はてなキーワード: 内面化とは
多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代の日本社会、特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会のリンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的な子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペットの禁止: これは単に集合住宅の規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育や生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器の禁止: 騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術や文化的な活動が「受験勉強の役に立たない」非効率なものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテムの選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事の危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供を安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの「禁止」は、現代社会、特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワードに支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2. 投稿者の性格と人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から、投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代と経験: おそらく30代後半から50代。自身が子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルやラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテム(ペット、楽器、はんだごて)を並べることで、問題の本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉と絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心からの賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉(アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情や祈りが感じられます。\n\n3. 世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観: 投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理しやすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供は未来の労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?: ペーパーテストで高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか? 他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間を人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かに、しかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先: リスクをゼロにし、すべてを予測可能な範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉な子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的な価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉で表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かに、しかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率と安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n
https://anond.hatelabo.jp/20241211231514
この増田を見て、ずっとなにか言いたい気がして、でも言葉にならなくてだいぶ時間がかかった。
といっても整理できていなくて取り留めがない文章ではあると思う。
何が言いたいかというと俺は被害者で元増田は加害者だが、悩んで苦しんでいる部分が同じところにあるということ。
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俺は10年以上前に男性から性被害を受けた男性(現在成人済、俺自身はゲイではない)である。
カウンセリングを今も続けている。
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性被害は未成年時に受けていて、それを性被害だったのだと理解し始めたのは被害の数年後。当然警察に行ってもいない。
社会人になってから会社のハラスメント研修とかで性被害というのを客観的に学ぶ機会を得たことでより自分が性被害を受けたのだということを実感した。
あと野獣先輩系のネタがSNSでネットミーム的に流れてきたときに何とも言い難い嫌な気分があって、フラッシュバックとか過呼吸やめまいとかそういう症状はないんだけど、
自分が被害を受けたときのことをうっすら思い出してモヤつく、みたいなことが増えた。
ひどいフラッシュバックとかパニック起こすとかPTSDといえるようなものはとくにないし、と放置してたけどやっぱこう気持ちがすっきりしないことが頻繁にあって結局ひっそりとカウンセリングを受けることとした。
最初に受けに行ったカウンセラーが性被害者の対応そんなにしてないから経験ある人を紹介するよってことで紹介してもらって続けてる。
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カウンセリングでは最初に俺の話をざ~っとしたんだけど、あなたが受けたのは性被害ですよ、辛かったですね、と認められたことで
被害者だった、ひどいことをされた、尊厳を奪われていた、という事実がバーッと押し寄せて正直カウンセリングを受け始めた最初のほうが受ける前より辛かった気がする。
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AVとかエロ漫画とかそういうオカズにするものを選ぶときに凌辱系とかひどいレ◯プもの(暴力を振るうとか肉◯器とか救いがなさそうな感じのもの)を積極的に選んでいたり、
性被害のニュースとかを積極的に見てそれで抜いてしまっている自分がなんとなく良くない傾向で、自分が受けた被害と関係あるのではないか、みたいな気がしたから。
モヤモヤ→性被害ニュース見るor凌辱系エロを見に行く→抜く→モヤモヤ(スタートに戻る) を永遠に続けている感じがして、
これが他人の不幸をオカズにしていることの一般的な倫理観としてのおかしさを不安に感じたというより、これってなんだか自傷行為みたいになってるんじゃないかと思いはじめたから。
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その話も正直にして、積極的にひどい内容のエロを選んだり性被害のニュースを見に行ってしまうのも、性被害なんて大したことがない、俺が受けたことはただのオカズの1に過ぎないと思いたい気持ちが働いているからで、自傷行為でもあるし、俺がなんとか俺の心を守ろうとしてやってること(=性被害とかっていうよりフィクションの中にもあるシチュの1つ、と軽く捉えようとしてる的な…)だけど、本質的な救いではないからやめたほうが良いよね、となった。
自分自身のこれまでを振り返ると元増田と同じく強権的な父がいて、テレビの女性タレントの見た目を揶揄したりしてたのが一緒だった。これは母親もやってた。
俺もそれを内面化している部分があり、少し古いけど俺が大学生頃だった気がするけど「スウィーツ(笑)」みたいな揶揄とか積極的にしていた。
あの頃は専ブラで2ちゃんにも張り付いてたしそういう感性・感覚?を自然と身につけて内面化してた部分があった。
「ひどいエロを見ようとする」っていうのは単純に俺の心を守るっていうだけじゃなくて、
性被害を受けるなんていうのはあまりにダサくて「スウィーツ(笑)」みたいに揶揄される女性より下で、その事実を受け入れるなんてことはできない、
だから少なくとも「ひどいことをされて絶望的な女性」をオカズにする(=抜くことである意味間接的に俺が加害者側にまわる)とか、女性を馬鹿にする(=見下すことで俺の方が上、俺より下がいると思い込む)ことで俺の精神の体裁を保とうとしていた部分もあったのだと今では理解している。
カウンセリングって結局は自分の駄目なところ、最低なところを捉えて扱い方考えないといけないからすごい辛い。
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そのへんを理解したことで(理解したけどきちんとその感覚を扱えてるわけではない)、
俺自身がすべきことは誤った方法で心を回復しようとしたこと(間接的に加害者になろうとする、いわゆるアンチフェミ的な言動で女性を下に見る等)を理解して、正しい方法で落ち着いた精神状態を手に入れること。
そのためには結局元増田と同じようにエッチなものを見るときはラブラブエッチもの限定にしなくてはならないのだ!
ではなく、自傷行為につながったり加害感情を湧き起こすような傾向のものから距離を置かなくてはならない。
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元増田も言ってるけど被害感情と自分自身の加害感情・行為を分けるのがすごく難しい。
俺が性被害を受けたのは事実だけど、そこから回復するために他人を揶揄したり傷つけたり、または傷つけられてる状況を見て安心感を得ようとしてはいけないんだけど、ここの切り分けができない。他人を傷つけるまたは傷ついた状態を見ることで安心するという回路が一度できあがってしまっている。
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単に年功序列で出世しただけのアラフィフ中間管理職のくせに「俺は優秀で頭がよくて業務処理能力が凄いんだ。俺はお前らに対して一方的にタメ口を聞いていいし、お前らは俺の前では直立不動でなければ許されないんだ」みたいな態度を誰に対しても取るような奴だ。
年上の上司に対しては「年だけ食った無能が俺にえばるんじゃねえよ」と(飲み会で)言ってるし、年下の上司に対しては「組織都合でレールに乗っただけの若造だろ」と(飲み会で)言ってるようなどうしようもないやつだ。
コイツがなぜここまで調子に乗っているかと言えば、コイツが金を握っている部署で働いてるからだ。
組織の財布の紐を握るような配置をずっと渡っていく間にいつからか周囲の「コイツの機嫌を損ねたくない」という忖度に対してあらぬ勘違いを積み重ねてしまったらしい。
つまりは、決裁ルートにおける関所に対しての媚びへつらいを自分の能力に対してものだと内面化してしまったのだ。
こんな奴が公の組織でいつまでもふんぞり返っているのは日本全体のためにも良くないのでなんとかして陥れ懲戒免職にでもしてやりたいと思っている。
世界を見渡せば、勝つ国負ける国のパターンはわかり切っている。
国民を豊かにすることを優先し、国民の意見をよく聞く国は、結果内需で地力が育まれ、国際的な力も持つ。
一方で、国民を蔑ろにし、外国に対するマウント(軍事力)に精を出すほど地力が落ちて、結局国際的な地位が下がる。
なのに、もはや「日本を強い国にすれば」という信仰から抜け出せないので、ますます内政を軽視して、外側の見栄だけを強化して、「日本は強い国だ凄い国だ」という幻想に溺れて突き進んでいる。
日本がどこよりもヤバいのは、それを政府が力で押しつけてるんじゃなくて、一億の国民が自主的に本気で信じてることだな。
自分の目の前の生活の矛盾よりも、妄想的な「地政学的戦略」で頭が埋め尽くされてしまうのは、『オタク文化』のせいじゃないか?w
これを、私は先進国でも後進国でもない、『転進国』と呼ぶことにする。
ルールを決めても何度も同じものを忘れてしまったり、それがあまりに多いので自分にがっかりしてしまうことが多い。
会話の中にすぐ割り込みたくなる、急に話題が飛びやすいのもあるのでそれは普段から頑張って黙ってるようにしてる。
仕事で、自分でもどうしてそれを忘れてしまったのか驚くような忘れ方をすることがちょこちょこある。
そういうのを単なるうっかりとか、自分の意識が足りてないみたいに考えるようにして努力してきたから、
もし医者に行ってちゃんと調べて「ADHDですね」と診断されてしまったら嫌だなと思ってる。
なにが嫌かってもしその病名がついてしまったら自分はそれに甘えてしまって「ADHDなんだから仕方ないよな」と内面化してしまいそうだから。
それって自己肯定感を下げてしまうし、仕事へのモチベも下がっちゃいそうだし、良いことがなさそうだなって思うんだ。
成人でのADHDって9割くらいは軽度~中程度の症状らしいし、実際ネットでたまに見かける「自分はADHDだから生きづらい」系の話もそこまでヘビーなのはあまり見たことがない。
ヘビーってのは普通に仕事するのは無理なレベルで、会社にもちゃんと申告してケアしてもらうか、あるいはそれを理由に働けなくなるくらいのもの。
もちろんそういう人も確実に存在はしていてそれこそそのレベルだからこそ職場とかで一緒になったことはない。
ただADHDの軽度な症状例で言い出したら、アイツもコイツも(そして自分も)ADHDってことにならないか?みたいな線引がすごい曖昧にも感じる。
ADHDだけど工夫でなんとか頑張ればいける、くらいならいっそADHDだと自分では思いたくない。
そのほうが頑張れるなって思ってしまう。だから医者には行きたくないなと思ってる。
こんなのリアルでは絶対に言えないけど、ADHDなんでしんどいわみたいな話聞いてもあんまりピンとこない。
ADHDじゃない人でもとんでもないミスばかりする奴はいるし、そこを分けて考える必要があるのかなって。
それにADHDにネガティブなイメージがついてるのもよくない。一点集中した時のパフォーマンスがすごかったりって面もあるだろうし、
ああ、表現の自由がまた一つ失われた、と。
電子コミックの性的広告を配信停止、全年齢向けサイト…大手11社の「電子書店連合」 : 読売新聞
この話だ。
だけど、それは受け手側で対応すべきであって、嫌なら子供に見せなければいいだけの話。
スクロールして目を背ける習慣を教えればいいのだ。
性的な表現自体を規制して、自由なクリエイティブの可能性を消し去るのは、慎重にならなければいけない。
言葉が強くて申し訳ないが、このようないわゆる「殺される前に自殺しろ」的な論理に、ため息をついてしまった。
フェミニズムによる、コンビニの成人向け雑誌のゾーニング、駅構内への性的広告の批判、そうしたジェンダークレームにネットは一丸となって対抗して来たはず。
人間の記憶や感情の優先順位は、進化心理学的な観点から見ると極めて合理的なものである。生物としての人間は、種の存続のために「生殖行為」に関する記憶や感情を強く刻み込むようプログラムされている。これは、種の存続戦略として必然であり、「セックスの思い出が最初に浮かぶ」という現象は、個人の価値観や理性の問題ではなく、生物学的条件付けの帰結である。
この日記を書いた人物が抱く「自己嫌悪感」は、文化的・社会的な規範が内面化された結果である。特に日本社会における「性的な話題は恥ずかしいもの」「純愛こそが価値あるもの」という価値観が影響していると考えられる。しかし、感情や記憶の優先順位において、理性が完全に感情を制御することは不可能であり、むしろ生殖本能に基づく欲求が優先されるのは合理的なパターンである。
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この日記には「元カノとの性の思い出を強調してしまうことは恥ずかしい」という意識が表れているが、これは「恋愛=精神的な結びつきが大事であるべき」という社会通念と、「恋愛=身体的な相性が大事である」という進化的欲求の間にある**認知的不協和**である。
言い換えれば、「セックスの思い出ばかりが浮かぶのは恥ずかしい」という羞恥心は、社会的規範の影響による後天的な価値観であり、それに対して「セックスが一番の思い出」という感情自体は、人間として極めて自然なものである。この二つが衝突しているため、自己嫌悪という感情が発生している。
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最後に蛇足として、**性欲や嫉妬心の強さは「それだけ相手を自分のものにしたい」という所有欲や独占欲の裏返しであり、
自転車の取締厳格化の記事が話題だが、元の記事にも、またそれに対するコメントにも誤りや思込が多く、もどかしいので匿名掲示板を利用して指摘したいと思う。
◯元記事の誤り
まず元の弁護士jpニュース記事について、歩道と車両に75cmの間隔を開けるとの記述は誤りである。これを根拠としたコメントも勿論誤りとなる。
そもそも歩道のある道路で75cm間隔を取った駐車など法的にありえない。何故なら75cmの規定は路側帯に限ったものだからである。路側帯というのは歩道のない道路に引かれるものであり、歩道のある道路に引かれるのは車道外側線という同じ白い線でも全くの別物。歩道のある道路では自動車は路肩に近づけて駐停車するのが正しい。そして路側帯のある道路では路側帯と路肩との距離に依って駐停車の仕方が変わる。則ち路肩と路側帯の間隔が75cm以下なら路側帯に沿って停める。またその間隔が75cm以上なら、一時停止と安全確認の後に路側帯内に進入し、路肩と車両とに75cmの間隔を開け停車する。
ここまで読めば路側帯が歩道に準じる位置づけだと解るだろう。(免許を持っているなら歩道に進入する時、一時停止を行うのは実際に厳格に行えるかは別として常識の範囲である。)
※指摘があり修正する。
自分の想定していた自転車走行帯とは別に、自転車専用と表示してある青色通行帯があるが実際に見ることがなくて思いが至りませんでした。ただ、自転車通行帯でも左折時などは自動車は進入できるように思います。ここは詳しい方の言及を待ちたいです。
(以下の文は訂正前→)ただの目安である。自転車専用道路だ車は這入ってくるな、は通用しない。最近法的根拠のない表示が増えて混乱することが多い。車道の拡幅なしに自転車を車道に追い遣るため泥縄式に設置した感がある。
◯自動車の駐停車
まず駐車と停車は違う。駐車禁止箇所でも停車は可能。これは当然のことで自転車から見れば邪魔であっても、自動車も乗り物であり目的地で停まれないなら意味をなさない。
駐車禁止・停車禁止の各条件は詳しくは書かない。ただ自転車に関係しそうな所を書くと駐停車禁止路側帯と歩行者用路側帯がある。(自分は地方在なので見たことがないが大都市にはあるのだろうか。)
1,駐停車禁止路側帯は文字通りその範囲内での駐停車が禁止され、歩行者・軽車両はその内を通行できる。つまり自転車通行可の歩道と同じである。自動車の駐停車は路側帯に沿って行い、当然75cmルールは適用されない。道路表示は白の破線・実線。
2,歩行者用路側帯は歩行者専用の路側帯である。駐停車の方法は上同。当然自転車も路側帯内を走行してはならない。白の実線二本で表示される。
◯自転車は75cmの間隔ですり抜けるべきか
まず大前提に路側帯は歩行者優先であることを強調しておく。其の上で自転車の走行は実に危ない行為なので足漕ぎで慎重に行くか、車両後方で待機する、迂回するなどの対策を取るべき。自転車も乗るので迂回が面倒なのは解るが、危ない箇所を理解して避けることも大事だと思う。
まず自転車は子供や年寄が乗る自転車、それ以外でも車道の走行が危険な時は歩道を走行できる。また、標識などで示される自転車走行可の歩道も多いので青切符を恐れる余り危険な走行を選ぶ必要はない。只管歩行者に配慮した自転車走行が出来るか否かが自転車乗りに突きつけられる。諦めも大事であり、降りて歩行者となる選択も必要であると思う。自動車運転をする身でも、車道を走る自転車を追い抜くタイミングは非常に気を使い、時にはダラダラと後追いすることは多々ある。後続車にも気を使うが諦めて追い抜かない判断も必要である点、自転車と同様である。歩行者保護の原則の内面化と急ぐことを諦める判断力を養わないといけないと思う。
つらつらと書いたが、自動車乗りとしては免許取得後10年20年の間隔で剥奪に重きを置かない免許更新時の一定の負荷として、実技と筆記試験を設けるのも大事ではないかと思う。人間なのでよほどの信念がないといつかは惰性運転に堕す。適当な時期に叩き直す何かは必要なのではないか。
個人的には自転車については極端に法で雁字搦めにすべきとは思わない。準歩行者と位置づける方が良い。ただ自転車乗りは自転車を押して歩くことをもっと覚えないといけないし、速度を抑える配慮、交叉点で左右確認をする慎重さ、ライトを下向きにする相互交通における想像力の涵養を拳拳服膺しなければならないと思う。
その上、まず愛されたいが先に来る。
自分は他人を愛さないのに、他人には自分を愛すことを要求するモンスターがそこにいる。
人を愛するためには、自分が愛されたいという飢餓を乗り越えなければならない。
「まず愛されろ」という困難な宿題が課される。ここで詰むこともある。
そしてこの飢餓を乗り越えた上でも、自分は人を愛せないモンスターだったと気付くことは破壊力のある作業だし、その作業をしてもただちに人を愛せるようになるわけでもない。
むしろそこがスタートラインであり、能動的に人の愛し方を積極的に観察/学習しなければならない。
たとえ人の愛し方がわかるようになってきても、今度はそれを実践しなければならないし、実践にあたっては違和感が伴う。
この愛し方は手順や手法や技術であって、自然に行っていることではない。だから作為的・操作的なものだと感じやすい。他人を操作しているだけなのではないかと。
「女が発言しても評価されない、男が同じこと言ったら褒められる」って話、よく見るけど、女だからじゃないと思う。
だって、他の女の人が発言して「それいいね!」ってなってる場面、普通に見てきたよ。
別にレアケースってわけじゃなく、ちゃんと話の中身が評価されてること、あるでしょう。
じゃあなんで自分のときはスルーされたのかって話になるけど、それって単にタイミングとか、空気とか、そもそも内容が微妙だったとか、いろいろ要素あるんじゃないの?
毎回自分が評価されなかった理由を「女だから」で片付けてたら、逆にそれって他の女性のことも下に見てない? 「自分はダメだった、でも彼女は評価された」って事実をちゃんと見られたら、もう少し違う結論になるんじゃないかなって思う。
というか、これ言うとたぶん「自己責任論かよ」とか「内面化された差別」とか言われるんだろうけど、そういうタグ付けで会話を終わらせないでほしい。
もっと雑に悩んでるんだよ、こっちは。
そもそも本当に差別されてるなら、発言以前に席にも座らせてもらえないんじゃないの?って思うときもある。
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こういった微妙なモヤモヤと自己突っ込みのある投稿は、はてな匿名ダイアリーらしさを醸し出します。別の角度からのパターンも必要でしたら追加できます。
いわゆる昔の価値観を持っている相手なら嫌だと感じるかもしれませんし、まったく気にしない人もいるかもしれません。
少しだけ、ふとしたときに気になってしまう人もいるかもしれません。
要は相手次第でそれはあなたにはコントロールできない範疇の話です。
ではあなたにできることはなにもないのかというと、そんなことはないとも思います。
「どう気をつければいいんだろう」とのことですので、たとえば次のようなことに気をつけてみるのはどうでしょうか?
1. あなたの年収が高いことを鼻にかけたり、逆に相手の年収が低いことに配慮したり気にしたりする(変に相手を立てようとしたり自分の年収を隠そうとしたり求められてもいないのに「年収なんて気にしないよ!」みたいなメッセージを発したり...etc)ようなそぶりを見せない。
あなたがこのような態度をとれば、たとえお相手が年収差を気にしないタイプのナイスガイだったとしても、次第に気にせざるをえなくなります。
2. あなたが相手のことを好きで大事に思っていることを折りに触れ言動で表す。
人は誰かに必要とされていると信じたい生き物ですからこれは年収云々関係なく大切なことだと思います。
3. 人生の価値観として「年収などは些末な問題である」ことを自分自身で内面化する。
上で言っていること(求められてもいないのに「年収なんて気にしないよ!」みたいなメッセージを発するな)と少し矛盾していると感じるかもしれませんが、充実した人生にとって年収は本当におまけみたいなものです。
少し周りを見渡せば高収入でも不幸せそうな人、低収入でも幸せそうな人はいくらでも見つかります。
大好きな人といっしょにご飯を食べ、会話し、音楽を聞き、映画やドラマを楽しみ、散歩し、無理のない範囲で旅行に行く。収入レベルと相談しながら身の丈にあった生活を送ることは実はそれほど難しくありません。人と比較し、もっと高いお店で、高いホテルで、いい服で、いい家でと考えだすと不幸が始まります。しごとを頑張るきっかけとしてそういうものを目指すのは否定しませんが、程度問題です。
余談ですが「そうはいっても高収入のほうが幸せになれる確率は高いんじゃないの?!」という反論が容易に予想されますが、たぶんそれは、それだけ他人と比較する人が多いからという理由が大きいと思います。人間そういうものなのである程度は仕方ないですが、少なくとも他人と比較する気持ちが芽生えたときは「あ、いま自分は他人と比較してしまっているな」と客観視できるとだいぶ楽になります。
余談ついでに、3番目のくだりはもし今後あなたがたが結婚し子育てすることになった場合さらに重要になってきます。
お子さんが高収入になるとは限りませんし、兄弟姉妹間で収入に格差が生じるのは当たり前のこととして起こり得ます。両親が揃って「高収入は人間の価値のごく些細な部分を占めるにすぎない(ゼロだと、それはそれで嘘になりますね)」という価値観を内面化できている人間なら、彼らはどんな職につきどんな収入を得ても自己肯定感を損なうことなく生きていけるのではないでしょうか。そういう人間は同じ考えをもったパートナーと結ばれる確率が高いでしょうし、そんな子どもたち夫婦もきっと幸せな家庭を築ける気がします。
最後に誤解しないでいただきたいのは高収入(や高学歴)を否定しているわけではないということです。それはその人が頑張った結果であり、その人が頑張れる人間であることを客観的に示すものですから、あなたがそうなら自分の中で誇っていいしお相手が将来そうなれば喜んでいいし、子どもが頑張ったなら遠慮なく褒めて一緒に喜べばいいと思います。
ただ人間は能力も学力も努力の才能も人それぞれですから結果もいろいろです。相手がパートナーであっても子どもであっても自分自身であっても、結果よりも頑張った過程を見るように私は心がけています。またさらに言えばたぶん人間て頑張れない人のほうが多いです。頑張れない局面が自他にあったとしても悲観しすぎず鷹揚に構えるくらいのスタンスでいいのではないでしょうか。
お幸せに!
横~。
お前らの話凄くよくわかる。
俺もかつては文系学生らしく「内面化」みたいな本で読んだ理論を元に人間を理解しようとしていたが
今ではもう一人の増田の立場だ。女がファンだと言ってたらその女はファンだ。
本の知識は直ぐにそれらを、トラウマだ疎外だなんだと解釈を押し付けようとするが、何の意味もないし事実を反映しない。
理論が社会を相手にしていること、社会は多様であることを忘れてはならない。
森脇透青は、《たとえば千田有紀の立場ひとつとっても塩野谷恭輔の立場と異なるし、さらに小谷野敦や笙野頼子ともまったく違うはずである(たとえば「生物学的」のような言葉を留保なしで使うかどうか、「陰謀論」的な語調を使用するかどうか、また構築主義の理解の深度において)》(「不良債権としての『情況』、あるいは回覧板について」)と述べ、トランスジェンダー特集の執筆者たちには「構築主義の理解の深度」において違いがあると言っている。「構築主義の理解」が足りないのは、この中では、小谷野敦であろう。事実、小谷野は、《私はバトラーを批判なんかしてないんだよ。ポモを批判していて、バトラーは読んでも何を言ってるのか分からない、と書いているではないか。》とツイートしている(2024年11月11日)。しかし、オフパコギャルママ🦖1y@takamatsu4_13によると、《批判者は佐藤悟志をこすっているけど、本当に読まれたくないのは小谷野敦とかだったりするんだろうね。さすがに「小谷野のは読まないでくれ!」とは言えないから、佐藤悟志をこすっているだけだという。》(2024年9月21日)。小谷野は「ポストモダンとトランスジェンダー」を寄稿しているが、これは何があったのかを小谷野節で綴ったものである。これを読むと、ノーディベートと称して議論すら行われないまま、明らかに異論のありうる理論によって現実が書き換えられようとしていたことが分かるであろう。千田有紀の「構築主義の理解」は足りていないどころではなく、上野千鶴子編「構築主義とは何か」(2001年)に序章「構築主義の系譜学」を書いているくらいであるが、「学問の危機と『キャンセル』の方法論」(pp.116-135)は、小谷野と同じく、何があったのかの記録であるが、キャンセルされた当事者であるだけに、迫力があるものとなっている。さらに、「LGBT異論」(紙の爆弾2024年10月号増刊)に「フェミニズムの再生を求めて」(pp.62-76)を寄せており、そこでは小宮友根との確執が延々と書かれている。
「『情況』に関する声明」には森脇も加わっているが、森脇は雁琳と同じ研究室の出身である(京大宗教学)。研究室が批判されたことに対して、森脇はこう反論している。《ある人格が問題だからといって、その人の所属とかその人の研究分野まで誹謗中傷されていて、いい迷惑です。「放置した」かどうかなんて知らないでしょ。そして彼の素行(思想内容というより、ほんとうに「素行」)は研究室内でも、先生からも先輩後輩(ぼく含め)からも、直接・間接に注意されてました》(2022年1月23日)。研究室での雁琳の素行は悪かったようであるが、これは想像できるところかもしれない。そして、オープンレター勢とのたたかいでも「うんこ学者」のような言辞を用いていて、素行は悪かったのであるが、オープンレターはからかいを批判する内容なので、お行儀よくやってしまうとオープンレターにパフォーマティヴに従ってしまうことになり、雁琳としては、あえて粗野な態度を取ったということらしい。育ちのいい人が不良のような振る舞いをしても、どうにも似合わない。批評は口汚い言葉で罵るというのが伝統であるが、近ごろの若者は育ちが良すぎて、罵倒しても様にならない。北村紗衣をからかってみるという芸当は、普段から素行が悪い雁琳だからこそできた荒業であろう。しかし、江原由美子の「からかいの政治学」を内面化したリベラルにとっては、このような粗野な態度こそ「サタン」のように見えてしまうようである。
雁琳によるキャンセルカルチャー批判の論文は、キャンセルカルチャー批判としては本邦で右に出るものはない論文であろうが、男女論に関しては断片的なツイートしか存在しないのが現状である。それらを活字としてまとめなければ、行動の根底にある思想が分からないので、一冊の本として著し、世に問うべきであろう。「情況」2025年冬号の論文はクリプトに関するものであるが、男女論をまとめてからでもいいのではあるまいか。
3 トランプ
リベラルによると暇空や雁琳は「誹謗中傷ビジネス」をやっているらしいが、カンパを募ることは、ビジネスというよりは、味方がいるということを示す意味合いがあるのであろう。暇空は6億あるので、カンパなどいらないであろうし、雁琳に至っては、非常勤講師の職を失っており、トータルで見れば明らかに持ち出しであろう。馬場靖雄はこう言っている。《仮にある人が「万人に対する戦い」を望んだとしても、実際にそれを貫徹することは不可能である。手始めにある方向を攻撃すると、本人が望むと否とにかかわらず、たちまち「味方」が登場してしまうからだ。かくして、いつのまにか前線が、すなわち秩序ある戦争状態が形成されるのである》(「ルーマンの社会理論」、81頁)。ここでの前線はフェミとアンフェによって形成されているが、ネットでの争いの大半はここで戦われており、ゲンロンの若手がやっている「論壇ウオッチ」でも、毎週のようにフェミとアンフェのたたかいが取り上げられている。フェミにしてみれば、フェミに賛同しないものは「差別主義者」であり、味方など現れてはいけないはずであるが、味方は登場してしまう。SNSはキャンセルカルチャーを展開させるのにもいい環境であろうが、その敵にとっても味方を集めやすい環境なので、前線が現れるのも当然であろう。
前線があって、たたかいが繰り広げられているだけであれば、さほど問題ではないのであろうが、問題なのは、フェミとアンフェのたたかいは、和解不可能なものであることであろう。茶会太郎のツイートによると、《構成主義とか構築主義とかいうの、当たり前と思われていることが実はこのような過程で成り立っている、ということを示すまでは大変勉強になるのだが、「だから断罪」となった瞬間に和解不可能な敵味方分断ツールに早変わりする》(2020年6月11日)。
和解不可能なたたかいの例として、解同と日共のたたかいが思い起こされる。トランプが大統領になり独裁的な政権運営をしている状況は、例えれば、解同の候補と日共の候補が大統領候補としてたたかい、解同の候補だけは困るということで、日共の候補が大統領に選ばれたところ、日共の大統領は、公約を守り、株式の時価総額上位百社を国有化してしまったようなものであろう。リベラルとしては、どうして日共の候補を支持しなかったのかと問うところであろうが、その問いに対しては、それでは解同の候補に投票すればよかったのかと問い返されるであろう。日共の大統領に抵抗しようとも、和解不可能なたたかいの中で生まれている以上、共闘は不可能である。
フェミとアンフェの対立において、アンフェ側の立場や考え方が何を意図しているのか、理解しづらい部分がある。茶会太郎のツイートによると、《純粋にジェンダーの軸で反フェミニズムをやっている人間は相当少なくて、ツイッター反リベラルの主流は「男性被雇用者を基本単位とする家族主義(保守主義)レジーム福祉国家の擁護論者」なのだという確信を深めている》(2023年1月3日)。産業社会へのノスタルジアとでも呼べるものかもしれない。しかし、ポスト産業社会においては、伝統的な家族や福祉国家を維持することは難しいであろう。だからこそ、ノスタルジアは止むことがないであろう。
暇空は「社会構築主義的社会正義」とのたたかいにおいて、表現規制派のスキャンダルを暴露し、雁琳は同思想を「解釈権の独占」という概念で理論的に解明した。ポストモダン思想(特にフーコー)が単純化され、社会に適用されるプロセスは、ヘレン・ブラックローズとジェームズ・リンゼイの「Cynical Theories」(2020年、邦題「「社会正義」はいつも正しい」)が思想史的に明らかにしている。しかし、雁琳はこの現象を「解釈権の独占」として集約し、鮮やかに整理した。オープンレターの内容は、次のように一行で要約される。「その内容は、彼らインテリリベラル左翼が、何が差別かを決め、該当する差別者に好きに仕打ちを与える、というものだ」(「フェミニズムが振りかざされ司法から進む女尊男卑社会」、「実話BUNKAタブー」2025年6月号)。こうしてポストモダン思想は、朝田理論へと収束した。解同の候補と日共の候補が大統領候補として対決するという例えを、やや突飛に持ち出したのは、理由がないことではない。
リベラルは「何が差別か」を一方的に定義する。リベラルの理論を批判することすら差別とみなされ、言論の自由の枠内では対抗が難しい。雁琳はあくまで理論的な批判に徹したが、暇空は対象への攻撃を行い、トランプに至っては人文系への予算削減という「人文系焼き畑」とも呼べる強硬手段に出ている。朝田理論のような思想に対抗するには、こうした物騒な手段に頼らざるを得ないのだろうか。笠井潔はこう言っている。《もしも差別の被害当事者やその支援者は差別者を勝手に処罰していいとすれば、それは定義からして私刑、リンチの肯定になりますね。その線を超えてしまうと、仕事、業績の否定から存在の否定まで行きかねない。存在の否定まで行くとなると、その意味するところは戦争状態に入るということです。小山田を敵と認定して戦争状態に入る。カール・シュミット流に言うと「例外状態」に入る。社会運動の文脈では、そういうこともあり得ます。しかし小山田の存在自体のキャンセルを要求する者が、物理的抹殺を含め敵を打倒するしかない戦争状態に入るという認識と、内戦状態だから自分もいつ殺されるか分からないという覚悟があって、そうしているのかどうか。そうとは思えませんね。(中略)微温的に、常に正義の側に身を置いていたいと思って、そのことを疑おうともしない安直な精神の連中こそ、ゴツンとやって分からせた方がいいんじゃないか(笑)》(笠井潔「キャンセルカルチャーをめぐって」、「情況」2022年春号)。トランプは人文系を「ゴツンとやって分からせた」と言えるだろう。朝田理論は内戦状態を引き起こす。この状況に出口はあるのだろうか。