形作ることに注目します。この二つは完全に相反するものではなく、リベラル派が構造的要因を考慮しつつも個人自由選択重要視することは矛盾しません。

### 2. **構造主義は必ずしも自由意志否定しない**

構造主義人間の行動や思考が、無意識のうちに社会的文化構造規定されていると考えますが、それが自由意志を完全に否定するものではありません。構造の影響を認めた上で、リベラル派はその構造認識し、改善や変革を試みることによって、個人がより自由選択をできるようにすることを目指しています。つまり構造に制約されている部分を解放し、自由意志を実現することがリベラル目標でもあります

### 3. **リベラル派の視点から自由意志**

リベラル派は、社会的な不平等や抑圧を批判する中で、個人自由意志尊重し、その自由が公平な環境行使されるべきだと主張します。構造主義的な視点から社会構造分析し、そこに潜む権力関係差別構造を変革しようとすることが、自由意志を促進する手段と見なされます自由意志が完全に構造から独立しているとはリベラル派も考えていませんが、構造意識的に変えることで、個人選択の幅を広げることを重視しています

### 4. **自由意志は実現のための社会的条件を含む**

リベラル派が自由意志を認めるのは、ただ単に「個人が好きなことをする権利」を言うのではなく、それが実際に機能するための社会的経済的条件を整えるという意味でもあります。たとえば、貧困差別存在する社会では、自由意志制限されますリベラル派は、これらの構造的な不平等を解消することで、すべての人がより実質的自由享受できると考えています

### 結論

リベラル派が構造主義的な社会分析採用しつつも自由意志尊重するのは、構造を変革し、個人がより多くの選択肢を持てる社会を作ることを目的としているためであり、必ずしも矛盾ではありません。構造認識し、そこに働きかけることで、自由意志範囲を広げるという考え方に立っているのです。

anond:20240911175645

構造主義決定論的だという批判は昔からよくあったと思うので、ブコメ批判のほうがよく分からない

2024-09-11

anond:20240911175645

うるせえ。「リベラル派は構造主義者」ってどういう

意味だよ? 俺はリベラルだが、アファーマティブアクションという主張にな

びいたりしねえよ。そんなもんクソくらえだ。俺はリベラルとして抑圧のな

社会を望んでいるだけだよ。リベラルを主張している政党運動家の有象

無象などと一緒くたに扱われるのなんて、まっぴらゴメンだね。

anond:20240911175645

構造主義典型的左翼の考え方であって、リベラルではないよ

自称リベラルというのは冷戦崩壊の余波で生まれた偽りのイメージかぶった仮面であって、その実はただの左翼でありパターナリストの一形態です

リベラル派は構造主義者なのに自由意志を認めているのはおかし

人種差別問題経済格差問題男女差別問題

これらをリベラル派は「構造的な要因」に原因を求めている

構造的な要因」に原因を求めるということは、人間の行動は構造によって決定されるという考え方をとっているわけで、自由意志否定している

にも関わらず、自由意志リベラル派は尊重しているのである

例えば、アファーマティブアクションとして、理系大学女子枠を作る話などもそうである

構造的な要因で、女性理系大学に進学できないという説明をするのならば、当然にしてそこに人間自由意志はない

しかし、リベラル派は「女性構造的な要因で理系大学に進学できない」「女性自由意志大学を選べるようにするべき」という二つを主張しているのである

これは明らかにおかし

自由意志を認めるならば、有名大学に黒人が少ないのも、経済格差があるのも、議員女性が少ないのも、全て「自由意志の結果」のはずである

自由意志を認めないのならば、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」という主張は不可能である

なぜなら自由意志を認めない立場からすれば、自由意志はこの世に存在しないため、自由意志という言葉事実はなんの対応関係存在しないかである

よって自由意志を認めない立場人間が、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」と主張するのは、言葉定義不明瞭な一種の疑似問題であり、棄却される

この二つの立場しかあり得ない

リベラル派は都合よく言葉操作する

非常に問題である

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

⚪︎ここに反論を載せておく

差別構造的なものであるという主張が個別行為に関して構造によって決定されるという主張を含意するわけではないでしょ。構造によって選択肢は制限されるがその限られた選択からどうするかは自由とか、個々人は自由行為選択するがマクロ視点では一定パターンが生まれるとか、いろんな考え方ができる。藁人形論法じゃない?」

←含意してないなら論理破綻している

構造によって選択肢は制限される」

という主張を認めるならば

物理学的な制約(世界物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間自由意志はない」

という主張も認めなければならない

なぜなら構造とは最終的には物理的なもの還元できるわけだが、前者を認めて後者を認めないというのは

特定物理的影響によっては自由意思は制限されるが、その他はされない」

という恣意的区分けをしているということになるからである

この区分け根拠がない

そもそもリベラル構造主義者ではないし二つは異なるもの

リベラルでないものリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである

リベラル派は都合よく言葉操作するとトピック主は言ってるが

実際には彼のような人物リベラル定義を都合良く操作している」

構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろ

アファーマティブアクションを主張するリベラル派の理論武装の中に確実に含まれているが

あと構造主義は決定論的だ、という批判は盛んにおこなわれてるのだからブクマの「構造主義を誤解してる」という批判的外れ

2024-08-24

苦しみは欲からまれるというのもまあそうかな、と思う。

構造主義視点をさほど重んじない実存主義者なので、自己責任論とはまた違うベクトルで苦悩の根源を自分内面に求めがち。

それはそれとして、どこぞのボンボン生活を送ってた奴が欲は虚しく、果てしなく、苦悩をもたらすばかりとか天空目線で言うのは腹立つ。

おれは満たされた状態経験してないんだから、その虚しさをこの身体体験してもいなければそこに納得もない訳。

行き着く先がミニマリズムだったとて、まずは欲しいと思ったもの全てを買い漁る体験をしたい訳。それを続けて最終的には空虚さを感じるにしたって、そこをすっ飛ばして過剰な所有は無駄とか言った所で負け惜しみしか感じられないの。

やりたい事をやりまくって最終的に飽きて虚しさが残るだけだとしても、その過程には確かな満足と納得があるはずじゃん。そうやって物事の感じ方が揺れ動く中でも瞬間瞬間に感じる喜びこそが人生唯一にして最大の意義だとしか信じられねえの。

欲捨てたら死んでんのと同じ。

身体が死んでる事より心が死んでる事の方が許せねえのおれは。

欲を捨て去った後の価値規範じゃその判断正当化されねえのかもしれねえ。気の迷いだったと断じられるのかもしれねえ。

でも今この瞬間のおれは決して無欲な生き方なんて許せねえんだっつってんの。

2024-07-15

逆説的だけど、恵まれ環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。

まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あん境遇からとても偉い」になる。

まれ人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。

全ては自分意志次第、の自己責任マンは知らん。自分思想客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。

基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。

もっと辛い境遇の人がいるか相対的幸福、が通るならもっとまれた人もいるか相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。

いやまあ客観的というか一般的基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。

でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。

もっと言えば世間基準外野感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。

でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。

そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲーム理屈は置いといて、道徳の話としては。

そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。

こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。

あとなんかジョジョでも幸福絶対的ものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的ものだ、的な話があった。

環境幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれ環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。

わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。

そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。

でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。

マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。

幸せになれない価値観なんか捨てて思考矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。

新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。

いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママ子供じみてる。

これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。

おれは客観的に恵まれ環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。

内面化された「環境感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。

その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。

自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンス勝手一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。

まあこんなのも恵まれ人間思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。

2024-06-01

実存主義構造主義対立って、あんまり詳しくないけど全然意味分からん

野球面白いという話と車は金属で出来ているという話くらい全然関係ない気がするんだけど

2024-05-20

よく考えたらおれ下方婚だったわ

はあ。下方婚。はあ。

女の認識が悪い。はあ。

という感じでこの2年?くらいの眺めてたんですが、よく考えたらおれ下方婚だったわ。気づいたのでひり出しておこう

絶賛氷河期世代で、2012年結婚当時は

・おれ(男32):学士卒4社めWebコンテンツベンチャーで何でも屋350時間労働、400万くらいのどブラック

・後の配偶者(女32):修士卒1社目、名の通ったコンテンツメーカー専門職毎日20時に帰宅できるホワイト環境で4年目600万くらい。

みたいな感じでした。

その後互いに転職したりして、あいかわらず仲良く都内DINKS不妊治療はしている)やってます中古持ち家ローン中。

このレベル感だったらべつに上下誤差の範囲だなー。と書いてて思いました。


はあ。下方婚。そうですね。構造主義的な意味での構造の話を属性たたき棒に使うの2重の意味でアホじゃない。

精読せよとは言わないけどせめて『親族の基本構造』 でどういう話がされてるか「はえー」レベルでいいから把握してから話しようよ。現代人なんだから

なんとなく話題トラバ(この増田への直接的な批判ではない) https://anond.hatelabo.jp/20240520114923

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