はてなキーワード: 神様とは
俺はね、今日もチーズ牛丼のことを考えてたんだ。なんでかっていうと、朝起きたら夢の中でチーズ牛丼が喋ってたからさ。そう、あの濃厚なチーズが「俺を食べてくれ!」って叫んでたんだ。だから、朝ごはんに何を食べようか迷った挙句、結局チーズ牛丼のことしか頭に浮かばなかった。まるで宇宙の中で一番大切な星を探す旅みたいにさ。
でも、考えてみると、チーズ牛丼ってただの食べ物じゃないよな。あれは俺の人生そのものだ。牛肉が柔らかくて、チーズがトロトロしてて、それを見てるだけで心が踊る。まるで猫が毛糸玉を追いかけてるみたいな感じだよ。でも、猫は毛糸玉を追いかけても捕まえられないこともあるから、俺もチーズ牛丼を追いかけ続けなきゃならない。
そういえば、友達と一緒に食べた時のことを思い出した。あの日は雨が降ってて、傘も壊れてて、でもチーズ牛丼を食べながら「これが最高だ!」って言った瞬間、雷が鳴ったんだ。まるで神様も同意してくれたみたいだった。それからというもの、俺はチーズ牛丼を食べるたびに雷の音を思い出す。変な話だけど、それが俺の特別な思い出になってる。
でもさ、もしもチーズ牛丼がこの世から消えたらどうなるんだろう?想像するだけで恐ろしい。街中に漂う香りもなくなってしまうなんて、それはまるで空気が抜けた風船みたいだ。ふわふわしていたものが、一瞬にしてペシャンコになる感じ。それはまるで夢から覚めた瞬間みたいだ。
だからこそ、俺は今この瞬間を大切にしたい。チーズ牛丼を食べながら、自分の好きなことや夢について語り合う時間、それこそが本当の幸せなんじゃないかと思うんだ。このシンプルな料理がもたらす感情や思い出は、俺の日常を彩る大切な要素なんだから。
そう考えると、次回チーズ牛丼を食べるときには、もっと大きな声で「愛してる!」って叫びたい気分になる。でも、その前にまずは店に行かなきゃならない。ああ、早く食べたい!でも雨降ったらどうしよう?傘持って行かなきゃ!いや待てよ、その前に靴下は履いたっけ?
https://anond.hatelabo.jp/20241218180932
暖房のせいで室内の乾燥がひどいからと、湿らせたキッチンペーパーの枚数を増やしたらやたら活発に動くようになった。
「この大きさで小松菜についていたら多分悲鳴あげて捨てているな」といつも若干ゾッとしているので、おそらく当時より中身がでかくなっている。
年末年始、余分な野菜があまり出なかったため旦那さんのおやつであるアーモンドとカシューナッツをあげたら積極的に興味を示していた。
入れた瞬間に「え、なんかあるよな?ごちそうあるよな?」という感じで反応し、見つけたあとはやたらむしゃむしゃと食べていたので気に入ったのだろう。
油分が多いせいかうんちはねばついており、掃除が若干面倒だった。
カタツムリは掃除等によって環境が変わったり、何か食べ物の気配を感じるとツノを出して左右にキョロキョロと動く。それはちょっとかわいい。
まっすぐ効率よく目標に向かうことはほとんどない。私から見たらやたらと非効率的な回りくどいやり方をして目的地に向かう。
余談だけど、動く様子はもののけ姫に出てくるシシ神様(半透明の方)が首を返してもらうときの動きによく似ている。
というか、そもそも何故こいつ、多分アーモンドなんて生まれてこの方食べたことがないのに入れた瞬間に興味を示せるのだろう。
他の野菜だってそうだ。なんで「食べられるもの」がすぐにわかるのだろうか。あと油分が多いとおなかがゆるくなったりしないのだろうか。仕方ないから食べてるだけだったりするのだろうか。
飼育環境の基本情報はネットで調べればすぐにわかるが、それはあくまで「生かすための環境づくり」であってこいつがそれを好ましく思っているかどうかわからない。こいつにとって好ましい環境ってなんなんだろう……そんなことを考えているとき「論文でも読んでみたら何かわかるかもしれない」と思って気軽な気落ちで検索した。
[カタツムリ 論文]で検索すると、あまりたくさんはヒットしないがいくつか出てくる。
面白かったのは「カタツムリは逃げる時早足になっている!」という内容のものだった。
「こいつ、外敵から逃げるときスピードアップしてるらしいで!?」と旦那さんに報告したら「君といなければ一生知ることもなかった知識だね」と言っていた。あのぬめりが住宅材料に応用されているという情報も得た。
私も何か論文めいたものでも書いてやろうかと思って「光る食べ物をあげたらこいつも発光するのでは」と思って発光きのこととか調べたけれど、国内では基本的に離島にしか存在しないらしい。残念ながら、そこまで行く熱量は私にはまだない。
相変わらず名前もないし、うっすらきもいなとすら思っているけど、私はどんどんカタツムリに詳しくなっていく。
かっこいい。なんかマフィアとかが言ってそう。一度でいいから言ってみたいセリフランキングに載ってそう。なんか復讐の時とかに使いそう。
トルーマン・カポーティの『冷血』を意識して執筆されており、西口彰事件を題材にしたノンフィクション物。タイトルの『復讐するは我にあり』は新約聖書に出てくる言葉の一部で「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」から引用されている。
神様が後で報復するんだから、信者達はたとえ憎い相手だとしても善い事してあげなよ〜。それができた時点でお前は善い事をして悪に打ち勝てる奴になるんだぞ〜。の意
『復讐するは我にあり!俺が貴様を絶対にぶっ⚪︎してやる!!』
単語としての意味なら合ってる。でもお前は主ではない。主が怒ってるならいい。
怒りに身を任せた奴は怒りによって身を滅ぼすって話をしてる。悪に構わず善行をし、善行の乗り物で悪を乗り越えててください。
『復讐するは我にあり、っていうもんなぁ…俺も悪かったよな…反省しなきゃ』
自己反省の言葉じゃないです。主も『神の怒りってあんま奮いすぎても良くないよなぁ…もう!このダメ神!』とか思ってません。主がちゃんと『いや、悪人を裁くのは俺の担当だから』って言ってくださってるだけです。
お前は主ではない。
反省するべきことを反省するのは大事だが、やり過ぎも良くないです。善行しましょう。
『昨日の夜やってた“復讐するは我にあり”って映画見た?アレ、実際にあった事件なんだって!』
元々が作品名の流行から知ったものなのならば、やはり作品として扱う方が安直です。
下手にタイトルの言葉を表面だけ読み取って使うのは恥を掻く可能性がある。これはどの作品にも言えること。
作品の内容的にはキリスト教信者の詐欺などもやってきた大量殺人犯が日本全国を逃亡した挙句にキリスト教の神父を騙そうとして近付いた時にその娘に正体がバレて捕まり死刑になるという話。現実の事件のことでもあり、その奇妙な事件の顛末が話題にもなった。
『ローマ人への手紙でも言われております、主は言いました。復讐するのは私が行う、私が報復します。と、我々は慎み深く善行を行なっていき、それを以て悪意に打ち勝つのです。』
『でも俺、アイツのことぶっ飛ばしてえよ!』
『あなたは信徒ではないのですか?主の言葉が聞けないのはとても悲しいことですよ』
『あなたは善行で彼等を超越なさい。大丈夫です、今踏み止まれたあなたならきっと乗り越えられるから』
世の中の物事的に報復にはちゃんと報復で返されるし、だからこそしっかりと報復されない形にしなければいけない。
だがそれが別のどうしようもないものなら…?土砂崩れが起きて住んでる家ごと飲み込まれるとか、火つけが好きな人間がたまたまそいつの家の周りで火を付けたのなら?
そいつの愚かな行動が原因でそいつが勝手に堕ちていったのなら?
とはいえ、復讐というのは生き物が考える自分勝手な行動、現代では『そんなに解消したきゃ、解消すりゃいい』の精神が根付いてはいる。
善人ばかりの日本人なら勝手に自己反省してくれるが、遠くアメリカの大地では今でも流行りのヒップホップのビートに乗せて報復の連鎖の連鎖が起きて、若い黒人達が死んでいる。
だからこそ、主が言った『それ俺の担当だから、後でちゃんとやっとくから』には意味がある。後でちゃんとやってくれるから今日も苦しくても悲しくても笑って愛して喜びを分かち合いながら善行を積んでいく。
悪人は勝手にどこかで堕ちる。その哀れな光景を支援の立場で憐れみながら眺めたいというのならば、やはり善行は積むべきなのだ。
その後に主が裁いてくださるというのだから。
こういう話題って誰にも話せないので増田が居てくれて本当に良かった。
ただ申し訳ないが宗教名は伏せさせていただく。不本意に荒れてほしくないので。
私はそもそも神なんて人間の想像の産物としか思っていないが、神社に行けば賽銭して手を叩くし、法事があれば正信偈を読み上げる。
その行為に、何か私の思いを乗せるようなことは全くない。柏手を打った後の黙祷は本当に何も考えていないし、お経もそこに参列したならば読み上げる必要があるから読み上げているだけである。
一方で、私が宗教行為に宗教的意味を見出さないこととは別に、他人が自身の為に宗教を信じることについては寛容だと思うし、そうありたいと思っている。
宗教が心の拠り所になるという人は存在していて、むしろ世界的に見ればそちらが多数派で、宗教のおかげで前を向いて生きていけるならそれこそが宗教の本質だと思う。私には全く不要である。
神頼みすらしない人間が名前を聞いたこともない新興宗教に入信したのは、配偶者が宗教二世で、結婚するなら私も入信しなければ家族として早晩立ち行かなくなるであろうという判断からだ。
実際この宗教は説法の中でやたらと家族を大事にしろと教えてくるし、配偶者もその教えを強く信じているので、決して強制はされていないが実質的に結婚すなわち入信であった。
さて、おおよそ月に一度のペースで宗教施設へ足を運び、説法を聞くことを数年行ってきたが、いまだに神を信じることは出来ていない。
ここの説法はとても道徳的で、人の為になる事ばかりを言ってくれる。
神の啓示とやらを解説する体裁でお説教してくれるのだが、本質的には次の2点しか言っていない。
・他責思考を改めろ
これだけのことを毎度毎度手を変え品を変え様々な表現で教えてくれるのである。
私の思う「人間は斯くあるべし」をうまく言語化して、最初は感心しっぱなしではあったが、同時にお説教ではこうも言っている。
・これは宗教ではない。
・宗教法人に登録しているって?それは法的位置づけの話であって、教えも宗教がましくないでしょ?
宗教アレルギーな人やその風潮から心理的負荷を下げるために宗教じゃないんだよと言っているのは理解できるし戦略的にも正しいのかもしれないが、やっていることは宗教そのものなんだからそれを頻りに否定するのは大変に不誠実な態度だと思う。
おそらく信者から指摘を受けて、宗教法人登録に対する見解を一度だけ述べたのだと想像するが、きっちり税制優遇を受けておいて悪びれも無く大勢の信者の前でこんな言い訳をするのも笑えない。ダブルスタンダード甚だしい。
そして長く説法を受けていまだに神を信じられない決定的な理由がある。
それは、人の生きる姿を説くことと、神を信じることや神に祈る事が、私からすれば全く繋がっていないのである。
人が品行方正で他人に迷惑をかけないで生きることは、神を信じる信じない以前の当たり前の話ではないのか。
幸か不幸か、己の道徳観、倫理観はこの宗教のそれととても似通っているらしく、であるならばここの神を信じる必要性も無いという皮肉にもなってしまった。
やっぱり私に宗教は不要だという認識を強めるばかりというのも救われない。
まぁ、ここの神様からすれば私のような人間は端から救う対象ではないのだろう。
この先も生きていれば半世紀以上通い続けるであろうし、それが家族の幸せに繋がるのだから脱会する理由は無い。宗教三世ももう存在している。
これは私の観測範囲でしかないが、どこぞの悪名高い拝金主義な宗教団体とは違うことは見えたのでそれで手打ちとしようじゃないか。
遠距離の彼氏が年末年始の9連休帰ってきてくれて、私が少し大きな怪我しててあまりたくさん歩けないのもあって、ふたりでずーーーっと家にいた。
ドラマを見たり、映画を見たり、すき焼き食べたりカニ食べたりオードブル食べたりお寿司食べたりケンタッキー食べたりした。
年末年始に結婚の話になって、来年度の終わりごろ結婚する予定で進めてみようかってことになった。
わたしは離婚歴があって、元夫との結婚生活はやっぱり私が悪かったと思う。元夫とずっと一緒にいたかったなあって思うこともある。でも、本当に苦しくて悲しいことが多かった結婚生活だった。
でも彼は元夫よりもうんとうんと優しくて心が広くて、私のことを世界一愛してくれる。
こんなに優しく頭を撫でてくれる人はこの地球上にほかにいないと思う。
5分に一回好きと言っても、10分に1回抱きついても全部笑って喜んでくれる、僕も好きだよと言ってたくさん抱きしめてくれる。
離婚という辛い経験もしたけど、離婚しなければ転職することも、職場で彼と出会うこともなかった。こんなに私を愛してくれる優しくて明るい彼と出会えたことは神様がくれたプレゼントだと思う。
もちろん彼にも欠点がある。わたしにも。結婚にも不安はたくさんある。
でもこれからお互いに訪れる恐ろしいことも、楽しいことも、ずっと彼と一緒に感じることができればきっと大丈夫だと思うし、それが嬉しい。
元夫とはレスで、モラハラもあって、本当に悲しかった。元夫と彼は同じヒトのオスという生物なのか疑問に思うこともある。生物学的な優れがすごい。
彼と一緒に生きていける人生が楽しみ。
年末年始とは、つまりデイサービスもお休みという事であるからして、両親とも家にいるのである。
しかしワイは完全休みにならないのであって、毎年来てくれる大学生バイト(※ワイよりおちんぎん高いですが)が神様に見える。
ワイが作ったおせちをお世辞でもたのしみにしてますわ、とか言ってくれるしマジかよっていい子すぎてもう人生楽しんでほしい。
両親は色々あるが食い物はだいたい大丈夫である。緩いトロミという奴をやっているが念のためである。
年越しそばと皿盛りを買ってきて、甘酒を御神酒にして年越しでした。
とはいえ。
だいたいこう言うイベントの日は、母も父も機嫌がよいので、わりとトラブルになる事は少ない。
あれ、実は普通の料理のとろ身漬けに使っても失敗しにくいし、片栗粉とかとちがって味をぼやかしにくいし、カロリーも少ないので
こんな20代の若い女の子みたいな悩み、恥ずかしくて誰にも言えない。
彼氏ができる前は仕事漬けだった。請われてもいないのに休日出勤しちゃう迷惑なタイプの社畜だった。
欠陥人間の自分に恋人なんてできない、好きになることも好きになってもらえることもないと、遠ざけてきた。
美人でもない若くもない友人もいない学歴も金もない自分を直視できなくて、仕事できるタイプでもないのに仕事だけしてきた。別に能力が高いという訳でもないので、とにかく人より仕事に時間をささげて、頑張ってきた。その結果、仕事でそこそこの評価を得られていた。これしかなかった。
ひょんなことから、人生で一度ぐらい捨て身覚悟で恋愛市場に飛び込んでもいいんじゃないかと思った。
勇気を出してマッチングアプリを始めてみた。始めて会員登録した時のドキドキ感は今も覚えている。
運のよいことに、こんな私を気に入って付き合ってくれる人ができた。
一緒にいて本当に楽しい。遠い昔であれ、過去に恋人はいたことはあったのに、まるで初めての恋に浮かれる中学生みたいになってしまった。
マッチングアプリでこんなに人を好きになれるなんて?これは運命なの?神様ありがとう。
我ながらイタイくらいフワフワしてる。もう付き合って8ヶ月くらいたつけど、大好きすぎて毎日、彼のことを考えてしまう。1日24時間のうち、寝てる時以外は、彼のことを考えてしまう。誇張じゃなく本当に。
その結果、どうなったか。
仕事ができなくなった。
まず、彼氏と会うことを優先させるため、人より圧倒的に働くという物量攻めができなくなり、仕事がたまりまくってきた。
さらに寝る時以外は、彼のことを考えてしまう恋愛脳のため、仕事への集中力がびっくりするほど落ちてきた。仕事帰りに食事の約束をした日は、朝からふわふわとして、上の空で仕事をしている。
仕事が唯一のプライドだったのに、仕事ができていない、失敗ばかりしていることが怖い。怖いのに、彼のことばかり考えてしまう。考えたくないのに考えてしまう。
20代前半で学ぶべきことを学ばなかったツケ、年相応の人生経験をしてこなかったツケが今きている。
ここ最近、頭を悩ませているのは、彼と今後お別れすることになった際、どれだけ落ち込むかが怖い。
そして落ち込んだ自分に残されたのは仕事すらできない自分というのが怖い。
助けて。
他誌ならきっと2万部も売れんだろうなみたいな漫画も多い。
でもさすがのジャンプブランド、すごいよなぁ。1万の自力がなくても売れてる。
ただ思うんだけど、あのジャンプなのに売れてない軍団って絶対に他誌のほうが面白くなると思うんよ。
じっくりやればいいのにね。
でもジャンプじゃそれは駄目らしい。出落ち漫画を量産しないといけないんだ。
ジャンプ漫画だからどんな他誌作品よりも売れてると思って色んな漫画に喧嘩売って、アニメ会社に上から目線でさ。円盤も売れてなきゃ部数も右肩下がりで配信も大して結果出てないのに声だけとんでもなくでかい。
モンスター読者が育っちまったよまったく。
まあ序盤は適当で言いたいことは後半でしたわ。
最近のジャンプ読者、ちょっとあまりにもジャンプの現状を分かっていない上で批判ばっかりだ。
ファン界隈も酷いから避けるしかない。新規読者は寄り付かない魔境のようになったんじゃないだろうか。
読者様は神様ですすぎて、異様に見えるぞ。
俺は一番上にいるので、俺を抑圧できるのは神様だけ
なにがあったかっていうとね、初詣行こうと思ったんですよ初詣。ちょっと大きい神社にね。
神社の近くの駐車場に差し掛かったところで歩道を車がふさいでる。
アルファードみたいな感じのでかくて四角いやつ。
駐車場がいっぱいでね、入り口に半分突っ込んで待ってるんだけどケツが歩道に出ちゃってんだな。
しょうがねえなってちょっと待った。通れねえんだもん。車道にちょっと避けようったって車がバンバン通ってるし。
待ってたら車がちょっと前に進んでちょうど大人一人分ぐらい車道との隙間が空いた。
じゃあ通るかって歩き出したらね、ちょうど車の真後ろを通ってるときになんと車がバックして戻ってきた。なんでだよ。
慌てて前に走って避けた。よけられてよかったよ。
人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。
続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。
この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから「天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃんと表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石が英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石の長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。
このエントリにしたって、自分の過去の好みや性癖について書いてはいるものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去の日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記に感想文を記しておけばよかったか。しかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。
イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカは収奪と貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手の文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。
だからと言って歴史を正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史の議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在を無視するわけだからね。黒人対白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物の単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国の人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。
エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。
世界の神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様と人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ、神話にゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界と社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的にアチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父の本棚から貰って来たアレックス・ヘイリー「ルーツ」はまだ積んである。
これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学や歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量がヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。
語り手が複数おり、時系列もバラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれてしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペンが貧困ゆえに受けた一つの屈辱から生まれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。
ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹「海辺のカフカ」を読むとわかる。
ところで、フォークナーは日本を訪れて「私も敗戦国の人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動が燃え盛っている時に、思い出していた。
数世代にわたる大河小説と言えば、最近は学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫が尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後の世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである。
全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和を舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。
実はどちらも内容をほとんど覚えていない。
とはいえ、ポール・ニザン「アデン、アラビア」のように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。
ジャン・ルオー「名誉の戦場」は過去の大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんがヌーディストビーチをのぞきに散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。
手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか。文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車に突撃していった僕なんかは、そう思うのである。
アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人のスラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないか、イエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。
二分法はそもそも好きじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。
正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国のSF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義の理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。
うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなたの人生はあなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?
やっと納得できたのは、アイヌ民族の議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨の言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的な言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。。
とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分の立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランスで民主主義が機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民が女性を、女性が障害者を、障害者が外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家や安易にSNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的に糾弾してやりたい思いは消えない。他人の言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手を批判しても全然解決しないんだろうな。
この作品も一度褒めた。
エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公の愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情を表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親は義務で動いているわけじゃなくて、一般的に義務で動くキャラって意味。感情を表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃんと父親の内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。
閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ「日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。
ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」は書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。
あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。
続く。
星は語りかける
永遠の時を超えて
光は記憶を運ぶ
無限に広がる漆黒の宇宙空間。その果てしない闇の中で、一つの惑星が青い輝きを放っていた。エーテリア――そこは星の民が築き上げた理想郷であり、科学と芸術が調和した美しい世界だった。
惑星の中心には、一本の巨大な樹木が天を突き破らんばかりにそびえ立っていた。生命樹と呼ばれるその存在は、幹は惑星の核へと達し、枝葉は宇宙空間へと伸びていた。その姿は神秘的であり、かつ畏怖の念を抱かせるものだった。生命樹は星々のエネルギーを吸収し、それを星の民へと分け与えていた。彼らはその力によって、科学の粋を極め、同時に魔法のような奇跡をも起こすことができた。
しかし、永遠に続くと思われた平穏は、突如として終わりを告げる。
制御室に響き渡る警報音。モニターには無数の黒い影が映し出されていた。暗黒星団と呼ばれる謎の勢力が、エーテリアへの侵攻を開始したのだ。
「生命樹を守れ!決して彼らの手に渡してはならない!」
星の民は必死の抵抗を試みた。しかし、暗黒星団の圧倒的な軍事力の前に、彼らの科学力も魔法の力も、なすすべもなく押し流されていった。
長老評議会の緊急会議室。そこに集まった者たちの表情は深い悲しみに包まれていた。
「これが最後の手段となる」
長老の一人が、震える手で一つの装置を起動させた。生命樹の最深部から、金色に輝く果実が生み出される。それは星の民の希望のすべて、生命樹の力の結晶だった。
「そこなら、きっと...」
果実は光の軌跡を描きながら宇宙空間へと放たれた。その目的地は、銀河系の片隅にある小さな惑星――地球。
エーテリアの空が暗黒に染まっていく中、希望の光は静かに、そして確実に、新たな物語の始まりへと向かっていった。
流れ行く水に映る
天(あめ)の光
奇跡は訪れる
春風のように
吉備国の深い山々に囲まれた小さな村。そこでは春の訪れとともに、清らかな川のせせらぎが新たな命の目覚めを告げていた。夕暮れ時、川辺で洗濯をしていた老婆の目に、異様な光景が飛び込んできた。
川面を黄金色に染める夕日の下、巨大な桃が悠然と流れてきたのだ。それは通常の桃の何倍もの大きさがあり、その表面からは微かな光が漏れ出ていた。
「おじいさん、おじいさん!」
老婆の声に驚いて、畑仕事をしていた老人が駆けつける。
「なんとまあ、こんな桃があるものかのう...」
老人が長い竿を使って桃を岸に引き寄せようとした瞬間、不思議なことが起きた。桃が自ら光を放ち、まるで意思を持つかのように、ゆっくりと岸辺に寄ってきたのだ。
その夜、老夫婦は桃を家に持ち帰った。まるで宝物を扱うかのように、そっと台の上に置く。月明かりが窓から差し込む中、桃は静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
「割ってみましょうか」
老婆の声に、老人は静かに頷いた。その手に包丁を取ろうとした瞬間、不思議な出来事が起こった。
桃の表面に、細かな光の筋が走り始める。まるで生命の鼓動のように、その光は脈打ち、やがて桃全体を包み込んでいった。老夫婦が息を呑む中、桃は自らの意思を持つかのように、ゆっくりと割れ始めた。
黄金色の光が部屋中に溢れ出す。その光は柔らかく、どこか懐かしい温もりを感じさせた。まるで遠い星々の祝福のように、神々しくも優しい輝きが、この小さな家を満たしていく。
そこから一人の赤子が姿を現した。その瞬間、夜空が変化した。無数の流れ星が天空を覆い、まるで天からの祝福のように、赤子を包み込んだ。老夫婦は言葉を失い、ただその光景を見つめることしかできなかった。
老婆の目には涙が光っていた。長年、子供を授かることができなかった彼らにとって、この出来事は奇跡以外の何物でもなかった。
こうして桃太郎は、老夫婦の愛情に包まれて育っていった。しかし、彼が普通の子供ではないことは、すぐに明らかになっていく。
生後わずか3ヶ月で歩き始め、1歳になる前から流暢に言葉を話した。3歳で難しい文字を読みこなし、5歳になる頃には、誰も説明できない不思議な力を見せ始めた。
枯れた花を一瞬で咲かせ、動物たちと言葉を交わし、時には空中に浮かぶ姿も目撃された。しかし、最も特徴的だったのは、夜空を見上げる時の彼の表情だった。
まるで遠い故郷を想うかのような深い憧憬と、言いようのない懐かしさが、その幼い瞳に宿っていた。満天の星空の下で、桃太郎は何かを待ち望むように、長い時間を過ごすのだった。
古き記憶は目覚める
星の導きに従い
魂の奥底から
真実の光が射す
月が雲間から姿を現した頃、一人の老僧が村を訪れる。その姿は、一見すると普通の旅の僧侶のようでありながら、どこか異質な雰囲気を漂わせていた。特に、その眼差しには星空のような深い輝きが宿っていた。
「お前に会えて嬉しい、星の子よ」
老僧の言葉に、桃太郎の体が反応する。まるで長年眠っていた何かが、一気に目覚めようとするような感覚。彼の周りの空気が揺らぎ、淡い光が漏れ始めた。
「私は古代文明の守護者の一人。はるか昔、星の民と交信を持った人類の末裔だ」
老僧は静かに語り始めた。遥か彼方の惑星エーテリアの存在、生命樹が宿す神秘の力、そして星の民が直面した危機と希望。それらの話を聞くうちに、桃太郎の中で眠っていた記憶が、少しずつ形を取り始める。
「お前の中に眠る星の力が、今まさに目覚めようとしている。お前こそが、星の民が最後の希望として地球に送り込んだ存在なのだ」
その瞬間、桃太郎の体から強い光が放たれた。その光は夜空の星々と共鳴し、まるで天地がひとつになったかのような壮大な光景を作り出す。
記憶が蘇る。エーテリアの青い輝き、生命樹の荘厳な姿、そして星の民たちの祈りに似た想い。すべてが彼の中に流れ込んでくる。
「私には使命があるのですね」
桃太郎の声は、もはや15歳の少年のものではなかった。そこには、星の民の意志を継ぐ者としての威厳が宿っていた。
「そうだ。だが、その使命を果たすには、まず仲間との出会いが必要となる」
老僧はそう告げ、夜の闇に溶けるように消えていった。残された桃太郎は、満天の星空を見上げる。今度は、その眼差しに迷いはなかった。
星は独りにて輝かず
光は光と響き合い
使命は仲間と共に
道を照らすのだから
満月の夜。桃太郎は老僧から告げられた場所、古い神社の境内に佇んでいた。夜風が境内の木々を揺らし、どこか神秘的な雰囲気が漂う。苔むした石段、朽ちかけた鳥居、そして月光に照らされた拝殿。すべてが、何か特別な出来事の予感に満ちていた。
突如、夜空に三つの光が現れた。流れ星のように大気圏に突入し、神社の境内めがけて降り注ぐ。しかし、地面に激突することはなく、光は静かに三つの形を結んでいく。
犬、猿、雉――。しかし、それは地上の動物とは明らかに異なる存在だった。彼らの体からは星の光のような輝きが漏れ、その瞳には人間のような深い知性が宿っていた。
犬は漆黒の毛並みの中に、夜空のような星々の輝きを秘めていた。その体格は地上の犬よりもはるかに大きく、威厳に満ちた姿は古代の守護神を思わせる。周囲の空気が、その存在感に押されるように震えている。
「よくぞ来てくれた、星の御子よ」
最初に口を開いたのは犬だった。その声は低く、しかし温かみのある響きを持っていた。
「我々は、エーテリアより遣わされた守護者たち。私は守護の星より来た、忠誠の象徴。我が使命は、お前の力と意志を守り抜くこと」
犬が一歩前に出ると、その体から放たれる光が増し、周囲の空気がさらに震える。それは単なる威圧感ではなく、強大な守護の力の現れだった。その姿に桃太郎は、深い信頼と安心感を覚える。
猿の姿は、まるで古代の賢者のようだった。銀色に輝く毛並みは、まるで月光を織り込んだかのよう。その手には、星の文字が刻まれた古い巻物を持っていた。巻物からは、かすかに星の光が漏れ出ている。
「私は知恵の星の使者」
猿は一歩前に出て、静かに語り始める。その声には、悠久の時を越えてきたような深い響きがあった。
「星の民の英知を受け継ぐ者として、お前に古の知識を伝え、導くことが私の役目」
猿が巻物を広げると、その上に星座のような文様が浮かび上がる。それは星の民が残した古代の叡智、そして未来への導きを示す神秘の文字だった。その知識は、やがて桃太郎の力を目覚めさせる鍵となるはずだ。
最後に現れた雉は、虹色に輝く羽を持っていた。その姿は気高く、まるで天空の使者そのものを思わせる。羽ばたくたびに、空気中に光の軌跡が残る。その動きには、優雅さと共に、鋭い探求者としての一面が垣間見えた。
「私は探索の星より」
雉の声は、風のように清らかだった。
「未知なる道を切り開く案内人。星の印への道筋を示し、新たな可能性を見出すのが私の使命」
雉が羽ばたくと、空中に光の地図のようなものが描き出される。それは星の印が眠る場所を示す印。その光は、やがて彼らの旅路を導く道標となるだろう。
三者三様の姿でありながら、彼らには共通の目的があった。それは地球に隠された「星の印」を探し出し、エーテリアの遺産を守ること。そして何より、桃太郎と共に新たな未来を築くことだった。
「まずは、お前の中に眠る力を目覚めさせねばならない」
犬が言葉を継ぐ。
「星の印は、その力を解放する鍵となるだろう」
猿が巻物を広げながら説明する。その上には、日本列島の地図が浮かび上がり、いくつかの場所が星のように輝いて見える。
「古代の日本人は、星の民との交流があった。彼らは我々の遺産を、神社や古墳の形で守り継いできたのだ」
雉が光の地図に新たな印を加えながら付け加える。
「暗黒星団...」桃太郎は静かにその言葉を反芻する。その名を口にした瞬間、心の奥底に眠る記憶が微かに反応する。「彼らもまた、星の印を追っているのですか?」
「そうだ」犬の声が低く響く。眼光が鋭く輝き、その姿はより一層護衛の象徴としての威厳を帯びる。「彼らは影のような存在となって、既にこの地球にも潜伏している」
「だが、恐れることはない」猿が桃太郎の肩に手を置く。その瞬間、古代の知恵が微かに流れ込んでくるのを感じる。「我々四人の力が合わされば、必ずや道は開かれるはず」
「その通りです」雉が優雅に舞い降りる。その羽から放たれる光が、夜空の星々と呼応するかのように輝く。「さあ、我らの旅の始まりです」
桃太郎は三人の言葉に、深く頷いた。彼の体内から漏れる光が、三人の放つ光と共鳴する。守護の力、知恵の力、探索の力――それらが一つとなって、新たな力を生み出そうとしていた。
「共に行こう」
桃太郎の言葉に、三つの光が再び強く輝いた。その光は夜空へと立ち昇り、無数の星々と呼応する。彼らの旅立ちを祝福するかのように、満天の星が煌めいていた。
神社の境内に、新たな伝説の一歩が刻まれた。星の民の希望を託された少年と、三人の異世界からの使者による、壮大な物語の幕開けである。彼らの前には長い旅路が待っているが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「おじいさん、おばあさん...」桃太郎は心の中で、育ての親への感謝と別れの言葉を紡ぐ。月明かりに照らされた彼の横顔には、もう迷いの色はなかった。「必ず、戻ってまいります」
夜明けの光が東の空を染め始める頃、一行は静かに神社を後にした。行く先には幾多の試練が待ち受けているだろう。しかし、今の彼らには、それを乗り越えていく確かな力がある。
なぜなら、もはや誰も独りではないのだから。
そして、それぞれの持つ力が、互いを高め合い、補い合っていくのだから。
朝日が昇る方角へと向かう四人の姿を、神社の古い鳥居が静かに見送っていた。その背後では、夜明けの光に溶けていく星々が、最後の輝きを放っている。それは新たな物語の始まりを祝福する、宇宙からの祝福の光のようでもあった。
秘められし力の在処
古の遺跡に眠りて
目覚めを待つは星の印
日本列島に点在する古代の遺跡。それらは人知れず、星の民の記憶を守り続けていた。
雉の言葉に導かれ、一行は巨大古墳の前に立っていた。苔むした石組みの間から、かすかな光が漏れ出している。
「ここは単なる古墳ではない」猿が古い石碑に触れながら言う。「星の民の技術と、古代日本の神秘が融合した場所だ」
地下への入り口を開くと、そこには想像を超える光景が広がっていた。幾何学的な模様が刻まれた壁、天井からは青白い光を放つ水晶が並び、まるで星空のよう。
「これが...星の民の建造物」
桃太郎の声が静かに響く。彼の体内に眠る力が、この場所に反応して輝き始めた。
最深部の祭壇に置かれていたのは、透明な結晶。それは桃太郎の手に触れた瞬間、鮮やかな光を放ち、彼の中に溶け込んでいく。新たな力と記憶が、彼の意識を満たした。
続いて訪れたのは、伊勢神宮の地下に広がる古代の迷宮。そこで彼らは、暗黒星団の追手と初めて対峙することになる。
「彼らも、星の印を追っているのか」
犬が低く唸る。敵の姿は、まるで影そのものが実体化したかのようだった。
激しい戦いの末、桃太郎は新たに目覚めた空間転移の力を使って、仲間たちを守り抜く。そして二つ目の星の印を手に入れた彼は、さらなる力を得る。エネルギーを自在に操る能力だ。
富士山の地底湖では、時空を歪める力を秘めた最後の星の印を手に入れる。しかしその時、衝撃の事実が明らかになる。
真実は姿を現す
心の迷いを照らす
富士山の地底湖。永久の氷に閉ざされた空間で、桃太郎たちは暗黒星団の司令官と対峙していた。湖面に映る青白い光が、緊迫した空気を一層幻想的に彩る。
暗黒星団の司令官、シャドウロードと名乗る存在は、これまでの敵とは全く異なる威厳を放っていた。漆黒の装束の下から覗く素顔は、まるで星雲のように揺らめいている。
その声は、どこか悲しみを帯びていた。
「一つの惑星に、あまりに強大な力が集中することは、その均衡を崩壊させる危険性を持つ」
シャドウロードは、地底湖の水面に手をかざした。すると、そこに宇宙の光景が映し出される。
「見るがいい。これが現実だ」
映し出されたのは、エーテリアの繁栄期の姿。生命樹から放たれる強大なエネルギーが、周辺の星々に影響を及ぼしていく様子が映る。ある星は不自然な速度で進化を遂げ、またある星は逆に生命の営みを失っていく。
「力の集中は、必ず歪みを生む。我々暗黒星団は、その歪みを正す存在として生まれた」
犬が低く唸る。「だが、エーテリアの民を追い詰めたのは、お前たちだ」
「それは、我々にも苦渋の選択だった」
「しかし、宇宙の崩壊を防ぐためには、時として厳しい決断が必要となる」
猿が古い巻物を広げる。「確かに、古の記録にもそれらしき記述がある。生命樹の力が強大になりすぎると、周囲の星々に異変が起きるという警告が」
「我々は決して、エーテリアを滅ぼそうとしているわけではない」
「求めているのは、力の再配分。生命樹のエネルギーを宇宙全体で共有することで、新たな調和を生み出すことだ」
その言葉に、桃太郎は痛みを伴う真実を悟る。生命樹の力は、確かに強大すぎた。エーテリアの楽園は、皮肉にも宇宙全体の安定を脅かしていたのだ。
新たな夜明けの訪れを
星々は静かに待つ
光は分かち合われて
調和の詩となる
富士の頂に近い、古びた岩屋で、桃太郎は瞑想に沈んでいた。月明かりが差し込み、岩肌に幻想的な影を作る。彼の周りには、三つの星の印が静かに浮かんでいる。
長い沈黙の後、桃太郎は静かに目を開けた。その瞳には、迷いのない決意の光が宿っていた。
「力は、独占するためのものではない」
その声には、確かな覚悟が宿っていた。
「分かち合うことで、初めて真の意味を持つ。エーテリアもまた、その力を宇宙と共有すべきだったのかもしれない」
犬が一歩前に出る。「その選択が、本当にお前の望むものなのか?」
「ああ」
桃太郎は頷く。
「星の民が目指したのは、本当の意味での調和だったはず。それは力の独占ではなく、分かち合いの中にこそ存在するものだ」
猿が古い巻物を広げる。「確かに、古の予言にはこうある。『真の力は、分かち合われることで完全となる』と」
雉が羽ばたき、岩屋の天井近くまで舞い上がる。「その選択が、新たな道を切り開くというのだな」
桃太郎は立ち上がり、三つの星の印を取り囲むように手を広げる。すると、印からは強い光が放たれ、それは彼の体内に溶け込んでいく。
その瞬間、桃太郎の意識は宇宙全体へと広がった。生命樹のエネルギーが、彼の中で完全な形で目覚める。それは創造と調和の力、そして分かち合いの真髄だった。
星々の調べは永遠に
新たな物語を紡ぐ
光は宇宙に広がりて
希望の種となりぬ
春の訪れを告げる風が、吉備の山々を優しく撫でていく。老夫婦の住む村の傍らには、小さな生命樹が芽吹いていた。それは地球と宇宙を繋ぐ、新たな絆の象徴。
桃太郎は、地球における星の民との架け橋となった。彼の導きの下、人類は徐々に宇宙文明との交流を始めていく。それは慎重に、しかし着実な歩みだった。
犬は守護の星の力を活かし、新しい時代の平和を見守る存在となった。猿は知恵の継承者として、古い知識と新しい発見の調和を探求。雉は探索者として、さらなる可能性を求めて飛び立っていく。
夜空を見上げれば、かつてのエーテリアの輝きが、今や無数の星々となって煌めいている。それは星の民の希望が、宇宙全体の希望として広がっていった証。
桃太郎の伝説は、ここで終わりを迎えるのではない。彼が示した「力を分かち合う」という理念は、新たな物語の始まりとなった。それは地球だけでなく、宇宙全体にとっての希望の種。やがてそれは、想像もつかないほどの豊かな実りをもたらすことだろう。
老夫婦の家の縁側。桃太郎は両親と共に、夕暮れの空を見つめている。