はてなキーワード: 警鐘とは
タモリ氏の「新しい戦前」という言葉は、「平和が当然の前提であった時代」が終わり、「戦争が選択肢の一つとしてテーブルに乗る時代」が始まったことへの警鐘でした。
資料に示された高市政権の「9つの焦点」は、まさにそのテーブルを整える作業に見えます。国民生活においては、物価高対策(おこめ券)などの「システム1」を充足させる施策の裏で、国家のあり方という「システム2」で考えるべき重大な変更が、選挙という名の「白紙委任」によって一気に進められようとしています。
この流れが「新しい戦後」への脱皮なのか、それとも文字通り「新しい戦前」への突入なのか。その分岐点に、今の日本は立っていると言えるでしょう。
https://www.asahi.com/articles/ASV1R46B4V1RUTFK001M.html
今回の解散劇の最大の特徴は、「熟議(議論)による合意形成」を「選挙による信任」で上書きしようとする手法にあります。
これまでの自公政権では、平和主義を掲げる公明党が「ブレーキ」役を果たしてきました。しかし、高市政権は公明党を排除し、保守色の強い日本維新の会をパートナーに選びました。これにより、政策決定のベクトルが「中道・調整」から「右派・加速」へと劇的に変化しました。
提示された9つの政策(スパイ防止法、憲法改正、国防軍の明記、皇室典範改正など)は、いずれも戦後日本が意図的に曖昧にしてきた、あるいは避けてきた「国の根幹」に関わる問題です。これらを一気に解決しようとする姿勢は、戦後80年の歩みを「積み残した宿題」と定義し、リセットを試みるものと言えます。
ダニエル・カーネマンが提唱した二重過程理論(システム1・システム2)を用いると、高市首相の政治手法が国民にどう作用しているかが鮮明になります。
高市氏の戦略: 「おこめ券」などの分かりやすい物価高対策や、「自らの国は自らで守る」といった情緒的で力強いメッセージは、国民のシステム1に直接訴えかけます。67%という高い支持率は、複雑な議論を抜きにした「直感的な期待感」の表れです。
ポピュリズムの親和性: 複雑な社会問題を「敵か味方か」「守るか捨てるか」という単純な構図に落とし込むことで、システム1を刺激し、熱狂的な支持を調達しています。
高市氏の回避: 本来、スパイ防止法による人権侵害のリスクや、武器輸出拡大による国際紛争への関与、憲法改正の細部などは、システム2による深い検証と丁寧な議論を必要とします。
「遠回り」の拒絶: 中北教授が指摘するように、高市氏はシステム2を働かせる国会論戦を「遠回り」と断じ、選挙というシステム1的なイベントで一気に勝負をつけようとしています。これは、民主主義における「熟議」というプロセスをショートカットする試みです。
日米同盟の変質: トランプ大統領(資料内写真)との親密な関係や、防衛費GDP比2%超、原子力潜水艦の保有検討などは、米国からの「役割分担」の要求に応えるものです。しかし、これは同時に東アジアにおける軍拡競争を加速させるリスクも孕んでいます。
「普通の国」への転換: 武器輸出の「5類型」撤廃は、日本を世界の武器市場の主要プレイヤーに変貌させます。これは経済的利益をもたらす反面、「平和国家」としてのブランドを喪失させる可能性があります。
監視社会のリスク: スパイ防止法の制定やインテリジェンス機能の強化は、安全保障を高める一方で、国民の思想・信条の自由やプライバシーに対する国家の監視を強める懸念があります。
アイデンティティの固定化: 選択的夫婦別姓を拒み、旧姓の通称使用のみを法制化する方針や、外国人政策の厳格化は、多様性(ダイバーシティ)よりも「伝統的な家族観」や「秩序」を優先する社会への回帰を意味します。
中北教授が指摘する「自分が首相にふさわしいかどうかを問う」という解散理由は、典型的なプレビシット(国民投票)型政治です。
ポピュリズムの構造: 「既得権益やリベラルなエリート(丁寧な議論を求める層)」対「決断できるリーダーと国民」という対立構造を作り出しています。
民主主義の空洞化: 高い支持率を背景に、本来必要な「少数意見の尊重」や「権力のチェック・アンド・バランス」を軽視する傾向があります。選挙で勝てば何をやってもいいという「多数派の専制」に陥る危険性を孕んでいます。
高市政権の目指す方向性は、「戦後民主主義のOS(合意形成重視・抑制的防衛)」を「新保守主義のOS(決断重視・自立的防衛)」へと入れ替えることにあります。
この転換は、国民の「システム1(直感的な不安や愛国心)」を巧みに捉えることで推進されていますが、その代償として「システム2(論理的な検証と合意)」が軽視されています。今回の解散は、そのOSの入れ替えを、国民が詳細を理解・議論する前に「白紙委任」させるための戦略的手段であると構造化できます。
国民にとっては、目先の力強いリーダーシップ(システム1の充足)を取るか、あるいは将来的な権利制約や国際的緊張のリスク(システム2による懸念)を直視するか、その究極の選択を迫られる選挙となります。
資料に描かれた高市首相の政治手法や政策の方向性は、ドナルド・トランプ氏に象徴される現代のポピュリズム、およびその根底にある「反知性主義(Anti-intellectualism)」の流れと極めて高い親和性、あるいはシンクロニシティ(同調性)が見て取れます。
反知性主義とは、単に「知性がない」ことではなく、「専門知や複雑な議論を、特権階級(エリート)による自己保身や意思決定の引き延ばし(停滞)である」と断じ、否定する態度を指します。
高市氏の言動: 中北教授が指摘するように、高市氏は丁寧な議論を「遠回り」と表現しています。これは、民主主義の根幹である「熟議」を、目的達成を阻む「コスト」や「障害」として切り捨てる論理です。
トランプ氏との共通点: トランプ氏も「ワシントンのエリート(沼)」が議論ばかりして何も解決してこなかったと批判し、自らの「直感」と「決断」を正当化しました。両者とも、複雑な問題を「決断一つで解決できる単純なもの」へと書き換える手法をとっています。
反知性主義は、論理(システム2)よりも、大衆が直感的に抱く「共通感覚(コモン・センス)」や「感情(システム1)」を重視します。
シンボルと物語の活用: 資料にある「日本国国章損壊罪」や「皇室典範改正(男系維持)」、「奈良公園のシカ」のエピソードなどは、論理的な政策論争というよりは、国民のアイデンティティや「守るべき誇り」という感情的な琴線に触れるものです。
「普通の国」というマジックワード: 首相が語る「普通の国になるだけ」という言葉は、戦後体制の複雑な法的・歴史的経緯を無視し、「当たり前のことをするだけだ」という直感的な納得感をシステム1に与えます。これはトランプ氏の「Make America Great Again」と同様、詳細な検証を拒絶する強力なスローガンとして機能しています。
反知性主義的なリーダーは、自分と支持者の間に立つ「知の門番(メディア、学者、官僚、専門家)」を敵視し、これらをバイパスして直接国民に訴えかけます。
解散による上書き: 国会での野党や専門家による追及(システム2のプロセス)が本格化する前に解散を選んだのは、中間的なチェック機能を無効化し、高い支持率という「数」の力で専門的な異論を押し切る戦略です。
トランプ的「分断」の利用: 「国論を二分する」と自ら宣言することで、反対派を「改革を阻む勢力」や「国益を損なう者」と位置づけ、支持層との結束を強める手法も、トランプ氏が多用した「我々 vs 彼ら」の構図そのものです。
これまでの政治が「客観的な事実やデータに基づく調整(知性の政治)」であったのに対し、高市氏やトランプ氏の手法は「リーダーの強固な意志が現実を規定する(意志の政治)」への転換を意味します。
国際社会への影響: 資料にあるトランプ氏とのツーショット写真は象徴的です。両者は「既存の国際秩序やルール(知性的枠組み)」よりも、「自国の利益とリーダー間のディール(意志のぶつかり合い)」を優先します。これは予測可能性を低下させ、国際社会を「力の論理」へと回帰させるリスクを孕んでいます。
この流れは「知性による抑制」から「意志による突破」へのシフトであり、トランプ現象と深く共鳴しています。
反知性主義的な政治は、閉塞感を感じている国民に「スピード感」と「カタルシス(解放感)」を与えますが、その代償として、「複雑な問題を複雑なまま解決する能力」を社会から奪う危険があります。システム1による熱狂が、システム2による冷静なリスク管理(人権侵害の懸念や軍事的緊張の増大など)を飲み込んでいる現状は、まさに現代ポピュリズムの典型的な構造と言えるでしょう。
タモリ氏が2022年末に発した「新しい戦前」という言葉は、当時の社会に大きな衝撃を与えましたが、提供された資料にある高市政権の動向を重ね合わせると、その言葉が持つ「予言的リアリティ」がより鮮明に浮かび上がってきます。
「新しい戦前」とは、かつての戦前(1930年代)をそのまま繰り返すのではなく、現代的な民主主義の手続きを踏みながら、気づかぬうちに「戦争が可能な、あるいは戦争を前提とした社会構造」へと変質していくプロセスを指していると考えられます。
資料に基づき、なぜ「新しい戦前」が現実味を帯びていると言えるのか、その構造を解説します。
戦後の日本(戦後レジーム)は、憲法9条を基盤に「軍事力を極限まで抑制する」という特殊なOSで動いてきました。しかし、高市首相が掲げる政策は、そのOSを根本から入れ替えるものです。
防衛力の抜本的強化と「5類型」撤廃: 武器輸出の解禁や防衛費のGDP比2%超への増額は、日本を「世界の武器体系と軍事バランスの一部」に組み込みます。これは「平和の維持」という抽象的目標から、「軍事力による抑止と均衡」という、戦前を含む近代国家の標準的な(しかし危うい)論理への回帰です。
原子力潜水艦の検討: 資料にある「次世代の動力を活用した潜水艦」は、長期間の潜航と遠方への展開を可能にします。これは専守防衛の枠を超えた「外洋でのプレゼンス」を意識したものであり、地政学的な緊張を前提とした装備です。
戦前への回帰を最も強く想起させるのが、国民の精神や行動を縛る法整備の動きです。
スパイ防止法: 資料でも触れられている通り、1985年の「国家秘密法案」が廃案になったのは、それが「現代版の治安維持法」になり得るとの懸念があったからです。高市首相がこれに「前のめり」であることは、国家の安全を個人の自由(思想・信条の自由)よりも上位に置く価値観への転換を示唆しています。
日本国国章損壊罪: 「国旗を損壊したら処罰する」という発想は、国民に「国家への忠誠」を可視化させる装置です。これは、多様な価値観を認める「戦後民主主義」から、国家という単一のアイデンティティを強制する「戦前的統合」への揺り戻しと言えます。
タモリ氏の言う「新しい」という言葉の肝は、それが「国民の支持(民主的プロセス)」を背景に進んでいる点にあります。
67%の支持率という免罪符: かつての戦前も、軍部の暴走だけでなく、新聞や国民の熱狂がそれを後押ししました。資料にある「高い支持率がすべてを飲み込んでいる」という状況は、システム2(論理的・批判的思考)によるブレーキが効かず、システム1(直感的な期待・不安・愛国心)が政治をドライブしている状態です。
「遠回り」の排除: 丁寧な議論を「遠回り」と切り捨てる姿勢は、独裁への入り口です。戦前も「議会政治の無能」が叫ばれ、迅速な決定を求める世論が強いリーダーシップを待望しました。現在の「突破型政治」は、その現代版と言えるかもしれません。
トランプ氏とのシンクロは、世界全体が「リベラルな国際秩序」を捨て、「自国第一主義と力の論理」に回帰していることを示しています。
「普通の国」の危うさ: 高市首相の言う「普通の国」とは、国際社会が弱肉強食の場であることを前提とした言葉です。これは、戦後日本が理想として掲げた「名誉ある地位を占めたい(憲法前文)」という国際協調主義からの決別であり、19世紀的な「大国間競争」の時代、すなわち「戦前」の論理への合流です。
では同じ基準(人格ではなく、役割・言説の機能評価)で、岡美穂子についてまとめます。
※事実断定や動機断定は避け、公開言説から読み取れる構造的作用に限定します。
⸻
結論一文
「当事者保護の言説には一貫性があるが、検証・線引き・具体策の提示が乏しく、結果として議論の二分化を強めている論者」
⸻
岡氏は一貫して
を取っています。
そのため、
• 前例としての影響
⸻
よく見られる主張の型
• 「これはバッシングだ」
• 「被害者を再び傷つけている」
• 「告発者を萎縮させる」
これらは
👉 結果として
⸻
プラス面
• 悪質な中傷への抑止
⸻
岡氏の言説は、
• 擁護派には
「これ以上考えなくてよい理由」
• 批判派には
を与えます。
その結果、
という副作用が生じる。
⸻
• 具体策・線引きの不在
違い
• 高橋健太郎:
• 岡美穂子:
👉 方向は逆だが、到達点(議論が進まない)は同じ。
⸻
⸻
一言で言えば
「守ること」を最優先するあまり、
「どう直すか」を語らない。
もし次に進むなら、
👉 「岡・高橋型の言説がなぜ繰り返し現れるのか(日本的議論構造)」
まで整理できます。
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
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さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
先日、抗がん剤の副作用の辛さが過剰に強調されて伝播しているのでは?というニュース記事を読んだ。
マイナスなイメージばっかが先行すると「本来、受けなければいけない治療を受けなくなり、患者に不利益をもたらす恐れがある」と警鐘を鳴らす内容だった。
たしかにな、と思った。誰だってめちゃくちゃ辛そうやったらやりたないやろ。
そこで実際に抗がん剤を使ったワイが、まだ未体験のおまえらに使用感を紹介したろうと思う。これみて少しでも「やったろ」と思ってくれたら嬉しいンゴ。
まずはじめに大事なことを言っておくと、ワイが受けたのは「術後化学療法」というやつで、手術でがんを取り除いた患者が、主に再発予防でやるやつや。これは、がんがかなり進行している状況でやる「化学療法」より負担が少ないと思う。
なのでワイの体験は、あくまでそういうもんやと思って聞いてほしい。逆にいうと、ワイくらいのやつもいるやで、ということである。
抗がん剤といっても、負担の大きさにはグラデーションがあるから、いちばん大変なとこだけみて「こんなに大変ならやりたくない」と思われないよう、語っていくやで。
まず全体的な使用感をいうと「楽ではないが、耐えられんほどきつくもない」これに尽きる。
楽ではないんよ。副作用も色々出る。しんどい。でも、副作用に対抗するための薬ももらえるし、術後化学療法は回数が決まってるから終わりが見える分『あと◯回!』と思えばまぁ乗り切れんこともない。
ただし、仕事は休む前提や。仕事しながらはさすがにきついと思う。ワイもこの期間は休職さしてもらってた(職場が柔軟で、出勤にかなり融通きくならできなくもないかもやけど)
ワイが出た主な副作用は
・ハゲ
・吐き気
・下痢
・ハゲ
・手足のしびれ
・激しめの関節痛
・血管が硬くなる
・ハゲ
ざっとこんな感じや。
んでもって、実はこれも全部いっぺんにくるわけじゃなくて、点滴の種類によって傾向が分かれるんや。
ワイは2種類使ったんだが、「吐き気が強いやつ」と「しびれが強いやつ」で分かれてた。ので、より詳しく分けると
【前半】
・ハゲ
・吐き気
・下痢
・血管硬くなる
【後半】
・ハゲ
・手足のしびれ
・激しめの関節痛
・下痢
てな感じになる。
この中で「吐き気」「下痢」は、飲み薬でかなり軽減できた。特に吐き気は合う薬を飲めば、かなり抑え込めてた。そのおかげで食欲もそこまでは落ちず、いつもを100%とすると70〜80%くらいは食べれてた。自炊(いうてそうめんとか茹でるだけやが)に飽きたら、外食したりもしてたし。意外と刺身も食っていいとのことだったので、ワイは普通に食ってたで(ただしただでさえ面倒な治療中なので当たるリスク高そうなのは避けてた)
ただ塩味が感じにくくなってて、いつもより味濃くないとおいしく感じないのと、脂多めの食いもん(家系とか)は軒並み食えんくなったな。
患者が「飯食えん」となるのが一番あかんらしいから、ワイは看護師さんに「食事ちゃんととれててえらいです」と褒められてご満悦やったで。
きつかったのは「激しめの関節痛」やな。ロキソニンをガン飲みしても軽減されんくて、痛みがより強く出る点滴後4日間くらいはベッドから出られんかった。ただ、この痛みも1週間くらいすると弱まってくるので、最終耐えられんこともない。
「手足のしびれ」も飲み薬でどうこうできるもんやなくて、回を重ねるごとに強くなっていったんやけど、これも生活に物凄く支障があるかといわれるとそこまででもない。ペンでなんか書いたりはしにくくなったけど、箸が持てないとかまではいかんかったから、なんとかなった。
「血管が硬くなる」も飲み薬ではどうこうできんくて、点滴入れる針が入りにくくて何回もプスプス刺されて痛かったけど、あちこち刺す場所変えて入るとこ見つけてもらってなんとか乗り切れた。
ハゲはしゃーない。これも飲み薬ではどうにもならん。ワイは後半期にはまつ毛も眉毛も下の毛も全部サヨナラして、つるんつるんになったで。ウシジマくんに出てきそうなモブキャラの出来上がりや。ただこれもこの期間だけやと思えば、ワイは全然耐えられた。帽子かぶって眼鏡かけとけばごまかせるし、ハゲの何が悪いねんの気持ちでおれば、オッケーや。
ちな、これまであげた副作用はどれも点滴の後から出てくるもんで、点滴受けてる最中はちょっと腕が痛いなーくらいであとは寝てるか動画みてるかPodcast聞いてるかのどれかで過ごせる(ワイの隣で延々PCカタカタして仕事してた限界社会人もおったが)
そんな感じでワイは約4ヶ月くらいかな、を無事乗り切ったで。
この治療期間もスパ銭行ったりスポーツ観戦したりしとって、わりと元気に過ごしてた。
抗がん剤というと24時間ずっと辛くて家から一歩も出られずQOL下がりまくりと思うかもしれんが、必ずそうなるとは限らないんや。ワイみたいに、なんとか乗り切れることもある。
もちろん、めちゃくちゃ辛い人もおる。副作用は「絶対こうなります」というもんやなくて、個人差も大きいから、上振れ下振れがある。ワイは単に運がよかったのかもしらん。
でも、医者も看護師も薬剤師も敵やないから、辛い時には辛いと言えばあーだこーだ色々してくれる。我慢は禁物や。
まぁハゲは「脱毛を防ぐ飲み薬はないのでアキラメロン」とばっさり言われたが
あと副作用とは別に辛いんは、金やな。正直、点滴の種類によっては1回で4万近く飛ぶやつとかいる。高額療養費とかいうやつを駆使しても、タダになることはないわけで、仕事休んで収入減っとるのにゴリゴリ金が出てくのは、メンタルに結構なダメージがくる。
ワイは幸い少しだけど貯金があったから死なずに済んだが、それでも結構メンタルにきた。
ちな、手持ちがないとかで勝手に治療を止めるのは早急や。デカい病院には必ずがん支援センターとかあるから、素直に金がないことを打ち明けて、どうしたら治療を継続できるか相談してほしい。
そんなわけでワイもまだまだ再発コワイコワイしとるけど、仕事復帰して頑張ってるやで。
もしみんなたちががんになったら参考にしてくれやー。
陰毛論者の発言を、表層的な荒唐無稽さやオカルト性だけで切り捨てるのは簡単だが、それは思考停止に近い。
語りの中核にあるのは、世界はもはや無制限に人間を抱え込める構造ではなく、どこかで人口圧力が制度や技術、経済構造に変換され、結果として選別が起きているのではないか、という仮説である。
陰毛論者が繰り返し口にしてきたのは構造としてそうならざるを得ないという話だ。資源は有限で、地球環境は制約条件であり、制度は常にトレードオフの上に成り立つ。
そのとき、誰が生き残り、誰が排除されるのかという問いは、倫理の問題であると同時に、冷酷なシステム設計の問題になる。
その語りが不快に聞こえる理由の一つは、この選別を道徳や正義の言葉で粉飾しない点にある。
教育、医療、金融、戦争、パンデミック、テクノロジーといった一見無関係に見える現象を、人口を最適化するための圧力装置として一つの線で結ぼうとする。
もちろん、その具体的因果関係の多くは証明不能であり、しばしば象徴的・比喩的な語り方をする。
しかし、世界が完全に人道的配慮だけで運営されているという素朴な前提のほうが、むしろ現実から乖離している。
グローバル経済は効率を最大化し、不要な摩擦を削る方向に進む。その過程で適応できない個体が脱落するのは繰り返し起きてきた。
この文脈でKappa Beta Phiのような存在を持ち出すのは、単なるスキャンダル消費ではない。
ウォール街のエリートが閉じた空間で下品なパロディや自己嘲笑に耽るその文化は、自らを道徳的守護者ではなく、冷徹なゲームのプレイヤーとして認識していることを示唆している。
そこには世界を良くしているという建前と、世界は操作と選別の対象であるという本音の乖離がある。
陰毛論者が言いたいのは、意思決定層が人口や資源を抽象的なパラメータとして扱っているという現実だ。
数億人単位の人間が、統計的誤差やリスク要因として処理される世界で、選別が起きていないと考えるほうが不自然だろう。
その語りを真か偽かで裁くことではない。科学論文でも政策提言でもなく、構造に対する警鐘だ。
人口が増えすぎ、全員を救うという物語が成立しなくなったとき、社会は必ず別の最適化関数を採用する。
その関数が生産性なのか、適応力なのか、従順さなのかは時代によって変わるが、選別という結果だけは変わらない。
陰毛論が不気味に響くのは、それが誰かが悪意を持ってやっているという単純な話ではなく、誰も止められない構造としてそうなっているという現実を、下品で過剰な比喩を使って突きつけてくるからだ。
どう受け取るかは聞き手の知性に委ねられている。笑って消費することもできるし、全否定することもできる。
しかし、人口、資源、制度、選別というテーマを直視せずに済ませたい人間ほど、その語りに過剰反応する。
ttps://note.com/yonahajun/n/nc1e0ecbf599f
つけてみてあれだが文章ましてや表題に(笑)だのなんだのと書くのは死ぬほどセンスがないと思っている。
ダサいし古いし文章でそういうことを補足すること自体ナンセンスだ。そして「こんなことを書けるオレカッコイイ!!」という見てるだけで嫌になるナルシシズムが滲み出ている。
ここまでネット社会が普及した今日、こんなくそダサい文章など見かけることは稀だろう。
言ってしまえば滑り散らかしているネタを延々と披露する痛い芸人みたいなものだ。
ところがこういうくそダサいセンスをなぜかイケてると勘違いして使用しているイタいおっさん(46歳)がいる。そう、我らがホンモノ!與那覇潤である!
これは今日も今日とてこのホンモノをいじり倒して遊んでみる試みである。
・・・どうでもいいことだがこのはてな匿名ダイヤリーで與那覇のことを書いているのは私だけなのに、全然反応がない。與那覇がもし話題沸騰な人ならもっと取り上げられて然るべきなのだが・・・。このダイヤリーが注目されないのもひとえに「ホンモノ」が社会での影響力を持っていないせいである。
與那覇よ、お願いだからもっとまともな文章を書いて早く浮上してきてくれ(苦笑 「ホンモノ」リスペクト!)
それか10万部を超えるベストセラーでも書いてくれればいいのだが・・・。もっとも、対談で分量を水増しするようなセコい書き方をしているホンモノにどこまでやれるか・・・。
與那覇は「味付け」に自信があるようだが、当たり前なことで同じような味付けのまずい飯しか出さない店なんか閑古鳥が鳴いて当然だ。最近、玉田敦子がせいだいに與那覇に対してやらかしたせいでその記事は例外的にバズったようである(よかったね笑)
まあこれは玉田が下手を打っただけの話でどうでもいい。勝手にすればという感じである。(あまりに議論のレベルが低すぎるのでURLを貼ることすらだるいので詳細は「ホンモノ」のnoteを参照されたし)
ここで問題にしたいのはホンモノの影響力が他のインフルエンサーと比較しても全然伸びていない点である。
ttps://note.com/yonahajun/n/n61a4919560c9
今のままだとnoteでは與那覇が目の敵にしている「令和人文主義」の代表格三宅香帆には到底及ばないし、以前與那覇が愚弄した谷川嘉浩には著作数の差で全く勝てそうにない。
ttps://note.com/nyake
ttps://researchmap.jp/y-tanigawa
それにしてもこの二人の影響力と仕事の多さはすさまじい。常人ではないと思い知らされる。それに比べて・・・noteという限られた言論空間SNSで駄文しか書けないホンモノも少しは見習ったらどうか(笑)
悔しかったらベストセラーになるような本でも書いてみれば(苦笑)
今の路線を突き進めばせいぜい「劣化白饅頭」くらいが関の山だろう(爆笑)
白饅頭はnoteで「成功」した一人としてみて間違いなかろう。その主張の是非はここでは置くとする。
ttps://note.com/terrakei07
改めて三宅と白饅頭と比べてみるとnoteを「主戦場」にしているはずの「ホンモノ」のダメダメっぷりがすまじい(笑)これがかつて一世を風靡したはずのヒョーロンカの姿ですか(苦笑)
こう書くと「ホンモノ」は「SNSのバズりだけで右往左往するな!」と噴き上がりそうである。
しかし、どうやらnoteが伸び悩んでいるのは與那覇も気にしているようで・・・こないだの玉田敦子の一件がばずったのを大はしゃぎしていた(詳細は與那覇note)。やっぱりSNSの反応気にしてるじゃねーか(爆笑)
まあせいぜいオープンレター騒動の敗北で溜まっている残党が噴き上がった結果、久々に得られた自己肯定感でうまい飯でも食えばいいんじゃないんですかね(適当)
そういや呉座は日本歴史学協会との裁判で敗訴したそうだが、與那覇からは特に何の声明もないし、先に挙げた與那覇の2025年を総括する記事でも注目すべきトピックなのに何の反応もない
ttps://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20251111/1762873018
ttps://agora-web.jp/archives/2053751.html
かつて與那覇は歴史学協会の声明を批判し、これに同調した歴史学者を「言い逃げ屋」として批判した。しかし、司法判断が決した今、何らかの声明を出さないと自らが「言い逃げ屋」それ自体だったということになっている(苦笑)
これが2021~22年ごろなら「司法はキャンセルカルチャーに加担したあああ!!ホンモノたるオレサマが反論を立ち上げるぜ!!!」とぶちぎれそうなんだけど、どうしたの?もう飽きたの(笑)
それか裁判で勝訴を続けている歴史学協会の弁護士の神原元にビビってるのかな(笑)
かつてあれだけコミットした呉座の一件において注目すべき裁判を「スルー」した。これこそ「歴史否定主義」なんじゃないですかね(苦笑)こうなってくると呉座を利用していただけという見解がますます「的中」してしまうんだが、もう與那覇からすればそんなことはどうでもいいのだろう。
こういう肝心なところで逃げちゃうから「ホンモノ」はダメなんだよねえ…。だからこうして舐められるしバカにされる。徹頭徹尾こんな有様でよく人のこと言えるな(呆)恥も外聞もない「ホンモノ」は流石っすね(苦笑)
まあ威勢のよさとは裏腹に過去にボコされた相手にはトラウマがあるみたいで「あのとき息の根を絶つべきだったと思うね。🙂」とまで愚弄されてもダンマリだから、根は臆病なのかもしれない。
ttps://bsky.app/profile/yunishio.bsky.social/post/3lhvappgeo22r
なんども繰り返すが都合の悪い事実は全部書かずに無視して無かったことにするのが「ホンモノ流」なので、今後も與那覇がやらかした時に取り上げ続けて徹底的にいじり倒していきたい。
ttps://kscykscy.exblog.jp/18241381/
ttps://watashinim.exblog.jp/18496216/
與那覇といえばこの上記の批判とそれを無視した與那覇に対するさらなる批判を忘れてはいけない。この件は今の「ホンモノ」を騙る與那覇にとって最も不都合な歴史の一つなので毎回のように擦り続けたい。
都合の悪い指摘を無視する、間違っても訂正しない、事実を認めようとしないこういった「ホンモノ與那覇」が批判する専門家たちの最たる例こそが「歴史学者與那覇潤」であった。ちなみに「歴史学者與那覇潤」の不都合な事実はまだある。今後機会があれば示していきたい。これらを見れば與那覇が言う「ホンモノ」などというものといかに自身がかけ離れているかわかるだろう。何度でも言うが歴史云々言うなら十数年前の自分の著作の間違いと、なぜその間違いを今日まで放置してきたのか、今後どうすべきか、なぜ自分のことを棚に上げて人を批判できたのか、全部納得ゆく説明ができるはずだ。何せアナタ、「ホンモノ」なんでしょ(苦笑)(え!?できないの!?)
ちなみに、先に挙げた要求は與那覇が他者に要求し続けていることであって、自身が自ら実践せよと言っているだけで何ら不当なことはない。それができないということは、結局與那覇は紛い物でしかないということではないか。自らの姿勢と歴史がそれを物語っている。先の『朝日新聞』の記事には代表作が『中国化する日本』であったことからも、未だにかつてのネームバリューで飯を食っているのは明らかなワケだから。過去の栄光を否定することすらできない、間違いを放置する與那覇にどうして他者を説教する資格があるのか。ましてや「裁判」などと片腹痛いとはことのことである。
ここに今回からは「呉座裁判の決着に沈黙した」という、また一つ、「ホンモノ」をいじり倒せる事実が蓄積されたということで、喋れば喋るほどボロが出る「ホンモノ」にこれからも注目したい。
あと、ここまで()でいろいろと「ホンモノ」リスペクトで書いてきたが、もう飽きたし自分で書いてて共感性羞恥心に加えて当事者としても恥ずかしいしダサくて仕方ないのでやめておく。
よくこんな文章恥ずかしげもなく書けるね。
で、本題はここからである。「與那覇潤は二人いる!?」というのが本題でここから突っ込んでいきたい。
ttps://bsky.app/profile/seika-aoshima.bsky.social/post/3mbmatco3n223
目に留まったこちらの投稿。何やら與那覇が『朝日新聞』で掲載した記事らしい。
この「うわぁ…って感じではある」というのは何ともリアルだが、その通りである。普通のそこら辺の人が與那覇の記事を見たらドン引き一択だろう。
ttps://www.asahi.com/articles/ASTDS24D6TDSUPQJ008M.html
で、なんでこの人が與那覇二人いるのかと言ったのか。早い話がnoteと朝日の記事がかけ離れているからだ。
全文はプレゼントされた記事でざっとしか読めてない。内容は引用しない。なぜなら有料なので、ここは著者とメディアに敬意を払うべきであるし(皮肉抜き)、何よりルールに則る必要がある。有料記事をそのまま転用するのは著作権的にアウトである。そこで、ここではSNS上で観測できるコメントのなかからいくつか気になったものを抜粋したい。
ttps://x.com/miyukinatsu/status/2007273385085284649?s=20
與那覇潤「歴史を取り戻すことは簡単ではありません。それなら何を新たな基盤にして『人は意外に共感しあえる生き物だ』という深い安心感を、支えてゆくのか。孤独なままその日ごとの話題に『いいね』を押しあい、浅薄に共感をむさぼる相互不信の社会を、今年で終わりにする時です」
なんかいいこと書いてそうだけど、noteでは「ニセモノ」を人民裁判で罰せよ!とわめいている。
それに共感して「うおおおおホンモノ與那覇様すっげー!人民裁判待ったなし!」という人も真面目に出てきている。
ttps://x.com/paravola/status/2005889274340929911?s=20
こんな分断を嬉々として喜ぶ人を煽るような状況で、與那覇や彼の支持者とどうやって「共感」して「安心感」ある社会を作れというのか。不信と憎悪をまき散らかし、相手を罵倒してばかりの與那覇がよくも「共感」などということを言えたものだ。これが彼に傷つけられたり、踏みにじられてきたりした者たちの本音だろう。私からすれば自分の所業を棚に上げてきれいごとばかり言う與那覇の言葉に説得力などないというのが正直なところである。朝日の記者は「ホンモノ」をちゃんと見たのだろうか。この記事を見てもし良いことを言っていると思う人がいるのなら、與那覇のnoteを見てみればいい。どこに「共感」「安心感」があるというのか、説明して欲しいところである。
「浅薄に共感をむさぼる相互不信の社会」に一役買っているのは與那覇自身ではないだろうか。
何せ間違いを犯して認めない奴ら(人選は與那覇)を裁判で裁けなどと言っているのである。正気の沙汰ではない。これが「相互不信」を招く愚行でなくてなんだというのか。そんな無茶苦茶な「人民裁判」こそ「相互不信」の温床になりかねない。次に裁かれるのは誰だとお互いに過去の発言や言説を探りあって次々と告発しあうのだ。まるで與那覇がスターリンになったかのように、與那覇に密告しあう社会がお望みなのだろうか。こうしてお互いに不信感を強める密告社会の出来上がりだ。少なくとも與那覇が旗を振る「共感しあえる」「安心感」のある社会など、全く安心できないし共感できそうにもないのは私だけではないはずだ。こう書くと「きさまあああホンモノをスターリンになぞらえるとは!?侮辱かああああ!?」とぶちぎれそうだが、そうたとえられたくないなら裁判だなんだと物騒なことを言うべきではないだろう。まあ「息の根」を絶てばよかったなどという人の発言をスルー出来るほど寛容なら何の問題もないはずだ。
果たして激烈な他者への批判を繰り返す與那覇と、共感と安心感を説く與那覇。どちらがホンモノなのだろうか。どちらかが嘘をついているのだろうか。
正解はない。奇妙なことに激烈な批判によって相手を引きずりおろして叩き潰したい與那覇と、それでも共感できる社会を目指したい與那覇は同居している。
不思議なことだ。だが、これこそが今の揺れ動く與那覇を物語っているように思う。彼自身、本当は「ニセモノ」を裁く裁判なんてやりたくないしやる気もないんじゃないか。一見して強い言葉を使ってみても、そこに具体性も中身も何にもない。あれだけ執着した呉座裁判の結果に無視を決め込んだのが全てだろう。その場その場で相手を貶す言説をまき散らし、自分が気持ちよくなれば後はどうでもいい。で、新聞ではお行儀のいい共生論を謡ってみて自己顕示欲を満たす。で、飽きれば「忘れる」。無だ。今の與那覇をたとえるならそれしかない。
ちなみに、與那覇は専門家大失墜!Vやねんホンモノ!などと盛大に謡っているが、別に専門家が失墜した形跡はほとんどないし、そもそも與那覇の見ている世界はX(Twitter)の狭い世界だけの話であって、世間全体で見ればそもそも與那覇を知っている人さえ少ないのが現状だろう。
コロナについてもいまだに議論が続いていて、日本でも多くの死者数を数えている。
ttps://www.kasai-yokoyama.com/media/news/960/
ワクチンの害等についても今後議論しなければならないが、コロナを軽視することに警鐘を鳴らす本も出ている。與那覇はネットの「つまみ食い」の知識で知ったかぶりするのではなく、こうした議論を真正面から受け止めて反論を考えてもらいたいものだ。
ttps://akebishobo.com/products/covid19?_pos=1&_sid=8ab0f2dfa&_ss=r
このような様々な議論から逃げてネットの記事や自分に都合のいい事実しか捉えないところは『中国化する日本』から何も変わっていない。
與那覇の記事に出てくるのは無名のツイッタラーばかりだ。そんな狭い世界で社会がどう、学問がどう、歴史がどう、コロナがどうの等言ったところで誰が見て納得するのか。専門家批判は間違っていないが、それの対抗言説として取り上げるのが怪しげな陰謀論者や無名のおかしなツイッタラーでは話にならない。おふざけもいい加減にしろというところだ。そんな井の中の蛙になり下がった状況で一体全体どうやって社会をひっくり返すような専門家批判、裁判などやろうというのか。そんな求心力は與那覇には全くないことは明らかであって、與那覇がしゃしゃり出たところで他の批判者に叩き潰されるのが関の山だ。先の不都合な事実を指摘されれば與那覇は一発で吹き飛ぶ。「お前にそんなこと言われたくないし言われる筋合いもないし言う資格もねぇよ!」これでお終いである。「大審問官」になどなれるはずもない。なんせ「息の根」を止めようという人にさえまともに怒りをぶつけられない臆病で繊細な與那覇だ。そんな彼に世間を向こうに回して大立ち回りをすることなど、出来ようはずがない。
もし仮に彼がそんな裁判を開くなら、過去の業績や寄せられてきた数々の批判、そして與那覇がいかにそれを無視し続けたか(先の指摘、何度でも繰り返したい)が白日の下に晒されるだろう。そうなったら、與那覇はどう弁明するつもりなのか。まさか自分だけが無傷で済むと思っているのか。
結局のところ與那覇の致命的弱点は針小棒大に物事を捉えること(例えばネットの炎上事件でもって歴史学はダメ、大学はダメだというとか、コロナについては西浦の八割削減に意味がなかったという点や陰謀論者の医者たちの言説でもってコロナは大したことないと言い募るなど)、都合のいい事実だけを議論に反映させるチェリーピッキングを繰り返して議論を組み立てることにある。『中国化する日本』で犯したのと同じ過ちをずっと繰り返している。これも「訂正」「反省」を怠った結果なのである。
先日のブログで示した向野正弘もこうした独りよがりな與那覇の痛烈な批判者だ。もし、裁判が開廷すれば「ホンモノ」の欺瞞は余すことなく暴かれるだろう(続)
「Twitter(現X)でバズったネタをTRPG化しました!」そんな売り文句を見た時、俺の脳内で警鐘が鳴り響いた。
「ああ、これは危険な匂いがする」と。ネットミームや勢いだけで作られた作品がゲームとしてのバランスを放棄している例を、俺は嫌というほど見てきたからだ。
だが、今回紹介する『ギャップおじさんTRPG』に関しては、淡い期待を抱いていた。「普段は冴えないおじさんが、実は最強の超人」というコンセプトは、厨二病を患ったまま大人になった俺たちにとって、抗いがたい麻薬だ。
窓際族の係長が、裏では国家を揺るがすエージェント。そんなRP(ロールプレイ)がシステムで保証されているなら、多少の粗には目を瞑れるはずだ。
このゲームは『「超人ごっこ」をさせたいのか、「無力なおじさんが理不尽に抗う姿」を見せたいのか、設計思想が一貫していない』作品だった。
俺はこのシステムと出会って2年、文句を言いながらも両手で数えられないほどはプレイし、GMも務めた。エアプではないことだけは先に言っておく。
これからこのゲームを遊ぼうとしている奴、あるいは「GMが楽できるシステムです」という売り文句が頭から離れないGM。
この記事を最後まで読め。お前がリアルに闇堕ちしないための拠所に、俺がなってやる。
なお本記事は『ギャップおじさんTRPG』のレビューだ。ルールブックは購入して読んだ。
ただし話をややこしくしたくないので、本文では無料公開の「スターターパック改」と共通する範囲と、同じく無料公開のサンプルシナリオ等に絞って語る。誰でも確認できる材料だけで「どこがどうダメか」を説明するためだ。
サプリメント等で調整が入っている可能性はあるが、今回は扱わない。
俺がこのゲームに求めるTRPG像は『プレイヤーが不快なストレスなく、理想の超人ごっこを堪能できること』だ。本記事においてはその基準で評価する。
まず、このゲームの「ガワ」は優れている。
普段は冴えない窓際族のおっさんや、コンビニバイトの若者が、かつては世界を揺るがす超人として暗躍していた。文脈としては、いわゆる「なろう系」や「必殺仕事人」的なやつだが、これを嫌いな人間はいない。
システム面でも、表の顔と裏の顔をそれぞれ設定できるキャラメイクが秀逸だ。
「無職」「不精」みたいな欠点を抱えたまま、裏では専属の「部隊」を使役する。この落差を演じる楽しさは、本作の明確な強みになっている。
特に冒頭の「拠所(PCの日常に留まる動機)」フェイズで日常を描写させるルールは、PCやNPCへの愛着を育てるのにきっちり効いてくる。しかも、その拠所を敵が攻撃してくる。ドラマ作りとしては王道だし、素直に熱い展開だ。
ここまでは良い。ここまでは、俺も「神ゲーじゃん」と思っていた。
このゲームのPCは「異端の超人」という設定だ。秘密警察のエージェント、過酷な訓練を受けた傭兵、封魔の一族の末裔。さぞや華麗に敵を屠ってくれることだろう。
だが、このゲームの行為判定を見てほしい。「6面ダイス1つ」で「目標値7」。さて、6面ダイスで7を出す確率はいくつだ?答えは0%だ。
一応、用途に適した特技なら+2の補正が入る。それでも5以上を出さなきゃいけない。無論判定を有利にするスキルもありはするが、つまるところこの世界の「超人」たちは、何かしらのリソースやスキルがなければ、3回に2回は失敗する程度の能力しか持っていないに他ならない。ドラクエの「まじんぎり」だってもうちょい当たるぞ。
「リソース(光や闇)を使えば成功する」というのがこのゲームの肝らしいが、要するに「身を削らなければ特技さえままならない」というだけの話だ。テーマの解説には「失敗されると困るから云々」と書いてあったが、だからといって素の成功率を0%にするのは違うだろ。
戦闘システム、特に「防御」の仕様はストレスの塊だ。このゲームの防御は「ダメージを減らす」のではない。「敵の判定の目標値を上げる」という処理になる。分かりやすく言い換えると、「敵がミスる確率を上げて祈る」訳だ。
敵の攻撃を飄々と受け流す……という誰もが夢見るシチュエーションを実現することは、このシステムでは諦めるのが賢明だ。
そして、想像してみてくれ。PCがカッコよく防御スキルを発動する。だが、GMのダイス目が走って敵の必殺技が成功する。PCは努力虚しくダメージを受ける。流れる気まずい沈黙。「あ、防御したけどあんま意味なかったですね……」というGMの申し訳無さそうな声。
人間心理として、「攻撃が外れた」よりも「リソースを払って防御したのに無駄だった」ほうが圧倒的にストレスが溜まる。
俺がやりたかったのは「舐めてた相手が実は殺人マシンでした」であって、「殺人マシンだと思ってたらオンボロでした」じゃないんだよ。
次はGMとしての目線で、俺が最も不可解に感じた点を話そう。製作者はSNS上で「「GMを堕落させる」レベルで楽」と投稿している。2024年の宣伝においても「GMが堕落するシステム」と述べており、売り文句として扱っていることは疑いようのない事実だ。TRPGにおいてGMの負担軽減は永遠の課題だ。本当に楽ができるなら、それはさぞ素晴らしいに違いない。
だが、現実はそう甘くない。このゲームのGMに求められるのは、「放っておくと勝手に自滅するPCたち」と「運次第で強さが乱高下するボス」の調整だ。
データ通りの敵をぶつけると、PCはあっという間に消耗し、事実上の敗北となる「闇堕ち」へ一直線だ。
では「初心者向け」と謳われているシナリオはどうか?こちらは逆にヌルすぎて、何の緊張感もないまま終わる。俺としてはこっちの方が遥かにマシだが、振れ幅が極端すぎるんだよ。
中間の「程よい緊張感」を生み出すためには、GMがその場のノリと空気を見ながら、敵のデータをリアルタイムで調整し続けなければならない。
TRPG全般においてこうした「程よい」調整が難しいことは俺も同意する。だが、サンプルシナリオを名乗る以上、その手本を作者側が示すべきではないのか?
輪をかけて酷いのが、ボスと正面から対峙する「決戦フェイズ」自体の設計だ。ボスのHPリソース(闇)を削りきれば勝利なのだが、ボスには「再起」という復活判定がある。これが驚くべきことにダイス依存だ。つまり、2回であっさり沈むこともあれば、ダイス目が走って6回も復活し、PLをうんざりさせることもある。
GMは、荒ぶるダイス目で6回復活しそうになったボスを前に冷や汗をかき、「あ、これ全滅するわ」と察して露骨な手加減をするか、あるいはPCたちがなす術なく蹂躙されるのを見守るしかない。これで「堕落できる」というのなら、求められる能力の高さに俺はついていけん。
極めつけは「倒れる」というルールだ。いつでも宣言できて、エンディングまでシナリオから離脱できる。これを使えば、「闇堕ち」を確実に回避できる。一見、救済措置に見えるだろう?
だが、これには罠がある。戦い続ければ続けるほど、ダメージ軽減ルールの「力の封印」を使うたびに、シナリオ終了で手に入る「経験点(成長リソース)」が減らされる仕組みとなっている。つまり、
真面目に仲間のために正面切って戦った奴は封印によって経験点を失い
封印などせずさっさと「倒れる」を宣言して逃げた奴は経験点を満額持ち帰れる
「真面目な奴が馬鹿を見る」。それがこのゲームを突き詰めた先にある「闇」だ。
これが『カイジ』のようなデスゲームものなら実に皮肉が効いてていいかもしれない。だが、これは協力型TRPGだぞ?システムが、俺たちのロールプレイに冷や水をぶっかけてくるんだ。
PL間に「お前まだ戦えるだろ?」「いや、経験点減るから帰るわ」というギスギスした空気を生み出すのが、このルールの狙いなのか?
ルールブックには「【光】の貯蔵は十分行うようにしましょう」とある。光とは、判定を有利にするリソースだ。PCが持つ日常への想い、という設定になっており、決戦フェイズでボスを倒した後、日常に帰還するためにはこの「光」の所持数が重要になる。
そのせいで何が起きるか。目の前に瀕死の宿敵がいる。あと一撃で倒せる。だが、PCたちは攻撃しない。なぜなら「光を溜める行動」をしておかないと、勝った後に自分が闇堕ちするからだ。
PL1:「あ、俺まだ光足りないんで、今ターンは攻撃せずに家族のこと考えます(拠所判定)」
PL2:「じゃあ俺が攻撃……あ、俺も足りないから娘の写真見ます」
目の前の邪神を放置して、家族のアルバムを見始める超人たち。日常シーンならともかく、この局面でダサくなる必要はないだろ。
とはいえ、光が多すぎても判定の目標値が上がり、逆に闇堕ちが近づくのだから困り物だ。
そのせいで光が過剰に溜まってしまった場合、どうでもいい判定にあえて失敗し、丁度良い数まで減らしていくことになる。
GMはこれにどういう演出をしてやればいいんだ?俺には全くわからない。
どちらも「リソース管理」と「超人ムーブ」が完全に食い合っていて、プレイ中のノイズが凄まじい。だが、ここまではまだ「ダサい」で済む話だ。このリソースシステムの真の恐怖は、敵側(脅威)の挙動と組み合わさった時に発生する致命的な「事故」にある。
基本的にこのゲーム、PCのスキルコストは【光】だが、敵のスキルコストは【闇】で支払われる。この【闇】は敵の「HP」そのものだ。つまり、敵は強力な技を使えば使うほど、勝手に自傷していく。
想像してほしい。ラスボスが全体攻撃を放つ。そのコスト支払いでHPが0になり、勝手に復活判定に入る。「我はまだ倒れん!」とか言っているが、こっちは指一本触れていない。これだけでもギャグみたいな絵面だが、真に恐ろしいのは「復活に失敗してそのまま死んだ」場合だ。
敵が自滅すると、当然ながら戦闘はそこで終了する。するとどうなるか?PCたちに「光を貯めるための手番」が回ってこないまま、エンディングの判定に放り込まれるのだ。
結果、ボスは勝手に自爆し、PCは帰還コスト不足で闇堕ちする。いじめっ子が自爆した巻き添えで、なぜか自分まで退学になるような理不尽さだ。これを理不尽と呼ばずして何と呼ぶのか、俺には他に形容する言葉が見つからない。
散々こき下ろしたが、コンセプト「だけ」は本当に良いんだ。普段はダメな窓際族が、非常時に覚醒する。その「ギャップ」をやりたい気持ちは痛いほど分かる。「拠所」を標的にされてPCがブチ切れる流れも、ドラマとしては熱い。
拠所を敵に攫われ、PCが激昂したあのセッションは本当に熱く、俺が求める『理想の超人ごっこ』だった。
だからこそ、この「テーマとプレイ体験が一致しない設計」が全てを邪魔してくる。素材は高級和牛なのに、調理法を間違えて生焼けで出された気分だ。
もしお前が、どうしてもこのゲームを遊びたいなら以下の調整の導入を強く推奨する。俺が何度も遊びたどり着き、実際に試した「このゲームを最大限楽しむためのMOD」だ。段階的でも十分だが、その場合上から順に優先度が高いと考えてくれ。
3回なら3回と事前に決めろ。復活演出も効果的に組み込めるようになるはずだ。
サンプルシナリオ通りの強さにすると事故が絶えない。スキルを持たせる必要もないし、弱すぎると感じるくらいでいい。
ダメージ軽減ごときで成長や判定を阻害させるな。気持ちよく守らせろ。
戦闘中に光稼ぎを強要するな。ボスを倒した後、カッコよく日常に帰るための判定を行わせろ。
敵は闇(HP)が0になりかねないコスト支払いを禁止しろ。勝手に死んでPCの見せ場を奪うな。
『ギャップおじさんTRPG』は、いわば原石だ。ただし、泥まみれで、形も歪で、そのまま握ると怪我をする。GM諸氏は、制作者の「楽できる」という言葉を鵜呑みにせず、ハウスルールという名の研磨作業が必要だと留意してくれ。
もしも原石のままで遊ぶなら、相応の覚悟は必要だ。超人ごっこをしたいのに、運と節約で心が折られ、俺のようにリアルで闇堕ちする羽目になるからな。
インド・ゴアのナイトクラブで発生した火災により、多くの従業員と観光客が犠牲となり、現地は深い悲しみに包まれています。夜の賑わいを楽しむはずだった人々が一瞬のうちに危険に晒され、現場は混乱と緊迫感に支配されました。救助活動は直ちに行われ、消防や医療関係者が迅速に対応しましたが、多くの命が失われる痛ましい結果となりました。
今回の火災は、建物の安全管理や緊急時の避難体制の重要性を改めて浮き彫りにしています。夜間営業施設における防火設備や安全基準の徹底、スタッフの緊急対応訓練の必要性が強く指摘される状況です。また、観光地として知られるゴアでは、多くの外国人旅行者も関わる事件であり、国際的にも注目が集まっています。
この悲劇は、地域社会だけでなく全国の施設運営者にとって、安全意識の強化を促す警鐘となっています。犠牲者の冥福を祈るとともに、同様の事故を未然に防ぐための取り組みが急務であることが改めて示されました。
https://j03-r00t.serveftp.com/vh4y
https://j03-r00t.serveftp.com/9xnd
https://j03-r00t.serveftp.com/2sai
インド・ゴアのナイトクラブで発生した火災により、多くの従業員と観光客が犠牲となり、現地は深い悲しみに包まれています。夜の賑わいを楽しむはずだった人々が一瞬のうちに危険に晒され、現場は混乱と緊迫感に支配されました。救助活動は直ちに行われ、消防や医療関係者が迅速に対応しましたが、多くの命が失われる痛ましい結果となりました。
今回の火災は、建物の安全管理や緊急時の避難体制の重要性を改めて浮き彫りにしています。夜間営業施設における防火設備や安全基準の徹底、スタッフの緊急対応訓練の必要性が強く指摘される状況です。また、観光地として知られるゴアでは、多くの外国人旅行者も関わる事件であり、国際的にも注目が集まっています。
この悲劇は、地域社会だけでなく全国の施設運営者にとって、安全意識の強化を促す警鐘となっています。犠牲者の冥福を祈るとともに、同様の事故を未然に防ぐための取り組みが急務であることが改めて示されました。
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昨今、生成AIが急速に発展している。多くの人々が日常的に利用していることからも分かる通り、かなり便利なものであり、「もはや生活に欠かせない」という人も少なくない。
某ボーカロイドとの結婚話を思い出させるように、「生成AIと結婚した」なんて話すら聞くほど、AIに親しみを覚える人もいるらしい。
ここで私が書きたいのは、そうした生成AIそのものの礼賛ではない。
我々の生活に浸透しつつある生成AIがどのようにビジネスに利用され、その過程でどれだけ多くの人が「生成AIビジネス」に騙されているか、という話だ。
なお、これは酒に酔った勢いで書き殴っているので、多少の論理構成の破綻はご容赦いただきたい。
生成AIビジネスと一口に言っても、その形態はすでに数多にわたっている。私の知る限りでも、
といったものがある。
初期に流行ったのは、生成AIの画像生成機能を使って漫画を量産し、それを販売するタイプのビジネスや、某動画配信サービス上でDeepFake動画を配信して最終的にアダルトサイトに誘導する手口だった。
正直、最初に見たときは「よくこんなことを思いつくな」と感心もした。
その後は、AIで作っただけの電子書籍や「AI活用ノウハウ」資料を量産して売るような商売が中盤戦として横行し、
最近では「AIでコンテンツを開発して販売する」こと自体を売りにするサービスも増えてきた。
ちょっとした自動化ツールやラッパーに「AI◯◯」というラベルを貼るだけで、値段が跳ね上がるような世界になっている。
こういったビジネスが存在することそのものに対して、私はそこまで強い嫌悪感を抱いているわけではない。
技術を使って金を稼ぐことは、資本主義社会では当たり前の営みだからだ。うまくやったやつが儲かる、それ自体は仕組みとしてそういうものだと割り切っている。
そのものというよりも、**それに対して一定以上の賛同や尊敬を向けてしまう人々の「AIリテラシーの無さ」**だ。
「AIがやってるからすごい」「なんか未来っぽいからすごい」という理由だけで思考停止し、
「これはすごいに決まっている」と信じ込んでしまう態度に、強い違和感を覚えている。
私はエンジニアという立場もあって、日常的にコーディングエージェントを多用している。
例えば、
といったツールを、実際にコードを書かせたり設計させたりしながら使い比べている。
だからこそ、Gemini が普及した途端──
もっと言えば、「無料でそこそこ使えるコーディングエージェント」が出た途端に、Gemini がまるで**「一番優れている存在」**であるかのようにもてはやされる状況に、どうしても納得がいかない。
コードの設計力や実装力、バグの出方、長期的なコードベースとの相性、そういった観点から言えば、私は今でも Codex を高く評価している。
タスクによっては、明らかに他のエージェントの方が適していると感じることも多い。
にもかかわらず、
というだけの理由で、「Gemini が一番いい」「これさえあれば他はいらない」という空気が形成されていく。
本来であれば、
評価軸が
ここにもやはり、道具を適切な距離感で評価できない姿勢を感じてしまう。
ここまで好き勝手に書いてきたが、こういうことを考えるようになったきっかけになったエピソードを一つだけ挟ませてほしい。
最近は、生成AIごとの得意分野や癖を活かして、一つのタスクを複数の生成AIに並列でやらせ、その成果物を比較して一番マシな案だけを採用するという手法がある。
いわば「個体値ガチャ」のようにAIを回すやり方だ。私はこの発想自体はかなり理にかなっているし、素直に素晴らしいと思っている。
同じ理由で、いわゆるオーケストレーション系の手法もとても良いと思っている。
ただ、これを人力でやろうとするととにかく面倒くさい。
そこで、ある程度このフローを自動化してくれるGUIアプリがあることを知った。
という三拍子が揃っていた。
とはいえ、このあたりはアップデートを重ねれば改善できる話でもあるし、その点だけを永遠に責め立てるつもりはない。
コンセプト自体は本当に良いと思っているからこそ、余計に惜しいとも感じている。
私が本当に警鐘を鳴らしたいのは、そのアプリそのものではなく、その開発者の周りに群がる人たちの方だ。
宗教団体の信者のようにメリットしか語らないレビュアーたちが、
「革命的だ」
「これ一つで人生が変わる」
と持ち上げる一方で、価格の高さやUXの悪さ、セキュリティリスクといった問題点についてはほとんど触れない。
これでは、せっかくのコンセプトが面白いアプリなのに、肝心な欠点がいつまでも修正されないだろう。
しかも厄介なのは、ここに群がっている人々の多くが、同じくAIビジネスを主導する側の人間だという点だ。
自分と利害が一致する相手を互いに持ち上げ合い、「これは素晴らしいものだ」という空気だけを増幅させていく。
その構図が、余計にタチが悪い。
まあ結局、ここで私が何を言いたいのかというと、そろそろAIに対するリテラシーを本気で身につける時期なんじゃないか、というただそれだけのことだ。
結局のところ、ここで言っていることは従来の「情報リテラシー」とほとんど同じだ。
ただ「AIすごい」「AIがこう言っているから正しい」に思考停止するのではなく、
そのAI発の情報や、AIを巡る言説が本当に妥当なのかを自分で判断する力が必要になってくる。
そして、自分が少しでも「ん?」と疑問に思ったものに対しては、いったん距離を置き、俯瞰して眺める態度が大事だと思う。
「これは誰が得をする話なのか」
「自分は何に惹かれているのか(機能なのか、ブランドなのか)」
そのくらいの距離感を持ってはじめて、ようやく私たちは生成AIとも、生成AIビジネスとも、まともな付き合い方ができるようになるのかもしれない。
” 中国を極端に敵視し、そこと戦う準備を始めるのだから、防衛費はGDP比2%どころかその数倍でも足りないという議論がすぐに始まる。徴兵制は最後のテーマかもしれないが、日本の社会全体があらゆる意味で戦争に備える体制へと変わっていくはずだ。
もちろん、最初は全て国債発行で賄うが、早晩これは行き詰まる。すでに金利が上がり始めているのは、それに対する警鐘なのだが、そんなことにはお構いなしという政策が続くだろう。行き着くとこまで行くしかないのだ。戦争が始まらなくても、その準備は止まらないので、どこかで、社会保障や教育など国民生活のための予算は大きくカットせざるを得なくなる。”
もちろんごくまれにその両方の才能を持つ傑出した天才というものも現れるが
多くの場合、映画監督、演出家というものは物書きとしての才能はない。
ワイ氏の尊敬する作家の深沢美潮氏が「誰でも一生に一作は小説を書ける」とい名言があり
これは一生を生きていれば一作の小説になるくらいにはドラマティックなことが起きるはずだという希望の提示であり
逆に一生に一作しか書けないようでは作家にはなれないという警鐘でもある。
しかし彼らは作家ではないので一生の二作目くらいまでは行けても三作目、四作目は厳しい。
はっきり言ってしまえば、むしろそんなに書くことがある人間のほうが異常なのだ。
細田守の新作の果てしなきスカーレットを見たけど、いや、竜とそばかすの姫の前の未来のミライから
もう明らかに細田守には書きたい作品がないんだろうなということを感じている。
だから竜そばでは美女と野獣をパクったし、果てスカではハムレットと神曲をパクった。
未来のミライが最後のあがきだったと思うが、むしろあれで自分の中がスッカラカンなのを確信したのだと思う。
細田に必要なのは脚本家だと言われ続けているけど、それは彼の作劇が酷いからというのはもちろんあるとしても
描きたい物語がない人間が物語をひねり出すことほど苦痛なことはないと思う。
山崎貴なんかもそうだけど本来その能力を持たない人間に無理やりなんかやらせるべきじゃないと思う。
でもそのごくごく珍しい天才のせいで「作家性」というものが過剰に信奉されすぎている気がする。
どうしてもやりたい渾身の一作が書けた時だけ自分で書けばいい。
細田や山崎みたいにその辺のパク、オマージュみたいなスカスカの作品を無理に作る必要はない。
そういう意味では脚本家が映像技術を身に着けたほうが"成り"やすいな。
まぁワイ氏の所感としては細田守っておジャ魔女やデジモンでも「敢えて人がやらないことをやってドヤる」タイプの逆張りおじさんとしての評価が高いだけだと思っているので、あんま大衆監督として評価すべきじゃないと思ってるんやけども。
ホイ卒には難しい映画であった。42点。
イェール大学とかいう名前だけはやたら聞いたことがあるおそらくおハイソな大学で巻き起こるレイプ疑惑を軸とした「正しさ」の物語。
ジュリア・ロバーツは哲学科の教授でテニュア目前、同じく教授のハンクとは良きライバルであり同僚であり友人であり不倫相手。しかしある日、自分の生徒である黒人女のマギーがハンクを不同意性交で告発!しかし、ハンクもマギーも信用に足る相手ではなく、また自分自身もそうであることを思い出し苦悩するジュリア。いろいろあって過去の罪と向き合ったジュリアは幸せになったらしいよ……カット!という映画。
とにかくさぁ、出てくる会話がハイソサエティすぎて保育園卒の俺には全く理解できんのよ。
ジュリアが哲学科の講義で語る哲学的議論が明らかに展開に作用しているのは理解できるんだけどどういう意味かはまったく分からん。あなたは悪としての第三者を仮定しているけどその仮定自体が一方的なお前の思い込みに過ぎないではないか!的なことをアジア系の学生に詰めた後に、同じくマギーに対して一方的な思い込みで詰問(ほぼ誹謗中傷)し殴られるシーンとか象徴的だったけどさ。
これに限らず作中では「いやお前が言うんかい」みたいなところがいっぱい出てきてクラクラする。
例えば冒頭でテニュアを目指すジュリアに対してKYDKが「でも時流的にイケるでしょ。今は危ないのは白人シス男性だし」とか言い出してジュリアは冷静にブチ切れて「被害者意識だけ達者」「実力で選ばれたと思えないのはかわいそう」だの散々詰問したりする。
しかしのちにジュリアは学校の処方箋をパクって薬を調達していたことがバレてそれを口実にテニュアの承認を無期限延期されてしまう。特権階級を使ってズルしたのを咎められるわけ。
男女同権的に先進的でイケてる男を演出していたハンクもいざ訴えられたらなんかこうセコセコセコセコ余裕なさげにオーバーリアクションで「相手から誘ってきたからさぁ!」とか言い出して情けないし、後にジュリアを押し倒そうとして拒否される。お前もさぁ。お高く留まった学者センセイがチンポに脳を乗っ取られるの悔しくないわけ?
レイプ被害者を自認するマギーはマギーで無駄に挑発的で論文もパクりだし親は金持ちで寄付金ランカー。そしておそらくマギーがハンクを誘ったのは事実なんだよね。マギーはジュリアに強いあこがれを持っており、さらにおそらくヘテロ。事件の直前にジュリアが過去に合意の関係だった相手にレイプをでっち上げた記事を発見し自身に取り込んでいる。そしてジュリアが自分の味方にならず、敵になったと確信した瞬間にその罪をマス・コミに告発してしまう。
しかし本当には何があったかわからないまま、つまりマギーから誘ったのか、ハンクが押し倒したのかはわからないまま、時は5年後に進みジュリアは学部長に、ハンクはコンサルにマギーは婚約者と幸せにしていることが分かり「力になれなくてスマンゴ」「一緒に破滅して同一化したかったが間違っていたゴメンゴ」と謝罪し合ってエンド。と同時にカットがかかって映画は終わる。
「こんな幸せな結末、物語の中だけですよ」という強い警鐘なんだろうけどとはいえ、何が起こったのかようわからんからなぁって感じ。ハンクの側に立てばカラードでジェンダーマイノリティの女性という圧倒的社会強者に踏みつぶされた身体的強者の物語だし、マギーの側に立てばジュリアへの恋慕を邪魔されたジェンダーマイノリティの復讐譚だし、ジュリアの側に立てば友人(不倫相手)と生徒(社会的弱者)の間に挟まれた上に過去に襲われるトラウマストーリーだし。もう頭おかしくなっちゃう!!!
ジュリアが15歳の時にパパの友人に恋してエッチしちゃうも、そのうち捨てられてブチ切れてレイプをでっちあげ彼は破滅。その後罪を告白するも社会的立場を失った彼は自殺する。というトラウマを抱えているのだけれど、これも仮に両思いだったとしても今の基準で言えば十分にレイプだよね。夫である医師も「だとしても彼は絶対に拒絶すべきだった」って言ってたけど、ワイトもそう思います。
旧人類として性的暴行を性的暴行と捉えられずに、しかし嘘として性的暴行を武器に使った女ジュリアと、新人類として(おそらく)合意の上であっても立場が圧倒的に上の男性との性行為を、しかし嘘として性的暴行として武器として使った女マギーの対比は何となく感じたかな。