はてなキーワード: 高得点とは
多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代の日本社会、特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会のリンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的な子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペットの禁止: これは単に集合住宅の規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育や生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器の禁止: 騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術や文化的な活動が「受験勉強の役に立たない」非効率なものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテムの選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事の危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供を安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの「禁止」は、現代社会、特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワードに支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2. 投稿者の性格と人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から、投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代と経験: おそらく30代後半から50代。自身が子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルやラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテム(ペット、楽器、はんだごて)を並べることで、問題の本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉と絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心からの賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉(アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情や祈りが感じられます。\n\n3. 世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観: 投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理しやすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供は未来の労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?: ペーパーテストで高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか? 他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間を人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かに、しかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先: リスクをゼロにし、すべてを予測可能な範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉な子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的な価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉で表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かに、しかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率と安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n
だいたい、TOEICの点数高いです!って言われて、「へえーこの人賢いんだ!」ってならないもんな
いけすかねえな、意識高くてキモそう、朝食としてスムージーとか飲んでそう、なんか家が全体的に白そう、そういう、うっすら悪いイメージしか抱けない
外国の方とはわりとノリと翻訳機でコミュニケーションをとってしまうが、TOEICはボロボロなワイからしたらすごい!すごい!ってなるのでそんな卑下しないで… TOEIC高得点に悪いイメージあるなんて初めて聞いたしもっと自信持ってほしい。
増田が求めているものとは違うかもしれないが、女をメロつかせる知性については、「デート先の下調べをする」で事足りると思う。
例えば美術館に行くとしたらそこの展示物についての知識を覚えておくとか、花畑に行くなら咲いている花の知識を覚えておくとか。
かつ、彼女が興味を示さない限り知識をペラペラしゃべらない。予習した知識を披露したいだろうが、そこはグッと抑えて、女が「これなんだろうね」とか言った時だけ、ちょっとだけ知識をボロンッとするのだ。
あとはニュースとか経済とかについても知っているといいかもしれない。女に話題を振られたら、軽く説明するのだ。
要するに、話題を振られた時に軽く話せるくらいの知識を入れた上で「話題を振られない限りしゃべらない」「話題を振られたらちょっとだけボロンする」これがメロさに大切。知識があること以上に、ボロンボロンしすぎないことが大切。お喋り男からはメロい知性を感じないし、知識をボロンボロンする男からはオタ臭がするだけでメロくはない。
現代において「リベラル」という語は、しばしば自由、寛容、人権といった普遍的価値の体現者として語られる。しかしその理念は、単純な理想主義とは異なり、時に暴力的な同調圧力や言論統制の側面をもつ。「言葉狩り」や「総括」——かつて全体主義的な体制が用いた方法論が、今日のリベラルの旗の下でも再生産されているのは、もはや皮肉ではなく構造だ。
キリスト教が「神の倫理」を独占し、共産主義が「平等」の名のもとに異端を排したように、現代のリベラルもまた、「多様性」「環境」など一見無害なスローガンを掲げつつ、異論を「不適切」として排除する。かつての権威と本質的に何が違うのか。その正義は内面の理念ではなく、制度としてのマナーの集合へと転化している。
このような構造は、トランプ政権のような“必要悪”の出現すら正当化しうる。民意が背を向けた理由を、「無知な大衆」や「ポピュリズム」といった語で済ませるなら、そこにあるのは知の傲慢と現実認識の欠如である。
さらに問題なのは、その「知」を担うと自負する層が、実のところ理数的訓練を早期に放棄し、論理の枠組みも確立せずに「言語感覚」や「批判的思考」を振りかざしている点である。思想を感情のレトリックにすり替え、知の仮面をかぶって言葉を弄ぶその姿は、理性の敗北以外の何ものでもない。
とはいえ我々もまた、この構造の外部に立つことはできない。たとえば学校教育における読書感想文や小論文で高評価を得るには、「冒頭で問題提起を行い、後半で対象を称賛する」という形式的テンプレートに則ることが求められる。本音や怒りをそのまま出しても評価は得られず、むしろ構成と語調、文体の方が重要視されるのが現実だ。
私はこの制度を批判的に理解しつつも、ある種の戦略として受け入れている。なぜなら、形式主義的な評価構造には、機械学習という形で応答可能だからだ。過去の高得点作文をコーパスとして収集し、形態素解析やTF-IDF、文体特徴を抽出。ランダムフォレストやTransformer系のテキスト分類モデルでスコアを予測する訓練を施せば、「評価される文章」の構造は統計的に可視化できる。教育とは、評価される形式への最適化であり、文章とは入力データである。
このアプローチは、単なる受験対策にとどまらない。むしろ、現代社会の「本音と建前」ゲームに苦しむ者、特にASD(自閉スペクトラム症)の当事者にとってこそ、有効な戦略たりえる。社会的暗黙知を感知しづらい彼らに、適応のマニュアルを提供する。それはまるで、村田沙耶香の『コンビニ人間』のように、社会への自動運転を可能にする「手順化された適応」である。
機械学習がもたらすのは、文学や思想をスコア化して矮小化することではなく、むしろ適応のための多様な選択肢を与えることである。リベラルが生んだ評価基準をリトマス紙とし、それを分析し、最適化し、時に裏切る。この戦略的態度こそ、今後のAI時代における批評性のひとつの形であると、私は信じている。
小学校中学年〜成人するまで結構な虐待を受けていた身なのだが、我が家ではその期間毎日の日課が課せられていた。
養親、実親、自分の3人で全員が高レベル(邪魔ブロックも最高設定)でゲームを行うのである。クリア時の得点が高いほど「その日の勝利者」になる。
アル中DVの養親が高得点を取るまでその接待は続く。また、養親がプレイに満足するまで何時間でも続く。
子供ながら、養親の気持ちを汲まないと即座に暴力を振るわれたり通学禁止になったり次の日からネグレクトが始まるので、加減を見極めてプレイしなければならない。養親の気分の高揚を見極めて、一番気持ちの良い時に勝たせる。
養親が苦手そうな配置の邪魔ブロックと落ちてくるブロックのステージは自分が「悔しい!今日は絶対自分が勝つから!」とコントローラーを養親から強奪して担当する。
養親が高得点を狙えそうな時は「ごめん、このステージ難しい!」と言ってわざと数回操作を誤る(巻き返しができるような所に落とす)養親がお前はそんなこともできないのかと言いながらコントローラーを奪ってきたらチャンスだ。
全てはわざと過ぎてはいけない。それがバレたら即座に暴力が始まってしまう。
養親との生活は考えうる限りの鬼の所業、今思い出せばここでは書ききれないほどの地獄の日々だったのだが、今思い返せば当時の自分の心は思った以上に穏やかではあったと思う。
感覚がもともとぶっ壊れていたのか、他に理由があるのか。テトリスがPTSDに効果的だ、という話をこの間見かけたので、ふと思い出した。
だってさ、あのコンテンツを見て読んでの感想ってだいたいこんな感じでしょ?
1.コスプレのレベルが高い。誰が見ても「マルシル」と思える見事なコスプレで憧れる。
2.そもそもバズるポテンシャルを持っているところに万博効果が想定以上のパワーを発揮して鬼バズリ。
3.とても謙虚な文章で好感が持てる。コスプレを知らない人にはかなりの高得点。
などなどうじゃうじゃじゃないでしょうか。
まあ。バズって当然だよね。な、コンテンツだったんだけど、なぜか大炎上したわけです。
その理由として版権がどうのこうの言ってますが、まあ、ね、そんなのはどうでもいいわけで。
つまるところ妬みですよね。そうでしょ?
……。
まあ、人妬むのもほどほどに…ね?
、っんと。女の妬みはクォわいわ。
なんか、エルデンリングへの文句が炎上してたので個人的に思ってた事を適当に書く。
全部序盤で辞めてる。
楽しくないから。でもしばらくの間は「楽しんでみたい」という気持ちだけはあったから新作が出るたびに試してみた。
ただ、溜まりに溜まった鬱憤が溢れ出てほぼクソゲーだと言っているのに「クソゲーだなんて言ってない」とかいうつもりはなくて、合う合わないってだけの話だとは理解しているし、楽しんでる人に文句言いたいわけじゃない。
俺が文句言いたいのは、どのゲームレビューでも満遍なく高得点がついてることだ。
高評価をする人が沢山いるのはわかる。
今の業界のそういう流行りの火付け役だからファンは沢山いるだろう。
でも、合わない人間もそれなりにいるはずなんだよね。
AstroBotが満遍なく高得点取るのはわかる。幅広い層に受ける素晴らしい作品だから。
レビューの平均値が高いってのはそういうことだ。万人にお勧めできるってことだ。
でも、フロムの死にゲーも同じか?俺はそうは思わない。
低評価しろってんじゃなくて、好みが分かれるゲームのレビュー平均点が万人受けするゲームと同じように高いならそのレビュー界隈は偏りすぎてるってことだと思ってる。
オープンワールドタイトルが爆売れしたら雨後の筍みたいにオープンワールドゲーが溢れ返り、死にゲーが爆売れしたら死にゲーが溢れ返る。
作り手の博打がリスク高くなりすぎて高予算の作品ほど似たようなゲームが並ぶんだよな。
そして、そういう流行りにどっぷり浸かったレビューワーだけが残ってみんな似たようなレビューを出して好みの分かれるゲームも判で押したような高得点つける。
作り手の側もコストは右肩上がりで増えていくのに商品単価は一向に上がらないから大変なんだろうけど、高予算の作品は随分先鋭化が進んじゃったなと感じる。
死にゲーは合わないと時間と金をかけて理解したので、エルデンリングは一切触ってない。
あと一つは?
そんな名前じゃなかったけどもうこれでいい
今回の再会にあたり
こう出たらこうする
みたいなのを会話しながらずっと考えてて
当時の記憶をポツポツ引き出したりしながら
なかったけど1つのゴールとしてヤる
なかったけど1つのゴールとしてそつなく単に会ってお茶して終わる
なかったけど1つのゴールとして当時は俺も好きだったと言われる
こうあったらいいのになと期待はせず、それでもやれる範囲はやりきったよ!
教員の時に「読解力とはなにか」と問われて知識を結びつけて文章に書かれていないことと結びつけることと答えた話…「読解力ではなく教養の話では」「推理力だ」の反応も
https://togetter.com/li/2518298
書かれていることの背景にある知識を持っていること、そしてそれと結び付けて想像力を働かせることは確かに教養として価値あるものだと思う。
読書を楽しめる人というのは、こういう背景知識と結び付けて想像を膨らませる事ができる人だろう。
しかし、それ以前の話として「書いてあることを書いてあるままに理解する」という力こそが大前提であり、それこそまさに読解力だと私は思う。
正直、平易な日本語で書かれた内容すら正確に読み取れる人は少数派だと私は思っている。その最低限の読解力を持っているだけで日本人の上位2割の頭脳だと言っても過言ではないだろう。
人間の脳はぼーっとしてると「知っていること」に当てはめて書かれていないことを勝手に補完してしまう。というよりそれが出来ない人との会話はかなり大変なはずなので、円滑なコミュニケーションをするために人間が獲得した本能じゃないかと思っている。
しかし、文章を論理的に理解しなければならない場合にその特性は役に立たないどころか害悪と言えて、酷い場合は書かれていることと全く逆の理解をしてしまう事もある。
そういう勝手な想像を廃して、書かれていることを書かれている通りに読むというのは実は難しい。厳密に読むというのは人間の本能に反する事であるから、残念ながら誰でもできることではない。高度な知的訓練が必要不可欠であり、しっかりと学問に取り組んだ人だけが持つ力なのだ。
読書好きが必ずしも国語のテストで高得点が取れるとは限らない理由はこの点にあると思う。趣味で本を読むだけなら厳密さなんて不要で自分が楽しいと思えればOKだが、一つの答えが求められる国語では想像力を働かせてはいけないのだ。
ふと思ったのよね。
美味しいクッキーってなんなのかしら?
これが最強に美味しいザ・クッキーってやつ。
クッキーを食べてもこれが美味しいものなのか美味しくないものなのか、
よく分からないまま食べているような気がするのよね。
でも一応として標準クッキーってのが人それぞれにあると思うんだけど、
これが私のクッキー。
口の中の水分を全部持っていかれそうなぐらい牛乳のお供が欠かせないほどのマリー。
そんな遠い記憶を呼び起こしそうなほど久しぶりに私クッキーを食べたのね。
となりの私がまえいた会社の同じフロアにある部署にお客さんが来てその人のお土産らしいそのクッキーを私もお裾分けでちょっといただいたの。
それがきっかけ。
早速だからといただいたのでせっかくだからいただきましょうってことで食べてみたの。
もちろんボソボソとしたあの苦手なクッキーのそれはあるけれど、
なんとなく口の中で転がしていると、
ふわっと咀嚼されたそれは溶けて無くなっていったの。
ああクッキーだからあのマリー的な食べごたえなのかしら?ってまあせっかくいただいたなんか缶入りの上等そうなクッキーだったので、
思わず口にしたのよね。
なのに予想だにしないクッキーなのにふわっとした口溶け。
率直に言うと美味しかったのよね。
今までに文字通り味わったことのないそのクッキーに私のクッキー最高得点が更新されたとともに、
あれ?もしかしてマリーも私の今の実力で食べたら美味しく味わえるかも!?ってそう思ってまだ試してはいないけれど。
あれ?
クッキーって私の中では好き嫌いで言えばあんまり好き好んで食べる類の食べ物ではなかったんだけど。
こんなこともあるのねって正直思った不思議な体験だったのよね。
いただいたクッキーはなんかふわっと口の中で溶けて無くなってしまう感じ。
この違いってなんなのかしら?
だからもしかしたら「良いクッキーって良いクッキーなのかもしれない!」って
なんか当たり前のことを当たり前のようにいってしまいがちなクッキー体験だったのよね。
とはいえ、
私はこれを機にクッキー探検家になるつもりはないけれどさらさら。
ときを同じくして、
私はこれも絶対に自分では買わない米菓である「おにぎりせんべい」を買って食べてみたの。
もちろん、
これが私のマイファーストおにぎりせんべいってわけではないけれど、
最後に食べた私のおにぎりせんべいメモリーは遡ることいつかしら?ってぐらい覚えていないほど食べていない久しぶりのそのおにぎりせんべいを口にした時、
あれ?こんなおにぎりせんべいって柔らかったっけ?って
もっとカチカチで齧るときに歯が欠けないように気を付けないと!ってぐらいの身長差を持ち合わせて齧りつかなくてはいけないとばかり構えていたけれど、
そんなに思ったほど固くなく、
ちょっと拍子抜けの感じ。
これってもしかして、
物価原材料費高騰で少ない原材料で同じ体積分のものを作るのを保ってキープしているから
つまり密度が低いクッキーはおにぎりせんべいがこうやってできているのかしら?って思ったの。
あり得るかも!?
そうなると合点がいくわね。
じゃがりこがじゃがりこたる所以のじゃがりこじゃがりこした感じはそのまま健在なのよね。
そんなじゃがりこじゃがりこした畳語を巧みに使えばいいと思ってよく調べてみたら、
うわ!これありえるかもしれない。
正確にはじゃがりこの長さを測って比べたことはないけれどソースは未確認。
たぶん有り得る話よね。
でも、
食感としてのじゃがりこは健在なので、
少ない原材料でいつもどおりの嵩の商品をつくる企業努力があんのかも?って思ったわ。
ただならぬクッキー界隈やおにぎりせんべい界隈では人に知られないそういった努力があんのかなって。
クッキー1枚食べただけなのにそんなことを思ったのよ。
クッキーがカンカンの缶缶に入ったクッキーはもしかして美味しいのかも!って。
結論は出ないけど、
森永マリーがその缶缶のクッキーをも軽々と超えてる美味しさかもしれないけど!
うふふ。
今日はゆっくりな朝のお休みの朝の早朝から早く起きてまだ朝ご飯はまだな朝よ。
ホッツルイボスティーウォーラー入れにしてこしらえておけばたくさん飲めることができるから、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ビジネスで使う英語力を測る試験として考えると、単語の選定はものすごい良い
実際アメリカの企業に応募した時とか、レジュメ書く時とか、仕事もらった後にtoeicで覚えた言葉はたくさん出てくる
じゃあ問題無いじゃん?と思うだろうけど、ビジネス英語という非常に狭い語彙だけを使用して高得点を簡単には取らせないようにする(取られると試験からすぐに離れられ儲からない&企業が真に英語力のある人材をtoeicの点数で選別できない)
実際公式問題集で日本語訳や解答の根拠を示してもらっても「?」となる部分は多い
そもそもあんな迂遠で意味不明な文章、英語使用してる時に見たことがない
市販の英文メール集とかアメリカ企業からのメールとかを読むと必要な事を分かりやすく、受け取り手に伝わりやすいよう簡潔に書いてありつまずくことがほとんどない
英語はたまに外国人社員と仕事の話したり海外とのメールで使うくらい程度。1対1で仕事のことなら話せるけどニュースやカジュアルな話題はついていくのが厳しい、ましてや他人同士の会話に途中から参加とか洋画は字幕なしではわからない、そんなレベル。これまで自己流でTOEIC対策チャンネルなど聞きながら勉強してたけど、リスニングに偏っていて発音に注目したことがなかった。そんなときELSA Speakを知って、一番高いプレミアムコースが年会費半額キャンペーンやってたので勢いで課金してみた。
半年ほど経ってみて気付いた良い点悪い点を備忘録として残しておく。特にELSA Speakは絶賛する宣伝っぽいサイトや動画ばかりで、悪い点(特に発音矯正以外)を指摘しているところをほとんど見つかられなかったので、もし迷っている人の参考になれば。
ぶっちゃけ良い点はこの一つだけだと思う。
ELSAスコアという独自基準の採点があり、開始当初は83%くらいの中級者、最高で91~92%ネイティブ、多いのは88~90%をいったりきたりという状況。自分の場合は日本人の例に漏れずTHの発音、とくにTheとかThisの有声音 [ð] が下手くそだったのだけどかなり改善されたと思う。ELSAのトレーニング時間も同じ量でも段々と短い時間で高得点が出せるようになってきた(開始当初は1時間程度、最近は20分くらい)。実際の発音については、たまに会う外国人社員からはどこかスクール行ったのかと聞かれたので客観的にもよくなっているのだろう。
自分の場合は発音は改善されてきたものの相変わらず洋画の聞き取りは全然わからんし以前より聞けるようになったという気もしない。一応AIとのロールプレイ会話機能はついているけど、そもそも日本語ですらお題に沿ってフリートークが苦手なので全然活用できていない。欧米人みたいにたまたま居合わせた人と世間話できるスキルが必要。発音の間違いの直し方は教えてくれないので、英語初学者には全然向かない。ある程度発音を意識できるようになった中級者でないと不満しか溜まらないと思う。そういう意味で本当に発音特化なのでリスニングとスピーキングは別でやるべき。コレ一本では無理だし宣伝にあるような英会話スクールの代替にはまったくならない。とりあえず1年課金してしまったのでもう半年は続けてみるけどね。