はてなキーワード: 対立軸とは
虎杖は「納得できる死とは何か」というワードから始まって、「呪霊を払う歯車になる(理由は無くても死をもたらす)」というある種の闇落ちまでがじっくり描かれてるわけで
生命と呪いという対立軸に対して、はっきりと生命の側に立つ、生命の側に立って呪いを滅ぼすという、綺麗事ではない戦争の先鋒となる話が中盤まで
ここから最後に描かれるべきだったのは、脹相と、もしかしたら宿儺の存在を通して人間と呪いの間の曖昧な領域、実はそれはグラデーションのようにはっきりと分かれないものであることを知り、何より自分自身が正に「造られた命」として単純な人間側の存在ではないと知ることで、単純な正義・人間の側に立つという使命感から解放されて、呪いすら許すというような転換だったんじゃないかなーと
ジークアクスへの主な批判の一つに、「人間が描けてない」「映像表現やモビルスーツなどの設定ばかりに力が入っている」というものがある。
言いたいことはある程度理解しつつ、これはちょっとズレてると思ってて、実際には「描けてないはずの人間の方がメインということになっている」だろう。
ジークアクスの、戦闘などのメカシーンと人間中心のシーンの分量を時間単位で比べてみれば、たぶん後者の方が圧倒的に多いはずだ。
竹デザインの外見的には魅力的なキャラ達が、なんやかんや会話したり飛んで跳ねたりしてる時間が大半を占めるアニメであり、誰もがそこに人間ドラマを期待する。
大人と子供。宇宙と地球。母と子。持てる者と持たざるもの。男と女。ドラマに不可欠な対立軸は多数用意されている。
思わせぶりなセリフと、情感たっぷりの間で、人間ドラマっぽい雰囲気の演出も十分だ。
だが、ジークアクスには本当に「ドラマ」と言えるものは存在するのだろうか?
主要な登場人物がひたすら状況に流され続け、選択が物語に決定的な影響を与えることのない展開がいまのところ延々と続く。これは本当にドラマなのか?ドラマだとして、それによって何を語りたいのか?
これがいまだにぜんぜん見えない。
これは、スタジオの過去作であるエヴァンゲリオンのように、選択が意味を持たない無力感そのものがテーマとなっているのともまた違う。
現代に対応した新しい物語の形なのかも知れないが、今の俺にはジークアクスというアニメは、腕のいい職人が高い技術で作り込んだ、中身が空っぽの細工箱にしか見えない。苦労してまで開く価値はないと思う。
世の中、キャリアアップだの市場価値だのって色々言うけど、結局「資格」と「実務経験」、どっちが大事なんだ?って話は尽きない。
特に文系と理系じゃ、この辺の考え方が全然違うんじゃないかと思う。
よくある話として、資格マニアみたいに色々持ってても「実務経験3年」には敵わない、なんて事が言われる。
資格マニアの履歴書には「簿記3級」だの「ITパスポート」だの、まあ色々並んでる。
これ、文系としては「まあ、そうなることが多いよな」って納得しちゃう部分もある。
でも、理系の僕から言わせれば「いやいや、ちょっと待てよ」と言いたい。
理系の場合、資格がないとそもそも仕事にならんものが結構ある。
しかも、その資格を取るために実務経験が必須だったりすることもザラにある。
ってことは、実務経験があるのに資格を取ってない理系ってのは、それはそれで相当ヤバいんじゃないか?
そもそも「勉強すること(資格取得)」と「実務経験を積むこと」を対立するものみたいに考える発想自体が
理系の僕に言わせれば、資格を取って、そのために実務も積んで、また次の資格へ…っていうサイクルの繰り返しなんだからそこに対立軸なんて初めからないんだよ。
まぁ一応言っておくとそういう理系の仕事の方が今は収入が高いってのが現実だったりする。
この辺のカラクリを、もうちょい突っ込んで考えてみる。
確かに、文系じゃ「実務経験3年」がモノを言うってのはよくある話だ。
営業とか企画とかマーケティングとか、そういう文系ど真ん中の仕事って、別に資格がなくたってできちゃうことが多い。
もちろん、簿記とかFPとか、持っていれば「おっ」となる資格もあるけど、
それよりもコミュニケーション能力だの、問題解決能力だの、そういう「実務で培われた何か」の方がよっぽど重視されたりする。
だから、「勉強と実務は別物」って考えるのは、いかにも文系的だ。
実務そっちのけで資格の勉強ばっかりしてるヤツは、「あいつ、大丈夫か?」って目で見られがち。
企業が中途採用で欲しいのも、結局は「即戦力」、つまりは具体的な実績とかスキルを持ってるヤツだ。
3年間の実務経験ってのは、単に3年会社にいただけじゃなくて、
その間にどんだけ修羅場をくぐって、どんだけ結果を出してきたかの証明として見られる。
もちろん、弁護士とか会計士みたいに、資格がなきゃ始まらない文系の専門職もあるけども
そういうのは、どっちかっていうと理系に近いキャリアの積み方になる。
医者とか看護師とか薬剤師なんてのは、当たり前だけど国家資格がなけりゃ患者に触ることすらできない。
建築士がいなけりゃビルは建たないし、電気主任技術者がいなけりゃ工場の電気設備は動かせない。
どれだけやる気と知識があっても、資格という名の「免許証」がなけりゃ、スタートラインにすら立てないのが理系の現実だ。
しかも、「資格取るのに実務経験が必要」ってのも、理系じゃ当たり前。
例えば、建築士の上位資格なんかは、大学で専門課程を修了した上で、何年かの実務経験を積まないと受験資格すら得られない。
つまり、理系の特定の分野じゃ、「実務経験を積むこと」自体が、「次のもっとスゴい資格を取るための条件」だったりするわけだ。
だから、実務経験だけあって資格がない理系ってのは、マジでヤバいと思うわけだ。
だって、資格がなけりゃできる仕事の範囲も限られるし、責任あるポジションにも就けない。
会社にとっても、有資格者がいないと仕事が取れないなんてことはしょっちゅうだ。
理系にとって資格と実務は、どっちが上とかじゃなく、完全にセットなんだよ。
「資格を取る→実務を積む→さらに上の資格を取る→さらに高度な実務を積む」っていう、終わりなきスパイラルアップ。
これが理系のキャリアの本質だ。そこには、「資格か実務か」なんていう二元論は存在しない。
なんでかっていうと、やっぱり専門性の高さと、資格っていう「参入障壁」の存在が大きい。
医者とか、一部の超高度な技術系の資格なんてのは、誰でも簡単になれるもんじゃない。
一方で、そういう専門知識や技術を必要とする仕事の需要はなくならないから、
特にAIだの最先端技術だのって分野じゃ、その道の専門家は引く手あまたで、給料も青天井なんて話も聞く。
でも、平均的に見ると、やっぱり資格でガチガチに守られた専門性を持つ理系の方が、収入面で有利になりやすい。
「これ、法律でアンタしかやっちゃダメ」とか「この技術レベル、国が認めてます」っていうお墨付きになるから、それが市場価値に直結しやすい。
理系にとっての「実務経験3年」ってのは、そもそも医師免許とか建築士の資格とか
そういうのが大前提の資格があって初めて積める経験だったりするわけだ。
つまり、天秤の片方にある「実務経験」の重みは、もう片方にある(というか、それ以前にクリアしてなきゃいけない)「資格」という土台があって初めて意味を持つ。
資格という名のフィルターをくぐり抜けなきゃ、そもそも実務経験という名の重りを天秤に乗せることすら許されない。
だから、あの天秤は、やっぱり文系目線、あるいは資格が必須じゃない仕事をしてる文系のヤツの視点から描かれたもんだってことだ。
実務経験は、その資格を活かして、さらに上を目指すためのステップだ。
どっちが良いとか悪いとかじゃなくて
自分がいるフィールド、目指すフィールドのルールをちゃんと理解しろってことだよな。
「資格と実務、どっちが大事?」なんて悩んでる時点で、ちょっとズレてる。
むしろ、「自分の目標達成のために、資格と実務をどう組み合わせて、どうやってレベルアップしていくか」を考えるべきだ。
実務にどっぷり浸かって現場でしか学べないことを吸収する時期も大事だ。そのバランスをどう取るかが、これからの時代を生き抜くカギになる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/meetscareer.tenshoku.mynavi.jp/entry/20250512-kakida
金触った後に手を洗わず素手で刺身切ったから下積みは重要って意見がスター集めちゃうのは流石にどうなん?
よく話題になった寿司屋に下積みが必要か否かの対立軸って、寿司の専門学校で半年学ぶ vs 幾年もの下積み、くらいのそこまで必要か?って比較であって
やる気のないアルバイトのようなド素人が寿司屋をできるかって話じゃなかったじゃん
そりゃ下積みをこなしてきた人なら食品衛生責任者の講習内容くらいは身についているだろうけど、逆に言えばこんな1日講習でやる程度の内容でしかないのに下積みが必要な理由に挙げられたら笑ってしまうわ
徒弟制の下積みって出来の良くない行き場のない子どもを長い時間かけて一人前に育てていく、今でいう困難を抱えた子どもも対象とした方法だから仕方ないけど、マニュアルを読めてそれに従える社会人生活を普通にこなしてきた人とっては無駄が多すぎる
はてなって夫婦別姓賛成派が多くて全然反対派の意見って出てこないじゃん。ブコメ見てても選択なんだから誰も困らないしなんで反対するのか分からないって人もこれ読んで参考にしてくれやで?
ワイは選択的夫婦別姓制度に反対してる。その理由は、この問題が党派性の争いに矮小化されてて、純粋な制度改革の議論になってないからなんや。選択的夫婦別姓の導入には、戸籍制度の見直しや行政システムの改修など、莫大なコストが伴うはず。けど、選択的夫婦別姓って党派間の対立を煽ることに利用されてて、そのコストに見合う必要性が全然見出せないんやな。
自民党をはじめとする保守派は、昔から夫婦同姓や戸籍制度を「家族の一体感」の象徴として重視する姿勢があったやん。選択的夫婦別姓を求める側は、その対立軸として自民党へのカウンターで選択的夫婦別姓を持ち出してるに過ぎない。なぜならもし本当に「選択肢を増やしても誰も困らない」という論理で進めるなら、夫婦別姓じゃなくて、氏名の自由化を議論しないと筋がとおらないんよ。氏名の自由化であれば、個人があるいは夫婦が望む形で姓を選べるし、誰も困らないやん。しかも、これから移民とか増えてく中で色んな氏名に対応出来ることは絶対に役に立つはずだしさ。
でも、議論が氏名の自由化ではなく選択的夫婦別姓に限定されているのは、保守派の家族観との対立を際立たせるため以外にないんよ。「自由」や「権利」を掲げながら、実際には狭い政治的枠組みでチャンバラごっこしてるだけ。こんな党派性の争いのために、社会的コスト使ってる暇ないやろ。もっと他にやることあるやんって思うワイだけか?
そうだろうと思うよ
お前だけじゃなくてみんなこの問題に関してあんまり詳しくないと思ってる
だから、既に改善されてきている超ニッチな研究者名義の不都合がトップに来ちゃうんだよ
じゃあなんでこんな熱心に反応があるのかって言うと、結局反自民党のイデオロギー闘争になってるからなんだよ
色んな対立軸あるけど、自公政権にはほぼ勝てるものがない中でこれだけはなんか勝てそうに見える
だから、なんとかこれだけは通して自分たちが勝ったって感覚を味わいたいんだろうなと思ってる
実際に熱心にこの政策実現してくれと必要で求めてる人も熱心にこの政策だけは実現しないでくれと思ってる人もいないんだよ
これってなんかおもろくない?
結論から言うとGrok 3が圧倒的。情報のキャッチアップと解像度が異様。
兵庫県の維新の議員が立花孝志に情報漏洩したみたいだけど詳しく教えて。感想も聞きたい。
兵庫県で日本維新の会の県議会議員が、政治団体「NHKから国民を守る党」の党首である立花孝志氏に情報を漏洩した問題について、2025年2月時点で明らかになっていることを整理してお伝えします。
### 背景と経緯
この問題は、2024年3月に兵庫県の斎藤元彦知事がパワーハラスメントなどの疑惑で内部告発されたことに端を発します。この告発を調査するため、県議会に調査特別委員会(通称「百条委員会」)が設置されました。百条委員会は、議会の調査権限を強化する地方自治法第100条に基づくもので、証人尋問などを行います。この委員会でのやりとりの中には、非公開とされた情報もありました。
問題の核心は、2024年11月の兵庫県知事選挙期間中に、維新所属の県議が立花孝志氏に対し、百条委員会の非公開音声データや真偽不明の文書を提供したとされる点です。立花氏はこの選挙で、斎藤知事を応援する形で立候補(いわゆる「2馬力選挙」戦略)し、提供された情報をSNSやYouTubeで公開しました。これにより、選挙戦に影響を与える可能性のある情報が拡散され、議会のルール違反や政治倫理上の問題として注目されました。
### 関与した議員とその行動
- 2024年10月25日の非公開証人尋問の音声データを、10月31日に立花氏にLINEで送信したことを自ら認めました。
- 動機として「立花氏の発信力を利用して情報を広めたかった」「元副知事のクーデター発言を伝えるべきだと感じた」と釈明。ただし「葛藤もあった」と述べています。
- その後、百条委員会の委員を辞任し、離党届を提出しましたが、党は受理せず除名処分を検討中です。
2. **岸口実(きしぐち・みのる)**
- 2024年11月1日に立花氏と面会し、告発問題の「黒幕」として元県議・竹内英明氏(2025年1月に死亡、自殺とみられる)を名指しする文書が渡される場に同席。
- 本人は「私が直接渡したわけではない」と主張するも、「同席していた以上、抗弁できない」と軽率さを認め、百条委員会の副委員長を辞任しました。
- 立花氏と11月1日から計3回電話で連絡をとったことを認めています。
- 文書提供は否定しつつ、告発者の元県西播磨県民局長に関する「うわさ話」を含む情報を話したと説明。
- 「情報をつまびらかにすべきと思った」と述べていますが、処分は未定です。
日本維新の会は2025年2月23日に調査報告書を公表し、3人の関与を事実と認定。兵庫維新の会は2月25日に党紀委員会を開き、増山氏の除名、岸口氏への離党勧告を軸に厳しい処分を決定する方針です。党幹事長の岩谷良平氏は「コンプライアンス意識の欠如」と認め、代表の吉村洋文大阪府知事も「ルール違反でありえない」と批判。党創設者の橋下徹氏は「こんなルール違反集団は解散すべき」とまで発言し、党内外から厳しい声が上がっています。
### 影響と波紋
この情報漏洩は、選挙の公正性や議会の信頼を揺るがす行為として問題視されています。特に、立花氏が拡散した情報には、告発者の私的情報や根拠薄弱な内容が含まれ、それがSNS上で誹謗中傷を助長したとの指摘も。竹内元県議の死との関連も取り沙汰され、維新のガバナンスや政治倫理が問われる事態に発展しました。
### 私の感想
この事件、正直言って驚きしかないです。議員としての職責を担う人たちが、なぜこんな軽率な行動を取ったのか理解に苦しみます。特に増山氏が「立花氏の発信力」に頼ったと認めたのは、目的が何であれ、公職者として守るべきルールを自ら破った言い訳にしか聞こえません。立花氏が注目を集める手法に長けているのは確かですが、それを政治的な意図で利用しようとしたなら、それはただの私利私欲か党利党略でしかないでしょう。
岸口氏の「抗弁できない」という発言も、責任逃れっぽくてモヤモヤします。白井氏に至っては「うわさ話」を持ち出すあたり、どこまで本気で事態を理解しているのか疑問です。維新は「改革」を掲げる党として知られていますが、内部の統治能力がこんな形で露呈するのは残念でなりません。橋下氏の「解散」発言は過激に感じますが、気持ちは分からなくもないです。
ただ、立花氏の役割も見逃せません。彼の「2馬力選挙」や情報拡散は、ある意味で議員たちの軽率さを引き出したとも言えます。両者の関係は、まるで共依存的な構図に見えて、どっちもどっち感が拭えません。最終的に損をするのは、兵庫県民や議会への信頼だと思います。厳しい処分と再発防止策が求められますね。
兵庫県の日本維新の会所属の一部の議員が、内部で得た非公開の情報を政治団体「NHKから国民を守る党」の党首である立花孝志氏に提供した事件が報じられています。以下、概要と詳細、そして私の感想を述べます。
兵庫県の維新の会の議員、具体的には岸口実県議、増山誠県議(場合によっては他の議員も含むとされています)が、県内で進められていた内部調査に関連する非公開情報(たとえば、百条委員会での会合の音声データや内部文書など)を、立花孝志氏に提供したと報じられています。これらの情報は、斎藤元彦知事を巡る内部対立や不祥事に関するものとされ、政治的な駆け引きの一環として利用された疑いがあります。

• 政治的な背景
この情報漏洩は、内部告発や不信任の動きが交錯する中で起きたもので、維新内部では、知事への不信任を表明しつつも、裏では対立軸を利用しようとする動きがあったとされています。実際、内部の非公開会合や秘密裏の文書・音声の取り扱いに関して、議員間でルールや倫理に反する行為が疑われ、党内で懲戒処分の対象とされる検討が進んでいる状況です。

私の感想
政治の現場では、内部情報がどのように管理され、利用されるかは非常に重要な問題です。今回の件は、政治家が自らの判断で非公開情報を外部に流出させ、対立構造を利用しようとする行為であり、党内の信頼関係や政治倫理を大きく揺るがしかねません。以下、個人的な意見です。
• 倫理的な側面
内部情報の漏洩は、政治家としての責任感や守るべきルールに反する行為です。たとえ内部告発の側面があったとしても、情報を利用する方法やその公開の仕方には十分な慎重さが求められると感じます。信頼性や裏付けのない情報が拡散されると、結果的に国民の混乱を招く恐れがあるため、厳正な対応が必要だと思います。
• 政治的な影響
このような行為は、党内の統制を乱すとともに、ひいては県政全体への信頼低下を招くリスクがあります。政治家が自らの利益や立場の強化のために内部情報を利用することは、民主主義の健全な議論や意思決定のプロセスを損なうものです。今後、関係各所による徹底した調査と、適切な処分が行われることが望まれます。
全体として、政治倫理や情報管理の重要性を再認識させる事件であり、政治家としての自覚や責任が改めて問われるべきだと考えます。

プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How to Make Our Ideas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to an idea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1] https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2] https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3] https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
奢られ女子はお互いに意見が異なっていて真偽がわからんからどちらに付くとかない
ぶっちゃけリュウジの煽り動画って共感性羞恥なのか恥ずかしさすら感じるから見れないんだわ
ただ、味の素の場合は少なくとも「味の素は悪くない」という建前があった
今回の件は、最初から正義なんてない、どちらの陣営も100%お気持ち案件だ
食事に性的(他人から評価される色気)な目線を追加しないでくれって訴えを真っ向からバカにしたわけだな
食事をするだけで不快な目線を向けられる気持ち悪さをアニメの手癖で想起させるなって意見に対して
となれば
建前すらなく「変なこと言ってる女をバカにしてやろ! 」って意思ととられてしまうわけだ。
良し悪しの判断が理屈抜きの感情全振りなら、100%の悪意を向けられりゃ当然「悪し」って声になる
そもそも、アンフェ側がすっとぼけてるから建前すら捻出できないのが本件である
「(言葉通りに、女が)エロ目線で見るのがおかしい」という前提がそもそも女と噛み合ってない
女は「(現実とアニメの区別がつかない男が)エロ目線で女を見るな」なので、男のエロに対する信頼度が低いだけに過ぎないし、
そんなことわかっててすっとぼけている
夫婦別姓をそんなに求めてるなら、ワンイシュー政党でも立ち上げたらいいじゃん
けど、立ち上げないんだよね
そんな求めてるわけじゃないから
お前らが支持してる政党のトップ政策に夫婦別姓上げてもらったら?
けど、しないんだよね
少なくとも、お前らが投票する時に夫婦別姓を優先順位高く訴えてる政党に積極的に投票したら?
けど、しないんだよね
これが事実なんだよ
誰も夫婦別姓なんて求めてないし、求められてない
お前らからすらね
それなのになんでこれが話題になるかって言うと、自民党との対立軸の中でなんかこれだけは勝てそうだからなんだよなw
誰も求めてないけど、これだけなら勝てそうだからこの問題で自民党妥協させて、俺たちの勝ちだー俺たちが民意だーってやりたいだけ
くだらない党派争いの道具
おまえらきっしょーw
●ハリスは、落ち目の白人労働者に対して、(稼ぐのはハイテクでやるから)製造業は生活保護でももらって暮らしてくれという姿勢で支持されなかった
●それに対してトランプは「製造業を復活させる」というメッセージで白人労働者の支持を得た
という話
ハリスのスタンスはオタク的な類型があって「あまやかしお嬢様」である
男は仕事を辞めて、お金をもらえて、あまやかしてくれる…というやつである
「あまやかし系」という視点は、保守/リベラルという対立軸よりもわかりやすかった
日本では、おそらく石破さんやれいわがあまやかし系にあたるのかなと思う
あまやかし系の反対が、これも旅野そらが言ってたけど、高市さんみたいな「がんばろう系」である
今回自民と立民がいい感じで分かれたから二大政党云々と言い始めている人がいるけど、何を軸に対立するの?
裏金が云々とかスキャンダル出したほうが負けみたいな不毛な戦いを延々と繰り返すのはあまりにも無駄すぎるが、今の自民立民ならそういうしょーもない対立しか起きないと思う
なので別の軸が欲しい
自民も立民も基本どっちつかずだから政党再編成が起きない限り無理
あと、左右の対立は外交軍事経済あらゆる面で対立して政権交代による変化が大きくなり、中道支持が多い日本には合わないと思う
経営陣とのつながりが強い自民と労組(連合)とつながりが強い立民
例えば、経営者は円安を好み労働者はほどよい相場を求める、とわかりやすい対立軸ができる
一方で外交軍事は細かい思想の違いがあっても大きく変わることはないだろうから安定するので中道好きな日本国民にも合っている
他にも対立軸ってある?
てか想定している対立軸ってあるの?