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2025-11-02

DOWNTOWN+の感想

配信での一人喋り

思ってたよりリラックスして肩の力が抜けてるなという第一印象

本人的にはかなり緊張してたらしいが、緊張感みたいなのはスタジオ雰囲気含めてまったくないムードに見えた。

いわゆる「かかってる」状態になりそうだなと予想してたがそんなこともなく、終始落ち着いていた。

松本本人が流れに合わせて別の話題に切り替えたりの判断も冷静で的確に感じた。

しろフロアディレクター?がやたらと意気込んでいて「この番組ファンをなんて呼ぶべきか・・」とか言いだしてたけど

松本本人は「そういうのはちょっと、ただ色んな芸人が集まれ場所ひとつになったらいいなと」みたいな感じで温度差ありそうだった。

自分が唯一引いたのは観覧席に女性客多めに入れてたこと。これはさすがに意図を感じて引いてしまった。

実のない話トーナメント

あえてつまらない話をしようとすると、なぜかそれが面白くなってきてしまうという現象は確かに起きるんだが、

最終的に「本当につまらない話しかしない人が普通に強い」ということになってしまい、最後のほうはなにを見せられてるんだろうという気持ちに。

恐らく見切り発車でやってるので演者松本本人も難しさを感じながらやってるように見えた。

ぶっちゃけテストでやってたとしたらボツになる企画かもしれない・・

7:3トーク

松本ゲストがサシでトークするが、なにか作業しながら話すことでゆるめなトークにするのが狙いと思われる。

かに作業しながらの雑談って妙な面白さがあるから狙いは分かるんだが、

初回のゲストシソンヌ長谷川という微妙な人選。

相手ツッコミなのもあって芸人のノリが強まり、「餃子作りながら」の部分があんまり意味を感じなかった。

それより問題なのは松本はこういうサシでの対話だと面白いことをあまり言わなくなる。

せめて数人周りにおいてかつてのはしご酒くらいには場の空気を作らないと難しい。

しか芸人以外の芸能人番宣の一環で出たりするものなので、、なかなかつらいかもしれない・・・

大喜利GRAND PRIX

企画的には一番注目していた。

ルールにひねりをくわえてはいるけど、あまり良い方には効果が出てなかった。

ルール変則的なせいで(プレイヤーが出題者にもなる)競い合う感じが薄れた上に、大喜利の部分に集中しづらさもあり見てる側も気が散る。

途中から千原Jrが責めた感じに切り替えようとはしてたが、全体的にぬるっと終わってしまった。

写真一言みたいな分かりやすインパクトのある大喜利テーマが生まれないと、ルールにひねりを入れるだけではちょっと厳しそう。

ダウプラボイス

映像無しで、数人の芸人架空コンビ名と芸名自己紹介としてひたすら挙げていくだけのラジオ乗りな企画

正直、笑えるかどうかでいうと一番お金もかかってなさそうなこれが一番面白かった。

ただこの面白さは例えばもう寝る体制になりつつ流しっぱでニヤニヤするようなそれこそラジオ的な面白さであって、なんならこれだけ無料配信にするといいのでは、とも思う。

なんか全然褒めるとこがないような感じになったが、テレビお笑い番組自体がすっかりなくなってしまったので、

純度の高いお笑い番組をやってくれるというだけで、しばらくは見てみようと思っている。

あとこれはあまり話題になってないんだが、11/1の開始日に合わせて浜田側の後輩たちとの度企画も同日配信されるはずだったんだが、

なぜかそれが急遽延期になってしまっていた。

これはどういうことなのかちょっと気になっている・・・

なぜ松本人志はてなブックマークで嫌われるのか

やっとわかった

いじめられてた人が多いんだね

またはいじめを見て育ったというあたりかな

身近にいじめがなかった人間としてはあれはイジメイジメお笑いだと言われてもピンとこなかったよ

テレビの向こうの“芸”でしかなかった

キアヌリーブスが銃でバーン悪者を撃っても嫌悪感がないのと同じで画面の向こうのフィクションだった

でもネット民にとっては自分記憶と結びついてしまうんだね

八つ当たりだなあー

ダウンタウンが昔から苦手だった」論について❷

「ダウンタウンが昔から苦手だった」論についての続きです

③単純につまらなかった

 これは彼らの責にはよらないところ、そして増田の嗜好による部分も大きかろうとは思うが、『ダウンタウンDX』などは端的につまらないとしか思えなかった。

 薄い記憶頼りの記述になってしまうが、例示した番組はいくつかのミニコーナーによって構成されていたはずである。そのコーナーのどれをとっても昼間のワイドショー的なノリに過ぎないように思えてしまっていた。

 もちろん、そうしたノリが好きな人も多いのだろうし、呼ばれたゲストが好きな回だけ見るという人も多かったのだろう。

 だが、増田はどちらにも当てはまらない。

サナ活」が工作されているのではと訝しまれる(実際にムーブメントとしてあるか・工作なのかはここでは問わない。単に首相皇族やへの支持まで「推し活」として括ることがあり得るものとして消化される)ほどの、この推し活大時代において、人生に一人とて「推し」がいたことがない。

 だからなのか、自分生活関係しない、他者たる有名人の惚れた腫れた不倫などなどへの興味も昔からなかった。

 もっとも、「昼のワイドショー」的な内容でこそあっても、話芸によって付加的なコンテンツ性が生まれるのだとの論はあるやもしれない。

 それでもなお笑いどころがわからなかったし、そのわからなさが、世界から拒絶されるような感覚さえも覚え、しんどかった(斜に構える思春期真っ盛りより前は、「みんなとなるべく同じになろう」と素朴に思っては達成されないと寂しさを覚えるものではありませんでした?)。

「お決まり」としての叶姉妹私服が高過ぎるオチ理解できるにしても、1時間尺の番組でこうした部分しか笑えないのなら、この時点ですでに「not for me」でもあった。

 けれど、「not for me」の「用法」もなければ、彼らがスターすぎた当時、そんなことを言えない閉塞感がたしかにあったのだ。

最後伝説TVスター」ではまだ足りないのか?

 ほかにも要因はあるかもしれないが、すぐに書き出せた「好きじゃない」理由はこのようなところである

 ①で書いたとおり、かつての「天才的なネタ」を(知りたいと思えた上で)知った先に、その文脈ありきで見方が変わる可能性は否定しない。

 だが、一視聴者として、①〜③の複合要因から長年にわたって苦々しく思ってきたのは事実だ。

 そのなかで現れたのが文春砲であり、マスメディアへの露出停止だったのである。そりゃ、一言二言、「好きじゃなかった」くらい言いたくなる人が出てくるのもやむなしでしょうに。

 こうした前提の上で、『DOWNTOWN+』の始動と、それ以上に、あまたの芸人賞賛や出演、そして視聴者の熱い支持に、どんよりとした思いを抱いている。

「“ゴシップ”になんて負けないで」というのは言語道断であるからよそにするが、「その存在の偉大さにこそ比べてしまうので“あれば”、瑣末な問題だ」とでも言いたげな反応が、苦しい。

 増田個人性が高い①や③を、なんなら②までも措いてしまって、掛け値のない偉大な芸人だったとしよう。

 だが、偉大であればこそ、勇退する判断をしてもよかったのではないかという問いは、問題なく成立するのではないか

 今ではびっくりするほど擁護論を聞かない島田紳助だが、引退間際のテレビ欄の染め上げっぷりはそれは凄まじかった。それでも引退し、はや14年が経つし、なおも動きはない。

 素人たる視聴者からの(紳助への)支持と、プロたる芸人からの(松本への)支持は等価でないとは言いやすいかもしれないが、島田紳助カムバックがもっと予見される状況かつ、SNSが今ほど発達している状態だったら、容易くそれだけが違いだとはいえないと思う。

※余談だが、増田島田紳助ファンでも当然ない。むしろクイズ!ヘキサゴン!』などは大嫌いだったし、『行列のできる(法律相談所』は長年の負の遺産だったと思っている。

 日本の一時代を築いた、伝説芸人ことダウンタウン松本人志がいた。あとから出た芸人はあまねくダウンタウンの影響を大いに受けて育まれた。

 これ以上に欲する名誉はあるか? 増田にはわからない。

日本お笑いしんどいと聞きまして」

 バブル前後の国力成長期に飛ぶ鳥を落とす勢いで力を蓄えていった氏には、たしかに「しんどく」も映るのかもしれない。だが、しんどいのは「お笑い」以前に、人々の生活のものなのではないか

 それに芸人当事者でいえば、「そこそこ」の暮らしができる芸人たちは、SNSによってかつてより増えているのではないか。「M-1グランプリ」の参加者数が毎年歴代最多を更新するような、成長産業ではないのか?

 たしかあなた(がた)は、変え難い伝説化身となった。それでもう、万事よいではないか。これ以上、なにを望むというのか。

 もうきっと、メディア構造上として、ダウンタウンの後釜は現れない。あなたが幻影を追っているとしばしば揶揄される、北野 武にこそあなたもなれずとも。それが時代残酷さであり、甘やかさではないかと思う。

課金しなくては見られない」、ゾーニング性のあるチャンネル活動を絞っている以上、顧客でない外野がとやかく言えたもんじゃないとの反論もあるだろう。

 だが、その反論こそ、「ダウンタウン松本」の影響力の大きさを軽視したものではないだろうか。

 増田はその影響力の大きさ強さを信じているからこそ、『DOWNTOWN+』を批判するのである

※令和に青春を過ごす世代のために蛇足の補足をしておくと、増田がここで書いたゼロ年代半ば〜10年代初頭くらいは、リビングテレビ(今はモニターの家も多いか)に、ネット接続されていなかった。

そのため、『8時だョ!全員集合』ほどの影響力は失った(リアタイではないか一般論だが)、メディアの過渡期ではあるにせよ、今とは比べ物にならないほどの力がテレビにあった時代なのである

東海オンエア」? 話にならない。幼児から高齢者まで、真の「テレビスター」ならば、その名前を誰もが知っていた時代の話である増田以上の世代なら、ヒカルよりも島田紳助みのもんたのほうが知名度はよほど高いだろう。

当時までは、まさに「お茶の間」がその場に出現した時点(食後、リビングを行き交うような時間空間のことだ)で、地上波アナログ放送)が点いていないことのほうがイレギュラーだった。だから、つまらないと思うテレビ番組のことも、このくらいに知っていてもなんらおかしくはないのである

anond:20251102081211

ナインティナイン岡村隆史をはじめ、多くの芸人が誤解している。

電波は有限の天然資源であり、国家管理する公共インフラだ。

にもかかわらず、彼らは「嫌なら見るな」と言い放つ。

だが、その考え方こそ放送事業根本を誤解している。

 

電波法は、電波利用の目的を「公共の福祉の増進」と明記している。

放送第一条も同様に、「放送公共の福祉に適合させ、その健全な発達を図る」と定める。

まり電波芸人の“表現の自由”を保証する道具ではなく、国民の共有財産なのだ

 

放送内容は本来教養教育報道・娯楽の四本柱。

娯楽はあくまで補助的要素であり、民間放送経済的持続性を保つための“免罪符”にすぎない。

お笑いの悪ふざけを垂れ流すために電波を貸しているわけではない。

 

かつては新聞掲示板しか情報伝達の手段がなく、テレビ電波は“神の道具”だった。

だがいまやインターネットがある。

もし「公共の福祉」を本気で考えるなら、テレビ放送の帯域を縮小し、携帯通信など社会基盤に再配分すべきだろう。

 

嫌なら見るな」に対して、私はこう返したい。

「貴重な電波で鬱陶しいものを流すな。やりたければYouTube舞台でやれ。」

それが時代常識だ。

 

松本人志のように不祥事のあと“ネットへ逃げる”芸人たちも同じ構造にいる。

自分たち特別だと信じ込み、公共資源を独占してきた。

だが今や、電波も笑いも独占の時代ではない。

芸能人である前に、市民としての謙虚さを取り戻すべき時だ。

オールドメディアネットイナゴ

テレビ嫌いで見てないんだけど、テレビメディアの事を「オールドメディア」って呼んでる層も嫌いなんだがこの感覚わかる奴いる?

この層ってネット扇動されたら吹いて飛んでいく程薄っぺらい軽さを感じるんだよな

正直"ネットで真実"(笑)に辿り着いたただのネットイナゴにしか見えなくてテレビメディアぐらい苦手なんだが

オールドメディアvsニューメディア対立構造しか目が行かない人多すぎてこの感覚共感してくれる人がいない

正直出所によっては責任曖昧ネット情報のがオールドメディアよりも遥かに悪い性質孕んでるのは少し考えればわかると思うんだが

善か悪か、白か黒かみたいな二元論があるほうが多くの人にはわかりやすくて良いんだろうな

vs諸悪のオールドメディア対立構造さら扇動やすネットイナゴがこの先もっと増えていく秋の訪れを感じる

anond:20251102081211

観客がお金を払って見るという形式信者ビジネスに見えるらしい

テレビという無料で娯楽を提供するビジネスモデルがもたらした歪みだね

もちろんダウンタウンもそのビジネスモデルの中の人だったが

anond:20251031180423

家でテレビ見てるだけのおじさんなのに裏事情分かった気になるのヤバい

家でテレビ見てるだけのおじさんなのに

今更になって見たんだけど、トランプの横でウキウキしてる高市さんは、これはマズいと思うわ…😟

テレビなんて全然見てないから、今更知ったわ…😟

媚びを売ってるというより、高市さん、何も考えてないんだと思うんだけど、これは駄目だわ…

我々日本は、過去大戦アメリカに敗れたとはいえ属国ではない

もちろん、同盟関係ではある、しかし、我々は我々の利益を優先するべきであり、それこそ日本ファーストのはずだ…

まり、いざというとき、我々日本アメリカにノーを突き付けるべき立場にある

トランプの横で浮かれポンチになってる高市さんという図は、これは極めてメッセージ性が悪いと思う

かに、これでは対等な関係に思えない、アメリカの犬に成り下がったと言われても仕方がないだろう

これが麻生氏のやりたかたことなのか?

私は、もう石破のままで良かったのに、わざわざ事を荒立ってやがって…、みたいに思ってはいたが、

高市さんが初の女性総理であることや、海外の首脳と並ぶ絵から、正直新しい風を感じたし、

麻生氏の目論見が何なのかよく分からないが、

真意はともかく、自民党雰囲気だけでも刷新しようとしたのは確かであろう

そして、自分も、新しい風を入れて良かったのかもしれない、そう思い始めていたのだが、

批判かいじめかはともかく、この図はアカン、ここはキリッとした態度で同盟関係を示すべき場面だと思う

石破さんは、そこら辺をニュートラルにやろうとしたほうだと思っている

トランプにも寄らないし、ある意味ウクライナ側にも寄り過ぎない

しかし、ウクライナに寄せ気味なのはトランプアメリカを抜かせば、EUカナダ、その他諸国ウクライナ寄りだからである

トランプけが足並みを揃えずに勝手に走って行く状況で、日本トランプ追従していいのだろうか

もし、トランプが大失敗をしたとき、その悪影響を被るのは日本だけになってしまう、それはアカ

高市さんや麻生氏は、やはりアメリカ依存路線なんだろう

戦後レジームがどうのこうの言いながら、アメリカにノーを言えない安倍晋三であったが、やはりそこは変わらない

仮に、参政党が言うような核武装をするとしても、私はアメリカに頼ればいいという姿勢危機感を感じる

トランプ政策は既に失敗してる、もうほころびだらけである

その証拠となる政府統計調査を、トランプ妨害している、真実が公開されることを恐れているのはトランプである

我々は少なくともトランプアメリカ追従するのは危険だと考える

しかし、我々日本アメリカに完全なノーを突き付けられない立場でもある、それが現実である

からこそ、少し遠くから眺めるような姿勢大事なのである

2025-11-01

田舎バカにするワードデータベース

・石のお金使ってそう

マイルドヤンキー

テレビもねぇ!ぐーるぐるっ!

ほかある?

今、市街に現れている熊は弱い熊

強い熊は山中に居残りできるので。

山の中の餌が尽きて、強い熊が降りてきてからが本当の地獄

弱い熊の特徴は、相手抵抗すればすぐ諦めて離れてゆくこと。

テレビ映像で老婆が襲われるシーンが流れたけど、大声を出し手を振り回すだけで、怯えて去っていった。

あれが弱い熊の特徴。

強い熊が降りてきたら、抵抗しても、ダンゴムシポーズで丸くなっても人間は食い殺されてしまう。

本当にただの餌になる。

どいつもこいつも顔小せーなー

若手俳優、kpopアイドル 男とは思えない中顔面の短さ

どいつもこいつも顔小さい 羨ましいとともにムカつくだって映るやつらみんな小せーんだもん

テレビ見てるだけじゃ断定はできないが、面長男ホルモンゴリゴリは淘汰されてこうして中性男子が増えていくのかな

芸人ぶっさ

なんなんだよ 同じ人間なのにはっきりと顔の良し悪しがある

食堂入ったら置いてあるテレビミヤネ屋映してて高市ベタ褒めがすごかった。

持ち上げ方があまりに盛りすぎだったかツッコミ入れつつ見てたけど、

これはテレビしか見ないような人間は騙されるなって思った

2025-10-31

anond:20251031222735

まだ、高市さんがテレビに出るたびに、竹輪食べてかじかむ手が脳内再生されるんだけど、

そろそろ悪い期待を裏切って、ヒットやホームラン打ってほしいんですよ、いやほんと…😟

なんで日本代表する場所渋谷なんだろうな

だいたいテレビで見かける中継が渋谷なんだよ

NHK放送局渋谷にあるからまだわかるけど民放もなんだよ

そんなに代表か?

外人がQFRONT前好きなのは知ってるけど

でも経済指標を発表するときイメージ映像東京駅前なんだよな

へんなの

ジェンダー

どうもこんにちは、年齢=彼女いない歴の30歳独身男性です。

以下は、ジェンダーについて、あくまでも(イケメンではない)男性から視点で考えた文章です。

男女どちらの方がつらいといった意見ではありませんのであらかじめご了承ください。

イケメンじゃない男性恋愛社会における生きづらさ」を始点に。

原因の1つは、男女平等が叫ばれて何十年もたつが、いまだに男が女を率いるもの、という価値観がまかり通っていること。バレンタインデーがあって逆バレンタインデーが無いのは、男が女に好意を伝えるのは「当たり前」だからホワイトデーバレンタインデーのお返しをする日である)。

これを強化するのが、ルッキズム生物学的に(おそらく)自然なことであるのに対し、ルッキズムダメなことで顔の良し悪しじゃないよという意見支配的で、しかし実際はテレビに出ている人の整い方は異常であり、完全に矛盾しているということ。例えば、テレビドラマのメインキャスト美男美女しかいないが、これは多くの人が美男美女が好きということの証左である。ちなみにテレビに出ている不細工タレントは本当の不細工ではなく、不細工だとしても身なりやメイクが整っていて漂白されている。これは自然界で起きにくいのは、単純に身なりを(タレント級に)整えるのはお金がかかるからだと思っている。これにブーストをかけるのが昨今のショート動画流行

で、なぜイケメンでない男性が生きづらいのかと言うと、特に日本告白文化だと、告白をするまで女性の本当の意思確認することができない(男が女に告白して、女に「友達だと思っていた」とフラれる事象があるのは、そういうこと)。で、イケメンなら多くの人が好きなはずであるから成功確率が高いと事前に分かった上で告白することができる。しかし、イケメンでなければ、よほど特別に近い関係にあって親密さを確認できる環境が整わない限り、告白成功する確率は著しく不明瞭で、おそらく低い。これが未婚率の増加を物語っているのではないかなあと思いました。あと、告白する前の段階であっても、イケメンでない男性は、特にファーストコンタクト(や浅い関係性)で女性に近づいて拒絶されるか否かは、イケメンに比べて拒絶される確率が高い(内面もよく知られていないから)。だから、親密にもなりにくい。

イケメンじゃない男性でも美人彼女がいたり結婚していたりする」という反論に関しては、その男性が「そういう人」(生まれもった性質などでリスク許容性が高い)というだけで、一部の男性に限られた現象ではないかと考える。そうでなければ生涯未婚率が増加している説明はつかない。

ということで、伝統的なジェンダーにおける男性性、つらいよね。ということです。着想した段階では、なぜちゃんみなが人気なのか、という考えがありました。ちゃんみなビジュアルよりも「強い女性」として人気である、と仮定して考えると、それは生まれもったビジュアルではなく強さ、すなわち「現世で変えられる」ところに希望を感じたからなのではないかと。「理想」は可愛いきれいな美人かもしれないけど、現実的な折り合いとして「強い女性」が人気になるのではないかと(CHAIの"NEO KAWAII"という考え方は好きですが、生物学的にルッキズムを負かすのは非常に困難で、外見以外を切り口にした方が現実的かもしれません)。それならば女性が強くて男性がそれに預かる、みたいな関係性が魅力になってもいいのではないか、というか、それでしか現代人間未来はないんじゃないかなあ、などと考えたり。

高齢の両親にテレビを買いたいのでおすすめを教えてくれ

実家テレビは45型でテレビまでの距離ソファからだと2メートルくらい、食卓からだと3メートルくらいで3メートルくらい離れると流石にテレビが小さくて見づらいなと感じた。

両親はテレビNetflixHuluもみるのでテレビ視聴時間結構長いのでもう少し見やすく視聴体験がいいものを使わせてあげたいと思った。

両親の年齢67歳と62歳でふたりとも近視で老眼どういう観点テレビを選べばいいか教えてほしい。予算は15万くらいを上限に考えている。

追記

わざわざ聞いてみてるのは歳をとって老眼になって耳も遠くなると若いうちだと考慮しなくてもよかったことが考慮点になったりするのかな?と思ったから。

平成二桁生まれ20代なんだけど、最近やたらと地方議員とか首長スキャンダルが全国ニュースになってる気がする。号泣会見だの、不倫だの、政務活動費不正利用だの。

もちろん昔から政治家汚職事件みたいな大きな話はあったんだろうけど、今みたいに地方議員個人問題が、ここまで頻繁に全国区話題になってたっけ?って思うんだ。子供の頃の記憶だと、もっと大きな事件じゃないとテレビニュースでやらなかったような。

これってたぶん、SNSネットニュースの影響が大きいんだろうな。

昔はテレビ局や新聞社が「これは報じる価値がある」って判断したものニュースになってたけど、今は地方の小さな問題でも、誰かがSNS投稿すれば一気に拡散する。それにネットニュースが食いついて、さら燃え上がって、結果的テレビワイドショーでも取り上げられる、みたいな流れ。

昔だったら地方紙の片隅に載るくらいで終わってたような話が、今や誰でも発信者になれる時代から、良くも悪くも可視化されやすくなったってことなのかも。

から、昔よりスキャンダル自体が増えたというよりは、「知る機会」が圧倒的に増えたってことなんだろうな。昔の政治家がみんなクリーンだったなんて思わないけど、今の方が有権者監視の目が厳しくなってるのは間違いない。

それが良いことなのか、ちょっと息苦しい世の中なのかは分からないけど。ただ、自分の住んでる町の政治家が何やってるか、昔よりはるかに分かりやすくなったのは事実だよな。

伊東市の件、テレビしか見てないと市長擁護する筋が見当たらないんだが

市民的には何か庇う所あったりするんだろうか……

スーパー戦隊放送終了の報に触れて。1972年生男だけど。あれ、仮面

ゴレンジャージャッカー電撃隊バトルフィーバーJギャバンシャリバンを熱心に見た記憶があって、一抹の寂しさを感じた。そういえば、仮面ライダーテレビで見た記憶まったくないな、、と思ってchatGPTに聞いてみた。

戦隊シリーズは日曜夜7:30(NETテレビ朝日系)で全国同時ネット

 → 家族視聴枠で、ほぼ全児童自然に見られる。

仮面ライダースカイライダースーパー1)**は朝8:00(日曜または土曜)枠。

 → 地域によっては「遅れ放送」「裏番組アニメ再放送」「教育番組」などで競合し、見られないことが多い。

戦隊ギャバンのようにゴールデン枠で強く宣伝されていた作品とは違い、

仮面ライダーは“朝の地味な再放送”扱いで、偶然見なければ気づかない存在だった。

ゴレンジャー→バトルフィバーサンバルカンギャバンという流れは、

東映テレ朝が「戦隊メタルヒーロー」を主軸にしていた時期。

同じ制作会社・局でも、ライダーはほぼ放映停止。

子どもたちのヒーロー像は「チームヒーロー」や「宇宙刑事」に移行。

個人ヒーロー型(仮面ライダー)よりも仲間制の方が人気。

このため、本人の「興味がなかった」というより、

時期的に仮面ライダーが周囲で話題になる機会が少なかったというのが実際に近いです。

仮面ライダーシリーズ継続して視聴した記憶がない」のは、

興味の問題というより、1975〜1987年の“仮面ライダー冬の時代”に幼少期を過ごしたため、エクスポージャー自体ほとんどなかったから。

特に1979〜83年頃は:

戦隊シリーズ黄金

メタルヒーローギャバンシャリバン)が新鮮

ライダーは朝帯で低露出・空白期

したがって、視聴経験の偏りは極めて自然時代現象と言えます

とのことで納得した。のだけど、AI回答なので誤りが含まれいるか特撮詳しい人教えて。

友人との会話:相手の話9.5割、自分の話0.5割

マシンガンのように自分の話ばかりしたがる友人が、なぜか私の周りには多い。

思えば昔からその傾向はあったけれど、みんな30代になってから酷くなってきたように思える。

しかもつまらなかったり、1ミリ共感できなかったり、そもそも興味がない話題であることがほとんどなため、最近は友人と会うこと自体憂鬱になり始めている。

友人①は、姑だの保育園だの小児科だのといった話ばかりで、未婚子無しの私にはちっともわからない話ばかり。ママ友に話せばいいんじゃないの?昔は趣味なども持っている人間だったが、今はとにかく狭い世界の話しかしない。頭の中が子どものことでいっぱいなのはしょうがないなとも思うが、そんな中でも共通話題最近食べて美味しかったもの、ちらっと見たテレビの話など)を出すくらいのことはしてほしい。私のことは子ども好きだと思っているようだが、かわいい子どもかわいい一面だけが好きなだけであって、子育て周りのことには興味ないのだよ。

友人②は、逆に良い年してワンナイトセフレの話ばかり。鍵垢のSNSで逐一ことの顛末を書いているから大体の流れはこちらも知っているのに、会うと1から話そうとしてくるから手に負えない。一部始終を話すことでスッキリしているようだが、私はとにかく疲弊してしまう。更に説明下手なのも致命的だ。「◯◯さんが…あ、△△ちゃんって私の友達の友達なんだけど〜、チワワ飼ってる人で、ちょっとぽっちゃりしてて〜」といったかんじに、話の本筋ではないものディテールを謎に詳しく話したがるので、テンポが悪く話も長くなる。

「◯◯ちゃんは優しいから、話聞いてほしくなるんだよね」と、よく言われる。

それが私の長所なんだとは思うけれど、最近はその役割ストレスしか感じない。

友人たちと会う頻度を減らすため、LINEに返事をせず2ヶ月ほど寝かしているが、この後どうしようかというのは正直決めあぐねている。

最近人と会うと疲れちゃうんだよね」という断り文句は、果たして効果があるのだろうか…

不器用旦那を上手く手のひらで転がしたい

昨年別居婚した旦那と、遂に同居することになった。

事情があり、お互いが実家暮らしのまま別居婚したものの、またまた事情があって同居するという形。

旦那はよく私の実家に遊びに来るので、実質半同棲みたいなところはあった。

(だが、家事はお互い親に頼りっぱなし気味)

私はある程度家事能力があるが、旦那は壊滅的。

料理が好きだといい、私がダウンしている日にハンバーグを作ってくれた。

柔らかくて中がトロットロのハンバーグで、どんなお店のハンバーグよりも美味しかった。しかし、よく見てみると中がピンク色だった。

私は生肉が大好きなので、過去一の美味しさの秘訣に納得してしまった。

料理の後の洗い物も酷く、油汚れは落ちないし、洗剤が流れていないまま乾燥棚に乗せるような人だ。

このまま同居したら、家事の全てを結局私がやる……という形になりそうで、それを回避したくてなんとか旦那教育することにした。

まずは皿洗いから。

旦那に皿を洗わせては、ここが汚いよ、力が入りすぎてるよ、と一つ一つアドバイスしてみた。

ダメだった。旦那は嫌そうな顔して、「これ終わったらテレビ見る」なんて言ってすぐに皿洗いをやめてしまった。まだ洗い物残ってるのに。

うーーーーーん。

困った私は、まず皿洗いを頼む所からはじめることにした。

「〇〇くん、疲れちゃったからお皿洗いお願いしてもいい?」

頼られるのが好きな旦那は食いつく。即答で、すぐに洗い場に立った。

スキンシップするフリをして隣に立ち、洗っている様子を見る。

泡の流し残しがなかったので、すぐに「綺麗に洗えててえらいね」と褒めてみる。満更でも無さそうだった。

流し残しを見つけては、「ここ泡が残ってるからもうちょっと流してみて」とお願いベースで頼む。

全て洗い終わった旦那に、「ありがとう、助かった!やっぱ頼りになるな〜」と大袈裟に褒めると、めちゃくちゃ嬉しそうだった。

手のひら転がし大成功、と口にしたくなるところを我慢してニコニコしてみたが、それと同時に「ここまでしないといけないのか!!」という気持ちが襲ってくる。

これから先も事ある事に顔色を伺いながら手のひらで転がさなきゃいけないのか。

というか、これじゃあ私が転がされてるのではないか

もっと上手く転がして、あわよくば家事の全てやってもらいたい……その為にも、教育に力を入れなければならない。

しばらく私も転がされてるような状態が続くんだろうな。

2025-10-30

栗城史多という人のことを考えると、つい私は台所お茶をすすりながら、「ああ、あの人はなんて華があるんだろう」と思う。もちろん、登山家としては完璧じゃない。単独酸素で登頂する、と言ったって、実際には酸素や装備の補助があった。でも、その「そこそこの技術」が絶妙で、見る人間が「自分にもできるかも」と思う、ぎりぎりの線にあった。素人もついていこうという気になる。それはまるで、知らない家の庭に咲いた花を、思わず手折りたくなる気持ちに似ていた。

テレビに出ていた無名登山家たちは、栗城さんを「市民ランナー」と呼び、眉をひそめていた。「こういう人にはなりたくない」「山が誰のものだと思っているのか」――そんな言葉がぽつぽつ口からこぼれるたび、胸が少し痛んだ。私は台所で、湯気にのぼるお茶を見つめながら、思わず「そうでしょうね」とひとりごちた。技術評価する人たちの世界では、栗城さんの存在は、どうしても異物だったのだ。

でも、そういう批判の裏には、きっと嫉妬がある。栗城さんにはスポンサーがつき、彼の挑戦は映像になり、物語になり、話題になった。自分には三万円すら出ないのに。格差は、嫉妬を生み、上から目線批判を生む。私も昔、そんな経験を少しだけ知っている。人が評価される理由が、自分努力技術の正確さだけじゃないとき、胸の奥がひりつくような気分になる。

栗城さんの挑戦を思うと、つい私は三浦雄一郎さんのことも思い出す。あの方も、山頂からスキーで滑り降りる映画を残した。だが、三浦さんの場合は、必ず同行者を連れて撮影を行い、カメラが回るための安全網があった。言い換えれば、先人の挑戦の「物語性」を忠実に映像化するスタイルで、栗城さんもまた、そこを模した面がある。人に見せる挑戦として、物語を作ることを恐れなかったのだ。

それに比べると、植村直己さんの挑戦は、また違った迫力がある。自分で映写機を持ち、数キロもの距離犬ぞりで移動させ、撮影してから戻ってくる。悪天候の中でも、自分身体限界まで使い、物語を記録に残す。彼もまた、最後自然の力の前に屈したのだが、挑戦の姿勢には、どこか無言の孤独美学が漂う。栗城さんも植村さんも、無理をして自然の壁に挑む点では、別物ではない。違うのは時代と、物語の伝え方だけだ。

登山界の一部は、自然の厳しさよりも、技術の優劣にこだわる。最大酸素摂取量がどうだとか、悪天候の中で無理をしたかどうか、とか。人の生まれつきの心肺能力や耐寒性なんて、変えられないのに、そこを痛めつけるのが美学らしい。登山家たちって、そういう人種なんだ、と私は思った。

それでも栗城さんは華があった。登山家としての最低限の技術を備えつつ、素人の心もつかむ華。見ているだけで楽しくなる華。人気があるから嫉妬も集まる。でも、人気でしか測れないものだって、世の中にはある。

批判嫉妬も、言葉の端々に現れる。「頭を下げて岩山登坂の技術を習いに来たら相手してやらなくもない」とか、「市民ランナー」なんて言葉がぽつんと並ぶ。笑ってしまう。相手してやる、なんて、まるで小学校運動会順位の下の子を認めてやるような言い方だ。完全に嫉妬に狂っている。

はいつも思うのだ。山は誰のものでもない。権威ある登山家のものでも、論文を書き連ねる評論家のものでもない。挑戦する人すべてのものだ。栗城さんは、技術権威ではなく、物語と華で山を共有させてくれた人だ。だから批判嫉妬も集まるのだろうけれど、私はその混沌を見ながら、ほんの少しほっとする。山に上がる人たちが、同じ物語共感しながら登れる場所があるということが、嬉しいからだ。

振り返ると、栗城さんの挑戦は、単なる無謀な行為ではなかった。登山界の古典的評価軸と、メディア時代評価軸の交差点に立ち、素人専門家も巻き込んで、山の魅力を再演した実験だったのだ。嫉妬批判も、その構図が露わになった証拠にすぎない。華があって、そこそこの技術を持ち、人気があったからこそ、彼は批判され、同時に多くの人を夢中にさせた。

結局、私たちが傷むのは、技術権威ではなく、理不尽価値観の押しつけを目の当たりにするからだ。栗城さんは、その理不尽に少しだけ風穴を開けてくれた。だから、私は今でも、彼の挑戦を思い出すたびに、少し微笑んでしまうのだ。

anond:20251030202613

へー終わるんだ!

なんだかんだ小さい子にはテレビ見せてるひと多いから安泰かと思ってた

戦隊終了マジ?

いち特撮オタクとしてはビックリ

売り上げが落ちてた云々と話半分には聞いてたけど、これの影響で終わったってのもありえる話なのかな。

ゴジラは持ち直してきたのと映画というジャンルからまだ行けるだろうけど、現行テレビ特撮ウルトラマンライダー明日は我が身なのかもね。

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