はてなキーワード: ギルティとは
ファミコン世代として言わせてもらうが、今年話題になったゲームの筆頭がドラクエ3とFF7という現状は、本当に末期なんじゃないかと思う。
たとえば中華ゲーのゼンゼロはどうだ。キングオブファイターズやデビルメイクライ、ストII、ギルティ、シェンムー、スペースチャンネル5、ミスタードリラーといった
昔のゲーセン系メーカーの作品をオマージュしつつ、かつ日本のゲームメーカーが到達し得なかったもう一つの未来を確かに提示できている。
ホヨバといえば今度の原神の新キャラクターはベヨネッタっぽい服装をしているし、この前のスタレのキャラは海外では鉄板のShinobiマフラーをしていた。
日本のメーカーはゲームを作るのはオタクではないと欧米に日和ったが、オタク文化に理解のある外国人がゲームを作り世界を奪い去った。
まあ、最近のゲーミングPCは50万もするし、件のドラクエはスイッチでもPS5と同じ画質らしいから、ゲームの面白さは画質ではないとか、想像の余地があっていいと思う人は
それぐらいで楽しむのがちょうどいいとは思うけど。
ギルティギアを「GILTY GEAR X」で取り上げてるのが完全にニワカ。
ギルティギアの最も優れていたのは「カプコンが格ゲーの新作を出し渋るようになって斜陽になりかけていたところ、絶大な人気を産みゲーセンに人を呼び戻した」という事実が格ゲーに影響を与えた。
美麗なグラフィックとか自由なコンボとか独自性はあるが、本質はそこじゃない。
「まだ格闘ゲームはこんなに面白く、儲けることができる」と全国のゲーセン店長に思わせた、格ゲーは商業的価値がまだあると知らしめたことが一番の歴史の転換期。
一度斜陽になりかけた格ゲーを一番最初に救ったのがギルティギアであり、
その最大の功績をたたえるのであれば「GILTY GEAR X」ではなく最も人気の出たシリーズ作「GUILTY GEAR XX #RELOAD」通称「青リロ」が格ゲーの歴史を変えたものとしてピックアップするべき。
増田は時代を生きていないで、外側から表面的なことしか見て来なかったから当時のゲームセンター内の熱気を吸い込んでないせいで、この結論に至らなかったと見える。
というかグラフィックやコンボシステムの独自性ならヴァンパイアシリーズの方が先なわけで、ギルティはそれを正当進化させたに過ぎない。
性加害はギルティなのおおおおおおおお!!って怒る女さんヤベーよな
18話の豊先生の扱いは少し気の毒だったな。決定的にギルティと断じれるほどのことはやってないし、むしろ見方によっては善良な言動しかしていないようにも思えるけれども、作中での評価は「だるい」、「うざい」、「キショい」などと散々だった。挙句に「近寄らんで~きしょ~」と生徒に面と向かって言われる始末である。
人情の機微を繊細に描く本作において、豊先生に対する生徒たちの態度は多少ゾンザイにみえる。過剰な言葉を投げかける生徒が諫められることもなく朗らかに去っていく構成は、爽やかな描写に反して後味の悪さを感じた。“豊先生はそんな扱われ方するのも仕方ない”という“含意”がなければ成立しないほど雑な扱われ方だ。その“含意”が何かを考察するなら、これは豊先生が“本作におけるevil”に抵触したからだと思う。
本作における“good”の象徴が伏見さんであることは明らかだろう。けれども作中での伏見さんの活躍は実質的には微妙なものが多い。各エピソードの主役たちは何らかの課題や悩みを抱えているけれども、伏見さんは何か直接的にそれらを解決してくれるわけではない。いや、間接的に貢献しているかすら微妙なときもある。
しかし、それでも伏見さんが“good”の象徴たりえるのは、本作の作品紹介を読めば輪郭が見えてくる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。 今、“自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
引用の「丁度いい距離感」という所がミソだろう。つまり本作における“good”とは「丁度いい距離感」のこと。逆に言えば「丁度いい距離感ではない」こと、それに類する言動をする者がevilというわけだ。
以上を踏まえると、本作の1話なんて典型的に思える。本エピソードの生徒は中盤、痴漢被害に遭う。これは犯罪という時点で勿論evilではあるのだけれども、「丁度いい距離感ではない」という点においても本作のevilに抵触している。そして被害にあった子に対して、両親たちはデリカシーに欠けた言葉を投げかける。身内関係であるからこその近さ、そこからくる両親なりの慰めの言葉ではあっても、それは当人が求める「丁度いい距離感」からくるものではなかった。
そして遠すぎる場合はevilとまでいわないがgoodともいえないよね、ということも提示する。被害に遭った生徒は自ら犯人を捕まえたため、その勇気を褒めたたえる人もいた。しかし、それは表面上の言動と態度から逆算したもので、行為そのものに対する上澄みの評価だ。痴漢被害者への丁寧な気遣いをする者もいたが、これも紋切型であり寄り添ったものとはいえない。
じゃあ、何て言えばいいの?と思うのだが、当人自身よく分かっていない。当人が本当に悩んでいる核たる部分は、是非善悪とは別のレイヤーにある。しかも極めてプライベートでミクロ的であるため、明確で普遍的な回答がない。だからこそ苦悩の袋小路に入る。
そんな苦悩に対して本作(伏見さん)は「何とも言えない」という選択をした。「何とも言えないこと」に対しての答えが「何とも言えない」というのは逃げというか、そもそも答えになっていない。けれども、その時の生徒にとっては“個”と向き合い「丁度いい距離感」で接してくれた結果、と受け取られた。
豊先生は常にニコニコとしながら、誰にでも分け隔てなく好意的な対応をする善良な教師のようにみえる。けれども、これは誰にでも“いい顔”をしつつ、“個”と向き合わない不誠実な人物……という解釈もできる。つまり「丁度いい距離感」に対して無頓着であるため、“本作におけるevil”に抵触しているわけだ。
作中でのやりとりを挙げるならば、豊先生に好意を持っている生徒が「(背が高い人が豊先生の好みだったら)牛乳を大量に飲まないとなあ」などといった軽口に対して、豊先生は「今のサイズ感が可愛いから、今のままでいいと思うよ」と返す。「(牛乳を飲みすぎて)お腹こわさないようにね」という気遣いも忘れない。その生徒が自身に好意を持っていることを踏まえたうえで軽口に軽口で返した形だ。こんな調子で、豊先生は八方美人の節がある。婚約者がいる立場でありながら、自身に好意を持っている女生徒への対応は軽薄にみえる。知り合いの異性にも当然のようにプレゼントを贈ったりする。
けれども客観的にみて、それらをギルティとするのは決定打にかける。他人の好意に対して毅然とした態度をとらないというのも実際には一長一短で、豊先生個人でどうにかできない範囲も含まれている。豊先生の振る舞いは節々に粘度を感じるよう描写こそされているものの、それでもって悪徳と断じるべきかは疑問が残る。けれども、何度もいうように“本作におけるevil”とは「丁度いい距離感ではない」こと。その点において豊先生が無頓着であることは否定できない。なので生徒に「近寄らんで~きしょ~」と言われ、続けて「大人なんやから ちゃんとしいや~」などといわれる。
面と向かって「きしょ~」とか言ってくる若輩に大人としての在り方を説かれる筋合いはないとは思う。ただ、一応これも先ほど引用した作品紹介文から読解できる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。今、 “自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」とは、つまり「理想的ではない大人」と言い換えられる。
本作における「理想的な大人」の象徴が伏見さんとするならば、その逆のような存在が「理想的ではない大人」といえるだろう。つまり「丁度いい距離感」で私たちと話をしてくれないのはevilだから豊先生はキショいし、「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」 だから「ちゃんとしいや~」ってわけである。
最終的に「彼女がいるのに生徒や伏見さんに色目使ってた男」と評された豊先生は「エエ~……」と困惑するしかなかったが、仕方ない。豊先生の扱いは、本作の通底するテーマや価値観からみれば筋は一応通っている。それにしたってどうなんだと思わなくもないけれども、それは私の咀嚼と消化の問題でもあるから片隅に置いとく。
伏見さんが“good”の象徴、理想の大人、メンター的存在でいることができる理由ってなんだろうか。メタ的な推測になるが、まず「学校の用務員」という立場がある。
学生たちにとって、自身の抱える課題や悩みを打ち明けられる大人は少ない。主に両親や教師になってくるが、両親は身内であり近しい存在だからこそ、かえって言えないことや言いにくいこともある。教師はあくまで仕事の一環として生徒と接するというフィルターがあるし、それも一人や二人ではなく数多ある生徒に対応しなければならない。他にもやらなければいけない仕事だって多いから常に全力で応えてくれるかは難しい。
いや、そもそも本作において学生の抱える葛藤は、是非善悪だけでは語りきれないものが多い。そんなことで白黒ハッキリついて解決するのなら悩んでいない。そんな悩みに対して親身になってくれないのは嫌だが、がっぷり四つでも困るのだ。そんな悩みを抱える学生たちにとって丁度いい距離感で接してくれる大人がいたとすれば、それは酷く理想的にうつることだろう。そのために学校の用務員という設定にしたのが絶妙だ。学校にいながら、親や教師が取りこぼしがちな生徒の機微を個別に拾うことができる。心のケアをする必要のない立場だからこそ、それをわざわざやる伏見さんの善性が際立つ。
本作の描き方からくるデメリットとしては「一概にいえない事柄なのに、メンターの言動がベストになってしまいがち問題」はある。まあ、これは学園もの・教師もの共通のデメリットではあるけれども(典型的なのだと『GTO』の主人公とかは解決方法がほとんど破天荒だったり非合法だったりするが、少なくともその作品世界においてはベストとなってしまいがち)。あと伏見さんを理想の大人として描写しようとするあまり、それ以外の大人が犠牲になってるというか、簡便に描写されている感はある。豊先生もその一人だなって印象。
A1リーグ帯にいる有名人の配信では高額ギフトが飛び交うため、コミュニティの空気を壊すことはないが、コミュニティが発展途上の配信者に高額ギフトを投げまくっていると、コミュニティの空気が崩壊する。
また、配信で上に上がっていくためになにより大切なのは、コミュニティの団結力。
まだ発展途上にある配信者が一本釣りの状況だと、団結力が育ちにくく配信者の成長に繋がらない。
だから、高額ギフトを投げまくるのはけっこうギルティだなと感じた。
なお、IRIAMはTikTokよりこの傾向が強い印象がある。
TikTokには1円程度で投げることができるギフト「ハートミー」(配信中に他リスナーが投げた宝箱とかで無料でゲットできることもある)があるが、配信者がハートミーくださいと呼びかけても、びっくりするくらい投げてくれない。
これは個人の感想だが、何も言わなくてもハートミーを投げてくれるファン以外には、かわいそうって感情を刺激すると投げてくれる気がする。
PayPayポイントがめちゃ貯まる
以上
なかなかタイミングが難しい!
昼にはなんかあんなパーティーピッツァ一人でランチで食べてたら陽気な食いしん坊だなって思われそうだし、
とはいえ休日朝からってのも朝から盛り上がりすぎでは?と我ながら思ってしまう。
だから結構ガストのあのピザをいつ食べて良いのかなかなかタイミングが難しい!
でも食べたい!
これって
気にしすぎ?
パソコンが新しくなったので、
もの凄く快適になったのよ。
もう永く使っていたパソコンは窓から放り投げて捨ててしまったわ。
過去を振り返らない私。
そう思うけど
時すでにお鮨。
まあ気にしないわ。
べつに古くったっていいんだけれど
パソコンは動くのに使えなくなるのは勿体ないわよね。
そう思わない?
まあ慣れるも慣れないも事務所のパソコンが古かっただけという話で、
私の使っているお仕事の本当の経理用のパソコンはそもそもとしてそれじゃないと確定申告ができないので、
経理用だけでもはや買ったといっても言い過ぎではないぐらいの過言なのよね。
だから全く慣れていないというわけでもないけど。
まあ全体的に速くなったことということは正義なのかもしれない、
そう感じているわ。
この入れ替えの旅に私が窓から放り投げ捨てなければならない分、
窓の下が大変なのよ。
これも問題だわ。
まあ一石と言うより一パソコン投じてるってことになってるけど。
私がまた一石を投じたいこととして、
あの最近の私の悪習慣!
あれの止めどきが分からないし
ついつい30分といって思っていた3時間経ってしまっていたり。
えー!こんなに!?って
正に時すでにお鮨なのよ。
せっかくの貴重な休日もショート動画で無くなっちゃったら勿体ないわ。
あれ見ても何も記憶に残らない品にも役に立たないし一見役に立ちそうなドゥーイットヨアセルフの玄能テクニックも
その時見たらなるほど!って思うけれどすご技だわ!って思うけれど
私の実生活でそんな玄能のお役立ち情報は一切使いそうにない一生無駄な能力だと思うの。
実生活では役に立たないのよね。
でも見て得した感じはあるのよね。
なんたるちゃーって
もう気が付いたときは時すでにお鮨なのよ。
そんなんだったらスプラトゥーン3やったりテレビを録り溜めてる番組をみたり
竹内まりやさんが借りた辞書ページを破ってそのページだけ返して辞書の本体を捨てるにならって、
私もそのショート動画を見てしまう悪習慣をセプテンバーばりに投げ捨てる良い機会でもあるしいいセプテンバーでもあるわ。
このことを肝に銘じて何もそこからは得られる栄養が無いものと思って
厳しく鬼にして心をセプテンバーにするわ。
でもなんか疲れているときに限って
なーんにも考えずに見続けられる脳へは熱量の少ない負担の少ないことでもあるのよね。
分からないけれど、
もしかしたら自然と脳を休まっていることにもなっているのかしら?
それは不明だし、
脳が休んだーってスッキリする感じもしないのよね。
それを今月の目標としてアースウィンドアンドファイアーさんたちばりにもそうセプテンバーしていくようにするわ。
秋の終わりに良い報告ができるように
うふふ。
しんなりしたスライス玉ねぎにバターがいい感じに絡まってハムと挟まっているバターたっぷりめな夜遅い時間の深夜に食べたらたぶんギルティーなやつ。
朝だから美味しくいただけるノン罪悪感を噛みしめて美味しく食べたわ!
新商品続くと良いな!
また新たに買ってこないといけないわ。
まだまだ暑いと思うので
急に9月に入ったからってセプテンバーなわけになるわけじゃないので、
暑さ続くし
油断大敵よ!
水分補給は
しっかりとね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
出来る営業担当者なら「各部門のみなさんおかげで最大売上になりました」と言うところだろうと思う。それが「育て上げたって感じだよなぁ!」と肩を組まれても、工場の生産管理担当者も「あっ、はぁ」となるだろう。
「工場の生産管理担当者」がこの後、「いや、営業なんて何もしてないくせにやったみたいに言うの腹立つんだけど」て言い返したんじゃん。むしろそこが発端で、一番のキモじゃん。そこ省略すんのダメ過ぎるだろw
このやりとりで「工場の生産管理担当者」の肩もてるやつおる?この例えだと「工場の生産管理担当者=恨みおじの妻」がキチガイになっちゃってるじゃん。賞賛してるトラバもブコメもどういう頭の構造してるんだ?
子供は馬鹿ではないので親の背中を見ている。恨みおじが本当に「俺だって仕事も頑張ってきた、自分なりに家庭も大事にしてきた」のなら、子供は父親を尊敬し尊重するだろう。
いや、普通に子供はバカだぞ(大人もだけど)。「子供はバカじゃない」みたいなフワフワな頭でよく生きてこれたな。家庭版半年ROMってきたら?
ていうか、「子供は父親を尊敬し尊重するだろう。(するわけねーけどなw)」て決めつけてるじゃん。もし子供が「尊敬し尊重する」父親だとしたら、その父親をこんな長文で叩くわけないもんな?
でも何で見も知らぬ誰かの声を正しく推察できると思ってるの?その意味不明な万能感はどうやって培われたの?「お前はネットの向こうにいる名も知らぬ人の心を正しく推測できる特別な人間なのよ」ってママに言われて育ったの?
「路頭に迷う」て解像度低すぎんwスーツケース引いた一家が寒空の向こうに消えていった…みたいなの思い浮かべてる?
ちなみにお金が少なくなると家庭環境は荒んで、子供は安らげる場所がなくなり、悪い奴らとつるむようになってトー横に流れ着いてオーバードーズでバキバキしたりすると思うんですけど、そういうのも「路頭に迷う」に含まれてます?
ていうか「お金がないと家族は路頭に迷うのは当然で優先順位は高い」なら、子育てしてるじゃん。論理破綻してない?「優先度高い」担当を数十年したのに「お前の貢献ゼロな」て言われた夫の話してるの、忘れちゃった?マジどういう論理?
いやいやシングルで3人育てた50代とか普通にいるだろ。見たことないのか?世間知らずか?70代くらいだと思ってるとか?そりゃ今より女性にとって厳しい時代だったのはもちろんだけど、「実質無かったのだから(キリッ」て…。「恨みおじは離婚してたら養育費払わなかいクズだろうし」とか「両家の祖父母も支援しないクズだろうし」みたいな前提を「読み取っちゃった」のかな?
なんで
てところかなー