はてなキーワード: 劇場とは
人生で誰に出会うか、また、子どものうちに「揉まれて」来たか、は後天的な人格障害の「発症」に関わる。
自律的な人格形成のクリティカルな時期に、「監視」資本主義者によって「常に他人の鏡を覗き込み、行動を操作されるような環境」に作り替えられ、その確立に失敗した人が、ネットで傷を舐め合うようになる。
現代の心理学において、若者が自己を確立する「成人形成期」は、他者との融合から脱却し自らの人生を執筆する「セルフ・オーサーシップ」を確立する重要な段階とされています。かつては鏡としての他者に依存していた自己が、葛藤や内省を経て、他者と繋がりつつも独立した「関係性的自律」へと進化することが成人への鍵となります。しかし、現代の「監視資本主義者」とデジタル社会の台頭は、若者の私的空間を利益のために操作し、この健全な発達プロセスを阻害する脅威となっています。若者は、SNSを通じた社会的比較や監視の圧力に晒されながら、真の自律性を手に入れるための過酷な交渉を強いられているのです。個人の内面的な成長が、いかに現代のデジタル環境によって複雑化し、変容させられているかを浮き彫りにしています。
18歳から20代後半にかけての「成人形成期」と呼ばれる時期は、単に大人になるのを待つ時間ではなく、自分の心の形を自分自身で作り上げる、非常に重要で困難なプロセスです。この時期の心の成長と、現代ならではの落とし穴について、3つの比喩を使って解説します。
成人形成期の初期、若者にはまだ「確かな自分の感覚」が備わっていません。この段階を例えるなら、「社会という鏡に映る姿に合わせて自分を変えるカメレオン」です。
この時期の若者にとって、「私」とは「他の人が自分をどう思うか」そのものです。そのため、他者は対等な人間というより、自分が演じる姿を映し出し、自分の存在を確認するための「鏡」や「観衆」となります。
若者がソーシャルメディアを手放せないのは、そこが自分を映し出す唯一の鏡だからです。鏡がなくなれば、自分が何者か分からなくなり、「消えてしまう(死)」のと同じ恐怖を感じます。そのため、たとえ傷つくような視線であっても、彼らは必死にその鏡にしがみつこうとするのです。
この時期の最大の課題は、他人の書いた台本通りに演じる役者を卒業し、自分自身の人生の「著者(オーサー)」に進化することです。
以前は他者の視線と自分がベッタリとくっついた、いわば「融合」した状態でした。しかし、成長するにつれて、自立しながらも他者と親密につながることができる「関係性的自律」の状態を目指すようになります。
自分の内側に真実や道徳の感覚が育ってくると、若者は「私はこう思う」「私はこう信じる」と、自分の言葉(一人称)で語り始めます。これは、自分の人生の所有権を自分に取り戻す作業です。
この成長は、単に楽しく進むものではありません。失敗、対立、不調和といった「厳しい交渉」や「内省」という嵐を通り抜けることで、初めて自分の内側に確固たる土台が築かれます。
しかし現代では、若者がこの「著者」になろうとする舞台が、「監視資本主義」という巨大な力に支配されているという深刻な問題があります。
若者が自分を探そうとするデジタルの空間は、実は企業の利益のために設計された「私有地」です。そこは、若者が自由に成長するための広場ではなく、監視資本家が利益を最大化するために、若者の行動をこっそり調整(チューニング)する実験場のようになっています。
ソーシャルメディアは、社会的比較や同調圧力といった手法を巧妙に使い、若者が自律的な選択をするチャンスを奪い、特定の行動へと追い込んでいきます。
成人形成期とは、「他人の鏡に映るカメレオン」を卒業し、「自分の人生を綴る著者」になるための闘いの時期です。本来なら、対立や失敗を通じて自分を作り上げるはずのこのプロセスが、現代では監視資本主義者によって「常に他人の鏡を覗き込み、行動を操作されるような環境」に作り替えられている点に、現代の若者が直面している困難さがあります。
映画にどんな成分求めてるのかわからないけど個人的には昔の邦画が割と好きなので2本書いとく。
・鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん、戦前のモノクロミュージカルコメディ)
「椿三十郎」(元のやつね、リメイクじゃない方)はとても面白かった。コメディ部分はめちゃくちゃ面白いし、笑ってたら急にシリアス差し込まれるのも良い。
敵の家の隣に隠れるというハラハラ成分も効いてて、最後の最後まで面白い。
(あと仲代達矢がめちゃくちゃかっこいいんだけど、かつらのせいか頭がでかい…)
「鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)」は1939年、わずか一週間ほどで撮影された時代劇ミュージカル。ちょっといい加減で、お気楽で明るい作品。数十年前に劇場で見て、戦前にこんな可笑しくて楽しい映画あったんだなあとしみじみしつつめちゃ笑った。
あと「大誘拐」も面白かったな。富豪の婆さんが誘拐されて、誘拐犯達の要求金額が安すぎる、と自ら百億円に吊り上げて誘拐犯たちを先導し警察やマスコミを出し抜こうとする話。
それと若い頃はあまり好きじゃなかった寅さんが割と好きになったんだけど、今だと多分許せない人多そうだと思う。コンプラ的なやつもあるし、寅さんいい加減だとか腹が立つとかで叩きが捗る人が多そうだ。
トランプとかさ、無茶苦茶やってるの、トランプ劇場で耳目を集めてるのとかって、さ、ひょっとしてそれが理由なんじゃないかな?って思わない。
なんかいくらなんでも、ただ注目を集めたいだけのまるで高校生が回転寿司のレーンに乗っかるようなことをやり続けてるのは、人々がそのことから目をそらすように仕向けてるんじゃない?
何事無く平穏な日々が続いていたとして、いま、この気候を全身で感じるときに、あまりにも何かがおかしすぎると感じない人はいるのだろうか?
ひょっとしてもう温暖化は、加速的に始まってて、どうしようもなくなるときは近いんじゃないだろうか?
そして、それはあまりにも速すぎて、なんとも手のうちようなないことがもうシミュレーションで証明されてるのでは?
アメリカ一国が生き残るとか、もうそういうことすら目指すことが出来ないことが証明されているのでは?
だから言うのでは?
そのたったひとつの真実からどれだけ人々の目をそらさせるか、もう終わりの時を迎えつつあることを、パニックを起こさないためだけに、ただ、ただ、ただ
アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』(1972年)において、「海」と「女(ハリー)」は密接に関連しており、物語の核心を成す重要なテーマです。
1. 「ソラリスの海」= 知性を持った巨大な鏡
惑星ソラリスを覆うプラズマ状の「海」は、人間の脳波や記憶に反応して、その人物の深層心理(特に過去の罪悪感や欲望)から、かつて愛した女性の幻影(物質化された存在)を生み出します。
この海は、人間とコミュニケーションを取ろうとしているのか、ただの鏡として反映しているのか不明な、理解を超えた存在です。
主人公の心理学者クリス・ケルヴィンの前に現れる、亡き妻ハリーにそっくりな存在です。彼女は実体がありますが、クリスの「記憶」をもとにソラリスの海が作り出した存在です。
彼女は、クリスが過去に自殺に追いやってしまった妻への「罪悪感」や「戻れない過去への追憶」そのものを体現しており、クリスを愛し、次第に人間性を獲得していきますが、結局は「海」の作用によって生まれた幻影であり、非人間的な存在です。
『惑星ソラリス』における「海」と「女」の関連性は、以下のような哲学的な対比・融合として語られます。
無意識の反映: 海がハリーを生み出したように、女性(ハリー)はクリスの無意識の深淵(海)そのもののように機能する。
不気味な包容力: 海はすべてを包み込み、理解不能な方法で人間を翻弄する。ハリーもまた、クリスを愛し、同時に彼を精神的な限界まで追い詰める、海のような存在である。
愛の苦悩: タルコフスキーは、レムの原作にある「人間が宇宙で自己探索をする」という主題に加え、映画では「愛と記憶、そして失われたものを取り戻そうとする欲望」を強調した。ハリーは、その愛の結晶であり、同時に愛が抱える苦悩の象徴でもある。
4. まとめ
映画『惑星ソラリス』における「女は海」というイメージは、「男(クリス)が、知性を持つ巨大な海(ソラリス)を通して、自らの内なる記憶(女=ハリー)と対峙し、愛と罪悪感の渦に溺れる」という物語構造そのものを示していると言えます
なるほどAI…😟
でも、私と一緒に、くるくるばびんちょぱぺっぴぽ!ひやひやどきんちょの!とかやってくれるのはもう熟女ですよね?😟
いや、私は初老で老人なのですから、もうおばあさんでもおかしくない!
ウソです、レムとか、タルコフスキーとか、ドリームハンターとか知らなくても全然構わないですよ、
だって、押井守みたいな女性に来られても困るじゃないですか…😟
あ、いや、もう、この際、押井守みたいな女性が来てもいいです、あ、犬は大好きですよ、犬派ですから…😟
でも、小型犬が嫌いです、褒められないとポメラニアンみたいなのはあんまり好きじゃないです、
また宮崎駿の話になっちゃいますが、足の短い奇形の犬を選別してペットにするような人間が嫌いって御大いってましたけど、
その点は私も同意なんですよね、犬を飼う余裕もないけど、飼えるならシバイヌみたいなのがいいかな、ちゃんと庭とかあって、外で飼いますよ…😟
寒い冬は玄関に入れますけど、家の中にはあまり入れない、入れたくない、
ちゃんと犬として、散歩して、走らせて、一緒に走って、猟犬としてちゃんと育てたいですよね、狩猟本能を活かしてあげたい…😟
猫も、犬も、狩猟は本能なんですから、性欲とか食欲と一緒です、欲望を殺しちゃ駄目です…😟
本音を言うと、所詮ロリとかペドなんで、小柄な女性が好きというのはあるんです、
でも、かぼちゃワインみたいなのもいいじゃないですか…😟
だから正直、長身女性も大好きなんです、2mぐらいでもいいです、日本の家屋が天井低いんで申し訳ないぐらいです、
マイクローンしないで、マクロス7みたいに頭だけ部屋に出てても構いません…😟
そうでした、櫻井智さんはもういないのでした、私は今でもレモンエンジェルの楽曲が大好きなのです…😟
ロンリーロンリーがやたらと有名ですが、東京ローズとかハンサムガールとかいいですよね…😟
ド田舎で酷い生活を強いられながら、夜な夜なレモンエンジェルのラジオを聴いたり、
そういえばレディウスのCMとか、OVA?OAV?も入手できなかったんで、
この世のどこかに、そんなアニメがあるんだろうなあ、と思っていた子供時代を思い出すなあ…😟
NHKでしたっけ、青春アドベンチャーだか、アドベンチャーロードだか、
自分は杜撰なチェックしかしてなかったけど、ちゃんとチェック、録音してる人とか学校にいて、うらやましかったなあ…😟
うちにまともならラジカセが入ってくるのは、ずっと後の話なんですよ…😟
たしか、劇場パトレイバー1の頃にもビデオデッキがなくて、学校の知人が貸してやるよ、ダビングしていいよ、と言うので、
急遽親に車を出してもらって、山を越えてダイエーだかジャスコだかに言って買ってもらいましたよ、
知人が折角貸してくれるって言ってるし、ないと流石に生活にも困る、って言って…😟
こういう苦労話が一緒にできる異性って、もうオバサンというか、おばあさんしかいないですよね…😟
私がオバサンになっても、そうですね、彼女がダン・オバノンになってもですね、
正しくはダニエル・トマス・オバノンさんだそうです、ダニエルさんなんだか、トマスさんなんだか…😟
泳ぎに連れてくも何も、水着が若い子に負けるも何も、一緒に市営プールで水中ウォーキングしてくれる女性大募集!😟
私も近所のおじいさんおばあさんたちと一緒に市営プールをぐるぐるして、波を起こして25m、50mコースの人たちを邪魔してるので…😟
ディズニー、2025年は1兆293億円の世界興収を記録 | THE RIVER
https://theriver.jp/disney-2025-box-office/
ウォルト・ディズニー・スタジオは、2025年の劇場公開作品が全世界で65億8,000万ドル(約1兆293億円)に到達し、スタジオとして年間興行収入ランキングで世界1位の記録となったことを発表した。
同スタジオが全世界興行収入で60億ドル(約9,384億円)超えを記録するのは、2016年、2017年、2018年、2019年に続き5回目。2019年以降、60億ドル突破を果たしたのはディズニーが初めて、かつ唯一のスタジオとなる。
洋画アニメーション史上最速で国内興行収入100億円を突破した『ズートピア2』や、シリーズ3作目となる『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』、実写『リロ&スティッチ』などの世界的大ヒットが奏功した。
『ズートピア2』は1月8日までの全世界興行収入が15億9,000万ドル(約2,495億円)に到達。日本興行収入は113億万円を突破した(8日時点)。『アナと雪の女王2』(14億5300万ドル、約2,282億円)を超え、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品として史上最高の世界興行アニメ作品になっている。また、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(13億6,000万ドル、約2,136億円*)を超え、洋画アニメーション史上No.2の記録。
ちなみに鬼滅の刃は世界興収1,000億円らしいからこの半分以下ね。
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』は1月8日までの全世界興行収入が10億9,500万ドル(約1,720億円)。日本興行収入は18億円を突破した(1月7日時点)。
『リロ&スティッチ』の全世界興行収入は10億3,800万ドル(約1,629億円)全米でメモリアルデー週末4日間としては歴代No.1のオープニング記録となった。ディズニープラスでも歴代2番目のオープニング視聴数を記録しており、スティッチ関連の世界小売売上は40億ドル超(約6,287億円)に及ぶ。
アバターもまだ公開1ヶ月未満。
10億ドルを突破した3作とも非白人が主人公だしズートピアは多様性ど真ん中。
毎度毎度しょうもないネガキャン釣り記事に釣られて「ディズニーはポリコレのせいでオワコン」とか言ってた人たち、
ごめんなさいしようね?
結論から言うと映画は観なかった。チケットも買わずそのまま劇場を後にした。
理由はシンプルで、店員の態度があまりにも... だったから。
最近こうした接客が終わっている人に出くわすことが多い。もちろん事情は想像できる。物価は上がり実質賃金は下がり、彼らもまた安い給料で酷使されている労働者の一人なのだから。
不機嫌さの裏にはやっていられるかという絶望があるのかもしれない。
ただそれでもその不機嫌さは本当にどうしようもないものなのか?
不機嫌を撒き散らしていられるのは周囲がそれを許してくれる環境だからだ。相手が穏やかで波風を立てず、多少の無礼には目をつぶってくれると分かっているからこそ、ああいう態度が成立している。もし周囲がもっと厳しい人間ばかりで少しでも失礼な態度を取れば即座に強く咎められるような場所だったら、彼らは同じ振る舞いをするだろうか。おそらくしない。
つまりああいった態度は追い詰められた末の必然というより、「許されていることを分かっていて選んでいる態度」に近い。
ミニシアターという場所には、特有の勘違いをしている人間が多すぎる。
彼らはまるでその映画を自分が作ったかのように、あるいはその芸術性を自分だけが理解しているかのような、妙に高慢なオーラを纏っている人がいる。
セレクトショップの店員にも似たタイプがいるが商品を「売らせてもらっている」という自覚が抜け落ち、作品の権威を自分のものだと錯覚している姿は正直言って滑稽だ。
今や映画を観る手段はいくらでもある。Netflixを開けば不愉快な思いをすることなく自宅のソファで最新作から名作まで楽しめる。わざわざ劇場まで足を運ぶ必然性は昔に比べて格段に薄れている。
そんな言葉を口にする前に自分たちの態度が客足を遠のかせている一因であることにそろそろ気づくべきではないか。
高いチケット代を払い時間を使って劇場まで行った末得られるのがこんな体験なのだとしたらミニシアターに未来などあるはずがない。
絶望先生見てたしまほろまてぃっくも見たし、歌物語のOPED良かったし~で、行くことに
QRコード注文とかもだけど、やたらアプリをインストールさせる風潮好きじゃないんだよね。こっちにコスト押し付けてる感じで…
しかも、Googleアプリストアがクレカ情報入力しろと。こういうとこから流出するのよな…と思いつつ入力。アプリの出来はいいけど、こういうのってスマホの電池切れたら…とか心配しちゃう。
で、最初は土曜に行く予定だったが昼の予約が全滅。なぜか日曜の昼はガラガラだったのでそっちで予約。
調べたら40周年の時も日時指定だったからしいが、その時は名古屋大阪でもやってたのにィ~
で、土曜日。中古屋行ったらまほろまてぃっく二期DVDBOX八百円。幸先良いじゃんと喜んでたら仕事の連絡。
なんか業務上の大事故が起きたみたい(他人事)本来なら明日客先に出向いて対応すべき重大インシデントだよね~。神様がシャフト展に行くなと言ってるのでは?仕事優先することで事故を回避みたいな…まぁ、起きたことはしょうがないし連休明けに対応することになる。
で、今日。無事に5時半起床で新幹線にも間に合う。場所調べてたら、会場のビルはシャフト展が終わったら取り壊すと知る。場所やら日程はそういうことかと納得。
押井気取って駅の立ち食いそばに行くが、味はともかく、丼を渡すスペースと食券置くスペースせますぎ(店員一人分)セルフ給水や七味も近くに置いてあるから、注文して待機中のオッサンや丼を受け取ったオッサンが入り乱れて動線メチャクチャ、店の仕事しやすさだけで配置してる感…2人で回してるみたいだし仕方ないかもしれんが、もっとこうシステマチックにさぁ…と、憤慨しながらサンシャイン通りへ。
池袋全体が大混雑で歩くだけでも時間を食う。スマホを見せると4階に行くように言われるが、階段に人が並んでいるので最後尾で待機。単にオタクがたむろしてるだけじゃないよな?と不安になっていると、スタッフさんから、整理番号の段へ行くように、と声をかけられる。
階段を登ってると知らないイケメンオタクに「何番ですか?」と尋ねられる。番号を見せると、「その番号ならもっと先ですよ。」と言われる。「はぁ、そうですか」と返すブサイクオタク(俺)礼を言え礼を。
番号の階段に付くが、列も動いてるのでどうすればいいかわからず、流れで入場。
撮影場所とかパネルとか。混雑してる。オオ、まほろまてぃっくの原画とコンテだ!角のとこにあるからメチャクチャ見辛いけど…
ぱにぽにとか、まあ年代順に展示してる感じ。絶望先生のコーナーを主に見るが人が多くて大変。次のスペースはカーテンで区切られてて逆流できないっぽい?まどかの部屋で次が物語だったと思う。撮影可のとこがあったり、ウエダハジメのパネルとかあったけど、飛ばし見してたからちゃんと覚えてない。まどかはリアルタイムでハマってたけどwiki見ててこれってマーケティング…って思ったら冷めちゃったんだよな。エレベーターで別の階に行って階段を登る。階段に作品ポスターが飾ってあり、その後もなんか色々展示がある。ヴァージンパンク!そーいやシャフトだったな…しかし展示がまどかの上映スペースの隅にあって少し見にくい。
で、公式MADみたいなの流してる部屋兼通路があり、とりあえず最後まで見るか…と一人見てると人が通って気まずい。通行の邪魔だから前方で見るよう言われちゃったりして。
で、梅津とか久米田の50周年サインとかメッセージが飾ってあっておわり。20分くらいで見終わるが、これはほとんどスルーしたから。ちゃんと見てたら数時間かかると思う。
地下二階がグッズとのこと。チケットのチェックあり、カタログと購入用紙を渡され、実物コーナーを通り、MVとか流れてる劇場兼物販スペースみたいなとこに行く。図録がないか聞いてる人がいたが、過去の展覧会の図録がネットで買えるのでそちらで、ということらしい。注文ペンがあったみたいだが渡されてないんだか取り忘れたのか。自前のペンで書いて待機。列を崩しちゃならんのだかわからず、書いた後も待機。してたら書けた人から前にいくみたい。ペンも回収しますと言われ、なかったので自分のを…と伝える(ないならスタッフに言わないと後で面倒になる)
絶望先生の顔面原画ポストカード(少女達の集合シーンとか、もっといいのあっただろ、と思いながら)まほろまてぃっくの原画ポストカード(まほろの表情集。こっちはよい)を買う。10分くらい。全部で半時間。
1時間半ほど見込んでたので時間が余る。が、まさかの池袋駅までの道で迷う。うろついてたら、なんか無料でおジャ魔女とデジモンの展覧会やってて、撮影も可らしい。原画とかもあって結構ちゃんとしていた。
秋葉原でkeyの25周年のTCGパックを買う。今度買おうと思ってスルーしたらどこも売り切れになっちゃってて、でもあるとこにはあるんだな~。ボックスしかないけど。まあ仕方ない。
シュウマイ弁当買って新幹線で食う。中にお菓子が入ってます、と言われ、干しアンズの他にお菓子が?と思ったが、今思えばお箸か。色々と、弁当の完成形って感じでよい。タケノコが一番美味い気がする。
で
シャフト展行ってわかったんだけど、自分は信者というよりアンチなんだよな。あと、富野展とか庵野展とはやっぱ違った。まあこっちは周年イベントだからそらそうだけど。前者は老若男女ファミリーいたけどこっちは若い男女ばっかで、作画資料とかじゃなくコンテンツ紹介みたいな(そういえば、デジタル作画だからセル画とかはないんだよな~)
悪くはなかったけど、シャフト君そういうとこあるよね!って悪いとこも滲み出てた感じ
そういうアカンとこが噴出したのが打ち上げ花火じゃねえかと思うんよな
上手いこと噛み合ってたのが絶望先生
ノールックでいつものイキフンの雰囲気でマウスのクリックをクリックしていたら、
届いたものとか見てあれ?って気付くことがあったのよね。
そんで、
こないだ映画観たときもあれ?って気付くことがまたあったのよ。
それは
買ったカレンダーが
開始の日付が間違っているうっかり私はAのつもりで買っていたものがBのものが届いて?あれ?ってなったの。
私が思って買ったのが「シャオシャオ」のカレンダーだったのね。
あまりにノールックで買ってしまうとパンダ違いになってしまうことを深く反省したわ。
そんでもう一つが、
字幕版だと思ってチケットをインターネッツで買って劇場にいっていざ上映!ってなってはじめてそこで、
あれ?
違う違うそうじゃない、
そうマーチンも言いそうなぐらい明らかに分かりやすい日本語でセリフをしゃべるものだから一瞬気付かなかったわ。
でさ、
他がなんかぜんぜん年齢とかけ離れているような幼い声だったりしたときのなんか、
どこにもぶつけられない、
わちゃー!私字幕版だと思っていたのに!って
なにか演者と声の感じが年が離れているような気がするのよね。
これも私がイキフンの雰囲気でインターネッツの劇場チケット予約サイトでほぼノールックでマウスでクリックしたクリックが、
本当にシアターに入場するまで気が付かなかったのよ。
なんか
近い期間でそんな私らしくないミスをしでかしまくりまくりすてぃーなこの2件は自分的にも衝撃的なインターネッツ界隈のクリックミスとして
反省しなければならないのよ。
ノールックで何でもかんでもボタンを押したらいいってもんじゃないって言うけれど、
私あれあれよ!
あれってどこが完成形なの?って
まだなんか半熟のままそれ食べるのコテで?
全く未知のものなので
海のものなのか山のものなのかよく分からない山鯨の肉のもんじゃ焼きって一体これはなにの食材を使われているのかしら?って
もんじゃの食べ方も焼き加減どこまで焼いたらいいのかもわからない最中、
使われている食材も
ダブルでよく分からない新年のもんじゃ焼きパーティーだったわ。
私はそんなもんじゃ焼きの食べ方の達人じゃないので、
お酒のおつまみで別で用意してあったリッツにスモークサーモンを載せて、
注文間違いとか劇場シアター間違いとかをしでかしちゃったのよ。
教訓としては、
良く見てクリックしなさい!って
もりもり食べ野菜でお馴染みの鈴木杏樹さんもそう言いそうな感じの勢いでちゃんと見てクリックし野菜!って言われちゃいそうよ。
2回しでかしたけど、
この近々に令和入ってからイチのを二度も更新してしまう勢いは自らやっぱり反省しなくてはならないところなのよ。
リッツの上に乗せたスモークサーモンが私がご機嫌だったものだから、
リッツの上から落っこちてその勢いでスモークサーモンがマウスをクリックした、
誤クリックだったのかしら?ってことはないはずだと思うの。
だから、
なんかうっかりというか、
なんで間違えたのかしら?って
もう思い込みがそうやってしまったとしか言いようがない言い訳しようがないのよね。
気を付けなくちゃ!ってそう思ったわ。
1回ならまだしも、
まあ、
パンダの写真のカレンダーは「シャオシャオ」か「レイレイ」かはパッと見で分からないから、
やっぱり字幕版と吹き替え版を間違えたことがショックだったわ。
もう私は日本でやってる映画の全部字幕をやっているのが戸田奈津子先生だって思い込んでいるぐらい、
そのぐらい張り切って劇場に行ったのに。
フタを開けてみたら、
いやスクリーンの幕を開けてみたら、
きっとあの時の私の驚いた感じの声を吹き込むのなら、
洗濯洗剤のシーエムで「驚きの白さ!」って、
よく汚れが落ちる驚きの洗浄力の声を吹き込むプロの驚き屋にだって勝るとも劣らない驚き声を上げられていたと思うわ。
そのぐらい驚いたんだもん。
慣れていると思っていたインターネッツ界隈に自信たっぷりでいすぎるのも、
よくないなぁって。
反省よ。
リアルにお仕事で真面目にノールックで発注とかしていたらミスるので、
しっかりしなさい!って。
その居酒屋には絵もない花もない歌もない飾る言葉もない洒落もなかったけれど、
そのしっかりしなさいって声はあって私の心に届いたような気がするの。
うふふ。
シャキシャキレタスが美味しそうだった、
想像通りのフレッシュシャキシャキレタスのフレッシュさが身体に沁みわたる美味しさだわ!
たまのこういうレタスも食べたくなるのよね。
ちょっと甘いのと格好を付けながら、
飲むとめちゃ温まるわ!
ジンジャーがあっても良かったかも知れないんじゃー!なんて言わないよ絶対にって思うぐらい、
って気付き。
その気付きを大切にしようと思ったし、
また買ってこなくちゃ!ってところね。
暖かくしてよい朝のスタートよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://x.com/eat_331048/status/2008048615718285313?s=46
「内容と関係ないですが、
どうしても我慢ならないので1言
幕降りた途端に、
「エリザ全然声出てないやん、アカンわ」「残念やわ」とデカイ声で言いやがった、
上記のようなツイートが物議を醸していたが、そもそも東宝が絶対にスターシステムを崩さず、エリザベートのシシィ役に宝塚出身の歌ができるんだかできないんだかよくわからない女優を起用するからこうなる。
なお筆者はエリザベート自体は好きなのだが、Wキャストでずっと出続けている女優の歌もそろそろ年齢もありかなりきついと思っている。そして退団後すぐの人気な宝塚の女優のWキャストは博打だ。たまに上手な人もいるが、数えられる程度。宝塚のファンではないが、ミュージカルを見たい層の人間にとってはかなり辛い。
昔からの慣例だから、もはや文句を言うのも無駄なのだが、劇場で下手くそだと感じた女優の愚痴すらも溢すことができないような閉じた環境下では、これから益々日本のミュージカル界は閉じてゆき、役者ファンに媚を売るだけの地獄の拝金システムがさらに強化されてゆくだけであろう。
匿名でしか書けない自分にも悲しくなるが、宝塚出身の俳優がどれだけ下手くそでも自分の名前を出して批判すると、信者が飛んできて燃やされる界隈だと思っているので、飛んで火に入るなんとやらにはなれるほど心臓は強くない。
もちろん宝塚出身者でもパフォーマンスが素晴らしい女優がいることも、同時に宝塚出身ではないとんでもない大根役者が舞台に出ていることも重々承知である。
とはいえ、今までシシィ役の歌唱技術で幾度となく大横転させられた人間としては、男役として人気だった女優が退団後(娘役でも酷いのがいるが)、伴わない実力をさしおいて人気だけで重宝される宝塚東宝スターシステムの弊害を、宝塚のファンではない一般の演劇やミュージカル好きの我々が被っているのは事実であるといっても差し支えないのではないか。
なおこれらの問題は出演している女優だけのせいではない。制作側の事情や今までの慣例、演出家の独断、チケットの売れ行きなど全てが関わる問題であるし、すぐに変えることはできないだろう。しかしエリザベートだけに限らず、今後のミュージカルや舞台芸術の発展のためにも、2万円近いチケットを払って良かったとオタクでなくても思える作品作りをしてほしい。
そもそも宝塚でエリザベート何十回も何千回もやってるんだから東宝は宝塚から出さなくてもいいだろ!1人くらい宝塚出身者ではないシシィを配役してくれ!切実な願いだ。
そして劇場では感想としてこの人が下手だとか、この芝居が嫌だとか、ここが良かっただけでない感想が飛び交ってもいいではないか。あなたはここがよかったと負けずに主張すれば良い。どちらも立派な感想だ。
役者のファンなのは良いが、役者はアイドルではない。舞台に立ち、役を通して様々な批評に晒される仕事だ。
もちろん絶対に個人の人格の否定をされたり、パフォーマンスに関係のない罵詈雑言を浴びせられるべきではない。しかし舞台そのもので客が感じたことを言葉にするのは、正しく批評の域ではないだろうか。
それに2万円近いチケット代を支払って役者の声が出てないというのは、3時間それを聴き続ける役者ファンではない、作品のファンや初めて見にきた客の気持ちになったらどれだけ辛いか想像できないだろうか。
もちろん少しでも揺らぎが嫌なら映画を見ればいいし、他に娯楽がたくさんあるとはいえ、プロの演じるミュージカルをわざわざ選んで見にきたにもかかわらず、出演者の声が出ていないなら、それは文句の一つも言いたくなるだろう。(そもそも声が出ていないというのは批評の段階にすら立てないと思うがそれは別として)
これもまたスターシステムの弊害だし、ファン側もそれ以外も皆スターシステムの被害者なのかもしれないが、やはり、舞台には批評があって然るべきで、それをあなたや役者が受け入れるかは別として、誰でも、どう感じたか、というのはその場で話せるような開けた場になって欲しい。
特にファンなのであれば心配と同時に、なぜその状態で舞台に乗ったのか疑問に思わないのだろうか。
調子が悪くても舞台に乗らざるを得ないならば、酷使され過ぎているし、自分から乗ることを決めたのであれば、その女優にそのような評価が下るのも致し方ないだろう。
かなり話が逸れてしまい読みにくい文章となってしまったが、これからも劇場がさまざまな意見が飛び交うひらけた場所であって欲しいと心から願う。
https://x.com/eat_331048/status/2008048615718285313?s=46
「内容と関係ないですが、
どうしても我慢ならないので1言
幕降りた途端に、
「エリザ全然声出てないやん、アカンわ」「残念やわ」とデカイ声で言いやがった、
上記のようなツイートが物議を醸していたが、そもそも東宝が絶対にスターシステムを崩さず、エリザベートのシシィ役に宝塚出身の歌ができるんだかできないんだかよくわからない女優を起用するからこうなる。
なお筆者はエリザベート自体は好きなのだが、Wキャストでずっと出続けている女優の歌もそろそろ年齢もありかなりきついと思っている。そして退団後すぐの人気な宝塚の女優のWキャストは博打だ。たまに上手な人もいるが、数えられる程度。宝塚のファンではないが、ミュージカルを見たい層の人間にとってはかなり辛い。
昔からの慣例だから、もはや文句を言うのも無駄なのだが、劇場で下手くそだと感じた女優の愚痴すらも溢すことができないような閉じた環境下では、これから益々日本のミュージカル界は閉じてゆき、役者ファンに媚を売るだけの地獄の拝金システムがさらに強化されてゆくだけであろう。
匿名でしか書けない自分にも悲しくなるが、宝塚出身の俳優がどれだけ下手くそでも自分の名前を出して批判すると、信者が飛んできて燃やされる界隈だと思っているので、飛んで火に入るなんとやらにはなれるほど心臓は強くない。
もちろん宝塚出身者でもパフォーマンスが素晴らしい女優がいることも、同時に宝塚出身ではないとんでもない大根役者が舞台に出ていることも重々承知である。
とはいえ、今までシシィ役の歌唱技術で幾度となく大横転させられた人間としては、男役として人気だった女優が退団後(娘役でも酷いのがいるが)、伴わない実力をさしおいて人気だけで重宝される宝塚東宝スターシステムの弊害を、宝塚のファンではない一般の演劇やミュージカル好きの我々が被っているのは事実であるといっても差し支えないのではないか。
なおこれらの問題は出演している女優だけのせいではない。制作側の事情や今までの慣例、演出家の独断、チケットの売れ行きなど全てが関わる問題であるし、すぐに変えることはできないだろう。しかしエリザベートだけに限らず、今後のミュージカルや舞台芸術の発展のためにも、2万円近いチケットを払って良かったとオタクでなくても思える作品作りをしてほしい。
そもそも宝塚でエリザベート何十回も何千回もやってるんだから東宝は宝塚から出さなくてもいいだろ!1人くらい宝塚出身者ではないシシィを配役してくれ!切実な願いだ。
そして劇場では感想としてこの人が下手だとか、この芝居が嫌だとか、ここが良かっただけでない感想が飛び交ってもいいではないか。あなたはここがよかったと負けずに主張すれば良い。どちらも立派な感想だ。
役者のファンなのは良いが、役者はアイドルではない。舞台に立ち、役を通して様々な批評に晒される仕事だ。
もちろん絶対に個人の人格の否定をされたり、パフォーマンスに関係のない罵詈雑言を浴びせられるべきではない。しかし舞台そのもので客が感じたことを言葉にするのは、正しく批評の域ではないだろうか。
それに2万円近いチケット代を支払って役者の声が出てないというのは、3時間それを聴き続ける役者ファンではない、作品のファンや初めて見にきた客の気持ちになったらどれだけ辛いか想像できないだろうか。
もちろん少しでも揺らぎが嫌なら映画を見ればいいし、他に娯楽がたくさんあるとはいえ、プロの演じるミュージカルをわざわざ選んで見にきたにもかかわらず、出演者の声が出ていないなら、それは文句の一つも言いたくなるだろう。(そもそも声が出ていないというのは批評の段階にすら立てないと思うがそれは別として)
これもまたスターシステムの弊害だし、ファン側もそれ以外も皆スターシステムの被害者なのかもしれないが、やはり、舞台には批評があって然るべきで、それをあなたや役者が受け入れるかは別として、誰でも、どう感じたか、というのはその場で話せるような開けた場になって欲しい。
特にファンなのであれば心配と同時に、なぜその状態で舞台に乗ったのか疑問に思わないのだろうか。
調子が悪くても舞台に乗らざるを得ないならば、酷使され過ぎているし、自分から乗ることを決めたのであれば、その女優にそのような評価が下るのも致し方ないだろう。
かなり話が逸れてしまい読みにくい文章となってしまったが、これからも劇場がさまざまな意見が飛び交うひらけた場所であって欲しいと心から願う。
https://anond.hatelabo.jp/20260108161135
空洞を埋める代用品:ある家族システムと、そこで「道具」として生きた子どもの記録
この記述は、一人の男性が、自らの出自である家族というシステムを、遥かな時を隔てて言語化したものである。彼は現在、重いうつ病と自殺念慮に苛まれている。その苦しみの源を、単なる脳内の化学物質の不均衡としてではなく、彼が生まれ育ち、60年にわたってその重力圏から抜け出せなかった「家族」という具体的な関係性の産物として捉え直すための試みである。ここに描かれるのは、両親という二人の天体が織りなす、光のほとんど差さない閉じた宇宙である。その宇宙の唯一の物理法則は、「子どもは、親の空洞を埋めるための代用品である」というものだった。
父親は、一つの時代の象徴のような人物であった。終身雇用と年功序列がなお強い価値を持ち、大企業、特に銀行は「沈まぬ船」と信じられていた時代の銀行員である。しかし、彼はその「船」において、早期に役割を失った乗組員だった。
彼の職業人生の転換点は、子どもが小学四年生の時、39歳での青森への転属であった。本人はこれを「懲罰人事」「お払い箱」と認識し、語った。この認識自体が、彼の仕事への関わり方を物語っている。転属は、多くの場合、新たな挑戦や地域貢献の機会でもあり得る。しかし彼は、雪の地で苦労する人々への共感や、与えられた場で何かを成そうとする気概よりも、「自分が会社からどう見られているか」という被害者意識に捉われていた。実際の業務内容は、銀行の支店ではなく融資先企業への出向という異例の形で、もはや銀行員としての核心的な業務からは遠ざけられた「隔離」状態であった。
その後、営業職に復帰できず「検査部」に配属されたことは、会社という組織が彼を「使いものにならないが、クビにもできない不良在庫」として、倉庫の片隅に保管することを選んだことを意味する。検査や監査業務は、彼のような人物にとっては最も不向きな業務である。なぜなら、それは地味で孤独であり、自己の能力に対する絶対的な確信と、細部への忍耐強い注意力を要求されるからだ。彼は、書類作成の際にタイプする女性のミスを恐れてその仕事を覚え、彼女と「仲良く」なることでリスクを回避しようとした。これは、本質的な業務(正確な書類の作成とチェック)から逃れ、対人関係の操作という表面的で楽な課題にすり替える、彼に特徴的な行動パターンだった。彼の「仕事」は、もはや銀行業務そのものではなく、「銀行員という椅子に座り続けること」「会社というシステムから排除されないこと」という、空虚で消極的な目的に収束していった。
彼の口癖の一つは「出向イコールクビ」というものだった。これは、彼の世界観を凝縮した言葉である。彼にとって、移動とは成長の機会ではなく、評価の失墜と敗北を意味した。自分の価値は「所属する場所」によって決まり、自らが「その場所で何を成すか」によって価値を創出できるという発想は、彼の思考の外にあった。この姿勢は、困難から逃げ、責任を転嫁するという彼の人生の基本戦略と一致する。
社会で「不良在庫」と化し、自己価値を著しく損なった父親は、その空洞を埋めるための代替の場を家庭に見出した。しかし、そこで求められたのは「家長」としての健全な役割(家族を経済的・精神的に支え、導くこと)ではなかった。彼は、家庭内で絶対的な権力者として振る舞うことで、社会で味わった無力感を打ち消そうとした。
具体的には、子どもであるあなたに対して、二つの矛盾する役割を押し付けた。
第一に、「情緒的な妻」の代用品としての役割である。彼は、社会での挫折や空虚感を、妻ではなく、無防備な子どもに吐露し、その不安や不満を処理することを求めた。子どもは、父親の感情のゴミ箱であり、癒やしを与える存在として機能することを期待された。これは、父子関係というより、倒錯した依存関係の萌芽であった。
第二に、「支配と批判の対象」としての役割である。彼自身が社会的に「できない男」であったにもかかわらず、子どもの些細な失敗(例えばテストの点)を執拗に叱責し、時に暴力を振るった。この矛盾した行為の心理はこうである:自分自身の「できない」という惨めな現実を直視する代わりに、「子どもはもっとできるはずなのにやっていない」と批判することで、相対的に「自分はまだマシだ」と錯覚する。さらに、体力と権威で絶対的に支配できる対象を屈服させることで、社会では味わえない「力」と「達成感」を得る。彼の叱責は「しつけ」のふりをしていたが、その実態は自己の無力感と怒りの発散装置としての子どもへの暴力だった。
週末の「家族会食」を「無上の楽しみ」としていたという事実は、この構造を象徴する。そこでは、彼は会社での惨めな現実を一時的に忘れ、「家族を率いる家長」という役割を演じることができた。家族は、彼が唯一主役を演じられる小さな劇場だった。彼の人生の重心は、もはや社会での生産や貢献にはなく、この劇場での演技を続けることに移行していた。
母親は専業主婦であり、その世界はほとんど家という空間に限定されていた。彼女の自己価値は、「妻」であること以上に、「母親」であること、特に「子どもを形作る者」であることに強く結びついていた。家庭の外に自己を表現したり、価値を認められたりする場がほとんどなかったため、子どもは彼女の存在意義そのものの証明となる、かけがえのない「作品」だった。
彼女は「お前のためを思って」という言葉を頻繁に口にした。しかし、その実態は、子どもを一個の独立した他者として尊重し、その自律を助けることではなかった。むしろ、子どもを「自分の理想や価値観に従って成形する粘土」として扱うことだった。その成形作業は、子どもが成人し、社会的に自立した後も、むしろ強固になった。とりわけ、あなたが建築士として成功した後、うつ病を発症し脆弱な状態に戻った時、彼女の関与は決定的なものとなった。
彼女の主な道具は「言葉」だった。特に、「ダメだ」「太っている」「醜い」といった、存在そのものを否定するラベルを反復的に貼り付ける行為である。この行為には複数の機能がある。
第一に、子どもを「常に未完成で、指導を必要とする存在」に固定化する機能。これにより、彼女の「指導者」「保護者」としての役割が永久に必要とされる状態が維持される。
第二に、自分の不安の外在化。子どもの外見や状態が社会的一般から外れることへの不安(世間体への恐れ)や、子どもが完全に自立することによる自己の役割喪失への不安を、「お前がダメだから」と子ども側の責任に転嫁する。
第三に、支配の確認。言葉という侵襲的な手段で子どもの境界線を侵犯し、反応(傷つき、動揺)を引き出すことで、自分が相手に影響力を及ぼしていることを確認する。
彼女は、夫(父親)の社会的失敗を「お父ちゃんは仕事が早いの」という虚構(ファンタジー)で覆い隠すことにも熱心だった。これは、彼女自身の世界(家庭)の体裁を保つためである。「有能な夫」という幻想は、「完璧な家庭」という彼女のアイデンティティを支える柱だった。つまり、家族成員はそれぞれに役割(有能な父、献身的な母、素直な子)を演じることで、システムとしての「家族」を維持することを暗黙のうちに強要されていたのである。
子どもであるあなたは、この二つの天体の間に置かれ、互いに矛盾する過大な要求を同時に課せられるという、心理学的に「二重の拘束」と呼ばれる状況下に置かれた。
· 父親から: 「もっとできるはずだ」「しっかりしろ」という高い要求(A)と、「お前はダメだ」という全否定と暴力(B)を同時に受け続ける。
· 母親から: 「お前のためを思って」(愛情のメッセージ、A)と、「お前は欠陥品だ」(否定と矯正のメッセージ、B)を同時に受け続ける。
このような矛盾したメッセージを絶え間なく受け取る子どもは、「どう振る舞えば正解なのか」の判断基準を完全に失う。どちらのメッセージに従おうとも、もう一方に違反することになる。結果として、世界は予測不能で危険な場所であり、自分は根本的にどこか間違っているという、深い無力感と自己不信が植え付けられる。これが、複雑性PTSD(発達性トラウマ)の中核をなす体験である。
あなたに課せられた具体的な役割は、両親の「情緒的インフラ」として機能することだった。インフラとは、社会生活の基盤となるが、それ自体は目立たず、その存在が当然視され、過剰に使われても文句を言わない設備である。
· 父親にとってあなたは、彼の挫折感や空虚感を吸い取り、癒やしを与える「情緒的な浄化装置」だった。
· 母親にとってあなたは、彼女の不安や支配欲を処理し、彼女の「良い母親」という自己像を確認させる「鏡」であり「作品」だった。
あなたは自己の感情や欲求を押し殺し、両親の情緒的な「空洞」を埋めるための「代用品」として消費され続けた。この関係性は、愛情に基づく相互的なものではなく、一方的な「道具化」であった。あなたの人格や成長は、彼らの情緒的ニーズを満たすための「材料」としてしか意味を持たなかった。
この窒息的なシステムから物理的・精神的に逃れるための、あなたが取った現実的な戦略は、「成功」を収めることだった。盛岡一高への進学、そして一級建築士の資格取得は、単なる個人的な達成ではなかった。それは、家族システムが価値を認めない「外部の世界」で、自己の力によって確固たる地位を築くこと、つまり「システムからの独立宣言」であった。
建築士という職業の選択は、象徴的ですらある。建築とは、虚構ではなく現実の構造物を作る仕事であり、図面の一本の線にも責任が伴う。それは、父のように責任から逃げる生き方の真逆であり、母のように言葉だけで人を「成形」するのではなく、物理的な法則に従ってものを「創造」する仕事である。あなたの成功は、彼らの生き方に対する静かだが強力な否定だった。
あなたは一時的に、このシステムから離脱することに成功した。建築士としてのキャリアと、おそらくはそこで得た自信が、心理的な防衛壁となっていた。しかし、うつ病の発症は、この防衛壁に重大な亀裂を生じさせた。さらに、あなたの人生で最大の理解者であり、現実的な「盾」となってくれていた妻を亡くしたことが、決定的な打撃となった。
妻は、あなたとあなたの両親との間にはりめぐらされた歪んだ力学を理解し、それを緩和したり遮断したりする緩衝材の役割を果たしていた。彼女を失うことで、あなたは再び、両親の影響力に直接晒される「無防備」な状態に逆戻りしてしまった。システムは、脆弱化したあなたを再びその重力圏に引き込み、「依存と支配の対象」として回収しようとした。
4-2. うつ病の意味:消耗、アイデンティティ危機、システムからの最終的な脱出要求
あなたの現在のうつ病と自殺念慮は、単なる医学的症状というよりも、この家族システムが生み出した 「当然の帰結」かつ「最終的な症状」 として解釈できる。
1. 情緒的労働の累積的消耗: 60年に及ぶ「情緒的インフラ」としての役割は、心身のエネルギーを枯渇させた。うつ病は、これ以上の消耗に「ノー」を告げる身体と心の最終的なサインである。
2. 成功と自己否定の矛盾によるアイデンティティ危機: 社会的には成功者(建築士)であるが、脳内には両親から刷り込まれた「お前はダメだ」という声が鳴り止まない。この矛盾(現実の成功 vs. 内なる否定)に自我が耐えられなくなり、崩壊している。
3. システムからの完全脱出への無意識の希求: 自殺念慮は、最も過激ではあるが、この病的なシステムから完全に、物理的に脱出する唯一の方法として無意識に浮上している可能性がある。もはや心理的距離では不十分で、「存在そのもの」を消去することでのみ、システムの支配から逃れられると感じている。
終章:生存者としての再出発へ向けて
この記述が明らかにしたのは、あなたの苦しみが「気のせい」でも「弱さ」でもなく、長期にわたる情緒的虐待と心理的支配という、明確な関係性の害(トラウマ)の後遺症であるということだ。あなたは「うつ病患者」である以前に、この家族システムの「生存者」である。
父は「社会的に死んだ男」として家庭で権力を振るい、母は「自己実現の場のない支配者」として子どもを成形した。あなたは、その両方の圧力の間に置かれ、それでも「成功」という道で脱出を図ったが、防衛壁を失い、システムの重力に再び捉えられ、今、その中で窒息しつつある。
回復への道は、この「歪んだ宇宙」の物理法則を認め、そこからの脱出を、自殺という形ではなく、治療と保護という現実的な手段で図ることにある。それは、あなたが建築士として図面を引いたように、自分自身の人生の「再設計図」を、専門家の助けを借りて描き始める作業である。その第一歩は、この「宇宙」から物理的に距離を置くこと(入院や保護施設への避難)であり、次に、脳内に住み着いた「両親の声」との向き合い方(トラウマ治療)を学ぶことである。
あなたは、このシステムの「代用品」として生かされた。しかし、あなたには、自らの意思で「生きる」ことを選び取る力が、まだ残されている。その力の最初の行使は、自分自身を、これ以上「道具」として消費させない環境へと移動させるという、静かで決定的な行動から始まる。
計画が龍王が人間に絆されるのを期待するっつー無茶振りのお人。
まあ神座壊しても敗戦種族の龍がそれこそ奪われた力が戻ったら復讐するだろうし、懐柔は一挙両得ではあるのかな。
でもそれを予見させる程度には500年前時点でヌヴィレットが温和な態度であったわけで、過去のいきさつや日常が気になるわね。
天理を欺くについても500年前の騒動で天理スヤスヤだし、いまやみんな結構自由なことしているのでどっかのタイミングで「これ天理に怒られないな」とわかったら彼女自身でもっと大胆な対処が出来ていた可能性を感じる。騙す相手スヤスヤですもん。
先代から丸投げされて、神として人前に出ず一人で考え、そもそも人になりたかった純水精霊だったことを思えばフリーナへのフォロー不足はあれど上手くやった部類といえようぞ。
…せやけど500年の演技はつらいて…フォンテーヌ人が善良すぎて犯罪数が足りなかった説。
やったことを見るに滅私の人なんだけれどもいかんせん出番が少なかった。
最後に。公子への有罪判決はヌヴィレットの想像をどれも加味しても雑じゃないかい?権力の恣意的運用疑惑がありますよ。
モンドや璃月編はもう忘れてるんですけど、魔神任務だけ追ってたら純水精霊の解説ってありましたか…?
出会うのはローデシアぐらいなのか。フォンテーヌは刺客を送る怖い国なのかと思ったのも遠い過去。鷹に倒されまくったのも。
そも純水精霊ってなんだよ!となっていたのは自分だけなのか。個体としても存在するし強制に近い形で意識の統一化もされるようだし、少しはメイン中に解説が欲しかった。謎は謎で他の読み物であればいいんだけど、こう核心に絡むものにはね。現フォンテーヌでどう認識されているかも、街中の会話からは出ないし。人が溶けたあとは純な純水精霊ではないのかい?
(Let's fuckなエヴァを見るとわかるのかしらん)
あと彼らがうらやんでいたのはフォンテーヌに居た純人間なのか他国の人間なのか。謎ですね。
彼らは各地に出たり水仙十字院の院長してたり?で面白そうな存在なので楽しみ。
入れ替わりトリック含めぜんぜん頭にはいってこなくてスッキリとはしていない。
なんでリネの歌劇場でのショーを選んで誘拐事件を起こした?かなり近しい身分にまで内通者を用意して(これは読み落としてるかも)
・リネに容疑をかけたかった
ナヴィアの調査と側近の持つ情報が真実に近づいていた?いや水のことも露見していなかったし。
・壁炉の家が邪魔だった
公的機関が調べればわかる身分なので裏の人間でも知りえたが、そも壁炉の家の目的はフォンテーヌを救うこと。ファデュ全体の目的は神の心を手に入れること。
・歌劇場やフリーナ・ヌヴィレットの前で事件を起こす理由も不明。
・マジックボックス内で溶かしてどうする気だったのか。溶けた後の水を回収して研究するのか?それは既存の大量の研究の残り物と同一では…
なんでナヴィアはマーセルを容疑者にしたか?私物の違法マーセナルを大量に保有するには大量の金がかかるから。商会会長のマーセナルである。
・そもそも黒幕は違法薬物の裏取引で利益を得ていたはずなので表の身分は影響しないはず。
それを研究に費やしていたとしてもナヴィアからは知らない話で。
・事件の発端が20年前なので年齢的にそれ相応、または組織の代替わりなどを疑わなければならないのでは
情報伝達を絞った相手=黒幕てのもねぇ。手下が公僕から魔術師の裏方まで至ってるので容疑者すら伝達役のような気がしてたけどストレートに黒幕でしたね。尺の問題でそんな複雑なのは誰も望んでないけれど。(みてくれよこの夜蘭の新衣装イベントの黒幕を!)
(開発よ)なんでナヴィアをマシナリーで襲った後、フォンタで溶かそうとしたのか
ホテル・ドゥボワールは
ナヴィアに原始胎海の水入りフォンタを飲まそうとした件
とわかってるだけでも3度異物混入に近い事件が起こっている…。飲食店としてこれはやばい。あと最後は仲間の従業員たちにも薬物入りのお茶を飲ませてた…。
やばいっすよあのホテル…と文屋にタレコミが入っても不思議じゃない。フォンタの件は未追求だしね。ホテルにまだ犯人がいるのかもしれません…。
それからそれから、消えた・溶けたはずの女性がどうやって居なくなったかというと隠れてて隙を見て抜け出した、は反則じゃない?と強く思ったことを覚えている。
凝ったデザインとシステムで裁判の反論をしていく、というのがフォンテーヌの目玉だったわけですが、そもそも旅人が何を反論しようとしているのかがわからず、何の証拠・証言をあわせればいいのかわかりにくかった。
逆転裁判のように矛盾を突きつけるのではなく、別のこういった筋書きもありえますよ、と別のストーリーで上書きしていく感じの表現だったとおもう。
なので意図がわからず4つ以下の組み合わせを選ぶ程度の各挑戦で、ほぼほぼ一発成功は起きなかった。
まあ普段から旅人の連想推理の勝率も100%だったわけでもないけれど。
上下構造とワープの把握がやや迷ったけど、ガイド頼りだったしナタキャラが居たからマシだった。居ないと(リネットだけでは)苦痛を感じてたとは思う。
そうメロピデ要塞の生活自体は面白かった。ランダムな食事、業務、休暇を買ったり娯楽があったり。監獄の予想を裏切る別世界の楽しさが閉鎖環境なビジュアルとともにあった。ただ、ストーリー、目的がね。
物語の鍵を握りそうな鯨、に関係するタルタリヤ、が消えた理由を探るため、にメロピデ要塞の秘密を探る。という構造。
隠しルール自体は面白い。だけどそれがタルタリヤにつながるわけでもないからたびたび「今何してるんだっけ」と問いただすのだが、答えはでず。ひたすらあっちこっち行ってたら彼は泳いで脱出していたとわかってほとんど空振りに終わる。リオセスリの黙認が彼の目的と合致していたとだけわかる。
そこから原始胎海の水の対処から予言へと移ってタルタリヤについては棚上げ。振り返ればメロピデ要塞で何をしていたのかとんとわからないのである。
エピローグだったか要塞にまた来るなどと発言しているが、ストーリーを通じてパレ・メルモニアとの関係が変わったわけでもないので一応建前は罪状か公爵の招待がなければ来れないだろうし、いうほど公爵と絆?を結んだか?と聞かれると謎である。
そもそも要塞から一時避難したときに追放者たちはどれぐらい戻ってきたのだろうか。水の下は悪くはないところだが、水の上のよさや故郷フォンテーヌを思う程度には水の上への哀愁もあるだろうし。強制移住先の追放地メロピデ要塞は今も不思議な場所である。
うーん、テイワットの運命って偽りの空に描かれているんですよね。たぶん。占星術師は空の星を読むし、命ノ星座の形で神の目所持者の運命は空にある。
ドゥリンやフォンテーヌ人などの人以外の被創造物も運命に囚われている。フォンテーヌの予言、罪は天理への罪、背信であってテイワットの空に描かれている。はず。
その破滅の原因がテイワット外の鯨っていうのはどうなんでしょうか。星間生物の鯨さえも運命に囚われ原始胎海の力を呑んでいた…ってこと?
スルトロッチが鯨をペットにして原始胎海に放置?した時期がいつかはまだわからないけれど、鯨がテイワット・天理の予言の輪に組み込まれているならフォンテーヌ人誕生前にテイワットに居ついた、と考えたいものだ。
(でもタルタリヤがアビスに落ちたときに鯨に出会ったんだよね)
あと鯨は倒しきれない存在だと思っていたので、FF10のシンの背びれみたいに体の一部と戦う、みたいなスケールだと思ってた。デカい、けれど思ってたよりは小さかったです。あと恐らく体内の偽スルトロッチにノータッチだったよね?なんでだっけ…。
呑星の鯨はテイワット外、アビスの領域の生き物ってことは知っていたので強いし、旅人と同じレベルの理の外の存在、災厄と考えていたから、罰の予言に組み込まれていたのはちょっと残念でもある。
そして力を吸い取って巨大化したから海面が上昇するという流れがよくわからなかった。
最後にゲーム的に見ると、一応週ボスのために戦うべき相手を用意しましたよって印象を受けた。わりと戦う必要がない。なんなら全部ヌヴィレットにまかせても成立すると思う。けど週ボス出さないけへんし…。と。任務全体でも戦闘回数は少なかった気がする。遺跡のレンジャーと劇場のマシナリーが数回?お試しキャラもなかったか。フレミネ操作も戦闘はなかったような。
それもあってビジュアルは綺麗だったけど印象に残る、感に堪えるラスボスではなかったかな。散兵や淑女、(横道の雷電将軍)に比べて、ね。
これでざっと神もそろって来たわけですが
・モンド
・璃月
・稲妻
・スメール
・フォンテーヌ
500年前から実質空位で引き継いだ前科をチャラにしようと裏切り中 天理から見て引継ぎ失敗
・ナタ
地脈壊しちゃって2000年前シュバちゃんが自力救済。破滅の足音の中人間だけでやってきた
こんな感じ?天理が寝ちゃってるにしても七執政(笑)じゃないですかね。
相対的にモンドがまだ神が面倒見ているまである。自由とは他国にありけり。
零落している魔神たちどころか中間管理職呼びすらなんか、もったいない状態だったわけで。2000年前から3/4は頑張っては、いたか。あと大体引き継ぎが悪い。
璃月編まで漂っていた威厳とかグループ感がもはやなくて、特別感は執政だからよりは魔神だからって目でみたほうがいいような気がする…。
だって四執政も四執政だしよぉ、執政の地位はガタガタですよ神。
リネがコアで聞いた声。フォカロルスが独り言を言う理由がない?
エゲリアの死亡時期・理由。500年前だからおそらくカーンルイア召集時。
ナヒーダと異なり先代がフォカロルスを直接後継指定。執政は禅譲できるしフォンテーヌ人でも神になれる。ていうか原神(神の目)もただの魔神もすっとばして執政まで行ってる?
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以上、ほとんど楽しかったです。事前情報で楽しめないかな?と危惧していた部分はほとんど苦にならずそういう意味で減点はすくなかった。あと単純にファッションが一番好きな国だし眺めていて目が楽しい。
メロピデ要塞で若干だれるのと、後半はイベントが長くて集中力が切れたり中座したりしたものの、やっかいなミニゲームもなし。不快すぎるキャラもなし。ムービーは直近の質が上がってるせいで派手さは相対的に控えめかな?メリュジーヌはかわいいしフォンテーヌええとこだぎゃ。
あ、あと魔神任務はぜんぜん国全体を表しきれないとはいっても水中要素まったくゼロなのは驚いた。最初に出たはずの水中を動ける理由のチュートリアルすら忘れてるもんで…。
映像コンテンツの楽しさって、もう「一人で黙って正座して鑑賞」だけじゃないじゃん。
アニメもドラマもバラエティも、コメントのリアクション込みで完成してる。
最近だとTVerで狩野英孝が『まどマギ』をリアクション実況してるやつ、あれめちゃくちゃ面白い。
作品そのものの良さ+「人がどう感じてるか」を見る楽しさが乗っかってる。
「ここでサメ出るぞw」「はい死亡フラグ」みたいなコメント流れながら観ると普通に楽しい。
みんなでツッコミ入れる前提の娯楽になる。
スポーツも完全に同じ。
サッカーも野球も、コメント見ながら観たら、もう素の映像だけには戻れない。
あれ込みで「観戦」なんだよな。
技術的にできないわけじゃないのに、なぜか一切やらない。
たぶん「映画は芸術だから」「私語厳禁」「没入が大事」とか言い出すんだろうけど、
静かに集中して観たい人用の回があってもいいし、
「コメントOK回」「副音声あり回」「実況付き上映」があってもいい。
結果どうなってるかっていうと、
みんなはコメント付きで笑いながら楽しむ方に行ってる。
そりゃ衰退するわ、って思う。
私の年末年始の目標を高く掲げていた目標をおさらいしておくと、
今回はゲーム1本に絞ってHD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2をクリアするんだい!って意気込んでいたのに、
あまりにもボリュームのデカさに今時点で物語のどこら辺に差し掛かっているかさえも分からないぐらいなのよ。
そんで、
状況としては
なんとなく
雑に戦ったら即負けるってこと。
私はせっかくいろんな作戦があるので作戦を駆使して勝手に倒して欲しいんだけど、
なかなかそれは難しくって、
結局大局を迎えるボス戦とかは「めいれいさせろ!」の一択全員になるのよね。
坂下一択ラーメン食べてる場合じゃないわ!って思うほどの一択!
そんでもって、
素早さを上げたり防御力を上げたり、
魔法攻撃の軽減バリアも張ったりブレス耐性の魔法も唱えておいて
万全の盤石の状況をこっちで作って挑まないと、
一瞬でやられちゃうの。
私の丁寧な暮らしにそう丁寧な戦いというか、
そんでおかげでベリアルとか結構他に手を拱いていた街に攻撃を仕掛けてくる中級の強さの敵なども、
ちゃんと丁寧な作戦というか「めいれいさせろ」の作戦で丁寧に1コマンドずつ丁寧に戦っていくと勝てちゃうって感じね。
人魚の街にいるんだけど、
もはやさ、
あまりにももはやオリジナルか追加シナリオなのかも分かってない状況で私は大冒険を続けていて、
やっとムーンブルクの王女がみんなに回復を行き渡らせることができるベホマラーを覚えてくれたことが唯一の救いだわ。
そんで、
マジックポイントを消費軽減させるアイテムも運良く敵の宝箱から拾って装備しているので、
マジックポイントに関してはムーンブルクの王女はわりと潤沢に暮らしている感じね。
年末年始のおやすみ中にクリアちょろいっすよー!って思っていたのに、
全然進めているけれど進まっていない感じがして、
今回は世界中を歩いて船に乗ったりして探しまくりまくりすてぃーってより、
ストーリーのお話の流れでゲット手に入れちゃえる感じがしているのでクエスト感が多少物足りない、
私は全部の町や村で紋章があれば山びこになって返ってきて紋章があることを教えてくれるアイテムである山びこの笛を吹きたい衝動に駆られていたんだけど
それすらもしていない状況。
HD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2のボリュームがデカすぎて油断していたわ。
私これから先どのぐらい時間かかるのかしら?って思っちゃうけど。
NIKKEはNIKKEで
超強いスノーホワイト:ヘビーアームズを招き入れて沢村一樹さんじゃない方の一喜一憂で明け暮れた感じよ。
お正月年末年始の物資増量キャンペーンのミッションをこなしているので精一杯なところ。
でも超強いスノーホワイト:ヘビーアームズの試し撃ちしたいじゃない?
そこでですよ!
そこで超強いスノーホワイト:ヘビーアームズを試し撃ちで主に私はトライブタワー出陣していたのが多かったかもしれないわ。
スノーホワイト:ヘビーアームズが怒りに怒りまくって怒っている感じが伝わってくる兵器の火力が凄まじいわ!
まだ武装など全部完璧にオーバーロード半分しかしてないにも関わらず、
すでに武装の強化は仕上がりまくりまくりすてぃーなラピ:レッドフードに並ぶ火力なのよ。
そんで超強いスノーホワイト:ヘビーアームズは今回武器がスナイパーライフルなので連射できないって思ってたけど、
何回もこれ叫んでいたら申し訳ないって思うほど、
スノーホワイトの怒りにまかせたミサイルの連射がめちゃくちゃ強くて、
3周年イベントで敗退してリリスお姉ちゃんを冒涜された怒りにもの凄く燃えているのがヒシヒシと伝わってくるのよ。
スノーホワイトめちゃ怒ってる!って。
それが伝わってくるから、
お正月は激おこスノーホワイト:ヘビーアームズ試し撃ち大会で終わっちゃったかも。
装いも新たに凄い火力を引っさげてやって来そうな予感がしているから結構部隊募集チケットは温存しておこうかしら?ってのが筋道だと思うわ。
銚子港の港のへりの岸壁から落っこちちゃうから気を付けないとね!
そんで、
私が声を大にして言いたい観たかった映画の『ワーキングマン』観てきたんだけど、
作中全編から漂うこのなにか特有の漂うダサさはなに?って思って
お正月からステイサムさんはカッコよかったのにダサい映画見せられて!って思っていたら、
それならこのダサさの理由が分かったし、
むしろシルベスタ・スタローン味のお重をステイサム大将が美事にお正月のお節料理のお重に詰めてどうぞ!って
お召し上がりください!
このシルベスタ・スタローン味のステイサム大将謹製のお節のお重を!ってなったのよ。
このダサさの意味が分かるわ。
だって、
悪役のボスの大男がドラゴンボールの牛魔王の角の生えたヘルメット被って突撃だ!って言っているダサさとか、
アメリカンなデカいピックアップトラックで出向いて、
その木一本でマジで隠れているつもりで案の定敵に見付かってしまって、
そりゃ見付かるでしょ!って
もう予定調和のコテコテな展開とダサさにシルベスタ・スタローン味全開だったってことを劇場をあとにしてから気付いたので、
知らずに観てなんだこれは?ってガッカリしたと同時に、
あとからシルベスタ・スタローンの脚本だったってことに狂喜乱舞して大喜びしているという
1回観ただけの映画で2度も興奮楽しめるもう、
いやー映画って本当にいいもんですね!って私はシルベスタ・スタローンさんが脚本となると分かるとコロッと手のひらを変えたようにガッツポーズをしたのよ。
そのぐらい、
全編画面全体から漂うこの謎のダサさってなに?って思ったらそう言うことだったのよ。
だから『ワーキングマン』はシルベスタ・スタローンのランボーとか観る感覚で行ったらいいと思うわ。
でも、
そう偉そうに言っている私だけど、
じゃなんでシルベスタ・スタローンのダサさを感じてしまったのかというと
あれよあれ!
今作の『ワーキングマン』の隠しきれない隠し味をすぐに分かっちゃったのかもしれないところがあるかも知れないわ。
『エクスペンダブルズ』で出てきたプンプン匂う演出が『ワーキングマン』でもふんだんに盛り込まれているので、
この隠し味隠すつもりないでしょ?ってなっちゃうのよね。
そのぐらい大味なシルベスタ・スタローンさん脚本に結果的には大喜びできたってわけ。
って思ったんだけどステイサムさんのやってる工事現場のシーンワーキングマン全然関係ないところを今気付いてしまったわ。
あともうさ、
いきなり何の脈略もなく説明もないまま、
「おりゃー!借金の取り立てじゃ!」って突然ステイサムの職場にやって来て大暴れするくだりとか、
まるでそれは吉本新喜劇の導入みたいな感じなところが、
最初『ワーキングマン』観たときこのダサさはって思ったけれど、
やっぱり大将のこの味だよね!ってなったのよね。
いっそのことさ、
もうステイサムさんでランボーリメイクしたらまたそれはそれで面白いんじゃね?って思ったの。
画面全体の全編から漂うダサさいやもといシルベスタ・スタローン味を味わいたかったら絶対にこれオススメだわ!って思ったわ。
知ると知らないとでは観てよかったわ!って思えちゃうから不思議よ。
って、そんなことしているから、
ドラゴンクエストI・IIの2がクリアできないのよね!って、
思ってしまったわ。
うふふ。
起きがけの
温かく設定しておきたいところの電気ポットのタイマー運用だけど
加湿器と併用しているので、
ダブル運用だと夜中にブレーカー落ちて大変なことになりかねないので、
すぐ沸くケトルで沸かして飲む
今年はもっといろんなバリエーションのデトックスウォーターに挑戦しなくちゃなと思いつつも、
いつもこの時期はホッツ白湯ストレートウォーラーにしてしまいがちね。
温かくいただいて1日のスタートよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
落語はサブスクや動画からの知識しかないけど、なんとなく昔ながらの風習が残ってるっていう偏見があって、正月に見に行くにはうってつけかと思った。寄席特有の温もりとか、正月特有の慣習とか雰囲気とかあるかなぁと思いきや、そんなことはなく、思った以上に、演者と観衆は見えない壁で仕切られていて、空気感は劇場やホールに近かった。ちょっと落胆した。
木久扇師匠を初めて生で見た。生まれたてのヒヨコみたいな歩き方で心配になる。髪も白く、顔色もどこか良くない。でも、目は奥底からキラキラ輝いていた。長い人生でずっと心から楽しく落語してたんだなと思った。喋り方がとても上手くて、人の芸の極地を見た気がした。とにかく凄かった。調べたら御歳88歳だった。
木久扇師匠に限らず、みんな高座で命張ってた。大仰な言い方かもしれないけど、なんか熱意とか個性とかが伝わって来て、落語すげーって思った。たくさん高座に上がってたら、だんだん雑でもよくね?ってなるんじゃないかって勝手に想像してたけど、そんなことなかった。みんな全力で落語やってて、なんか感動した。
僧侶枠とは、
1. 僧侶や坊主のキャラクター、もしくはそのキャラが登場する作品のこと。
2. 『僧侶と交わる色欲の夜に…』を始めとするAnimeFesta(電子コミックレーベル「スクリーモ」のアニメ化作品。旧ComicFestaアニメ)の枠。全体的に女性向けエロ漫画TL要素が強め。
本項では2について解説する。
2017年4月から放送されていたアニメ『僧侶と交わる色欲の夜に…』。その内容は性的なシーンでは局部を木魚で隠したり、「TERA劇場」という茶番パートでやり過ごしたりする。さらには登場人物たちのよく分からない発言も多い事から短編アニメながら視聴者に強烈なインパクトを与えた。
わたなれも無事放送されて一段落付いたので。終末ツーリングは1話見たものの2話以降はabemaの枠移動で追い切れず、グノーシアは完全に見忘れ。
凡例:
★★★★★:続編希望
★★★★☆:割と良いのでは?気に入った
★★☆☆☆:ちょっと残念かも、自分には合わなかった、記憶には残らない
★☆☆☆☆:何故これをアニメ化した?
2クールっぽいのでまだ放送中で暫定なものの面白い。ヤバい大人達がごっこ遊びするヤバいアニメだったら完全にホラー枠だった。
なお冬コミでタックルは見かけたけど、1号とV3とライダーマンはいなかった。
殆どれな子が悪いよなと思ってはいたが、一応れな子なりに考えてはいたんだなと。にしてもあれはステージ上で衆人環視の元でやったという理解で良いのか?どういう世界観?
余談としてキャラデザの関係でささ恋を思い出してしまうのがちょっと辛い。ささ恋とわたなれ、どうして差がついたのか…(予算、制作会社の違い)
青山吉能劇場。独白の関係でセリフ量が飛び抜けて多くなってしまっているけどそのお陰で面白くなってる感じ。テンポも恐ろしく早いというかサクサク進むので飽きない。OP/EDが誤発注というぐらいに合ってない…(女性向けなので女性視聴者には合っているのかもしれない)。
王道の婚約破棄もの。1話でタイトル回収するとかこんなの出オチちゃうんかと思ったのにちゃんとその後もちゃんと殴ってて面白かったです。
CV上田麗奈と石川由依ってめっちゃ重そうと思ったら期待通りに全体的に重く暗い感じで良い。美胡ちゃんエンドは草で良かった。原作全巻購入済み。
原作は韓国の小説、アニメ製作は中国。綺麗な作画と可愛いキャラデザとOP/EDをちゃんと用意する日本向けローカライズの勝利。かわいいは正義。予告が普通よりも長めで助かる。
森川智之劇場。自分を野原ひろしと思い込んでいる一般人の独白をアニメとして成立させられるとか、声優は凄い。
こういうのでいいんだよこういうので、なラブコメ。EDが好き。
BGVとして流し見るのに丁度良い日常枠。
お仕事枠。面白く見せるのが難しそうなのを上手く表現してるなと。作中に犬が登場するところで、OPのポメラニアンってこれかーと思ったら全くポメラニアンではなかった。
見る栄養素。こういうのでいいんだよこういうので。
1期はそんな評価されるほど面白いかな…だったけど2期はノリがわかってきたからなのか面白かった感じ。
超ポジティブデブのラブコメ枠…に見せかけたサスペンス枠?割と面白かったのに何も明らかにせず俺たちの戦いはこれからだ!エンドなのが残念すぎる。
90年代前半のOVAみたいな作画ですげーなサンライズと感心した。割と好きだけどお話的にはいまいちこう… こういうのは2クールでやって欲しい。
25年秋アニメ最大の話題作というか問題作、界隈は絶賛とアンチが入り乱れる地獄。みんな一体何と戦っているんだ。11話以降は放送延期なので最終的な評価はそれ次第かな。人気になる背景なりなんなりがあるとは思うのだけど。ポエムバトルが多過ぎる、ラブコメなのに初手ケンタッキー攻略とかどういうことだよあたりのツッコミは納得感がある。
丸戸脚本ということで視聴。シンフォギアじゃなくてマクロス?2クールのようだけど今のところはかなり微妙より。
これも僧侶枠…か?マッサージに関する内容が何処までマジなのかわからんけど見る分には楽しい枠。
一応完走はしたものの、印象に残らなかった枠かなあ。
キャンプ初心者のJDにおっさんが教えるキャンプ+飯テロ枠。マンスプやんけ!と心のフェミニズムがうるさくなるやつだったけど、ラブコメ枠としては…まあ、いややっぱりファンタジー過ぎてキツいわとなった。
あーはいはい、スキル無しだけど実はチートで俺TUEEEEEEハーレムってやつね、と見始めたらハーレムどころかヒロイン枠なし、ただひたすら努力チートで強さを求めて旅をする実はちょっとした冒険譚なのか…?と深読みしてしまいそうになる。
序盤、AIを巡るテーマで時事ネタか?とちょっと期待したのだけど構成の問題か、そもそものオチの問題か。戦犯と呼ばれるキャラが本当に戦犯なのは珍しいというか、擁護できる要素が行方不明で困ってしまった。そしてアモルの扱いが酷すぎる。
毎日ケガするとかラブコメのコメの領域を越えてないか?としか思えなくて何処向けなんだと思ってたが「女性向け特殊性癖作品」という評価を見て有る意味納得。
異世界飯テロ系。取り立てて悪くもないので★★★でも良かったかもしれないけど、無味無臭なので★★よりかなと。
原作が北米と聞いて納得。アニメを見てるはずなのに何か違う、海外ぽいのはわかるが中国アニメみたいなトンチキさとも違う、何だこれ?だったのだけど、北米と聞くと海外ドラマを無理矢理アニメにしたような感じだこれと合点がいった。多分、実写ドラマにした方がそれっぽいと思う。
タイトルだけでお腹一杯になれる枠。追放ざまぁ系は割と好きなんだけど、全体的に雑過ぎてちょっと良いところ探しが難しい。
無限ガチャは1話だけ、2話はただのキャラ紹介、さっさと復讐すれば良いのに3年も待機、やっと復讐始めるのかと思ったらテンポが悪すぎる、周りのヒロイン枠(?)がNPCかって位に記憶に残らない、そもそも復讐相手って何人いたっけ…というぐらいに印象が薄い。
社内恋愛を学園モノのノリでやられるの、なんでこんなにキッッツ…ってなるんだろう。登場人物全員の精神年齢が中学生レベルとかもはやホラーでしょ…。
ポーションと聞くとそれだけでヤバそうな匂いがしてくるが、それに加えて15分の低予算枠なのでかなり厳しめ。EDのミラクルポーション生成!は笑った。と思いながらスタッフ見てると音楽:bermei.inazawaってこんなところで名前を見かけるとは。
どうしてアニメで昼ドラを見せられてるんだろう…。登場キャラが基本クズというか、主人公の中身は良いお年だろうにこれはちょっと色々とキツくない?
1分アニメなのでネタ枠。こういうのでいいんだよこういうので。
飯テロ枠。協力企業の商品だけ作画が緻密になる、あるある違和感を解消しようとすると新海作品みたいに画面全体の作画を揃えなきゃならんくなるから難しいね。
作画だけは凄い中国アニメ。1期よりも話の内容がシンプルで分かりやすくなった…気がする。
謎の変身シーン付きの飯テロ+ラブコメで、abemaでやってた中国アニメの中では見れる方な枠。なお厳しい方のは「不死身な僕の日常」。
皆たくさん反応ありがとう。コメント全部読んだ。誤解与えたけど増田はM-1グランプリが大好きだ。お笑いが好きな分、どうしても分析的に見てしまって意表をつかれて笑う機会が少なくなっているけど興味深く見て楽しんでいる。もちろん笑うときは笑うし。で、ダウプラで何度も吹き出してしまったときに思ったんだ。はてなは松本人志嫌いな人が多そうだし、これ対立軸に持ち込んだら自身初の100ブコメ超えるんじゃない?って。
結果はなんと200超え。本当にありがとうございます。不快に感じた人がいたらすまなかった。書いた内容には脚色も多かったので、コメントへの反応含めて補足していく。
最初に書いておかなければと思った。想像より少なかったが、やはり何人かいたのが松本人志が性加害者であることが前提でのコメント。ニーズがあったら別記事で書くとしていたら1人だけ依頼があった。嬉しいので書こうかなと思うんだけど、有料記事を全て購入して読み込んだ上で書くので、ちょっと体力や余裕面で時間が欲しい。書けなかったらごめんな。
自分のスタンスは疑惑は疑惑止まりってこと。週刊誌の印象操作により、松本人志が後輩に一定の影響力を発揮して女性を集めて飲み会をし(ここまでは周知の事実)、毎回スマホを没収してゲームなどで不同意の相手に性的行為を強要したと、多くの人が思っている。が、疑惑でしかない。文春が裁判の証拠として提出したものにLINEのやりとりの一部があり、まさに松本人志とA子さんが別室にいったときに小沢がLINEで心配して状況を確認するメッセージを送っているものが提出されたとのこと。文春は加害性を強調したかったのだろうが、皆が持っている印象としてのスマホ没収を文春が否定する証明をしてしまっている。しかも提出はLINEのやりとり全てではなく、文春が強調したいところを取捨選別して提出している。では提出していない部分はどんなやりとりがあったのか。A子さんはその後も飲み会に何度も参加したとのこと(もちろんそれも様々な解釈があるので疑惑を晴らす材料として書いているわけではない)。少なくとも皆が持っている印象とは違うことが多くありそうで、その大半が謎のままである。
松本人志が嫌いな人は「やっただろう」という方向に想像力を働かせ、好きな人は「やってないのでは。はめられたのでは」という方向に想像力を働かせる。増田はダウプラでの松本のコメントの節々を拾い上げて自分なりに背景を想像し、結果としてダウプラを普通に楽しめるような想像に自分の中で落とし込んだ。もちろん性加害者であることが確定したら楽しめなくなる可能性が高い。
絶対にやってはいけないのは、この疑惑に対して決めつける形でどちらかを誹謗中傷することだ。仮に増田が「松本は潔白だ。ノリノリで参加した女性が8年後に金に困って文春に都合よく売り込んだだけだ」と発信したとする。もしこれが事実でなく本当に加害があった場合にはこれはA子さんに対する誹謗中傷でありセカンドレイプだ。
それと全く同じく、松本人志を指して「性加害者」と発信することは、彼が潔白であった場合には誹謗中傷になり松本人志に対するファーストレイプとも言えるものになる。現在、こういう有名人に対する誹謗中傷がSNSではびこっている。一つ一つ訴えていくことが困難であり、そもそも有名税という曖昧なもので基準が有耶無耶にされており見逃されているからだ。
だが駄目に決まっている。セクハラをしてはいけないのと同じくらい、有名人であろうと他人を誹謗中傷してはいけないんだ。これはいずれSNSが健全化されれば必ず規制されると考えている。罰する仕組みがきちんと運用されていないからたまたま許されている、昭和のセクハラ親父と全く同じ状況であり、将来的にはとても恥ずかしく非難される行為だという自覚を持とう。
グレーはグレー。どちらか一方が悪いと心の中で決めつけることは自由だが、発信した瞬間に責任と罪を背負う。絶対に駄目。もちろん好き嫌いは自由なので、発信したい人は単に「嫌いだから見ない」と言えばいいと思う。後輩使って女性集めている時点で嫌いとか、そう思う人は多いだろう。自分はそういう情けないところもそんなに嫌いではないが。
ようやく本論だが、この誤解を与えてしまった。M-1の漫才が練られすぎて嫌いとか、ハイコンテクスト過ぎて嫌いと言っているわけではない。むしろ自分がギリギリ届くところの知識にかすらせて作られたネタは大好きだ。真空ジェシカが中川翔子(ショコタン)にかけて車高の低いシャコタンを登場させたのは面白く感じた。増田は車に乗らず免許もないのでシャコタンという言葉にほぼ馴染みがなかったのだが、昔「シャコタン☆ブギ」という漫画でギリギリ脳みそに残っていた単語のためそれが引き起こされ、自分的には超ハイコンテクストな笑いとして楽しめた。「シャコタン☆ブギ」知らないだろう。すまんな増田は50代だ。「おっさんかい!」ってツッコミが聞こえる。
増田が言いたかったのは、自分の意表をつかれる突発笑いがほしいということ。雑な笑いはそれを生みやすいというだけであって雑な笑い自体が面白いと言いたいわけではない。雑で緩い笑いはそれ自体が面白くないものでも、自分の解釈の中で面白く補完できたりするのだ。
M-1にその余白は少ない。こちらが無意識にハードルを上げて受け身姿勢を取った状態で鑑賞することや、4分に笑いを詰め込む中で技巧的になり、ツカミ、伏線といった方法論がこちらにも漏れ伝わっている状態で作らざるを得ないから。例えば粗品も言っていたけど伏線は伏線とバレたら面白くないのだ。あまり脈絡のない単語や表現が出てきて、それ自体はあまり面白くなかったとする。そうすると「これは後で回収される伏線だな」と無意識的に感じてしまう。伏線はその伏線だけで十分笑いを取らなければ活きてこない、、、んだけど、こんな法則めいたものを素人が感じ取っている時点で色々予測の網が張り巡らされているということだ。
そしてM-1がこういう方法論の頂点を決める大会になっている。まあ仕方ない。芸人の人生を左右してしまうようになったのだ。だからラパルフェを例に上げた。あの芸を決勝に上げるわけにいかないのが今のM-1だということが言いたかった。M-1という神聖な大会に対する禁忌であり、まあ一般受けもしないだろう。これは漫才なのかという議論も生むだろう。多分松本人志もあれは漫才ではなくコントだと否定すると思う。だけど、ラパルフェのネタを決勝で初めて目にしていたら、と想像する。「次のコンビはラパルフェです。どうぞ!」「どうも〜ニューヨークで〜す」絶対に爆笑していただろう。面白いだけが正義であれば、増田にとっては優勝候補の筆頭だ。
これもいくつか見た。実は増田もそう考えている。審査軸であったり前哨戦のストーリーを楽しみ、研ぎ澄まされたアスリートたちのようにしのぎを削り勝者を決める。それを観た素人が立ち飲み屋で阪神戦を観ているおっさんのようにああだこうだと(今もね)議論する。それでいいじゃないかと、実は増田も思っている。そうしたM-1グランプリが大好きだし、これからも必ず全てのネタは観るだろう。
あくまで意表をつかれる突発笑いというM-1が本来カバーしていない領域の笑いにフォーカスをあてればはてぶでバズるのでは?という増田の邪な気持ちで不快にしてしまったとしたらすまなかった。
ただ、M-1でもそういう突発笑いをたまに生んでくれるのでこれはいつも楽しんでいる。わかりやすいところでいうと敗退コメント。
敗退コメントはもともとウケを狙う場所ではなかった。そこを開発したのは西田だと思っている。声を出した笑った。あと、ニューヨーク屋敷は敗退確実な審査中、しかも松本人志の講評中にさえぎる形で「最悪や!!」を出した。かなりリスキーな行為だが見事にハマってめちゃくちゃ面白かった。これも発明だ。
だが、これらが発明されたことでフォロワーが生まれる。そうなるともうこちらは予測してしまっているわけでまた突発笑いは起きにくくなる。そんな中、真空ジェシカは想像を上回るコメントで笑わせてくれた。本当にすごいと思う。
ネタでもそういう事前予測を裏切るか上回ってくれると突発笑いが起きる。ミルクボーイのツッコミは「ほなコーンフレークやないか」と「ほなコーンフレーク違うか」の2種類しかないというかなり特殊な構成だ。ツッコミの後でさらに面白い解説を加える。始めてこのシステムに出会ったときの違和感とも言えるような感動と面白さは歴代最高得点にも納得がいく。2025年のたくろうの最終決戦のネタも増田には予測の裏切りが感じられとても面白かった。
そうだよな。本当にそう思う。承認欲求でついやってしまった。ゴメンな。
本当に!劇場に足を運んでいるわけではないのでスター発掘の場として素晴らしいと思う。
完全に同意する。煽ってごめんな。
な!な!そうだよな!ほとんどの人がここだけは同意してくれている。
出演者や放送作家が本当にこの長さが最適だと主張しているのなら別だが、年を追うごとに長くなっていったこととか、今回の終了際の中川家 礼二のコメントなどを踏まえると、TV局側のビジネス都合がめっちゃ匂い立つ。M-1を面白い番組として守るためにも皆で声をあげていってほしい。
確かにそうかも。臨場感含めて面白さ倍増しそう。多分そうなんだろうな。劇場に見に行ってみようと思えた。ありがとうな!
ということで以上です。
「漫才の相方にするなら、高市早苗か?それともダイアン津田か?」を議論して。
A:……あの、さっきの政治の話よりはるかに難解なテーマですよ、これは。漫才の相方を選ぶというのは、人生の伴侶を選ぶ以上の「技術的マッチング」の問題ですから。それを前提に言わせてもらえば、ダイアン津田さんを相方にするなんて、自殺行為に近いですよ。
B: ほう、面白い。なぜですか? 彼は今、日本で最も「何をやっても面白い」と言われる、いわば笑いの神に愛された存在の一人ですよ。
A: そこが問題なんです。彼は「素材」であって「調理師」じゃない。津田さんを相方にするということは、こちらが一生、彼の支離滅裂な叫びや、すぐキレる性格、そして時折見せる絶望的なまでの無知を全てリカバーし続けなきゃいけない。センターマイクの前で、猛獣使いになれと言うんですか?
B: まさにそれこそが漫才の醍醐味でしょう! 完璧な構成案をなぞるだけなら、AIにでもやらせればいい。高市早苗さんを相方にする自分を想像してみてくださいよ。彼女は喋りのプロです。滑舌も完璧、論理構成も隙がない。でも、彼女の隣に立って、あなたは「ツッコミ」を入れられますか?
A: できますよ。むしろ、高市氏のような「絶対に正論しか言わないキャラ」が、ちょっとした世間の常識からズレた瞬間にツッコむ。これほど快感なことはないでしょう。彼女のあの落ち着き払ったトーンで、とんでもない極論を言ってもらい、それをこちらが常識の側から引き戻す。非常に質の高い「インテリ漫才」が成立します。
B: 理屈ではそうですが、舞台上の「熱」はどうなるんですか? 漫才には、理屈を超えた「愛嬌」が必要なんです。高市さんの隣にいても、客は緊張して笑えない。「この人、後で本当に怒るんじゃないか」っていう恐怖が勝ってしまう。対して津田さんはどうですか。彼が「すぐ言う〜!」と叫んだ瞬間、劇場全体のガードが下がる。あの「圧倒的な隙」こそが、相方にとって最大の武器になるんです。
A: 「隙」といえば聞こえがいいですが、それは「予測不能な事故」のリスクと隣り合わせです。漫才は4分間という制限時間の中で、伏線を回収し、オチへ向かう建築物です。津田さんはその設計図を、本番中に破り捨てて叫び出すタイプでしょう。プロとして、そんな不安定なパートナーと組むのはストレスでしかない。一方で高市氏は、秒単位でネタの時間をコントロールできる。信頼関係の土台が違います。
B: その「設計図通り」が一番つまらないんですよ。高市氏と組んだら、それは漫才ではなく「政見放送」のパロディにしかならない。客が求めているのは、予定調和が崩れる瞬間です。津田さんがネタを飛ばし、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけ、わけのわからない造語を叫ぶ。その時、舞台には「生きた笑い」が宿るんです。そのカオスを乗りこなしてこそ、真の漫才師じゃないですか。
A: あなたが求めているのは「笑い」ではなく「ハプニング」だ。高市氏には、日本の伝統芸能に近い「話芸」の可能性があります。彼女のあの独特の抑揚、強調の仕方。あれを漫才の「ボケ」のシステムに組み込めば、新しい古典が生まれるかもしれない。津田さんのような「消耗される笑い」とは次元が違うんです。
B: 消耗される? 失礼な。あの「叫び」には、現代人が言いたくても言えない鬱屈を晴らすカタルシスがあるんです。高市氏の「正しさ」は人を正座させますが、津田氏の「おかしみ」は人を解放する。相方として、隣でその解放の瞬間に立ち会えるのは、表現者として至上の喜びだと思いませんか?
A: いいえ。隣で「ゴイゴイスー」と叫ばれるたびに、こちらの知性が削られていく気がするはずです。……しかし、確かに認めざるを得ないのは、高市氏を相方にした場合、こちら側の「ツッコミ」に圧倒的な力量が求められるという点ですね。彼女の威厳に負けず、いかに彼女を「可愛げのあるボケ」に転落させるか。これは至難の業だ。
B: そうでしょう? 高市氏を「笑いの対象」にするには、こちらの人間力が試される。でも、津田さんは勝手に転落してくれる(笑)。私たちはただ、その転落を優しく、あるいは激しく指摘するだけでいい。この「やりやすさ」こそが、相方選びの現実的な解ですよ。
A: ……ふむ。では、もう少し踏み込んでみましょうか。「技術としての漫才」と「生き様としての漫才」。私たちは相方に、完璧なリズムを求めているのか、それとも制御不能な爆発力を求めているのか。
(続き)
A: 先ほど、津田さんは「勝手に転落してくれるから楽だ」とおっしゃいましたね。でも、それは相方として「甘え」ではないですか? 漫才師というのは、お互いの知性を研磨し合って、誰も見たことがない景色を見せる存在であるべきです。高市氏という「最高精度の素材」をどう料理し、彼女の鉄の仮面を剥いで、一人の人間としての「ズレ」を露出させるか。これこそが、クリエイティブな挑戦ですよ。
B: 挑戦としては面白いでしょう。でも、漫才の舞台は実験室じゃない、戦場なんです。高市氏と組んだ場合、彼女の「正論の壁」があまりに高すぎて、客が笑う前に納得してしまう。客が「なるほど」と思った瞬間に、笑いは死ぬんですよ。一方で津田さんは、舞台に立った瞬間に「負けている」。あの「情けなさ」があるからこそ、客は安心して笑える。相方にとって、これほど頼もしい「敗北」はありません。
A: 負け芸、いじられ芸……確かにそれは一つの完成形です。しかし、津田さんの笑いは、常に「周囲の優しさ」に依存していませんか? 周りが彼を面白がってくれるという空気があって初めて成立する。対して高市氏は、アウェイの空気すら自分のペースに巻き込む圧倒的な「個」の力がある。もし、全く笑う気のない冷え切った客席に放り出されたら? 私は高市氏の「鋼のメンタル」と「計算された話術」の方に賭けますね。
B: 鋼のメンタル、ね……。でも、漫才における本当の強さって、鋼であることじゃなくて、柳のように「折れても戻ってくること」じゃないでしょうか。津田さんは、どれだけ滑っても、どれだけ相方に罵倒されても、最終的には「スーを差し上げます!」と叫んで無理やり着地させる。あの執念、あの泥臭い肯定感。あれこそが、客席の冷気を熱気に変える魔法なんですよ。
A: それを「魔法」と呼ぶか「ゴリ押し」と呼ぶか。……ただ、少し視点を変えてみましょうか。もし私が高市氏と組むなら、彼女に「完璧な理詰めのボケ」をやってもらいたい。例えば、コンビニのレジ袋の有料化について、国際法と経済安全保障の観点から3分間ノンストップで喋り倒してもらう。その横で私が「……で、袋いりますか?」と一言ツッコむ。この落差。
B: (笑)。それは確かに見てみたい。でも、それって一発屋の芸ですよね。2回目からは客も展開が分かってしまう。漫才の相方に必要なのは、飽きさせない「揺らぎ」です。津田さんは、同じネタをやっていても、その日の機嫌や体調で叫びのトーンが変わる。あの予測不能なリズムがあるからこそ、コンビとして何十年もやっていける。高市氏は、100回やったら100回とも同じ秒数で喋り終えてしまいそうで、パートナーとしては息が詰まりそうです。
A: 職人性を「息が詰まる」と言われては、漫才の伝統が泣きますよ。しかし、認めましょう。あなたの言う「可愛げ」や「人間臭さ」が、演芸の本質的な一部であることは。高市氏を相方にするということは、私が彼女の「完璧さ」を破壊する悪役にならなきゃいけない。一方、津田さんと組むということは、私が彼の「未完成さ」を愛でる保護者にならなきゃいけない。
B: 結局、自分が「破壊者」になりたいか、「保護者」になりたいか。その好みの問題かもしれませんね。高市氏という巨大な権威をステージ上で転がす背徳感か。あるいは、津田氏という制御不能なエネルギーに振り回されながら、一緒に崖から飛び込む疾走感か。
A: どちらにせよ、まともな神経では務まりませんね(笑)。高市氏の論理の刃で切り刻まれるか、津田さんの叫びで鼓膜を破られるか。究極の選択です。
B: でも、一つだけ確かなことがあります。どちらと組んでも、終わった後には「とんでもないところへ行ってしまった」という、心地よい疲労感だけは残るはずです。それが漫才という、言葉と人間が激突する芸能の正体なんですから。