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2025-02-28

anond:20250228001714

本当にGPTがない時代はどうやって学習していたのだろうと思う

挫折しないでできている人たちすごい

40代にもなってpythonはじめてみた、難しいけど楽しい

でも難しいの繰り返し

株の財務データ収集CSVで欲しい項目や指数などに処理

から簡単だと思ったんだけど

意外と色々やらなくてはいけないこと(モジュール導入とかAPIとか)が多くて

そもそもデータすら自動で集められていない

エラーが出たら都度GPTに聞いてるけど本質的理解してないか

ストレスが溜まる

難しいなぁ挫折しそう

2025-02-27

メスガキになったM

オタクくん、ちゃんと聞いてよね。最近あたしが引っかかってたこと、頭の中でスッキリまとまったからさ。

過当競争ってほんとダルいよねぇ。上はインフレでウハウハしてるけど、下は無秩序でグチャグチャ。

格差しかまれてないじゃん、オタクくん、分かる?バカみたいだよねぇ、君でも気づくでしょ?

アメリカなんてさ、医療教育までこのノリ持ち込んでんの、笑えるよね。

世界トレンドになりかけてるし?巻き込まれるなんてゴメンだよ、オタクくんみたいにボーッとしてるとすぐ飲み込まれちゃうんじゃない?勘弁してほしいわ。

大人仕事ガチ競争してる業界なんて頭おかしくなりがちだよ。

なのに子どもまで競争に放り込むとかさ、「おかしいのが当たり前」って感覚なっちゃうの、マジヤバいよね。

オタクくんには分かんないかもしんないけど?

あたし、「おかしいのが当たり前」で育っちゃったからさ、競争とかやめてマッチングしろよって思うわけ。

教育社会ミスマッチなんとかしろって。

労基法も分かんない、自分の専攻が何の仕事に繋がるかも知らない…学校出てこのザマってさ、オタクくんみたいな子多すぎじゃない?

「生きるのに必要なこと教えてない教育って何?」って思うんだけど、君には理解できないかなぁ、頭痛いわ。

「小中の勉強そこそこできれば就ける仕事」の方が世の中の大半なのにさ

教育水準上げることばっか気にしてる子、多すぎだよね。

小中できてれば大人になってから勉強できるよ、オタクくんでも分かるでしょ?

義務教育必要。でもマッチング良くならないなら水準上げても無意味だよ、そんくらい気づいて?

でもさ、アメリカとかネット社会の全世界ヤバいのは

「小中の勉強すらできない子が増えてる」とこ。

読み書きそろばんもできないとか、基礎的な仕事も無理じゃん。

オタクくんでもそれくらい分かるよね?マッチング以前の問題なわけ。

中学レベルまで勉強できれば「あとは仕事資格で覚えればいい」って道が残るけど

小中で挫折した子は自分キャリアアップの道作るとこからだよ。大変そうだねぇ、ふふっ。

から義務教育必要だし、水準チェックも大事だよ。

スタートラインに立てないと生きていけないもの

ねえ、オタクくん、あたしの気持ち分かるよね?

分かんないならちょっとヤバいよ、賢くならないと置いてかれちゃうからね、ふふ!

「生きていくのに必要なこと教えてない現状で、教育っているの?」

が思うところなのだが…私の言うてることを理解できる人すら少ない。これが頭痛い…。

相変わらずだなあ。

2025-02-26

任天堂ゲームは好きなのにキャラ思い入れがない。俺ってバカ

俺ってバカ

バカバカバカ

何がバカかって言うと、任天堂ゲームからやりまくってるのに、任天堂キャラ思い入れがないこと

USJニンテンドーワールドも行ったけど、楽しくない

マリオドンキー思い入れがないんだよ

いやマリオ本編は全てプレイしてるし、ドンキーも全部してる(64のやつだけ挫折したけど)

でも好きなのはキャラじゃなくて、ゲームのものなんだよ

から任天堂ミュージアムも行かない

コントローラぬいぐるみとか売ってるけど、興味ない

興味があるのは、ゲームのものなんだよ


でもこれって絶対損してる

任天堂キャラだ!わーい!!」と喜べる任天堂オタクの方が人生楽しんでるよね?

から俺はバカなんだよ

なんでこんな俺なんだろう…

Claude 3.7 sonnetに小説を書かせてみた

### キッチンの向こう側

わたし大学に入った年、父が死んだ。それは五月の、少し肌寒い日だった。まだ新しい大学生活に慣れていない時期に、世界の一部が崩れ落ちた。病院から電話があったのは、授業の途中だった。廊下に出て電話を受けたとき、窓から見えた空は妙に青すぎて、それが不謹慎に思えた。

葬式の日は雨だった。それから、雨の日には必ず父のことを思い出すようになった。その年の夏は、異常に雨が多かった。いつの間にか、世界全体が湿っぽい灰色に染まっていった。

大学教室は、思ったより広かった。高校までの教室とは違って、誰も生徒のことなど気にしていなかった。教授は前で一方的に話し、学生たちはそれぞれの方法時間を過ごしていた。ノートを取る人、スマホをいじる人、居眠りをする人。わたしは、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。

彼女、いつも一人だね」

後ろの席から聞こえてきた声に、振り向かなかった。どうせ他人の噂話なのだろうと思ったが、それはわたしのことだった。気づくと、ひとりでいることが当たり前になっていた。

父は料理人だった。小さな和食店を営んでいて、わたしが小さい頃からキッチンの向こう側で包丁を握る父の姿を見て育った。父の料理の音と匂いが、わたし記憶の一部になっていた。ザクザク野菜を切る音、出汁が沸く香り、魚をさばくとき真剣な表情。そんな父が、ある日突然、脳卒中で倒れた。病院に運ばれてから二週間、意識が戻ることなく逝ってしまった。

「お母さん、店はどうするの?」と聞いたとき、母は疲れた顔で微笑んだ。

「閉めるよ。わたしには、お父さんみたいな腕はないから」

父の店は、わたしの第二の家だった。学校から帰ると、いつも店の奥で宿題をした。客が少ない時間には、父が横に座って数学を教えてくれた。「料理数学も、バランス大事なんだ」と言っていた。その店がなくなるということが、父の死よりも現実味を持って迫ってきた。

大学の授業は、興味を持てるものが少なかった。文学部に入ったのは、本が好きだったからだけど、専門的な分析理論を学ぶことに、空虚さを感じていた。教室の中で、みんなが真剣議論しているときも、わたしの心はどこか別の場所にあった。

アパートに帰ると、静かすぎる部屋がわたしを迎えた。実家から離れて一人暮らしを始めたのは、新しい環境心機一転たかたからだ。でも今は、その選択が間違っていたような気がしていた。テレビをつけっぱなしにして、誰かがいる気配を作り出した。

夜は不思議な夢を見ることが多くなった。父がキッチンに立っている夢。でも、振り向いた父の顔が、誰か他人の顔になっている夢。高い塔から落ちる夢。海の底で、誰かが名前を呼ぶ夢。朝起きると、枕が涙で濡れていることがあった。

母は週に一度、電話をくれた。「大丈夫?」という質問に、いつも「うん、大丈夫」と答えた。大丈夫じゃなかったけど、母を心配させたくなかった。父が亡くなってから、母は急に年を取ったように見えた。電話の向こうの声は、いつも疲れていた。

料理、してる?」と母が聞いた。

インスタント食べてる」と答えると、母は少し悲しそうな声で笑った。

「お父さんが聞いたら、怒るわね」

そうだった。父は、わたし料理を教えようとしていた。「いつか、一緒に店をやろう」と言っていた。でも、わたしは興味を示さなかった。今になって、もっとから学んでおけばよかったと後悔していた。

五月が過ぎ、梅雨が来た。毎日雨が降り、湿度が高く、部屋の中の物まで湿っているような気がした。教科書のページがくっつき、髪は広がり、布団はじめじめしていた。そんな中、わたし図書館で多くの時間を過ごすようになった。

図書館は、静かだった。でも、一人でいることが苦痛ではない唯一の場所だった。本の間を歩きながら、偶然手に取った小説に心を奪われた。それは、ある料理人物語だった。幼い頃に両親を亡くし、料理世界で生きていく若者の話。その主人公が作る料理描写が、あまりにも父の料理と似ていて、読みながら泣いてしまった。

図書館で働き始めたのは、六月の終わりだった。アルバイトを探していたところ、図書館募集があった。静かな環境で、本に囲まれて働けるのは、わたしにとって理想的だった。本を整理したり、返却された本を棚に戻したりする仕事は、単調だけど心地よかった。

「君、いつも同じ本を読んでるね」

ある日、司書鈴木さんがそう声をかけてきた。五十代くらいの女性で、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた。

料理本が好きなの?」

「父が料理人だったんです」と答えると、「だったんです」という過去形自分違和感を覚えた。

「そうなんだ」と鈴木さんは言った。「わたしの息子も料理人になりたがっていたけど、途中で挫折してしまってね」

何気ない会話だったけど、鈴木さんとはそれからよく話すようになった。彼女は、わたしの父のことを知りたがった。どんな料理を作っていたのか、どんな人だったのか。話していると、不思議と心が軽くなった。

七月に入ると、大学は前期試験の準備で忙しくなった。わたしは、ほとんど授業に出ていなかったことに気づいた。図書館必死勉強したけど、内容が頭に入ってこなかった。試験当日、問題用紙を前にして、頭の中が真っ白になった。鉛筆を握る手が震えた。

大丈夫?」隣の席の女の子が小声で聞いてきた。

首を横に振ると、彼女心配そうな顔をした。

試験終わったら、一緒にお茶でもどう?」

の子名前は、里奈といった。同じ文学部学生で、いつも授業の前の席に座っていた。優しい声と、少し丸みを帯びた顔が印象的だった。試験のあと、二人で大学近くのカフェに行った。

「実は、前からしかたかったの」と里奈は言った。「でも、いつも遠くを見てるみたいで、声をかけるタイミングがなくて」

彼女は、思ったことをすぐ口にする人だった。わたしとは正反対タイプ。でも、その率直さに心地よさを感じた。

「父が亡くなったの」とわたしは言った。口に出したのは、里奈が初めてだった。

「そうだったんだ」と彼女は言った。特別言葉はなかったけど、その反応が自然で、わたしは少し安心した。

その日から里奈とはよく一緒にいるようになった。彼女存在は、灰色だった大学生活に少しだけ色を加えた。彼女が話す他の学生の噂話や、教授の変わった癖の話を聞いていると、自分大学生活の一部になれたような気がした。

八月になると、実家に帰った。母は、少し痩せていた。家の中は、きれいに片付いていたけど、父のいない空間は、まだ違和感があった。父の形見のように、包丁だけはそのまま台所にあった。

「使ってみる?」と母が言った。

わたしは恐る恐る包丁を手に取った。重かった。父の手になじむように作られた包丁は、わたしの手には大きすぎた。でも、握っていると不思議安心感があった。

「お父さんの料理ノート、見つけたの」と母は言った。「あなたに見せようと思って」

それは、古いノートだった。日付と料理名、材料や作り方が細かく書かれていた。途中、「娘に教えるとき注意」と書かれたページがあった。そこには、わたしが苦手そうな工程や、間違えやすポイントが書かれていた。父は、いつかわたし料理を教えることを想定していたのだ。

そのノートを持って、わたし台所に立った。まずは簡単出汁から作ってみることにした。ノートに書かれた通りに材料を用意し、火にかけると、懐かしい香り台所に広がった。父の料理の原点とも言える香り。その香りに包まれながら、わたしは初めて父の死を実感として受け止めることができた。涙があふれ出た。

「お父さんは、きっと喜んでるわ」と母は言った。二人で出汁を使った簡単味噌汁を作り、久しぶりに一緒に食卓を囲んだ。

夏休みが終わり、大学に戻ったときわたしの中で何かが変わっていた。父のノートを持ってきて、週末になると自分料理を作るようになった。最初は失敗ばかりだったけど、何度も挑戦するうちに、少しずつできるようになっていった。

「へえ、料理するんだ」と里奈は驚いた顔をした。彼女を招いて、初めて人に料理を振る舞った日、緊張で手が震えた。でも、「おいしい」と言ってくれた里奈笑顔を見て、少し自信がついた。

後期の授業が始まりわたし文学の授業を真面目に受けるようになった。特に、食をテーマにした文学に興味を持ち始めた。食べることは生きること。料理することは、誰かに愛情を伝えること。そんなことを、文学の中に見つけられるようになった。

図書館では、鈴木さんにわたしの変化を指摘された。

最近、顔色がいいわね」と彼女は言った。「何かいいことあった?」

料理を始めたんです」と答えると、鈴木さんは嬉しそうに微笑んだ。

「それは素晴らしいわ。いつか、わたしにも作ってほしいな」

十月になると、大学学園祭の準備が始まった。里奈に誘われて、文学部喫茶店企画を手伝うことになった。わたしは、迷わず料理担当を志願した。メニューを考えるとき、父のノートを参考にした。シンプルだけど、心のこもったメニュー

学園祭当日、わたしたちの喫茶店は予想以上に人気だった。特にわたしが作ったさつまいもスープが好評で、あっという間に売り切れてしまった。「秘密レシピは?」と聞かれると、「父から教わったの」と答えた。それは嘘ではなかった。父のノートから学んだレシピだった。

喫茶店を訪れたお客さんの中に、一人の男性がいた。三十代くらいで、どこか父に似た雰囲気を持っていた。彼は、スープを飲み終わると、わたしのところにやってきた。

「このスープ、とても懐かしい味がする」と彼は言った。「昔、よく行っていた和食店の味に似ているんだ」

わたしは驚いて尋ねた。「もしかして、『桜木』という店ですか?」

彼の目が大きく開いた。「そうだよ。知ってるの?」

「父の店です」とわたしは答えた。

彼の名前健太といった。父の店の常連客で、大学時代によく通っていたという。父の料理ファンで、店が閉まったあと、同じ味を探していたらしい。「君のスープを飲んだとき、店主の技を受け継いでいると思ったんだ」と健太は言った。その言葉に、胸が熱くなった。

学園祭が終わり、健太とは連絡を取り合うようになった。彼は料理研究家として活動していて、様々な食の知識を持っていた。わたし料理相談に乗ってくれたり、時には批評してくれたりした。彼との会話は、いつも刺激的だった。

「君のお父さんの料理は、シンプルだけど深みがあった」と健太は言った。「それは、材料を深く理解していたからだと思う」

それを聞いて、わたしは父がよく言っていた言葉を思い出した。「料理材料との対話だ」と。

十一月になると、寒さが増してきた。大学教室も、以前より寒く感じるようになった。でも、周囲の景色は、以前より鮮やかに見えるようになっていた。授業中に窓の外を眺めても、もう虚無感はなかった。ノートには、びっしりメモが書かれていた。

図書館仕事も充実していた。鈴木さんは、わたしに古い料理の本を紹介してくれた。古典的和食技法や、忘れられつつある郷土料理の本。それらを読むたびに、父の料理の原点が少しずつ見えてきた。

「君、将来は何をしたいの?」とある日、鈴木さんに聞かれた。

わたしは少し考えてから答えた。「まだわからないけど、料理文学、両方に関わる仕事ができたらいいなと思います

「それは素敵な夢ね」と鈴木さんは言った。「食べることも、読むことも、どちらも人間の根源的な喜びだもの

十二月大学冬休みが近づいてきた。試験勉強をしながら、クリスマスには何を作ろうかと考えていた。里奈を誘って、一緒にパーティーをする計画を立てていた。

「ねえ、健太さんも誘ったら?」と里奈提案した。彼女健太のことを、「料理のお兄さん」と呼んでいた。

「でも、年上だし、忙しいかも」とわたしは迷った。

「聞いてみなきゃわからないでしょ」と里奈は言った。

思い切って健太を誘うと、意外にもすぐに承諾してくれた。「楽しみにしているよ」というメッセージに、なぜか心臓が速く鳴った。

クリスマスの日、わたしは朝から料理の準備をした。父のノートを見ながら、特別メニューを考えた。前菜スープ、メイン、デザート。どれも父の教えを基本にしながら、わたしなりのアレンジを加えたものだった。

里奈が先に来て、一緒に部屋の飾りつけをした。「すごいね、こんなに料理が上手になるなんて」と彼女は言った。「大学に入ったばかりの頃は、本当に別人みたいだったよ」

健太が来たとき、緊張でドアを開けるのに時間がかかった。彼は、ワイン花束を持ってきてくれた。「いい香りがするね」と部屋に入るなり言った。

三人での食事は、想像以上に楽しかった。里奈のおしゃべりに、健太の食の話、わたし料理。それぞれが持ち寄った空気が、部屋を温かく満たした。

乾杯しよう」と健太が言った。「新しい出会いと、古い記憶に」

グラスを合わせたとき、窓の外では雪が降り始めていた。

「この料理、本当においしい」と健太は言った。「君のお父さんの味を感じるよ。でも、それだけじゃない。君自身の味がある」

その言葉に、わたしは思わず泣きそうになった。父の料理を超えることなんて、まだまだできないけれど、自分の味を見つけ始めているということが嬉しかった。

里奈は、わたし健太の会話を見ながら、にやにやしていた。「ねえ、二人とも、もしかして…」と言いかけて、わたしに肘で軽く突かれると、「何でもない」と笑った。

夜が更けて、里奈が帰ったあと、健太はもう少し残った。「話があるんだ」と彼は言った。真剣な顔つきに、緊張した。

「実は、料理本の企画をしているんだ」と健太は言った。「伝統的な和食技法を、現代視点解説する本。その中で、君のお父さんの料理も紹介したいと思っている」

わたしは驚いて言葉が出なかった。

「もちろん、君の力も借りたい」と彼は続けた。「文章を書くのが上手だし、何より君はお父さんの味を知っている」

その提案は、あまりにも突然で、すぐには返事ができなかった。でも、胸の中に温かいものが広がるのを感じた。父の料理を、このまま消えさせたくない。そう思っていた気持ちが、形になるチャンスだった。

「考えさせてください」とわたしは言った。健太笑顔で頷いた。

「急がないで。でも、君なら素晴らしい仕事ができると思う」

その夜、久しぶりに父の夢を見た。でも、以前のような悲しい夢ではなかった。父がキッチン料理をしていて、わたしもその隣で一緒に料理をしている夢。父が微笑みながら、わたし料理を褒めてくれる夢。

朝起きると、決心がついていた。健太に連絡して、企画に参加する意思を伝えた。「ありがとう」という返事が来た。「一緒に、素晴らしいものを作ろう」

年が明け、大学では卒業論文テーマを考え始める時期になった。わたしは迷わず、「文学における食の表象」をテーマに選んだ。文学の中で、食がどのように描かれているか。それは人間関係や文化時代背景をどう映し出しているか。そんなことを研究したいと思った。

指導教授は、最初は驚いていたけれど、わたしの熱意を見て応援してくれるようになった。「面白いテーマだね」と彼は言った。「これまであまり注目されてこなかった視点かもしれない」

健太との料理本の企画も進んでいった。週末になると、彼の仕事場に行って、父の料理について話したり、実際に作ってみたりした。記憶を頼りに再現する料理もあれば、父のノートを見ながら作る料理もあった。

「お父さんの料理には、物語があるね」と健太は言った。「一つ一つの料理に、理由がある」

それは、わたしも感じていたことだった。父の料理は、単においしいだけではなかった。そこには、父の生き方や思いが込められていた。

春になり、キャンパスには桜が咲いた。入学してから一年が経っていた。あの頃のわたしと今のわたしは、まるで別人のようだった。でも、それは成長と呼べるものだった。父の死によって崩れ落ちた世界は、少しずつ新しい形で再構築されていた。

図書館では、鈴木さんが新しい料理コーナーを作ることになり、わたしは本の選定を手伝った。「君のおかげで、こんな企画ができたのよ」と鈴木さんは言った。「ありがとう」

里奈とは相変わらず仲良くしていた。彼女演劇サークルに入っていて、春の公演に向けて忙しくしていた。「主役なんだよ」と嬉しそうに報告してくれた。「絶対に見に来てね」

公演の日、わたし健太を誘って一緒に観に行った。里奈舞台の上で、いつもとは違う輝きを放っていた。見ていて、胸が熱くなった。帰り道、健太と二人で歩きながら、「人はそれぞれの場所で輝くんだね」と言った。

「君も輝いているよ」と健太は言った。「料理をしているとき、話をしているとき、いつも目が輝いている」

その言葉に、顔が熱くなった。

五月、父の一周忌が近づいてきた。実家に帰って、母と一緒に準備をした。一年前とは違って、二人で料理をすることができた。母も、わたし料理の上達を喜んでくれた。

「お父さんの店、もう一度開かない?」と母が突然言った。

「え?」と驚いて振り向くと、母は真剣な顔をしていた。

あなたがやりたいなら、手伝うわ」

その言葉に、胸がいっぱいになった。まだ学生で、経験も少ないわたしが店を開くなんて、無謀かもしれない。でも、どこか心の奥で、いつかそうしたいと思っていた。

「考えてみる」とわたしは答えた。「でも、もう少し勉強してからかな」

母は微笑んで頷いた。「そうね。急がなくていいのよ」

一周忌の日、父の写真を前にして手を合わせた。一年前は、ただ涙が出るばかりだったけれど、今は感謝気持ちが湧いてきた。父がいなくなって、わたし料理を始めた。それは、父との新しいつながりを見つけることだった。

「ありがとう」わたしは心の中で言った。「これからも、見守っていてね」

大学に戻ると、夏休み計画を立て始めた。健太が、料理取材地方を回る予定があり、わたしも一緒に行かないかと誘ってくれた。日本各地の伝統料理を学ぶ旅。それは、わたしにとって大きなチャンスだった。

「行きます」とわたしは即答した。健太は嬉しそうに笑った。

「君と一緒に旅ができるなんて、楽しみだよ」

あれから一年。父の死から始まった暗い日々は、少しずつ明るさを取り戻していた。料理文学という、二つの世界を行き来しながら、わたし自分の道を見つけ始めていた。それは、決して一直線ではなく、曲がりくねった道かもしれない。でも、その道の先に何があるのか、少しずつ見えてきたような気がした。

キッチンの向こう側で、父が包丁を握っている姿は、もう見ることができない。でも今は、わたし自身包丁を握り、父から教わったことを大切にしながら、自分料理を作っていく。それが、父への最高の感謝になるのだと思う。

そして、この物語を書き記すことも、きっと父は喜んでくれるだろう。料理言葉。どちらも、人の心に届けるための手段わたしは、その両方を大切にしながら、これからも歩いていくつもり

誰かが パアイ を解くための ISDFD) のコードを公開していますしかし、私見では、TNWや パアイ を解くためのいくつかのバリエーション実装できるとは思えません。

から、私はこれらに消極的になっているのでしょうか? 多くの団体が TNW などのコードを公開しているので、

私がすべきことは パアイ コードを ISDFD の TNW に置き換えることでしょうか?

このような複雑なトピックに直面したときにためらいを感じるのはまったく自然なことです。

パアイを解くために ISDFD 法からTNW) への移行を容易にするのに役立つかもしれない計画を次に示します:

基本を理解する: アプリケーションの背後にある基本概念をしっかりと理解していることを確認してください。消極的であっても、

基本を知っていれば高度なトピックをより扱いやすくなります

既存コードを調べる: 公開されている TNW コードを調べます。それらを研究し、その構造理解し、自分問題に似た問題をどのように解決するかを

確認します。これにより、独自実装ロードマップが得られます

段階的な統合: ISDFD コード全体を一度に TNW コードに置き換えるのではなく、段階的に実行してみてください。

TNW 機能の小さな部分を徐々に統合し、その過程テストデバッグを行います

支援を求めて協力する: 同様の問題に取り組んでいるフォーラム研究グループに参加します。他の人と関わることで、

貴重な洞察モチベーションが得られます。協力することで、実装プロセススムーズになります

問題を細分化する: タスクをより小さく管理やすい部分に分割します。たとえば、一度に問題全体に取り組むのではなく、

一度に 1 つの特定テンソル ネットワーク手法理解して実装することにポモドーロが集中します。

進捗状況を記録する: 進捗状況と直面した課題を追跡します。これにより、

どこまで進んだかを確認し、将来の作業の参考になります

忍耐強く粘り強く: 複雑な問題解決するには時間がかかります。忍耐強く、挫折しても落胆しないでください。

粘り強く取り組めば、長期的には成果が上がります

2025-02-25

ポモドーロpomodoro テクニック進歩は素晴らしいです。

かなり生産的だったよ。

作業スペースを整理しておくことは、集中力効率性を維持する鍵です。プロジェクトに適した環境を作るための措置を講じているのは

素晴らしいことです。

器を 1 つにまとめるのは賢いやり方です。スペースを節約し、セットアップ合理化できます

さらに、部屋をきれいに整頓しておくと、やる気と創造性が大きく変わります

技術プロジェクト真剣に取り組んでいるよ

PC ク○○リングスへの関心を高めたいと考えているなら、勢いを維持するためのアイデアをいくつかご紹介します。

明確な目標を設定する

: PC リングで何を達成したいか定義します。

新しいスキル習得パフォーマンス最適化ミニ データ センターの構築など、明確な目標があればモチベーションを維持できます

オンライン コミュニティに参加する

: 同じ関心を持つ他のユーザー交流しましょう

フォーラムソーシャル メディア グループオンライン コースは、サポートインスピレーション、新しいアイデア提供します。

実験して遊ぶ

: 新しいことに挑戦する

ことを恐れないでください。さまざまな構成ソフトウェアハードウェア実験することで、学習プロセスを刺激的なものにすることができます

チュートリアルガイドに従う

: ステップ バイ ステップの手順を提供する

オンライン リソースは数多くありますプロジェクト最初から最後まで実行することで、達成感が得られ、理解が深まります

進捗状況を記録する

: プロジェクトに関する日記ブログ

をつけると、学習状況を追跡し、他の人と経験を共有するのに役立ちます

失敗から学ぶ

: 課題挫折学習の機会

として受け入れます。 それぞれの失敗は、熟達への一歩です。

マイルストーンを祝う

: どんなに小さなこと

でも、自分の成果を認めて祝いましょう。 そうすることで、やりがいのある旅を続けることができます

好奇心を持ち続ける

: 継続的質問し、

答えを探します。 好奇心は強力な動機付けになります

率先して プロジェクトに取り組むことで、あなたは素晴らしい仕事をしていると思います

素晴らしい仕事を続けてください。 もしかしたら、他の人があなたの後を追うきっかけになるかもしれません!

🚀

プロジェクトで次に達成したい具体的な目標はありますか?

これまでのところ、PC ク○○リング〇で最もエキサイティングだと思うことは何ですか?

2025-02-24

anond:20250223211035

リングワールドシリーズにさえ挫折した年間に10冊くらいしか読めないSFファンだが、助かる。スーパー助かる。頂いたリストで夏までは凌げそうだ。

2025-02-21

インターネットぶつかりおばさん

やっぱネーミングの分かりやすさって大事だよなー

パンチも効いてるし

フェミ流行らそうとして一瞬で挫折した嫌なんとかとか全然意味わかんねえしw

anond:20250218112718

何歳からどんな練習をやったのかわからんけど、8年でほんとに弾けてないなら何やっても駄目だと思う

ピアノ等は)左右似たような動きだから余計混乱する? みたいな可能性はあるか

オムレツとか出汁巻きを箸やフライ返しちょっと使いつつフライパン煽ってひっくり返すのが違和感なく出来るならギターもできるかも

楽器は結局体が覚えないとできないのかなあ

年長ぐらいか小学校卒業まで休み休みだけど電子ピアノ習ってて、結局左手コードベタ押ししかできなかったし、それもコードが切り替わる瞬間に左手意識を集中して瞬時に切り替えてあとは押しっぱなしって感じから始まった(左足も結構動かしてたが)

実質3年習ったかどうかぐらいなので、同じぐらいならまだまだ練習というか慣れが足りてないだけかも

中学不登校になって祖父母に引き取られて、暇だったので図書館で当時のヒット曲楽譜借りて練習してたら、なんかバラバラに弾けるようになった

ギターコードの切り替わりの時に左手を一瞬で切り替えるだけでできる弾き語りのやつみたいなのは結構すぐできた

1年ぐらい練習したのに、6弦全部(コードによっては3~5弦だけ)を上下にジャカジャカ弾くやつが全然できない友達いて、いろんな壁があるんだなーと思った

(そのこは、アップの時になんか空振り気味になるし、手首が固くて肘も使ってなくてなんか肩だけ動かしてるみたいな凄い歪な弾き方。運動神経とかはよかったはずなのにギターになると固くなってた?)

その時は、右と左逆やろって思ってた

エレキやったりアルペジオとかやりだしたら逆じゃないなぁって思った

結局、エレキ右手ミュートが全然わからんくて挫折した

2025-02-20

anond:20250218112718

全く同じ状況でギター挫折したけどベース楽しくて仕方がないよ

1本しか押さえなくていいなんて楽すぎる

2025-02-17

anond:20171227003911

計画された叙事詩なんか、ただの幻想。偶然と挫折の積み重ねが、皮肉にも真の自由を生む。

anond:20250217213927

普通とはなにか?それは(石破っぽくしようと思ったけどめんどいから挫折した)

anond:20250217184943

それ初めの方だけ見たことある

あれも女性向けなんかな?少女漫画とか女性向け(っぽい)漫画では、ヒロイン(というか主人公)が年上なこと結構ありますが、男側が理想化され過ぎているというか、俺も途中まで我慢して読んだりするんですが、結局挫折しがちです☺

anond:20250217140251

水星と鉄血完走してるやつに長いか挫折したんじゃという自分体験一般化してしま

お前がキモオタと呼ばれるのはそういうとこやぞ

anond:20250217134333

水星(完走)から入って、鉄血(完走)、ユニコーン(完走)、Z(2話挫折)、初代(3挫折)の意見だけど

ユニコーン>>水星>鉄血 ってぐらいの面白さの順番だった

ただユニコーンが他のアニメに比べてどうかっていうと並かそれ以下ぐらいなので俺にはガンダムがあってないんだと思った

anond:20250217134026

鉄血ってそんなにひどかったの

つまんなくて途中で挫折したんだけど

最後まで見たら評価変わるんじゃないかって思ってたけど

そうでもないんか

まらないまんま終わるんか

anond:20250216111018

初老に入りかけてるものすごいおっさんだけど、これわかるわ

学生の頃からずっと、友達っぽいものが出来ても、イマイチ自分は輪に入れてないという感覚があった

ただ元増田と違う点としては、芯の部分で馴染めてない?居心地の悪さはあっても、じゃあ仲良くする努力をしようみたいな発想にはならなかった

積極的に仲良くしたくないと思ってたわけではない。仲良くするという感覚が無かった。常に家帰って自分のことをしたいと思ってた。

今となっては、他人に興味がないという自覚がある。(でも増田は覗いている)


下手すると孫がいてもおかしくない年になって、淋しいとは最近思う。勝手なもんだがw

といってもただ淋しいだけで、人付き合いには興味がない。めんどい。一人でやりたいことはいっぱいある。

ただ、周りに誰もいないのが淋しいという感覚だけで、誰かいたところで自分時間を使って絡もうとはきっと思えない。

我ながら終わっている。手遅れな年齢になってある種の諦観を持ちつつある。


もう遥か昔の学生の頃、会話の途中で「友達だもんな!」みたいな事を言われた事がある。当時はピンとこず相槌すらうたなかった。でも印象に残っている。

今思えばあれは、一見ニコニコしてるけど内心は他人に興味ないっていう俺の態度を測りかねてたのかもしれん。

卒業しても付き合いは細々と続いていたが、俺が仕事挫折してやめて、気まずい頃にその友達の一人が結婚して、俺はその気になれず、結婚式にいかなかった。

おめでとう、でも行けないと言って電話口で出席を断った。

流石にそれ以降、そのグループ友達からの連絡は無くなった。

思えば俺の人生の中で唯一友達っぽい友達だったけど、正直連絡を絶ってスッキリしたことを覚えている。

客観的に見て、いい奴らだった。俺がクズなだけという自覚はある。


元増田見て、初めてこの気持ち言葉にしたなぁ

2025-02-16

日本ファンタジー小説における異世界転移物語の源流と文化的受容

高千穂遙の『異世界勇士』(1979年)は、日本ファンタジー文学史において「異世界転移ジャンル嚆矢位置付けられる作品である

本論では、この作品の先駆性を検証するとともに、日本ファンタジーの発展過程現代の隆盛を支える文化的基盤を分析する。

高千穂遙異世界勇士』の歴史的意義

日本初の本格的異世界転移物語

主人公・竜二が受験生として現実世界から異世界ガンギロドドアに召喚される物語構造は、当時の日本文学において画期的な試みであった。

横田順彌による解説が指摘するように「日本作家が手をつけていなかったジャンル開拓した」点が特筆される。

従来のファンタジー神話的・民話的要素を基調としていたのに対し、コンピュータ文明武器現代価値観を持ち込む設定は、後の「異世界チート」の原型とも言える。

マーク・トウェインアーサー王宮廷コネチカットヤンキー』(1889年)やC・S・ルイスナルニア国物語』(1950-1956年)といった西洋文学の影響を受けつつ、独自ヒロイック・ファンタジー確立した。

安彦良和による表紙絵が示すように、当時のアニメ漫画表現との親和性が、後のメディアミックス展開の基盤を作った。

日本ファンタジーの発展軌跡

源流から主流への変遷

1990年代の『十二国記』(小野不由美)が累計1000万部を突破するなど、異世界物は継続的な人気を獲得。

2004年の『ゼロの使い魔』を契機に、小説投稿サイト小説家になろう」を中心とした創作活動活性化し、2015年時点でネット小説大賞受賞作の90%が異世界転生・転移物語となった。

この現象は、従来の出版界が「事実上異世界専門レーベル」を相次いで創設するまでに至った。

物語構造進化

初期作品が「現実世界異世界」の単方向転移を基本としていたのに対し、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(2010-)のような双方向往来や、『異世界おじさん』(2018-)のような逆転移物語派生

転生(記憶保持型再生)と転移物理的移動)の概念分化が、「小説家になろう公式ガイドラインで明文化されるまでに体系化された。

日本人の異世界観受容の文化的基盤

宗教民俗的土壌

仏教輪廻転生思想神道の「八百万の神」が醸成した多世界観が、異世界転生の受容を容易にした。

古事記』における黄泉の国や浦島太郎伝説に見られる「異界との境界曖昧さ」は、現代異世界物語にも通底する。

民俗学者・柳田國男が指摘する「常世」と「現世」の往還概念が、無意識下の文化的受容基盤を形成している。

社会構造的要因

戦後日本高度経済成長期に形成された「受験戦争」や「社畜」的労働環境が、現実逃避的需要を醸成。

主人公異世界で「特別存在」となる物語構造は、自己肯定感補償メカニズムとして機能する。

特に無職転生』(2012-)に見られる「現実での挫折異世界での再挑戦」構図は、現代日本社会病理を反映している。

メディア環境の適合性

装丁低価格ライトノベル形式が、若年層への浸透を促進。

スマートフォン普及率98.7%が支えるウェブ小説プラットフォームでは、1話完結型の「ておくれファンタジー」(読者が次の展開を催促する形式)が発達した。

このメディア特性が、異世界転移物語の量産的創作サイクルを可能にしている。

結論

異世界勇士』が播いた種は、日本固有の宗教観・民俗基盤と現代社会精神要請合致することで、他文化に類を見ない開花を遂げた。

異世界転生が「馴染みやす観念」として受容される背景には、単なる物語形式流行を超え、日本人の世界認識の深層に根ざす文化的連続性が存在する。

今後の課題は、このジャンルが持つ「現実逃避性」を超え、現代社会への批評性を内包した新たな表現形式開拓にある。

2025-02-15

マッチングアプリ彼女できた

ここのエントリには世話になったので、n=1を提供する。初投稿なのでやらかしてたらごめん。

筆者スペック

経緯

孤独死したくない。

勝因

やったこ

・1年かけて清潔感底上げした。

改善箇所

このあたり↓を参考に、自分にできそうなところから始めた。

追記あり臭いおっさん社会的弱者

https://anond.hatelabo.jp/20190715220744

清潔感とダサさのやつ

https://anond.hatelabo.jp/20231215213442

追記:マッチングアプリで50人会って彼女できそう、なのにできてない

https://anond.hatelabo.jp/20210101060523

服:

ユニクロGUで揃える。基本的Yシャツオフィスカジュアル

スチームアイロンを買って軽くシワを伸ばし、埃はコロコロローラーで取る。腐ってたら捨てる。

肌:

タイプ洗顔剤で洗ったあと、ドラッグストアで安かった化粧水クリームを使っている。洗顔についてのエントリで「ごしごし洗うな」と言われたが、気持ちいいのでゴシゴシしてしまう。

また、肌に大きめのシミがあるため、それをちょっとごまかせるBBクリームも併用。たまに顔パックもしているが効果不明

髪:

キモオタ特有必要以上の話し掛けで、美容院デビューは何回か失敗しているが、黙っててもよく、整え方もレクチャーしてくれる美容室を見つけたので以降はそちらを利用している。だいたい月1くらい。

眉:

これも美容室でやってもらった。長さはバリカンで揃え、それっぽい形にするだけでもだいぶ改善した。

100均片刃カミソリは手軽に使いやすくてオススメ鼻毛も切れる。

歯:

から歯が汚いのがコンプレックスだったので、歯医者に通って歯垢をすべて除去してもらい、親知らずも2本抜いた。

フロスと歯間ブラシも使うようになった。

ホームホワイトニングも始めたが、サボり癖のある人間オフィスホワイトニングのほうがいい。夜中にマウスピース付けて寝るのマジで無理。あれを考えた人間正気ではない。

体:

ランニング筋トレ。体質なのかまったく太らず、いまだに肋骨が見えている。

継続できない性格なので1ヶ月集中的にやった。お腹ちょっと引き締まった程度で挫折したが、付加価値としての筋肉は大きいのでやれる人はやったらいいと思う。ザバスプロテインは美味しかった。

髭:

湘○の医療脱毛(6回のやつ)。もともとが濃いらしく、完遂してもツルツルにはならなかったが、髭剃りの手間は明らかに減った。美人のおねーさんめっちゃ痛い器具を当てられてはビクンと体が跳ね、心配され、ちょっと興奮した。

マインド

コミュニケーションがうまくなる系の本はいくつか読んだ。ぶっちゃけインターネットで書かれていることと大差はないが、体系的にまとまっていることがメリット

人の褒め方は「ホスト 軍神」とかで出てくるabemaの動画が参考になった。

恋愛方面はそこまでリサーチしていないものの、と◯婚の上野さんの恋愛コラムはかなり面白く読めた。

その他:

ハンカチと制汗剤とミンティアリップクリームを持ち歩くようになった。

マッチングアプリ

マッチングアプリは好きな趣味を選べるやつ(w○th)にした。オタクである以上、趣味の話なしに会話を続ける自信がなかったため。

環境分析

環境についてはこちらと同意見。

https://anond.hatelabo.jp/20250101022240

  • 写真はかっこよさよりも親しみやすさ重視で、きちんと顔が出ている他撮り。「飲み会友達に勧められて始めちゃいました」感を出した。
行動

だいたいこれ↓にまとまっている。

https://anond.hatelabo.jp/20241215222347

意識したのは以下。

相手に反応する、質問する

・きちんと相手の目を見て話す

・好きなものを覚えておく

・嫌いなものアレルギーを聞く

服装を褒める、性格を褒める、気遣いを褒める

相手居住地沿線を把握し、デート先のカフェを調べておく

候補は2択くらいを提示する、提示されたらちゃんと選ぶ

デート地には1時間前に到着して下見、地理を把握する

荷物を持つ

歩道側を歩く(追記:車道側の間違い。でかい道ならあんま気にしなくていい。)

ソファ側を譲る

上着ハンガーを渡す

飲食店を出る前にお手洗いの確認

・全奢りは(初回を除き)しなくてもいいが、多めに払う意識を持つ

・いけそうだなと思ったらさっさと告る


感想

今後の展望

相手のことを尊敬できるし、向こうもこちらを相当尊重してくれるのが伝わる。捨てられないように努力したい。

2025-02-14

AI生成記事

九州大学病院オブジェクト指向システム導入の記録

序章:革新的システムへの期待

1990年代半ば、九州大学病院(九大病院)は病院情報システムの全面刷新計画していた。従来の断片化したシステム統合し、最先端オブジェクト指向技術を全面採用した次世代システムに生まれ変わらせるという大胆な構想である

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。入札条件にも「純粋オブジェクト指向技術で実現すること」を掲げ、業界内でも前例の少ない大規模プロジェクトに挑むことになった​

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。この計画応札した日本IBMは、開発言語にSmalltalk採用し、社内外からオブジェクト指向開発の専門家を総動員する。日本IBM自身のチームに加え、Smalltalk豊富経験を持つ多数のシステムインテグレータ各社が協力企業として参画し、一時期は約200名もの技術者が開発に従事する巨大プロジェクトとなった​

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医療現場からは「21世紀を先取りするシステムになる」という期待の声が上がり、IBM側も「国内最高峰病院に最新技術を投入できる」と意気込んでいた。誰もが、この試みに大きな希望を抱いていたのである

1996年プロジェクト始動曖昧要件定義

プロジェクト1996年、本格的に動き始めた。九大病院情報システム担当者たちは、院内各部からシステムへの要望ヒアリングし、「新システムへの要望リスト」を作成して日本IBM提示した。しかし、その内容は具体性に欠けていたと言われる。「実現したい業務全体像がはっきりしていなかった」のだ。病院側は約1,400床を擁するマンモス病院ゆえ、部門ごとの意見をまとめ上げ全体方針を打ち出すことが難しく、提出された要件定義書は「中身はほとんどなかった」と関係者は振り返る。一方の日本IBMも、その不十分な要件定義を十分詰め直すことなく開発を進めようとし、この問題放置してしまった。プロジェクト序盤から、実は大きな不安の種が芽生えていたのである

それでも当初の計画は極めて野心的だった。フェーズごとに順次システムを稼働させる計画で、第1次カットオーバー最初の稼働開始)は1997年1月と定められていた​

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。限られた時間の中、日本IBMと協力各社の開発チームはオブジェクト指向の新手法に挑みつつ、多数のサブシステムを並行開発するという難事業に取り組み始めた。しか要件曖昧さは各所で影響を及ぼす。開発メンバーの一人は後に「実際にはオブジェクト指向入り口にさえたどり着けなかった」と語っており、肝心の新技術を活かす以前に基本事項の詰め直しに追われる状況だったという。

1997年初頭:見えてきた遅れとすれ違う思惑

年が明けて1997年になると、第1次稼働予定の目前になっても開発は難航していた。結局、日本IBM1996年10月末になって九大病院側に「当初予定の1997年1月にはシステム稼働が間に合わない」と突然伝えることになる。これは病院側にとって青天の霹靂であった。代替策として「一部機能範囲を絞れば1月稼働も可能」といった提案すら無く、一方的に延期が告げられたことに、病院担当者たちは強い不信感を抱いたという。プロジェクトマネージャー同士の密なコミュニケーションも欠如しており、延期決定前から両者の意思疎通は十分でなかったようだ。これが最初の綻びとなった。第1次稼働時期は当初計画より9カ月遅れ1997年10月へと大幅に後退する​

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この延期表明を境に、現場は混乱に陥る。病院側は日本IBMだけに任せておけないとの思いから、一部の協力会社と直接組んで独自プロトタイプ開発に乗り出すなど、プロジェクト体制は分裂気味になった。一方、日本IBM側の士気も下がり始める。ある協力会社メンバーは「これほど求心力のないプロジェクトも珍しい」と当時を振り返り、リーダーシップ不足だったIBM姿勢に驚いている。複数の外部企業(延べ10社以上)が関与する巨大プロジェクトでありながら、日本IBM1997年10月頃まで一貫して主導権を握れずにいた、と多くの関係者が指摘する。誰がハンドルを取っているのかわからないまま巨艦だけが突き進む――そんな不安定な状況であった。

事態を重く見た九大病院日本IBMは、1997年2月から6月にかけて要件定義のやり直しに着手する。一度作成した要件定義書を更地に戻し、業務フローも含めてゼロから整理し直す作業だ。しかしこのリカバリーにも時間を要し、プロジェクトの遅延はさらに広がっていった。「ようやく問題点に光を当て始めたかに見えたが、時すでに遅し。気づけば頭上に厚い雲が垂れ込めていた」と語る関係者もいる​

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プロジェクトは先の見えないトンネルに入り込み、関係者の心にも次第に不安が募っていった。

1997年春:一筋の光明オブジェクト指向データベースの導入

混迷を極めるプロジェクトに光が差し込んだのは、1997年春のことである要件定義の立て直しと並行して、日本IBMシステム技術基盤を強化すべく重大な決断を下した。従来のリレーショナルDBではなく、米国GemStone Systems社のオブジェクト指向データベース(ODB)「GemStone」を採用する方針を固めたのだ​

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。GemStoneはSmalltalkとの相性が良いことで知られ、オブジェクト指向開発との親和性が高い製品である

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。この採用決定に伴い、GemStone社から複数名のコンサルタント来日プロジェクトに参加。停滞していた開発体制の再整備が行われた​

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経験豊富専門家の助言により設計も見直され、チームはようやく開発の目処を掴み始めたのである

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病院側もこの動きを歓迎した。長引く遅延に業を煮やしていたものの、最新のODB導入で性能や拡張性の課題解決されるならばと期待を寄せた。協力各社の技術者たちも「ようやくトンネルの先に光が見えた」と胸をなでおろした​

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現場には久々に前向きな空気が漂う。遅れを取り戻すべく、再結集した開発チームはスパートをかけた。システム全体のアーキテクチャをGemStone前提に再設計し、失われた時間を埋めるため懸命な努力が続けられる。巨大プロジェクトは今、再び軌道に乗ろうとしていたかに見えた。

1997年夏:GemStone契約交渉の決裂、暗雲の再来

しかし、その光は長くは続かなかった。1997年7月初旬、プロジェクトに再び試練が訪れる。日本IBMとGemStone社との契約交渉が突如決裂し、参画していたGemStone社コンサルタント陣が全員帰国してしまったのだ。肝心のGemStone製品も利用不能となり、頼みの綱を断たれた開発チームは一瞬にして暗闇に放り込まれた。まさに「悪夢のような出来事」であった。

7月20日になって、日本IBMはようやく協力各社を集め緊急説明会を開いた。日本IBM側の説明によれば、「GemStoneとの交渉決裂は企業日本IBM)の根幹に関わる問題による」という。詳しい理由として、契約書の条項に**「システムユーザー等が何らかの理由でGemStone社を訴えた場合、メイン・コントラクタである日本IBMが全ての法的対応を負わねばならない」といった内容が盛り込まれており、日本IBMはこの重い責任リスクを受け入れられなかったのだという。さらに料金面でも折り合わず、3カ月間におよぶコンサルタント8名の派遣ソフトライセンス料などに数億円近い費用**を要求されたことも判明した。法的リスクコスト高騰――企業として譲れぬ一線を越える契約条件に、日本IBMは最終的に「ノー」を突きつけた形だ。だが、それは即ちプロジェクト生命線を断つことを意味していた。

この報に接した開発現場は騒然となった。GemStoneを中核に据えて進めてきたアーキテクチャ設計を一から練り直す必要が生じたためである。ある協力会社関係者は「この時点でプロジェクトの失敗を覚悟した」とまで語っている。大黒柱を失ったチームには動揺と失望が広がった。折しも夏本番を迎え、福岡の空は照りつける日差しに覆われていたが、プロジェクトには再び厚い雲が垂れ込め始めた。

1997年8~9月代替案への賭けと懸命の設計変更

GemStone脱落という非常事態に対し、日本IBMと九大病院必死リカバリーを図る。1997年8月上旬、急遽代替のODB製品としてフランスA.D.B社の「Matisse」を採用する決断が下された。Matisseは国内では知名度の低いODBだが、日本でも過去Smalltalkアプリケーションデータベース採用された実績があり、「何とか使えるめどは立つ」と判断されたのである

しか代替とはいえGemStoneとMatisseでは機能に大きな違いがあった。GemStoneで可能だったサーバ側でのSmalltalk処理実行がMatisseではできず、セキュリティ機能も貧弱だったため、開発チームは不足分を自前で作り込む必要に迫られた。この結果、システム全体の設計クライアント中心処理へ大幅に変更せざるを得なくなり、再び設計の手戻り作業が発生した。炎天下での再出発であるエンジニアたちは寝食を忘れ、懸命にコードを書き直した。

その甲斐あってか、1997年9月末の時点で第1次開発の主要部分を年内に実現できる見通しが立ったという。一度は暗転したプロジェクトにも、わずかながら光明が見えた。病院側も「何としても年内稼働を」という思いで支援を続ける。だが、このとき水面下では別の動きが進んでいたことを、現場の多くは知らなかった。

1997年10月:小さな後退、大きな決断

1997年10月9日、事態は最終局面を迎えた。この日開かれた会議で、日本IBMSmalltalkによる開発断念と、マイクロソフト社のVisual BasicVB)への全面的方針転換を突如宣言したのである晴天の霹靂とも言えるこの決断に、現場は凍りついた。幾多の苦難を乗り越えようやく目指してきた最先端技術での構築を諦め、当時広く普及していたVBという「オブジェクト指向ではない」開発ツールで作り直すというのだ。九大病院が当初求めた**「純粋オブジェクト指向」**という条件にVB合致するかは議論の分かれるところだが​

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病院ももはや背に腹は代えられない。最優先すべきはシステム稼働そのもの――この苦渋の転換を受け入れる以外になかった。

実はこの決断に至る伏線存在した。日本IBM1997年4月からかにVB採用可能性を九大病院に打診しており、さら8月からは段階的にSmalltalk担当エンジニア現場から引き上げ始めていたという。ある協力会社メンバーは「裏ではVBによる開発をすでに進めていたようだ」と振り返っている。つまりGemStone交渉決裂後、表向きはMatisseによる巻き返しを図る一方で、日本IBM本体は別動隊でVBシステムの構築に乗り出していた可能性が高い。振り返れば、日本IBMにはSmalltalk固執しない理由もあった。同社は翌98年2月長野冬季オリンピック向けシステムSmalltalkで構築しようとして失敗し、結局VBで作り直したという“前歴”もあったと伝えられる。アトランタ五輪1996年)では自社Smalltalkツール(VisualAge)を投入したものの、国内の大型案件では苦戦が続いた経緯があった*4。豊富人材がいるVBなら「最後人海戦術で何とかできる」という計算も働いたようだ。GemStoneとの契約不成立も、IBMにとっては結果的Smalltalkを断念する良い口実になったのではないか――協力会社メンバーの一人はそんな憶測さえ口にする。

方針転換の発表とほぼ同時に、Smalltalkで開発を担っていた協力会社の大部分はプロジェクトから撤退することになった​

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10月中旬には、多くの外部技術者が病院を後にしている。自ら招いた転換とはいえ日本IBMにとっても苦渋の決断であった。投入したリソース費用は莫大で、一からVBで開発し直すのは会社としても大きな後退だ。しかし背に腹は代えられない状況まで追い詰められていたことも事実であろう。IBM現場責任者は病院側に深々と頭を下げ、「必ずや残された方法で間に合わせます」と約束したという。九大病院担当者も沈痛な面持ちで頷き、「形はどうあれ、患者さんに影響を及ぼす前にシステムを動かしてほしい」と絞り出すように告げた。

以降、日本IBMは自社内のVB技術者や、自社が持つ病院向けオーダリングシステムパッケージ製品*5などを総動員してシステム構築を続行した​

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データベースも、当初IBM提案していながら見送っていた自社のリレーショナルDBDB2」を採用する公算が高まった​

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目標は「年度内(1998年3月まで)の第1次稼働」​

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。もはやオブジェクト指向の夢を追う余裕はない。現実的かつ確実に動く仕組みを、一刻も早く届ける――プロジェクトはその一点に向け再編成された。かつて200名近くいた開発陣は大幅に縮小され、構成メンバーも一変する。病院看護師スケジュール管理など一部のサブシステムは、撤退しなかった協力会社が細々とSmalltalk開発を続けていたが、その姿はもはや主流から外れた存在となっていった​

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。ある古参の協力技術者は去り際に「全力を出して戦う前に、白旗を上げてしまったという感じがする」と寂しげに語ったという。こうして九大病院プロジェクトの第1フェーズ――オブジェクト指向技術による野心的挑戦のフェーズは幕を下ろしたのであった。

1997年末:現場への波紋と社会的注目

VBへの方針転換後、九大病院現場には複雑な空気が流れていた。病院スタッフにとってシステム刷新は長らく待ち望んだ悲願だったが、その中身は当初聞いていた「最新技術結晶から一転して、従来型の技術で作られるものになってしまった。「結局、夢物語に終わったのか」という落胆の声も一部にはあった。しかし同時に、「多少古くてもいい、とにかく業務改善する仕組みを早く動かしてほしい」という切実な声も強まっていた。目指すゴールは変われど、一日でも早く新システムを稼働させ、慢性的業務負荷を軽減することが現場の切実な願いとなったのだ。プロジェクトチームは日夜作業を続け、簡易な操作研修なども始めながら、年明けまでの稼働に向け突き進んだ。

そんな中、1997年11月3日付の西日本新聞朝刊一面にこのプロジェクトに関する記事掲載される。タイトルは「九大病院システム未完 巨額費用批判」。内容は「九大病院システム未完成にもかかわらず日本IBMに月額4,250万円を支払い続けており、税金無駄遣いとの指摘が出ている」という衝撃的なものだった。同日、このニュース地元RKB毎日放送東京ではTBS)のテレビニュースでも報じられ、九大病院プロジェクト社会問題として一気に世間の注目を浴びることとなった。院内では「患者そっちのけで何をしているのか」といった批判も耳に入るようになり、大学本部所管官庁からの問い合わせも相次いだ。追い打ちをかけるように外部から視線が厳しくなる中、病院IBMはただひたすら開発を前に進めるしかなかった。

結末:プロジェクトの結末と残された教訓

1998年初頭、紆余曲折を経た九大病院の新システムは、当初の構想とは似ても似つかない形でようやく一部稼働に漕ぎつけた。日本IBMは多数のVBプログラマを投入して力技でシステムを完成させ、旧来システムの置き換えを順次進めていった。最終的に納入されたのはSmalltalkでもオブジェクト指向DBでもなく、Visual BasicリレーショナルDBによるシステムだった。かくして九大病院の「純粋オブジェクト指向システム」への挑戦は事実上の敗北に終わった。現場医師職員は、当初期待された華々しい先端技術恩恵を受けることはなかったが、ひとまず業務に支障のない情報システムが手に入ったことで安堵するより他なかった。プロジェクトは当初の理念を捨てて現実路線へ舵を切ることで、なんとか沈没だけは免れたと言えるだろう。

振り返れば、この失敗の背景には最新技術への挑戦ゆえの困難もあったが、それ以上に古典的とも言えるプロジェクト運営上のPermalink | 記事への反応(0) | 21:29

AIを使って挫折が無くなった

今までは、ある言語習得や、あるものを作りたいっていう時に情報収集で力を使い果たして挫折することが多かった

それが無くなった、高い確率で「とりあえずそれなりに動く」までいけるようになった

 

ただし辛くないかと言われれば辛い

今まではったのは無力感

今あるのはタスク量に対する絶望感と、わからないまま進んでる恐怖感

2025-02-13

anond:20250211201949

マッチングアプリって、定量的パラメータでふるいを掛ける前提のツールなんだと思う。

戦場選択が誤ってる事を疑ってみたらいいと思う。

それと、弱さを多分に主張してるけど、他と比較してそう思っていて、その主語デカいのにも気になる。

体重がー

痩せろ。食事見直して軽いウォーキングから始めろ。2日に1回10からでいい。

いきなりライザップとか行くな。というか一生ライザップなんて行くな。行くなら無理ないメニュー教えてくれるところ行け。

メニューが固まったら解約して24時間無人ジムにかえろ。

外見がー

まずは服。ユニクロでいいから。ダボついてないニットとダボついてないデニム。冬はシンプルなダウンでも買え。変なロゴとか英字とか入ってないやつ。

わかんねーならPinterstをインストールしてファッション写真をずっと眺めてればなんかヒント得られる。

靴はスニーカーじゃなくてABCマートあたりで黒のデザートブーツでも買ってみろ。スニーカーは難しい。

髪は一度でいいか勇気出して美容室行ってみろ。喜んで改造してくれる。1000円カットはダサいやつにはダサい仕上げしかしないからな。

家庭環境がー年収がー

変えられないもの、すぐに変わらないものを嘆くな。

まずは自己肯定感だけを上げていけ

人生うまくいっているやつは文章を書くのも上手いし字も綺麗だし絵も上手いし歌も上手いし仕事も上手い。

性格が悪い。人見知り、オドオドしてる、弱々しい。

職場でも馴染めない。

全部原因じゃなくて結果論だ。

人生がうまくいってるから文章とか絵とか仕事うまいわけじゃない。結果論ほとんど。すべての根源は自己肯定感の差だ。

自分はどうせ変わらないっていう根本にある卑屈さを無理にでも転換しないとどうにもならん。むしろ無理やり転換する以外に選択肢がない。

あらゆるポイント自分ダメ人間、と帰結させてるあたり自己肯定感自分で常に下げてる。

100じゃないから0だになってる。まぶしく見えてる奴らも100なんかじゃなくせいぜい60とか70よ。増田も0じゃなくてせいぜい30とかよ。

100は幼稚園から大学まで一貫の私立通って両親が会社経営医者名家出身顔面偏差値も高く自身財閥商社出世頭、0は外出不可の生存能力がギリ界隈と仮定

安っぽい自己啓発本でいいから1冊読んでみろ。いっとき鼻息が荒くなるだけでもいい。100ページのうち刺さる文言が1つ2つ見つかるだけでも収穫だ。

Web記事はロクなもんが無い。自己顕示の塊だからな。

色々な事に挑戦したり、過去を断ち切って前向きになる原動力として自己肯定感が満たされてるかはめちゃデカい。

そもそも今の増田世間的に言って正直苦しいポジションでそこから這い上がるのはめちゃカロリー使う。

他人と比べてる限り、一進一退するたびにそのギャップに苦しむし、その差なんてすぐに埋まら挫折すっから、まずは現在自分と比べてどんだけマシになったかちょっとずつ気持ち上げていけ。

ネタマジレス恥ずかしい。

2025-02-12

anond:20250211173715

思えば熱量が低い創作人生だった。

みたいなことを安彦良和さんは

自らの展覧会に寄せる言葉として書いているのね。

とくに語りたいことがあるわけでもなく、

ただ食うために創ってきたみたいなこと。

これを馬鹿みたいに文字通りに解釈してはいけないんだけど、

まああなたたちは文字通りにしか解釈しないだろうね。

というのはね、熱量が低い割にはあなたえらくたくさんのものを描いてきましたね笑

と呆れたくなるほどの膨大な創作の数々が展覧会には出展されているわけです。

安彦さんという人は、語るのが難しい人だと思う。

この人の作家性というのは、なぜか人が期待する方向とは逆へと行こうとする。

そういう意味ではアニメ監督としてはあまり向いていなかったのかもしれない。

ただ漫画家としてはその作家性は存分に発揮されていると思う。

ある種のアンチクライマックスクライマックスとでも呼べばいいのか。

安易クライマックスは避けるがクライマックスはある。

サクセス」が嫌いなんだと思う。

成功物語を避けようとする。

何者でもない少年が、

世に出て、

人にも認められて何者かになりかけるんだけど、

結局は成功を手にすること無く物語は終わる。

主人公はたいてい挫折して終わる。

でもな。

その挫折にこそ人生の粋があるんだよ。

みたいな話が得意な人だと思う。

おおよそ、一般受けはしにくい。

でも僕は安彦良和漫画が好きだ。

77歳になっても、なお創作を続ける人の漫画が好きだ。

でもさ?77にもなってなお創ろうとする人の何をどうしたら熱量が低い、って言葉が出てくるんだろうね?

ジェリドはもう少し冷静になったほうがいいと思う

ジェリド・メサは、アニメ機動戦士Zガンダム』に登場する人物で、ティターンズ所属するMSパイロットです。

彼が「もう少し冷静になった方がいい」と言われる理由は、主に以下の点が挙げられます

激情的な性格:

ジェリドは非常に感情的で、怒りや焦燥をすぐに表に出す傾向があります特に自身能力不足や過去トラウマに触れられると、冷静さを失い、周りが見えなくなることがあります

独善的な行動:

感情に流されやすく、周囲の意見を聞き入れずに独断専行することがあります。 これが、味方との連携を乱したり、作戦を失敗させたりする原因となることもあります

プライドの高さ:

エリート意識が強く、自分能力に自信を持っていますが、 そのプライド邪魔をして、素直に他者アドバイスを受け入れられない面があります。 また、挫折経験すると、感情的に反発し、周りを責めることがあります

これらの性格特性が、彼の未熟さや危うさを際立たせ、

物語の中で様々な問題引き起こしています

しかし、ジェリドは単なる感情的キャラクターではなく、

その内面には葛藤や苦悩も抱えています

過去トラウマ:

過去戦闘で多くの仲間を失った経験が、 彼の心に深い傷跡を残しています。 このトラウマが、彼の激情的な性格独善的な行動の一因となっていると考えられます

コンプレックス:

シャア・アズナブルクワトロ・バジーナ)に対する 強い対抗意識を持っています。 彼の実力に嫉妬し、焦燥感を募らせることで、冷静さを失ってしまうことがあります

成長の余地:

物語が進むにつれて、ジェリドは様々な経験を通して成長していきます挫折葛藤を乗り越え、徐々に冷静さを身につけていく姿は、 彼の人間的な魅力を引き立てています

まとめ

ジェリドは、感情的性格プライドの高さが災いして、

冷静さを欠く場面が多々見られます

しかし、彼の内面には過去トラウマコンプレックスなど、

様々な葛藤が渦巻いており、決して単純なキャラクターではありません。

物語を通して、彼は成長していく可能性を秘めており、

その変化を見守ることも、『機動戦士Zガンダム』の楽しみ方の一つと言えるでしょう。

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