はてなキーワード: 断罪とは
子宮移植に反対する資格があるのは、子供を産んだ事がない女性だけだと思う。
そしてそれと同じくらいに、既に子供を産んだ女性にも反対する資格は無い。
だって彼女達は、既に自らの子を産み遺伝子を遺すという特権を得ているのだから、他の女性に対してそれを望むなと一方的に断罪する資格などないと思う。中でも娘に対する母親には言う資格無い。
それに今の世の中は何らかの手段で医療の手を借りて産む女性が大半なのだから。自然な状態で自分の力だけで産んだ女性なんて殆どいない。
怒らないで聞いてくださいね
通常の知能を持った人間は、誰が誰とどう付き合っててもそれをもとにしてイチイチイチイチイチイチイチイチイチイチイチイチ不買だの付き合いをやめろだのと断罪しないんですよ
「ドラゴボハラスメントとかガンダムハラスメントなどが若者から叩かれている」
という話を取り上げ、「若者が知らない古いコンテンツを老人達が滔々と語る」ことを忌避する風潮であると言っていた
なんというかそんなもんお互い様やんけと思う
若者(自称若者の中年30代含)が「これ面白いよー」と見せてくるtiktokのつまらなさに顔を引きつらせているこちらとしては、それこそ謝罪と賠償を要求したいんだが
そもそも「自分が面白いと思っているものを他人に押し付けるな」である
年齢関係なくだ
相手が(ゴマすりではなく本当に)興味を示して訊ねてきた時以外、語るな
面倒臭えから
ただ、話の接ぎ穂やフリとして「○○さん、ガンダム詳しいんですよね?」と興味も無いのに訊いてくる若者が居た場合
「まあね」と返すのが妥当だが、興が乗って喋り倒しても別に良いと思う
それで「うぜえ」だのなんだの言うのはお門違いってもんだ
勿論、老人が若者と少しでも交流する為に「流行りのもの」について彼等に訊ねたり、少しだけ知っていることをフリにしたりする場合も同じだ
つまんねえもんを見せられたり聞かされたりしても、忍耐だ
それで世界は成り立っている
ただ現代は「上からの押し付け」に「ハラスメント」という罪名を付けて断罪するので非常に危険である
罪人になりたくないのなら「関わらない」
電車で両手を挙げるのと同じだ
みんなそれぞれのコミュニティでほそぼそやったり、ぼっちでほそぼそやったりでいいじゃない
というか、趣味嗜好に関わらず殆どのことを個々で行える世界になっているんだから、もう人とリアルで交流する必要なくね?
うざいし、危険だし、どうせ分かり合えないし
少なくとも人同士が関わったせいで起きるイジメだのサツ人だのは起きない
ネット上で全てが行われることになったらフィルタリング強化されまくりで炎上だの誹謗中傷だのも見えなくなるだろ
自分は釣りに興味がないのでよくわからないが、釣り竿とかルアーとか色々と商材があって、人気なものはやはり転売ヤーの餌食になっていたりするらしい
そしてたまに「これ使わなかったら転売するんだよ」とか「あれ、いくらで売れました?」みたいな会話がある
自分にとって釣りの話題は興味も知識もないのでそこに加わることはないのだが、俺は基本的に転売という構造自体が好きではないのでその話はいつもモヤモヤしている
ただ、業種によっては転売が通常営業なところもあるし、地域性でも文化は大きく異なる
まあ転売と言っても個人がいらないものを売るという当たり前のことだとは思う
単に個人の不用品を売買することと、大量にあるものを市場から横取りして価格を吊り上げるものは本質的には違う
ただ、転売という言葉が一般人に浸透しすぎて普通の中古売買を転売といったほうがとおりやすくなってる
結局俺には釣りの転売なんてどうでもいいことだが、転売を是とする人が目の前にいるって事実は若干心をざわつかせる
まあ俺だって黒いことをしてこなかったなんてないし
で、その投稿読むと別に普通の日記というかさ、なんら社会的に嘘かどうかなんて関係ないものだったりするんだよ
「おれ、芸能人のこんな秘密知ってるんだ」だとか真実かどうかで意味が異なるものなら疑問を呈する意義は少しあるかもしれない
でも「今日こんな人がいて~僕はこう思うんですよ」レベルの話のどこに信ぴょう性を論ずる余地があるんだろうか
そのくせ変な投稿とかにはびっくりするほど賛同したり、あるいは無根拠に否定するでしょ
男女論とか特に
何を根拠にはてな民は嘘大げさかを判断しているのか不明だし、それで何がしたいのか意味が分からん
なによりはてな民が注目しなければ誰も信ぴょう性なんて気にしないのに、わざわざ自分たちで「こいつは嘘松だ」ってどうでもいい投稿を探してきて裁判にかけてるあたり、単なるアタリ屋を超えた誹謗中傷製造所だよ
最近目にしたのは、駅員の人の話だよね
あれ、最初に投稿した人の話をうのみにしているのに、次の別の駅員の話もさらにうのみにして前者を否定しているんだよ
ぶっちゃけどっちが正しいとか誰にも分んないだろ?俺もわからん、というかどうでもいい
実際はどちらも間違っているかもしれないし、考え方や地域性にもよるかもなのでどっちも真実って場合だってありうる
そうでなくとも、はてな民はどこに出しても恥ずかしいくらいの無知無能の集まりなんだから、判断材料は皆無なわけだし
嘘松かどうかなんてのをはてな民が判断する意味はないし、そんなことをしてたら誹謗中傷の域に達するなんてすぐわかるはずだ
なにしてんだろうね
これまでの行いますが悪いから事実かどうか分からないけど、断罪はじめますとか明らかにおかしいでしょ
もし、思ってた事実と違うことが明らかになったらどうするつもりなんだよ
推定無罪みたいなもんだよ
それからで全く遅くない
これはどちらが善でどちらが悪という話ではなくて思想や国としての方向性の違いの話でしかない
なのにはてな界隈で税負担を軽くするために高齢者をはじめとする
弱者支援を今よりも弱めるって話をすると即座に悪として断罪されるわけよ
これが思想的に歪んでるって認識持てないのかなり客観性がなくてヤバイよ
こういう議論すら許さないみたいな姿勢って明らかに現体制やマジョリティによるそうじゃない側の弾圧なんだよ
日本は世界で最も成功した社会主義国家なんて言われ方もするくらい大きな政府で
それのいい面は国民の中で相対的に生活レベルの低い人の暮らしの質が世界的に見て極めて高いこと
その一方で労働世代を中心とした税負担が大きいことは現在大きな問題なのは言うまでもない
世の中は大ブーイングですね。
この発言。
私はわりとわかるというか、この発言の裏というか、そっち方面で読むとそうだねってなるんですよね。
まぁ、この発言をした人の真意は別としてですよ、マジで性格ブスな人がそ~のまんま言った可能性も大なりなんですけど。
殆どの人はこの文章は「ブスならいじめる、可愛いならいじめない」と美醜がメインだと捉えると思う。
私は違う読み方しちゃうんだよね。
「昔はブスならいじめるような人間だけどいまや大人になった自分はブスだからといっていじめないわ~」
です。
「同じクラス」「だったら」と自分が過去の中学生と仮定した場合いじめて、今現在の自分がブスをどうするかはまぁ確定していない。
彼は幸運を喜んでいるのです。「今可愛くなっている彼女」と「価値観が変わり大人になった自分」両方を。
今もブスにひどい対応をする男ならわざわざ時計の針を戻さずブッサと切り捨てるか、今の彼女のために過去のブスには触れずただフォローすると思いますです。
こんな発言をしたということは、彼女が過去からの変化を見せたことでこちらも同じく過去からの変化をお伝えしたかったのかな、とも考えられるかもしれません。
「おおきく振りかぶって」という野球漫画があるのですが、その主人公はとてもコミュニケーションに難がある男の子なんですよね。それで中学ではチームメートと揉めてひとことでいうとハブられてました。
そして同中が居ない高校に行き物語がスタートするのですが、人に恵まれなんとかやっていく話です。
そんな高校チームのキャプテン、同じ中1だけど凄く大人びてしっかりしてる子なんですけど、彼をして
「今は先にキレるヤツが居るし許せるけど、絶対中学同じクラス(部活)だったらいじめてたわ~」
ですよ。高校生という人間性が一回り成長した時期での出会いに感謝してるわけです。
まぁそうだよね。ととくに引っかからずに読んだ私は、だから今回のこの発言もこのキャプテンの心持と同じ感じで読み取ってしまいました。
独白と本人に言うには天と地の差がありますけど。それもまた性格の悪さかコミュ力不足かは定かではありません。少なくとも彼女になってもいいと思えるまでは愛情を示せて建前を繕える男性だったんでしょうけど、十全ではなかったのかもですね。
だからまぁ、私は人気ブコメにあるぐらいに即極刑レベルの判決を即座には下せないんですよね。人は往々にして過去の未熟を振り返ることがある。ありませんか?ぶっちゃけ私だって小・中学生ならブスはいじる・いじめるような人間性だったし、今はそれはダメだよねと身についた倫理観で包んで平等に接しようと努力しております。ブスに属する自分のためにも。だから、なんていうか、この男はありえない!と自分と重なる部分が一切ないかのように断罪できる人が信じられないというか、凄い善良な人が沢山居るんだなぁと驚いていますです。
なんの話でしたっけ。まあいいや。
BCくんの文章からは、高学歴者や特定の職務に就く人々に対する苛立ちや不満が強く感じられます。この感情は理解できますが、それが物事の本質的な理解を妨げる「思考の歪み」につながっている可能性があります。いくつかの点について考えてみましょう。
「セブンイレブンの高学歴の社長が失敗した」という具体例を挙げていますが、これは一例に過ぎず、それだけで「高学歴者は傲慢で失敗する」という結論を導くのは早計です。個々の成功や失敗は、その人物の学歴以上に、時代背景、経営方針、チームの状況など複合的な要因に影響されます。
2. 「双方向性」を主張しながら、相手を一方的に断罪している矛盾
あなたは「双方向のコミュニケーション」の重要性を述べていますが、高学歴者や中高一貫校出身者を「話を聞けない」「傲慢」と一方的に決めつけています。これでは、相手の背景や意図を理解しようとする双方向性が欠けているように見えます。自分が批判している行為を無意識に再現していないか振り返ることが大切です。
「学歴が高い人ほど傲慢」「話を聞けない」という見方が強調されていますが、これは自分自身の学歴や職務経験へのコンプレックスを相対化しようとする心理の表れかもしれません。批判のエネルギーを、自己の成長や新たな視点の学びに転換することで、より前向きな思考が生まれるはずです。
4. 解決策に目を向ける
問題点を挙げるだけではなく、「ではどうすれば、より良い組織や社会になるのか」という視点が重要です。たとえば、「各方面から意見を吸い上げる」という提案は素晴らしいですが、それをどう実現するかを建設的に議論することが求められます。
BCくんが持つ「次の人や一緒に仕事をする人のことを考えて仕事をするべきだ」という考え方は非常に大切です。ただし、その理念を広めるためには、感情的な批判ではなく、冷静かつ公平な視点での議論が必要です。自分が否定する相手と同じ行動や思考をしていないか見つめ直し、少しずつでよいので、自分の経験や考えを他者に伝えながら共感を広げる道を探してみてください。それが、BCくん自身が考える「本当に優秀な人」の第一歩にもつながるでしょう。
野蛮な子供時代を過ごしていたので、義務教育期間は子ども同士で平気で殴り合っていたし、教師にはボコボコにされた。
虐めることも虐められることもあった。
いまの社会ならまず受け入れられない環境だったけど、今にして思えば悪くない環境だった。
ぼくたちはひどく未熟で、知性や理性といったものは、ほとんど持ち合わせていなかった。
そのため、山のように失敗をしたし、中には犯罪行為もあった。
でも、それらを子供がやったこととして許してくれる環境がそこにはあった。
もしあそこで我々が失敗を経験しなければ、もっとロクでもない大人になっていただろう。
失敗を大人の基準で裁いて学校からはじき出されていたなら、少なくない生徒が義務教育から弾き出され、地域社会が崩壊していたことは容易に想像できる。
学校の聖域化は、今にして思えば、ぼく達のような野蛮な子供には本当に聖域であったし、それはとても有効に機能していた。
一方で、野蛮さとは無縁な、一部の賢明な子供が暴力に曝されて割りを食っていたのは事実だ。
地域の公立学校に迷い込んでしまったまともな子供には窮屈で馬鹿馬鹿しい子供時代を過ごさせてしまった。
その手の子供には大人からの暴力はなかったし、子供同士でも自分たちとは違うソトの世界の住人として認識されていたので、野蛮な暴力に無慈悲に晒されることも少なかったのだが、窮屈であったことは間違いないだろう。
現代では子供にも大人のような無謬性が求められ、聖域は解体されつつある。
いじめも暴力性も、その他の社会的逸脱も許されなくなりつつある。
その恩恵を受ける子供は少なくないと思うし、善良な子供は今の学校の方が居心地が良いだろう。
一方で、ぼくのことを思い出してみると、あの時代で本当に良かったと思っている。
自分の経験した世界以外は知らないが、ぼく達のような子供は当然法律も社会的な規範も理解していなかった。
なぜ暴力やいじめが駄目なのかも理解していないし、教えられても翌日には忘れていた。
ぼくたちの野蛮さや暴力性は、教師の暴力なくして、止められるようなものではなかった。
より強大な暴力性による抑止以外の、理性や道徳では、馬鹿の暴力は抑止できない。
そもそも、現代社会の国家の基盤である国家や法治制度も、警察や軍隊といったより強大な権力、言い換えると暴力や武力によって成り立っている。
未熟な子供を強大な大人の暴力性で抑止するというのは、最も直接的で明快な形で国家や社会を理解する方法のように思える。
他人のとばっちりで全く悪くないのに教師から殴られたこともあるが、振り返ってみると許せる。
当時のぼくは怒り心頭だったが、子供の失敗を許容する環境ならば、教師の失敗も同様に許容すべきだろう。
彼らもある程度は未熟な人間で、法律のような明確な判断基準や依りどころもなく、猿と人間の間の(だいぶ猿寄りの)生き物を人間に近づけるという困難な仕事を、到底見合わない待遇で引き受けていたのだ。
尊敬に値する。
他の動物や大人の社会でもいじめは存在しているし、集団ではいじめは自然発生的に生まれる。
生物の遺伝子に組み込まれたデフォルトの機能と捉えるほうが自然だ。
それを特殊で忌むべき行為として断罪され、弾き出される社会でなくて本当に良かった。
当時は毎日神にいじめを無くしてほしいと祈っていたことを考えると、それなりに堪えていたように思う。
後に神に祈ったのははじめて異性に告白する前と、株で百万単位の含み損を抱えたときくらいだ。
それほど辛かったけれど、それでもなお当時の環境で良かったと思える。