はてなキーワード: 登場人物とは
私が生まれた時に父親がフリーマーケットか何かで全巻格安で売っていたので買ってきたそうだ。
全50巻。
平均ページ数は500ページほどで、しかもページ内は上下二段になっているストロングスタイルの全集である。
第一巻には
「ギリシヤ神話」
が収録されている。
子供向けであればギリシャ神話などはシリーズになっていてもおかしくないが1巻に全部入ってる。
私の読書原体験はこれであり、大体小学校3年生くらいまでには読破していて3周くらい読んだと思う。
中には「狭き門」だとか「シラノ・ド・ベルジュラック」だとか「ファウスト」だとか
小学校中学年までが読むにはストロングスタイルすぎるなという作品が多く含まれている。
「罪と罰」とかも当然入ってるからね。「水滸伝」とか子供が読むには登場人物多すぎるだろ。
そして今は私はほとんど内容を覚えていなが、当時の私はちゃんと理解して読んでいたのだろうか。
スティーヴン・クレインの「怪物」とか絶対本質の理解までは行ってなかっただろうなと思う。
ということを書きたくなったのは、実家の片づけをしていたらこれが割といい状態で出てきて
子供もそろそろ5歳になるので本人の意思で読むかどうかは別として、
今の家に持って帰ろうかと思って懐かしい気持ちで眺めていたからだ。
以下雑記。
東洋編は3巻あるのだがそのうちペルシア2、インド2、韓国1、中国12となっており中国文学の手ごわさを感じる。あと韓国1は韓国短編集となっており子供も読める韓国文学といえばこれでしょ!みたいなのって少ないのかな?と思った。
『俺の屍を越えてゆけ2』が不評とされた主な理由は、スタッフの個人的な思い入れがゲームの制作に影響したことが挙げられます。具体的には、開発スタッフが小説『鬼斬り鵺子』のファンであったため、開発の早い段階で新キャラクターの鵺子をゲームに登場させることを提案し、開発が進められました。この個人的な提案が、ゲーム全体の流れや質に影響を与え、不評につながったと指摘されています。
公私混同の影響: 開発スタッフの個人的な要望が取り入れられたことが、ゲームの不評を招いた主要因と考えられています。
キャラクターの導入: 小説『鬼斬り鵺子』の登場人物である「鵺子」が、作品の方向性とは無関係な理由で新キャラクターとして導入されました。
誰か教えてくれ
①神のごとくバチクソに強いプレイヤー
②はこういう人になりたい・この人と一緒にプレイしたいと大衆に思わせる人たちで、必ずしも上手い必要はない
プレイヤー人口を増やすにはどうすれば……という動きが出てる時点で①はいるはずなので、ゲームの普及活動とはさしずめ②をどう作り出すかという活動であると言っても差し支えない
APEXやValorantやスト6のプロがVTuberを集めて大会を開きまくってるのも、
プロスポーツチームが少年チームや女子チームなどの下部組織を持っているのも、
②がいなくて①だけいるゲームはどうなるかというと見る専ばかりが増える。
神プレイヤーは人を沼に近寄らせることはできるが、沼に突き落とす人がいないのでは永遠に沼を眺めるだけなのである
余談だが、
・①が②を兼ねてもよい
増田とどっちの方がズレてるかな
ガイドライン守ってるならそもそも法的措置を取られる可能性がほぼ無い。無視して良いレベルのリスク。
って言ってる奴で
このリスク増田と「二次創作界隈は権利などあらゆる感覚が一般人のそれからズレた者たちの巣だということを忘れてはいけない」って書いた俺増田のどちらがズレてるのかって話でしょ?
俺増田もガイドラインからThere's daggers in men's smiles的な言外の脅しを汲み取ったタイプなので
登場人物が複数出てきてるのに主語や目的語を省くバカのせいでこんがらがってこれもうわかんねえな
くれぐれもキャラにヤリマンとかNTR属性とかアナルが弱い設定とかオホ声設定とか足して人格改変してキャラのイメージを損なうような二次創作はしないように!
正直、私はこの山田昌弘氏にも大いに社会をこういう状況にした罪と責任があると思っています。
自分より若年者には甘えだと言い、自分と同じ老人は違うと言う、というのはちょっと酷すぎやしませんか?
まず、ニートは「Not in Education, Employment or Training、NEET」というイギリスの言葉であり、イギリスの定義です。
日本とイギリスは大きく社会状況が異なるにも関わらず、厚労省が意図的にこの言葉を輸入し、日本社会に流布したことに、陰謀論とまでは言いませんが、悪質な意図を感じます。
また、ニートは明らかに、他者に対する侮蔑的表現として日本社会で用いられています。
本来は定義のとおり、「学校に通っていない、学校に通えない、仕事に就いていない、仕事に就けない、訓練を受けない、訓練を受けられない」人たちです。
健常者のときは障害者を見下して加害者になり、自分が事故や老人になって身体に障害が出たら被害者になる。
これも言葉の定義からすれば、就職氷河期のような状況に左右されて、収入が家を出るのに満たない額だから仕方なく家にいる人たちを含めている話です。
そして、こういう造語を作り、他者を侮蔑するような日本社会を作ってきた犯人の一人が山田昌弘氏です。
そして、次の「ひきこもり」もそうですが、
ここまでの「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」は単なる状態、症状の話です。原因の話ではありません。
例えば、あなたが頭痛がする、寒気がする、血便が出た、とします。これは症状です。
しかし、あなたは自分の身体が何かおかしいと思ったら、普通病院に行くはずです。
病院に行って、検査して、医師に診断してもらわないと、原因は分からない。
例えば、歯が痛いとしても、虫歯なのか、歯槽膿漏なのか、気のせいなのか、歯軋りなのか、
「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」が問題だ、なんとかしなければ、と政治とかマスコミが騒ぎ出すわけです。
例えば、精神疾患で統合失調症の人がいたとして、統合失調症でも薬等で安定して一人で生活できる人もいます。
しかし、症状が悪化して、仕事を休むようになり、集合住宅で「ひきこもり」状態になってしまった人もいるでしょう。
ちなみに、統合失調症も症と付いているように、これは症状です。そして、未だに機序のメカニズム、原因は不明です。
しかしながら、医療の発展とともに、分かってきていることがあります。
例えば、統合失調症を促しているのは過剰なドーパミンではないか、という仮説があり、ドーパミンを抑える薬は効果があります。
統合失調症の状態が酷ければ、一人で暮らすことは困難でしょう。
当然、「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」の状態になるでしょう。
そうしなければ、いつか限界が来ることは、ある程度思考ができて、相当裕福な家庭でなければ分かっているはずです。
ここで話をおかしくするのは、就労の意思があればニートではない、とか、そういうおかしな定義が出てくる。
もう、明らかに社会問題を定義するニートという言葉を侮蔑的、差別的に使っており、
自分は被差別対象ではない、だって就労の意思はあるんだから、という意図を感じます。
端的に言って、「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」という言葉を捨てるべきです。これらの言葉を好んで使って社会問題を語ることは不可能だからです。
では、どう定義すべきなのか、とするならば、ぶっちゃけ、本人の意思なんてどうでも良いのです。
その当事者の近隣の企業は、どれぐらいの給与を払っているのか?ちゃんと最低賃金は守っているのか?求人の量、内訳はどうなっているのか?
日本人はすぐに、本人の意思が重要とか言い出しますが、じゃあ、就職する気がなくて遊んでたい人でも、俺は就職する意思がある、
就職する意思がある人はニートとは呼びません、ということになり、就職する意思があると表明すれば給付金がもらえ、
会社で酷い事故に遭った、もう二度と俺は働きたくなんかないからな、と言った人には給付金を払わない、これはナンセンスでしょう。
じゃあ、すべからく貧しい人に給付金を出すべきなのか?遊んでたい人にも、障害者にも、老人にも出すべきなのか?
その通りです。
ただ、単に遊んでいたい人が、本当に詐病でもなく障害があるのか?特に身体障害があるのか?
普通はないと思います。徴兵を逃れるために障害車椅子になるぐらいの自損事故を起こす人もいるとは思いますが、
ある意味、それはそれで何らかの給付を得てもいいのではないでしょうか?
老人も単に年齢に払うのではなく、身体能力、障害があるか、認知症があるのか、そういう状況に即して助けるべきです。
70歳で障害や病気、癌などでつらい人もいれば、90歳でも足腰が元気でスポーツを楽しんでいる人もいます。
こういう格差は、そもそもの出自、つまり生まれつき環境が恵まれていたか、それから遺伝的な格差もあるはずです。
社会とは、そういった本人にどうにもできない格差をできるだけ埋め、チャンスを平等にするべきものです。
駆けっこで一位をなくせばいいとか、そういう頓珍漢な話ではないはずです。
最後に端的にまとめるならば、やはり「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」のような言葉で社会問題を語る人を疑うべきです。
議論するためには、根本的な社会的病理の原因を特定し、そこで初めて、その解決方法を議論できるはずです。
要は、例えば「パラサイト・シングル」も「ニート」も「ひきこもり」も、日本の労働環境、雇用する側、企業人事の悪しき文化、ブラック企業など、
企業から献金を得ているのに、その企業が労働者に酷いことをして、パラサイトシングル、ニート、ひきこもり状態の国民を生み出している。
お金をもらっているのに、そんな指摘できないですよね。
そもそも、「ひきこもり」状態、症状を訴えている人たちは、かなりの割合で何らかの精神疾患があることが既に医学的にも示されています。
私も氷河期世代ですが、私が子供の頃には例えば発達障害なんて言葉自体がありませんでした。
これを取り上げて、発達障害なんてものは存在しない、医療界の陰謀、みたいに言う人がいますが、私はそうではないと考えています。
単に見つかっていない、無視してきた病気が見つかっただけです。
それから、社会の方が変化して、その変化した社会に適応できないから病気として認知されたのです。
人為的ですが、これも立派な病気であり障害です。障害とは社会に対する障害で合って、視力が低くても眼鏡があれば克服できることで、これは社会が変わって病気が消えたのです。
つまり、氷河期世代、ベビーブーム世代でありながら、大量の精神疾患罹患者、発達障害などの当事者が、
なんのサポートもされないまま、学校生活を耐えさせられ、社会に出て会社に合理的配慮どころか、不合理配慮、不条理な配慮を受け、
社会に適応できないまま放置された、そういうケースがベビーブームですから、大量にいるわけです。
病人は弱者なんだから勝手に淘汰されて死ねばいい、そういう漫画「なるたる」の登場人物みたいな考え方もあるとは思います。
公衆トイレがあまりにも汚い、路上にも糞便が溢れていて、川にも生ゴミや粗大ゴミがそのまま投棄されてる、
でも、ちょっと前、昭和の、私が生まれる数十年前はそうだったわけです。
そこから高度経済成長、オリンピック、大阪万博、バブル、バブル崩壊などを経て、公衆衛生は格段に良くなりました。
ウォシュレットなんて、潔癖すぎることで逆に病気を起こすぐらいです。
精神衛生も同じです。
私は漫画やアニメ、音楽が精神を汚染しているというよりは、労働環境、悪しき企業の人事の文化、
リクルート社のような人材斡旋の利益を優先した文化、そういう方が人間の精神をおかしくしているのではないか、と思っています。
労働するなら、やりたくないことをやるなら、せめてできるだけ快適な環境で働きたいとか、もう限界なときは休みたいとか、
そう考えるのが普通なのではないでしょうか?
一方で、近年のAI、ロボットの発展は凄まじい勢いがあります。
私なんかより遥かに、天文単位レベルで頭が良い天才が開発に携わり、私にはさっぱり分からない数学の話をしていますが、
そんな超天才たちが、でも、どうしてうまく動いているのか、ちょっとよく分からないんだよね、みたいに言うことがあります。
そんな感じなので、本当に超知能が10年後ぐらいに実現するのか、自分にもよく分かりません。
ただ、AIやロボットが人類を労働から解放するのではないか、というありがちな見方がひとつあり、
私はもうひとつ、AIやロボットと人類が一緒になって、困難な問題に取り組む、
例えば、この世界はどうなっているのか?そういう究極の真理の探究はまだまだ続くでしょうし、
いくら超知能とはいえ、それこそ「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」のような症状を生み出す社会問題をゼロにできるでしょうか?
すべての人類が幸せになるまで、幸福は市民の義務なんて強制ではなくて、できるだけみんなが幸せになれるような社会にする、
これはきっと永遠に訪れることがない理想、理想論であり、しかし、宮崎駿氏が言うように、理想を目指しながら、現実はどうするかを議論するべきなのです。
私の今の将来の夢は、AIやロボットに任せっきりにするのではなく、一緒にプログラミングして、一緒に絵を描いて、一緒に作曲をして演奏して、
一緒に畑を耕して、どんな場所でも、一緒に高め合っていける、そういう社会が実現したらいいなと思っています。
「ニート」「パラサイト・シングル」「ひきこもり」は症状であり、状態です。
そういう症状、状態の人を責めるなら、その前に、その原因をちゃんと考えてあげてください。
エンターテイメントサービス精神旺盛のジェームズ・ガン映画だった。84点
この映画は失敗作といっていいと思う。
いろんな要素はあるけど根本は2つ。
1について。
これら2つはレックス・ルーサーが糸を引いているのだが、映画内では特にコネクトしない。
1は「現代のスーパーヒーローが本当に救うべきなのは誰なのか」という問いかけ。
2は「スーパーヒーローがスーパーパワーで世界の危機を救う」というお約束。
そしてこれらをうまくコネクトできていないことで、作中でこの大きな2つの主題を別々でこなす必要に迫られている上に、SNSでの攻撃、陰謀論、現代にスーパーヒーローが考えるべきこと、移民問題と現代映画で語るべきことをすべて盛り込んでいるので作品がめちゃくちゃ忙しくなっている。
2について。
ガンは露悪の作家であり、チームの、最低でもコンビの作家である。
その特性はスーパーマンと食い合わせがすごい悪い。スーパーマンは完全に善意の人だし、一人で戦う。
そこでガンはスーパー犬のクリプトとジャスティスギャングを投入した。
おそらくクリプトだけならまだ大丈夫だっただろうけど、露悪でチームの作家であるガンのよさを一番引き出せるジャスティスギャングを出さないということはガン的に難しかったのだと思うのだが、その結果、彼らの見どころをちゃんとたっぷりつくらないと行けなくなった。
実際彼らはめちゃくちゃ魅力的だ。ガイ・ガードナーは下品でバカだけどナイスガイだし、ホークガールはイカれてるし、テリフィックは天才不憫で着てるジャケットに「FAIR PLAY」とデカデカと書かれているのもイカす。そして全員めちゃくちゃ強いくて格好いい。
だが、その結果、やっぱり映画がめちゃくちゃ忙しくなっている。
2つの問題の共通点は「作品がめちゃくちゃ忙しくなっている」ことだ。
特にこれは冒頭40分くらいに顕著で、
・スーパーマン談義
とこれだけで十分映画一本撮れるだろ!という内容がギュッとされている。
実際、トレーラーに出てくる「面白そう」なシーンはほぼここに全部入ってる。
その結果、全てのシーンにタメも余韻もなく「スーパーヒーロー映画RTA」のようになってしまっている。
エンタメ要素だけ見れば十分満足できるんだけど、サクサクすぎて印象に残らない。
コース料理食べに行ったら5分毎に次の料理が出てくる感じ。急ぎすぎィ!まだ子供が食べてるでしょうが!
まぁ大バッシング後からちょっとずつ話が落ち着いてきて最終的にはいいテンポになるんだけど、この序盤は面白シーン連発のはずなのに全然アガらず、逆になんか盛り下がってしまった。
皆様ご存じ系ヒーローのオリジンどうする問題を今回は「冒頭3分で全部ナレーションでやる」という力業で解決しているのだけれど、それでも私たちは「今回のスーパーマンはどんな人なの?」ということはわかんないわけ。初戦でボコボコにされてそれをタコス屋のおっちゃん(後にキーマンになる)に助けられる展開がある。トレーラーでも印象的に扱われていたシーン。そこで、この人は前に助けた人なんだよと説明があるんだけど、そのシーン見たかったわ~説明だけじゃ感情移入できないわ~ってどうしてもなっちゃう。
登場人物を増やしていろんな設定を盛り込んで全部消化しようとした結果、どれも美味しいはずなのにちょっと食い足りない感じになってるのはスゴイもったいない。やっぱりジャスティスギャングは次回以降か、SVBのワンダーウーマンみたいに最終戦で助けに来るみたいな感じでよかったんじゃないかと思う。
後はトレーラーでも印象的に扱われていた少年がスーパーマンの旗を掲げるシーン。あそこで初代スーパーマンのテーマが流れて流石にエモすぎるだろ!となった結果、どうなるのかというところ。あそこはガンによる「世界をスーパーマン一人に背負わせない」というポジティブなメッセージとDCUの世界観説明として完璧に機能していると同時に、さすがにあのエモさでガン特有の「ズラし」をするのは違うんじゃないかという両面でモヤモヤした。
今作ではスーパーマンの真の使命として「地球で愚かな民を支配し、種付けしまくれ!」と両親が言っていたことが明らかになりこれによってスーパーマンはバッシングされ収監されることになる。しかしスーパーマンはそのことを知らず「自分は確かにエイリアン(移民)だが、この国で育ってこの国を愛している。誰から生まれてそいつがなにを言ってるかなんか関係ないんじゃないか」という移民バッシング批判とガンの命題である「家族という呪いからの脱却」へのアンサーを出していて、これ自体はガンらしくてよかった。
SNSでスーパーマン批判キャンペーンを展開しているのがガチのおさるさんだというのもSNSでディズニーを一度は追い出されたガンらしい皮肉が効いていてよい。
あと、やっぱクリプトね。スーパーマンレベルの力を持った犬なんだけど、マジで犬。しかもバカな犬。かわいいバカ犬。クリプト見るためだけにこの映画見ていいまである。クリプトをこうしたのガン天才やと思うわ。
そしてレックス・ルーサーとかいうめちゃくちゃ一般人な天才。増田やってそう(ヘイトスピーチ)。今作では基本的にスーパーマンを圧倒する頭脳を見せるのに、ウルトラマンの操作をコマンド式にしたり、国を買い取って自分の王国を作ろうとしてたり、ブロンドで乳がデカいバカ女ばっかりと付き合ってるし、スーパーマンを憎むのは「あいつばっかりちやほやされてムカツク」という承認欲求から。そして最終的にクリプトにボコボコにされて泣き出しちゃう。か、かわいい。ニコラス・ホルト天才やな。
ガン映画の一番の魅力である登場人物のすばらしさに関しては言うことなし。満点。
GotGで見せたアクションの面白さも健在だし、エンタメ映画として必要なものは高い水準で全部入ってる。
この映画は俺は失敗だと思ってるけど、面白い映画を見たいなら絶対に見るべきだと思う。
なんか失敗扱いになっちゃったけど俺はDCEUも好きだったし、DCUも応援したい。今のところ全部面白いし。
今作はDCU最初の映画ということでいろいろ無理やり詰め込んだ結果こうなっちゃったのかなとも思うし、今後しっかり腰を据えた映画がこのクオリティで作られていくことを期待したい。
どれだけ清く正しく美しく生きたところで、どのように解釈したところで、人間の生死は吐き気がするものであって、すっきり飲み下せるようなものにはならない。近しいものの生き死にも自分のそれも。
みんな何だかわからないままアホみたいに混乱しながら生きて死ぬ。
登場人物全員以上なのではなく永遠にアホなだけだ。夫を非難するとか離婚するとかの選択も全く自由だが、その際にも「こいつアホだからどうしていいかわからなかったし今もわからないんだな」というアホ同士の連帯感みたいなものをどこかベースに持っていて欲しい。
自分は全ての正解がわかってるつもりで、夫を「敵」「悪」とだけ捉えて、夫の間抜けさにダメ出ししまくる…
というのは一番寂しく貧しいパターンだが、増田は自身が深く混乱しているとわかっているので、そういうことにはならないのだろう。
なんと、夫の前妻は自死だったらしい。
来月、法要のためにとある遠方の地へ行くと言う。義両親も伴うというので、すっかり親族の法事だと思ってわたしもいく気で支度をしていたら「来ないでほしい」と言われ、不審に思って問い詰めたらすぐに口を割った。前妻の7回忌だそうだ。
それまではバツイチと聞いていたので、驚いた。今まで聞いてきたバツイチトークはすべて嘘だったのか…と思うと軽く目眩がした。夫は、「お互いに愛情が冷めて仮面夫婦状態となり、最終的に性格の不一致で離婚した」という旨を誠しやかに話していたというのに、死別だったなんて。全然話が違う。
子供がなかったことと、離婚裁判の最中の自死だったことから、お墓や法事などの供養は前妻の実家で行なっているらしい。
頭がいたい。
わたしは精神にかなりダメージがあって、代休がたまっていたのもあったので今日は会社を休んで家でゆっくり過ごすことにした。
とはいえどうもこうもモヤモヤして、考えても仕方ないことばかり考えてしまうのも飽きてきて、今まであまり足を踏み入れて来なかった夫の書斎に入ってしまった。
わたしと2人で行った旅行の写真、試験の教本、ポケモンカード、見慣れたそれらには目もくれず、普段絶対に開けない引き出しの中を見てみることにした。
そしたら当たり前にすべてが出てきた。
死亡診断書や火葬許可証のコピー。即死ではなかったようで、死ぬまでの入院中に医者が書いたであろう生々しい書類の数々。その間見舞いに通ったであろう市民病院の駐車券の束。葬儀の打ち合わせ資料。生命保険会社からの郵便物。税理士からであろう相続書類。
そして、夫の日記。
離婚裁判中に自殺企図をくりかえす前妻との戦いの日々。ある日を境に、入院した前妻の看病日記。
僕は[前妻]を愛していた
[前妻]は僕を愛していた
お互い愛し方が違って、愛され方に不満があったんだよな
合わないから 離れよう
それだけだったのにな
[前妻]、楽になったのか
吐き気がした。
過去の妻に対する嫉妬?そんな可愛らしいものではない気がする。
配偶者が自殺しかかってるというのに「離婚」の意思を頑固に貫く夫も怖くて気持ち悪いし、
離婚が嫌だからって自殺なんて選択肢を取る前妻も気持ち悪いし、
前妻が自死して早々にこんな寒々しいポエムを書ける夫が本当にサイコパスに思えて、こんな人と何も知らずにぬくぬくと夫婦をやってたわたし自身が気持ち悪い。
一番気持ち悪いのはこんな重大なことをわたしに隠していたこと。
義両親は?義兄は?当然知っていたであろう。葬儀の出席表に名前があるもの。その上で夫と口裏を合わせていたのか。夫に加担したのか。わたしにこのことを知られないために。
いや、言いにくいのはわかるさ。自分の親族がもしそんなことになって・・・考えられない。こんな最悪の事態になる前になんとかしなかったのか?手助けはしなかったのか?
知ったら結婚しなかった?わからないけど、夫とそれについて会話して自分なりに納得というか、腑に落ちないと無理だ。だって異常でしょ。いろんなことが。
よくあることなんだろうか?
被害者はだれなんだろう。自死に追い込まれた前妻?面倒な過去を背負わされた夫?何も知らないでのんきに後妻を演じていた、わたし?
配偶者が目の前で自死しようとも離婚しかえらべないほど追い込まれていたのは夫なの?
異常者は誰だ?こんな状態で離婚届もとりに行かずに嘘だったらいいと夫の書斎を勝手にひっくり返して調べて嘘じゃないことに直面して涙しているわたしか?
せめて離婚した後の自死だったらよかったのに、何か見落としていないか、救いはないのかと書類を漁るが、除籍謄本の写しが、救いなどないことを突きつけてくる。
なにもわからない。
混乱している。
登場人物の総意ではないやろ
最初に知った(非子供向けの)アニメはエヴァだった。2005年頃の再放送で見て、世の中にはこんなに面白いコンテンツがあったのかと驚いた。
それでエヴァの次に中学生の頃に好きだった某ラノベがアニメ化したのを知って喜んで見てみた。あまりのひどさに滅茶苦茶落胆した。
原作改変どころの話じゃなかった。登場人物と設定以外全部違うのでは?というレベルだったと感じた(結局耐えきれず途中までしか見てないのだが)。
まぁそれはそれで人気はあったらしく続編がいくつか出ていたようだが、アニメというものに出会って二作目でこんな衝撃を受けたので原作至上主義にならざるを得なかった。
大好きだったものがぐちゃぐちゃにされているショックというのは大きいもので、一種のトラウマだったと言って良いだろう。
その後20年間でまぁ多少はアニメを見てきたが、元々原作が好きなものがアニメ化したものは全くという程見なくなった。というか見れなくなった。
一応アニメを見てから原作を読んだというものもなくはないし、そういうものの中には良く出来ているアニメも色々あったとは思う。
アニメと小説、漫画といった媒体によって得意とする表現が違うのは理解しているし、小説だからこそ、アニメだからこそ生きる表現というのはある。
なのでアニメだからこそというオリジナル要素が実にうまく原作のストーリーに対する肉付けになっていて素晴らしいと感じたアニメもある。
でもそういう枠を超えてストーリーやら人間関係やらまでぐちゃぐちゃにするのは私は許せない。それなら別の名前で別のキャラでやって欲しいのだ。
そういう意味で私は原作至上主義である。原作というまず一本の軸があり、それはブレることなくアニメという媒体ならではの技法で肉付けするという形にしてほしいのだ。
原作をきっちりと引きついたうえでのアニメ化は、原作至上主義とはいえ大歓迎だ。それは原作あってこそのアニメだからだ。
アニメ化自体を否定したいわけじゃない。ただそう勘違いされることもあるので原作至上主義ということを軽々しくは言えないのが寂しい。
篠田氏がラッセンに着想を得て執筆した小説「青の純度」であるが、篠田氏がラッセンのモデル小説ではないと述べていることについて、篠田氏がラッセンをモデルにしたことを否認しているという誤解が広まっているようだ。
「青の純度」はラッセンに着想を得た画家の話ではあるが明らかにラッセンのモデル小説では無い。
なのだが、この事を説明するには、人によっては「ネタバレ」と言うようなところを説明する必要があるので、多くの謙虚な読書家の感想文からは未読の者がそうと理解しにくい形になってしまっている。
私としては、物語の半分よりも手前(5分の2ほど)で明かされるそれは「出題」部分(探偵ものであれば死体の発見)であってネタバレではないと思うのだが、まぁそう思わない人もいるだろうから、駄文を挟みいささか猶予を置いてからその部分の説明に入るので、出題部を含めてネタバレを嫌う人はこの先を読まずにブラウザをバックすると良い。
ラッセンに着想を得たがラッセンのモデル小説ではない、とはどういう意味か。
そもそもモデル小説という語の意味が若干の広がりがある上に、モデル小説という概念を持たない人は誰かをモデルにしたキャラが出ているだけのものまでモデル小説と呼び、しかも「青の純度」の偽ラッセンはそれですらないのだ。
モデル小説というのはある理想(モデル)を小説の形にした小説というのがおそらく最もインターナショナルな定義だが、日本語の場合はある実在人物をテーマにした小説を指すことが多いように思う。篠田氏がいう「モデル小説」も後者の意味である。
モデル小説のテーマとなった人物は、少なくともその行動の主要な部分がモデルにされた人物に沿ったものとなる。テーマとはそういうものだからだ。
篠田氏がラッセンのモデル小説では無いと言ったのは、作中の偽ラッセン(私が架空人物の名前を覚えるのが苦手なので「偽ラッセン」と書くが、「青の純度」の読者なら納得してくれるのでないか)はラッセンの人物像を作中に顕現させようとしていないからだろう。証明は後述。
なお、作中の登場人物が実在人をモデルにしているというだけではモデル小説とは言わない。モデル小説とは小説自体の分類なので、個々のキャラのモデルの話とは別次元の話だからだ。言うならば、グラップラー刃牙にアントニオ猪木をモデルにしたプロレスラーが登場したからといって、グラップラー刃牙はアントニオ猪木のモデル漫画ではない。
これを前提に「青の純度」の中身に触れよう。
バブル後に一世を風靡し、印刷物を限定品と称して高値で売るエウリアンの悪徳商法が問題となって消えた偽ラッセン。
出版社に勤める主人公は、たまたま飾ってあった偽ラッセンの風景画を見つけ、かつて馬鹿にしていたそれが琴線に触れた。
そこで調べると、今(2023年)になって再び偽ラッセンの印刷物の新作展示販売会が活発になっている。その主催者は、かつてエウリアン商法をしていた会社の元従業員である。
出版社勤めの主人公はラッセンの大衆人気に関する本を出すことを思いつき、本に絵を載せる許諾を得るために、ハワイ島に暮らしているという偽ラッセンを訪問すべくハワイ島に飛んだ。
しかしそこで、偽ラッセンが10年くらい前に既に死んでいたことが判明した。
と、ここまでがいわば出題編である。
10年くらい前に死んだ人物の新作が2023年に出てきているのだから、読者は当然、ゴーストペインターを疑うわけだが、この先は君自身の目で確かめてみてくれ。
現実のラッセンは存命だし、近年の再評価は2012年のラッセン展に始まる原田氏のラッセン研究による正統評価の流れである。
10年くらい前に死に、令和最新版エウリアン商法としてリバイバルされている作中の偽ラッセンとは似ても似つかない。
したがって「青の純度」はラッセンの「モデル小説」ではないことは明白なのだ。
ちなみに作中で、主人公は当初、「犯罪的な商法と、作品・作家を切り分け、その販売手法に言及した後、ジャンピエール・ヴァレーズの作品そのものを取り上げ、そこにある芸術と大衆性のせめぎ合いについて語る」ことを企図して偽ラッセン本を企画しハワイに渡った。
しかしその結果、偽ラッセンは、マリンアートの巨匠Robert Lyn Nelson(→Wikipedia(en))の流れを汲む1人に過ぎないことを知り、ただその中では技巧が卓越していたという評価に至った。
また、偽ラッセンの絵画は原画ではなく印刷物を最終成果物と想定して描かれており、原画より印刷の方が良いという。
そして何より10年くらい前に死んでいたことと現在の売り出し方。
結局のところ、主人公はハワイに渡り様々な事実を知ったことで、当初の目論見とは異なる結論に至った。
したがって、偽ラッセンがラッセンのモデル小説では無いのと同じく、主人公についてもまた、近年の再評価者のモデル小説ではないということになろう。
俺は根っからの映画をエンタメとしてとらえている人間なんだなとわかる一本だった。
おそらく興味深くていい作品だと思うんだけど47点。
正体不明の大陸間弾道ミサイルがアメリカに向けて発射され、どうやら核ミサイルらしいということがわかる。
着弾まで18分。
そん中、アメリカの軍事国防を担う人たちは「君たちはどう生きるか(宮崎駿)」を問う。
作品としては発射から着弾直前までの18分間を3回繰り返す構成になっており、幕が進むごとに登場人物の階級が高くなっていき、最終的にアメリカ大統領が決断を迫られることになる。どうでもいいけど、イドリス・エルバは先週までイギリス大統領をやっていたので混乱してしまった。
この構成自体は下っ端から上に報告が上がるのに時間がかかるので幕が進むごとに決断までの時間がどんどん短くなっていくさまを描き、このせいで本当の有事に権力者は本当に正しい判断ができるのかということを問うという意味で効果的に使われているのだとは思う。
でも、黒澤明の「藪の中 a.k.a 羅生門」やピート・トラヴィスの「バンテージポイント」のように同じ瞬間を繰り返しながらも視点が変わることで新たな事実が浮き上がってきて事件の全貌が明らかになったり余計に混乱すると言うようなエンタメ性はなく、基本的に全く同じ部分を繰り返すことになるので正直、退屈。
大陸間弾道ミサイルがどこの国のものなのかも不明ながら、国防省は北朝鮮か?中国か?ロシアか?と調査を進めながらも報復計画を立案し(※どこに?)大統領はそれを承認するか最後まで迷い、映画はそれを見せないまま、そしてミサイルがどうなったのかを見せないまま終わる。
この先は君の眼でたしかみてくれ!(現実もこうなるかもしれませんよ)という形で終わるんだけど、カタルシスがなさすぎてう~んってなる。え、終わったの?と思って2回巻き戻してみてしまった。
ほかの「問題提起系」作品でもそうなんだけど俺としてはやっぱフィクションでやるからには「お前らの」回答を見せろよと思ってしまう。もちろん答えのない問いだし、それにテキトーな回答をしないという態度も誠意的だとは思うんだけど「優しいだけの男」に魅力がないように、正しいだけの映画にも俺は魅力を感じない。
アメリカ軍が大陸間弾道ミサイルが発射されたってことはどっかが攻めてくるかもしれないと軍を展開した結果、それを見た各敵国、特にロシアも同じように軍を展開し一触即発の空気になる。そんな中、ロシアの外相と電話会談が可能になり「うちはロシアには報復行動をとらないからそっちもしないと約束してくれ」とアメリカ側が要求した際に「仮にそれを信じるとして、中国、北朝鮮にミサイル撃つ時にうちの領空を経由するな」とロシア側は要求。「上がそれで握っていても仮に誤作動だとしてもロシアにミサイルが落ちたら戦争せざるを得ない」となる。
アメリカが報復行為に出ようとしているのも「ミサイル撃たれて何もせんのは国民が納得しない」という理由だし、ロシアが報復体制を崩せないのもおそらく同じ理由で、結局どっちの国も「別に戦争したいわけじゃないんだけど、しなきゃメンツが立たない」というめちゃくちゃ俗な考えで動いているのが面白い。
タイトルにもなっている「地球とはダイナマイトを詰め込んだ家のようなものである」という話が引用されていて、実際のところ「核の抑止力っていうけどそれって現実には仮に一発撃ったらSEKAI NO OWARIってことじゃない!?」という問題提起をしているのはわかるが、別にその問題提起自体は面白くはないよな、と。
興味深くはあるけど面白くはない。すくなくともエンタメ的じゃないなと思って、俺ってこういう「撮ったことに意義がある」系の映画見るのに心底向いてないなと思いました。
う~~~ん。現代ゾンビ映画指標で見たら悪い部類に入るかもしれないけど将来性に期待して51点。
原題は「Abadi Nan Jaya」でインドネシア語で永遠の栄光というような意味。
インドネシアの有名な愛国歌である「Indonesia Pusaka」の中の有名なフレーズでもあり、この楽曲は作中でも確か流れていたはず。
インドネシア映画の中である程度予算をかけて初めてつくられたゾンビ映画とのことで、過去のジャンル作品へのリスペクトが感じられきっちりゾンビ映画のツボは抑えながらも地域性が見られる点はなかなか興味深かった。
けっこう銃を撃つシーンがあるんだけど毎回ちゃんと当たると部位欠損していてGood。ここを手を抜く作品は信用できない。車で轢かれたゾンビの腸飛び出しもよき。ある程度リアリティのあるゴア表現が続き、"ちゃんと"ゾンビ映画しようという気概が感じられた。
今回のゾンビは目が完全に濁っていておそらく視力がない。なので音に反応する形になっている。
そんな中で警察署に立てこもった主人公たちが行き詰っているときに遠くから礼拝の声が聞こえ(インドネシアはイスラム教圏)ゾンビがそちらに向かって走り出し、これが神の救いか!と思ったら礼拝の声が消え悲鳴が聞こえるという皮肉な展開もよい。
また、急に大雨が降りだし聴覚を奪われたゾンビたちが立ちすくむ中脱出するシークエンス中に急に雨が止み再び追いかけられるという展開になるのだが、俺たちからすれば都合のいい雨やなと思うんだろうけど、現地の人からすれば「スコールあるある」みたいな緊張感がおそらくあるんだろうと思う。
こういう地域性を活かした展開はよかった。
ほかは、まぁ悪かったかな。
ホラー映画あるあるのバカで考え無しな登場人物たちが大集合してわっちゃわっちゃする。こいつらどうせ耳しか聞こえてないんだからずっと静か~~~に立てこもってればそのうちどっか行ったんちゃうんか?という疑念が絶えない。知り合いがゾンビになるんだけどいろいろあって殺さずにおいておいた結果、大ピンチになる。
わかったわかった、もうそれとっくに見たよ。という展開がほぼほぼを占めているので、それこそがゾンビ映画というのもわかるのだがどうしても得点は上がらないという形になってしまった。
今回の作品は田舎の漢方薬企業が作った新作漢方試作品が原因でゾンビ化するというジェネリックバイオハザードみたいな感じだったんだけど、これも漢方ビジネスが一般化していて民間療法が日本の1000倍は信じられていて一種の社会問題にもなっているインドネシアならではの切り口だなと。
最後の最後でその試作品が実は大都会にも送られていて……という続編を期待させるオチで終わるのもテンプレでよい。
やっぱり、タイトルに「の」を入れないと駄目ってジンクスは正しかったんや…、とか思ってたりもするけど、
士郎正宗先生は、是が非でも、来年のアニメ化に合わせて、昔みたいな絵を復活させてほしい…
無理かあ…😟
昨日だったか、ヤクザみたいな顔した刑事が出てくる昔のシロマサ漫画読んでて、
あー、これだよこれ、俺が望んでるのはこれなんだよ、と思ってしまったんだけど、やっぱり寂しいなあ…
そういえば、士郎正宗のドミニオンの主人公の戦車偏愛っぷりは、パトレイバーのパクリみたいに言われることあるけど、
ちょっと調べれば分かるけど、逆です、時系列でドミニオンが先で、パトレイバーが後です
それから、OVAのレリックアーマーレガシアム、子供の頃はアニメ雑誌でしか知らなくて、大人になってやっと観れたわけだけど、
これ、ランドメイトの影響をかなり感じる、腕が四本あって、内側が操縦者の腕のマスタースレイブ方式で、
士郎正宗は押井の攻殻機動隊の映画が出るまで、なんというか知名度がやはり低かった気がする
あの押井映画の影響で、映画マトリックスができたりしたわけだけけど、日本での知名度はイマイチで、
何故か海外での人気が高かった気がする
でも、同人界隈では士郎正宗の存在は際立ってて、同人誌のようでありながら、薄くない、
書店に置かれる漫画を青心社から出版したのは、これは異例中の異例で、
アップルシード一巻は、ブラックマジックのまだ松本零士が抜けてなかったりする絵柄と、大友の中間みたいな感じで、
ランドメイトだけでなく、後のオウム事件で出てくるサリンも私はこの漫画で初めて知ったし、
とにかくシロマサ漫画は一度読んだだけでは理解できないところがあるのだけど、
理解をすっ飛ばして、まずアクションとか、メカとか、そういうビジュアルだけで十分楽しめるし、
繰り返し読むたびに何か発見があったり、攻殻機動隊もそうだけど、コマの外に書かれた参考文献も買って読んだり、
そうすることで生命科学とか、宇宙開発とか、哲学とか、西洋の建築様式とか、神話とか、
人生で何の役にも立たないかもしれないが、無駄な教養が増えて楽しい…😟
今になってみると、昔のシロマサ漫画を読んで、これは流石に時代を感じる、とか、
そうは言っても、専門家でもない漫画家が、この時期にこれを見抜いていたとは先見性がありすぎるというか予言者というか、
失礼ながら、これはナウシカとか、AKIRAとか、もちろん、それはそれで面白いのだけど、
シロマサ漫画はちょっと違うんだよ、そのナウシカとかAKIRAの影響を十分に受けてるんだけど、
例えば、ナウシカやAKIRAって左翼的なんだけど、シロマサ漫画は徹底して右翼側というか、
警察官とか軍人とか、なんだかんだ国家権力側に所属する人たちが主人公であることが多いわけで、
もちろん、そんな主人公たちがまた暴走していくから面白いのである
書こうと思えば自分には一晩中書けそうなネタでもあるけど、久しぶりに仕事というか用事ができたので、この辺で…😟
無理はしてほしくないけど、シロマサ先生には帰ってきてほしいんだよなあ…
昔の海外刑事ドラマみたいなのでもいいし、ORIONみたいなファンタジーでもいいし、
でも、エロ絵になってから私はもうほとんど読んでない、買ってない、
それどころか、アップルシード1巻の表紙をあんな風にしてしまって、失礼ながらちょっと憤慨したぐらいだけど、
ゼーガペインで自ら絵を描かなかった伊藤岳彦氏というかBLACK POINTさんというかみたいに、
シロマサ先生原作で、でも、シロマサ先生ができるだけコマ割るところまでやってほしい、
あの、不親切なぐらい、説明口調のない、自然な描写がいいんですよ
だって、警察とか特殊部隊の人が、漫画を分かりやすくするために説明口調になったり、
それこそ、読者の方向を向いて、どっち向いて喋ってんの?みたいに突っ込まれたりするのがおかしいんですよ
シロマサ漫画の良いところは、敢えて説明しない、多くを語らない
これは富野アニメもそうで、説明口調とか、詰め込んだ富野アニメは面白くないし、
そうそう、安彦ORIGINも、映画のククルスドアンもそうだけど、やたらと語ってしまったり、詰め込んじゃ駄目なんですよ
敢えて語らない、説明しない、なんかこういうことがあったんだろうな、と匂わせるだけ
あー、そういう意味でやっぱりジークアクスも駄目だと思ったんだよね
特に最終回でキラキラの中で会話だけ始めちゃったんで、これはもう駄目だ、と思ってしまった
見たけど何かよく分からない、何か匂わせてるけど、具体的に何があったのかちゃんと描け、みたいな話で、
例えば、ララァが娼館にいた話とか、そういうのはアニメでは匂わせるだけだから良かったんだよね
シャアと何か色々あったんだろうなあ、と思わせるだけで十分なんであって、
具体的に娼館がどんな感じか、なんて語らなくていいし、ORIGINのランバラルとハモンも、なんかイメージが違うし、
幼少期のシャアやセイラと何があったか、なんて語らなくていい、そういうのは同人誌でやれ、
という話なんであって、だから、安彦ORIGINとかジークアクスは同人誌なんだよね
登場人物の幼少期はこんなだったかもよ、というネタの同人誌であって、
それをファーストガンダム本編で語ってたら、ある意味、ガンダムは成功してなかったと思う
富野メモについて私はよく知らないのだけど、あれも没案はボツになったから良かったんであって、
何らかの形で没案が通ってたら、やっぱりファーストガンダムは成功しなかったと思てる
色々偶然が重なったりもして、渋々没になったり変更したりしたのが、逆に功を奏してしまって、
というか、それ以外に思いつかないんだよな。
localhostが消えるとか、あまりに初歩的で致命的な不具合、今まで正しく動いていたところに発生する不具合は、ここ1、2年で経験がある。
というか、ここ1、2年にしか経験がない(もちろん主犯はおいらではない。居合わせただけ)。
これ。
あと、
サジェストによる書き換えが危険なのは、スコープ(フレーム)外での利用のされ方を AI が把握できない、部分(覗き穴/ピープホール)最適化しかできないと言う点と、こちらが本質的な問題なのだが、そこの処理の仕組み、文脈を理解してサジェストしているのではなく、学習元データで多く組み合わされているパターンを提示しているに過ぎない、と言う点だ。
これ、時間が経ってから致命的な事態を引き起こし、原因究明に手こずる原因になる可能性がとてもとてもとても高いのだよな。
レビューすると、「AIのサジェストがあったので」的な修正が入っていることがちょいちょいあるんだが、妥当でないサジェストを却下するだけの技術力がない場合、むしろLintとかパターンチェッカー的なのに留めておいた方が、思わぬ瑕疵を埋め込まずに済む。
できるエンジニア視点でも、スキャフォールドとして使おうとすると、細かく指定できそうで生成量が多いと見落としが発生しそうだし、確実なテンプレートで十分じゃん? という気しかしない。開発が進んだ時点では、さらに使い所がない。なぜなら、「新しいものを作っている」ので、既存パターンが通用しないことが多いから。
AIの生成「量」が圧倒的なのは確かなんだが、このレベルのコーディング能力を「神」と考えるレベルのエンジニアからは実質制御不能で、これを使役できるレベルのエンジニアからは低能中途半端すぎて役に立たない、ってのが、呪術廻戦の摩虎羅やな、と感じる。
例えば絵の自動生成なら、登場人物の一人の指が6本になってようが、この線はどこに繋がってるんだ? とか、この漢字はなんだ? みたいなものが混じってようが、ぱっと見気づかないし、見直しておかしいのに気づいても、大勢に影響はしない。
けど、システムの場合、下手すりゃ1ビットで致死的障害を発生させてしまったりする。
その違い、ヤバさを理解できてないエンジニアがこんなにゾロゾロと存在する、という現実に絶望する。
加えて、「マジかよ……」ってなるのが、「既存のテストがないから、AI で追加してカバレッジをあげた」ってドヤ顔で語るエンジニア。
なんて言うか、なんとなく良さげなテストを理解しないでなんとなくマージしてるんだけど、何をテストしなきゃいけないか理解しないで、現状のコードを追認するだけだったりする。
それで必要十分かちゃんと検討できるだけの技術力がないと、「命綱、巻きつけたよー」と言いつつ、その命綱が宙に垂れてるのに気づいてない、って状態になってたりするんだよね。
で、不具合が表面化したら、それ用のスペシャライズドな監視の仕組みを追加して、手動テストを追加して、不具合が発生したら本番DBに接続して手動で修正するって、そんなのが日を追うごとにどんどん増えていって、仕事の大半が不具合対応、ってうんこみたいな現場があちこちで爆誕してるんよ。
でも、どのエンジニアも、自分たちの現場が異常であることに気づくだけの技術力がなくて、毎日みんなで奴隷が回している謎の棒を回し続け、経営者は、なぜこんなにエンジニアの数が必要で、お金が湯水のように浪費されているか理解できなくて、ストレスを溜めまくってる。
気づいた人はとっくにやめてるから。
炎上してないけど、針の筵だよね。
一昨日実写版の秒速5センチメートルを観に行った
あの頃のお前はまだダメになりそうな感じあったじゃねえか
俺だってアニメの頃から貴樹には大丈夫であって欲しかったけど、実写版のお前は大丈夫過ぎる
農業やるくらいで親やその他登場人物へ慈悲の心とか持つんじゃねえよ
ちょっと前は洒落てたけどSAKEROCKの香りがちゃんと残ってたじゃねえか
直近のアルバムはもうただのオシャだろ
カローラ高すぎるんだよ
買えねぇよ
物価高の波に乗ってるんじゃねえよ
二桁万円だっただろ、お前
他にも思いついたら追加する
いざおちんちん握ると、我慢できなくてエロシーンまで飛ばしてまう
で致した後は、なんかその先まで読む気力が無くなってしまう
俺、アリババ。シルクロードの反対側の異国情緒あふれる字面だけど、親がキラキラネームつけただけの、名前がちゃんと漢字で書ける28歳の日本男児だ。ちなみに、最近は楽天とか尼存など漢字2文字の名前が流行っている。
俺が遣唐使の1人として踏んだ大陸の地に、村を荒らす46人の盗賊団(乃木坂)の首領Fidoの電磁的な魔の手が迫った。そこで俺は急遽、うまいと噂の職人のピザ屋にピザを重複注文した上で、遣唐使の使命を終え、ピザを受けとらずに帰国した。いま最先端の学問、仏教学(禅専攻)を修めたからだ。知見を生かして、自己啓発の市場をターゲットに、現在コンサルタントの見習いをしている。
俺も登場人物の1人らしいのだが、詳しいことは直接には知らない。対Fidoのピザ屋連盟らしいが、ポストバベルの塔状態で、私利に走って統一感に欠けるらしい。
これは村の話で対乃木坂の戦線だ。村人の大半はこれに無自覚だろうと思う。
西部戦線と東部戦線をリンクさせることでFidoを追い詰める作戦らしいのだが、俺には関わりないことなので、早く平和な状態にしたい。俺は博愛的な平和主義者なのだ。そこで、俺は亜米利加のドナルドトランプ氏も顔負けの和平仲介者として奔走した。西部戦線を、IL(イスラエルとレバント)とUA(ウクライナとアングロサクソン)の二つに分け、Fidoが技術上劣勢のIL方面で手打ち式の運びとなった。これには6月の爆撃がFidoの心を強く和平へと後押ししたらしいが、俺もFidoに村で会うたびに禅問答をもちかけ「その心は?」と問うた。Fidoは仏教博士ではないし俗物なので一見馬の耳に念仏だが、盗賊のくせに教養があるかそう見せたい男なので効果はあったと思う。
もっとも、Fidoが規約違反をすればいつでも和平は反故になる虞があり、Fidoを仕留めたいかより譲歩を引き出したいが単独ではそれができないUA方面の作戦司令部はそれを扇動する動機がある。
実は、ピザのただ食いの科でFidoを取り締まりたいと「ブリタニカ」を名乗るピザ屋から電話があったのだが、この遣唐使の時代にブリタニカが国の体をなしているか俺の知識ではわからず留守電に返事をしないでいた。するとなにかと俺にちょっかいをかけてくるので、俺はFSET Securityという盗賊除けのソフトを導入した。
「ブリタニカ」は東部戦線を攻略してFidoに圧力をかけようと村にエージェントを展開し、村の溜まり場である居酒屋で宣伝工作を仕掛けている。
1人、日本人で名前が不詳なのでここではチャーリーと呼んでおこう。彼は頭がよく金持ちで見た目もセンスもいいので、村人の1人、田中花子の射倖心をくすぐった模様だ。花子はその昔、ブランド品に興味はなく金がかからない女ですよと公言していたが、実は男に関してはブランドものが好きなのだ。もっとも、急いで付け加えるが、ここで俺は花子の悪口を言うつもりはまったくない。花子も本性では村思いのいい人で、ただ資本主義的な欲があって悟りを得ないだけである。それにFidoを村で牽制するにあたり、花子の勇気と協力には感謝と尊敬をしている。花子や一部の高年齢層の村人たちはこの頃とんと見かけなくなったが、NHK chやツ痛ァー等で策動しているものと思われる。ただし、貴族趣味のチャーリーはヒエログリフの読めない庶民の村人にはまだ浸透できていないようだ。
もう1人、これはエージェントではない独立の戦士で村人の、木村本子がいる。本子は骨のある正義の人なのだが、最近静かになり、残念ながら俺は彼女の動きを把握できていない。おそらく、村の安全保障についてFidoと個別に話をつけたものと思われる。
昨今では村人の間で自警団を組織しようとする人も現れてきたようだが、まだ人々の意思を統一できるに至ってはいない。
続報はない。
話はまだまだ続く