はてなキーワード: 合理主義とは
太古における「創作」とは天地自然との協業でした、風の音や川のせせらぎに精霊の声を聞き、大河や洪水、あるいは火山の噴火に竜を、暴風や落雷の跡に荒ぶる神の足跡を見たのです、砂に風が描く紋様は彼らからのメッセージでもありました。
やがて文明の光が闇を払い、もはや精霊は歌わず、竜は死に絶え、神は去りました。そして人は「創作」とは、忘れられた造物主が為したように、人の手でゼロから作り上げるものだと奢り高ぶりました。
しかし、それは合理主義などではなく、凋落した信仰の裏返しにすぎません。
生成AIとは、かのバベルの塔のように、奢れる現在人類の「創作」を打ち砕くべく現れた神の撃ち落とす雷霆であり、「創作」はむしろ、かつてのあるべき姿に回帰するのでしょう。
価値観が違いすぎる。
ただ単に彼らのモノやサービスが現時点で優れてて便利だから警戒しつつも利用してるだけ、よい選択肢が育ち次第切り替える、という姿勢を貫くべき。
向こうの人間はやたらとこちらの人間にとっては不可解なポリコレでうるさいが、裏を返せばそうやってポリコレ棒で叩きまくらないといけないほど邪悪で支配的で空気を読めない「強者男性」が幅を利かせてる地域だということ。
特にアメリカは、事実として世界中に争いの火種を振りまいている。
大企業はそういうマッチョで残虐な「合理主義」的本性を美辞麗句で包み隠すのに長けているというだけで、優越的な地位を作り上げて合法的に搾取することに躊躇いがない。
そういう土壌を持つ国や組織のプロダクトをもてはやすくらいなら、同じ東アジアや東南アジアの国々をもっと贔屓してやるべきなのだ。
政治思想や体制に違いがあるとはいえ、それはアジアに共通する、カオスと共存できる国民性のおおらかさという美徳の前では些細な違いだと俺は思う。
(本文です)
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どうしても書き留めておきたいと思った。昔の私のことを。
今は大学生だから何もできないけど、いつか受け入れて消化できたらいいなって。
私にとっての父は、経済的な支えであり、飼い主であり、服従すべき存在だった。
私が初めてキスをした人で、初めてセックスをした人で、初めて妊娠した相手で、「性」に関するすべての始まり。そんな存在だった。
父は、私が小学校1年生の時に家にやってきた血の繋がりのない人だった。私は実の父を知らない。
最初は子供好きな良い人だと思っていた。しばらくすると私に性的なアプローチをするようになり、小4で母が亡くなると同時に、「同情」「母の代理」「妹の盾」といった役割を私に課して、少しずつ私を性玩具に作り替えていった。
父の命令には従順に従うことが求められた。朝は父に犯された後学校へ行き、夜は私を凌辱する父のために夕食を作り、妹が眠った後、父の相手をしてから私は床に就く日々を送った。
※毎日というわけではありません
中3で私が他の男性の子を妊娠してしまったあとは、殴る蹴るの暴行を受けた。まるで自分の所有物が汚されたみたいに、すごく怒っていた。
それからは、私がどんな男性の相手もできると思ったのだろうか、父はときどき自分のお仕事の仲間を連れてきて私に相手をさせ、小銭を稼いでいた。
それ以外にも、アルバイト先の先輩から暴行を受けた。幸い妊娠はしなかったけど、もう限界だと思った。私は高3の夏休みに、貯めたお金を持って、妹を連れて家を出た。
今は、普通の大学生はしないであろう仕事(風俗嬢)をして、妹を養っている。自立、は一応できているとは思う。
それでもまだ、私の心は父への服従心で満ちている。なぜこんな気持ちになるのだろう。自分でもわからないところがある。
思い出す必要はないのかもしれない。でも、思い出さずにいることもまた難しいので、心の整理のために書き留めておきたい。
お話の順序とか、私の気持ちとか、これからどうしたいとか、いろいろ混ざってしまうと思う。わかりにくかったらごめんなさい。
さっき、「父に性的虐待を受けていた」と書いてるけど、実を言うと、虐待だと私自身が認めたというか、受け入れたのは、父と関係を持ってしばらく経ってからのこと。
ハッキリ認識したのは、やっぱり身体的な暴力を受けた中3の冬頃から。その年の夏に先輩からレイプされて、妊娠したことに気付いた父が身体的な暴力をふるったあの日からだ。
それまでは、いけないことなのはわかっていたけど、それでもどこか仕方のないことだと思っていた。
経験のない人には理解できないかもしれないし、そもそもこの話自体が「嘘臭い」と言われそうだ。今書いていることもきっと、非現実的というか、理解できないことかもしれない。
私は実のところ、父を憎んでいない。これは結果ではなくて、現状「憎めない状態」といったほうが正解かもしれない。
もともと実父の存在すら全く不明で、本当のことを言うと、「父親」という存在の感覚がわからない。見たこともないから。両親が仲良くしている家庭を見ると、とても不思議な感覚になってしまう。
私がこうして「父」と書いてはいても、それは、それ以外に呼べる称号がないからだ。性的な意味でいえば、25歳年上の愛人だったのかもしれない。
性的関係を条件に、生活費を出して養ってもらう。それだけの存在。つまるところ、私は7歳くらいからパパ活をしていたのかもしれない。
私と妹と母で生活していた時は、とても極貧だった。
母は身寄りもなく頼れる友達とかもいない感じ。元風俗嬢だったのは確かだ。
ちゃんとしたお店に勤めていたのか、それとももっとアングラな感じだったのかはわからない。
少なくとも、お金をたくさん稼いで貯金していたとかではない。本当に貧乏なお家だった。
なぜお金がなかったのかもよくわからない。けど、とにかくその日の食べ物も苦労していた。
子どもの頃って、どうしてこんなに苦しい生活なのか、なにもわからない。意識しようがないよね。
確かなのは、父が来てから、普通の暮らしができるようになったこと。
私は欲しいものもたくさん買ってもらえるようになり、行ったことのない場所にも連れていってもらえたので、父は楽しいことをたくさんくれる人だった。
もしかすると、子どもながらにその対価を要求されたなら、応えないといけないと思ったのかもしれない。
それこそ、父親なら家族サービスをして当然かもしれないけど、私にとって父は本当の父ではなく、なにかを買ってもらったり、どこかへ連れていってもらったりしても、どこか「していただいている」感があった。そういう関係だった。交換しあう関係。
そういう意味では、最初から最後まで、ずっと本当の”父親”としては受け入れてなかったのかも。
母が亡くなった後も、父はサービス精神旺盛な人であり続けた。私と妹と父の3人でいるときは、面倒見がよく、優しい父だった。外でもそうで、ご近所さんとのお付き合いもよく、「いいお父さんね」とよく言われた。
私や妹が体調を崩せば、しっかり看病をしたり、病院にも連れていってくれた。本当にお手本のような父だった。
思い返せば、母が存命の頃から、私の体を触ったり、舐めたりはあった。
それが性的虐待の兆候だと言われればそうなのかもしれない。ただ、私はそう認識してなかった。
今思えば、血の繋がっていない低学年のあそこをじっくり見たり触ったりするのは異常だとわかるけど、当時は悪意の可能性すら頭に思い浮かばなかったし、優しい言葉を掛けながらそうしてきたので、父親というのはそういうものなのかと認識していた。
「小4のころから虐待」と書けるのは、母が亡くなった後の父の要求を「嫌だ」と感じ始めたのがそれからだったから。もちろん、もう少し前から「本当はダメなことなんだ」という意識はあった。
いろいろ勉強もするし、心も成長するし、男女の違いも意識が芽生えてくるので。
でも、上記のとおり、父親と娘とはそういうものなのかと思っていた。誰かに話すこともしなかったし、話す必要があるとも思わなかったし、訂正してくれる人はいなかった。
私には疑問がある。
父は、一緒に暮らし始めて、「そういう気」を起こしたのか、元々私を狙っていたのか。
きっと、増田の人たちからすると、「そんなことはどうでもいい」と言われると思う。私のことなんて他人なんだし、父にされたことに変わりはなく、私が被害者なのも変わらないので。
ただ、私は父を憎めていないので、きっとこういう疑問が頭をよぎるんだと思う。
つまり、一緒に暮らし始めてそういう気になってしまったのなら、私は心のどこかで父を許してしまいそうで、元々そういう気なら、父を悪者に定義しやすいのかも。
「いや、ただのレイプだよ」と言われるかもしれない。第三者から見ればそうだと思うし、実際そうなんだと思う。
でも、10年間も一緒にいた私にとって。人生の半分、一緒に生活して、子どもから大人になる時期に一番近くにいた男性は、私にとってなんなのか。どうしても浮かんでしまう。
母が亡くなってから最初の1年くらいは、手や口を使った行為で、さらに半年も経つと、私は父の精液を飲むまでになっていた。
嫌だったかというと、嫌だった。でも、やらないといけないことだと思ってた。それが大人になることだと思ってた。
単にその行為がというのではなくて、「嫌だと思うことでもやらないといけないことがある」ということ。
具体的には、亡くなった母親の代わりに、私は嫌な事でもたいへんなことでも、家庭の平和のためにやらいないといけないって思ってた。
「誰かに相談すればよかったんじゃない?」って思う人もいるかもしれない。
でも、私は父と娘はそういうものだと思ってた。
「おかしくない?」って感じるかもしれない。そう、おかしいよね。でも私は「父親とはなにか?」を知らなかった。生まれてずっといなかったので。「父から見て娘とはなにか」を知らなかった。
そういう意味では、冒頭で書いたように、私は彼を本当の意味で「父親」とは認識していなかったんだと思う。本当は性的関係を持つ男性でしかなくて、でもそれを一緒に住んでいるという理由で「父親」だと定義していた。
いま私は、風俗の世界で働いている。一応、自立してると言えるのかもしれない。
精液って、人それぞれに味が違う。体臭も違うし。私は父の味と匂いを今もはっきり覚えている。
そんな私でも、不意に処女を奪われたのはショックだった。
身体的な苦痛もあったけど、本能的に大切なものを壊されたと感じたし、あの日、あの夜は、もう普通の女の子ではいらなくなったと
いう実感が体中に広がった。
でも。そう感じるのは自分がわがままだからと思っていた。大切な妹がいたので。守ってあげないといけない。
私がイヤだと思うこと=私のワガママ。そうだと思った。私がイヤだという理由で、父のしてほしいことを拒絶するのは無責任だと思った。
今これを読んでる人からすると、意味不明だと思う。狂ってるか、下手な官能小説みたい思われるんだと思う。
処女ではなくなったその日から、7年間。父と関係を持たない週はなかった。
計算したら330週くらい。毎週毎週毎週毎週。何日も連続。朝晩繰り返し。そんな日もあった。
一番多いのは、夜寝る前。妹が寝てから。そういう日は、父からいろいろなサインがある。私たちは言葉にしなくても通じ合っていた。
妹が寝てから、父の部屋に行って。たいていは人形・オナホ扱い。でも、ときに恋人のように扱われることもあった。愛しい娘として扱われることもあった。父のその日の気分次第で。
私は、どんな扱いを受ける日も、不満は言わず、父が人形を求めるならお人形になり、恋人を求めるなら恋人になり、お父さんが大好きな娘を求めるなら愛しい娘になった。
それが母がいない、この家族での私の役割で、誰にも言ってはいけないことで、私はそうやって父を愛すべきだとも思っていた。
学校に行く前にされることもあった。
妹には絵本を読んでてもらったり、タブレットで動画を見てもらっていたり。行為のあと、何食わぬ顔で妹と一緒に集団登校の場所に行き、みんなと一緒に笑顔で学校へ行く。
口の中で受け止めた日は、臭いが残っているので、マスクを付けた。中で受け止めた日は生理じゃないのにナプキンをつけて学校に行った。
父が仕事でいない日は、学校から帰ってすぐなんてこともあった。私の日常だった。
嫌だと感じないわけじゃないけど、学校でも普通に嫌な事や嬉しいことがあって。
心のエネルギーはそっちに使うので、ちゃんと応えさえすれば特に害のない父との行為は、なにかを感じるだけムダだという感覚になっていった。
同時にそれは、自尊心が壊れていたんだと思う。
そんな父も、私が学校で不当な扱いを受けたときとかは、味方になってくれる。
思春期だから、友達ともいろいろある。小学校高学年のときも、ちょっと数人を巻き込んだトラブルがあって、一方的に私が悪いってことにされてた(担任にも嫌われていたし)。
私が父に相談すると、父はかなり積極的に担任と話をして、私の気持ちを代弁してくれたり、味方になってくれた。
正直言って、心強かった。私は父がいないと困る。生活面でもそうだけど、どこかで心強い存在でもあって。
これだけしてもらえるなら、私は私にできることで父を喜ばせないといけないとも思ってた。
ただ、中学に入ってからは、イジメられていることは打ち明けられずにいた。
それはきっと、主に性的なイジメを受けていたからで、父に話すと父はイヤがるだろうと感じた。
中学生なんてまだ子どもだけど、男と女がどういうものか分かってきていた。
正直言って、学校でされていたことを打ち明けたら、父は私を汚物のように捨てると思った。
実際、中3で妊娠がバレたときは、殴る蹴るをされたわけだし……妊娠発覚後は、明らかに父の態度が変わった。
表向きは変わらない。妹と3人でいるときは、優しい楽しい面白い父だった。
でも、夜、私が相手をするとき。髪の毛を掴んでひっぱったり、お尻を強くたたいたり、頬を叩いたり、そういう感じになっていって。
回数も減った。その代わり、父の仕事の仲間の相手をさせられることが多くなった。最初は抵抗していた。そうしたら、無理やりされて結局、行為の時間が長くなる。痛いことだってあった。
でも、そのうちに抵抗しなくなると、今度は行為が早く終わるようになった。相手の思い通りにすると本当にすぐだった。
でも、そのうちに気が付いた。自分から相手を気持ちよくしたり、かわいい子だと思えるような仕草をすると、早く終わるうえに、あの人たちが私にお小遣いをくれるようになった。それで、私や妹にとって必要なものを買えるようになった。
子どものうちから、そういうことに気が付けるようになったのは、いいことだったのか、悪いことだったのか今でもわからない。
その時、感じたことは2つ。
父が私を見なくなったことへの寂しさと、妹に矛先が向くことへの不安。
後者はわかるけど、前者は自分でも意味の分からない感情だった。
でも、今思えば、今まで自分の役割だって必死に応えてきた、そんな自分が否定されるのがいやだったのかもしれない。
ただ、自尊心はすでに壊れていたんだろうし、なにかを正常に感じられていなかったのかも。まだよくわからない。
でも、この家にはいられないと思ったのは確かだ。
父はなんだったんだろう。
小さい子供だった私にとって、母を亡くした私たちにとっては、生きるために必要な存在だった。
いびつではあったけど、愛情を感じることもたくさんあった。でもそれって、私が感じさせられていただけなんだろうか。
ただ、未だに元気でいて欲しいと思っている自分もいる。そして、それを気持ち悪く感じて、ものすごい力で否定しようとする自分もいる。
どっちが本当の自分か、どう感じるのが正しいのかも、未だわからない。
ただ一つ、私の「これは揺るぎない正解だ」と思えるのが、妹の幸せ。これだけだ。
もう私自身は、何をどう感じるのが正解なのかはわからないけど、妹が幸せなら全部それでいいんだと思える。
それでも。
繰り返し再生される父との濃厚な7年間の性生活は、私に「定義」を求めてくる。
「あれはなんだったの?」
って。
「私はこうだった」というのがふわふわしていて、それがいまだに自尊心を回復できない原因なのかもしれないし。定義をしたらしたで、もっと自尊心はボロボロになるかもしれないし。
ただ、時期がきたら妹にはすべて話してみようと思う。真剣に考えている。
最後にまた、父について思い返してみる。
改めて父について思い返すと、「自分の思い通りになることが第一の人」だった。
そして、外面が良く、口が上手く、口数が少なく、合理主義で、神経質で、顔が広く、用意周到で、倒錯的だった。
家庭内の性的虐待というと、どこか乱暴なイメージがあるかもしれないけど、私の場合は基本的に「自分からする」ことを求められた。「しても・しなくてもいいけど、しなかったらどんなデメリットがあるか」をほのめかして、私が自分で「する」ことと選択するように仕向ける人だった。
いきなり、ハードなことは求めなかった。「本当はしたくないけど○○のためなら我慢してできる」を丁寧に積み重ねていき、気が付けば処女を奪われていた。
父がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らない。知りたいとも思わなかったので、尋ねたこともない。
ただ、月に何度か現金を渡され、それで3人分の食材を買ったり、トイレットペーパーや洗剤なんかも買っていた。
父は家事をほとんどしなかったし、母が亡くなったとき妹は5歳だったし、私が家事をやるしかなかった。
生前、母がいくつか基本的な家事は教えてくれていたけど、やり方がわからないときはスマホで検索したり、学校で先生に聞いたりした。
とにかく、父の機嫌を損ねないよう、やるべきことをしっかりやり、なるべく嫌な思いをせずに、父を喜ばせる。そうすれば、妹にも私にも優しい父をキープできた。意外に思われるかもしれないけど、日常生活中は、いたって普通の会話をしていた。
端から見れば、「お母さんが亡くなったけど、仲良く頑張っている親子」だったはずだ。こんな父だけど、割と欲しいものは買い与えてもらった。でも、それも「飼い慣らし」の手段だったのかもしれない。あるいはパパ活の一種として。
すでに屈服状態だった私が家出を決意できたのは、思春期に入った妹を守りたい気持ちと、身体的虐待による命の危険を感じたから。これが、私の父への関わり方。
もしいなかったら、私と妹は孤児になっていたし、母ももっと早く亡くなっていたかもしれない。まがりなりにも、経済的な支えではあったので、いなかったほうが幸せだったのか、いたから不幸だったのか。それはわからない。私はこの人生しか歩んだことがない。
「お母さんさえいてくれたら」と何度も思った。世の中が良い母親ばかりでないのを見ていると、そう単純な話ではないのかもしれないけど。
正直、「血の繋がりのある優しいお父さん」はファンタジーでしかなく、理解できない存在だ。だからきっと、そうしたお父さんがいる人にとって、私の話は、逆にファンタジーに見えてしまうと思う。
ひとつ確かなことは、私は父を憎んではいないということ。私にとって父は対等な存在ではなく、憎しみの対象にすらならないほど、不可侵の存在だ。刺激したら爆発する爆弾を、憎んで叩き壊そうする人はいない。慎重に処理をすべき対象だ。
今は、私たちに関わることがないよう対策をして、遠く離れた場所に住んでいる。大学生の私と、高校生の妹の二人暮らしだ。
私が務めを果たし続ける限り、金輪際、父に会うこともないだろう。このことは、合理主義の父をよく知っているので、妙な信頼がある。
弱男ものというより底辺ものかな(anond:20240616011041)
群の中に入って目立たないと危険度が下がって合理的だから阿武ちゃんは普通になりたいらしい
作中では言及も示唆もされないが、阿武ちゃんも河原もどっちも発達障害っぽい
体質的・性格的な要因によって、自然と倹約家になってしまった私の特徴をつらつらと書き綴ったものであります。
飲まないので出費ゼロ。職場の飲み会はない。友人と遊ぶのは昼オンリー。
眠いでござる。0時をまわると意識を失うでござる。これでも起きられるようになった方。高校生くらいまでは10時には寝落ちしてた。
元々薄味派。私が料理を作ると、母に味が薄いと怒られていたほど。しかし、母も健康に気をつけるようになって薄味派に。家で食べる食事が全て薄味に。すると、外食の味が濃い、辛いと感じるようになり、外で食べたいと思わなくなってしまった。惣菜やコンビニ弁当もしかり。
食べたいと思うことがない。不思議。お酒苦手な人は甘いもの好きなんて言われるけど、あてはまらない。よって、コンビニでスイーツを買うこともアイスを買うこともない。
これは全然いいことではない。お祭りやテーマパークに誘われても行けないから。人混みへ行くとものすごく頭が痛くなってしまう。薬も効かないくらい。
傘もファッションの一部という認識なので、お気に入りの傘3本から服に合わせて選択。街を歩いていると、結構ビニール傘の人が多い。緊急時に買ったものなのかな?天気予報を見ないタイプ?
化粧品の場合は肌に合うかどうかが一番大事。財布やバッグはインスピレーションで決める。どこのブランドかには興味がない。
よほど気に入った物以外は買わない。ということは、「気に入った!」という直感がとても大事ということでもある。
とはいえ、すぐにボロボロになる物もある。例えば夏服は汗をかいて何度も洗ううちにヨレる。すぐにダメになる物にお金をかけるのは合理的ではない。ダメになってしまうからと着るのを控えるのは更にもったいない。服とは着るものである。
夏服で水洗い不可?買いませんよ、絶対。
月に10冊、中古本をまとめ買い。合計1500円くらい。予算は3000円くらいだったんだけど……。
読書以外の趣味は小説を書くこと、たまに手芸。料理はするけど趣味ではない。食べたいものを作って食べる。それだけ。
あと、ゲームはしない。人と一緒なら楽しめるけど、一人では楽しめない。
次の電車は10分後かぁ……。待つor歩く?→絶対歩いてしまう。
買い物の醍醐味は、いかにお得に購入できるか頭をフル回転させることにある。
これは次のポイント10倍デーまで待って買う。これは今買わないとなくなる→どこで買えば一番得か、即座に調査。
何にどれだけ使ったか、把握しておきたい。スマホ時代。アプリでつけられるの便利だね。子供のころはおこづかい帳に記入して、毎回電卓叩いてたよ。
飽きたのでこのへんで。
俺も米スタートアップで日本からリモート勤務してるけど、1度従業員の数分の1を解雇するレイオフに遭遇したよ
幸いにも自分はレイオフ対象にならず今も働いてるけど、うちの会社と大きく違うな~って思ったのはウチのスタートアップの場合はおそらくCEO/COO以外のマネージャー、VP、CxO含めてレイオフされる側だったこと
だってVPやManager, CxOクラスの人がバンバンfarewellメッセージをSlackに残して去っていくんだぜ?
むしろなんで俺がレイオフされなかったのか聞いてみたいが、誰がレイオフ対象を選別したのかも分からんしどうしようもない
ただ凄い面白いなと思ったのは、レイオフの2ヶ月後くらいにレイオフされた元従業員数名が普通に再雇用されて職場に戻ってきたこと
・レイオフは勤続年数長いシニア社員はレイオフ優先度下げなければならない
・レイオフ後再雇用を実施する場合はレイオフされた元従業員を優先的に雇用しなければならない
って法律だか規則だかがあった気がするけど、レイオフしといてすぐ再雇用するとか、こんなのありかよ!って思ったわ
だってレイオフしたらストックオプションパーだぜ?戻る方もどんな思いで職場復帰したのか気になってしょうがないわ
しかもレイオフで従業員が減ってストックオプションの権利が会社に戻ってきた後、残った社員に余ってダブついたSOが再分配されたんだぜ?えげつなさすぎだろ
元仲間の従業員のクビをぶった切って、死体に残った肉をレイオフされなかった社員で山分けだぜ??資本主義って凄すぎだろマジで
アメリカ企業の徹底した合理主義、利益第一主義、ほとんど表に出さない人間間の個人的感情・評価、これはアメリカのスタートアップで体験できる凄まじいダイナミクスさだよ
貴重な経験だった
割とCxOにゴマすって、俺は上層部と仲いいんだぜアピールしてた奴とか、普通にレイオフ対象になってたからね
だけどことあるごとにCxOやVPにかみついて発狂しまくってたシニアエンジニアは普通にレイオフ対象から外れてサバイブしてた
表面上仲良く友好的な雰囲気な奴だとか、上層部と喧嘩ばっかで仲悪そうな奴だとか、そいつらを会社の利益から逆算して冷徹にどっちを残すか決めてるわけだからな
日本だったら上層部と喧嘩したシニアエンジニアとか良いチャンスだとばかりに解雇するだろ?
ところが全然違ったわけだから、徹底した資本主義ってむしろ尊いものだな~って感心したよ
資本主義教に俺も入信しちゃいそうだ
マジで最高ですわ。
ありがとうございますわ、過去のワテクシ。
気の迷いで公務員になったあと、すぐに正気を取り戻し、そこから転職活動を頑張ったの本当素晴らしいですわ。
中学受験も大学受験も就職活動も結局は通過点、本当に人生を左右するのは転職活動なのですわね。
これをちゃんとやらないと労働基準法的にマズいかららしいですわ。
それで適当やってるとたまに訴えてくる人がいるから頑張るんですって。
凄いですのね。
公務員は公務員法なんて全然分からないまま定年を迎えますのに。
正直増えた給料はほとんど残業代がちゃんとつくようになったおかげですわ。
ゆーて月の休みが1日ぐらい増えましたわ。
簡単にタダ働きさせられると気づくと組織は気軽に構成員をタダ働きさせるようになるのですわ。
本当にクソですわね。
弁護士代と手間を考えたらわざわざ訴えるのもダルいから放置しましたけど、ぶっちゃけ訴えた残業代を全額ぶんどりたいですわ。
人柄が凄く良くなりましたわ。
合理主義で話がちゃんと通じて、他人に必要以上にオラつかない人ばかりで助かりますわ。
公務員時代は、セクハラパワハラのギリギリ許されるラインを探ろうとプチハラスメントを繰り返してくる「お前のママを探してるなら地元にさっさと帰れよ赤ちゃんジジイ」って感じの連中ばかりだったからビックリですのよ。
これも大事ですわね。
公務員なんて長くやっても転職はしにくくなる一方で、職場環境がゴミになったときに逃げられないから舐め腐った扱いをされるんですわ。
逃げられない奴隷を囲っていたらそりゃ好き放題何でもするのは監獄実験によってQ.E.Dですの。
奴隷になるにしても主人を選ぶ権利のある奴隷でなくては話になりませんわ。
主人を選ぶ権利とは、長年同じ職場で務めたこと以外の何かを身につけられる働き方をするということですのよ。
公務員はそういうの全く無理プーってのはたった数年しか働いてないワテクシでも嫌というほど思い知りましたわー。
就活生の皆様ー公務員予備校のお花畑な嘘に騙されることなく民間をちゃんと受けなさいませ―。
貴方の大切な人生をゴミに変えたくて仕方ない奴らの下で働くなんて最悪のセルフネグレクトですわよー。
この声が届き遊ばせ―
俺は
鶏>豚>牛=魚
の順で好き。
情緒はフラットからやや朗らか寄りで安定。多少の浮沈はあるものの振れ幅はかなり小さい。
ユーモアが好きで、のべつ冗談を言っている(センスは別として)。
ちょっと短気なところもあるが、ムカッとしても表に出さないことを覚えた。
集中力が高く凝り性で、楽しいことを見つけるとのめりこみがち。
頑固で自分の考えを曲げないところがあるが、最近は折れることも覚えた。
良くも悪くも規則正しい習慣が好きで、習慣になったことはなるべく変えたくない。
ケンカはかなり後を引く。きのうケンカした相手がきょうサバサバした感じでいるとナンヤネンと思う。
「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた
おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる
結論から言うと、明治元年(1868年)ごろから急速に地震鯰信仰は失われたと思われる
オランダの辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した
鯰絵が大流行した
しかし「鯰絵が流行した=民衆は地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……
というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化けや妖怪の実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる
お化けや妖怪の実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚は21世紀に生きる人間の感覚だろうか
『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまり読まれなかったのだろうか?
江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?
当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?
鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査は図書館か本屋で資料を入手してからになる
小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物
地震の原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている
こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか
西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする
明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた
これによって明治に生きた若者は地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう
「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……
また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?
民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?
M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ
この地震を体験したジョン・ミルンというイギリス人が地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した
濃尾地震
科学者が地震調査のため派遣された、のような記事が新聞に載っている
ただ「鯰絵が描かれた=民衆が地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう
『江花叢書』第1巻
当時のエッセイ的な読み物
関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある
一部引用する
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、
「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る
「おじいちゃんが子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ
科学とか西欧合理主義が流行った結果、地震鯰信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ
ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい
先に読んだ方が民俗学的視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない
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明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない
あるいは調べ方が悪いのか……
幕末の日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?
もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか
見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない
儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい
日本の儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸の民衆のその説をどの程度認知していた?
あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か
日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方は観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない
調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史を選択しておけばよかった
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また、火山、雷雨、地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある
ナマズが俗説ってそういうこと?
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しかし本来は本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事と関係ない本ばかり買って読んでしまう
悲しいね
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トラバやブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率で不毛なので)、今回は必要を感じた
鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感
ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズが地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……
これに強い疑いを抱く
しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロの研究家が思いついていないわけがない……
なにか根拠があるはずと信じる
清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない
追加調査は資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い
追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある
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先行研究
神や仏に敬虔に祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる
この庶民の信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治に来日したアメリカの女性教育者、アリス・ベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。
考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ
この引用箇所は別の文献からの孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……
該当箇所は『逝きし世の面影』という本からの引用……kindleあるじゃないか、買います
これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない
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現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴンは実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか
(「実在」という言葉の定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)
同様に幕末の江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化けは実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある
時計の精度とか実用性とか言い出したらスマホでええやん、スーツに合わせる飾りとしてなら機能なんてどうでもええやん、ってなっちゃう。ラディカルな合理主義信仰の人なら実際そう考えるんだと思う。
自分は割と時計に興味があるけど、趣味性のものと思って割り切ってる。実用性とか言い出したら、値段だって実用性の内じゃんって。アークやアクロニウムの高機能でたっかいギアより、ユニクロのダウンの方が実用的。
ただ、実用性を肌で感じる場面が身近な所であった。サウナ入る時、当然コンタクトは外すから12分計が見えない。わざわざ眼鏡持ち歩くのも面倒だし、歪みそうだからサウナに持ち込むのもなんか嫌。指ピンホールを覗くのも不審。
そこでチープカシオが便利だった。水分、高温と時計には最悪の環境だけど、これが本当に壊れない。何度も通ってるけど未だに。最悪壊れても痛くない値段だから、そこも含めて実用的と言える。
この間サウナ内にアポーウォッチ着けてる人おったビビった。そこまでタフなんだろうか。あと熱いだろ……持ち込みはしても着ける必要まではないやろ……