はてなキーワード: 夜遅くとは
全国大会出場を決めた少年とお姉さんは、カードショップで日々修行を重ねていた。
だが、そんなある日——。
お姉さん「ただいま〜」
そこには、怒りで顔を真っ赤にした両親が座っていた。
母「……あんた、いい加減にしなさい」
父「働きもしないで、毎日カードゲームばっかりやって…!恥ずかしくないのか!」
お姉さん「えっ…何?いきなりどうしたの?」
母「どうしたもこうしたもないでしょ!!いい歳して無職で実家に寄生して、いつまでそんなこと続けるつもりなの!?」
父「お前、昔は真面目に働いてたじゃないか!今の生活、恥ずかしくないのか!!」
お姉さんはギクリとした。
お姉さん「……いや、その…もうちょっとしたら働くって」
母「"もうちょっと"って、いつ!?貯金だって減る一方でしょ!?」
父「お前の幼馴染の〇〇君と△△ちゃん、知ってるだろ?二人とも結婚して、今度家を買うんだぞ」
母「同い年の二人が家庭を持って、しっかり生きてるのに、あんたは何やってんの!」
お姉さんは顔をしかめた。
お姉さん「……知るかよ、そんなの」
父「何だと!?」
母「もう、家から出て行きなさい!」
お姉さんは両親に背を向け、そのまま家を飛び出した。
行くあてもなくさまよっていると、スマホが鳴った。
画面を見ると、懐かしい名前が表示されていた。
お姉さん「……△△?」
幼馴染(女)「久しぶり、元気?」
お姉さん「……まぁ、なんとか」
幼馴染(女)「今どこにいるの?ちょっと話せる?」
数十分後、近くのファミレスに向かうと、そこには幼馴染の夫婦が待っていた。
男の方は昔からの悪友で、女の方は同じく幼馴染で、最近結婚したばかりだった。
幼馴染(男)「お前、無職ってマジなのか?」
お姉さん「……まぁな」
幼馴染(女)「大丈夫なの?両親から聞いたけど、貯金もそろそろやばいんでしょ?」
お姉さん「……まぁ、ギリギリってとこ」
幼馴染(男)はため息をつき、腕を組んだ。
幼馴染(男)「お前、昔からゲーム好きだったけどさ…もういい年だろ。現実見た方がいいんじゃねぇの?」
幼馴染(女)「まだ間に合うよ。うちの職場、ちょうど人手不足だから紹介しようか?」
お姉さんは目を伏せた。
お姉さん「……悪いけど、そういうの、今はいいわ」
幼馴染(女)「……どうして?」
お姉さん「オレさ、今、全国大会目指してるんだ」
幼馴染(男)「は?」
お姉さんはコクリと頷いた。
お姉さん「今さら普通の仕事に戻るとか、無理。どうせやるなら、オレはカードで食っていく」
幼馴染(男)「……お前、本気で言ってんのか?」
幼馴染(女)「……でも、それで本当に生活できるの?」
お姉さん「……」
できるわけがない。
そんなこと、自分が一番よく分かっていた。
でも、もう後には引けなかった。
お姉さん「……じゃあな。わざわざ心配してくれてありがとな」
お姉さんは立ち上がり、二人に背を向けた。
幼馴染(男)「……おい、待てよ!」
幼馴染(女)「本当にこのままでいいの!?」
お姉さんは振り返らずに言った。
お姉さん「……いいよ。オレは、これでいい」
そう言い残し、お姉さんはファミレスを後にした。
夜の公園で、一人ベンチに座るお姉さん。
カードケースを握りしめながら、深くため息をついた。
お姉さん(……本当に、これでいいのか?)
もし負けたら?もし賞金が稼げなかったら?
少年「お姉さん!!」
お姉さん「……何だよ、こんな夜遅くに」
少年「ずっと探してたんだぞ!お姉さん、なんか元気なさそうだったから…」
お姉さんは思わず笑った。
お姉さん「……お前、ほんとバカだな」
お姉さんは、少年の肩をポンと叩いた。
お姉さん「…まぁいいや。よし、特訓すっか!」
少年「おっしゃー!やるぞ!!」
悩みは消えない。
でも、今はまだ立ち止まれない。
二人の全国大会への挑戦は、まだ始まったばかりだった——。
普段仕事に追われていると、いつでもできるのに後回しにしてしまう物事がある。
有給取得なんてのはそうで、法令で年間に5日間取らないといけない。
いよいよ期限も迫っているというのにまだ使ってない有給が1日余っていたので、この連休に1日足して4連休とした。
しかし、なんの予定もないと、退屈のあまり目下の不安定な国際情勢でただ憂鬱なニュースを見ながら終わってしまいそうなので、JREポイントを使ってどこかにビューーン!のガチャにチャレンジ。
行き先は上越妙高に決まったのだが、スキーをやるわけでもない自分にとって、大雪以外何も思いつかない上越妙高では途方に暮れるだけかと思い、途中下車で長野を目的地にすることにした。
自分的には4連休のこの週末は世間的にも3連休なので、どこビュンの枠にそれ程自由度がなく、2泊3日とはいえ、夜遅く長野に到着、帰りの便は午前という、2泊2日みたいな旅程となった。
さて当日、行きの新幹線長野到着は21時ちょっと前なので、長野名物は食べる暇がなさそうだと懸念したものの、新幹線が遅延なく到着したのと、駅直結のMIDORI長野のレストラン街にソースカツ丼の明治亭が入っていたので、少ない時間で地元名物は食べられる様だった。
ソースカツ丼はカツが柔らかく、甘いタレが良くあって美味い。
先日訪れた新潟のタレカツ丼似た料理だが、多分こちらの方がカツが厚めで豚肉の存在感が大きい。
豚肉自体もほのかに脂の甘みを感じるが、タレも新潟のものより甘めな気がする。
卵で閉じるオーセンティックなカツ丼も、新潟のタレカツ丼もタレは甘しょっぱい醤油味で、結局のところご飯の上に載せる丼ものにするには、甘めの味付けが重要らしい。
薄めのカツを何枚も重ねて衣のクランチーな食感を強調した新潟のタレカツ丼か、豚肉のボリュームと甘さを強調した長野のソースカツ丼か、双方試して差分を探すのも面白い。
ホテルの方も予約に少し右往左往し、1日目を2日目で違う宿となった。
高いホテルを除いて1日目の枠で唯一予約可能だったのが長野駅前の東横イン。
東横インというとどれも一緒な退屈な宿かと思っていたが、久々に訪れると、まあ東横インは東横インなのだが、設備が真新しく綺麗に更新されていてよかった。不満と言えば枕が固かったくらい。
ホテルでは頭が沈むフワフワの枕で寝たいので、ぜひそこは改善して欲しい。
2日目は早めに起きて、朝食をとりチェックアウト。
できれば味と土地のお土産としての格を両方備えたものを買って帰りたい。
自分用にはうまいのが確定している八幡屋礒五郎のゆず唐辛子を。
全国のお土産力で強いのは北海道と京都を別格として、あとは福岡、沖縄、仙台、新潟あたりがティア1かなと思っているが、長野も戦線を伺うポジションくらいに入ってくるかもしれない。
よく考えたら一説1,400年近く前からあるとされる善光寺を抱えた歴史ある観光都市だから、これくらいの力は見せて当然なのだろう。
せっかく長野に来ておやきを食べずに帰るとそれだけで旅の達成度が3割ほど下がりそうだったので、参道でおやきを買う。
野沢菜のおやきはうまいのだが、詰め物の野沢菜漬けの味が強いので、これは結構饅頭部分が重要なのかもしれない。
他の店だと焼き目の表面にちょっと香り油などを塗ってるやつもあって、店の味で大きく好みが分かれそうだ。
善光寺について山門を写真に収めようとしたら、カメラのコントロールホイールが回らない。
これはしまった、お土産を買うときに落下させてフレームを変形させてしまった様だ。
せっかくのコンパクト1眼なのにF値もシャッタースピードも動かせない。
よりによってという感じだけど、10年は使っているし、普通に考えたら寿命とも言えるだろう。
もう壊れる時期だったのかもしれない。
急角度の階段にヒヤヒヤしながらの山門の見学や暗闇の中でドアノブを手探りするご開帳めぐりをした後におみくじを引いたら吉だった。
望禄応重山 花紅喜悦顔 拳頭看皎月 漸出黒雲間
漢詩なんで読み解きにはバリエーションはあり「財宝を望むなら山の様に集まる」という解釈と「財宝を望むなら山の様に(何かを)積んで応じろ」という解釈があるらしい。
午前からうごいて名物を食べる時間も取れたので、善光寺の後は十割そば大善へ。
十割そばを食べたのは多分久しぶり。繋ぎがなくても繋がるものだ、ボソボソせずしっかりとした弾力があった。
さてこの旅程では実質動けるのが1日だった為、善光寺以外に動き回るのが非現実的な気がしていたが、実際調べてみると、温泉に入るサルで有名な地獄谷野猿公苑は長野中心部からのアクセスが意外と良く、13時迄に向かえば予定に組み込める事がわかった。
流石に外国人が多い。
スキーリゾートの出発点である長野駅からそもそも外国人が多かったのだが、この湯田中ではもう8割は外国人なんじゃないだろうか。
インバウンド好調な日本観光でも例えば北海道なんかは有為に韓国や中国・台湾・香港の人が多いのに対して、長野は本当に世界中から人が来ている。
季節が反対のオーストラリアは今が夏。
夏のスキーリゾートついでに温泉に浸かる猿を見に来ているんだろう。
雪の長野などといわれる割に長野駅周辺は盆地なのでまったく雪が降らず、善光寺参りだけならこの時期でもスニーカーで大丈夫だが、ローカル線で1時間ほど揺られるだけで待っているのが雪の山道となり、途端に足元が怪しくなる。
底の薄いスノーシューズを中敷き2枚重ねで補強してまで履いてきてよかった。
滑る足元にヒヤヒヤしながら1.8km、だいたい30分くらい歩いて野猿公苑に到着。
黒山の人だかりを形成している外国人が温泉の猿にスマホを向けている。
それにしてもなんで外国人はあんなにセルフィーが好きなのか、猿と一緒に、もうとにかく自分のキメ顔を入れたがる。
君ね、もっとお猿に集中しなさいと言いたい。
猿の方はというと外国人の自己顕示欲はどうでもいいという感じで、時々ファンサの気持ちよさそうな顔をしながら温泉に浸かっていた。
入浴シーンを人に囲まれるなど野生動物としてあるまじき状況ではあるが、動物は動物で環境には馴染むものらしく、水族館のマンボウなんかもコロナで人が来なかった時にストレスで弱ったなんて話も聞く。
このサルも急に人が来なくなったらメンタルヘルスが悪化するんじゃないだろうか?
朝の事故でもはやコントロールハンドルが効かないカメラだったが、自動設定に任せれば猿の顔は綺麗に撮れた。
野猿公苑から湯田中に戻り、今度は駅前の楓の湯で自分が温泉に。
この楓の湯は300円というアホみたいに安い価格設定だが、立地もすごく、駅から近いどころか、駅のプラットフォームの反対側に施設があって湯上がりの休憩所の窓からホームに停車中の電車の中の座席まで丸見えという構造だった。
一風呂浴びた後、朝に買って駅のロッカーに預けたお土産をピックアップする為、再び特急で長野に向かった。
2日目の宿、ホテル犀北館にチェックインして、夕食を食べに街に出る。
そばとタレカツ丼とおやき以外に長野の食のプランがなかったので、ざっくり地元食が食べられそうな感じの居酒屋に入る事にした。
普段晩酌をするタイプでもないが、せっかくなので壁に貼られた酒のポップを見るとみぞれりんごの梅酒というのがあり、りんごも長野の名物という事でこれのソーダ割りを試してみる事にして、馬肉餃子と長芋の味噌チーズ焼きを頼んだ。
りんご梅酒は飲みやすくてうまいし、油っぽい餃子とも意外と合う。
大信州は今の日本酒のトレンドのイチゴやブドウの様な華やかな香りとちょっと違う、リンゴの様なフレッシュな香りに後味に辛味がきてスッパリとキレていく感じで、飲んだ瞬間に「めちゃくちゃうまいな」となった。
そばとも本当に合う。
食後はホテルに大浴場がなかったので、部屋に戻る前に近くにある銭湯に寄って行く事にした。
旅行で地元の銭湯に行く事って珍しい、というかホテルのある地域に銭湯があることってあんまりないのだが、たまたま徒歩圏にあり、ここは出発前にチェックしていた。
亀の湯は立っても腰まである深さの湯船を中央に置いて壁に向かった洗い場が囲む作りで、階段を降りた地下にサウナがある。
最終日は帰りので新幹線が9:47分なので、観光する時間は全くない。
出来ることといえば駅ビルで駅弁を買うくらいなのだが、ここで改札前に最後のおやきチャレンジ。
駅ビルMIDORI内の縄文おやきでベーシックな野沢菜おやきを買う。
昨日のものより小ぶりで、饅頭部分のボリュームが多いのだが、このしっかりした饅頭が野沢菜の塩味と良くバランスしている。
長野おやきの正解と思しき調和を駅前で引けるので、長野でおやきを求めるならまずはここで安定だと思う。
改札をくぐりプラットフォームでサンドイッチを頬張る外国人を見ながら「長野で頬張るべきはおやきでしょ、まったく外国から来た人は分かってないね」などと思いつつはくたか556号に乗り込み、帰路に着く。
長野というと、スキーリゾートや軽井沢という、頑強な肉体や財力に余裕がある人向けの観光地といったイメージだったが、そこまで気合を入れなくても、善光寺におやきに猿、スキーリゾートでワクテカの外国人など長野駅から行ける範囲だけでも結構楽しめた。
急な休みができてしまい、どこに行こうかなと考えてるなら、一つ長野も候補にどうぞ。
今の若い女の子ってメンタル弱すぎない?と同年代同性ながらによく思う
すぐ当日欠勤する奴がほんとに多い
当欠する奴をクビにして代わりに雇った奴が当欠常習犯だったとかざらにある
「コロナかもしれないから休みます」とか気軽に使うけど、その連絡で現場がどれだけ狂うか想像してみろよ
当欠する奴とも表面上は仲良くしてるからプライベートの話も聞いたりするけど、その話と照合するとどうやら男と遊んだ翌日に当欠するパターンが9割、それを休んで迷惑かけてる職場の私に話すなよ!?
セフレが帰してくれなくて〜とか自慢げに語るならはやく仕事辞めてその沼男(笑)に養ってもらえばいいじゃん
今の世の中はストレスが多いとか、無理せず休むのが時代の風潮だとか言うけど、シンプルに人手不足だから勝手に休むな
夜遅くまでスマホ見て不安煽られて寝れなくなってメンタルが不安定〜とか言うならその端末捨てればよくない?せめてSNS辞めれば?AIにおすすめされたそこまで興味のない投稿になぜそこまで執着する?どうせつまんねーショート動画見てるだけだろ?
たかが顔がアイドル級にかわいくないくらいで悲劇のヒロイン気取ってんじゃねえよ
お前はSNSで他人の人生覗いて勝手に惨めな気持ちになってそのまま動けなくて腐って死んでいくんでしょうね
体調悪いから何もできなくて〜って何?病院行くか自分で生活管理すれば?それで人生ガチャ外れてるから〜とか言われてもただの努力不足じゃんとしか思えない
そのまま年取って何もできないおばさんになって人生終われ
自称ADHDならADHD向けのライフハック使えよ、ちゃんと医学的に対処法も練られてるんだから
発達障害を人生諦めることの免罪符にするな、せめてちゃんと診断受けろ
メンタル強くて羨ましいとか言われるけどこちとら睡眠運動食事全部気遣って保ってるんだよ、それを聞かれて答えても何も実行しないでただ嫉妬されるのが1番ダルい
事故に遭うまでの私の日常は、規則正しく、ほとんど変わり映えのしないものだった。毎朝、5時45分に目覚まし時計が鳴り、それに合わせて起床する。朝食は大抵、トーストとコーヒー、時には卵を焼いて食べる。食事を終えたら、すぐにパソコンを起動させ、昨日まで手がけていた研究の続きを始める。
私は大学の研究室に勤めており、主に人工知能に関する研究を担当していた。日々の業務は、論文を読み込み、自分の研究結果を論文にまとめること、そして新たな実験やアルゴリズムの開発に時間を割くことだった。ランチは、研究室の同僚たちと一緒に学内のカフェテリアで過ごすことが多かったが、会話は大抵、最新のAI研究の話題や、次の学会での発表内容についてだった。
午後になると、データ分析やコードのデバッグに追われる。夕方には、研究室のセミナーやミーティングに参加し、自分の進捗を報告したり、他人の研究から学ぶ時間を持つ。これらの会議が終わる頃には、すでに夜の7時や8時になっていることもしばしばだった。
家に帰ると、残りの時間は再び研究に戻ったり、読書をして知識を深めることに費やした。私の読書リストには、科学書から哲学書まで幅広く含まれていたが、趣味で小説を読むことはほとんどなかった。週末も、研究を進めるための時間や、学会の発表準備に使うことがほとんどで、旅行やレジャーはめったにない。
そんな生活の中で、唯一のリラクゼーションは、夜遅くに自転車に乗って近所を一周することだった。頭をリフレッシュさせ、次の日の研究に備えるための習慣だった。その自転車に乗っていたとき、信号無視という小さなミスが、私の日常を一変させる事故を引き起こしたのだった。
目覚めた瞬間、私は自分がどこにいるのかわからなかった。記憶は真っ白で、そこにあったのは混乱だけ。部屋を見回すと、散らかった机の上には漫画やゲームのディスクが積み上げられ、壁にはアニメのポスターが貼られていた。床には服が散乱し、洗濯物がそのまま放置されている。以前の私がこんな部屋で生活していたとは到底考えられない光景だった。
パソコンを起動し、デスクトップにあった「はてな匿名ダイアリー」のショートカットをクリックした。そこには「増田」という名前で、私が書いたと思われる大量の投稿が並んでいた。内容は、日常の些細な話題から始まり、時には社会の風刺まで含んでいる。例えば、近所の猫の行動から人生の意味を考察したり、ラーメンの具材について熱弁を振るう文章。どれもが科学的な論文やデータ分析からかけ離れた、まるで別人の作品だった。
これらの投稿を読み進むうちに、私は自分がいかに以前とは違う生活を送っていたかに愕然とした。以前の私は、研究者としての生活を送り、論文やデータに囲まれていたはずだ。それが今は、匿名でネット上に自分をさらけ出し、他人とつながりを持つことで自分を表現していた。部屋の様子や投稿内容から、私はもはや研究者ではなく、何かの創作活動に没頭する増田になっていた。
この事実に混乱しながらも、どこかで面白さを感じていた。ただ、どうやってこんな人生に転落したのか、その記憶が無いことが何よりも恐ろしかった。かつての自分が何を思うかはわからないが、今の自分はこの新しい、そして奇妙な生活の中で何かを模索し続けるしかないと決意した。
職種は身バレ防止にフェイクで書くが、両方ともメーカーの新規事業開発とかだと思ってほしい。
彼は9月から超絶激ヤバ案件が始まってしまい、2学期は残業月70h~100hで休日出勤残業しまくりだったが、
年残業360時間以内に無理やり納めなければならない圧が強い部門のため、最近無理やり遅出早帰りをしている。
私の部署は基本そんなに忙しくないのだが、年明けから急に忙しい。
めっちゃけんかしている
けんかしているというか、大体我々の喧嘩は、私がやらかして、彼がキレて、私が泣いて暴れて、彼が許してくれるパターンである。
正直彼が何に怒っているのか正確に把握できていないんですよね。
2/16-18で月火有給取って蔵王にスキー旅行行く計画を立ててたんですね、年末に予約取って、もう新幹線もホテルもキャンセル料取られる段階まで来ている。
山形は彼が好きで行きたい行きたいってずっと言ってて楽しみにしていて、私ははじめて。
家は東京。火曜日は蔵王チェックアウトして米沢に寄って、米沢から新幹線で帰る予定だったのね。
新幹線は早割で安いの取ってて、宿はもうキャンセル料めっちゃ取られる段階なんですよ。
で、年明けくらいから私の部署で急に納期がやばい重要案件が2件もほぼ同時に舞い降りてきてしまい、急にめっちゃ忙しくなった。例年年度末は忙しいがちなのだが、急に本当に忙しくなってしまった。年内はこんなに忙しくなると思ってなかった。
で、急に案件②に関して2月中旬に仙台に2日間の出張に行く必要が出てきてしまった。1/31に言われた。(そうかもとは2週間くらい前から言われていたし、ちょくちょく彼にそれは言っていたけど)
他の人員は案件①にかかりきりで、行ける人材が私しかいない。(そもそも案件①で2/17の週に2人出張に出ている。私が行く可能性もあったがやんわりと行きたくない雰囲気出したら他の人が行ってくれることになった)
本当の第一候補は2/13-14で、これは先方都合でダメで、次の候補の日程2/17-18だったんだけど、「どうしても外せない私用があるので19-20にずらさせてくださいすみませんごめんなさい」と私が無理を言って19-20にずらしてもらった。納期カツカツなのでできるだけ後ろ倒しにしたくなかったのだけど、しょうがない、帰ってからの案件②の業務が鬼大変になるが、まあ頑張るしかない。
上記のことが私の課内で1/31に決まり、そのかんじで進んでいた。
で、2/3になり、改めて新幹線を取ろうと思ったら、春休みだからか午前中の東北新幹線が全然空いていなくて、全列車グリーン車しか空いていない。
課長に「グリーン車で行っていいですか」と打診したら、「それは総務にダメと言われるからできない。前泊なら許可下りるから前泊して」と言われた。
なのでその方向性で決まったんですね、
で、2/3に家に帰って彼にその報告をして、「帰りの新幹線取り直さないといけない、まあ山形から東京に帰ってまた仙台に行くのも二度手間だったからまあいっかと思うことにするよ」と伝えたのだが、彼はなんかすごい怒っているんですね。
彼:まず有給での日に移動させるという選択をとった課長に怒っている(でも日曜日移動日なことはたまにあるじゃんねと私は思う)。
新幹線は早割の安いのでもう抑えてしまったのだから、今から取り直すとキャンセル料と早割の差額で数千円取られる。
それから、(私は東北の地理をまったくわかっていなかったのだが)、米沢は結構南にあるので、米沢から仙台に行こうと思うと山形回りとかになって無駄が多い。それなら旅程を組み直して、米沢を1日目にして最終日蔵王から直接仙台に言った方が合理的じゃん、でももう新幹線抑えちゃったんだよ、取り直す差額を課長に請求したいくらいだよね。
そもそも有給取っていく旅行なのに、その旅程修正を仕事だからって当然のように私が主張しているのが気に入らない
私:こちらとしては最大限調整してもらって最大限譲歩して、出張の日程もずらしてもらって、出張の前日準備も後輩にお願いすることにして、グリーン車で行ってもいいか交渉しても断られて、いい塩梅を探ったつもりなのだけど!
彼:譲歩ってこっちが譲歩すんの?
彼:もういい。17-18私休み取り消して仕事しよっかな(このあたりで布団で漫画を読み始める)
色々言っても全然返事がないから私はだんだんヒートアップする。
彼は不満がある時、キレちゃいけないと思っているからだと思うのだが、押し黙りがち。
私は反対にこういう時発狂して金切り声を上げがち。
私は彼が何に怒っているのか、私は何に関して彼に謝ればいいのか全然分かんなくて、せっかく楽しい夜のひと時が台無しで、
私:そもそも私は平日に有給取って旅行行くこと自体どうかと思っていて!
私:今のは失言だった、ごめん。
彼:は?じゃあもういいよ一生旅行行かないよ。近場で土日の一泊二日だけすればいいんでしょ。それじゃ私は楽しめないから行かない。
私:なんでそうなるのよ今のは売り言葉に買い言葉でしょ(彼は黙ってただけなので売ったのも買ったのも全部私だけど)。ねーごめんってば今後も旅行行こうよ。出張が入らなきゃ暇だからさ、行けるからさ。入りそうかどうかは1か月前には多分分かるから
彼:でもそんな時期になったら宿もホテルも取れないしキャンセルできないしつまりいけないってことじゃん、もういい!
私:分かったよ、じゃあグリーン車自腹でいいから、一回東京に帰って19日朝に仙台に行く選択肢にしよ?そうすればいいよね?そしたら18日の夜も家で一緒にいられるよ?
彼:だから、新幹線取り消しの場合のキャンセル料と、今から取り直す場合の合理的な乗換ルートと差額を調べて。確か蔵王温泉BTから仙台駅にバスがあったはずだから調べて。
私:(なんだよ)米沢からだと遠回りなんだね、蔵王温泉BTから仙台は1.5時間2千円で行けるんだね、近いね。
私:そうしよ。米沢からの新幹線キャンセルしたから、申し訳ないけど帰りの新幹線は君の方で取ってね
でーーーもずーーーーーっと彼は不機嫌だから。
夜寝るときも朝もずーーーっと不機嫌で押し黙っていて。
何なの、何にそんなに怒ってるの?って言っても返事ないし。
私:黙っているのが嫌!
彼:じゃあいいよ、今日帰ったらこないだ君がしたのとおんなじことをしてあげるよ
って言われて。
要は発狂して金切り声を上げるということだと思うんだけど。
多分ね、彼が一番怒っているのは「そもそも私は平日に有給取って旅行行くこと自体どうかと思っていて!」という一文だと思うんですよ。今までさんざん二人で有給取って旅行行きまくっていて今更それ言う?みたいな。
だから私としては売り言葉に買い言葉だったし、失言だったし、本気で思っている訳じゃないって言ってるじゃん!
めっちゃ本音を言うと、まあそりゃどうかとは思っているけど、それでも行きたいからまあいっか、で行っているんじゃん!
君は超絶劇ヤバ案件の真っただ中で、毎日朝7時から22時まで仕事して(深夜残業は禁止だから)、君が製品開発したから君が一番製品については詳しいのに君が一番下っ端だから君の主張は通らなくて、君が重視すべきと主張した観点の検討は無視されてどうでもいい観点の検討ばかりさせられて。お客さんとの接待してお酒飲まされて。
とっても大変にもかかわらず高潔に頑張っていたことを知っているよ?
10月に富山に行った時も、11月に日光に行った時も、海外出張が急にバッティングしたけど、行けませんって断って他の人に代わってもらったって言ってたね?
私そのとき「大丈夫?今ならまだキャンセルできるよ?キャンセルしようか?」って言ったけど君が行きたいから行くって言ったよね?
だから私その時も出張優先じゃないんだ、とは思ったけどまあ君が行けるっていうならいいかって旅行に行ったけどさ!
だから出張代わりに行ってもらった君の先輩のAさんにもBさんにも私めっちゃ文句言われているんだろうなってずっと思ってたよ?出張断らせて一緒に旅行行きやがってって思われてるんだろうなって思ってたよ!
私ならまだキャンセルできるならキャンセルするなって思ってたよ?
で今回もさ、まだ無料でキャンセルできる段階なら、申し訳ないけどキャンセルさせてください、来年の年度末はこんなに忙しくないと信じているから、来年でもいいですかって君にお願いしたよ?でももうキャンセル料結構引かれる段階だったしさ、頑張ればずらせそうだからそのままにしていたし、実際私頑張ってずらしたじゃん!最終日の帰りくらいいいじゃん、そりゃ一緒に帰りたかったけどしょうがないじゃん仕事なんだから、頑張って調整してこれなんだから!これ以上部署に無理させるのは悪いから嫌!
まあ以上が私の主張ですよ。
あと、まあ彼はその辺の部下の予定を鑑みた業務のスケジュール調整するのが課長の仕事だと思っているからそれをしていない私の課長に怒っているんだろうけど、
私はそうは思っていなくて、この程度なら私の方で可能な限り調整するべきだと思っているのね。
社内とはいえ部門が違うんだからトップの考えも違うし文化も違うの!
君の部門は年360時間以内残業は多少サビ残してでも達成しようとする文化だけど、私のとこはそんなことないし、他にも色々と細かい文化は違うの!
というかだからそれなら朝自腹グリーン車で出張行こうか?って言っているのににそれはいいって言うしさ!
っていうかさ、有給は労働者の権利だって彼は言うけど、でも時期変更権は会社にもあるんだから、やばいから今回はやめて言うのは課長の権利だと思うんだよね。
忌引きとか体調不良とか家庭の行事なら分かるけど、ただの旅行じゃん。しかも社内恋愛なんだからバレバレじゃん。
だからそもそも今回の旅行めttっちゃ後ろめたい気持ちで行くのにさ(まあ行ったら楽しむけど)
さて、起こったことと思ったことを思いついた順番に書いたので取っ散らかっているけど、
彼は何に怒っていて、私は何に対して彼に謝れば良くて、何に対しては私の主張を曲げないで主張すればいいのかが分からないし、
どうすればこれまでの楽しくて平穏な二人の日々が返ってくるのか分からない。
どうすれば彼は怒りを納めて機嫌直して楽しく一緒におしゃべりしてくれるの?
私も意地張ってキレているのがいけないの?
もうどうしたらいいか分からなくてお昼ごはん抜いて長文を書いてしまった。
失礼しました。
(2/5 02:00追記)
・彼には誠心誠意謝ります。彼は千疋屋のババロアが最近大好きなので、買えたら買って帰りたかったなぁ。ケーキ屋ひとつない田舎なので(東京がフェイクなのがバレるな)、コンビニの数段劣る味で彼が満足するか分からないけど、買って帰ります。
・交渉しない私が悪かったです。課長には「本当に申し訳ないのですが出張の前泊が厳しそうで、最悪自腹か立ち乗りでもいいので当日朝行かせてください」とお願いします。
・有給中業務移動がそんなにいけないなんて認識してなかった。全然知らなかった、ただの日曜移動とは全然違うんですね、私が世間知らずですみませんでした。
・課長を責めないでください。私はその日有給のことを課長にまだ言ってなかったのです。(課長は現場のメンバーで調整が取れていればいつ休んでもいいよの人だったので、もうちょっと直前に申請出せばいいかと思っていました。現場のメンバーには私用で休みたいことは伝えていました。)(でもまあ後ろめたかったのでスキー旅行だとのことは内緒でした。)
・そうだよね、彼は一緒に帰りたかったし、米沢で美味しいごはんも食べたかったよね、そこを蔑ろにしたのは私です。ごめんなさい。
・なんでこんな東北新幹線が混んでるかって、丁度平日乗り放題券キャンペーンをやってるからなんですね。教えていただきありがとうございます。ビジネス客としては困るなぁ。
・19日も9時前には仙台駅なので、やまびこだとプラス1時間だから使いたくないし、はやぶさは全席指定だし…と思っていたのですが立ち乗り券があるのですね、知らなかったです。出張に同行する新人には前泊してもらって、私は立ち乗り券で当日でもよかったな。
・もう新幹線キャンセルしちゃったから今更だけど、当初の旅程に戻す?って彼に提案しよう。もう今更だしいいよと言いそうだけど。
帰宅した結果
帰宅して「昨日はごめんなさい」とスイーツ差し出したら意外と普通の反応に戻ってました。割といつも通りな感じで一緒にお風呂入って髪の毛乾かしてやって一緒に歯磨きして寝ました。
ちょくちょく「もう北海道も沖縄も行かないけど」みたいなイヤミは入るのでくすぶってはいますが、日常生活はギリギリ送れますね。だから行こうよって言ってんじゃん。
・最近2人とも業務負荷が高すぎてストレスフルなのはそう。特に彼の業務負荷が。年度内には落ち着くといいんだけどなぁ。
・私に急に入った案件に対して納期と内容がヤバくてストレスで、私も大変なんだアピールを沢山してしまいました。不快にさせてしまって申し訳ありません。
・私がキレやすいのほんと困っています。私の中で身内感による甘えが出ている。言い訳に聞こえるかもですが綺麗に生理前の時期にキレてるので人の体ってままならないなと思います。はてなの人たちなら病院行くのを勧めるのでしょうかね。
今日も彼が寝る前に「残業時間そのものがキツイんじゃない、お客さんからの無茶な要望に対して、カツカツのスケジュールと絶対に失敗できないプレッシャーの中夜遅くまで実験するのがしんどいのであって、君たちみたいな研究ベースならいくらでも残業できるね、実際研究ベースの時期は40-50時間余裕だったもん」みたいなことを言うからさ、(私の業務のステージはどちらかというとまだ研究ベースで、彼の業務は採用決まるか否かの瀬戸際。)つい「研究ベースなのに忙しくてしんどいしんどい言っててすみませんね、じゃあ研究ベースなのに何十時間も残業できない私は無能だって言いたいわけ?」みたいについキレてしまった。そういうことじゃないみたいな呆れた対応をまたされてしまった。
私の部署は彼の部署に比べれば忙しくない負い目は常にあるし、私なんかより彼の方が研究に向いているんだからそう配属してくれればよかったのに、私はここにいるべきではない、とは常に思っている。まあそんなこと言われたって配属されたもんはしょうがないのだから、置かれた場所で咲くしかないということを頭ではわかっているし、普段はそんなこと思わないようにしているけど、不安定な時期だとつい思ってしまう。
私も奴も20代後半、女です
小学二年生で同じクラスの隣の席になってから、小学校ではずっと同じクラス。中学では同じ部活。高校と大学は別れたけど、ご近所なのでお互い彼氏がいなかった年の花火大会は一緒に河原まで見に行ってたね。成人式も一緒に行ったし、一緒に温泉泊まったこともあったね。
地元で就職した私、隣県で就職した君。結局職種まで似たり寄ったりで、会う度に仕事の愚痴言い合うのも、おすすめの漫画で盛り上がるのも、昔からずっと変わらずアホみたいに楽しいよ。
先日、慌ただしかった年始の仕事を終えて久しぶりにお茶したとき。見るつもりなかったけどスマホの画面見えちゃったんだよ。
インスタのDM?それ専用のアプリ?めちゃくちゃやりとりしてんじゃん。
なんだよ。仕事辛くて休職したって聞いて、気晴らしになればと思って声掛けたんじゃん。私といるのに、そんなおじさんたちに急いで返信しなくていいじゃん。この間、年下の可愛い彼氏できたって嬉しそうに報告してくれたじゃん。
なあ、私じゃだめだったんかな?
愚痴だってもっといくらでも聞くし、アンタと喋れるならご飯代くらい出すよ。実家暮らしで多少は余裕あるし。7歳のときから、お互いのこと知ってるんだよ。アンタが中学のときに悪い先輩に唆されて学校の校庭で火遊びしてクソ怒られたのも知ってるし、私が部活サボりすぎて顧問にクソ怒られたことも知ってるでしょ。
アンタが家族仲悪くてヤングケアラーだったのも知ってるし、親元離れられた今も悩み続けてるのも知ってるし、休職してから夜寝れなくてお薬手放せないのも知ってるよ。今日も帰れば家で仲の良いママがご飯作ってくれてる私が、親が起きてこなくて昨日の夜から何も食べずに登校してきてたアンタの辛さを、本当の意味で分かんないことも知ってるよ。
でも私さ、助けてって言ってくれたらどんなに忙しくても電話するし、隣県くらいすぐ会いにいけるよ。夜遅くてもいいよ。
でも、うちが昔から家族仲良くて、なんなら小さい頃家に帰りづらかったアンタがうちに入り浸ってても、うちの家族がなにも言わなかったことを、アンタがきっと覚えてて気にしてることも、私知ってるんよ。
私になにもしてほしくないんだろうなってことも、分かっちゃうよ。何年目だと思ってるの?
あーあ、どうやったらアンタ幸せになってくれるの? 私と遊んでて、ちょっとでも気晴れた? お薬飲んで休めるならいいけど、間違っても死んじゃわないでね。しっかりめに泣くからね。
まぁ、価値観の相違とかはあるよ。
俺も大学生の頃、門限が17時って信じれないくらい箱入りのお嬢様がサークルにおってさ。
さぞ大事に育てられたんだなぁ、と思ってたわけよ。
まぁ美人だとは思うけど好みでも無かったし好きとか思う事ない、ふつーのサークルの一員。
なんなら『その事』があるまで意識もしてなかったんだけど、
夜遅く飲みに誘ったら下心の、反対でさ。
だから飲んだ事も無かったんだけどさ。
17時門限だから、昼からラブホで彼氏とエッチしてから授業とか出てたのね。
それを聞いて驚いたわ。聞いても別に意識もしなかったし、うわコイツすげーなー、と思っただけだったけど。
いやー、それでもあれはカルチャーショックだったわー。
そうか、セックスには、酒も飲み会も終電も夜の暗さも要らないのかー、
授業前に出来るもんなんだなぁ、と。
そんな思い出。
もう言い訳でも何でもないのだけど、毎日早朝から夜遅くまで仕事で頭がどうにかなってた時期。子供が1歳くらいだったのに関わらず。
たまたま、仕事が早く終わったことがあり、スカートが短い女の子の後ろになったときに邪念が過ぎった。
何か撮れたらいいな、という軽い感じで、スマホを動画状態で自分の膝に載せて、エスカレーターで後ろについた。そんなことを何回か繰り返した。しかし、全く上手く撮れなかった。
角度的に相当攻めないと撮れないし、無防備な女子と巡りあわなけれはわいけない。巡りあわせと根気が無いと撮れないのだと思った。
3ヶ月くらいやってただろうか。その日は、本当に頭がおかしくなってたのだと思うが、何としてもスカートの中を撮りたいと思ってしまい、同じ駅で行ったり来たりするまでになった。4回くらいエスカレーターに乗った時だろうか、隣りにいた男性に手を掴まれた。「何してたん?」と。そして、駅のスミのほうに連れていかれた。
「これ、犯罪やで、わかってる?自分もう人生終わりやわ。これで俺が警察に突き出したら、もう仕事も失うし、家族も失うで。俺、もう自分警察に連れていっていい?」
あ、ヤバい人に捕まったと瞬時で察した。これは脅してくるやつだ。頭おかしくなってたのに、そこは頭がまわったらしい。取られた携帯を力づくで取り返し、「すみません、駅員さんのとこに謝りに行ってきます!」と駅員のところに走っていった。そいつも「ちょっと待てや!」とキレながら追いかけてきたが、「私が盗撮してたところをこの人に捕まったんです。本当にすみません。警察を呼んでください」と駅員さんに言った。駅員も焦りながら「あなたが捕まえたんですね、ちょっと警察が来るまで残ってもらえますか?」とその輩に、言ったが、そいつは「なんで、俺が残らなあかんねん!」と消えていった。
その後、普通に警察がやってきて、私は逮捕され、警察署に連れていかれ、取調べをうけ、家に警察と帰り、泣きながら、吐きながら、奥さんに謝り、警察にパソコンを調べられ、釈放された。
俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称“コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。
1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん”
俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコンを自在に使いこなし、テレビやラジオで流れる新しいテクノロジーのニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書や百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語も祖母の解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。
「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組「みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名そのものが祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しかも子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージそのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらにパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。
祖母の知識の幅はとにかく広かった。歴史、地理、科学、文学、芸術、果てはゲームまで。どんなジャンルの話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの「電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいつしか自然と彼女をそう呼ぶようになった。
人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢にはいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。
大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母の生き方そのものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。
祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞の抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。
ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞の意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分の感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。
彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活や人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身がゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたことなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。
祖母はパソコンを扱うだけでなく、インターネットの世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンラインで海外の博物館の映像や、世界のニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。
「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母はサクサクと辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。
そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習の資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休みの自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休みは特別に充実していた気がする。
5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ
祖母は機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータの検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかもときにユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。
高校生になると、友達関係や部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターのフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこから、もっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。
そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議と問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃんと仕分けて検索しやすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。
6. そして別れの日
俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母の知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族が心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。
そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅くに病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつもの“コンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。
祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母そのものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。
葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真やノート、そして祖母のパソコンが出てきた。パソコンの中には、家族の写真データや日記のようなファイル、さらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートのデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンルの知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。
そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔で知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。
さらにパソコンのデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞をアレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について、彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方そのものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生の象徴だったのだろう。
8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”
祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。
そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術や情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手の立場や気持ちを想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線や押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。
もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉やファイル、そして一緒に過ごした時間の記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。
歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。
祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき、祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母はコンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから。
中学校時代、俺はクラスの中でも地味なほうだった。人付き合いが苦手で、いつも教室の隅に座っているような生徒だった。授業中も目立たないし、給食のときに誰かと話すこともほとんどなかった。そんな俺に目をつけた数人の連中が、段々と俺をからかいはじめたのが最初だった。はじめは「お前、なんか暗いよな」くらいの軽い言葉だったはずだ。しかしそれが積み重なるうちに、笑いを混ぜながらの小突きや悪口、さらには物がなくなるといった嫌がらせへとエスカレートしていった。担任は頼りなく、いじめの事実に気づいていたとしても、「仲良くしなさい」としか言わなかった。親には心配をかけたくなかったし、自分で解決できると思って黙りこんでいた結果、俺の心はどんどん萎縮していった。
当時のクラスには、いじめを主導する奴が数人いた。リーダー格の男は腕力だけでなく口も達者で、彼の取り巻きがいつも笑いながら俺を嘲る。俺にちょっかいを出すたびに、クラスの周りは見て見ぬふりで、まるでそれが当然のように受け入れられていた。俺が思い切って「やめてくれ」と言おうものなら、翌日には靴が隠されたり、教科書に落書きをされたりと、逆に仕返しのようないじめが増える。まるでネズミを追いつめて楽しむ猫のように、彼らは俺が困惑している姿を面白がっていた。自然と俺は誰にも心を開けなくなっていったし、自分自身の存在価値すら疑うようになっていった。
やがて卒業が近づくにつれ、俺は一刻も早くこの閉塞感から逃れたくて必死だった。卒業式が終われば、あの嫌な連中とも離れられる—そんな期待だけを胸に、なんとか中学校をやり過ごした。実際、卒業式後は別々の高校に進学する者が多かったから、顔を合わせる機会も激減するだろうと思っていた。事実、高校時代は比較的平穏だったし、いじめられた過去を知る人もいなかった。そのおかげで、俺は少しずつだが自分を取り戻していった。大学に入り、バイトやサークルで新しい友人もでき、自分の性格やコミュニケーションスキルに少しずつ自信を持ち始めることができた。
しかし、いじめられた経験と、そのとき感じた屈辱感や絶望感は、俺の中でずっとくすぶり続けていた。相手に殴られたり、物を盗まれたりしたことだけじゃない。人前で見下されたり、笑いものにされたり、そうした積み重ねが俺の心の奥に深い傷を残していた。自分では「もう過去のことだ、気にしないでおこう」と思い込もうとしていても、まるで傷口が塞がりきらないように、ふとした瞬間に思い出しては苛立ちや悲しみが込み上げてきた。どれだけ新しい環境に適応しても、中学時代の痛みが完全に消えることはなかった。
大学卒業後、俺は一般企業に就職した。最初は社会人としての生活に慣れることで精一杯で、毎日が忙しく過ぎていった。朝から夜遅くまで働き、休みの日は部屋でぐったりと休息を取る。そんな日々を過ごすうちに、いつの間にか社会人としての自分にも少しずつ余裕が生まれてきた。仕事も軌道に乗りはじめ、後輩を指導したり、業務の責任を任されたりするようになった。そうやって自己肯定感が高まるにつれ、ふと昔のいじめのことを思い出しては「なぜあのとき抵抗できなかったのか」と自分を責める気持ちも強くなっていった。
あるとき、会社の同僚との飲み会で、同級生たちの近況を耳にする機会があった。偶然にも、俺を散々いじめていた連中の一人が、最近地元に戻ってきているらしいという噂を聞いた。内心どきりとしたが、同時に「あいつは今どうしているんだろう?」という好奇心が湧いた。どうしても情報を確かめたくなった俺は、SNSを使ってその元同級生のアカウントを探してみた。すると、その元同級生は思った以上に積極的に近況を発信しており、自分の仕事やプライベートについても投稿していた。結婚して子どもがいるようで、表面上はごく普通の家庭を築いているように見えた。
その投稿を見た瞬間、俺は胸の奥に眠っていた怒りが再び目を覚ましたのを感じた。あいつが自分の家族との写真で幸せそうに笑っている様子を見ると、「あいつがあんな穏やかな表情をしているなんて」という気持ちがどうしても拭えなかった。頭では「昔のことだし、もういい」と理解しているつもりでも、心がまるでそれを許さない。あのとき俺が味わった恐怖と屈辱は、今でも癒やされてはいない。ならば、ここで何もせずに生きていくのか、それとも俺が受けた傷の重さを少しでも感じさせてやるべきか。悩んだ末、俺は「やるなら今しかない」と決意した。俺がどれほど苦しんだか、やつらに思い知らせたいという思いが抑えきれなくなっていたのだ。
まずは情報収集から始めた。SNS上には、ほかの元同級生が繋がっているアカウントもあった。そこには、かつて俺をいじめていた連中の近況があちこちで書き込まれており、転職したとか、離婚したとか、さまざまな情報が手に入った。中には、経済的に苦しんでいるのか、愚痴ばかり書き込んでいる者もいた。昔の輝きが嘘のように見える連中の姿は、正直言って俺の心を微妙に揺さぶった。やつらもやつらなりに苦しんだり悩んだりしているのだろうと想像すると、「俺だけが不幸だったわけじゃないのかもしれない」と、一瞬だけ同情に似た感情が芽生えそうになった。しかし、思い出すのは結局、あの頃の仕打ちだ。たとえ彼らが悩みを抱えていようとも、俺が受けた傷は決して消えない。だからこそ、俺は「あいつらに自分の痛みを思い知らせたい」という気持ちを優先することにした。
復讐といっても、俺は直接的な暴力で仕返しをしようとは考えていなかった。あのときの自分のように誰かを傷つけるのは、本来の俺の性分ではないし、そんな手段をとったところでスッキリするとは思えなかった。俺が目指すのは、あくまで「彼らに味わわせたい」の一心だった。だから、SNSや職場、噂話など、彼らの周辺にある情報網を巧みに使って、彼らの信用や評判をほんの少しずつ揺さぶるように動いた。具体的には、彼らの投稿に対して匿名で皮肉めいたコメントを投げかけてみたり、共通の知人に「あいつ、中学の頃は相当ひどいことをやっていたらしいよ」とさりげなく伝えてみたり。直接言及せずとも、周りの人間が少しずつ「あいつって、実はヤバい過去があるんじゃないか」と思うように仕向けたのだ。
最初は大した反応はなかった。しかし、時折SNSを覗くたびに、妙に彼らが弁解めいた投稿をするようになったり、以前よりもフォロワーが減っていたりするのが分かった。さらに、共通の知人のアカウントでは、「あの人って、中学時代ひどかったらしいよ」というコメントがぽつぽつと見られるようになった。俺はそれを読んで、密かに満足感を覚えた。「まだまだ足りないな」と思う反面、彼らの平穏な日常に小さな亀裂が走るのを感じるたび、昔の自分が少しずつ救われていくような感覚を得た。そして、いじめを主導していたリーダー格だった男にも同じような手を使った。やはり奴も気づきはじめたのか、SNSの投稿回数が減り、アカウントを鍵付きに変えるなど、防衛的になっていった。まるで自分の弱味を隠すかのように身を潜めている姿が、俺には心地よかった。
しかし、そんな小さな仕返しをしているうちに、俺自身も不思議な変化を感じるようになった。たしかに、彼らが困ったり焦ったりしている様子をうかがうと、最初は勝ち誇ったような気持ちになった。だが時間が経つにつれ、その快感は薄れ、代わりに「何やってるんだ俺は」というむなしさが心の中で広がっていく。まるで空虚な穴を埋めるために、相手を傷つける材料を探しているようにしか思えなくなったのだ。中学校時代にいじめられていたころの自分とは違うはずなのに、やっていることの本質は「人を陥れる」行為でしかないのではないか、と悩むようになった。
そんな葛藤の中、ついにリーダー格だった男と対面する機会が訪れた。地元で行われた同窓会に、運命のように彼も顔を出していたのだ。久しぶりに見る彼の顔は、あの頃の生意気さが薄れ、やや疲れたような表情をしていた。それでも、当時の記憶がよみがえると、俺の中には強い怒りが再燃した。しかし、不思議と昔のように固まってしまうことはなかった。むしろ、「ここで何を言ってやろうか」と冷静に考えられる自分がいた。
同窓会の席で、彼は俺の存在に気づいたようだが、一瞬目をそらした。そしておずおずと近づいてくると、「久しぶり…元気だったか?」と声をかけてきた。その態度は昔のように高圧的ではなかった。周囲には昔のいじめを知る人間もいる。俺は、ごく普通に返事をした。「まあ、それなりに。お前はどうだ?」彼は困ったように笑い、結婚と子どもの話を少しだけした。その話を聞いて、俺はずっと胸にわだかまっていた不満や怒りをどうやってぶつければいいのか分からなくなってきた。一方で「あいつを困らせたい」という衝動は強く残っている。そんな揺れる心のまま、俺は彼に向かって「中学のとき、いろいろやってくれたよな」と言った。
すると彼は、明らかに動揺した。周りに人がいることを気にしてなのか、それとも本当に悪かったと思っているのか、声を落として「すまなかった。あの頃は、みんなで騒いでるうちにどんどんエスカレートしてたんだ。俺もガキだった。今になって考えると、本当にひどいことをしたと思ってる」と言った。その言葉がどこまで本心なのかは分からない。ただ、これまで一度も聞いたことのなかった謝罪の言葉だった。そう聞いて、俺は何を思ったのか、怒りよりもむしろ虚しさが募った。ずっと恨みを抱え、復讐を考え、少なからず実行までしたのに、それを相手がぽろりと謝るだけで俺の中で何かが崩れ落ちるような感覚に襲われたのだ。
結局、俺は深く追及することはしなかった。ただ、「お前たちのせいで、俺はずっと苦しかったんだ」とだけ言い残して、その場をあとにした。その後の二次会にも行かず、まっすぐ家に帰った道すがら、俺の頭の中はごちゃ混ぜだった。いじめを受けていた過去を思い出すと、あの苦しみは紛れもなく本物だし、今もまだ完全には癒えてはいない。しかし、彼らを陥れることで得られた瞬間的な快感は、むしろ俺自身の心をも蝕んでいたように思う。そして、謝罪らしきものを聞いたいま、俺はようやく「これでいいのかもしれない」と感じはじめていた。俺の人生は、あいつらに復讐するためだけにあるわけじゃない。いじめの傷は深く、簡単には消えない。でも、それを抱えながらも前に進むしかないのだ。
家に帰って、自室の布団の上に倒れ込んだとき、不思議と涙が出てきた。悔しさなのか、安堵なのか、整理のつかない感情がないまぜになって、声を押し殺して泣いた。中学校時代から引きずっていた怒り、恐怖、屈辱、そしてちっぽけな勝利感。いろいろな感情が渦巻く中、俺は「もう終わりにしよう」と思った。完全に許すことはできなくても、あの頃の自分を取り戻すためには、これ以上自分を憎しみに縛りつけてはいけないと感じたからだ。あの連中に小細工するのもやめることにした。SNSで彼らのアカウントをこっそり覗くことも控えよう。自分の心が軽くなるのなら、そのほうがいい。
こうして俺の復讐劇は幕を下ろした。仕返しは成功したと言えなくもないが、その代償として俺の心はささくれ立ち、結局は徒労感に苛まれた。正直、いじめを受けた過去を完全に清算する手段なんて存在しないのかもしれない。それでも、俺はこれからも生きていかなきゃならない。中学校時代のいじめは、俺にとっては消せない傷だ。だが、だからこそ、俺はその傷を抱えつつ、自分の人生をより良くしていきたいと思う。復讐によって得られるものは決して多くはない。それよりも、前に進むための糧にするほうが、遥かに大切なのだと今は思う。
もちろん、彼らが本当に反省しているのかは分からない。謝罪の言葉がただの社交辞令だったかもしれないし、もしかすると、これから先もあいつらは同じようなことを繰り返すのかもしれない。けれど、それはもう俺には関係のないことだ。俺にとって大事なのは、自分自身がどう生きるかだ。そのためには、過去に受けた仕打ちをどう消化し、これから先の人生に活かすのかが重要になってくる。復讐はひとまず終わったが、この先もふとしたときにあのときの感情が湧き上がってくることはあるだろう。そのたびに、俺は中学時代の自分やいじめていた奴らを思い出しては葛藤するだろう。しかし、それでも前を向く。いじめの被害者だった自分を否定せず、受け入れたうえで、自分が幸せになる道を探し続ける。それこそが、過去から自由になるために最善の方法なのかもしれない。
今、この文章を読んでいる人に伝えたいのは、復讐の成否ではなく、心の在り方だ。俺が選んだ方法や結果が正解だとは思わない。けれど、いじめられていた過去を抱えながら社会人になり、自分なりのけじめをつけた末に学んだのは、「過去に縛られて自分を見失わないこと」の大切さだ。生きていくうえで傷つくことは避けられない。いじめは決して許されるものではないし、その傷は長く人を苦しめる。だが、それでも、自分を置き去りにしないでほしい。どんな形であれ、傷と向き合い、折り合いをつけていくことで、ほんの少しずつでも心に変化が訪れるはずだ。俺の仕返しが「成功」なのか「失敗」なのかは分からない。ただ、一つ言えるのは、俺はあのとき前を見つめるために、一歩踏み出す勇気を持てたということ。そして、いまはそれを「間違いではなかった」と思えるようになっているということだ。
少し前まで家賃2万円台の家に住んでいた。
個人的に家賃2万円生活は、独身にとってはかなり良かったので、この日記を読んでいろいろな人に魅力を知ってもらいたい。
大阪市在住(当時)
【住むに至った経緯】
大学卒業後、新卒で大阪市内の会社に勤めることになったが、残念なことに家賃補助がなかった。
奨学金の返済で金銭的余裕がなかったこともあり、安い物件をSUUMOで探したところ、以下の条件の揃う賃貸は家賃が安いことが分かった。
・オートロックなし
・築30年前後
家賃補助や寮のある会社勤めの友人にヒアリングし、どうやら自己負担額が2~3万円になる場合が多いようだと結論付けた。
その後2万円台の物件をいくつか内件し、一番住みやすそうだった当時の家を選んだ。
約6畳ほどのワンルームで、インターネットと水道が管理費の中に含まれており、それ込みでも2万円代だった。
立地だが、徒歩5分以内に駅、スーパー1件、コンビニ3件があり、利便性は高かった。当然新今宮のようなやばいエリアではない。
東京の大学で貧乏学生をしていた自分としては、家賃の安さに歓喜したのだった。
結局、6年ほどそこに住むことになった。
【住民層について】
意外にも悪くなかった。
ベトナム人が1人いたが普通の人で、他は日本人だったし、若い女性も住んでいた。
今思えばおっさんが多かった気もする。
昼間から喘ぎ声が聞こえることはあったのはうるさかったが、基本昼間は外に出ていたのであまり気にならなかった。
・とにかく金が浮く
最強のメリットはこれ。
手取りの10%~20%の家賃で暮らせていたので、他のことにお金を使うことができた。
住み始めたころはコロナ前だったので、LCC&空港泊を駆使して、毎月3~4万円で海外旅行していた。
コロナ以降は余剰資金を投資に回していたので、資産形成にも大きく役立ったと思う。
近くのスーパーの半額総菜を買いだめしていたので、家賃以外の生活コストも低く抑えられたのもよかった。
安くて狭い家で工夫して暮らしていることによる謎の優越感と充実感があった。
・家の外に出る理由になる
家に帰っても狭いのでできることが少ない分、家を空けていることが多かった。
平日は夜遅くまで職場で残業or資格勉強、休日は旅行か大学図書館という暮らしをしていた。
当時はかなり貧乏くさい考え方で、「会社で残業すればお金になるし、資格勉強すれば電気代がかからない」などと本気で考えていた。
あと、大阪公立大学図書館は大阪市民か大阪市内で勤務していれば、2,000円払うと2年間利用できるのだが、専門書が多いうえ空いているのかなりお勧めしたい。
・家に人を呼びにくい
6畳ワンルームはまあまあ狭いので、人は呼びにくかった。
とはいえ安い家賃で浮いたお金を使って友人と旅行していたため、あまり問題はなかった。
・くさい
雨が降ると、何となく部屋が臭かった。
だが対策として空気清浄機を購入すると、臭いの問題は完全に無くなった。
・ゴキブリが多い
夏場になると、家の近くで毎日Gを見た。古い住宅街(戦前の家がまとまって建っているレベル)だったので、下水道にたくさん住んでいたんだと思う。
残念ながら、6年間のうち、家の中で2回遭遇した。
【その他雑感】
とにかく若くて金のないやつは、家賃の安い家に住むのをお勧めしたい。
自動的に手取りが数万円増えたのと同じ状態を作ることができる。
何だ東京じゃないのか参考にならんという声もあるかもしれないが、東京だと駅までバスの家にするとかなり家賃が下がるというライフハックをお勧めしたい。
駅近だと多摩の方まで行けば3~4万の物件があるが、正直東京で寮も家賃補助もない会社には、大卒は行くべきではないと思う。
今では持ち家のローンを払っているが、たまに家賃2万円が恋しくなる。
完全に行きすぎてる。
最近2歳男児への体罰へのハードルがどんどん下がってきているのを感じる、自分が怖い、止めたいのに止められない。
1歳過ぎから、大声で怒鳴る、別室に逃げて放置、腕を掴んで持ち上げるなどの行為をしてしまっていた。
今2歳半。今朝はとうとう首を掴んで布団に叩きつけてしまった、突き飛ばしもした。理由は早朝眠いのに布団を剥がされたりやっとねた下の子を起こされそうになったから。2歳は全く悪いことしていない。あとから冷静になれば。でもその瞬間は2歳を絶対に許せなくなってあっというまに手が出てしまっていた。
このままじゃ衝動で2歳をころしてしまうかもしれない。死ななくたってこんなこと続けていれば2歳の心がしぬ。もうどうしたらいい?警察?児相?どこにれんらくしたらいい?
夫もいるし、義理実家も近いけど平日仕事で朝早くから夜遅くまでワンオペだし義父母はもう後期高齢者でよっぽどでなければ預けにくいし。
児童館の先生にそれとなく助けてっていったけどなんかはぐらかされてしまって、それから宙に浮いたままでいる。ていうか先生のひとりはご近所さんだからとても言いづらい。絶対にまわりに言いふらされる、ますます居場所ないよ。
こういうとき赤の他人だらけの都会の方が救ってもらえそうに見える。
そんなことはいいがとにかくどうしよう。夫の都合で今は無職だから保育園にも預けられないし金もないし詰んだよ。
精神疾患の診断降りたらこの先の人生なにか不利になったりしないか?もうどん詰まり。そうしてる間に2歳はどんどん危険にさらされてる。どなたかお知恵をくれませんか。
実家を出たときのことを、今でもはっきりと思い出す。僕は兄で、妹とは四つ違い。いつも穏やかで優しい妹が、自分の親に対して泣き叫ぶ姿を見るなんて、想像もしなかった。だけど、あのとき妹は限界だったんだと思う。むしろ、僕も同じように限界だったのだ。子どもの頃から「毒親」と呼ばれる環境の中で育った僕たちは、お互いが互いを気遣い合いながら、なんとか生きてきた。
僕たちの両親は世間体を気にしすぎるタイプだった。外から見れば、「教育熱心で厳格な家」という印象だったかもしれない。でも、その内側は違った。どんな小さなミスでも、親にとって“都合の悪いこと”になれば、怒鳴られたり、無視されたり、ひどいときには暴力まがいのこともあった。宿題をやっていないときは「怠け者」、テストで思うような点が取れないときは「努力が足りない」。どれだけ勉強しても「もっと上を目指せ」と追い詰められる。休みの日に友達と遊びに行けば「そんな暇があるなら勉強しろ」と怒鳴られる。僕も妹も、いつしか心の底から親の顔色を伺うようになった。
中でもつらかったのは、「進路」をめぐってだった。僕が高校に進学するとき、両親は有名進学校に合格するよう強く迫ってきた。そのプレッシャーに耐えられず、実は僕は一度だけ家出をしようとしたことがある。しかし、妹を置いていくわけにはいかないと思い直し、結局断念した。でも、そのとき妹はまだ中学生で、家に残るしかなかった。そんな妹が「お兄ちゃんと一緒にいたい」と僕に打ち明けたとき、何もしてやれない自分が情けなくて仕方がなかった。
その後、僕はなんとか高校を卒業し、アルバイトや派遣の仕事を掛け持ちして過ごすようになった。大学に行く気力はなかったというのが正直なところだ。親は「大学に行けないのなら家を出ろ」と言い放ったが、いざ出て行こうとすると「親不孝者が」と怒鳴る。言うこととやることが矛盾している。だけど、その矛盾に気づいたところで僕にはどうすることもできなかった。やがて妹も高校へ進学。成績は良く、周りからは「優等生」と見られていたが、その裏で妹は必死に呼吸をするように親の目を気にしていた。
妹が高校二年になった頃、ある深夜のことだった。バイトから帰ってきた僕は、リビングで一人泣き崩れている妹を見つけた。理由を聞くと、学校で一度だけテストの点が下がったことをきっかけに、親からひどく責め立てられたらしい。妹は「こんな家、もう嫌だ。お兄ちゃん、一緒に出て行こう」と震える声で言った。その言葉を聞いたとき、僕はある意味“覚悟”ができた。「もう逃げよう。二人でここを出よう」と。夜明けが来る前に、僕と妹は荷物をまとめはじめた。最低限の服や通帳、学校の教科書などをリュックに詰め込んで、親に見つかる前に家を出た。
両親には当然「勝手なことをするな」と言われると思ったが、そのときはもう恐れよりも先に「自由になりたい」という気持ちが勝っていた。妹が通う高校に相談してみると、事情をある程度汲み取ってくれて、転校という形で新しい学校を紹介してくれることになった。あまり詳しい事情は言えなかったものの、「家の事情で逃げたい」という妹の言葉が切実に聞こえたようで、比較的スムーズに話が進んだ。僕も収入が不安定だったが、とにかく二人で暮らすために、急いで安いアパートを探し始めた。物件情報を見て回り、実際に不動産屋をいくつもまわる。田舎の方へ移っても良かったが、妹が通う高校への距離を考え、都心からは少し離れた町のアパートを選んだ。
そうして、妹と二人暮らしを始めることになった。間取りは1DK。狭いけれど、二人で暮らすにはどうにかなる広さ。壁は少し薄く、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくることもあったが、実家にいた頃の息が詰まるような苦しさに比べれば、天国のように感じた。お互いに遠慮はいらないはずなのに、最初はそれでも気を使い合った。お風呂の順番、寝る場所、部屋の整理整頓。兄妹とはいえ、二人暮らしのルールを決めるのは思った以上に大変だった。だけど、自由な空気がそこにあるだけで、胸の中にぽっかりと温かい火が灯ったように感じられた。
僕は早朝からコンビニでバイトし、昼間は派遣の倉庫作業に行くことが多かった。妹は平日は学校、土日は単発のバイトを探して働くことを始めた。毒親の元では許されなかった「アルバイト」だったが、今は誰からも怒られない。いつか二人で、もう少し広い部屋に引っ越したいと夢見ながら、僕たちは少しずつ貯金を始めた。最初は本当にギリギリの生活だったけれど、安心して眠れる空間、自由に会話ができる空間が何よりも大切だと感じた。
そんなある日のこと。妹が学校から帰る途中、カフェでアルバイト募集の張り紙を見つけてきた。時給はそこまで高くないが、交通費支給やシフトの融通など条件は悪くなさそうだ。「お兄ちゃん、私、ここで働いてみたい」と目を輝かせる妹を見ていると、僕も自然と笑みがこぼれた。毒親のもとにいたら許されなかったことを、いま妹は自分の意思で選び、そして始めようとしている。その一歩が、僕にはとても大きく見えた。
実際に妹がカフェの面接を受けに行くことになり、僕は帰りが夜遅くなるかもしれない妹のことが気がかりで、一緒に最寄り駅まで迎えに行くことにした。面接は上々だったらしく、店長もとても優しそうな人だったようだ。「採用されたら頑張るね!」と妹は嬉しそうに言う。その笑顔を見て、僕も心から「よかったな」と思った。
駅からアパートへ向かう夜道は、人通りが少ない。僕は自然と妹の少し前を歩き、周囲を気にしながら帰宅する。すると、近所の商店街にある個人経営らしい居酒屋の前で、通りすがりの中年男性に声をかけられた。「こんな夜遅くに、仲いいなあ、新婚さん?」と言うのだ。妹と顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。「いえ、兄妹なんです」と答えると、「そうなの? いや、雰囲気がいいからてっきり夫婦かと思ったよ」と笑われた。妹は「全然違うのにね」と顔を赤らめていたが、その後「でも、夫婦みたいだなんて、ちょっと面白いよね」とクスクス笑っていた。
実は、こうやって夫婦やカップルと間違えられることは、これが初めてではない。引っ越しのときにも、不動産屋の担当者に「同棲ですか?」と何度か確認されたり、スーパーで買い物をしているときに「ご夫婦ですか? 新婚さん向けフェアの案内ですが……」と声をかけられたりした。僕としては妹を守る立場でもあるし、多少の誤解は軽く受け流しているつもりだけれど、妹のほうは毎回、「兄妹なんですけど……」ときちんと訂正してしまう。それでも、今となってはこの勘違いもほほえましく感じられるようになった。実家にいるときには考えられなかった、なんでもない日常の一コマ。僕たちには、そういう穏やかな時間がなかったのだと思う。
それから少し経って、妹はカフェでのバイトが正式に決まり、僕たちの生活はさらに忙しくなった。ただ、不思議と疲れよりも充実感のほうが大きい。帰ってきてからリビングに二人で座り、一日の出来事をおしゃべりする。妹はカフェでの接客で経験したちょっとしたトラブルや、お客さんとの面白いやり取りを楽しそうに話してくれる。「昔はこんなふうに話をしても、どうせ親に全部ダメ出しされるんだろうなって思ってたけど、今は好きなだけ話せるから、すっごく楽しい」と笑う妹。その様子を見ていると、あのとき家を出た選択は間違いじゃなかったと心から思える。
もちろん、二人暮らしを始めてからも問題はたくさんある。親からの連絡は「許さない」という罵倒や、一方的な怒りのメッセージばかりで、話し合いができる状況ではない。時折、僕たちの住まいを突き止めようとしたのか、知人から連絡が入ることもある。「両親が連絡先を知りたがっている」とか「お前たちがわがままを言っているんじゃないのか」とか。だけど、僕はもう振り回されるのはやめようと決めた。妹も「返事しなくていいよ」と、毅然とした態度をとってくれている。親と離れても、今は生きているだけでありがたいと心から思えるのだから。
そんな僕たちだけれど、将来のことを考えないわけにはいかない。妹はあと一年ちょっとで高校を卒業する。大学に行きたいと言う気持ちもあるらしいが、学費をどうするか、奨学金は借りられるのか、僕の収入だけで妹を支えられるのか……問題はいくらでも出てくる。でも、妹が「やりたいことがあるなら挑戦したい」と言うなら、僕は全力で応援しようと思う。自分の大学進学の夢を諦めたのは僕自身の判断だった。あの頃はそれしかできなかったのかもしれないけれど、妹には後悔してほしくない。正直、不安は尽きない。それでも、毒親の支配から離れた今、僕たちにはお互いを思い合う時間と心の余裕がある。まずは二人でしっかり話し合い、可能性を探っていこうと思っている。
夜遅く、妹がアルバイトから帰ってくると、決まってキッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。僕が先に帰っている日は、ごく簡単な料理だけど、妹の分の夕飯を用意するようにしているのだ。チャーハンとか、野菜炒め程度だけど、「ただいま」と玄関を開ける妹の「いい匂い……」という一言を聞くと、やってよかったと思う。妹も翌日が休みのときなどは、代わりに僕のためにパスタを作ってくれたりもする。兄妹が同じ食卓で笑いながらご飯を食べる姿は、誰がどう見ても“家族”のはずなのに、不思議と「本当の家族」という実感が生まれてくるのは、ここ最近のことだ。
妹の存在は、僕にとって唯一無二の支えになっている。たとえ夫婦や恋人と勘違いされたっていい。僕にとって妹は妹であり、しかし同時にかけがえのない同居人でもある。実家にいた頃は、僕たちの間にいつも両親という“大きな壁”があった。それが今はなくなり、ようやく素直に向き合えるようになった気がする。僕たちはお互い助け合い、励まし合いながら生きていく。親の呪縛にとらわれることなく、自分たちの人生を、自分たちなりに歩んでいこうと思っている。
時には外食をして、隣りの席のカップルと間違えられることもあるだろう。時には夜道で「まさか兄妹じゃないよね?」なんて声をかけられるかもしれない。だけど、もうそれは構わない。二人暮らしを始めてから知ったのだけれど、人は他人の生活を結構なペースで勘違いしてくるものらしい。誤解されても、二人でいれば楽しいし、互いに隣にいられる安心感がある。それが分かるだけで、昔のように人の目を気にして呼吸を浅くすることはなくなった。
この先、僕たちが歩む道に何が待っているのかは分からない。経済的にもまだまだ不安定だし、妹がこれからやりたいことを見つけたとしても、すぐに実現できるかどうかは定かではない。それでも、「あの家に帰るよりずっとマシだ」という気持ちは揺るがない。毒親との関係を絶ったことで、ようやく手に入れた自由と、そして兄妹だけの小さな生活を、僕は何より大切にしていきたいと思っている。
考えてみれば、僕と妹がこうして一緒に暮らすということ自体、実家では到底許されなかったはずだ。親にとっては「恥」だったのかもしれない。長男が家を出るなんて、妹まで連れ出すなんて、とんでもないと。だけど、そんな言葉にはもう縛られない。妹と二人で暮らすことは、僕たちにとって自由と希望を取り戻す第一歩だったのだ。
ときどき思い出す。リビングの机にしがみつきながら、両親に泣き叫んでいた妹の姿を。あの光景は僕のなかで、いつまで経っても消えないかもしれない。でも、あの瞬間こそが僕たちに“逃げ出す勇気”をくれたのだ。だから今は、その記憶を大切に噛みしめている。もし同じように苦しんでいる人がいたら、声を大にして伝えたい。「逃げてもいい」と。誰だって、自分の人生を自分のために生きる権利があるのだと。
帰宅した妹の「ただいま」の声。台所から漂う料理の匂い。二人でテーブルを囲むときの、なんでもない会話と、小さな笑い声。そんな当たり前の生活の一つひとつが、僕たちにとっては宝物みたいに尊い。これから先もきっと悩むこと、苦しむことはたくさんあるだろう。だけど、どんなに傷つくことがあっても、もうあの家には戻らない。僕たち兄妹は、お互いを支え合いながら、一歩ずつ前に進んでいく。その道の途中で、夫婦や恋人と勘違いされることがあったって、それは微笑ましいエピソードとして受け止めていくつもりだ。
「毒親から逃げ出すために妹と二人暮らしを始めた」というこの事実は、僕たちが生きていくうえでの大きな分岐点だった。親の期待や束縛、暴言に押しつぶされそうになっていた僕たちが、やっと呼吸できるようになった場所。それが今のこの狭い1DKのアパートだ。床は古くて所々ミシミシと音がするし、壁は薄いし、エアコンの調子もいまいちなことがあるけれど、それでもここは僕と妹の大切な居場所だ。誰にも邪魔されない、僕たちだけの“小さな世界”。そして、この世界で、僕はずっと妹と一緒に笑っていたいと思う。あの家ではできなかったことを、少しずつ取り戻すように、毎日を噛みしめながら過ごしていこう。
「もうすぐご飯できるよ!」とキッチンから妹が声をかけてくる。僕はテーブルに箸とお皿を並べながら、その声に返事をする。この空間が、僕たちにとっての本当の“家”だ。例えどんなに些細なことでも、ここでの出来事はきっと僕たちの思い出になる。毒親から逃げ出すために始めた二人暮らしは、逃避行なんかじゃない。僕たち兄妹が「生きる」ということを取り戻すための、そして笑顔で日々を送るための、新しいスタートラインなのだ。
どこかに吐き出し供養したい。その思いで書いている。
かつて自分は新羅ソルジャーだった。治安維持をこなす事だけが使命の新羅の駒だ。
5年で辞めたのでソルジャーと名乗るのも烏滸がましいかもしれない。そんな一兵卒だった。
離職率の高い業界だから、同じようにリタイアした元ソルジャーはさぞ多いことだろう。
自分が辞めた理由は単純にキツさ故だった。とにかく向いていなかった。
予定のない休日は泥酔していないと不安と焦燥に駆られて耐えられなかった。
馬鹿みたいに朝早く出社して夜遅くまでサービス残業するのも、土日のゴールドソーサーコンペも、自己研鑽と銘打ってジェノバ細胞取得を強制されるのも、縁もゆかりもない配属地も、全てが嫌だった。
でもそんな事は些細な問題で、本当に辛かったことは他にあった。確かにあった。なのに、思い出せない。自分があの会社で何をしていて何が辛かったのか。
辞めて一ヶ月もしない内に新羅にまつわる記憶全体にモヤがかかって魔晄中毒になってしまった。
魔晄中毒になり始めた当時、「こんなに早く忘れられるってことは本当は大して辛くなかったのかも」なんてネタにしながら内心では自分のその言葉を強く否定していた。その気持ちは覚えている。
その話を聞いて真っ先に浮かんだのは「興味ないね」で、次に浮かんだのは「ジェノバの細胞持ったまま死んでたら後の処理ヤバそう」だ。周囲から出た言葉もおおむね似たようなものだった。
その感想を何も疑問に思わなかった。何せ人が多いので、誰かが命を断つことは珍しくなかった。
ソルジャーが自死することは一般的ではないことも、抱いた感想が人でなしであることも、アバランチ転職後にようやく自覚した。
この投稿で何が言いたいというわけじゃない。
新羅で働いてる奴は頭がおかしいなんて言うつもりもない。現に知人が同じ新羅で立派に勤め続けているが、彼は自分より余程出来た人となりをしていて魔晄に狂ってなどいない。
どこかに吐き出し供養したい。その思いで書いている。
かつて自分は金融ソルジャーだった。営業ノルマをこなす事だけが使命の金融界の駒だ。
5年で辞めたのでソルジャーと名乗るのも烏滸がましいかもしれない。そんな一兵卒だった。
離職率の高い業界だから、同じようにリタイアした仲間はさぞ多いことだろう。
自分が辞めた理由は単純にキツさ故だった。とにかく向いていなかった。
予定のない休日は泥酔していないと不安と焦燥に駆られて耐えられなかった。
馬鹿みたいに朝早く出社して夜遅くまでサービス残業するのも、土日のゴルフコンペも、自己研鑽と銘打って資格取得を強制されるのも、縁もゆかりもない配属地も、全てが嫌だった。
でもそんな事は些細な問題で、本当に辛かったことは他にあった。確かにあった。なのに、思い出せない。自分があの会社で何をしていて何が辛かったのか。
辞めて一ヶ月もしない内に会社にまつわる記憶全体にモヤがかかって曖昧になってしまった。
曖昧になり始めた当時、「こんなに早く忘れられるってことは本当は大して辛くなかったのかも」なんてネタにしながら内心では自分のその言葉を強く否定していた。その気持ちは覚えている。
その話を聞いて真っ先に浮かんだのは「死んでないといいけど」で、次に浮かんだのは「取引先の書類持ったまま死んでたら後の処理ヤバそう」だ。周囲から出た言葉もおおむね似たようなものだった。
その感想を何も疑問に思わなかった。何せ人が多いので、誰かが命を断つことは珍しくなかった。
社員が自死することは一般的ではないことも、抱いた感想が人でなしであることも、転職後にようやく自覚した。
この投稿で何が言いたいというわけじゃない。
金融で働いてる奴は頭がおかしいなんて言うつもりもない。現に知人が同じ業界で立派に勤め続けているが、彼は自分より余程出来た人となりをしていて到底狂ってなどいない。
ただまだらに覚えているものを手放したい一心だ。穴を掘って埋めて墓を建てたかった。
どうか成仏してほしい。
夜の帳(とばり)がすっかり落ちた頃、私は駅前の小さなコンビニでのアルバイトを終え、自宅へ向かっていた。帰り道は商店街の明かりが消えかけていて、平日の遅い時間ともなれば、人通りはほとんどない。いつもは自転車で帰るのだが、その日はパンクをしてしまい、修理に出していた。仕方なく、徒歩で家までの十五分ほどの道のりを歩いていたのだ。
肌寒い季節だったので、ロングコートの襟を立てて、鞄をぎゅっと抱え込みながら足早に歩く。家に帰り着くまではできるだけ人通りのある道を選びたかったが、少しでも早く帰りたい気持ちに押され、結局、人影の薄い路地をまっすぐ抜けるルートを選んでしまった。
いつもなら、行き交う車のエンジン音や、住宅街から漏れるテレビの音などが微かに耳に入り、寂しさを感じることはあまりない。しかし、その日は異様なくらい静かだった。遠くで犬が吠える声が聞こえるだけで、風の音までもが不気味な空気をまとっているように感じた。誰もいない細い路地の曲がり角を一つ二つとやり過ごすたびに、「早く家に帰りたい」という焦燥感が大きくなっていく。
気を紛らわせるために、スマートフォンの音楽アプリを立ち上げ、イヤホンを片耳だけ挿して好きな曲をかけた。両耳をふさいでしまうと、周囲の音に気づきにくくなるからだ。曲のテンポに合わせて自然に足が速まる。もう少し、もう少しで家に着く。そう言い聞かせながら、早足で歩いていたとき、後ろで何かが動く気配を感じた。
ふと振り返ると、数メートルほど離れた場所に男性が立っている。暗がりの中で顔ははっきり見えないが、背丈は私よりずっと大きそうだ。すぐに「気のせいだ」とは思えない空気を感じた。そもそも、こんな人気のない路地で他の人間と出くわすこと自体が珍しい。偶然かもしれない――そう考えようとしたが、私の心臓は警鐘を鳴らすようにドクドクと早打ちになっていた。
それとなく歩調をゆるめ、相手の出方をうかがう。すると、その男性も少し速度を落としたのか、距離は変わらない。むしろ私が歩みを早めると、相手も同じように早めるように感じる。意識していなくても、肌で分かる危険な気配。誰かに見張られている、狙われている、そんな恐怖が一気に押し寄せてきた。
「まずい」
そう思ったときには、すぐ先の角を曲がればもう大通りに出る、という場所まで来ていた。そこまで行けば交番があるし、タクシーや人の往来もまだ期待できる。あと少し、もう本当にあと数十メートルでいい。私は心の中で「走るか?」と自問自答した。しかし、走り出したら相手を刺激してしまうかもしれない。とはいえ、歩いていても追いつかれるかもしれない。迷う時間が惜しくて、私は思い切って走り出すことにした。
――ダッ!
小走りから全速力へと加速する。鞄の中身が揺れて大きな音を立てた。かけていたイヤホンが外れて地面に落ちるのが見えたが、拾っている暇などない。そのまま先の角を目指して駆け出す。息が切れそうになるのをこらえ、足だけを動かす。
しかし、その瞬間。後ろから荒い息遣いとともに、男が一気に距離を詰めてくる気配を感じた。やはり、向こうも走ってきたのだ。強く握られた手が私の腕を掴んだ。ほとんど反射的に「やめて!」と叫んだが、男の力は予想以上に強く、私は足を止めざるを得なかった。
低く、威圧的な声が耳元で響く。振り返りたいが、後ろから片腕をつかまれているので体の自由がきかない。心臓が喉元まで飛び出そうなくらいバクバクしている。必死に振りほどこうとするが、男の手はびくともしない。恐怖で声が裏返るのを感じながら、「離して! 離してよ!」と喚く。だが、返事はなかった。
男はそのまま私を路地の脇へと強引に引きずった。そこは街灯の光が届かない、しかも建物の影になってさらに薄暗い場所だった。人気がないどころか、道路から少し奥に入った死角である。もし声を上げたとしても、夜遅くのこの時間では誰かが助けに来てくれる確率は低いだろう。そう思うと、恐怖が身体を凍らせていく。私の声はかすれて出なくなり、必死にもがいているうちに、上着の裾が乱れはじめた。
「やだ……やめて……」
悲鳴でも、叫び声でもない、か細い声しか出てこない。パニックで頭の中が真っ白になりかけたとき、ふと携帯していた鍵の束の存在を思い出した。家の鍵やらロッカーの鍵やらを一緒にしているので、そこそこじゃらじゃらとした塊になっている。普段は気にならなかったその束が、今は唯一手元にある、反撃できるかもしれない「道具」に思えた。
必死に腕を振り回し、何とか鍵束を握っている手を男の顔の方へ向けるように動かす。私の動きに気づいたのか、「大人しくしろ!」という男の声が響いたが、ちょうどその隙に、鍵束が男の頬か耳あたりに当たったようだった。けたたましい金属音が空気を裂き、男は「くそっ」という小さな声を上げて、一瞬だけ腕の力を緩めた。
その一瞬を逃さずに、私は思い切り男の腕を振りほどき、かろうじて身体を路地の奥から引き離すことができた。男の様子を確認する余裕などなく、再び全速力で走り始める。うしろからは「待て!」という怒号が聞こえたが、私はただ必死に足を動かした。角を曲がり、大通りへ抜けたときには、涙と汗で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
――そこで、運良く通りかかったタクシーがいたのだ。
私は手を振って必死に合図を送り、タクシーを止めると、そのまま乗り込んだ。運転手さんは暗い表情をした私を見て事情を察したのか、何も聞かずに「どちらへ?」と声をかけてくれた。声がうまく出ず、震える指先でスマートフォンの地図を見せながらなんとか自宅の住所を伝えると、運転手さんは急いで車を発進させてくれた。
後部座席に身を沈めると、ようやく少しずつ自分の呼吸音がはっきりと耳に入ってくる。無意識に肩で呼吸していたようで、胸は痛いし頭もクラクラしていたが、あの男の手から逃れられた安堵感がどっと押し寄せ、思わず涙が溢れ出した。運転手さんはバックミラー越しに私を気遣うように見ていたが、私は「大丈夫です」と言うのが精一杯だった。
やがてタクシーが自宅付近に差し掛かり、私は近くのコンビニで停めてもらった。家の場所を正確に知られるのが少し怖かったのと、いまは誰にも知られずに静かに落ち着きたかったからだ。お金を支払って車を降り、少し歩いて家の扉を開けると、息を潜めるようにして部屋へ上がり込んだ。玄関のドアを閉めると、電気をつけることも忘れ、床に崩れ落ちてしまった。あの男の荒い呼吸やつかまれた腕の感触が、身体からまったく離れていかない。しばらく泣き声も漏れないまま、膝を抱えて身体を震わせていた。
数分、あるいは数十分が経ったのだろうか。ようやく少しだけ気持ちが落ち着き、リビングの電気をつけた。乱れた服を整え、つかまれた腕に手を当てると、ジンジンと鈍い痛みが残っている。腫れあがるほどではないものの、指の形に沿うように赤くなっていて、その場面がまざまざと思い出される。もし私が鍵束に気づかなかったら、もしあのときタクシーが通りかからなかったら――そんな「もし」ばかりが頭を駆け巡り、恐怖と安堵が混ざった涙が再び溢れた。
数日はまともに眠ることができず、外に出るのも怖くて仕方がなかった。アルバイト先のシフトを変えてもらい、夜遅くまで働かなくてもいいように事情を説明した。上司は心配そうに事情を聞いてくれて、できるだけ早い時間に上がれるように配慮してくれたのが救いだった。
また、両親や親しい友人たちに話すかどうか、正直かなり迷った。打ち明けたところで何かが解決するわけではないだろうし、むしろ心配と混乱を広げてしまうかもしれないと思ったからだ。でも、誰にも話さずに抱え込むには、あの夜の恐怖はあまりにも大きかった。結局、私は親友のひとりに泣きながら打ち明けた。すると、彼女は静かに話を聞いて、「言いにくかっただろうけど、話してくれてありがとう」と言ってくれた。誰かに受け止めてもらえたという安心感は、私の中でわずかに残っていた罪悪感や不安を少しだけ和らげてくれた。
それでも、事件として警察に届けるまでには至らなかった。夜の暗がりで相手の顔をはっきり見ていないし、あのとき身につけていた服だって洗濯してしまった。何より私自身が「もうあんな怖い思い出を思い返したくない」という気持ちが強かった。もし仮に警察に相談したとしても、細かい聴取や再現などでまたあのときの状況を克明に語らねばならず、それに耐えられそうにないと感じたのだ。
それからは夜道を歩くことが極度に怖くなり、できるだけ早い時間に帰宅する努力をするようになった。どうしても夜遅くなるときはタクシーかバスを利用し、経費はかかるが背に腹は代えられない。護身用のアラームやスプレーを鞄に入れることも検討した。用心しすぎだと言われるかもしれないが、あの夜の出来事以来、「自分の身は自分で守らなくては」という意識が強くなったのだ。
たまにあの夜のことを思い出し、「もし鍵束を持っていなかったら?」と考えると、背筋が凍る思いがする。あのとき本当に私は“運がよかった”だけかもしれない。逃げられたからこそ今こうして日常に戻れているが、運が悪ければもっとひどい結末になっていたかもしれない。今でも思い出すだけで手が震えるし、暗い路地を一人で歩くのは怖い。だけど、私にできることは同じ被害に遭わないよう、そしてまわりの人たちにも同じ経験をさせないよう、注意し合うことしかない。
ひとつだけ確かなことは、どんなに気をつけていても事件に巻き込まれるときは巻き込まれてしまう、という残酷な現実だ。それでも、周囲に相談したり、準備をしたり、危険を予感したときに思いきって逃げ出すことは、絶対に無駄ではないと思う。私はあの夜、走り出した自分を後悔していない。むしろ、少しでも「おかしい」と思ったら即座に逃げる。それがどれほど大切か痛感している。無事に逃げられたからこそ、今の生活を続けられているのだ。
あの夜を忘れることはできない。身体に直接の傷は残らなかったものの、心には消えない恐怖が刻まれた。それでも、私は前を向いて生きるしかない。時間が経てば、感情は少しずつ癒えるのかもしれない。けれど、私の中にある警戒心は今後もずっと消えないだろう。あんな思いは二度としたくないし、これからは自分を守るためにできることはすべてやっていく。それが、あの夜に“偶然”助かった私だからこそ出せる答えなのだと思う。
Mr.Chairsで買ったゲーミングチェアが故障したので一部パーツを交換対応してもらったことを書く。
これはクレームではなく、問題なく対応が終わったことの記録であり、なぜ記録に残すかと言うと自分自身このサイト(Mr.Chairs通販)で購入したものの交換対応などの口コミがあまり探せず、不安になったのもあり、参考になれば良いなという思いからである。
1年前、利用していたAmazonでGTRacingの安いゲーミングチェアの合皮がボロボロになったり、アームレストも裂けてきたので買い換えようと考えた。もともとゲーム目的で使い出したゲーミングチェアも、環境の変化でリモートワークで利用することがほとんどになった。もともと腰痛持ちであり腰への負担が少ないものが欲しかった。
その他の細かい条件も含めると以下のようになった。
腰を考えるならアーロンチェア一択だとインターネットは言うと思うが、随分と高価でヘッドレストが別売りになっているし、身長に対応もしているようなものが見つけられなかった。
ゲーミングチェアの中でもそこそこ良いものはあった。記憶を頼りにググっているが、当時見つけたのはおそらくnoble chairsの全て黒の奴だったと思う。ただこれは価格が高いのと、合皮なのとで候補から外れた。
調べる中で参考にした椅子好きYouTuber Mr.Chairsの、メーカーの工場に行って解説する動画から知ったウィステリアフリーダムチェアがいい感じだった。
前述の条件をほとんど満たしたものだったのでこれに決定した。特にシリンダーの変更で身長対応できること、全体がファブリックであることが魅力的だった。大手通販サイトと比較して少し不安だったが、購入もそのYouTuber運営のサイトで行った。
ある日座った時にバキッと音を立てて足元のフレームが割れてしまった。シリンダーを挟んでいるキャスターヒトデの部分だ。
買った日を確認すると約1年前だった。このゲーミングチェアがかなり快適でもうずっと使ってるような、前からあったような錯覚があった。
まだこの期間であれば保証も効くだろう。と買ったMr.Chairs通販サイトを見て過去の注文履歴を見る。過去の商品ページを見て保証期間を見たかったのだが、注文履歴からは見れないようだった。ググっても注文した当時のバージョンは無かったからページを使いまわしてるのだろう。
こういうときに必要なのは注文番号/注文日付だ。注文履歴からそれらをコピペして相手がすぐ注文履歴に辿り着ける情報を書き、続けて故障の詳細を書く。
問い合わせを送ったのは夜遅くの時間帯で、大概こういった問い合わせの返事は平日営業時間帯だと思い込んでいたので驚いた。
メーカーへの確認を行なっている旨を連絡いただき、次の日の朝にはメーカーから交換パーツが送られる事の連絡だった。
交換パーツも次の日には到着して無事交換対応。破損パーツは着払いでの返送となる。とても気に入っている椅子なので、メーカー側の製品改善に繋げて欲しいと思いながら次の日には返送を行った。
大手ECサイトと異なり、どのように対応すればよいか、対応してもらえるか、の口コミがなく不安だったが、滞りなく対応してもらえた。
以上、レポっす
こいつどうすればいいんだよ。
年はアラサー、高卒、社会人(正社員)経験なし、メンタル的な問題で職に就いてもすぐ辞めてしまう。泣きながら実家に帰ると言うから(実家との折り合いも悪いにも関わらず。)それは前進にならないと思い引き止めて私の家に転がり込ませたが、住み出して1ヶ月、まだ仕事はしていない、いや、していたが1週間で辞めた。家賃光熱費水道諸々の生活費は私もち。食費はそれぞれ(一緒に食べるもののみ折半)。新しい仕事をまた始めるらしいがこの調子だと年明けになりそう。家事はする。タバコばかり吸う。友達に借金してるくせに。タバコ買う金あったら友達に金返せよ、と思う。しかし私も喫煙者であるためここはなんとも言えない。
私は新卒の安月給で働く女だ。今の新卒って給料いいんでしょ?って、驚くなかれ、私の基本給は1X万だ。笑えない。私が堅実に貯金などするタイプであれば話は別だが、まったくの刹那主義で金はあるだけ使うため男を養えるほど金銭的な余裕と何より精神的な余裕がない。
この、精神的な余裕のなさというものは根深く、彼氏を見ていると本当にイライラする。ひいては私のキャパシティの狭さを露呈しているに過ぎないのだが、夜遅くまで残業をして帰ってきたら、一日中YouTube見ながら好きな物を食べてダラダラしている男が自分の家にいるのである。
今の私には到底耐え切れそうにない。
そんなやつとはセックスもできない。興奮しないからだ。1ミリも屈服したいと思える要素がない。
こんなことを書くとさっさと追い出せだのなんだの言われそうだが、こいつを追い出すとなるとなんとも寝覚めが悪いのである。引き止めた私に非がある。しかしまるで出来の悪い子どもを見ているようだ。もし自分の子供が不登校になったらこんな感じなんだろうな、と思う。私は完全にイライラしてしまうので、親は向いてないし、いま不登校児を抱える親御さんは本当にすごい。
私がこいつを保護する理由はひとえに母性なのか執着なのか、恋愛感情はもうないような気もするが、まあ一緒にいて居心地がいいのは事実である。
人間の感情というものはこういうふうにマーブル状に混ざりあっていて、なかなかスッパリと切れないのが面倒くさい。
この男は本物の鬱病で、出来れば働かずに生きていきたいというか、働かなくて生きていけるならぜひ働きたくない、という人間である。ほかの鬱病の友人も数人いるが、彼氏のように働くということが根性的に向いていないというタイプと向いているタイプで分かれているような気がする。根性という言葉は間違っているだろうが、置いておく。ちなみにこいつは私のために頑張って働こう!という気は一切ない。それは私に愛がないというわけではなく、2人の将来のために俺が頑張って稼ごう、といった、ある意味昭和チックな男の考えというものがまるでないのである。一方の私はかなりこの昭和チックな考えであるため、根本の考えが噛み合わず、やはりこと仕事面に関してはイライラしてしまうのである。これは私が高給取りに転職したとしても変わらない問題であろう。
https://anond.hatelabo.jp/20240814102148 の続き。
タイマー運転の設定で、床暖房の電気代を減らせないか試してみた。
たどり着いた冬の設定を記す。
一条工務店2024年築、南向き太陽光電池10kw、蓄電池7kwh、床暖房、床冷房、調湿換気装置あり(「さらぽか」)
日が落ちる手前の15時までに、太陽光の電力であらかじめ家を温めておくことにより、
夕方の電力消費を抑え、蓄電池を長くもたせ、買電開始時間を夜遅くに伸ばす作戦。
あと、夏は電気代ケチるために、就寝中ムシムシさせることを選んだが、
グラフをみるかぎり夕方3時間のトータルで電力消費が 0.5kwh くらい抑えられているように見える
(もちろん、そのかわり昼間は0.5kwh 以上余分に消費しているはずだが、これは買電量に影響しない)
最初は 09時~15時まで 3℃上げる設定にしたが
(すなわち 12時までに3℃ぶん上がりきってしまうように見えた)
窓からの日射取得でもどのみち室温は上がってしまうのだから、朝から加温を開始するのはムダと判断。